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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観ソ中凶産八・一宣言と食民治主義黄化論と西安事件が日中・大東亜戦争起因

2ソ中凶産八・一宣言と食民治主義黄化論西安事件が日中・大東亜戦争起因

1936年春桜美林創立者清水安三が、中国旅行で高まる抗日に不安を覚え、知人の蒋介石側近胡適と面会、戦争防止を訴えたが、「我々は日本と戦う。自分は以前、国民から嘲笑を浴びながらも、決して戦ってはならないと主張した。しかし今や、どうしても一度は日本とは戦わねばならない・・・と感じている」と答えたという。清水安三の妻もこの後、蒋介石妻宋美麗と面会、戦争防止を訴えたが、耳を貸さなかったという。桜美林HPより

 凶産の矛先転換工作、「八・一宣言(日本への宣戦布告)」が、国民に浸透し、親日では国民党も乗り切れなくなったのだ。

193610月延安に全軍到着し長征は終わった。中国共産党敗走軍の兵力は30万人から2万5千人に激減し壊滅寸前となった。

 汪兆銘の証言「中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争のスローガンに代わるものとして抗日を打ち出していたのです。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争を扇動していると私は読みとりました。謀略にひっかかってはなりません」

水(宗主国)と油(凶産ソ連)の融合剤黄禍論

黄禍論畏怖の白人連合有色人分断工作が西安事件で瀕死の凶産軍を蘇生させた

1936年12月12日西安事件。共産軍討伐のため西安に駐屯中の張学良の旧東北軍が、抗日救国を要求し、南京から督戦に来た蒋介石を監禁した事件。

 蒋介石釈放をめぐっての調停工作に当たっては、日中(有色人)連合畏怖の米英ソ等の白人は、水と油だが、黄禍論で一致し、中国凶産と同一歩調がとられ、抗日統一戦線を形成。以後蒋介石は国共合作・抗日へと方針を急転換し、「最後の5分間」の反共掃討戦を中止し、中国凶産党は復活した。事件後、国民党の外交部長で親日家の張群が罷免され、国民党(英米等)やから、共産党に毎月50万元が支給され、国民党は反日に染まり、「黄禍論白人連合」が形成された。

 胡適は直ちに打電し、張学良を国家民族の罪人であると激しく非難した。

 西安事件の直後、ヨーロッパでの療養から帰国した汪兆銘は、国民党副主席の地位についていたが、戦いの陰で日中和平工作を進めた。

 盧溝橋事件の数ヶ月前、米国ルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェノールトを、中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして蒋介石が雇った。

1937年7月7日盧溝橋事件

 ソ連も欧米と同様に侵略の歴史を重ねていた。残る唯一の植民地候補中国満州朝鮮台湾日本を、ソ連の独裁者スターリンも虎視眈々と狙っていた。

そんな緊迫の中、弾丸が日本軍に向けて発射された。凶産主義と食民治主義の中国と満州と日本、植民地化作戦の開始であり、日本軍の反共戦争の開始である。

大東亜戦争はローマ法王のピオ11世が喝破(後述)したようにアジアと、欧米列強(食民治主義)のみならず、侵略者凶産党との反共戦争でもあった。北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれた。反共戦争、シナ事変の始まりである。

 周恩来首相、中国凶産党が廬溝橋事件の犯人である事を暴露。周恩来首相中華人民共和国宣言時の証言

 「あのとき(支那事変勃発時)我々の軍隊が、日本軍と中国国民党軍(蒋介石軍)の両方に(夜暗にまぎれて)鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽り、停戦協定を妨げたのが、我々(中国共産党)に今日の栄光をもたらした起因である」

 

日中戦争工作目的の凶産テロ

1937年7月29日 通州事件(中国人保安隊の日本人虐殺事件)。通州において、婦女子を含む日本人居留民約2百名が目をくりぬかれるなど、残酷な強姦・虐殺事件があった。

1937年8月9日前哨戦たる国民党軍に潜入していた凶産スパイによる、日本将兵虐殺事件が発生。

1937年8月13日第二次上海事変の勃発。日本の陸戦隊を挑発し先制攻撃を開始した。

937年秋蒋介石著「中国のなかのソ連」より毛沢東の演説。

1、中日戦争は中共発展の絶好のチャンスである。我々の基本政策は全力の七分を中共の発展に二分を国民政府との対抗に、残りの一分を抗日に使用する。

2、この政策は次の三段階に分けて実施する。第一段階では国民党と妥協して中共の生存と発展を図る。第二段階では国民党と勢力の均衡を保ち、彼らと対抗する。第三段階では華中各地区に進出して根拠地を築き国民党に反攻する。

1937年9月二回目の国共合作

1937年10月14日ローマ法王のピオ11世は支那事変(1937年7月7日)が始まった年の10月14日に、全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、次のようなメッセージを出している。「日本の支那事変は侵略戦争ではない。凶産党と戦っている。凶産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよ」と。

1937年12月13日 日本南京占領。

1937年(昭和12)年「今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか」。汪兆銘は17歳の娘、汪文琳にこう問いかけた。汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道である、と確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる孫文の誤謬「容共」を訂正し、遺志の実現「反共大アジア主義」を目指した。

 

1938年~1940(開戦の前年)まで十二回、講和提案」を行った日本

 ヘレン・ミアーズ著「Mirror for Americans: JAPAN」は、終戦から3年後の1948年出版。翻訳は2社(1953年「アメリカの反省・アメリカの鏡としての日本」原 百代訳と1995年「アメリカの鏡・日本」伊藤延司訳)。

第三章の1

 ――蒋介石のオーストラリア人顧問W・H・ドナルド・が、ルソンの日本の抑留所から解放された後の記者会見によれば、日本軍は1938年から1940年に至までの時期に、「十二回、講和提案」を行ったとのことである。ドナルド氏の略述したところによれば、日本側の条件は、中国に有利だった。日本軍はただ、満州国の独立承認、北支におけるある種の経済的及び開発権益、及び「外蒙からのソ連勢力の拡張防止のため、内蒙の政治的調整」を要求したに過ぎなかった。ドナルド氏の言によれば日本は「これらの提案の中で、何ら領土的要求はしなかった」。――

 

193810毛沢東が部下に与えた指令。「・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである」林彪編集『毛沢東思想万歳』

1938年10月27日 日本軍、武漢占領

1938年11月3日第二次近衛声明。 対日協力と和平を呼びかけた「東亜新秩序声明」

1938年12月第三次近衛声明。近衛三原則(善隣友好・日中防共協定締結・経済提携)

1938年12月20日  汪兆銘、重慶を脱出しハノイへ。夫人や、陳公博、周仏海ら「汪兆銘」派同志たちを、日本と交戦中である蒋介石の重慶から飛行機に乗せ、仏印のハノイへ脱出させた影佐禎昭大佐工作成功。

 汪兆銘、字は精衛。1938年国民党副総裁。副総裁の座を捨て近衛三原則に呼応し、反共大アジア主義を唱え重慶を脱出し南京入りした。法政大学卒で孫文の筆頭側近汪兆銘は、共産ではなく実体は、孫文が忌み嫌う西洋覇道の鷹犬、覇道凶産党に、孫文主義から逸脱した覇道蒋介石に気付いたのだ。孫文が早死にしなければ歴史は確実に変わっていた。重慶脱出の際、汪兆銘は蒋介石に、「君は安易な道を行け、吾は苦難の道を行く」と書き残したという。中国の国民の幸せのために、売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平大アジア主義に賭けた。精衛の字は、その証し。しかし、中国の国民には、さらなる戦乱と、共産党独裁政権のもとでの圧制大虐殺という、過酷な運命が待っていた。そして彼が幸せを願った中国国民は未だに尚、「革命尚未成功 同志仍須努力」。

1938年12月1937(昭和12年)年7月に勃発した支那事変の推移は、1938年12月までには、首都南京はじめ、主要貿易都市、工業都市を日本が押さえたことにより、蒋介石・毛沢東の資金源アヘンも押さえ、中国独自では継戦は不可能な状態となっていた。従って、日中関係の和平が回復してもおかしくないのだが、それがそうならなかった、米・ソ(食民治主義と凶産党)等が「対日戦継続を条件」に武器・資金援助を行ったからである。したがって売国奴が叫ぶ日本軍の暴走などではけしてない。

 

対中国への食民治主義と凶産党の支援

 米国1927~1941.4億2000万ドルの援助。借款(第一次桐油38年12月第二次滇錫40年3月)。1941年開戦後に17億3000万ドル援助。英国1939~1940.2000万ポンドの借款。ソ連1億5000万ドルの援助。その他数回援助。フランス1938年1億5000万フランの借款。1939年9万6000フランの援助(蒋介石支援ルートへの援助)。 西安事件(1936年12月12日)国共合作②(1937年9月)となり、日本南京占領(1937年12月)以後、資金源アヘンを絶たれた蒋介石・毛沢東の裏に隠れ、本格的に援助したため、終わりの無い戦争となった。反共戦争なので日本は引き下がれなかった。戦後WGIPが洗脳した正義解放の連合軍は、真っ赤な嘘。食民治主義と凶産党は中国に隠れ、寄ってたかっての日本・中国(有色人種)潰し、食民治化が真相なのだ。

 米国はルーズベルト政権になってからの援助がほとんどだ。追随した援助はルーズベルト主導と考えて間違いはない。

 反凶戦争(日中戦争)の背景は売国奴が叫ぶ日本軍の暴走などではない。日本は日中共通の敵凶産ソ連と対処のため、早期和平を望んでいた(前掲の「十二回、講和提案」)。しかし、日本と中国の対立を望む食民治主義と凶産党が国民党・凶産党を支援し、中国凶産党拡大のための強引な反日攻勢が、戦線を拡大させた。中国が凶産化すれば日本は存亡の危機となるため、凶産と手を組んだ中国との反凶戦争は、止めるわけにはいかなかった。

1939年5月ノモンハン事件(ハルハ河事件)モンゴルを赤化征服したソ連との、モンゴル国境紛争。9月に停戦。

侵略者食民治主義凶産主義を知らない物書き屋司馬遼太郎の歴史認識

 1943年12月、司馬遼太郎は大阪外国語学校(現大阪外国語大学)蒙古語学科在学中に学生徴兵猶予停止を受けて仮卒業となり、学徒出陣している。そして、兵庫県加古川の戦車第19連隊に入り、翌年4月には満州で陸軍戦車学校に入学12月には見習仕官として牡丹江の「ノモンハン事件」で打撃を受けて還ってきた、戦車部隊戦車第一連隊に配属されている。同僚となった兵隊たちから「ノモンハン事件」の戦いの詳細を聞かされた

 

 「調べていけばいくほど空しくなってきましてね。世界に冠たる帝国といい気になって、夜郎自大となった昭和の軍人を、つまりは日本そのものを、きちんと描くには莫大なエネルギーを要します。昭和12年に日中戦争が起こって、どろ沼化し、その間にノモンハンの大敗北(注・凶産ソ連捏造を丸鵜呑みしての発言。ソ連崩壊後の資料では、ソ連側の被害の方がはるかに大きい)があり、そしてノモンハンの敗戦からわずか2年で太平洋戦争をやる国です。合理的なきちんと統治能力をもった国なら、そんな愚かなことをやるはずがない。これもまたこの国のかたちのひとつと言えますが、上手に焚きつけられたからって、よし承知したという具合にはいきません(笑)淋しい話になりましたね」 (『プレジデント』96年9月号半藤一利「司馬遼太郎とノモンハン事件」)

 

 小国日本が超大国ソ連凶産主義、超大国米英蘭仏中豪食民治主義に、戦争を仕掛けたと幼稚な勘違をしている。当事者(下士官)は部分だけ見て全体が見えず、戦後WGIPにすぐ洗脳され愚民化した。風見鶏中曽根もそうだ。侵略者は日本軍と洗脳された当事者証言は、ほとんどがこの類の、WGIP愚民証言である。司馬史観などではない、WGIP愚民史観だ。売国奴の巣窟NHK朝日毎日は、この証言を針小棒大に報道する。

1939年7月26日 フィンランド、ポーランド、およびバルト諸国を侵略していたソ連とは同盟を結んでいるのに、日本の「中国侵略」を口実に、ルーズベルト大統領は制裁を科し、日米通商航海条約の廃棄を通告。

1939年9月1日 ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦(WW2)開始。

1939年12月 米国航空用ガソリン製造設備、 製造権の対日輸出禁止。

1940年3月30日  南京政府(汪兆銘)成立。「和平反共救国」を唱える汪兆銘を首班とした「中華民国国民政府」。日中戦争の後半は、明らかに日本が支援する南京政府(反共で孫文の正統な後継者汪兆銘)、米英等が支援する重慶政府(宗主国の傀儡蒋介石)、ソ連が支援する延安政府(凶産党傀儡毛沢東)の、三つ巴の内戦となった。その中でも日本は、重慶(蒋介石)に対して、内戦の早期終結と、「日中共同防共」の希望を捨てなかった、前述の『十二回講和提案』。

1940年夏から集められた義勇兵、中国名「飛虎」。「フライングタイガーズ」は、日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった。

1940年6月22日 フランスがドイツに降伏。

1940年8月 アメリカ、航空機用燃料の西半球以外への 全面禁輸。

1940年9月 蒋介石軍への米英の援助ルート封鎖するため仏領印度シナ進駐。英国と交渉し、ビルマルートを閉鎖させることに成功した。これに対して、日中間の和平をのぞまない米国のルーズベルトは、英国の対日妥協を10月に撤回させて援蒋ルートを再開させ、そして、日本に対して、鉄・くず鉄に関する実質的輸出禁止措置をとった。

1940年9月27日 日独伊三国同盟(相互援助協定)。敵の敵は味方の同盟戦国時代の常套戦術である。

1940年6月22日 フランスがナチス・ドイツに降伏。

1940年9月 蒋介石軍への米英の援助ルート封鎖するため仏領印度シナ進駐。ドイツに降伏したフランスのビーシー政府に交渉し、日本軍北部占領。英国に迫ってビルマルートを閉鎖させることに成功した。これに対して、日中間の和平をのぞまない米国のルーズベルトは、英国の対日妥協を10月に撤回させて援蒋ルートを再開させ、また日本に対して鉄・くず鉄に関する実質的輸出禁止措置をとった。

1940年 ソ連、カレロ=フイン・エストニア・モルダビア・ラトピア・リトアニアの5ヶ国凶産化。わずか18年間で合計18ヶ国がソ連に侵略され凶産化されていた。

1940年 ○日本の主要物資の輸入先(開戦1年前昭和15年<1940>) 

・鉄類  ①アメリカ69,9% ②中国15,6%(注・米、中、合計で85,5% ③インド7,5% ④その他7,0% 

・石油  ①アメリカ76,7% ②オランダ領インドネシア14,5%(注・米蘭合計で91,2%) ③その他8,8%

・機械類 ①アメリカ66,2% ②ドイツ24,9% ③その他8,9% 「アジア・太平洋戦争」
主要な輸入国を相手に戦争をするのは自殺と同じだ。

 反凶戦争(日中戦争を継続中で、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていた。その状況下で更に英米蘭などの大国を相手に、新たな戦争を始めなければならない動機など、日本には皆無。衰えた者を啄ばむ、正に弱肉強食適者生存の戦国時代である。日本が戦争を仕掛けたのではなく、仕掛けられたのは明白な事実だ。明らかに(侵略食民治化)(侵略食民治化)(侵略食民治化)(侵略凶産化)(侵略凶産化)に戦争の意図や動機があった。

 

食民治主義者と凶産党の宣戦布告

1941年7月25日~8月1日 アジアにおける植民地支配体制の維持に障害となる日本の叩き潰しを図り、日米開戦の四ヶ月前の昭和十六年七月二十五日から八月一日にかけて、産業必需品である石油、錫、ゴム、鉄材などの対日禁輸をおこなうと共に、日本の在外資産一億三千万ドルを凍結した。英国、オランダも追随して共謀、経済封鎖を実施。

1941年8月1日 米国の大統領ルーズベルトは八月一日に英国、オランダと協力して石油など戦略物資の対日輸出禁止の追い打ちを掛け、しかも南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。当時の日本の石油自給率は5パーセント、95パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、存亡の危機に見舞われた。開戦前年の昭和十五年の石油製品の需要は年間五百六万キロリットルなので、当時の石油備蓄量からは一年前後で在庫がゼロになる事態が予想された。ABCDラインは現代日本でも即、宣戦布告である。オイルショックを想起せよ。

 

WW2起因「WW1で降伏ドイツの餓死者80万人(大半が子供)」は日本のトラウマ

 1918年、食料が底をつき、飢えたドイツは「食糧封鎖の即時解除」という条件で降伏した。が、英仏は翌年の1919年まで数ヶ月も食糧封鎖を続け80万ものドイツ人(大半が子供)が餓死した。ラルフ・タウンゼント著『アメリカはアジアに介入するな!(芙蓉書房出版2005.7)』144p

※WW1降伏ドイツの轍は踏むまいと、日本首脳が開戦や終戦時に、最もこだわったのがこのトラウマ(条件不履行)である。

 

 このように資源なき小国日本が追い詰められての、昭和16(1941)年9月6日に開催された御前会議に於ける、永野修身発言なのだ。真実史観意訳(太平洋戦争の道、角田順・これだけは伝えたい武士道の心、名越二荒之助・人物抄伝太平洋の群像2永野修身、亀井弘等、大同小異資料なので、大意を踏まえ簡略に意訳し、解説を加えた。資料は、出席者の聞き書き寄せ集めではないか?)

戦わざれば亡国、
 戦国時代である。中国、南京、満州、朝鮮は、英米仏蘭ソの争奪戦場となり分割。日本も、再度の資源封鎖で壊滅し、分割資源なき小国日本は、再び包囲されて餓死か、降伏して奴隷ドイツは英仏のWW1停戦約束不履行で、80万人以上の餓死者(ほとんどが老人女子供)となった(WW2起因)。弱肉強食時代の戦わずは、無条件降伏で、奪われても犯されても殺されても従うこと。(終戦時の韓国、ソ連の侵略を想起せよ・・・あれが現実の世界だ)。ハルノートによる戦わずの降伏は、台湾朝鮮満州南京汪兆銘への裏切り、未来永劫子孫の汚名となり、選択は不可。ソ中凶産合体阻止防共戦争日本が、敗戦で撤退するや否や即座にソ中凶産合体し、南京満州朝鮮と攻め入ったのが、厳然たる証拠である!戦わざれば、ソ中凶産や英米仏蘭餌食で、日本国は消滅していた!

戦うもまた亡国
 世界の超大国米英仏蘭中ソが相手では、必滅。

であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。
 不屈の抵抗の歴史を子孫に残し、国名が消滅してもポーランドは復活した。抵抗もせず降伏すれば、屈辱、屈伏の歴史は隠蔽され、抵抗の歴史は無きものと成る。さらに、征服者に洗脳され愚民化された抵抗の歴史無き子孫は、二度と立ち上がることなどなく、日本は消え、食民治と化し、正に、日本民族永遠の亡国となる。(南北アメリカの先住民族、・・・あれが現実の世界だ)

戦って死中に活を見いだし
 戦うもまた亡国かもしれないが、戦って一縷の望みに挑戦し、資源封鎖で絶えず迫る、独占貿易の宗主国を、アジアから永遠に排除しなければ、資源無き小国日本の、未来は無い。独占貿易の食民治主義共産主義と戦い、アジアから追放すれば、一縷の望み(自由貿易を旗印に団結、大東亜共栄圏を成し、対峙)が生まれる。たとえ敗れても、大東亜共栄圏が覚醒し独立すれば、独占貿易は破壊され、自由貿易の世となり、資源無き小国日本に、一縷の望み生まれる。敗れても、同胞が覚醒し追随するような、

護国の精神に徹するならば、
 勝者に隠蔽されないような、子孫を守るための必死な姿、生きざま、戦いざま、死にざまさえ残せば

たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう。
 たとえ占領され食民治にされ征服者に愚民化されても、残した挑戦の心や生きざま、戦いざま、死にざまを想起し、必ずや子孫は覚醒し、再び独立し、日本は復活する。我々はただの戦いではなく、子孫が必ずや想起し、覚醒復活するような、勝者に隠蔽されない、史上比類なき戦いを、残す。子孫のために。

 永野修身個人の発言だけではなく、出席者全員のほとばしる総意が集まり成したのだろう、大同小異の資料が物語っている。子孫へのほとばしるおもい「最適者生存」は深く重い。当事の指導者、苦渋の決断が滲んだ言葉だ。・・・ここには侵略者の影など微塵もない。あるのは、子孫への思い、適者生存、唯一つ
3につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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