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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観トルコと日本の友好エルトゥールル号遭難者救助語り継いだ一世紀の思い


トルコと日本の違い。エルトゥールル号遭難者救助を語り継いだトルコ一世紀の思い。

  遭難 当時、トルコと日本の頭上には、帝政ロシアの南下政策があり、ともに脅かされていた。1887(明治20)年、後に陸軍元帥となる小松宮彰仁親王夫妻は、トルコ(オスマン・トルコ帝国)を訪問し、国王のアブドゥル・ハミト二世に会見した。その返礼として、国王はオスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする609人の使節団を、新生日本に派遣した。

 木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1889(明治22)年7月、イスタンブールを出港。航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で熱烈な歓迎を受け、11ヶ月をかけて翌1890年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として日本帝国の国賓として扱われ、歓迎を受け、3ヵ月後に帰国の途につくことになった。日本海軍が日本に近づく台風があることを理由に出航の延期を勧めたが、エルトゥールル号は予定通り1890年9月15日に横浜港より出航した。

 1890年(明治23年)9月16日夜半、台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎(かしのざき)に連なる岩礁船甲羅(ふねこうら)に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、船体が二つに割れ沈没した。司令官オスマン・パシャをはじめとする540名が死亡または行方不明となる大惨事になった。この船甲羅は「魔の船甲羅」と呼ばれ、古来より海の難所として恐れられていた。

 この事件の詳細な消息は、陣頭指揮をとった沖村長がみずからまとめた「土耳其軍艦アルトグラー號難事取扱二係ル日記」に克明に記されている。

 大島は名のとおり島である。海が荒れれば即孤島となり本土に船は出せず、即刻食糧危機に陥る。非常時のために島民はみんな、にわとりを飼っていた。

 この遭難に50戸、400人の大島村の村民が総出で救援にあたった。しかし、どんどん死体があがり、息がある人たちも身体が冷え切り虫の息だった。そこで村民たちは「死ぬな」と叫びながら、自分たちが裸になってその体温を乗組員に伝えたのだ。しかしながら生き残ったのはわずか69人であった。

 この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は、樫野の寺、学校、灯台に収容し、浴衣などの衣類、卵やサツマイモなどを供出し、献身的に生存者たちの回復に努めた。避難の将卒69名中健全なもの6名、軽傷63名であった。

 400人しかいない村で、69人の食料を提供することは大変な事だった。村では漁をしてとれた魚を隣の町で米に換える貧しい生活で、台風で漁ができないため、食料はすぐに底をついた。食べさせたくとも自分たちの食料すらなかったのだ。そこで村人たちは、自分たちの非常食として飼っていた鶏を料理し始め、彼らはこれで命を長らえることができた。

 幸いなことに村民のうち堅田文右衛門が、洋食調理の心得があり、コック役を務めた。しかし、乏しい大島の食料は、遭難者のために一夜にして底をついてしまった。それにもかかわらず村民はこれら遭難者のため、蓄えている食料すべてを喜んで提供したのである。

 食料の次に困ったのは衣類で、村民はありたけの浴衣を出し合い急場をしのいだ。6尺(185センチ)豊かな大男がちんちくりんの浴衣を着ている様は、悲壮感いっぱい漂う中でただ一つの笑いであった。

 遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おきしゅう)に伝えられ、沖村長は神戸港の外国領事館に援助を求め、生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、県を通じて日本政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、直ちに医者と看護婦を派遣し、遭難者に対する支援が政府をあげて行われた。

 その後一週間にわたり人夫百数十名により、他の遭難者の捜索につとめ、アリーベ艦長ほか219名の遺体を収容した。オスマン・パジャ以下残り362名はついに遺体すら発見されず、遠く故国を離れた異国の大島樫野の海底深く眠り続けている。発見された遺体は、ハイダール士官立ち会いのもとに、遭難した船甲羅が真下に見える樫野崎の丘に埋葬された。

 翌明治24年(1891年)、県知事ほか、有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。同年3月7日に追悼祭を行い、遭難した人々の霊を弔った。

 10月5日に生存者69名は軍艦「比叡」と「金剛」に乗せ、翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられた。

 エルトゥールル号の遭難はオスマン帝国の国内に大きな衝撃を呼び、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。またこのとき、新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられた。

 エルトゥールル号遭難4年前の明治19(1886)年同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号事件が起こっている。難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下イギリス人船員全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客全員25名は、全員船中に取り残されて溺死するという事件である。

 日本政府は船長を殺人罪で告訴したが、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪判決を下した。告訴により再審されたが、3ヵ月の禁鍋で賠償は一切却下された。この事件により領事裁判権撤廃要求が高揚した。

 そしてこのエルトゥールル号の遭難事件は起こった。大島村の村民皆が、この事件のことを当然皆知っていた。

・・・遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。エルトゥールル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。・・・1997(平成9)年一月の産経新聞駐日トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏の言葉。

 町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。

 日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシアから圧力を受け続けて、同じくロシアの南下圧力にさらされる日本に対する親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。このとき日本海軍の英雄東郷平八郎提督にちなんでトーゴーという名を子供につけることが流行したという。
 しかし、とうとうオスマン帝国が滅びるまで正式の国交が結ばれることはなかった。

 1914年、第一次世界大戦が勃発するとドイツ同盟国側にオスマン帝国はつき、イギリス連合国の側についた日本とトルコオスマン帝国は敵同士となった。戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、1924年発効のローザンヌ条約締結、1925年の大使館開設により、ようやく日本とトルコは正式の国交を結ぶことになる。
 イスタンブールの海軍博物館には、今もエルトゥールル号の遺品や日本で作られた追悼歌の楽譜などが展示されている。

外伝 山田寅次郎伝(トルコで一番有名な日本人である)

 民間人山田寅次郎(茶道宗徧流の跡取り)もこの事件に衝撃を受け、彼は日本の民間からエルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金を集めるキャンペーンを行い、1年間に5000円が集まったという。寅次郎は外務大臣、青木周蔵を訪ねトルコの遺族へ送るよう依頼した。「それは君が集めた天下の浄財だ。君自身に届けてもらいたい。訪欧する海軍士官と外航船に便乗したまえ」。青木は渡航の手配をしてくれた。事件の翌々年に集まった義捐金を自ら携えてオスマン帝国の首都イスタンブールに渡った。

 山田が民間人ながら義捐金をもってやってきたことが知られるや彼は熱烈な歓迎を受けた。トルコ側から意外な申し出があった。陸軍と海軍の士官学校で日本語を教えるよう依頼され、20年の間、寅次郎はイスタンブールで教えた。

 日露戦争が始まり。バルチック艦隊が動いた。日本海軍はロシアの黒海艦隊がバルチック艦隊に合流するかどうかに重大な関心を寄せていた。イスタンブールの中心地に高さ67mの元灯台のガラタ塔が立っている。寅次郎は20人のトルコ人を雇い、塔の最上階からボスフォラス海峡を航行する船舶を四六時中監視させた。

 商船に偽装したロシア軍艦3隻が海峡を通過したのを見逃さなかった。ウイーン大使館経由で報告。これら3隻はアフリカ沖でバルチック艦隊と合流していた。オスマントルコ政府は寅次郎の派手な諜報活動をあえて黙認し協力した。

 トルコは不倶戴天の敵ロシアの敗北に驚喜し、戦況を決定づけた「東郷ターン(敵前回頭)」はトルコ人の勝利の常識となった。
 1914年に第一次世界大戦が勃発。日本とトルコは別々の道を歩むことになる。寅次郎は帰国した。

 第一次大戦でオスマン帝国が敗退すると、戦勝国は早い者勝ちで植民地獲得に乗り出した。亡国の危機、「固有の領土を守る」、ケマル・パシャは断固反対して立ち上がった。1923年7月である。ケマル・パシャの主張がすべて認められたトルコは、独立を確保。本来のトルコ民族の土地はすべてトルコに返還された。条約を締結したあとの10月、トルコ国民議会はトルコ共和国の成立を正式に宣言した。イスラム世界で初の共和国の誕生である。首都はアンカラ。初代大統領にはもちろんケマル・パシャが選ばれた。ケマル・パシャはトルコの英雄である。

 1931年(昭和6年)、寅次郎は日本トルコ貿易協会の理事長として再びトルコの地を17年ぶりに踏んだ。トルコの国家体制はがらりと変わっていたが、寅次郎は、トルコ共和国の初代大統領ケマル・パシャに招かれ、新首都アンカラで会見した。なんとケマルは士官学校時代に寅次郎から日本語を教わった思い出を語ったのだ。感激の対面だった。

 

ケマル・パシャ(1881~1938大統領在任は1923~38)

 ケマル・パシャは革命当時の呼び名で、ムスタファ・ケマル、尊称でケマル・アタチュルク(近代トルコの父)

アヤソフィア(聖なる叡智)

 現在アヤソフィア(聖なる叡智)は、トルコのイスタンブールにある博物館。元来はキリスト教の大聖堂である。最初の聖堂は360年、首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に、コンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世の手によって建立された。何度も崩落したがその都度再建された。東ローマ帝国以後は、正教会の総本山となる。

 1453年5月29日、 コンスタンティノポリスを占拠したオスマン帝国のメフメト2世は、イスラム教のモスクへ転用した。オスマン帝国は、モザイク壁画まで破壊することはせず、漆喰で塗りつぶしていた。しかし、1847~1849年のフォッサーティの改修作業の過程で、壁面の調査が行われ、モザイクに感銘を受けたアブデュルメジト1世の命で、漆喰が剥がされ、本格的な調査が行われた。調査記録後、堂内壁面は再び漆喰が塗られ保存された。

 東ローマ帝国の代表的な遺構で、ビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。

 トルコ革命後、1931年にアメリカのトーマス・ウィットモア主宰のビザンティン研究所がモザイクの調査を行い、1935年に、トルコ共和国政府の手でアヤソフィアは無宗教の文化財として公開された。その後、ビザンティン研究所は1950年代までモザイクの調査と漆喰の除去を行った。

 1935年ケマル・パシャによって正式にトルコ共和国の博物館に改められ、以後、イスラム美術とキリスト美術が共存した博物館として一般に公開されている。

 国教を廃し信教の自由を認めることが、近代国家となる条件。イスラムを国教から削除し、信教の自由へと政教分離国家へ舵をきったトルコ建国の父ケマル・アタチュルク、尊称に恥じない、未来を喝破した慧眼で宗教共存の魁を成した。

 宗教も全く異なる異国日本の救難、慧眼ケマル・アタチュルクに、何らかの「啓示」があったのだろうか?

 いずれにせよこの英断は、宗教が争乱起因国家への、範で、宗教の、未来への指針を示していることは間違いない。

海底にトルコ軍艦遺品

 和歌山県串本町沖で1890年に沈没したトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品引き揚げに向け、トルコの民間研究機関「トルコ海底考古学研究所」などが12日、潜水調査を始め、海底で多数の遺品を見つけた。
 この日は沈没地点付近にトルコの研究者と日本人ダイバー計6人が潜水。海底で、鉄砲の先に取り付ける刀の柄やボルト、金属片、鍋などを見つけ、刀の柄を回収した。同研究所のトゥファン・トゥランル所長(54)は「遺品は思ったより多く、今後が期待できる」と話した。・・・2007年1月13日産経新聞


一世紀に渡り語り継がれたトルコの思い

 時は流れてイラン・イラク戦争(1980-1988)のさなか、1985年3月17日イラクのサダム・フセインは、「3月20日午後2時以降、イラン上空を飛ぶ航空機は軍用機、民間機を問わず撃墜する」。と発表した。期限は48時間後日本時間の3月20日午後2時、無差別攻撃が始まれば、もうイランから脱出不可能であった。

 イラン在在の日本人は約300人。航空会社のカウンターに人が殺到したが。各国の航空会社はギリギリの運行便で自国民を乗せ飛び立っていく。やっとの思いで航空券を手に入れた日本人もいたが、自国民を優先して搭乗させる航空会社の取り扱いに航空券はただの紙切れと化していた。日本の航空会社はイランへの定期便がなく、外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが、「帰りの安全が保障されない」としてイラン乗り入れを断られた。チャーター便を飛ばすにはイランとイラクの航行安全の確約を取らなければならない。日本政府はイランの確約を取ったが、イラクからの返事がなかったのだ。

 テへラン在留邦人脱出希望者215人は、テヘラン市内のホテルに身を寄せ、日本大使館からの救援情報を待っていた。あと数時間でイラクの無差別攻撃が始まる。救援機飛ばずの一報は、邦人を奈落の底に突き落とした。正に万事休すであった。

 そんな打ちひしがれた邦人になんと「トルコ航空が救援にくる」との一報が入ったのだ。日本機ではなかったので到着まで信じられなかったと言う。

 無差別攻撃のタイムリミットが迫る中、空襲警報が鳴りつづけるテヘランのメヘラバード空港にトルコ航空のDC10が2機着陸した。定期便と救援機である。歓声が上がった。第一便には搭乗を待つ日本人198人に、全座席が与えられた。第二便には第一便に乗り切れなかった日本人17人と同じく本国からの救援を待っていたトルコ人が搭乗した。無差別攻撃が刻々と迫るなか、第二便が離陸したのはタイムリミットの1時間15分前であった。2機のトルコ航空機は無事フライトし、一路トルコへ。日本人全員が救出された瞬間である。

 日本が救出断念した危険なフライトを、なぜ遠く離れた国トルコの飛行機が、フライトしたか。こうして実現したトルコによる日本人救出劇に、どうしての疑問が日本国内で持ち上がった。この時、日本政府も日本のマスコミも、どうしてトルコ航空が飛行機を出してくれたのかまったく不明であった。

 トルコへの救援依頼がふたつのルートでされていたことが、後日判明した。ひとつは伊藤忠商事のイスタンブール(トルコ)支店長だった森永氏がトルコのオザル首相に依頼したルート。森永氏は駐在16年で、首相とはパジャマで行きかう仲と言われるほど、昼夜を問わずなんでも相談し合っていた仲だったという。もうひとつは、イランの野村大使が駐イラントルコ大使のビルセル氏に依頼したルート。二人も同じ日に大使としてイランに着任し、双子の兄弟といわれるほどの親交を深めた仲だったという。即快諾され、トルコ航空に依頼された。

  トルコ航空では、すぐさまミーティングが開かれ、命がけの仕事なので特別機への志願者を募った。これに、辣腕の機長はじめ多数のスタッフが名乗りを上げたという。戦火に救援機を飛ばすのは命がけの仕事、いくらトルコ政府がトルコ航空に依頼しても断る理由はいくらでもあったはず。それが、トルコ航空では、クルーが志願して救出機に乗り込み助けてくれたのだ。

  イランにいたトルコ人は6千人といわれ、救出を望んでいたはずなのだが、救援機が日本人を優先的に乗せた事にはなんの非難も出ていなかった。多くのトルコ人が当り前だと思っていたのだ。6千人のトルコ人は陸路を数日かけて脱出したという。

  そして疑問は残った。なぜトルコ人が志願してまでこんな危険を冒し、邦人を助けたのか、そしてまた救援機が日本人を優先的に乗せた事にはなんの非難も出なかったのか、ということである。実技無き言葉と文字の仮想界住人は、ここを著しく軽んじる(ブログに散見)が、命がけである、深い思いがなければ何人も出来得ない行動である。

朝日新聞の無検証記事

 朝日新聞の記事はこうである。1985年3月18日の朝日新聞朝刊「イラン上空飛行すれば攻撃・イラクが民間機に警告」。19日朝刊「邦人に動揺広がる・脱出路探しに必死」。19日夕刊「テヘラン、邦人300人以上待機」。20日朝刊「テヘラン邦人、希望者全員出国・トルコ航空で215人」。どういう経緯でトルコ航空機が出動したのか、在京のトルコ大使館の談話もなく、記事は下記のように記者の推測で終了している。この新聞もこの記者も、命がけの行動を金銭でしか判断できないようだ。
「・・・日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していること、などが影響したものと、みている」。

 日本国内では「エルトゥールル号遭難事件の恩返し」との趣旨の発言があるが、トルコ政府当局者や、トルコ航空の関係者からのこの件に関しての発言は「当然のことを、したまでですよ」の発言しかない。大島の島民も、海に生きる人として「当然のことを、したまでである」。トルコ国民と日本には「エルトゥールル号」により生まれた、阿吽の呼吸がある。だから、日本の救援要請に一発で快諾したのだ。「感謝」の一言で事足りる。金銭の貸し借りではない、まるで「恩を貸した」ような「恩返し」発言は不適切で、トルコに対して失礼だ。ましてや誰も発言していない、捏造は止め、至急是正すべきだ。正にマスコミ無検証オウム返しの証拠だ

 トルコの「当然のことを、したまでですよ」発言と、金目当ての行為であったかのように書いた朝日新聞記事との対比が、あまりにも際立つ。ひとりの日本人としてトルコの皆様に、朝日新聞の愚行を深謝いたします。

トルコの思いと日本の対応

 1999年11月12日に発生したトルコ、イズミット地方のM7.1の地震のときにも日本政府、赤十字社、伊藤忠商事、マツダなど民間企業からも大きな支援を行ったことはご承知の通りだ。現実界の対応は、「当然のことを、したまでですよ」これで良い。

 平成18(2006)年、1月12日、トルコを訪問した小泉首相は日本人を救出したトルコ航空の元機長、オズデミル氏に面会して謝意を表した。資料にはオズデミル氏しか記載がないが、単独面会謝意なら国辱で、所詮小泉も、お坊ちゃん世襲議員だったと言うことだ。命がけのフライト志願である、命の重さは皆同じ。謝意を表すなら、クルー全員招待が常識。もしも単独面会謝意なら、小泉も外務省役人も、前述の朝日記者と同類、あまりにも心が無い。著しく現実界道理から乖離した輩だ。

 残虐悲惨でない戦争など皆無。敵味方残虐悲惨なのを戦争というのだ。先人がなぜ史上比類なき玉砕、特攻までして、残虐悲惨な戦争をしなければならなかったかを教えず、戦後の教育は戦争の残虐悲惨だけを教えた。子孫のため護国に徹した先人を、残虐悲惨な戦争をした極悪人と教えた。

 一世紀にわたるトルコの思いが語るように、歴史は点ではない、すべて線で理由有りなのだ。戦後教育はすべて「点」だ。理由(なぜ戦ったか)を教えず、結果(残虐悲惨な戦争をした先人極悪人)だけを教えた。線を教えず、点だけ教えた。戦後教育の誤謬の原点はここにある。戦後の「点」教育の成れの果て、半人前新聞朝日と半人前記者、そして小泉と官僚は、戦後教育の誤謬の見本である。道理思考回路皆無、知識鵜呑みオウム返しの、皆仮想現実会の輩である。

 唯心国家の国民だから以心伝心となった、凶産党や韓国や在日では有り得ない。凶産党は唯心否定で唯物のみ。民主党鳩山の友愛なんぞ、凶産や捏造が国是の韓国や罪日には、他意無しなら、鴨ネギでしかない。輩は唯物、生命体を物扱いし、物欲のみでしか動かない、ソ連中国北朝鮮、韓国や在日が見本であり、歴史が証拠だ。恥も外聞もなくひたすら自己中で、相手なんぞ無視は当たり前の折伏一辺倒、唯我独尊カルト教が輩の正体である。

 

 敵味方になった時もあり、日本に対して途中波風もあったことだろう。しかしこの「当然の事」を教科書に載せて、一世紀にわたりトルコは、語り継いだ。感動以外の他の言葉はみつからない。救援に奔走した二人の日本人も、同胞を思い良くやった。しかし一世紀にわたり語り継がれたトルコのこの深い「思い」がなかったら、救出出来たかどうかは、はなはだ疑問である。

 戦後、「先人悪、戦前悪、戦後善」の戦勝国負い目払拭のためのWGIPで、日本国民は洗脳され、愚民と化した。トルコは一世紀を経てもなお、先人善を愚民化した子孫に伝え、愚民化を踏みとどまらせ、WGIPからの覚醒をうながした。・・・

 

 恨みとパンのみに生きる、唯物凶産中朝韓罪日とは、根源的に異なる。真逆の極が、日本人唯心である!

 津軽三味線や能、歌舞伎等、今に残る数多の芸は、おしなべて苦界に落ち、苦界より生じた芸である。がしかしそこには、恨みつらみなど、微塵も無い!まさに禍福昇華、唯心の極みがあるのみである。だから、時代を越えても、人種宗教言葉を超えて、共振するのだ。

 

 この逸話は、先人の過去の真実の歴史を子孫にしっかりと語り継ぐこと、これも現世に生きる我々の大事な役目なのだと言うことを語ってくれた。語り継いでおれば、朝日新聞記者のような愚人には育たなかった。いまからでも遅くはない、覚醒し、トルコに学び、子供に語り継ごう! 完

 

ポーランドとの友好一世紀

1シベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれるポーランドの思い

 

資料

『東の太陽、西の新月―日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』山田邦紀・坂本俊夫現代書館 2007年。

串本町資料および観光パンフレット

紫垣喜紀兄・旅で学んだトルコの歴史
軍艦エルトゥールル号(在日本トルコ大使館ホームページ、日本語)

トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難(串本町観光協会ホームページ)

『イスタンブールを愛した人々』松谷浩尚中央公論社(中公新書)1998年。
『オスマン帝国の近代と海軍』小松香織山川出版社世界史リブレット、2004年。


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

>本日のアップを予定しておりますが、不都合がございましたら、ご一報お願いいたします。
真実史観  転載可、要出自記載(URL)ですので、不都合はありません、どうぞ。

iza3580-hanaubaさんへ
>幾度かコメント記入させていただいたのですが、なぜか書き込みできず、今になってしまいました。
真実史観  中国・北朝鮮・韓国・罪日の“泣き売”、3回以外削除していませんので、他の理由でしょう。

No title
こんばんは
はじめまして 花姥と申します。

エルトゥールル号について検索していて、こちらに辿り着きました。
すばらしい内容ですね。
是非、拙ブログで紹介させていただきたいのですが、如何でしょうか?
こちら様のURLをブログに書かせていただいてよろしいでしょうか?

本日のアップを予定しておりますが、不都合がございましたら、ご一報お願いいたします。

はじめてのコメントで不躾なお願い、たいへん失礼いたしました。
幾度かコメント記入させていただいたのですが、なぜか書き込みできず、今になってしまいました。
あしからずご了承下さいませ。
[ 2010/06/22 00:51 ] [ 編集 ]
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Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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