QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2014 02123456789101112131415161718192021222324252627282930312014 04

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観ニセ両班9割の韓国と酷似「オランダ領東インドの聾」のオランダ人

ニセ両班9割の韓国と酷似「オランダ領東インドの」のオランダ人

2014.11.27 05:10 産経ニュース抜粋は真実史観の感想
米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに
 米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。
 「米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた(文末リンク)。米側で提起されることはほとんどなかったが、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により、慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された。※米国聖戦論者が公開妨害か?
 調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪にかかわる文書だった。極端に少ない日本の戦争犯罪!
 報告の序文でIWG委員長代行スティーブン・ガーフィンケル氏は、慰安婦問題で戦争犯罪の裏づけがなかったことを「失望」と表明。調査を促した在米中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」の名をあげ「こうした結果になったことは残念だ」と記した。※米国聖戦論者の本音!
 報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった。 慰安婦問題について(1)戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった売春制の延長だとみていた。※当時の常識!

 ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは『20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。

【ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)】 クリントン政権時代に成立した「1998年ナチス戦争犯罪開示法」と「2000年日本帝国政府開示法」に基づき、第2次大戦での日独両国の戦争犯罪の情報開示を徹底させる目的で00年に始まった調査。国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検し戦争犯罪に関する資料の公開を指示した。

 ケント・ギルバート氏マイケル・ヨン氏の記事を和訳
 
日韓問題:第二次世界大戦中、韓国男性が臆病者だったとでも言うつもりか?

 マイケル・ヨン氏「今までほとんど誰も存在すら知らなかったIWGの報告書を読んで欲しい。もし全部を読む時間が無いようなら、報告書の中で慰安婦(Comfort Women)を検索して、その部分だけでも注意深く読んで欲しい」
かっての敵国アメリカが8年30億円かけて日本先人の潔白を証明した「最終!」検証報告書
Nazi War Crimes & Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group
Final Report to the United States Congress April 2007
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf

日本軍公娼(BC級や1994年裁判)告訴人では無い自称日本軍公娼慰安婦騙り屋ジャン・ラフ・オハーン!私娼か?
 Jan Ruff-O’Herne(1923年~)はオーストラリアの元慰安婦ではない。オーストラリアに移住したオランダの慰安婦証言者でオランダ人。
 詳細は下記
朝鮮族“洋公主”騙
オランダ物乞い無


1923年ジャンは、父(オランダ帰化のフランス人が父、オランダ人とインドネシア人の混血が母)と、オランダ人の母(オランダで技師勉強中の父と、母は出会い、結婚)の3番目の子(兄エドワール略してワルドは、後にオランダ陸軍の将官。姉アリーヌ)として、当時の゙オランダ領東インド゙(現インドネシア、ジャワ島)に生まれた。8年後に妹のジョゼフィーヌ、最後に末子の妹セレストが生まれた。

 父は製糖農園(チュピーリン製糖プランテーション)の従業員、母は製糖農園社交場の図書室や売店の管理人。家族のほかに5人のインドネシア人の同居人(召使)、料理人(イマ)、メイド(スミは寡婦)、ハウスボーイ(イマの息子のチャ)、シボレーの運転手(アーマド)、庭師(サルディ)。ジャンらは製糖農園に住んで、そこからスクールバスで一時間、大都市スマランの、カトリック修道院フランシスコ会経営の学校に通った。

2009/02/23
ピーター·トンプソンとの対話より

 私はトム(夫)と、14年間イギリスに住んでいました(37歳まで)。 ――私たちはバーミンガムの郊外に住み、とても幸せでした。 

 その後、私たちは新聞のこれらの広告を見ました。 それで、私たちは、現在、10ポンドのPOM(ヨーロッパからの白人移民)と言うことになりました。これは1960年(37歳)だった、私たちはオーストラリアに来て後悔したことがありません。

 

1975年52歳)に、私たちの人生は、ちょうど逆さまになってしまった。トムは交通信号で道を渡っていて、はねられました。私が病院に着いたとき、彼は昏睡状態で、そこに横たわっていました。至る所に行っているチューブは、彼が高度の脳障害であると私に語った。――

※オーストラリア移民15年で、夫は高度の脳障害となり、子供は女二人の女三人で、寝たきりの病人をかかえての身寄り無き移民の地での生活は、悲惨を極めたであろう事は、常識として推察出来る。

 トムは、彼が事故にあってから20年後の、1995年(ジャン72歳の時)に死亡しました。

 私が1992年に意見を述べるまで、トムは私の秘密を知っていたただ一人の人でした。

※夫に話すものだろうか?

 

1992年12月9日東京での日本の戦後保障に関する国際公聴会(日弁連後援)」で、強制連行で慰安婦にされたとの証言が初出。

 

 スマラン(白馬)事件は詳細のように、強制連行は一部軍人の暴走で、軍不関与(発覚後直ちに閉鎖)の証と成った。詳細は⇒慰安婦決議撤廃と

 ジャン証言は、条約破り(二度の条約締結済み)法破り(日本軍処罰と戦犯として断罪済み)と化けの皮が剥がれた現在では、無理押しゴリ押しおねだり催促騙り屋ジャン、となった。

 意図有り(隠すプロパガンダ)報道で韓国は、白人オーストラリアを強調している。

 

2014年03月13日 日本新華夏株式会社 中国の業種別レポート 経済情報配信

オーストラリアの元慰安婦、日本政府をバッシング、言論が醜いと指摘

 オーストラリア・フェアファックスの傘下にある「シドニー・モーニング・ヘラルド」や「ジ・エイジ」などの新聞は25日に元慰安婦、Jan Ruff-O’Herneさんに対するインタビューを掲載した。今年91歳のJan Ruff-O’Herneさんは日本政府がこのほど、慰安婦の強制連行を否認した言論に不満を示し、それは醜いと指摘した。北京日報が伝えた。

 

 Jan Ruff-O’Herneさんによると、慰安婦の強制連行を認めないのは醜い行為である。なぜなら、それを経験した人が多いからだ。日本首脳は日本が歴史的に戦争の罪を犯したことを自覚しなければならない。

 

 第2次世界大戦の期間中、若いJan Ruff-O’Herneさんとオランダ人の両親は日本軍にインドネシア・ジャバに拘束され、日本軍のレイプや殴打を受け、その後、慰安婦として強制連行された。Jan Ruff-O’Herneさんは1960年代にオーストラリアに移民したが、心に屈辱の歴史を50年間隠し、家族にもそれを隠した。慰安婦として強制連行された韓国人女性が日本政府に謝罪を公的に求めた1990年代の初期になって初めて、彼女はそれを応援するため、この秘密を明かした。

 

 Jan Ruff-O’Herneさんによると、韓国人女性の行動はまだ、注目を受けるわけではない。なぜなら、彼らはアジア人であるからだ。ヨーロッパ人女性が同じ遭遇を口にすると、西側世界はそれに注目し始める。(翻訳 李継東)

 

2014/03/14 

「私は絶対死なない、安倍首相が謝罪する日までは」

豪の慰安婦像設置に立ち上がったオハーンさん

白人元慰安婦唯一の生存者

日本政府の恥知らずな行動に憤慨、韓国系主導のシドニー慰安婦像モデル

「助けてくれ」哀願も軍医まで強姦、「私たちは慰安婦でない、性奴隷だった」

 

 元慰安婦が存在するのは韓国や中国などの東アジアだけではない。11日、オーストラリア南部のアデレードで会ったジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O’Herne)さん(91)も日本の蛮行の犠牲になった。オランダ系オーストラリア人のオハーンさんは慰安婦だったと正式に名乗り出た唯一の白人元慰安婦生存者だ。

 

 オハーンさんは90歳を過ぎて気力がかなり衰えている。片目は失明状態だ。しかし同日、慰安婦像の設置を主導する「在オーストラリア韓人会」の人々に自ら恐怖の体験を打ち明けた時だけははっきりした口調だった。

 

 オランダ領東インド(現インドネシア)に暮らしていたオハーンさんの子どものころの夢は修道女になることだった。オハーンさんが修道女会で生活していた1942年、日本がインドネシアを侵略し、全てのオランダ人を収容所に収容した。「44年の初めだった。17歳以上の若い女性たちは引っ張り出され、整列させられた。すると、上から下までじろじろ見られた」。オランダ人女性約250人がトラックに乗せられ、連行されたのは日本軍の慰安所だった。

 

 慰安所に着くと、オハーンさんは日本軍将校に日本刀で脅されながら無残にも強姦(ごうかん)された。毎日昼も夜もおぞましい行為が繰り返された。性病検査をしに来た日本人医師に「私たちは強制的に連行されてきた。上部に知らせてほしい」と哀願したが、その医師にも強姦された。

 

 そう言うと、オハーンさんはしばらく言葉を詰まらせた。そして「慰安婦(comfort woman)という表現は日本の強制性を和らげる表現だ。私たちは日本軍の性奴隷(sexual slave)だった」と言った。

 

 日本軍は女性たちを収容所に送り、慰安所で経験したことを口外したら死ぬだろうと脅迫した。戦後はイギリス人兵士と結婚、60年にオーストラリアに移住した。恥ずかしさのあまり、当時の記憶を完全に封印していた。

 

 だが、50年余りがたった92年、オハーンさんはオーストラリアの放送局のニュースで韓国人元慰安婦たちの叫びを聞いた。「何も答えない日本大使館の前で堂々と謝罪を要求する韓国人元慰安婦たちを見て勇気をもらった。同じ歴史が繰り返されないよう立ち上がらなければならないと決心した」

 

 白人慰安婦が存在したという事実は、西欧社会に大きな衝撃を与えた。この証言を基に94年、映画『50年の沈黙』が制作された。オハーンさんは2007年、米下院の慰安婦公聴会で証言した。

 

 オハーンさんは謝罪どころか慰安婦の存在さえ否定する最近の日本政府の態度を見て、慰安婦像設置に協力することを決心した。オーストラリア在住の韓国系・中国系団体が先月、慰安婦像の設置を決めた。慰安婦像が設置された米国の小都市グレンデールとは違い、シドニーは人口500万人というオーストラリア第1の都市だ。シドニー・ストラスフィールド市のオク・サンドゥ副市長は「日本の度重なる歴史歪曲(わいきょく)に対抗し、オーストラリアの与党・自由党女性委員会も慰安婦像設置を支援する意向を明らかにした」と語った。シドニーの慰安婦像は韓国人、中国人、そして白人の少女が手を取り合う形で設置される予定だ。白人の少女のモデルはオハーンさん。ソン・ソクチュン在オーストラリア韓人会会長は「慰安婦が韓日問題ではなく、女性に対する反人倫的な戦争犯罪であることを世界に知らしめる像になるだろう。日本がどのような妨害をしてきても必ず設置する」と語った。

 オハーンさんは次々と天に召されていく韓国人元慰安婦たちに哀悼の意を表した。「日本は、その蛮行を証言する私たちがみんな死ぬのを待っているのだろう。反省しない日本政府は絶対に許せない。私は決して死なない。安倍首相から謝罪を受ける日までは」

 

アデレード(オーストラリア)=キム・チュンリョン特派員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

※「存在さえ否定」は捏造。唯一のスマラン事件は、最高刑が死刑で、断罪されている。断罪済みを隠蔽する目的で、スマラン事件以外の事件であるかのように装っている。意図有りは捏造の証拠である。捏造碑として歴史に残るであろう

 

日本軍公娼(BC級や1994年裁判)告訴人では無い自称日本軍公娼慰安婦騙り屋ジャン・ラフ・オハーンと韓国の懲りない嘘の上塗り
2014/07/27 ソース:ハンギョレ新聞(韓国語) google翻訳補筆
「慰安婦で感じた痛みを忘れることができない、法王がよく察してくれると信じている」 

オーストラリア人の慰安婦被害オーヘレンおばあちゃん

健康のせいで韓国に来ることが出来ない

メッセージ伝えて

「安倍は犯罪者...真の謝罪を」

 「全世界が周知の厳然とした歴史的事実を、あえてどのように否定することができるのでしょう。(日本政府の行動を)到底信じることができません。日本の安倍晋三首相は犯罪者であり、真の謝罪と賠償を要求します」。

 オーストラリア人の慰安婦被害者ヤン·ループオーヘレン(91·写真)おばあちゃんは、26日(現地時間)アデレード自宅で、韓国への招待のために訪問したキムポンヒョン州オーストラリアの韓国大使一行に、慰安婦強制動員の事実を否定する安倍政権の行動への強い怒りを、表わにした。

 彼女は、来月韓国を訪問するフランシスコ教皇に伝えてくれと言って、「日本軍が私にした行為は許したが、決して忘れることはないだろう」との内容の、直筆のメッセージを金大使に伝達した。フランシスコ教皇と慰安婦被害者おばあさんたちの議論を推進しながら、彼女のソウル訪問を提案した韓国政府の招待に応じない代わりに、自分の意思を文書に託したのである。
 
 

 カトリック信者である彼女は、「私も法王を見てみたいが、健康があまり良くなく、長距離の旅行が難しい。10時間以上飛行機に乗ると完全にくたくたしてしまう。年齢が九十を超え、左足もあまり良くない。医師の助言もあって.... 残念ながら、韓国に行くのは難しいようだ」と話した。
 

 彼女が教皇に伝えたいメッセージは何か。
 

 「日本の野蛮な行為に耐えなければならなかった慰安婦の女性たちの多大な苦痛を、法王が、詳しく推量してくださることを信じる。イエスがそうだったように私も彼ら(日本)を許すことができましたし、許しだけが唯一の癒しの道だった。しかし、決して忘れることはないだろう」。そして彼女は、「慰安婦として連行され、最初にされた時の痛みを今も感じることができる」との証言を続けた。

 

 「その世代がすべてそうだったが、慰安婦として連行された多くの女性も性についてはほとんど無知な状態だった。性奴隷生活中に、その都度何度も抵抗したが、彼らは衣服を裂き、足で踏みつけながら私を劫奪(こうだつ・おびやかして無理に奪う)した。後で振り返ってみると、彼らはむしろそのようなことを楽しんでいたようだ。一度性病検査をしに来た日本人医師に上層部へ伝えてくれと哀願したが、その医師にもレイプされた。その後医師を嫌いになった。また、日本軍が慰安婦の女性に花の名前を付けて呼んだので、しばらく花のギフトを受け取ることを恐れたりした。今は大丈夫だが... "

 オーヘレンおばあちゃんは、河野談話を修正しようとの日本に対し、「安倍首相は犯罪者だ。真の謝罪と賠償をしなければならない。日本が歴史を隠蔽しようとしているので、私は声を出すだろう。将来的には、このような悲劇が繰り返されないようにするには、日本の歴史教科書にも慰安婦関連の事実が記載されなければならない。私達の子供と孫にもそのような歴史を学ばなければならない」と指摘した。 聯合ニュース

オランダ帰化人を隠蔽し、名前もヤン·ループオーヘレンと改竄し、オーストラリア人の慰安婦被害オーヘレンおばあちゃん強調は、オーストラリアをも「慰安婦捏造」に巻き込もうとする朝鮮人の狡猾な意図、丸見えである!

 「日本」の事件を「日本」に摩り替え、「国策」と捏造し、「真実究明の安倍首相を犯罪者」とののしっている。スマラン事件ではない様に装っているが、日本軍と戦勝国とで二度も裁かれた断罪済み事件である。この自称慰安婦は、BC級や1994年裁判の告訴人では無い!

 フランシスコ教皇との対面を韓国は画策したが、ジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O’Herne)=ヤン·ループオーヘレン表向きは健康を理由に断った。法王と対面しての「嘘の上塗り」は、さすがに、「はばかり」を覚えたのであろう!法王と対面すれば、「汝嘘をつく事なかれ汝の敵を愛せよ!」となるは明白で、子供でも推察できる! 

人類史上皆無の!「嘘つき民族」朝鮮人!おぞましき人面獣心賊!

フランシスコ法王を政治利用(冒涜)する韓国と「日本軍公娼」自称の朝鮮人!

2014年08月07日 ソース:東亜日報(韓国語) google翻訳補筆

慰安婦イ・ヨンスさん"法王が日本に謝罪要求したら"

 

 「教皇が直接慰安婦の問題を言及する場合、大きな影響を与えることができるのに...」

 来る18日、ソウル明洞(ミョンドン)聖堂でフランシスコ法王が家に伝える「平和と和解のためのミサ」に、日本軍慰安婦被害者のイ·ヨンス(86)おばあちゃんが参加する。このおばあちゃんは、大邱地域の慰安婦被害者5人のうち唯一のカトリック信者だ。

 7日午前、大邱、日本軍慰安婦歴史館建立現場で会ったおばあちゃんは、「全く考えもしなかったが、女性部を介して招待された」とし、「カトリック信者として教皇に会うことができることに、とても感謝している」と言った。

 続いて、「教皇の慰安婦問題に対する日本の謝罪を要求する場合、大きな影響を与える可能性がある」とし、「全世界の人たちが慰安婦問題について知ることだけでも、大きな成果だと思う」と強調した。

 また「教皇に会えばどんな言葉を持ち出すか悩み"としながら"個人的な意見を提供することよりも、京畿道広州の「ナヌムの家」の他の慰安婦被害者おばあさん ​​たちと一緒に相談して決定する計画だ」と付け加えた。

 1928年大邱で生まれたイ·ヨンスさんは、17歳で台湾の慰安所に連行され、性奴隷生活を強要され、解放後、帰国した。

 25年前、大邱シンアム大聖堂で洗礼を受け。現在は浦項竹島大聖堂に籍を置いている。

 このおばあちゃんは、毎週水曜日にソウルの日本大使館前で開かれる水曜集会に参加し、外交通商部の前で対日交渉を促す1人デモをするなど、国内外に慰安婦問題を知らせるために、旺盛な活動をしている。

 このおばあちゃんは、「生きているときに、日本が謝罪する姿を見たい」と「罪憎くても人は憎まない。対話を通じて問題が解決した場合、不仲の理由が、なくなりはしないか」と話した。市民団体主導で建設されている大日本軍慰安婦歴史館には、「若い世代が過去を忘れずに参加してくれる嬉しい」とし、「慰安婦の記録と証拠を収集していくために大きな力になるだろう」と明らかにした。

 

 一方、来る13日と14日の二日間、従軍慰安婦お婆さんと市民の会の主催で、「世界の日本軍慰安婦キリム日共同行動」のイベントが、大邱東城路野外ステージで用意されている。またキリム日当日の14日には、東城路一帯で同じ団体の主催で、日本軍慰安婦問題解決のための「第5回平和と人権のための大邱市民ウォーキング大会」が開かれる。【大邱=ニューシス】

 

※「1928年大邱で生まれ、17歳(1945年で台湾の慰安所に連行」は、終戦(1945年8月15日)の年に連行である。

 1945年3月硫黄島戦敗北、同年6月沖縄戦(1945年4月~6月23日)敗北。マッカーサー証言(1951年5月3日)「・・・米海軍がフィリピンと沖縄を奪う頃には、海上封鎖も可能となった。そのために、日本陸軍を維持する供給は、次第に届かなくなった。封鎖したとたん、日本の敗北は決定的となった」

 制空権制海権を失った終戦の年に、沖縄を越えて台湾の慰安所に、「慰安婦を連行する危険」を冒す理由など、当時の日本軍にあっただろうか?常識の範疇であろう!「息するごとくに嘘を吐く」のが、朝鮮人

 朝鮮人の証拠なき証言は、すべてが、偽証である!

 

台湾私娼売春婦の便乗成済まし日本軍公娼騙り騙らせ屋団体

凶産の犬馬英九外省人(支那大陸出自)の謀略。日台(台湾出自内省人)離間作戦。

 

2013/07/07 フォーカス台湾 92歳の台湾女性、日本で講演「慰安婦の歴史忘れないでほしい」

 (東京 7日 中央社)今年92歳になる台湾人元「従軍慰安婦」の鄭陳桃さんは日本の人々に過去の歴史を忘れないでほしい、戦時中の慰安婦の存在を二度と否定しないでほしいとはるばる日本に赴き人々に訴えかけた。

  今月6日から東京都新宿区の「戦争と平和女性博物館」で台湾慰安婦についての特別展が日本の団体と台湾のNPO、婦女救援基金会によって共催されるが、鄭陳さんはその高齢にもかかわらず、歴史の生き証人として名乗りを挙げ、同日午後都内で行われたオープニング・シンポジウムに出席、自身の悲しい過去について涙ながらに語った。

 

  この特別展は「台湾人『慰安婦』の証言日本人にされた阿媽たち」と題されるもの。「阿媽」、台湾語の「阿[女へんに麼]」(アマー)は「おばあちゃん」の意。シンポジウムの会場には大学生など若者を含む日本人が100人以上集まり、まず先日亡くなった台湾人元慰安婦の冥福を祈って1分間の黙祷が行われた。

 

  鄭陳さんは壇上に立つと日本語で自己紹介、当時、高校への通学途中、突然警察官にジープに乗るよう強要され、その後海外に連れて行かれたと語り始めたが、何度ものどをつまらせ泣き出し、話を続けることができなくなってしまった

 

 19歳でインドの「慰安所」に送られた鄭陳さんはその後生きた心地のしない悲しい5年間を送る。自殺をはかり流産し、終戦後ようやく台湾に戻った時にはすでに妊娠できる体ではなかった。一生消えることのない心と体の傷を抱えながら鄭陳さんは、当時の被害者が今まだここにいる、歴史の否定や抹消は許されないのだということを日本の当局に知らせたいと今回の日本行きを自ら希望したという。

 

  この20年来おばあさんたちに寄り添ってきた婦女基金会幹部の康淑華さんはシンポジウムの席上、アマーが自分について語るのは大変勇気の要ることで、日本側が不当な言論でアマーたちを苦しめ傷つけ、歴史の教科書では戦時中の慰安婦制度についての記述をなくして日本の若い世代に事実を知らせず過去の記憶を消そうとしていると指摘、人々の無関心に憂慮を示した。

  同基金会ではアマーたちのドキュメンタリーを今年9月に公開することにしている。

 

【 写真 】 自身の悲しい歴史を語り、日本は過去に向き合ってほしいと訴える元従軍慰安婦の鄭陳桃さん

 

(楊明珠、陳至中/編集:谷口一康)

 

※ジープは、戦後の米軍の車なので、戦後の話。19歳でインドの『慰安所』に送られた鄭陳さんはその後生きた心地のしない悲しい5年間を送る」とあるが、1945年終戦。1940年「19歳でインド」となるが、開戦は1941年12月8日。日本軍インド進出は以後なので、無関係。インドの売春宿に売られた、が、真相であろう。

 「何度ものどをつまらせ泣き出し、話を続けることができなくなってしまった」は、日本軍と嘘を付くことが、つらかったのであろう。

 

洋公主私娼の証言を「日本軍公娼」に捏造する同族被害者報道

 2014年86歳なら、1942年は14歳で18歳ではない!「日本軍公娼」募集は、17~18歳以上。年齢詐称なら自発である。

 あいも変わらず、いい加減な記事である。

 

 2014/03/25 ブルームバーグ

右足に残る癒せぬ傷、「安倍首相に見せたい」-元従軍慰安婦

 

 3月25日(ブルームバーグ):戦時中に日本の従軍慰安婦をさせられたイ・オクソンさん(86)は、ズボンの裾をめくり上げて傷跡を見せた。日本の安倍晋三首相は韓国へ来てこの傷を見るべきだと、イさんは話す。

 「彼らが私にしたことを今でもはっきりと覚えている」とイさんは言う。日本軍の慰安所から脱走に失敗し、憲兵に右足を切りつけられた時の傷跡だ。

 ソウル近郊の保護施設ではイさんを含む数人の元慰安婦が暮らしている。1942年、18歳だったイさんは南東部の蔚山(ウルサン)で拉致されたという。「レイプに抵抗すれば殴られた。どうすることもできなかった。今自分の傷を見ると、よくあの年月を生き延びられたとあらためて痛感する」と語った。

 国連の調査によれば、イさんと同じ苦しみを味わされた女性はアジアで20万人を超える。従軍慰安婦の問題は日米韓の関係をぎくしゃくさせている最大の要因の一つだ。韓国の朴槿恵大統領はこれまで安倍首相との会談を拒んできたが、安倍首相は今月14日国会で、従軍慰安婦について旧日本軍の関与を認めた1993年の河野洋平官房長官(当時)の「談話」を含め、これまでの政府の姿勢を尊重すると表明。25日にオランダのハーグでオバマ米大統領との3者会談が実現することになった。

 日本政府は慰安婦問題について、65年の日韓国交正常化の際に結んだ請求権協定で解決済みであり、賠償請求は認められないとの立場だ。

国連報告書

 国連人権小委員会のゲイ・マクドゥガル氏は98年の報告書で、32-45年の間に20万人以上の女性が性的行為を強制されたと指摘。関東学院大学の林博史教授によれば、最も多い時期には400もの慰安施設があり韓国、中国、インド、フィリピン、オランダの女性が働かされていた。

 一方、安倍首相の率いる自由民主党の中には戦時中の日本の行為について責任を否定する一派がある。政府は先月、主に元慰安婦の証言を基に作成された河野談話の作成経緯を検証する計画を発表した。

 ソウルの保護施設で暮らすもう1人の元慰安婦、パク・オクソンさん(89)は「何十年も苦しんだ挙句になぜ嘘つき呼ばわりされなければならないのか」と涙を浮かべた。パクさんにも慰安所の管理人らに蹴られてできた傷があるという。「どうしたら信じてくれるのか。どうしろと言うのか」とパクさんは椅子をたたいて抗議した。

原題:Wartime Sex Slaves Ask Abe to See Scars to Prove Japan’sAbuse(抜粋)

記事に関する記者への問い合わせ先:ソウル Sam Kim skim609@bloomberg.net

記事についてのエディターへの問い合わせ先:Rosalind Mathieson rmathieson3@bloomberg.netAndrew Davis

更新日時: 2014/03/25 08:57 JST 

慰安婦非難決議国フィリピン最高裁再却下
2014年8月12日
元慰安婦の訴え再び却下
【マニラ共同】フィリピン最高裁は12日、旧日本軍の従軍慰安婦だった女性らが、日本政府への謝罪要求を支持するようフィリピン政府に求めていた裁判で、原告らの訴えを却下した。
 最高裁は2010年5月の判決で既に訴えを退けていたが、11年に韓国の憲法裁判所が元慰安婦の賠償請求について政府が措置を講じなかったのは違憲と判断したことを受け、原告側が判決見直しを要求していた。原告らの訴えが再び退けられたことで、今回の裁判は幕引きとなった。
 原告側の代理人は「残念だ。フィリピンは戦時に強姦を認めるような国になってしまう」と、最高裁の判断を批判した。


黄禍論者が仕掛けたクマラスワミとマクドゥーガル報告書のソースは韓国捏造犯日資料証拠無き証言!

 マクドゥーガル(有色人)報告書(2000年8月最終報告)はクマラスワミ(有色人)報告書(20万人以上の女性を強制連行は証拠皆無の推論)をベースにし、「レイプセンター(強姦所)」と呼称、慰安婦は11~20歳、生き延びたのは25%(「朝鮮の慰安婦が14万2000人死んでいるは、証拠皆無の朝鮮人発言)等々捏造や妄想をさらに拡大している。報告書はクマラスワミ同様勧告だが、国連決議は「歓迎」で「勧告」ではない。

 主文は当時進行中(2000年)の旧ユーゴスラビアでの戦争とルワンダ虐殺で、主文の附属文書として55年以上昔の(1945年以前)の日本の慰安婦について取り上げているので、国連決議「歓迎」=「日本への勧告」とは成らない。がしかし、錯覚することは間違いない。現に、「日本叩き族」は、国連勧告決議(条約破り断定宣伝している!

 両報告書とも主文「現代」に対しての過去(55年以上前)の「附属文書(主文補足用)」。両者ともに「有色人起用」は、主文に紛れ込ました錯覚目的の洗脳が明白に感じられ、「附属文書(主文補足用)」なのに「主文扱い」は、黄禍論者「日本叩きの作為」を、明明白白に物語っている!

 黄禍論者が仕掛けたこの、「日本叩きが目的」の捏造両報告書が、慰安婦決議や、碑や像の設置や、米国歴史教科書等のソースである。

 中朝韓の犯日捏造洗脳教育(日本統治以前の無残な歴史の韓半島と、日本撤退以後の中朝韓同族大虐殺隠蔽目的)がネットの普及で一気に暴かれ、内乱の恐怖におののき便乗したのが朝鮮族と凶産支那族。

 「慰安婦等の日本叩き」は、白人黄禍論者(太平洋戦争は白人の正義戦争と捏造し、日本叩きで有色人連合阻止)と、朝鮮族と、凶産支那族の、捏造隠蔽が、目的である!

 

朝鮮族両班の賎民白丁等虐待と、オランダ人のジャワ人虐待家畜以下の扱いで酷似する。

 

本土から「オランダ領東インドの聾(つんぼ・耳の聞こえない人)」と称された東インドオランダ人の特異な犯日事情

 一方的なオランダの非難難癖のみが拡散され、丸暗記丸鵜呑み人間が蔓延しているが、日本人は開戦から日本軍進駐まで捕虜となり、進駐後解放されたが、戦後再び捕虜と成り、オランダ領東インドで処刑された。

 相互悲惨が戦争!戦国時代の戦時下はお互い様。条約締結(二度締結)後は白紙、そして出発が、人類の英知。

 「西欧の植民地喪失と日本 ―オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所」ルディ・カウスブルック著(近藤紀子訳 草思社 1998)は、ジャンと同時代同境遇(捕虜)に生きたオランダ人男性の、真実史観の記録である。

  ルディ・カウスブルックやミアーズやタウンゼントや林房雄が無くて、無辜の子供洗脳証拠本加藤陽子の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」は練馬区内に、なんと16冊も有る(何らかの作為が感じられる)が、前記のカウスブルック著作は、貫井図書館に一冊あるのみの希少本となっているので、抜粋し掲載した。

 至急の復刻を望む。

 

ジャワ人はオランダ人に虐待されたが、朝鮮族は同族両班が同族白丁等を虐待虐殺した。

 戦後の韓半島や在日の犯日も、済州虐殺や南北殺し合いの古今未曾有の愚行も、人間殺しの差別抜きでは整合しないが、人間殺し差別を嵌めるとピタリと符合する。在日韓半島日本、皆、人間殺し差別はひた隠しだ。そんなものは歴史ではない、摘み食いの洗脳でしかない。

 人間を獣扱いし、生かすも殺すも思いのままの、凄まじい人身売買獣家畜差別(日本は1100年前に破壊)や差別の教え儒教を、100年前まで続けた李氏朝鮮が、四・三耽羅人虐殺、南北殺し合い、済州人血が汚れると侮蔑、犯日等、すべての悪因である。「朝鮮事情」グレ著平凡社には、日本統治以前の、「ヒトモドキ朝鮮差別」が詳細なので、未読の方は、併読を。

 

差別搾取した宗主国(オランダ)と教育した日本

原題"Het Oostindisch Kampsyndroom(『オランダ領東インド抑留所シンドローム』)"。邦題「西欧の植民地喪失と日本 ―オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所」ルディ・カウスブルック著(近藤紀子訳 草思社 1998)

 ルディ・カウスブルック オランダの著名な評論家、エッセイスト、コラムニスト。1929年(ジャンは1923年生まれ)にオランダ領東インド(現インドネシア)に生まれ、42年(13歳)、オランダ軍の降伏により、スマトラ島の日本軍民間人抑留所に収容される。46年、オランダ本国に引き上げる。

 アムステルダム大学で数学・物理学を専攻。同時に有名な文学運動“50年代派”に参加。パリに移る(50年~90年)。53年、処女短編「南回帰線時代を葬る」を発表。68年、エッセイ集「パリ1968年5月革命について」。75年、全作品によって、オランダの最高の文学賞であるP.C.オーフツ賞を受賞。95年には「蘭領東印抑留所シンドローム」、さらに自伝的エッセイ「再び生国の土を踏んで」はベストセラーに。その他哲学的エッセイなど多数の作品がある。

 原著の"Het Oostindisch Kampsyndroom"(『オランダ領東インド抑留所シンドローム』)は570ページにわたる自伝的エッセイである。この訳書は、そのうちの「日本人読者向きに選び出した一四節」を訳したものである(うち1節は別の著書『再び生国の土を踏んで』からとったとのこと)。この本が(たぶん)1995年に書かれているということからもわかるように、オランダではいまでもこの「東インド」という話題が微妙な位置にあるらしい。

 

訳者近藤紀子(1941年山梨県生まれ東京外語大インドネシア語科卒)

あとがき

 ――スマトラ島で育った著者が、自己の体験と既存の出版物をもとに、戦前(植民地支配時代)、戦時(日本軍占領時)、戦後(本国引揚げ後)の“東インドのオランダ人”に言及する570頁にわたる大部の自伝的エッセイである。

 ――本書では、過酷な食民治統治政策をもって原住民を搾取した、母国の恥ずべき過去を憂えるとともに、それに謝罪しようともしないオランダ政府の態度に怒りをぶつけ、そしてまた、戦後50年を経たいまもなお、憎悪に満ちた対日感情を抱いている“東インドのオランダ人”を批判するというかたちで、数々のオランダ事情があつかわれている。

 ――スマトラ島東岸のシアンタルに農園事業主の一人息子として生まれ、5歳から12歳まで(日本軍の東インド侵攻まで)、ヨーロッパ人子弟のための寄宿学校で過ごす。オランダ領東インドが二本軍の手に落ちて(1942年)、日本軍抑留所に入れられ、抑留所生活を経験する。解放後、オランダ本国に引揚げ、戦後長いことパリに住んで、日本語を選考したりもした。現在はオランダ在住。

 ――子供のとき、現地人と接触があったのは休暇のときだけだった、と語っていることから、植民地政策下の悲惨な現地人の生活を知ることもなく、おごれる白人社会の中で育った著者は、後年、その失ってきたものの重要性を認識し、自分たちのオランダ領東インドの過去とは実際にはどんな様相を呈していたのだろうか、と真相を探るたびに出たのだろうと思われる。

1998年7月 オランダ・ライデン市にて 近藤紀子 2につづく⇒

スポンサーサイト

真実史観「西欧の植民地喪失と日本―オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所」


2「西欧の植民地喪失と日本―オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所

著者ルディ・カウスブルック

序文――憂いと哀れみ

 ――以下の序文は日本人読者向けに特別に起草したものである。

 ――本書では、オランダ人の体験(彼らの体験記は戦後何百冊と出版されている)だけでなく、インドネシア人および日本人の体験も扱っている。

 ――多くのオランダ人は――事実よりずっとひどい日本人像を信じている。

 本書におさめらたエッセイは、オランダ人が、遺恨の成すがままに事実をまげて作り上げた、この種の日本人像にもとづく神話的過去にいつまでもしがみついていないで、ほんとうのところはこうだったという過去の実態を直視し、それと和解することを意図して――というよりも、私の願いとして――書かれたものである。

 したがって、本書はオランダ人読者、いや、もっと正確に言うならば、とくに“東インドのオランダ人”と呼ばれている、オランダ領東インドから本国に引き上げてきたオランダ人を対象として書かれたものであることを、日本の読者は承知していただきたい。――

 本書における課題の一つは、東インドのオランダ人のこういった実践の実態をさかのぼって調べだすことだった。これは、われわれオランダ人がわれわれ自身を判断するのと同じ尺度で、日本人の行動や振る舞いを判断すべきであるという、私の主張にもつながる。

  同じ尺度で判断すべき、という私の視点は、何人かの東インドのオランダ人との激しい意見の衝突をまねくことになった。彼らは、日本人を判断するのと同じ方法で自分たちが判断されること自体すでに侮辱だと見なしただけでなく、これはなまぬるいこと、つまり日本人、日本文化、日本国天皇を組織立って否定的に決め付けずに自体に即して理解しようというのは、とりもなおさず裏切りであり、敵に協力すること、オランダ国を中傷することであると考えたのである。東インドのオランダ人が受け入れている唯一の日本人像というのは、「日本人は悪い。悪質で、ずる賢く、残酷で、生まれつき悪い。日本人のすることは何もかも悪い。よいところでさえ、それなりに悪い、なぜなら悪に仕える者だから」という、戦時中に一般的だった日本人像から一歩も出ていないのである。

 こういった日本人像が、戦争宣伝に登場してくるのならまだわからないこともないが、戦後半世紀を経過した今もなおまかり通っているということに、どこかひじょうに狂ったものを感じる。そのために、たとえば日本人が戦時中の出来事について謝罪しても、その謝罪は受け入れられず、そのたびに徒労に終わると言う結果を招いている。

 驚くほかはないが、オランダ人は、こういった謝罪を、くりかえし横柄に日本側に求め、それに対して日本側が謝罪すると(日本はすでに何度か謝罪している)、“謝るふりをしているだけ”と、これをうけつけないという態度に出る。たとえば1991年に、当時の日本国総理、海部俊樹首相は、謝罪の意を表して“オランダ領東インド戦争犠牲者の碑”に花輪を捧げた。ところがオランダの中立の日刊紙でさえ、この献花を「無頼の偽善のしぐさ」と報じたのである。こうした事情からも、日本の率先した謝罪の試みが徒労にすぎないことがわかる。結局、花輪は取り除かれて堀に投げ捨てられてしまった

 この考え方の特異性は、日本人がいかなる言葉や行動をもって謝罪したとしても、しょせんは誠意として受け入れられない、という点にある。それは、「ヤップ(日本人を表す軽蔑的な表現)は、あのように親切そうに見える微笑の蔭で、何を考えているかわかったものではない」と、オランダ領東インド戦争犠牲者財団のスポークスマンがいみじくも発言しているように、日本人には誠意のかけらもないという考えにもとづくものなのだ。

 最も驚くべきことは、オランダ政府でさえ1991年のこの時点においてもなお、東インドのオランダ人グループを、当然のこととして日本人に傷つけられた者たちと見なしていたことである。当時のオランダ首相ルベスは式典後、遺憾の意を表す談話を発表したが、それを報じる新聞の見出しは「ルベス首相遺憾に思う、海部首相訪問の心の痛みを」となっている。ここで言う心の痛みとは、海部首相が侮辱を受けたことによって負ったであろう心痛のことを指しているのではない――とんでもない、これは、日本人が東インド戦争犠牲者の碑に花輪を捧げたことによって東インド共同体(東インドのオランダ人は東インド共同体とも呼ばれる)のオランダ人が耐え忍ばなければならなかった心の痛みを指しているのである。

 第二次世界大戦に発する日本人に対する恨みは、世界中でいまだに抱かれているが、このように闇雲な遺恨は、世界広しといえどもオランダでしかみられない(真実史観注・中朝韓や支那族朝鮮族の犯日は同族大虐殺隠蔽目的)。しかしオランダでは、この事態を「いまどき通用しない馬鹿げたこと」と見る者は誰もいないし、遺憾に堪えないと抗議する者もいない。われわれはいま、花輪の件から6年を経ているわけだが、私がこの序文を書いている本日(1997年8月15日)、東京の大司教、白柳誠一枢機卿がハーグ市で催される日本降伏記念式典への出席を遠慮させられるという、信じられないようなことが起こった。理由は――書面をそのまま引用しよう――「日本人が同席することは、犠牲者にあまりにも多くの感情を呼び起こす恐れがあるため」となっている。

 私がこれを引用したのは、彼らの身内意識と。外の世界に向かって自分たちの見解を説明する必要はないという考え方を示すよい例だと思うからである。こうした考え方は従来、典型的に日本的なものとされているが、じつはオランダにも存在することがこの事実からもわかる――東インド共同体の面々が抱いているのである。彼らは全く同じたぐいの偏見を抱き、外部世界から自分たちを保護し、外部世界に向かって自分たちの言動を説明する必要は毛頭ないと考える。「外部の者たちに知らせる必要はない、彼等には何らの関係もない。言ってみたところで理解してもらえるわけでもないし・・・」というわけだ。

 これは何度となく考えたことなのだが、「理解してもらえるわけがない」という感情と恥ずべき見解を持つこととのあいだには“関連がある”という考察を、日本人はどう受け止めるだろうか。

 私がここで言う見解とは、「外部の者にはわれわれを理解できない」という命題のもとに一堂に会したグループの中の者だけに理解され是認されているもので、彼らはその見解が外部世界の批判に耐えない恥ずべきものであることを意識はしている。オランダ領東インドの旧軍人がこういったグループの一例だが、彼らの抱いている意識(民族的優越感)や、彼らの言う「外部世界の人びとには理解できない」こと(旧オランダ領東インドにおける人種関係)についても、わたしは本書で浮き彫りにしている。

 さて、私がこれから言わんとするところを、日本人読者はもう察しがついたと思う。「外部のものには理解ができない」という考えは、日本人が好んで崇拝するところの、言うなれば「われは無垢な者なり」という印象を与える概念だ。日本人は自身を独特にして「理解されがたい民」だと思っているが、すこしでも日本について経験のある外国人は、日本人のこうした自己認識を幼稚で、すこしばかりばかげていると見ていようとは、日本人は想像だにしない。これはいわば青年期の自己陶酔のようなものであって、自身の文化を独特で優れていて外国人には理解できるものではないとするのは、日本だけではなく、すべての原始的文化に見いだされるのである。

 しかし第二次世界大戦を身をもって経験した者には、この概念が想起させるものは痛ましい。日本軍が太平洋戦争で不条理な手段と残酷さを持って実践したことのひとつに、日本人は独特にして優秀なりということを(白人種に)強制的に認めさせようとしたことがある。「このことがあったために、日本軍は、被抑留者の、これといって特別な意味があるわけでもないちょっとした動作に、日本国、日本軍は、日本国天皇を侮辱するもはなはだしいと猛り立ち、凶暴な行為に出るという、奇妙な刑罰パターン(これは占領者である日本軍の態度を特徴づけるものだった)をとったのだ」と、『三人は帰った』の著者アグネス・キースは見てとったが、この指摘はキースの真価を物語っていよう。キースと同様の分析をした、明晰な例の織り込まれた第二次世界大戦時に言及した著作がもう一冊ある。オランダ領東インド政府の高官レオ・ヤンセン(法学博士。戦前に日本語を習得した)の戦時日記がそれである。――とくにヤンセンの日記に関しては、日本語に訳されることを心から希望する。両著作を特徴づけているのは、これまで述べてきたようなレイシズム(民族的優越感、人種偏見、人種的憎しみが一体化したもの)や知ろうとしない意志薄弱さにあぐらをかいた、全くの無知に根差す日本人に対するやみくもな憎しみがないことである。

 ここであらかじめはっきり言っておくが、私自身も、日本軍抑留所での過酷な経験にもかかわらず、日本人に対する憎しみの感情はもっていない。それに、私の年齢(日本軍がオランダ領東インドを征服したとき12歳だった)の少年の例にもれず、私はひそかに、そして心ならずも、大いなる自負と虚栄を誇った植民地宗主国政府を数日間で粉砕した国に、賞賛の念すら抱いていた。確かに個々の日本人との接触には失望させられたが、あのように優秀な飛行機や軍事工学技術を生み出した力が日本国のどこかにあるのだと、そしてオランダの戦争政治宣伝はその点に関して自国民に嘘を告げていたのだと、私はしかるべく認識したのだった。

 あとになって私が日本国について知るようになった事柄についても、わが国の戦争宣伝は全く違ったことを教えていた――このことから学びとったことは、其れからは宣伝と言うものはけっして信じないし、その語調や論じ方ですぐにそれとわかるようになったことである。日本人読者諸氏よ、日本人は宣伝に耳を貸さないというのは私の思いちがいだろうか?恥じないですむように自国の過去をできるだけ美化し、すこしでも堪えうるものにしようとするのは世界的傾向である。だが、これは虚言をなくしては到達できない。

 恥じるくらいなら嘘の方がまし、とする態度は日本にばかりでなく、オランダにもある。

 オランダにおいては現在もなお、植民地支配の過去を実態より善いものとして紹介する――その暗黒の面は隠すか、あるいはよりよく見せる――という歴史学会の伝統(ライデン大学学派)がある。これと正反対の学派もあるが、その着想はしばしばマルクス主義的で、およそ実態に即していない――これは日本、オランダ両国に共通する問題といえよう。

 第二次世界大戦を経験した人びとの大方は、いまは草葉の陰の人となってしまっている。まったく、アルフォンセ・アレの言葉を借りれば、「戦いは終わった。戦史不足ゆえに」と言うことができよう。だが、彼らにかわって、もっと深刻な様相を呈する問題が登場してきている。私の著書から引用する。

 「ますます多くの人々が、本当のことから偏り、事実と虚構の境をぼかす映画、テレビなどのマスメディアを通して自己の歴史的認識を得ている。実際の出来事は、劇的効果に、または“政治的に正しい”という観点に合わせて変えられて再生される」(真実史観注・中朝韓が同胞大虐殺隠蔽目的の捏造再生で、日本は、真実の覚醒)

 原文のタイトル「オランダ領東インド抑留所シンドローム」を他の言語に置き換えるのはむずかしい。というのは、このタイトルはオランダの諺にもとづくものであるからで、その意味するところを説明しようとすると、さらに誤解をまねくことになろうと思われる(注7)。“Le chagrin et la pitie”という題のフランス映画がある。これを私なりに日本語に訳すと「憂いと哀れみ」とでもなろうが、本書の内容は、この言葉によって多くが語られるだろう。――1997年8月・記

 注7・オランダには「オランダ領東インドの聾(つんぼ・耳の聞こえない人)」という諺があり、「聞こえているのに聞こえないふりをする」の意味。そこから、タイトルの「オランダ領東インド抑留所シンドローム」は、「抑留所シンドロームがあるふりをする」という言外の意味をふくむ。

 

オランダ領東インドの日本化18p

 オランダではオランダ領東インドに関連する事柄をすべてダブルスタンダード(西欧の植民地宗主国とは異なって、日本は自国の利益のためにのみ、そして支配下の民衆を虐げるために東南アジアを征服したとする)で処理してきた。

 ――もし日本がアジア侵略戦争の訴因で有罪ならば、西欧の植民地宗主国もまた有罪であり、西欧植民地宗主国が人道的動機を楯にするならば、日本にもそうする権利をあたえるべきだというものである。

 また、パル判事は、「侵略戦争の罪刑は事後立法”に相当するものである」として異議申し立てをした弁護人に賛同した。そして、その反対意見書で次の点に言及している。――日本の大東亜戦争を違法な戦争であると宣言すること、および侵略戦争の計画、開始、遂行などを犯罪とする、“平和に対する罪”をこの東京裁判の審理によって“重罪”とすることは、植民地支配に終止符を打つことになる。今日の被植民地諸国は、平和の名のもとに何世紀にもわたっておこなわれた植民地支配への屈従を強いられることはなくなる。

 ――東京裁判でオランダを代表して判事をつとめ、自身、反対意見書を提出したB・V・A・レーリング(法学博士)は、パル判事の主眼とするところをよく理解していたし、植民地支配の現状凍結論にも賛成の意をもって一度ならず引き合いに出している。

 ――レーリングはたとえばウィーンヘル・フルスツ(旧軍人。極端な右翼の保守的人物)との紙上対談(「新ロッテルダム新聞・貿易新聞」1980年8月23日付)で、次のように述べている。

 「大方のアジア民族は、日本人がヨーロッパ人をアジアから追い出す戦争をはじめたことで、日本人を非難しなかったことは明白である。<アジアをアジア民族に>のスローガンは、アジア民族にはひじょうに納得のいくものであった」

 「たとえばの話、英国以外のヨーロッパ諸国が何世紀にもわたって外からの民族の支配下におかれて苦しんでいるとき、何かそこに他の目論見をもっていたにしろ、英国がその他民族の征服者を駆逐したとしよう。その場合、大方のヨーロッパ人は、英国人のこの行為を犯罪とは見なさないだろう」と、レーリングは比較例をあげてから、「これと同じことがアジアにおいても言えるのであり、したがって日本の大東亜戦争を平和に対する罪として論証するには、これはじつのところきわめて不適切な事例であった」と述べている。――

 ――以下のテキストは日本陸軍の教育資料から引用したものだが、これをどう定義すべきだろうか。偽り?欺瞞?思想の鼓吹?政治宣伝?策略?

 「われわれは日本国にあっては本能的に白色人種の優越感を認め、中国人および南アジアの民族を軽蔑して成長してきている。それは、とりもなおさず自分たちもアジア民族であるからして、自身を価値なしと軽蔑していることになる。

 敵領に一歩足を踏み入れただけで、白色人種がいかにわれわれアジア民族を虐げているか一目瞭然だ。彼らは丘や山の上に建つ、目も眩むような豪華な邸宅に住み、そこから草葺屋根の掘っ立て小屋を見下ろしている。アジア人の血から絞り上げた金は、この少数の白人達に、ひじょうに裕福な生活を保障している。

 何世紀にもわたってヨーロッパの支配下におかれてきた現地人たちは、自己の価値観、誇りというものをすっかり失ってしまっている。現地人たちが一刻も早く自己の誇りをとりもどして前向きの人間になれるよう希望したいが、それをあまり執拗に期待してはならない・・・」

 レーリングの見解の正しさは、たとえばつい最近出版されたレオ・ヤンセンの日記(“無人地帯の預言者

”の節を参照)にあるように、日本軍占領時に東インドでなされた数々の観察が明白に裏づけている。ヤンセンの日記から引用しよう。

 「1942年12月11日。ここで注目を引くことは、日本人のかなり原始的な信念ではなくて、その汎アジア政策なる政治宣伝が日本人に向けてつくられ説かれているという事実である。それゆえにすべてが欺瞞であるというわけではない。日本はその占領地域全体にみずからの反西洋信条を持ち込んで、その信条でもってアジアの他民族を教育しようと意欲を燃やす。そのために満州、北支那、インドシナ、インドネシア、そしてマレーに軍団を編成する。占領地域の青少年への軍国主義鼓吹を、われわれは危険なことと考えるが、日本人は自分たちへの支援のためと考えている。それはインドネシア人に人間としての誇りをとりもどさせもする(たとえ彼らを怒鳴りつけたりしてでも)。インドネシア人をまったく無視し、彼らに劣等感をもたせただけのわれわれとはちがっている」

 「真実はわれわれにとってきびしいものだが、オランダ領東インドは、日本軍を喜んで迎え入れたアジアにおけるたった一つの地域かもしれない。解放軍並みの歓迎ぶりだった。(中略)戦争からの真の開放感と、よりよき将来への希望とが入り交じった気分がそこには溢れていた」

 さらに12月12日付の日記には、こうある。「以前にくらべて、現状は何ひとつうまく調整されていないにもかかわらず、インドネシア人はこれを以前より希望に満ちたものとして受け入れているようだ」

 ヤンセンは、日本人がインドネシア人に重要な職務および責務をあたえるのに躊躇しなかった点にも注目している。これはオランダ人支配化では考えられなかったことだ。「1943年6月2日。現今は、大蔵省のアフマッツのように、仕事ができ、指導もでき、率先して行動するインドネシア人官吏が各官庁にいる」

 インドネシア人のために親身に尽力した日本人がいたことも疑う余地もないところだ。ヤンセンの日記に注釈および解説をつけたG・J・クナープ(史学博士)は、その序文で、つぎのように書いている。

 「日本軍のラジオ放送が、反オランダ、そして総じて親インドネシア民族主義の語調であったのは、これを担当している日本人たち(このうちの一部はインドネシア民族主義にひじょうに共鳴していた)の尽力のしからしめるところであった。(中略)1942年2月末にジャワ島に接近した日本侵略軍には宣伝班も編成されていたが、宣伝用の職務は第一に、敵の士気をくじき、日本国軍隊の士気を高揚することにあり、第二に、占領したあかつきにはその地域の民衆に日本国の至上の目的を教え広めることにあった」

 ――J・A・A・ファン・ドールの「秩序―反抗―秩序」はこれを主題にしたもので、主人公は1928年生まれのインドネシア少年である。

 中高等学校はセレベス島マカッサルの日本の学校へ行く。優等生の少年は日本人学校長の家庭に寄宿するようになって、半軍事訓練をもふくめた日本式教育を受ける。母国インドネシアのために命を捧げねばならないこと、インドネシアにはアジアのインドネシアとして大いなる将来があることを習う。日本人校長は少年に強烈な印象を与える。(主人公は、日本式教育をうけられたことを感謝し、校長先生とはいまもなお文通がある、と述べている)」

 ――“オランダ領東インドの日本化”は、東京裁判でオランダが正式に日本に科した戦争犯罪のひとつであった。――日本がオランダ植民地支配を終結に導こうとしたことは、オランダ人の見地からすると日本が戦争犯罪を犯したことになり、じつのところ現在もなおこの見解を変えようとしないのである。――

――1989年・記 3につづく⇒

真実史観オランダ統治の実態レオ・ヤンセンの日記とレムレフ報告書

3オランダ統治の実態レオ・ヤンセンの日記とレムレフ報告書

無人地帯の預言者32p

 オランダ領東インドの日本軍占領時に関する二冊の本が19988年末にファン・ウェイネンという出版社から刊行された。ヤン・バウェルの「踏みにじられた国」と、レオ・ヤンセンの「この半刑務所の中で――バタヴィア/ジャカルタ日記、1942-1945」である。両書は、日本軍占領時関係の、これまでに出版された文献の粋と言うべき貴重なものである。――

 まったく異色なのはレオ・ヤンセンの経歴である。ヤンセンが、オランダ領東インド政府に仕えた最も優秀な官吏の一人であったことは疑う余地の無いところだ。――戦争勃発直前に、36歳の若さで東インド評議会の書記官代理に任命される。政府高官の職についてから日本語の勉強をはじめ、日本語ができることが幸いして、オランダ領東インドが崩壊後、日本軍のラジオ放送聴取部の仕事に就くことになる。したがってヤンセンは戦時の大半において、(相対的に)自由のきく状況下にいれた。1944年3月、インドネシア人と秘密連絡を取ったとの容疑で逮捕されて、憲兵隊の過酷な拷問を受け、それが原因で(そして医師の落ち度もあったらしい)、日本軍降伏の数日後に死去した。――

 ――オランダ植民地支配帝国の悲劇的な末期に対するL・F・ヤンセンの独自の見方を、日記から引用しながら紹介してみたい(ごく一部にすぎないが)――崩壊を嘆く諸氏には、ぜひとも一読を薦めたい本である。――

 「1942年12月8日。それにしても、日本人とインドネシア人とのあいだには、心の分かち合いがある・・・それはわれわれとインドネシア人とのあいだには存在しなかったし、これからも存在することのないものである」

 「1943年5月12日。スカルノとハッタの今日の人気は、二人をインドネシア人殉教者にしたオランダの政策のなすところだ。いわば、みずから蒔いた種。それゆえに、インドネシア人の前で、何かにつけスカルノをけなすのは、大変な間違いである。それはスカルノの地位を強化することになる」

 「1943年3月29日。ジャヤディニングラットは、オランダ人がこれほど保守的でなかったら、ことは全面的に違う展開を見せていただろうと言う」

 「1944年8月3日。『オランダの政策がインドネシア人にもう少し好感のもてるものだったら、われわれは、オランダ人といえども忠誠を尽くし、オランダ側について戦いもしただろう』とサイドは私に言っていたが、これは多くを語っている言葉と言える(中略)インドネシア人がわれわれに背いたのは不可避のことではあるが、オランダの保守的な統治政策にも多分に責任があった。ちなみに、アメリカ人のフィリピン統治政策はずっとよい成果を得ている

 「1943年5月27日。インドネシア人が“日本軍側に転じた”のは、われわれの、倫理にかなった“手ぬるい”政策のせいだとするオランダ人がいまだにいるのには驚く。日本人は鞭で追い立てたから、インドネシア人は日本側についたと言うのだが、しかしそれは誤りと言うもの、事実はまさしくその反対である。もっときびしい統治をしていたならば、われわれオランダ人に対する憎しみは、現在以上にずっと広く大衆に浸透していたにちがいない。インドネシア人をがむしゃらに投獄するようなことをしなかったら、現在のように、インドネシア人元被抑留者がこのように多くの憎しみを露にすることはなかったはずである」

 「1944年1月6日。ボルス会社の元従業員ディアスには(中略)東洋人のコンプレックスがある。西洋人の優越感誇示に深い恨みを抱き、西洋人をやっつけた日本人の威力に喜びを見出している。ディアスがオランダと日本のどちらにつくかは知らないが、(中略)彼ら東洋人にとっては選択するまでもないことと思える。オランダ人を支持することは絶対にあり得ない。(中略)東洋人がそのように考えるのは、彼らが信用できず恩知らずだからだ、とせずに、つりあいの取れた相互関係を築く指導力に欠けたわれわれの不手際な統治政策に責任があった、としなければなるまい。(中略)クライツとその取り巻き諸氏は、オランダ政権の復活後、コーニングスプレイン(国王広場)に絞首台をいっぱい並べると意気込んでいるが、それでは無罪の者を処刑することになろう。

 ファン・デル・プラスは“インドネシア人のクイズリング(売国奴)云々”とオーストラリアから叫びたてているが、身のほどを知らぬ言動と言うほかはない。ファン・デル・プラスは、オランダ政権に忠誠を尽くすという、現在社会には通用しない虚構にいまだにかじりついている。われわれ東インドのオランダ人は、インドネシア人に対してはいつまでも外国人のままでいたし、オランダ本国へも外国人として帰って行く

 「1944年4月7日。日本人のしくじりを、しめたとばかりにノートする。この行為は、やりそこなったのは日本人のせいであるから、自分たちオランダ人には責任なし、という責任逃れ以外の何ものでもない」

――1989年・記

 

沈思一千年の美49p

 日本軍がスマトラで着手した最大の計画は、いうまでもなくムアラ-パカンバル間の鉄道敷設である。中部スマトラの山岳、原生林、沼沢地帯を横断する全長220キロにわたるこの鉄道路線敷設工事は、連合軍捕虜700人とインドネシア人強制労働労務者一万人の生命、言い換えれば、敷設路線一キロあたり50人の生命を奪った。ところが、この悲惨な出来事を主題にしたH・ホーフィンハの「原生林を貫く死の鉄道路線」を読んだ者は理解しているところであるが、終戦の数日前に完成したこの鉄道路線上を、日本軍の降伏後、汽車が走ることはなかったのである。ホーフィンハから引用しよう。

 「鉄道路線などどこにも見あたらない。ということは、あのように甚大な犠牲をいたずらに払ったことになる。鉄橋は洪水で流され、何キロものレールがぬすみとられ、くず鉄として売られてしまい、その他の鉄片はスマトラ島の昼なお暗き原生林の、不気味に静まり返ったどす黒い沼地でゆっくりと腐食していく」

 ホーフィンハはまた、私が民間人抑留所の跡を訪ねた時に戸惑いとともに経験したのと同じで性格の、次の事象にふれている――土地の者たちは、鉄道敷設のエピソードなど誰一人覚えていないのだ。ホーフィンハはこうも言っている。

 「パカンバルに着いて早々、『日本軍占領時代に、戦争捕虜やインドネシア人労務者を動員して敷設した鉄道路線の話を聞いたことがありますか』と質問してみると、鉄道路線だって?そんなこと聞いたことも無い・・・とみな一様に肩をすくめる」

 そんなことがあるものだろうか。この場合はなお一掃当惑させられる――この鉄道路線敷設では大勢の犠牲者が出て、その大方はインドネシア人だったのだから。ある事実を受け継ぎ伝えていく伝承の機能は、インドネシア人にあってはどうなっているのか。また、伝承される事項の選択はどのようになされるのか。考えれば考えるほど、私にはわからなくなってくる。この劇的な出来事を体験した者の何人かはいまだ健在だと言うが、その人たちはこの話をすることもないのだろうか。――

 この種の物言わぬ証人には、スマトラ島岸では出会うことがなかった。――

――1980年・記

 

決まり文句と暗示67p

 (世の中には完全無欠の者はいない)ビンネルツの日記にも決まり文句の例が見られる。たとえば日本に関する次の一節だ。

 「1943年6月11日。日本人はおよそ背が低く不潔で黄色くて、曲がり脚の猿のごとき存在である。強烈に鼻をつく体臭がして、アルチス動物園の小猛獣の檻にたちこめる臭いを思い出させる。国人もこの種のジャングルまがいの臭いを発散させるが、こちらのほうがまだましだし、それほど強烈ではない」

 これは、世間一般の日本人感であって、屈辱感や怒りの表現としてはわからないこともないが、実際の観察にもとづいたものではない。というのは、日本人は黄色くないし、鼻をつく体臭もしない。多くのオランダ人とちがって(遺憾ながら、あえて言うならば、オランダ人は当時の東インド・植民地帝国でも体臭がしたし、いまもする)日本人は鼻をつく体臭は現在もしないし、当時の東インドでもしなかった――

 第二次世界大戦が勃発した時私は12歳だったが、いまだにはっきり覚えているのは、オランダ領東インドでは日本軍が東インドに足を踏み入れるずっと前から、曲がり脚の黄色い猿”という言い方が日本人を指す標準的な表現だったことだ。

――1988年・記

 

デリの大地(スマトラ東岸のメダンを中心とする広大な地方をデリと呼んでいる)99p

 私が男子抑留所に来てまだまもないころ、「あの背の低いずんぐりした男はX農園企業のPでね、何か自分の気に入らないことがあると、草取り女たちの後ろに束ねた髪をつかんで地面を引きずりまわしたり、時には彼女達自身の小便を飲ませたりする性癖がある男なんだ・・・それから、あそこにいる男はY農園企業のQでね、あの男はハーレまがいに女たちを抱えていて、大休日(各月の一日と十五日)には乱痴気騒ぎをするんだ、女たちといっても・・・いちばん年長が十六歳なんだよ」と言った話を教えられた。――

 この種の話を耳にしたのは、これがはじめてではなかった。私がヨーロッパ人子弟のための寄宿学校にいたときも、農園企業内でおこなわれているという虐待や性的遊興の話に尾ひれがついて囁かれていたし、自分の父親が現地人を鞭で打つのを見たと話す級友もいた。そのときは、そんな話を信じてよいものかわかりかねたが、男子抑留所ではじめて、この種の噂話は事実にもとづいたものであることがわかった。誰もが知っていて、かなりおおっぴらに口にしていたのだ。そして現地人を虐待するときのオランダ人の心理もわかってきた。それは一言で言えば「犠牲を出さずには何もできないさ」というものだった。これくらいのこと、何てことないさ、材木を割れば必ず木屑は出るものだ、卵を割らずにオムレツは焼けないからな、なまぬるいことでは何もできないさ、現地人にはそれしか効めがないのだ、等々である。また、こういった話はけっして部外者には漏らさないようになっていた。部外者は農園企業内の主従関係を知っているわけではないから、“間違った判断を下す”ということらしい。

 そういった話がされるたびに取り沙汰されたのは、“以前”はもっとずっと手荒いことをしたものだよ、という話だった。そのことに関して、人々が「デリの無言の群集」という本のことを口にするのを聞いたことがあった。これはJ・ファン・デン・プランツという人物が書いたもので、彼の名はスマトラ東岸ではいまだに人々の口の端にのぼる。――

 ――次に引用する断篇から、この本の内容の見当がつくだろう。

「地方行政監察官はある日突然、くだんの農園企業の、鉄格子のはまった小窓と、外側から頑丈な南京錠がかけられた戸のついた掘っ立て小屋の前に立った。自分の来訪を前もって告げないという、用心しての抜き打ち監査である。

 この小屋はこの農園企業の病棟だった。

 鉄格子窓から鼻をつく悪習が外に漂い、内部の数平方メートルの空間にジャワ人の男二人、女八人が臥しており、それから・・・死体がある。あとで判明したことだが、この死体は死後二十四時間ぐらいたったものだった。体を洗う場所もなければ飲み水もない、用を足す便所もない――病人は地面に用を足すと、手で少しばかりの土を掻き寄せて自分の排泄物にかけて、板壁の下の隙間から外に押し出している。喉が乾いてどうしょうもなくなると、自分でなんとか工面しなければならない――一日に一回支給される割当量の飯と干し魚の一部を、病棟を通りかかるクーリーに飲み水と交換してもらう。病人は十四日に一度キニーネの投薬を受ける。この病棟のこういった“医学的治療”の実態を、蛆のわくような不潔さのために死んでいく哀れな病人たちから、監査官は鉄格子窓越しに聞き出したのだった」

 更に調査を進めると、この農園企業のクーリーたちはひどい栄養失調をきたしていること、少なくとも十四日に一度は病棟回診の義務のある医師は、そんなことには無頓着だったことも判明した。「デリの無言の群集」からさらに引用しよう。

 「この殺人病棟から生きて出られるとは思いもしなかった病人たちは、ルプックパカン(スマトラ島東岸の、メダンの近くにある町)にある民間病舎に移され、その直後、病人の一人(ジャワ人女)がここで息を引きとったが、彼女は臨終の床で、真実を話すことを誓い、地方監査官の尋問に答えた。こうして、監査官がすでに現場で聞きだしていた、くだんの農園企業の“病棟”(本人の話では、ここに四十日間以上もいたという)における“治療”の全貌が再確認されることになった。その際、彼女は、『農園の大ボスが毎日鉄格子窓のところに来て、おまえらは死んだか、と興味津々に病人に呼びかけ、そうでないとわかると、あからさまに失望の意を表した』とも監査官に告げている」

 これらの記述をはじめて目にしたとき、私は暗澹たる思いがした。マデロン・ツェケイ・ルロフスの「ゴム」や「クーリー」のような作品中の描写や、私が抑留所で聞いた現地人虐待の話でさえ、「デリの無言の群衆」の前では色褪せて、実態のすべてではないという感じを抱かせる。かといって、この本に毅然と直面することは私にはどうしてもできなかった。そこで私は、この本を見てみないふりをすることにした。具体的にはどうしたかといえば、私も他の多くの人々が用いた言葉でこれを処理しようとしたのだ――“誇張しすぎだ”“例外中の例外”“偶発的な逸脱行為”、そして“ずっと昔にあったことだし”と。

 だが、ほんとうに昔のことだったかというと、そうではない。この本はアチェ戦争(1873~1904年。アチェは北スマトラの州で、1300年から1800年まではイスラム教君主国家だった。1904年オランダが征服した)のあったころのオランダ領東インドの事情を記述したものである。――つまり第二次世界大戦勃発時に生きていた者には、大戦の四十年ぐらい前(真実史観注・朝鮮日本統治開始の時代)という、比較的近い過去のことになる。――1942年の時点でもこの戦争は人びとの記憶にまだ生々しかった。

 したがって私の年齢では、そんなオランダ事情は知らなかったという言い逃れはできないにもかかわらず、「デリの無言の群衆」を引用する姿勢はとれなかった。――上部(秘密)組織を代表する面々(彼等はもちろん、この辺の真相には私などよりずっとよく精通していた)との紙上論争のなかでさえ、この本からの引用ははばかられた。上部組織の面々は口を割らなかったし、私もしなかった。よく考えてみれば、マデロン・ツェケイ・ルロフスをはじめとする他の者たち――ドゥ・ペロンでさえ――がとった姿勢というのもこの“言わざる”というものだったといえる。

 ――“誇張だ”“クーリーの作り話に根ざすもの”“例外中の例外”“個人的な逸脱行為”“外国人がしたこと”など――これらの言い訳は、たとえ偽りであろうともありがたく受け入れられ、うむを言わせず使われ、補足されていく。その人間が狡猾だから、あるいは共犯者だったから、そんな言い訳をしたのでは必ずしもなくて、ただたんに悪夢から解放されたいがためにしたのである。

 ファン・デン・プランツの著作などの出版により、スマトラ東岸における現地人虐待の件は、すでに二十世紀初頭に国会第二院でとりあげられたが、「質疑に立った議員が残虐行為について言及すると、担当大臣はそんな馬鹿なこと、と一笑に付した」(F・チヘルマンの『SDAP(社会民主主義労働党)とインドネシアに関する歴史的考察』)。しかし、その担当大臣が、“残虐行為”があったことを、それも、ファン・デン・プランツの記述を大幅に上まわる、もっとずっと戦慄すべき残虐行為があったことを百も承知していたことは、昨今ふたたび明るみに出された報告書によっていまや議論の余地のないところとなった。

 事の経緯を簡単に説明すれば、オランダ領東インド政府の指令により調査・作成されてあとになってもみ消された、スマトラ島東岸の事態に関する公式報告書が、ヤン・ブレーマン(エラスムス大学および社会学研究所教授)の尽力が功を奏して、つい最近ふたたび日の目を見ることとなり、ブレーマンの執筆による『二十世紀初頭におけるスマトラ東岸の大農園企業の労働管理について』と題する論文がつい先ごろ発表された。

 ここでいう公式報告書とは、レムレフ報告書として知られているもので、バタヴィア(現ジャカルタ)のオランダ領東インド評議会の検察官J・T・L・レムレフの名前からとったものだ。1903年五月二十四日、レムレフはオランダ領東インド総督W・ローゼボームから、「J・ファン・デン・プランツが『デリの無言の群集』と題する小冊子で指摘している、スマトラ東岸の大農園企業で働くクーリー等の虐待と不法投獄の件、および裁判所の裁判権行使における恣意的なることの件」に関して行政調査をせよという指令をうける。その際、罰すべき事実は刑事裁判にかけよという補充指令を検察長官からうける。その一ヵ月後にレムレフはメダン入りして調査を開始、1904年のはじめに調査報告書は総督に渡され、総督はほぼ即時にこれをオランダ本国に送った。

 J・ブレーマンの著書から引用しよう。

 「1904年秋のオランダ本国国会におけるオランダ領東インドの予算審議の際、植民地相は、レムレフ報告書は何が何でも公にはしない意向であることを明らかにした。国会議員がうちうちにさえこれに目を通すことを拒否した植民地相の表向きの論拠は、『犯罪およびとがめられるべき行為の罪を問われた者たちは、それに対して自己弁護する機会が与えられなかった。また、報告書を公表しても、実際には何ら益するところがない。すでに起きてしまったことをどうのこうのと論じるよりも、新に打ち出した改善策に全関心を向けるべきだと判断する』というものだった」

 この植民地相というのは反革命党のA・W・F・イデンブルフで、自身1909年から1916年までオランダ領東インド総督の地位に就くことになる。野党から執拗に回答を迫られたイデンブルフは、国会でレムレフ報告書からいくばくかの結論を引用した。J・ブレーマンから引用しよう。

 「――『――立証されたデリにおけるクーリー虐待の実態に終止符を打つべく対策を講じるとする植民地相の公約を賛意と共に認知する』という動議に同意し折り合うことになった」

 ――この公約はほとんど果されなかったことは言うまでもない。――1929年以後になってはじめて、“徐々に”廃止の方向に向かった――それもオランダ領東インド政府の指令によってではなく、デリのタバコ葉生産が事実上の奴隷制度によってなされているかぎり、デリのタバコ葉の輸入を禁止する、とアメリカから脅しがかかったからだ。――

 レムレフ報告書は耐えがたい文献である。――

 当時にかぎらず現在もなお、クーリー虐待問題が討論されるたびに偽善者が活躍することになるのだが、この道で大きな業績を残したもの(つまり大いなる偽善者)として、私が何度か議論したことのあるウィレム・ブランツがあげられよう。戦前に長いこと「デリ新聞」の編集長をしていたという事実だけをとっても、ブランツは、オランダ統治時代のデリでなされた残虐行為の数々を誰よりもよく承知していたにちがいないと私は確信する(この「デリ新聞」というのは、1926年に「すべてのインドネシア民族主義者は、裁判にかけるまでもなく銃殺に処するべきだ」と論じた新聞である。これに抗議したのがチャーリツ・サリムで、そのために彼はボーフェン・ディグル抑留所で15年間の流刑に処されることになる。この事情に言及したサリムの著作ボーフェン・ディグルの15年間を、私は何度かとりあげている)。そのうえウィレム・ブランツは私と同じ男子抑留所にいたのだから、私がそこで聞いた話は彼の耳にも入っていただろうことは容易に想像できる――

 さらに、ブランツの手になる「デリの大地」と題するスマトラ東岸史がある。この本の執筆に際して、彼はいくつかの文献に目を通したと思うが、そうした過程で、クーリー虐待問題を扱ったファン・デン・プランツ、チェゥドノブスキー(フランス人マラヤ群島における医療事情に関する寄稿文。パリ1899の著者)らの著作に出会わなかったということはあり得ないはずだ――

 にもかかわらず、「デリの大地」のなかでクーリー虐待の件には一言もふれていないという意気地のなさだ。そして作品全体が“威勢よい喉声”調(作家ドゥ・ペロンが用いた表現)で書かれており、“働き者たち”(ドゥ・ペロンが用いた表現で、楽な生活をしているオランダ人たちを皮肉っている)への頌歌(しょうか)となっている。――

 ――レムレフ報告書は、残念ながらこれとはまったくべつのデリのオランダ人像を映しだしている。レムレフ報告書から引用しよう。

 「私が現地人ボーヒンの妻である契約下女アチナを審問したのは、七月二十九日のことだったが、その約二ヶ月前に、農園企業従業員のムーンス(オランダ人)は、集めた蚕の数が少なすぎるという理由でアチナの背中を籐の鞭で数回打ってから、土足で腰を蹴りつけた(そのときアチナは八ヶ月の身重だった)」

 蹴られたアチナは腰と腹部に強烈な痛みを覚え、気分が悪くなり身動きもできなくなった。これを見たアチナの夫が、すぐさま抱き上げて、布に抱きかかえてこの農園企業内のジャワ人用仮棟に運んでいった。家に着いたとき、お腹の赤子は激しく動いた・・・それから四日後にもう一度動いたが、それ以来、アチナは自分の体内に命の気配を感じることがなくなった。そして、虐待を受けた日から十五日目に、事切れた赤子を出産する。赤子の頭部左側は凹んでいて、左の目は見あたらなかった――

 こんな話もある。デリ総合商社のマリエンダル農園のチツロパウィロという名のクーリーが、前夜死んだ自分の子供を埋葬したいと願い出たところ、農園企業支配人インゲルマンは彼に平手打ちや拳骨を見舞って仕事に行けと言いわたした。仕事を終えて家に帰ってきたチツロパウィロは(レムレフから引用)、「彼の正妻ケメンから、インゲルマン旦那の庭師が、旦那の命令にしたがって何らの儀式もなく子供を葬ったと聞かされる」。インゲルマン支配人はこの処置について、次のように説明をしている――子供が死亡したことは、「チツロパウィロが仕事を休む理由にならない、と」。考えても見たまえ、そんなことを許していたら、かぎりがないことになろう。レムレフ報告書のここかしこに、農園支配人は正式な手続きを踏まないでしたい埋葬をさせているという記述が見られる。ファン・デン・ブランツがすでに指摘しているように、クーリーたちがごくあたりまえに殴り殺されていたという事実を知っていれば、このような死体埋葬のやり方が暗示するところは明白である。――

 ――報告書から引用しよう。

 「(それと)時を同じくして、J・F・ペーテルセンという名の農園企業管理人は、材木運搬をする中国人クーリーのホ・ア・チッツ、チン・クアン・コン、フォン・ア・シーの三人が、川越の際に水が飲みたいと願い出たところ、『それぞれの弁髪で結びつけて、三人ひとからげにして水中に浸すよう』自分の現場監督に命じ、現場監督はその命令にしたがって中国人の頭を水中に押さえつけた・・・そして彼らが浮かび上がってきて飲み込んだ水を吐き出すと、またその頭を水中に押さえつけるということをくりかえした」

 オランダ人農園従業員D・ヨンゲンスは、「ジャワ人(女)のチェムプとサニを(中略)裸にしてから地面に腹ばいにさせ、その剥きだしの尻を革のベルトで何回か激しく打ちつけたので、そこが蚯蚓腫れで覆われた。それから自分の家政婦に命じて、二人の顔、乳房、陰部に細かく細かく磨り潰した唐辛子を擦りつけさせてから、自分の高床式住まいの下杭に二人を縛りつけた・・・それも、体が二本の柱のあいだで大の字になるように、右足と右腕を一本の柱に、左足と左腕をもう一本の柱に縛りつけたのだった」

 「かれこれ六ヶ月も前のことになるが、ある朝、ジャワ人クーリーのカミソは、セイント・シルから農園企業本館へ行く途中にある、建築中の物置小屋近くに連れて行かれた。そこで、この農園企業のオランダ人従業員は、自分の馬の手綱にカミソの両手をくくりつけてから馬にまたがり、速歩で行く馬のかたわらを、徒歩で約一時間はかかるジャワ人用仮棟まで縛られたままのカミソを引きずっていった」 3につづく⇒

真実史観オランダアムステルダム市長サン・ティンの真実史観


4オランダアムステルダム市長サン・ティンの真実史観

 レムレフ報告書(全部で82件を網羅している)の前半の部分だけでも、このような引用が盛られている。さらに、ここでは引用しなかったが、縛り付ける、食べ物もあたえずに監禁する、水も与えずに炎天下に立たす、20回から50回の籐鞭打ち、ジラタンまたはケマドゥの葉(イラクサの葉のたぐいと考えてよいが、イラクサよりずっと質が悪い)を擦りつけてから水をかけるといった、”ごくあたりまえ”の虐待例が多数加わる。拳骨および平手打ちを浴びせるなどの“些細なこと”は、大方の場合、とくにとりあげて記述されてはいない・・・レムレフ報告書の全貌をここに描きだすことはしょせんできることではない。

 そしてまた、調査は、農園企業主側の手段を選ばない妨害で困難をきわめ、調査が進むにつれて証人がつぎつぎに消え、虐待の痕跡は消し去られていた。農園企業は、クーリーたちに証言しないように圧力を加える手段に事欠かなかった。それゆえに証言の多くは、獄中のクーリーが、経営者の手が伸びてこないという安心感からしたものであったり、つぎの例に見るように病棟での証言である。

 「ジャワ人の契約下女二人(両人とも全裸で)、ゴムボンというジャワ人男(陰部を布切れで覆っただけで、ほかには何も身につけていない)は、見せしめのため、クーリー小屋沿いに引きずりまわされた。この証言は、ルブックパカンの民間病舎に入っていた患者のサルミナ(ジャワ人女)がこの10月23日に私の審問に答えて話したものである。サルミナはさらにつぎのようにつけ加えた――ジャワ人女の一人は恥辱から首吊り自殺をし、もう一人は、見せしめの引きずりまわしがあった日の午後に現地人現場監督のヌル・カサンに殴り殺され、この農園支配人邸前のコーヒーの木に首吊りされた」

 農園企業の従業員間の恨みと嫉妬が原因で、醜聞が外部に漏れることもあった。レムレフ報告書から引用しよう。

 「タンジョン・カッソウ農園企業で、ファン・ベネーデンのもとで農園従業員をしている者(オランダ人)が、自身もその場に立ち会ったこの農園企業におけるクーリー虐待を、私に報告した。その虐待というのはつぎのようなものだった。その晩、オランダ人農園従業員ステイン・パルフエのところで一夜を過ごしたジャワ人(女)のプラウィロは、翌朝仕事に遅刻した。その罰として、パルフェの上司のファン・ベネーデンは、プラウィロに溝のなかで、それも一日じゅう腹部まで水につかったままで仕事をさせた。病気にかかるように仕向けたことは明らかだ。(中略)逃亡のかどで民事裁判所の判決を受け、その刑期満了後、この農園企業に送還されたジャワ人(女)は、農園に着いてすぐファン・ベネーデンの事務所に連れていかれ、大小便を漏らしてしまうほどの強い電流をかけられた・・・病身であるというのに」――

 レムレフ報告書はまた、農園企業内の性的慣習と、虐待をうけたクーリーにそれを訴え出るのを思いとどまらせる動機といったものを明らかにしている。報告書から引用しよう。

 「クーリーたちは、十分根拠のある訴えの理由があったとしても、自分の雇主を非難する行動にはなかなか出ようとしない。農園企業側の抑圧がよほどひどくない限り、苦情は出てこないということを今回の調査が教えてくれた」

 農園企業内の性的慣習について――

 「・・・その際、アサハン地方(スマトラ島東岸ノアサハン川流域)の地方長官は私につぎのように報告した。シ・サイドという名のアウツ・タナ・ラジャ農園企業の現地人契約クーリーが牢獄に送られたが、その際、『この農園企業のオランダ人従業員の一人と汝の妻が不純の交友関係にあったことが関連している』と投獄理由を聞かされた」

 この“牢獄送りの刑”については、ファン・デン・ブランツも『デリの無言の群衆』のなかですこし言及しているが、実際にはどういうものだったかというと、農園経営者は、自分が牢獄に送りたいクーリーを、みずからが認(したた)めた罪状と、大方の場合量刑をもあらかじめつけ加えた(ということは、何らの法的裁きもなく判決を受けたことになる)書簡をつけて、それぞれの地方の牢獄に送る、というものである。しかし、これは頻繁には適用されなかった。その理由は、農園企業の経営という点からすれば、クーリーを働かせておいたほうが有利として、経営者が自身で刑罰を加えるという手段を選んだことと、クーリーが牢獄で“よすぎる待遇”をうけているというのが農園企業側が等しく抱いていた見解であったからである。クーリーたちも牢獄生活の方がずっとよいとして、入れておいてくれと懇願することもあった。ブレーマンによれば、囚人一人あたりの食費だけみても、クーリーとして農園企業でもらっている給料の二倍以上の額が支払われたという。――

 レムレフ報告書が明るみに出した事情は、オランダにとって今世紀最大のきびしい試練といっても過言ではないと思われる。それは言葉では表現しがたい、ひじょうに大きな受難の歴史であるばかりでなく、オランダ領東インド統治政策の、広範な官僚制度にかかわる共謀の数々でもあるからだ。この報告書を解析したブレーマンによる冷静で簡潔な結論は、どうもがこうが責任逃れはできない、われわれにとってきびしいものである。

 この「デリのオランダ人史」を“例外的なこと”とか“一時的な逸脱行為”だったとする試みがまたなされようが、そうではなかったことが歴然としている。バタヴィアの法廷、オランダ領東インド政府(オランダ領東インド政府は1936年に国際連盟から、刑罰制を“徐々に”廃止することを真剣に検討するよう勧告を受けた)、オランダ本国の植民地担当大臣、農園企業界、そして多くの個々のオランダ人、これらがすべて共謀者であったことは疑う余地のないところであるからだ。

 レムレフ報告書自体は、ある変化の到来を告げており、ある程度は一時代の終焉を成しているのは確かだ。“ある程度は”と断るのは、報告書をひじょうに巧妙なやり方で隠し通してきた事実があるからだ。報告書をこのように長いあいだ隠し通すことができたのはなぜか、徹底的に調べあげることが必要とされよう。

 また、東インド総督は何ゆえにレムレフに調査を要請したのか、誰かがこの辺の背後にある事情を掘り下げてくれることを希望する――レムレフはその名前が示すように(レムレフ=Rhemrevはフェルメール=Vermehrを逆さ読みしたもので、異種族間の結婚でできた子孫には、父方の苗字の逆さ読みがよく使われた)、インド・ヨーロッパの混血である。この種の調査指令をインド・ヨーロッパ混血の人間に出すとは、勇気と啓蒙化の表れだったのか、それともその反対に、調査をできるだけ難航させようとして意図的にやったことなのか。

 反インド・ヨーロッパ混血を題材とする、J・クレイアンの「デリの農園企業主」読むとわかることだが、「若々しい喜びを発散させ、公平さを重んじ、公明正大な処置を所信とする、限りなく寛大な眼差しのスマトラ東岸の男衆」は大いなる反インド・ヨーロッパ混血人種を抱いていた。この点からすると、私にはレムレフは故意に狼の群れに投げ出されたという気がしてならない。

 ブレーマンが指摘しているように、このような戦慄すべき事態はデリの農園企業だけで起こったのではない。サワルント(西スマトラの山岳地帯の町)のオムビリン炭鉱、レジャン・スリッツ(スマトラ西岸の町)炭鉱などの国営炭鉱における状況も、点にも届く悲惨さであった。1902年の初頭に、フーチンクは東インド東部の炭鉱を何か所か視察して、報告書を提出している。フーチンクから引用しよう。

 「この炭鉱(中略)における死亡率は37%にも達している。大量に死人が出たときには、死体は、クーリーの表現を借りれば、“犬畜生のように”穴に放り込まれるか、ぽいと川に投げ捨てられたというが、ほんとうに身の毛のよだつ話である。スマラン炭鉱会社は851人の契約クーリーを雇用していたが、1年半後にはその半数にも満たない人数に減る――会社側が出した数字では、169人(全体の20%)が死亡し、18人が逃亡、132人は送還したということになっている」

 契約クーリーの日当は(約3円60銭)で、フーチンクでさえ、これはあまりにひどい低さだとして、低賃金に耐えるクーリーたちを讃えている。

 「1か月の労働日数が12日以下のクーリーは、給料日に給料のかわりに柱に縛り付けられての鞭打ちをうける(病気にかかる率はひじょうに高かったから、この処罰かかなり頻繁に適用された)。契約期間が満了近くになると、会社側は圧力をかけてクーリーたちに契約を更新させる――同意しないクーリーは殴られ、同意するまで食事はおあずけだった」

 われわれは泰緬およびパカンバル鉄道施設工事における犠牲者慰霊祭を執り行なっている。それはもっともなことだ。しかし、両鉄道施設公示から30年足らず前(真実史観注・オランダ統治時代)の、中部スマトラ街道工事について聞いたことのある者はいるだろうか。先に紹介したブライニンク・ダルラングの著書のなかに、この街道工事に関する、1914年に明るみに出された事情が、ある訴訟記録から引用されている。いくつか引用してみよう。

 「地方行政の官吏がみずからの職務、責任を果し、強制労働労務者の健康管理と労働および生活環境の定期的検査を遂行していたら、他の悪弊にもおのずから気がついたはずである。たとえば、現場監督が籐の鞭や雄牛の(乾燥させた)陰茎で労務者を打つ。また、焼けつくような太陽を避けるものが何もないところに、手脚を柱に縛り付けて、食べ物や水をあたえずに四昼夜の間おく。あるいは、逃亡に失敗して送還されてきた者を、手足足首に鉄鎖をかけて仕事に追いやるといった、現場監督がみずから考案した方法で、強制労働労務者を罰する件だ」

 「(カイベルという名の現場監督が)平手や籐の鞭や牛の陰茎で殴りつけたり、蹴る、踏みつけるという暴力を振るったのは、自分の思いどおりに仕事をしない労務者に対してだけではない。病気届けを出しに北労務者にも同じことをした。そのうえ、その病人に向かって『ここでは誰も病気ではない。病気などになる時間がほしいのなら、お前らの神アラーに無心するがよい。私はそんなよけいな時間は与えん』と言って、病気の労務者は、立つこともできないほどの半死半生の状態になってはじめて、病人用大部屋に収容された。当時の死亡率の高さを見ればうなずけることである」

 「キーフイッツ医師は、(中略)熱がかなり高く、赤痢にかかっているのに、仕事に引き出されている強制労働労務者を診断したと証言」

 『地方行政監察官は、(中略)病気の強制労働労務者の移送状況はきわめて悪かったと証言――移送中に死亡する者もあり、重病人でさえ、かなりの距離を歩かなければならなかった」

 我々オランダ人は、過去40年間もの長きにわたって日本人に対する不満を延々と述べつづけてきているが、こういった自分たちの悪弊が日本人の振る舞いとはちがっているとでも思っているのだろうか。泰面およびパカンバル鉄道施設工事の犠牲者数はどうのこうのとか、虐待は云々とか、隅から隅まで調べ上げて、犠牲者名簿や追悼の書を出版したが、自分たちが手を下して殺害したり、虐待して死に追いやったりしたインドネシア人には心を砕くこともなく、彼らの名前は、永遠に誰の知るところでもない。

 私がひじょうに怒りを覚えるのは、ウィレム・ブランツのように、自分たちの暗黒の過去を知りすぎるほどよく知っていながら、日本軍抑留所(ブランツも私も入っていた抑留所では、オランダ人のしたような戦慄すべき行為はおよそ見られなかった)でひどいあつかいをうけたと激しく怒りたっては、あっぱれな嘘を長年にわたって言いつづけてきた者がいるということである。

 そうだ――これは好い考えだ!――これからは、8月15日の記念式典(オランダでは日本降伏記念式典と称している)では、われわれ自身のことはすこし差し控えて、われわれに酷使されて死んだり、餓死させられたり、蹴り殺されたりした、数かぎりない名もなき哀れな者たちのことに思いを馳せようではないか。

――1986年・記

 

ボーフェン―ディグル(ニューギニア島にある地名で、高地ディグルの意)の15年間147p

 ほとんど人の注意を引くこともなく、チャーリツ・サリムが先週(1985年3月10日)ハーグ市で死去した。行年82歳だった。――

 サエイムは1902年11月24日にリアウ群島の島に生まれた。父親はその地のインドネシア検察官。小学校はウェルテフレーデン区(バタヴィア市の一地域)(一家は父親の検察庁退職後この地に移転し、父親はここで民事裁判所判事をつとめた)のヨーロッパ人指定学校に通った。中高等教育はウェルテフレーデンとパダン市(スマトラ島西岸)でうけた。民族運動をしたかどで24歳のときメダン(スマトラ島東岸)で逮捕され、それからの15年間(25歳から45歳まで)をニューギニアにあったオランダ領東インド政府のボーフェン―ディグル抑留所で送ることになった。

 サリムはこの抑留所生活を「ボーフェン―ディグルの15年間」と題する本にまとめ上げた。1973年に出版されたが、この抑留所の歴史をくわしく記しているオランダで唯一の本であると私は理解している。そしてこの貴重な一冊も、ある偶然が幸いしなければ存在することはなかっただろう。日本軍の侵攻を前にオーストラリアに移されたこの抑留所が結局のところ閉鎖されたとき、国水熱(マラリア患者に起こる急性の赤血球崩壊症)と慢性マラリアで衰弱しきっていたサリムは、インドネシアに帰国しないでヨーロッパに住むように、との診断を受ける。こうしてサリムはオランダに居を構え、長いことインドネシア大使館に勤務することとなった。もしサリムの健康状態がインドネシア帰国を許すものだったら、この本が書かれることはなかっただろうと思われる。

 私は「ボーフェン―ディグルの15年間」を何回も読んでいる。大作ではないが、読むたびに新たな感動を受ける。というのは、この本に書かれているあれもこれもが私に日本軍抑留所を彷彿させるからである。被抑留者にあたえた食べ物および医療は、日本軍よりオランダの方がよかったのは本当だが、その他のもろもろの点では、両者は驚くほど似通っている。そして、オランダ領東インド政府抑留所のインドネシア人被抑留者、とくにオランダの教育を受けたものが「オランダ人があのようなひどい行為に出るとはとても信じがたい」と言ったことサリムが何回か記述していることに、私はやり場のない戸惑いを感じる。

 それはわれわれオランダ人にも信じがたことなのである。「そんなこと、ほんとうのはずがない。われわれがそんなことするはずがない」とオランダ人が言うのを、サリムは再三聞いたと述べていることから、それはわかるだろう。

 だが悲しいかな、われわれオランダ人はそのような愚かしい行為をしたのだった。――被抑留者を、鞭で打つ。水もあたえず熱帯の炎天下に放っておく。檻に閉じ込める。機雷や敵の潜水艦だらけの水域を、船底に押し込めて移送する。“逃亡しようとした”とかこつけて射殺する等々。そのうえ、これは日本軍はしなかったことだが、被抑留者の移送の際に、何人かを一組にして鎖でつないだ。女子被抑留者のスカーシは、つぎのように記している。

 「1928年4月(逮捕されてはや一年半になる)。プリオク港(ジャカルタの港)でオランダ領東インド政府の蒸気船るムフィウス号に乗せられる。800人の流刑者が乗船、私以外はみな男子だ。私たちは5人一組に鎖でがっちりつながれて、食べるときだけ片手を自由にしてもらえる。横になることは、夜の9時にならないとできない」

 サリムは逮捕されて入れられた刑務所で、すでに鎖につながれた。――

 「――みんなが大声で私に声をかけてよこしたので、私も親しく『やあ』と挨拶を返さないわけには行かなかった。ところが、これが重大な規律違反と見なされて、行水は取りやめとなり、すぐさま自分の牢にもどらなければならなかった。――刑務所執行部は私の“規律違反”を重く罰する意向で、『8日間おかずなしのご飯を供す』との刑罰を言いわたした。そのうえ、牢内で“鎖をかける”という。これは、左手首に手枷、右足首に足枷がはめられ、この二つが鉄鎖でつながれることを意味する。一人が大小便を足すときは、他の四人もこの生理的要求の場に必ず立ち会わなければならないし、これに兵士が付き添ってわがグループを監視する。私の左手首には、この遺憾に堪えないオランダの慣習の思い出として、金属製の手枷で負った傷の跡がいまだに残っている」――

 病死した者の数はどのぐらいだったのだろうか。奇妙なことに、ボーフェン―ディグル抑留所設立当初の死亡者数の正確な資料は、どの出版物を調べてみても見つからない。こういった資料は極秘だとでも言うのだろうか。王立熱帯博物館の図書館にもなかった。一般的印象から推し量るに、ここの死亡者数は、日本軍の民間抑留所のそれよりも少なかったとは言えないだろうと思われる。

――1985年・記

 

神々の黄昏――オランダ領東インドの没落153p

 ――東インド関係の抑留所および戦争体験記の中で、――残念ながらほんとうのことを書いてはいない。そこでは、日本人はいつもきまってバッタ、蟻、鼠、その他の害虫にたとえられ、また必ず引き合いに出されるのは、”細い目(直訳は割れ目の目)”云々と“黄色い”云々と言う表現であった。これらの戦争体験記を書いたオランダ領東インドからの引揚者諸氏はアジア人を一度も見たことがないとの印象を強くする。

――1979年記

 

日本茶に塩入れて162p

 ――日本人は、われわれオランダ人被抑留者に対して何らかの意責任を負っていることは承知していたようだ。「そんなことはわれわれの知ったことではない」と肩をすくめて、「野垂れ死にするがいい」ということだってできただろうが、そうはしなかった。それは、たとえばコレラ患者が出たという噂がたったとき、日本軍の医療班が何度かやって来て、われわれに予防接種をしたことからもわかる。これほどのことをしなくても、放っておくことだってできたはずだ。

 われわれオランダ人に薬を与えなかったことについて、日本軍には重大な責任がある。と私は書いたことがある。キニーネやダジェナン錠剤が軍需倉庫にたくさんあったということが戦後明るみに出たからだ。これらの薬をわれわれにまったくあたえなかったのは、打算からとか、われわれオランダ人を葬ろうとする極悪非道のたくらみから――この種の考えを抱いているオランダ人はいまだにあとを断たないが――ではないと私は思う。われわれに薬を与えようという考えが日本人の念頭に浮かばなかったのは、薬が軍需倉庫にあったからで、それに手をつけるということは、軍事的な考えからすれば、一種の妨害行為に相当するからだったのだろう。帝国軍需品に手を触れるのはご法度であり、誰一人としてこれを持ち出す資格はない、という思考で一貫していたものと思われる。

――「再び生国の土を踏んで」1995年刊より――抜粋完

 

海洋民国家オランダの真実史観

オランダ ヴァン・ティン・Eduard van Thijn(サン・ティン?)アムステルダム市長(1983-1994)・後(1994年)内務大臣1991年の挨拶。  

 「憲兵少尉のシベリア抑留経験者、溝口平二郎(平成9年3月14日逝去)が挨拶を聴き、後に財団法人日本国防協会の理事の浅井啓之が1994年3月24日に文章に起こした」

 サン・ティンの名前が実在しないので捏造論があるが、ヴァン・ティンの聞き違いだろう(サン・ティンと筆者は現地で聞いた)。発音してみれば分かるが、・ティンが強く発音されるため、聞き違えやすい(ヴァン・ティン発音は、現地発音ではない。オランダ語の発音はファンタイン。活字からではなく、確実に現場で耳から聞いた発音を、サン・ティンと文字にした。つまり、サン・ティン記述は現地で聞いた証し)。要は名前よりも、年代と、アムステルダム市長の後に国務大臣を勤めたという経歴が大事なのだ。捏造であれば、決してこんな初歩的なミスはしない。ましてや公開された挨拶文などはすぐばれるので、決して捏造などしない。常識で考えればすぐ分かることだ。

 1991年の訪蘭時」平成3年、日本傷病軍人会代表団が、大東亜戦争の敵国であったオランダを訪問した折、同国の傷病軍人代表と共に、首都アムステルダム市長主催の親善パーティに招待された。その時の市長の挨拶です。

 「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間、屈辱の連続。即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。戦前は『アジア』に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。あなた方の日本国は、『アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた』と、自らを蔑(さげす)み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。

 何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必要があります。本当は私共白色人種が悪いのです。100年も200年も前から競って、武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。

 植民地や属領にされて永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏と言う旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、その東亜の解放は実現しました。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。その結果アジア諸民族は独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分を蔑(さげす)むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」。1994年3月24日浅井啓之氏記聞

 善悪論での日本賞賛であるが、当時は弱肉強食適者生存の時代、侵略は合法で、違法は1960年の植民地独立付与宣言以降からである。宗主国であると同時に、文明の伝導者でもあったことを、決して忘れてはならない。かつての植民地はこの清濁を併せ呑み、皆一様に踏まえている。当然かつ英断である。世界で唯一禍福をあざなえない輩が、民族浄化同族殺しの凶産中国、贋半島、罪日である。

 敵であった、オランダの、この見解はいさぎよく、見事だ。この見解があるから、両国の王室が親密なのだ。昭和天皇訪欧時は険悪だった。現に今、皇太子一家が招待されて滞在中だ。護国の英霊に、これ以上の頌詞(しょうし)はない。アメリカがこの見解に達した時が日本の真の終戦だ。2006.8.26.オランダ・アムステルダム市長のご挨拶

 真実(唯心)史観と捏造(唯物)史観のオランダ人が居る。中国にも居る。どこの国にも有り得る事だが、なんと朝鮮族に!真実(唯心)史観は皆無!
 太平洋戦争は凶産捏造が元凶!大東亜戦争は応戦自衛戦争!
 捏造史観(中朝韓)は戦争起因
 世界の、「国境無き真実史観」と連携しての捏造破壊が、天道に額ずき戦い破壊した、先人子孫の天命


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。