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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観16東條英機真実分祀に反対と捏造報道「沈黙弁解せず一切語るなかれ」

主人はさらに家族の私たちが米軍に捕まるのをいちばん気にしていました。

 九州の私の実家に落ちのびようということで…その準備をしました。

 ぐずぐずして、とうとう八月二十八日になって、主人が、

 「きさまらが行ってしまってからでなければ、落ちついて考えることも出来ない、早くいってしまえ」

 といいながら手伝ってくれましたのでやっと娘四人と孫とを九州へ旅立たせました。

 長男は東條の子供がいては皆に迷惑がかかるからと会社を辞め、伊藤の三浦義一先生のところにおいていただき、三男はまだ帰ってなく、いわば一家ちりぢりの状態でした。

 こんな中で…ねえやのさやさんと二人で、東條の傍についていることにしたのです。

 9月3日、士官学校へ行っていた三男の敏夫が戻ってきましたので、すぐ九州へ発たせました。そのときも主人は、「いざという時にお前が捕まったらいやだな。敏夫と一緒に九州へ発て」と再三いうのです。が、「やはり最後まで見届けます。そして後で子供たちに話して聞かせてやりたいのです、いざというときは逃げますから」と頑張りました。もう主人は何もいいませんでした。すっかりあきらめたのでしょうか、それからの毎日は、蚊やりををたきながら、応接間の机に向かって何か書き物ばかりしていました。そして客があれば、外のほうが涼しいからと、庭にある瀬戸物の椅子に腰をかけ、ほがらかに談笑していました。

 遺書もそんな折に書かれたようです。日付は9月9日となっています。この遺書を私は苦しかったあの月日、肌身はなさずもちつづけました。他に巣鴨に入ってから書かれた二通の遺書と共に、何物にも代えがたい大切なもの、どなたにもお目にかけたことがございません。

 「葬儀は東京にて行わず、安真木(註=九州の私の実家)へ帰りて子供たちのみにてなすべし。

 又遺骸は政府にて、あるいは敵に渡すことあるべし、快くこれに応ずべし、葬儀は頭髪や爪にて結構なり、霊はその日のうちに安真木に先着しあり。

 自分に従って自決するごときは自分の名誉を汚すものなり、堅く禁ず。よく子供たちの行く末を見届けたる後来るべし」

 またこうも書かれています。

 「魂は公的には国家と共に、私的には御身と子供の上にあって守るべし、安心せよ」

 主人はとうに死の覚悟をしていた。それは8月15日以来ずっとそばにいた私には、ひしひしと感ぜられることでした。私も覚悟をしていました。それだからこそ、最後の最後まで、はと思い、ずっと離れずにいたのですが…そしてあの日が来ました。

 9月11日、この日のことは、まるで昨日のようにはっきり覚えています。まるで私の体全部が、目と耳になってしまったようなそんな辛い一日でしたから。

 午後3時ごろでしたか、表の方が妙に騒がしいのです、米軍ではないのですが、たくさんの外人が集まっている(後できくと、外人記者だったそうですが)、私はすぐに報せました。応接までその日も書きものをしていましたが、主人は振り向くと、

 「ああそうか、じゃお前、すぐに出て行け」

 と軽くいうのです。私は、以前からいつでも逃げて出て行けるように用意だけはしておきましたから、主人に、

 「それでは、ゆかせていただきます、お大事に」

 とただそれだけ別れを告げ、さやさんと二人で裏木戸から出て、庭と地続きの山を伝って家を離れました。

 しかし、どうにも気になって仕方がないのです。ぐるりとひとまわりして、家の方を眺めますと、自動車が何台も並び、日本人、そして外国の人と重なり合うようにして立っています。世田谷区鶴巻のある知人のところに逃げていく手筈になっておりましたが、主人の最後を見届けないで逃げて何になりましょう、そう思ったのです。私は勇気を出して家に近づきました。そして、隣家の鈴木さんを台所からそっと訪ね、

 「奥さん、ちょっと庭先をお借りします」

 そう声をかけました。そして今思うと夢中で、そこにあったつばの広い帽子をかぶり、鎌を拝借し草取りおばあさんよろしく、そろそろと家の前に寄って行ったのです。私は一途な気持ちでした。主人はいま何をしているのだろう…。

 やがてジープがきました。二台のジープからはバラバラとMPが降り、家を取り囲みました。私は自分の身体がわなわなと震えているのを感じましたが、こわいからというのではなく、ただじっと一つのことを思いつめているからだと自分にいってきかせました。そして、帽子のひさしごしに、主人のいる応接間のほうをじっと見つめていたのです。植え込みが邪魔でよくはみえませんでしたのに、私にはなぜか情景が手にとるように見えました。

 あそこの出っ張りに置かれた乱れ籠の中に、自決用の道具があった。ピストル、刀、それがハッキリ見えました。一分が形容でなしに、一時間にも二時間にも思えてくるのでした。

 やがてパンというピストルの音がして、とたんにMPが玄関に走りより、戸をけやぶって中に走り込んでいくのが見えました。それはピストルの音よりもけたたましい、大変な音で、私は、「ああ、生きている間中忙しく自分の身を忘れて仕事をしておられたのに、最後になっても静かに死ぬことが出来ないなんて、あなたという人はなんといううお気の毒な方なのか」そう心の底からMPを憎く思ったのでした。

 私は気の強い女なのでしょうか。気が動転もせず、むしろ冷静なくらいに、意識はしっかりしていました。そして、

 「南無阿弥陀仏、南無網…」とひたすら念仏を唱えておりました。

 暑い畑の上です、今でもはっきり耳にのこっております。庭の大きな松の木では、ツクツク法師が…何も知らぬげに、

鳴いておりました。下の騒ぎに泣きやもうともしませんでした。何だか私のところだけ、真空状態になったような、そんな感じのする一瞬で…。

 もう少し経つと遺骸が出るだろうから、それを見送っていこう、私はそう思っていましたが、鈴木さんの奥さんが近寄ってこられ、「私の家を調べに来ないかしら」と心配されるので、そうだ、主人もよその人に迷惑をかけてはいけないといっていた、それを思い出し、心を残しながらもその場を離れたのです。

 その晩、鶴巻の親戚・長谷川さんの家の一間を借り、主人の写真を飾り、心ばかりのお通夜をしたのですが、翌朝、ラジオで脈拍が云々と放送されているではありませんか、あのときほど驚いて、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからなかったことはありません。そして思いました。誰かが毒でもちょっと手渡してくれたら死ぬことが出来たろうに、思うように死ぬことも出来ないで、主人の身の上をつらくつらく思い遣りました。

 ともあれ、いよいよ、私たちの戦後が始まりました。一晩泊めていただいた長谷川さんにも、これ以上、私がいてご迷惑をかけてはいけないと思案しておりましたら、静岡新聞の社長の大石光之助さんが、「とにかく九州へ発てるようお供して行って上げましょう。東京駅では目立つから品川で乗るように」と色々手を尽くしてくださいましたが、どうしてもその日は汽車に乗れません。

 諦めて出発はのばしましたが、さてもうその日の泊まるところに困ってしまう私でした。苦労など覚悟の上でしたが、第一歩にしてこんな状態ではと、途方にくれておりますと、大石さんはぐるぐる方々を廻ってくれ、主婦の友社の石川社長のお宅へ頼んでくださいました。それまで見知らぬといっていい私を迎えてくれ、しかも、他の人とあまり口をきかないでもよいようにと、はからって下さる奥様のご親切、私は床に入って声をあげて泣いてしまったのでした。

 翌日は小さな水筒にお茶を入れてくださり、この水筒を持って、大石さんとご一緒に石川さん宅を辞し、さやさんと二人、どうにか九州へいくことが出来たのです。

 私は小さなと書きました、それは本当に小さな水筒なのです。しかし、その中に汲んでつきない、あふれるような人の情けを私は感じたのです。勇気付けられました。私たちだって生きられるのだ、そう水筒は語ってくれるのでした。今でもその水筒を大事に我が家ではしまってあるのです。

 こうして九州に着いたものの、私は実家にすぐ行くわけにはゆきませんでした新聞記者がうるさく張り込んでいて、それでなくとも人目を忍ぶ身、仕方なく遠賀川流域の大隈在の親戚に身をひそめていました。

 十月になっていろいろ噂も消えたころ、ひどい山越えをしてやっと家に辿りつきました。実家のある村では、とても親切にしてもらいましたが、そこから二里もはなれると、もう冷たい眼が…。それは仕方のないことなのです。私たちがこうやって生きていられる、それだけでもありがたく思わなければ、本当にそう思っていました。

 手紙も全国のいろいろな方からいただきました。慰めのお便りと、憎悪にみちた手紙と―今日はどっちが多いかしら、ふと、そんな風に心を許すときもありました。

 「お前達は皆死んでしまえ、子供の数だけお棺を送ってやるから、その中に入って死んでしまえ」などというお手紙もありました。こういった手紙の束の表には、「憎しみや呪いごとさえありがたきわが師なりけりかえりみすれば」と書いた手紙をおき、慰めの手紙と別にして置いたものでした。

 励ましや慰めをいただいた方々に御礼の返事を出したいと思いましたが、私から手紙がいくと迷惑なさるかもしれない、とただ感謝の気持ちのみで、下手な歌をそえたお礼状をお出ししたように記憶しています。

 実家も弟の代になっておりますと、弟の都合もあり、やはり安住の地ではありません。それでこれは東京へ帰ったほうがいいなと思うようになりました。娘の満喜枝婚家古賀の方に行っており、下の娘二人は伊藤という籍にとりあえず入れて、伊藤幸枝、伊藤君枝と名のって、福岡の女学校にいっていました。肩身のせまい思い、それは仕方のないことなのでしょう。

 主人の差し入れも気になりましたので、まず長女が上京し、21年10月に私たちも上京しました。

 そして、「嵯峨野」のおかみさんが。「遠慮せずに私のところに来て下さい」と言って下さったので、ご厄介になりながら、主人と面会出来るのを待ちました。やがて面会を許され、私は主人と会いました。よう、というような気軽な調子でした。いつもの口調で、「きさま変わりないか」そういわれただけでもう胸一杯で…主人にとっては、やはり子供のことが大変気になるらしく、その後二度に渡って手渡された遺書もほとんど子供のことでした。特に次女満喜枝は素直に親の言うことを聞いて嫁にいき、夫にああして死なれてしまったのがいじらしいらしく、

 「満喜枝はいかにして暮らしていくであろうか、後に残ったものが子供を幸福にするのが一番だから・再婚などはとんでもないという考えにこだわることはいらぬ。古賀の母上の御同意あらば再婚もよし」

 と、遺言状の中に書き、そのほか力を合わせてやっていけば暮らしていけないこともないだろうと、細々指示いたしています。

 しかし、東京での生活はやはり大変に苦しいものでした。女の子四人、一人は子持ち、ただ私たちのような立場の者には、生活の苦しさなどなんでもない、というより救いでした。生きることに夢中になっていると、たしかに何かを忘れてしまうことができるのです。何かを忘れたかった、それが私たちの心からの願いでしたから。


 裁判の途中の昭和23年3月、私が20年秋東京を逃れます時に、いろいろお世話になった大石さんが、突然訪ねて見えました。そしていきなり私の前に一万円札を包んで差し出すと、こういうのです。

 「奥さん、閣下が一切の責任を引き受け、あんな立場に立って下さったのに、奥さんにあまり不自由をかけては、国民としてしのびない事です。毎月、私がこのくらいお手伝いしますから、そのつもりでいてください」

 一万円と言えば、今でも私たちには大金ですが、その当時と言えば…それはどういっていいのかわかりません。私は倹約していましたから、娘たち四人を養っても一万円はいらないのです。それほどの大金でした。あまりのことにびっくりして、このご好意を受けてよいものやら判断がつかないのです。

 「私はいままで大切なことはすべて主人の指示を受けて、主人の意思どおりに歩いて来ました、幸いもう一度、面会の機会がありますから、その時、主人の意向をきき、その意思通りにしたいのですが…」

 大石さんは、はいはいとうなずき、その日はお帰りになりました。

 そのころ、長野から引き揚げてきて、隣には次男の輝夫が住んでいました。前から主人は次男を大変頼りにしており、面会のたびに輝夫とおまえを中心に家族が協力してやっていけと言っていましたので、さっそく話をして見ますと、息子は、「僕も何とか手伝いますよ、人の世話になるのはやめましょう」と言うのです。

 それでも主人に面会にいったとき、その事を話してみました。すると、感慨深げに、

 「おれは何もあの方にしてやったわけではない。それなのに、そう言って下さるのか、輝夫の言うのも当然だし、本筋だけれども、第一次大戦後ドイツへ行き、駐在武官をしていたが、そのころのドイツがちょうどいまの日本のような状態だった。貨幣価値が異常に下がり、一マルクが40銭くらいだったのに、一厘にも相当しないほどに下がったのを目の当たりにしている。その悲劇は、お前たちの想像の外だろうが、おれはよく知っている。ここでせっかくのご親切を受けず、もしやりとおせなかったらどうする。生きていれば、お礼はいつでもできる。やはりご親切は受けて、いきぬいた方がいいだろう」

 それは一言一言私をはげますように、力強くいうのでした。そして、人から戴いたお金は自分のものより大切にすること、いつやめられてもよい覚悟でご親切を受けること、そうした指示も受けました。

 こうして私は大石さんのご好意をありがたく受けることにしましたが、一年経ちました頃、輝夫がつくづくと申すのです。「あの時、ああはいったものの、やっぱりいただいておいてよかった。こう物価が上がったのではどうにもこうにも仕様がなかった」

 大石さんの条件は、「一切、人にいわないで欲しい」ということだけでした。八年間停止されていた軍人恩給が支給されるようになった時、私がこの際と思って辞退をいいだしましても、「奥さん、まあいいでしょう。娘さんのご結婚にもいりますよ」と大石さん。

 この大石さんのいいつけを守り、今日まで私は黙ってきましたが、私たち親子が無事今日まで過ごしてこられたのも、今、この家に住まっていられるのもこのようなご好意があったからこそで、それを口を拭って黙っているのは大変つらいことでした。私はこの機会にと思い、無理にお願いし、ようやくお許しがでたので、ここにお名前を記したのです。

 二十三年の暮れ、十二月二十三日、主人は刑に処せられました、私には俳句を残して、

  命二つよく持ちにけりことしの秋は

 ようこそ二人揃ってここまでやって来たということでしょう。

  穂麦はみてながの旅路をふたり連れ

  二世のちぎり彼岸に待たん蓮の花

 あちらの岸で蓮の花にのって待っているということでしょうか。

 私が後に残されますので、たった一人になってさぞ辛かろうという「ただ一羽渡る雁あり胸いたむ」というのもあります。遺言の中でも、死を選んで逝くことは易いが、一人残って後のことをするのはさぞつらいことであろうけれども、自分に代わって子供たちの面倒をみて、それをすましたら来い、と繰り返し書き残しております。私のこのつらさ、主人が察して死の最後の瞬間まで胸を痛めていたのか、と思いますと、辛抱できないことはない、と思い直し、この長かった戦後を過ごしてきたのです。

 それにつけても、あれほど子供たちを可愛がり、行く末を案じた主人が、大石さんのご親切で、何より大きな安心感をもって死ぬことが出来たのは、本当にありがたいことだと思うのです。

 もうなにも書くことがありません。何事も主人に相談するのが私のたてまえでした。こういうものを書いて、主人に叱られるかもしれません。しかし、長女も三女も結婚し、あれほど心配の種だった満喜枝も戦後どうにか再婚して幸福にくらしています。「東條」という重荷だった姓からははなれて、それは幸せな人生をおくれると思います。主人の小言もいくらかは弱まるでしょう。

 末娘の国際結婚の問題にしても、「お父様がいらしたら、どういわれるだろう」と思い、熟慮して承諾しました。東條も生きていましたら、きっと娘の結婚に賛成した事でしょう。

 主人が在任中は、人のご好意も一つ一つ検討しなければならない心の貧しさを味わってきましたが、逆境の中のいろいろなご親切は本当にありがたいものでした。

 終戦から今日まで、ただ主人が申しましたように、向こうからお声をかけて下さる方の情けで生きてきましたが、私の思い出は、ただ感謝の色で彩られているのです。今はただありがたかったと思うばかりなのです。(39.6)

 

 かつ子(東條英機の妻)の晩年、五十三年十月二十日にマレー半島に住んでいるインド人が東條家を訪れた。かつ子に記念すべき行事の報告と東條の仏前に参るためであった。マレー半島に住んでいるインド人達が、インド独立のために尽くした人達の慰霊祭を行い、日本の東條英機もその一人として共に慰霊したというのである。インドの独立は、チャンドラ・ボーズがつくったインド義勇軍の活躍が発端となっているが、その運動に日本が協力した事に対し、インド人はいまも感謝し続けているのだ。

 

 ・・・東條は処刑される前、刑務所内の、墨でいたるところを消した不自由な新聞を読み、アジアの国々が次々と独立していく様を察することが出来、とても喜んでいたという。それを知っているかつ子は、インド人達が東條の慰霊祭をしてくれたという報告を聞いて、涙を流して喜んだ。四十年もたって東條もやっと報われたと思ったのであろう。東条英機の妻・勝子の生涯・佐藤早苗(著)

 

「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」
 東條英機は戦後の捏造を自殺理由にし、「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」を残し、敗戦の悪を一身に背負い、日本国の臣として刑場の露となった。

「沈黙」

 アメリカの自殺未遂の捏造。仔細不明なので、とりあえず今は語らず沈黙。

「弁解せず」

 貶めて日米両国の不満のガス抜き、生け贄とする、アメリカの意図は読めた、自殺未遂の捏造を暴いて弁解しても、往生際が悪いと見られるだけ、言い訳無用、日本国の臣として敗戦の悪を一身に背負うことを、決断。

「一切語るなかれ」

 戦勝国捏造の時代に身内親族がいくら語っても、信ずるものなど誰もいない、むしろ憎しみが増すだけだ、無言が一番と遺言。

 

 東條勝子(東條英機の妻)は、昭和57(1982)年5月29日20時5分、激動の生涯を静かに閉じた。91歳であった。「『お世話になったわね、ありがとう』とこの世で最後の言葉を残した5分後に黄泉の国に旅立った。安らかな美しい顔が祖母の悔いの無い人生を物語っているようだった」と、東條由布子の東條由布子の「凛として愛する国に」に末期の言葉が記載されている。

 遺言破りの出版に関して、叔父東條輝雄の言葉「戦争の犠牲者が大勢生きておられる。この方たちが存命の間は、東條家としては沈黙を守りたかった」東條由布子談01年9月文藝春秋初出「検証靖国問題とは何か」PHP2002

東條家だけが分祀に反対と一方的に報道されたいきさつ

昭和60(1985)年8月15日中曽根首相参拝「内閣総理大臣たる中曽根康弘が参拝した」と言明し、公式参拝の声明。

 ところが「A級戦犯も祭る靖国神社への首相参拝はわが国人民の感情を傷つけた」として中
が激しく抗議してきた。これに屈して、中曽根首相は春秋の例大祭も八月十五日も取り止めてしまった。

 中曽根首相が中国首脳の名をあげて「盟友支援のために参拝を中止した」という意味の演説。これが起因で以後犯日拡大。脅しの外交カードと成り、中韓に脅され莫大な援助となる。

 ここで「盟友支援・・・」などと阿諛追従せず、
植民地独立付与宣言」を掲げ、楔を打てば、以後の中韓のゆすりたかり、陛下の参拝中止、犯日団の増長などなかった。

 亡国奴中曽根は、板垣征四郎の遺族正参院議員に分祀署名書を持たせ、回らせた。

 東條英機次男輝雄は「(靖国神社からではなく)他国の干渉に屈する形で分祀を認めることは出来無い」と正論で反対、他の6人は同意したが、靖国神社の強硬な反対もあり成立はしなかった(以後は全遺族反対)。

 輝雄親族への手紙「東條の次男としての肉親の情から分祀に反対したのではなく、(靖国神社からではなく)他国の干渉に屈する形で分祀を認めることは出来無い」。

 輝雄(93歳)は05年7月29日号週刊朝日にも「合祀されるという情報を、私はどこからも受けないうちに合祀されたわけです。聞いた瞬間、非常にありがたいことだと思いました。もし分祀すると靖国神社が決められたとしたら、私としては非常に残念だけれども、遺族は『それはいけない』という立場にはないと考えています」と正論を述べている。

 増すごみは東條家だけ反対と非難したが、議論の余地など皆無の、至論!己の思想皆無、私利私欲で欲に迎合、現在も懲りずに犯日扇動の風見鶏中曽根は、国賊である。

 平成17(2005)年3月3日異常でしつこい中曽根の分祀発言に、靖国神社見解を発表。「たとえ遺族から分祀要請があっても、分祀せず」。当然である。

 不可避の戦いを戦った東條大将の「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」はいつまでか。日本国民が目覚め、日本国民が矛盾を検証し、真実を引き出すまでだ。それまで東條家の真実は封印される。

 私は、東條家とはなんのゆかりもありませんし、右でも左でもありません。子孫のため、実事求是に従い真実史観で検証しただけで、他意無しと、いうことを、一言、添えておきます。 真実史観 17につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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