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真実史観ポーランドシベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれる真実


1シベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれるポーランドの思い

シベリア(ウラジオストックや樺太などの極東も含めて、当時はこう呼んだ)

 

 ショパンやキューリー夫人の国ポーランド。ポーランドは長い伝統をもつ国でありながら、1795年、ポーランド周辺の超大国が占領。ロシア、オーストリア、プロシア(後のドイツ)に三次にわたり分割され、1815年ロシアに編入。ポーランドが滅亡し、国名が一時消えた歴史がある。

 

 18世紀末、ポーランドはロシアに支配されていた。ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂起を繰り返した。そのたびに失敗しては、捕らえられ、シベリアに「流刑囚」として流されて、強制労働をさせられていた。1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では、8万人もの流刑囚がシベリア送りとなり、家族と共に捕らえられ、政治犯としてシベリアに流された。恋人も後を追い、皆飢餓と寒さと伝染病と戦いながら暮らしていた。シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の、流刑の地だった。そのためシベリアには、何十万人ものポーランド人がいたのである。そしてそこで、多くの子供たちが生まれた。

 

 1917年、ロシア革命が勃発すると、シベリアのポーランド人たちは祖国独立の一助になろうと、チューマ司令官のもとに2千名の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立し、ロシア提督・コルチャークを助けて赤軍と戦った。しかし、その試みは失敗し、ポーランド人部隊はウラジオストックに追い込まれた。

 この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、日本であった。日本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、米英仏などと共にシベリアに出兵していたのである。

 

 第一次大戦後の1918年11月、ポーランドは100年以上を経て、ようやく独立を果たした。しかし、まもなくロシアでは革命が起こり、革命軍とロシア皇帝派の戦いはやがてシベリア全土を覆いつくし、その混乱は、当時10万人近くいたシベリアのポーランド人たちをも巻き込んでいった。ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーランド人がおり、多くの人達が殺されていく中で、親とはぐれた子供たちが数多くシベリアに残された。

 

 赤軍(共産党)は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そうとした。ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で後に日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は、当時の状況をこう語っている。

・・・街には、飢えた子どもがあふれていましたね。その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、「ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、せがむのです。日本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、キャラメルをもらったことがあります。孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている子どももいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした。・・・

 

 ウラジオストック在住のポーランド人有志たちは、我々はこのままシベリアで死んでもいいが、せめて子供たちだけでも祖国ポーランドへ帰してやろうと、鉄道技師の夫と共にウラジオストックに住んでいたアンナ・ビエルケビッチさんが、1919年(大正八年)9月に、「ポーランド孤児救済委員会」を組織した。しかし、その後、ポーランドとソ連との戦争が始まり、孤児たちを帰還させることが不可能となった。

 

会長となったアンナ・ビエルケビッチさんは、輸送の援助を大国であるヨーロッパやアメリカに求めた。がしかし、欧米諸国は、その要請に応えてはくれなかった。民族は異なるが、もしやと思い、同じ大国である中国上海の中国赤十字社を訪ね救済要請したが、これも断られ、思い叶わずウラジオストックに戻った。

 

 万策つき傷心のビエルケビッチさんは、再び子供たちを救うにはどうしたら良いかと、委員会で皆の意見を求めた。一人の委員が、小国ではあるが日本に救援を頼んでは、と提案したが、年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(はりつけ)にしたような国が、他の国の子供たちを助けてくれるだろうか、と反対した。そこに副会長の若い医師ヤクブケビッチ副会長が手をあげて発言を求めた。

 

・・・僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいったポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はいませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきたチューマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍じゃありませんか。・・・

 こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、陸軍や外務省にポーランド孤児救済を依頼する決定がなされた。

 

 絶望的な状況の中で、救済委員会会長のビエルキエヴィッチさんは、1920年6月に船を頼み込んで、福井県の敦賀に着き、東京に行って外務省に嘆願した。

彼女の嘆願書抜粋。

・・・「われわれは祖国から離れ離れになり、いまだ何の助けも得られません。このまま冬が来ると、子供達の命が奪われることは明らかです。子供を花のように愛する日本が、彼らの命を戦争の不幸から救ってくださるよう、私は切に願っています」・・・

 

打診された外務省は、直ちに日本赤十字社にかけあった。日赤は、ポーランドへ帰還させる方策を決定した。救済委員会が日本の外務省に打診後わずか17日目のことだった。1920年というと、ベルサイユ条約でポーランドが出来たばかりで、まだお互いに大使館もない状態で、しかもこの救済の要請は、ポーランドの政府からのものではなく、ポーランドの一民間組織からの要請である。要請後、わずか17日後にこの要請を受け入れることに決断したことは、今考えても驚くべき即断といえる。

 

まず、日本赤十字社が現地に向かうことになった。現地には、ソ連赤軍(共産党)がおり、大変に危険な状態だったが、たまたま日本軍がシベリア出兵のために待機中だったので、日本軍にも協力を要請した。そこで、日本の兵士達が「私達がやりましょう」と、どんどん赤軍(共産党)支配のシベリアの原野に入っては、小さな子供達を一人二人と抱えてウラジオストックに戻ってきた。捜索は二年間続けられた。

 

 救済委員会も、一人でも多くのポーランド人孤児を救おうと、あちこちの避難所を探し回った。

ビルケビッチさんは語る。

・・・こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいました。ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のようにして、その家庭をたずねました。父親を亡くした家庭では、「せめて子どもだけでも、助け出してください」と母親たちが、泣いてわたしたちにたのむのでした。

 しかし、こうして「シベリアで子どもたちを集められたのは、日本軍がいる町だけだった。日本軍の助けなしには、なにもできなかった」と、ビルケビッチさんは回想する。

 

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌1921年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに1922年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来日した。

 

 東京には、2歳から16歳までの子供375人、大阪には1歳から15歳までの子供390人が来日した。孤児たちがシベリアから持ってきた荷物の中に、食パンの頭と耳がいっぱい詰まった袋があった。シベリアでのひもじい体験から、万一日本で食べるものがなかったときのために、多くの孤児がこっそり持ち込んでいたのである。

 

765名の孤児たちが日本に招き入れられ、二年間にわたって治療、療育が施された。習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけるのがよいと考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招いて配慮した。

 

 孤児たちのことが一般に知られるようになると、国内では治療や理髪、慰安会、救援金、慰問品の寄贈などのボランティアの申し入れが殺到した。

 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を絶たなかった。

 

 ・・・ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれたが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったこと。と孤児たちは、特に印象に残っていることとして述懐している。

 

 「体中皮膚病にかかり白い布に包まれてベッドに横たわる私に、看護婦さんがキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました」とかつての孤児アントニーナ・リーローさんも、語っている。

わが国のポーランド孤児たちへの治療と療育は、手厚く行われ、中には、腸チフスの子供を看護し、自らも感染して殉職した看護婦もいた。

 

 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児たちを親しく接見され、3歳の女の子、ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチをいだき、その頭を幾度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。

うちひしがれた三歳の女の子を抱きしめられた時、孤児たちは一斉に号泣したという。

その感激の涙が立ち戻る力となったと当時の子供たちは今に伝えている。

 このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。

 

 日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

 

 保護した765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドに、一人も不幸にせずに、保護した765名全員を送り届けた。

 

 「2年を過ごした日本は天国のような場所」であった、と孤児たちは後に述懐している。

 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がった。見送る医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしなかった。別れを惜しみながらも、孤児たちは精一杯の感謝の気持ちをこめて波止場に並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた、「君が代」を歌った。

 

 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、船が見えなくなるまで手を振っていたと伝えられている。

 

 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

 

 日本船に乗せられ祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちは、養護施設に保護され、それを祝うために首相や大統領までが駆けつけた。この施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国旗を掲げ「君が代」を合唱したと言われている。

 

 シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が日本に届けられている。そのひとつ、救済以来を日本にするように提案した、当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べている。

 ・・・日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。

 

 ・・・われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。

 

 ・・・ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。

 

 ・・・ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい。

 

 こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。「極東青年会」はポーランドと日本の親睦を主な目的とし、組織の活動を通して日本文化のすばらしさをポーランドに紹介していった。

 

 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。

 

 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

 

 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。

 

 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。

 この後も日本大使館は、イエジキ部隊を幾度となく庇護した。2につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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