QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 07123456789101112131415161718192021222324252627282930312017 09

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観15東條英機真実妻勝子「戦後の道は遠かった・昭和39年文藝春秋」

三 住相から還相へ 注・花山信勝49歳、武藤章(56歳)東条英機(64歳)土肥原賢二(65歳)松井岩根(70歳)

 かくてもう十一時半にもなったので、私は大急ぎで一階にかけ降りて、再び「仏間」の用意をし、コップに「ブドウ酒」をつぎ、「水」をいれたりして、七人の到来を待った。間もなく三階から、処刑第一組として土肥原、松井、東條、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。それぞれ二人の看視につきそわれていた。両手には「手錠」がかけられ、さらにその「手錠」は褌バンドで股に引っ掛けられていた。極めて不自由な姿である。着物はいつも着ていられた米軍の作業衣であった。しかしシャツは見えた。クツは編み上げの日本クツであった。係官から「時間が七分しかない」といわれたので、取り敢えず仏前のローソクの火に「線香」をつけて、一本づつ手渡し、私が香爐を下げて手もとに近づけて立てていただき、それから仏前に重ねておいた奉書に「署名」してもらった。不自由なてながら、インクを含ませた筆をとって、土肥原さんから順に筆を揮(ふる)った。それからコップにいっぱいの「ブドウ酒」を口につけてあげて飲んでもらう。さらに「水」のコップを私が少しずつ飲んでは、みなさんに飲んでいただいた。東條さんの「一ぱいやりたい」も、どうやらこれで果たされ、大変なご機嫌であった。

 その後まだ二分あるというので、「三誓偈(さんせいげ)」の初めの三頌(さんじゅ)と、最後の一頌を声高らかに私は詠んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑想して聞いておられ、終わった時、

 「非常に有難うございました、結構でした」

とお礼をいわれた。それから誰いうとなく「万歳」という声が出て、たぶん東條さんと思うが、

 「松井さんに」

というので、松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。

 ブドウ酒のあとで「お菓子はどうですか」といったが、みな入れ歯を取っていられたので、歯がないからと遠慮されたが、松井さんに、やわらかいビスケットを一つ口の中に入れてあげたら、もぐもぐたべられた。

 以上の行事は「仏間」ではせまくて、すべて廊下に立ったまま行われた。この時、東條さんから、約束通り「念珠」を受け取った。松井さんも、手にかけておられたので、

 「これを奥さんに差し上げましょうか」

といったら、

 「そうして下さい」

といわれ、受取った。他の二人は、部屋(独房)の「袋」に残してこられたという。土肥原、松井、東條、武藤の四人は、それぞれ両脇の看視の下士たちを見上げて、「御苦労さん、ありがとう」と。それに感激してか、将校たちはあゆみよって握手を交わした。(注・「世紀の遺書」冊子には「この情景を見た米軍将校たちは、ツカツカと二・三歩前進して、褌式バンドで両手を縛られていた東條元大将をはじめ、A級の土肥原元大将、松井元大将、武藤元中将らと、それぞれに握手をはじめたのである」とある)これこそ心と心の直通、真実「平和」のすがたと観た。私も、この時とばかり、いちいちみなさんの手をしっかと握って、最後の挨拶をかわした。いずれの方も非常に喜んで、長い間の労苦を感謝され、また、

 「あとの家族のことをよろしく」

 と頼まれた。時間は、刻々と迫ってきた。

 出口の鉄の扉が開いた。当番将校の先導で、その後にチャプレン・ウォルシュ師と私がつづき、その後ろに土肥原、松井、東條、武藤の順で並び、両脇には看視、あとに将校が二・三名つづいて、静かに中庭を歩んでゆく。その間、約二分ぐらいかかったが、「念仏」の声が絶えなかった。とくに東條さんの声が・・・・・

 刑場の入り口(コンクリート塀)で、隊列を離れ、さらに四人と、また一人一人手を握って最後の「御機嫌よろしゅう」をいったところ、

 「いろいろ御世話になって有難う。どうか、また家族をよろしく願います」と、みなにこにこ微笑みながら、刑場に消えられた。あとで聞いたところ、台上では四人とも最後の「南無阿弥陀仏」を称えていられたということだ。急いで「仏間」に帰る途中、ガタンという音をうしろに聞いた。時計をみると零時一分だった。

 

注・花山信勝49歳、木村兵太郎(60歳)、板垣征四郎(63歳)、廣田弘毅(70歳)

 「仏間」に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、板垣、廣田、木村さんが降りてこられた。顔を合わせると、すぐ廣田さんが真面目な顔で、

 「今、マンザイをやってたでしょう」

 「マンザイ?いや、そんなものはやりませんよ、どこか、隣の棟からでも、聞こえたのではありませんか」

 私も真面目にこうこたえた。

 「いや、そんなことはないが・・・・」

 とにかく、今度は三人とも「仏間」の中に入ってもらって、お線香を一人づつに、前のように渡して立ててもらい、「署名」をされたあとで、今度は時間があったので「三誓偈(さんせいげ)」を全部読んだ。木村さんだけは眼鏡をかけて降りて来られ「意訳聖典」も持って来られたため、私の読経中それをあけて読み、私の読経に合わせておられた。お「経」の終わったあとで、廣田さんが、

 「このお『経』のあとで、マンザイをやったんじゃないか」といわれた。私も、(原文はっと気がついて、

 「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といった。それでやっとマンザイがバンザイだとわかって、

「それでは、ここでどうぞ」

というと、廣田さんが板垣さんに、

 「あなたおやりなさい」

とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。もちろん手はあげられない。それから、「仏間」入り口に並んで、みなに「ブドウ酒」を飲んでもらった。このときは、米兵の助けをかりず、私がコップを持って、一人一人全部に飲ませてあげた。廣田さんも、おいしそうに最後の一滴まで飲まれたし、板垣さんの如きは、グット元気よく一気にに飲みほされた。よほど好きらしかった。木村さんだけは、半分以上残された。余り、酒の好きな人ではないと見えた。次に「水」を飲みかわして、しっかりと握手をした。みな、にこにことあいさつされて、

 「いろいろお世話になりました。どうぞお大事に、また家族たちをよろしく」

 大変に感謝をされた。

(注・マンザイは、入れ歯をみな外しているので発音不正確が原因は、明白。拝金マスコミに祭上げられた、成金半端者作家城山三郎は「落日燃ゆ」(1975年吉川英治文学賞・毎日出版文学賞)で、次のように捏造した。「『それでは、ここでどうぞ』と促した。だが廣田は首を横に振り板垣に『あなた、おやりなさい』板垣と木村が万歳を三唱したが、廣田は加わらなかった。廣田は意識して『マンザイ』といった。廣田の最後の痛烈な冗談であった。万歳万歳を叫び日の丸の旗を押し立てて行った果てに何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないか」。文官廣田擁護論は、武官軍人を貶めるための凶産教授のプロパガンダ。戦国時代の弱小日本は、文官武官民間一丸の蜂起軍、玄洋社と関連の深い廣田冒涜である。廣田遺族も洗脳され、分祀派遺族となり、なんと御先祖愚弄である!・・・。捏造幇助の出版社やマスコミは自浄もせず、隠蔽に必死。百人斬りの両記者同様、ほっ被りで済まそうとしている。何とも情けない言葉と文字の机上界、醜い正体である。開国以後は戦国の戦時下、ましてや戦前の為政者、死生感は異なる。廣田弘毅の妻静子は東京裁判前に自裁、廣田も70歳、戦国時代も見えぬ、WGIP善悪目線の近眼史観城山三郎には土台無理、見えない世界である!戦後の作家は皆、この類の近眼迎合作家。作家は売文業で、良識者ではない、歴史検証者ではない。マスごみ売文業を司馬史観などとオダテテ、歴史家まがいの報道は、放送法第3条の2違反捏造である)。

 それから、前のような列になって刑場の入り口へすすみ、私はここで、前と同じように、別れた。最後に木村さんは頭を幾度も下げ、にこにこ笑って、私に、

 「どうか、家内たちをよろしくお願いいたします。お世話になりました」

と、長いあいさつをして刑場に入られた。中庭はそうでもなかったが、刑場の中はあかあかと照明に照らされていた。この時も、また途中でガタンを聞いた。零時二十分だった。

 「仏間」に戻って跡片づけをして、再び刑場入り口にもどる。「もう入ってもいい」と合図されたので、刑場に入った。七つの寝棺が運ばれた。私はその前で「正信偈」に「念仏廻向」をつけた。これまでは「阿弥陀経」を読んだのだが、「意訳聖典」にはそれが入っていなかったからである。私が読経するあいだ、ウォルシュ牧師は、懐中電灯で、「聖典」をてらしていてくれた。

 刑場内は、跡始末であわただしく、人が右往左往していたが、「棺」と、私の間を、通ったりさえぎったりするものは、一人もなかった。

 こうしてすべては終わった。さきほどまで笑って話していた七人は、いま沈々として横たわり、微動だもしない。これほど、生と死の境が一つになっていることも、あまりなかろう。

 さきほどの死直前の「署名」は、この意味でも、まれな人間の記録となった。いささかの悲しみも動揺もなく、平常心そのまま、「念仏」とともに死についた七人の「死」は、私にとっても、生涯消えがたい感銘を刻むことである。

 チャプレンといっしょに、そこからチャプレンス・オフィスにもどり、さらに将校クラブに案内された。所長はじめ、多勢の将校から、

 「立派にいってくれて、たいへん御苦労様でした。有難う。あなたの御苦労を、みな大変感謝しています」

といわれて、変わる変わる握手をうけた。私は一時間半ばかり将校たちといろいろ会談したが、疲れもしたし、整理しなければならぬものもあるので、挨拶して、自分の部屋に帰り、直ちに六人の法名に月日を入れ、今日一日の「メモ」にずっと目を通した。ふと目を覚ましたら、朝の7時であった。ラジオのスイッチを入れたところ、ちょうど渉外局の「発表」が聞こえた。私の時計通り、処刑は「零時一分」と「零時二十分」の二回であった。

 昼ごろになって、チャップレンが来て「君を随分、外で記者たちが待っている」というので、「遺品」をうけとり、三時の「ニュース」を聞き、ジープで東大の印度哲学研究室へ向かった。ここでは、かねての約束によって、内外記者団と共同会見をすることになっていたからである。この会見で、或る外国通信社の記者が、「棺」の中にある死者の表情について、執拗に私を追及した。私は思わず激して、それをたしなめた。私としては、あの場合、そこまで追求されることがたえられなかったのである。私は、やはり、ずいぶん疲れていたのである。

増補

・・・東條家では、どんなに遅くなってもよいからその日のうちに葬式をというたのみであったので、午後六時半頃研究室から東條家へ直行した。ただ親戚の者だけということであったが、そこには、東京裁判における東條大将の主任弁護士をつとめられた清瀬一郎氏だけが、知人として来ておられた。一応の「葬式」をすませたあと、午前すぎ頃までかかって約三十人の会葬者に最後の模様や「遺書」などについて説明した。そのとき、清瀬弁護士はわたしの説話を入念に筆記しておられた。・・・ここにはじめて私の手記を公刊することにした。東條大将の原文が焼却されたとすれば、これが唯一の最後の「遺言」となるわけである。  完

 

辞世(勝子夫人より差し入れられた「意訳聖典」の余白に書かれている。処刑は23.12.23)

さらばなり苔の下にてわれ待たん  大和島根に花薫るとき     勝子へ

一段の煙もどくる秋の空(23.12.11)

あすよりは たれにはばかるところなし 弥陀の御許でのびのびとねむ(23.12.12)

父の命日や 近く呼ぶ声薫る秋(23.12.19)

竹の音も仏法僧をかなつなり 弥陀の迎ふる響きと聞く(23.12.20)

我ゆくもまたこの土地にかへり来ん  国に酬(むく)ゆることの足らねば(23.12.20)

「東條英機〔わが無念〕」・「東條英機の妻勝子の生涯」佐藤早苗著 河出文庫

 

 「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」で東條は全てを飲み込み背負い、天皇を救い、臣の勤めを果たし、大東亜戦争の真実を述べ、日本の所信をすべて表明し、志を果たし、総大将として敗戦の責任をとり果てた、このことは間違いの無い事実だ。この言葉は、国を想い子孫を想う、東條の溢るる心中を現して、有り余るものが有る。世俗を超え一つの高みに有る。

 死刑は皇太子(現天皇)誕生日12月23日執行された。侍従の村井長正によれば、この日、天皇は終日書斎にこもり、「泣きはらして真っ赤なお顔をされていた」という。(高橋絋「象徴天皇の誕生」金原左門編「戦後史の焦点」)

 

「公」に殉じた天皇と東條・「私」の近衛 

近衞文麿  開戦前、3回組閣し、開戦(昭16.12.8)直前までの総理(昭16.10.18)。スターリンの手先、元朝日新聞記者(1926~1938)尾崎秀実(ほつみ)を第1次~第3次まで近衛内閣のブレーンにした。開戦直前の(1941年昭16.10.)、ブレーンの尾崎秀実、ソ連、スターリンのスパイ、ゾルゲへの機密漏洩で、共にスパイとして逮捕処刑(1944.11.7)された。近衞文麿のブレーンが、スターリンのスパイだったのだ。

 戦後「手記~平和への努力」を発表し、日中戦争の泥沼化と、太平洋戦争の開戦の全責任を軍部に転嫁し、自分は軍の独走を阻止できなかったことが遺憾であると釈明した。(注・軍は反共を認識し、反共戦争をしていたし、戦争不拡大の方針であった。暴走ではない。近衞文麿は反共を認識せず、スターリンに操られ、日中戦争にした。「大アジア主義に殉じた人々」の年表の項目を参照。年表が明白に語っている

 戦後、近衛文麿の手記が、1945年12月20日から11回朝日新聞に連載された。手記の中で近衛は、戦争回避に天皇はもっと行動すべきだった。と、主張している。(列強の侵略戦争なので回避不可は明白だった)

 1945年12月6日に、GHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることを知った。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の1945年12月16日、東京都荻窪の自宅・荻外荘で、青酸カリを飲んで自殺。これは、昭和天皇に戦争責任が及ばないようにとの苦渋の選択による行為だったと言われている。がしかし、軍部の将は天皇である。全責任を軍部に転嫁したのは近衛である。

 近衛文麿の女婿で、その秘書官をつとめた細川護貞は、東條の自殺未遂の報を知ると「傷つきたる後の談話といひ、今日に至りたる態度といひ、人間の出来損なひなること明瞭なり。かゝる馬鹿者に指導されたる日本は不幸なり」と翌日の日記に記した。…『細川日記』(9月12日の記述)『「文明の裁き」をこえて』牛村圭著・中公叢書・2000年発行(前掲書103~104頁)

 弱肉強食の時代戦わざれば確実に亡国、戦うもまた亡国(アジア同胞の助力が無いとき)であった。まさに独立国日本の存亡をかけた資源封鎖防御、護国のための、回避絶対不可の自衛戦争なのだ。全責任を負い濁」併せ呑んだ、「公」に殉じた天皇と東條。軍隊に「濁」を責任転嫁し、「清」だけを呑んだ、「私」の近衛文麿と女婿で、その秘書官をつとめた細川護貞。対比が際立つ。

 

七人の処刑後の新聞やラジオの報道姿勢

 新聞もラジオも七人の処刑を伝えたが、そのことによって軍国主義が一掃されたかのようなとりあげ方であった。憎悪と侮蔑で七人を謗(そし)れば自己証明ができるかのような無節操な論もあった。彼ら七人を謗ることが一切を免罪するかのような意図的論調は、無反省で無自覚な国民心理を培養するだけであった。やがて七人のなかの東條だけが〈普通名詞〉に転化していったのは、その培養の結果といえた。

 東條英機の名誉も基本的人権も踏みつけであった。

 ひとつの例をあげれば、ある有力な新聞が二十四日の朝刊に、「幼児の心持つ東條――満足し死の旅に、夜通し祈った勝子夫人」と題してセンセーショナルに報じた記事が指摘できる。それは「この日勝子夫人は一切の面会をさけ独り静かに冥福を祈っていたが、特に本社記者に次のような談話を発表した」と前書きして、東條はすでに幼児の心境になっていたとか、これからの時代に東條の遺族として負けずに生きていこうとか書かれていたが、この記事を書いた婦人記者松田某は、その日の夕方、この新聞をもって謝罪にかけつけたという。また彼女は、判決宣告の翌日にも東條夫人の手記として、「主人の精神的な命は敗戦と同時に終りました。今は肉体的生命の有無は問題ではありません。主人として死は願うところでしょうし、私共家族といたしましても主人の願うところはつまり家族の願うところであり・・・・・・」といったような記事を捏造していた。その日も訂正を求める家族に、「男性と伍していくには、こういうことでスクープする以外にないんです」と得手勝手をいいつつ、問題を大きくしないように懇願して帰っていったという。

 この種の記事がいたるところで見られた。東條と舞踊家某との情事、連日の豪遊といった根拠もない話が氾濫し、外地のある捕虜収容所では、思想改造の手っとりばやい方法として、 東條が酒色と金銭を目的に日本人民を欺いていたと、彼を卑劣な無頼漢にしたてあげた。保阪正康「東條英機と天皇の時代(下)」  P.305

 

戦後の卑屈な迎合者が競って媚を売りねじ曲げた迎合史観を一掃し、子孫に真実の日本護国史を残そう。

 「・・・昨日迄軍閥の機関であった新聞は、挙げて過去を清算し、掌を翻すが如く占領軍を謳歌し、軍部及び過去の指導者を攻撃し始めた。他人を攻撃し又は誣「し(事実をねじ曲げる)」ゆることは自分を擁護し、自分の責任を軽くするものと早合点した。終戦直後の昨今の状況ほど情けない日本の姿は又とあるまい」昭和61年に発見された重光葵の手記

 

 開国以来10から20倍以上の超大国と、資源の無い小国日本は対峙し、弱肉強食の時代(話し合いではなく、武力で物事を解決する時代)を軍国の衣をまとい皇民化し一丸となり、不可避の戦いを戦い護国し、国づくりに励み、今の日本がある。禍の無い物づくりなど絶無。護国し国づくりの過程の禍を、針小棒大に拡大し、あらんかぎりの罵倒をする、子孫と名乗る輩がいる。物事には必ず禍福があるのだ。粗探し史観でつまみ食いし、先人を冒涜するのは、捏造宣伝プロパガンダと同様だ。こんな輩は子孫ではない。

 

 終戦前後して、ソ連(北方4島占領)や韓国(竹島占領)が、弱体化した日本を更に鞭打つように容赦なく、すぐさま侵略し、征服したことを想起せよ。これが現実の社会なのだ。子孫には、真実の歴史を残そう。

 

戦後の道は遠かった(昭和39年6月)東條勝子「文藝春秋にみる昭和史」第二巻 抜粋

 七十の坂を越しました私も

 四年前の7月23日に、陸軍官邸へ行ってまるまる四年、同じ日に戻ってくる、因縁というのなんと不思議なものでございましょう。

 私は二十歳で、二十六歳の東條のところへ嫁いで来たのですが、その頃、東條の母はまだ四十八歳でした…。

 後になって主人が遺言の中に「お前はずいぶん苦労したけれど、自分としては歴史のどの頁を開けても、満足と感謝があるばかりだ、水くさいようだけれど礼をいう」と書きのしてくれたことが、私にとって何物にも代えがたい宝物です。

 この用賀の家にもどってからの主人は、ときどき重臣会議とやらに出かけてゆくほかは、百勝をして暮らしておりました。ジャガイモ、トウナス、トマトなど、なんでも、自分で拵(こし)ら得ました。一反二畝くらいの畠仕事に、家中で真っ黒になって働いておりました。七面鳥や鶏もずいぶん飼いました。

 私どもには七人の子供がいました。

 こうして八月十五日が近づいてまいりました。「お前たちはお前の郷里の九州へ疎開したらいい。私は重臣として陛下が来いといわれたらすぐ行かなければならないから、ここに残る」と命令するのですが、私たちも言うことをきかず一緒に残っていました。

 八月十三日に次女の満喜枝のところへ、婿の古賀がひょっこり訪ねて来ました。

 御詔勅を聞いて主人が、「終戦までは一死ご奉公。これからは陛下のお命令で生き抜いて再建の御奉公。御奉公の方向が違っただけで意義は少しも違わない」と家族のものに教えさとした直後です。

 午後一時、はっきりそう記憶しています。電話が鳴りました。
 …主人は受話器を置くと、「満喜枝」とよびかけました。

 「一時間ばかりしたら秀正が帰ってくる。秀正は自決したらしい。満喜枝、いいな、覚悟は出来ているな」

 主人の眼は泣いてこそいませんでしたが、キラキラと光っていました。

 「はい、わかりました。いいですわ、お父様…秀正様は永遠に少佐でいらっしゃるんですから、立派な軍人でいらっしゃるんですから…」

 そういいながらも満喜枝の顔は蒼白でした。

 二十日ごろまでは忙しい日々がつづき、悲しんでいる暇すらありませんでした。

 その二、三日の夕暮れ、主人は庭に出て書類を、大事なものからまず先に燃やしていました。

 大切な人名帳もポンと火の中に入れるのをみたので、私があわてて、「あなたそれを燃やしたら皆様のお所が分からなくなります」

 「いいんだ、いいんだ。いままでの生活はすべてご破算なのだから。…これからはお声をかけて下さる方とだけつき合ってゆけば、それでよい。それが一番いいんだよ」

 そして、やさしい笑顔をつくるのでした。

 この主人の言葉はそれからの私たちの生き方となりましたから、その意味では、ありがたい本当の遺言とも考えられるのです。これからは私たちと知り合いだったことを、知られたくない人が当然でてくるであろう、私たちからは声をかけてはいけない、それが私たちの誠意というものなのだ、主人はそういう点、気のつく人だったのです。16につづく 

注・大和島根は日本国の別称

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/105-520ab1e3

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。