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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観朝鮮族“洋公主”騙り日本叩きも日本経済凋落も職責者の職責不履行人災

朝鮮族“洋公主”騙り日本叩きも日本経済凋落も職責者の職責不履行人災

2014.11.27 05:10 産経ニュース抜粋は真実史観の感想
米政府の慰安婦問題調査で「奴隷化」の証拠発見されず…日本側の主張の強力な後押しに
 米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。
 「米国議会あて最終報告」として、2007年4月にまとめられた(文末リンク)。米側で提起されることはほとんどなかったが、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨン氏とその調査班と産経新聞の取材により、慰安婦問題に関する調査結果部分の全容が確認された。※米国聖戦論者が公開妨害か?
 調査対象となった未公開や秘密の公式文書は計850万ページ。そのうち14万2千ページが日本の戦争犯罪にかかわる文書だった。極端に少ない日本の戦争犯罪!
 報告の序文でIWG委員長代行スティーブン・ガーフィンケル氏は、慰安婦問題で戦争犯罪の裏づけがなかったことを「失望」と表明。調査を促した在米中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」の名をあげ「こうした結果になったことは残念だ」と記した。※米国聖戦論者の本音!
 報告では日本の官憲による捕虜虐待や民間人殺傷の代表例が数十件列記されたが、慰安婦関連は皆無だった。 慰安婦問題について(1)戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった売春制の延長だとみていた。※当時の常識!

 ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは『20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。

【ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)】 クリントン政権時代に成立した「1998年ナチス戦争犯罪開示法」と「2000年日本帝国政府開示法」に基づき、第2次大戦での日独両国の戦争犯罪の情報開示を徹底させる目的で00年に始まった調査。国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検し戦争犯罪に関する資料の公開を指示した。

 ケント・ギルバート氏マイケル・ヨン氏の記事を和訳
 
日韓問題:第二次世界大戦中、韓国男性が臆病者だったとでも言うつもりか?

 マイケル・ヨン氏「今までほとんど誰も存在すら知らなかったIWGの報告書を読んで欲しい。もし全部を読む時間が無いようなら、報告書の中で慰安婦(Comfort Women)を検索して、その部分だけでも注意深く読んで欲しい」
かっての敵国アメリカが8年30億円かけて日本先人の潔白を証明した「最終!」検証報告書
Nazi War Crimes & Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group
Final Report to the United States Congress April 2007
http://www.archives.gov/iwg/reports/final-report-2007.pdf


 「泣き売」偽証慰安婦(私娼・朝鮮内乱犠牲者・便乗老婆)加害者韓国軍国連軍

 売春婦は人類最古の職業、当然、当時も居た。日本軍公娼(エリート売春婦)はほんの一握りで、私娼窟売春婦は数多なのに、中朝韓はほんの一握りの日本軍公娼慰安婦を針小棒大に拡大、はるかに多かった私娼窟の売春婦
は隠蔽し、皆無のごとく宣伝した。結果、「すべての売春婦=従軍慰安婦」と。無辜無知の各国国民はだまされた。

 常識で考えてみよう!日本軍公娼慰安婦はエリート高給取り、年季明けで、帰国した。私娼窟私娼売春婦は、まさに性奴隷であった。現在の慰安婦証言者は、私娼窟の売春婦か、日本撤退後の朝鮮内乱や朝鮮戦争の犠牲者か、身より無き老婆とに大別される。

 日本非難の慰安婦被害者証言の加害者は日本ではなく、朝鮮戦争の国連軍(従軍慰安婦で日本非難議決国=米韓加豪蘭比EU)や韓国軍私娼斡旋業者私娼窟父母親族。相手が自国の韓国軍や戦勝国や私娼斡旋業者私娼窟父母親族では、ただの売春婦扱いされ金も取れないので、敗戦日本の軍隊にすり替え、被害者証言「泣き売」を展開し、主語すり替えの偽証で生きる糧を得た。
 また、身より無き老婆も、便乗偽証で生きるための糧を得た。
参照⇒
ローマ法王看破!ミサ7人の老女は朝鮮戦争犠牲者か洋公主

日本大使館前水曜デモは歴史的事実皆無で洋公主偽証証拠
 偽証(検証皆無の証言)が歴史的事実として跳梁跋扈するなら、捏造混乱暗黒の、戦国時代に逆戻り
 日本敗戦撤退後の国連軍や韓国軍相手の売春婦洋公主に、日本軍の公娼を騙らせ、自国の済州島(島民4人に1人の8万人以上の大虐殺)や、保導連盟(120万人以上の大虐殺)や、国民防衛軍事件(10万人以上の大虐殺)等々朝鮮ナチ大虐殺の、ホロコースト隠蔽を謀る、卑劣な捏造国家、韓国!

歴史は
で、ではない!捏造団は子供騙し点攻撃なので、線で殲滅が賢者!

条約締結後は両国平等原則で謝罪も条約破り

 人類は開闢以来弱肉強食の歴史であるが、その都度条約を交わし復讐の連鎖を切断してきた。「条約や法」は、人類が最適者生存し得た知恵で、人類隆盛のみなもとである。

 「復讐の連鎖の切断」が条約の基本原則で、締結両者平等(加害者・被害者、戦勝国・敗戦国は、消滅)となり、締結以前±は全て消滅し、ゼロとなる(±⇒条約締結⇒0)。条約締結の「謝罪」は、過去の±逆戻りの蒸し返しとなり、「条約破り」となる。「断じて振り向くな!前進せよ!」が、人類の英知、条約締結の基本原則!

 いかに人権を冠しょうと、ユダヤ人ホロコーストや、広島長崎二種(人体実験)の原爆や、無差別皆殺し大空襲の前には、人権などにすぎない。日本がこのことを糾弾しないのは、日本が悪かったからでは断じてない。人類の英知条約を、尊崇し順守しているからである。
 謝罪や賠償要求や訴訟ラッシュ返答は、「日本は法治国家!条約で解決済み!世界を見習え!中韓のみが条約破りだ!」一行で、済んだ事だ!

 謝罪や賠償要求や訴訟ラッシュや日本叩きが、ここまで拡大した原因は、職責者「言葉と文字(日弁連の高木健一戸塚悦郎福島瑞穂宇都宮徳間等々や凶授やNHKや朝日新聞)」の、無知と職責不履行である。

 日弁連が「一票の格差是正」と、各地で提訴を乱発しているが、議士は地域代表で人数代表ではない!国連では、中国(13億4千万人)も1票、モナコ(3万5千人)も1票で、これは、人類の常識である。人口過疎の地方と人口過密都市格差は、人数代表なら、拡大するのみ!「一票の格差是正論」は常識知論と、子供でも解ることだ!

 後述のように人類の英知に逆らった日弁連裁判所、なんと正体は、ヒトモドキ井蛙の歩く毒ガスと、2013年現在もなお、自白しまくりに懸命である。

 「教授や先生は識者(学究者)に非ず。思索(学究)回路皆無の既存知識丸暗記スピーカーか、スパイにすぎない。報道人も然り!
 日本と米国が寄ってたかって沖縄イジメをしているが如くに、「沖縄に米軍基地集中」とオウム返しで叫ぶ報道人。頭脳正常?と疑いたくなる!高額の税金を使っての軍隊駐留は、駐留地がで、侵略最重要地だからである。凶産中国侵略の恐怖を隠蔽するから、こんな馬鹿げた、スパイと自白の、報道に成る!

 戦後67年間の捏造教育(一つまみのただの記憶装置HDDを信用した)で、日本人の根幹は破壊された。

“洋公主”騙り
 朝鮮族“洋公主”騙り日本叩きも、日本経済凋落も、職責不履行による人災である。経済凋落は、中韓の日本人材引き抜きで機密が漏洩し、人件費が極端に安い中韓が低コストで製造販売し隆盛したから。マネは開発費がかからないので、簡単即効で金が入る。職責者が職責を履行しておれば、こうはならなかった。

何のための条約か!条約破りの加藤紘一宮沢河野村山

昭和40(1965)年韓国朴正熙日韓基本条約締結

昭和47(1972)年9月 日中共同声明調印

 条約後に、戦時下の他国非難は条約違反!条約締結で済んでいる事である。

 表音丸暗記(受動)しようとすると皆目解らなくなるが、法律(敵討ち分断)も、戦後条約(紛争解決)も、作る側(能動)の、表意で考えるとすぐ解る。原点は、争いの切断である。以後禍根を残さぬよう、条約で断ち切ったのである。

 戦時(武力の国盗り合戦)下は無法下。非常時下(無法下)を、常時下(法下)に戻す作業が、条約の第一義である。相互に膿を出し合った条約の締結後は、戦時下のことは、当事国政府が、各々一切の責を負い、他国に責任転嫁せず、相互が連鎖を断ち切り引きずらぬことが、条約の第一義で、戦後条約の原点である。国境の決定は武力ではなく、当然ながら、「竹島、尖閣、北方領土等」も、「法」の下でとなる。中国や韓国の特例例外その他云々は、難癖以外の何ものでもない。今の中国の一部は、日本に味方(南京汪兆銘や満州等)し戦っており、ましてや韓国は、敗戦国でも戦勝国でも無い第三国で、火事場泥棒竹島、李承晩ライン、漁船拿捕、密入国等々、散々狼藉した挙句の便乗条約。捏造中国の真似して難癖とは、畜生以下の無恥で、ニセ両班9割(四・三等、同胞虐殺者子孫)の白状!

 日本国と国民は条約を順法し、沖縄も広島長崎等も日本国が補償し、一切中国等の連合国には請求をしていない。凶産平和団体や凶産原水禁の謝罪要求は、条約破りの違法!第一義が、戦時下を断ち切るための条約なのだから、当然なのである(決して日本が悪かったからではない!)。当然、全世界の各国も、中(凶産中国人)朝韓罪日(朝鮮人)以外は、皆条約を順守している。事有る事に内政干渉までして、条約破りの難癖付け違法行為は、この三国罪日のみ!オランダは、慰安婦のみ抗議。

 条約破り捏造常習犯が中国韓国(マネが北朝鮮や罪日)で、同胞大虐殺の前科は同じ、ネットの普及で、同胞虐殺の正体や捏造真逆の歴史がことごとく暴かれている。捏造政権崩壊は目前。国民懐柔目的の、矛先そらしは明白である。

凶産中国と朝鮮南北は戦後総括(同胞大虐殺)未だ無し!「捏造慰安婦」は、旧戦勝国(米国等)や国連を巻き込んでの同胞大虐殺の矛先そらしが日本叩き(条約破り)の真相!

「慰安婦問題」の始まり千田夏光と吉田清治

昭和48(1973)年大連生まれの元毎日新聞記者千田夏光(1924~2000)が「ジューグンイアンフ」という言葉を創作、『従軍慰安婦』出版「『挺身隊』として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5~7万人が『イアンフ』にさせられた」と捏造。1993(平成5)2月『現代コリア』2~3月号(現代コリア研究所 刊)で、現代史研究家、加藤雅夫氏が、千田夏光著講談社文庫『従軍慰安婦』(講談社 刊)の中の嘘を暴露。千田を問い詰めたところ、「従軍慰安婦」という言葉は千田が勝手に作ったもので、内容も島田俊彦著中公新書『関東軍在満陸軍の独走』(中央公論社刊)を参考にしたもので、直接取材はしていない事が判明した。

※戦後28年間、慰安婦を強制連行したなどと、日本人はおろか韓国人さえ言わなかった。なぜか?そんな事実はなかったからである。

昭和49(1974)年千田夏光毎日新聞記者)著『従軍慰安婦続(償われざる女八万人の慟哭)双葉社』出版

昭和52(1977)年吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人』出版

吉田 清治1913年~)は福岡県(山口県とも)出身の元日本陸軍軍人であり作家。強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長。清治は筆名で、本名は吉田雄兎。終戦後の1947年(昭和22年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補。129票を獲得したが落選したという経歴を持つ。

昭和58(1983)『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(吉田清治三一書房)金儲け目的の捏造本。

凶産中国や韓国の犯日を助長した自民党田中派と三木福田大平鈴木善幸中曽根

昭和51(1976)年中国周恩来、毛沢東死去。翌年(1977年)復帰した凶産中国小平は、二大巨頭の逝去で求心力を一気に失った凶産引き締めに、仮想敵国日本とし、犯日を掲げ、恐怖を煽り、国民を洗脳懐柔した。

 一方で鄧小平(当時副首相)は昭和53(1978)年来日し、「尖閣列島棚上げ論」で「日中一致」したかのような、会見をし、狡猾外交を展開した。鄧小平の「双方はこの問題に触れない・一致」は、凶産中国の一方的な言いがかりである「釣魚諸島領土問題」を、中国が取り下げたので、「双方はこの問題に触れない(中国は取り下げて触れず、日本は中国が取り下げたので触れず)」で、「一致」したので、「尖閣列島棚上げ(先送り)論」で「一致」したのではない。「尖閣列島棚上げ論(先送り)」は、「尖閣列島日本領有に問題有り」として俎上に日本を引き出すための、鄧小平の狡猾な小道具、切っ掛け(難癖)」である。

 そして狡猾な鄧小平は、昭和54(1979)年から、日本中国へのODA有償資金協力(円借款)約3兆1331億円、無償資金協力約3兆円以上、合計総額六兆円以上の巨額な凶産経済援助を引き出したのである。なんと日本は、犯日化工作資金を与えたのである。愚民化捏造犯日政策なので、非公開、中国国民は一切知らない。表では笑顔で友好、裏では破壊工作が凶産の正体である。

1989(平成1昭和64)年4月17日天安門事件②胡耀邦追悼集会が民主化要求デモに発展し、人民解放軍が発砲、死者二千人負傷者三万人といわれた。総書記が解任され、小平の抜擢で江沢民党総書記。人心懐柔犯日教育政策の後継者として江沢民小平が指名した。

1993(平成5)年3月~02年中国鄧小平引退の後を継ぎ江沢民国家主席を兼務。市場解放政策に伴う弊害、民主化要求の根を絶つ目的で、残虐日本と捏造し、子供から大人まで洗脳した。凶産常套手段、敵国と捏造の愛国教育である。華人華僑に号令をかけ、慰安婦、各種訴訟等の犯日活動工作に拍車がかかった。

2003~(平成13)年中国胡錦涛国家主席。軍事委員会主席は江沢民。

狡猾捏造が党是で愛国教育の凶産犯日3人に対してなんと17人我欲首相!日本没落は当然!

竹下登(1987~89)宇野宗佑(1989)海部俊樹(1989~91)宮沢喜一(1991~93)年細川護熙(1993~94)羽田孜(1994)村山富市(1994~96)橋本龍太郎(1996~98)小渕恵三(1998~00)森嘉郎(2000~01)小泉純一郎(01~06)年安部晋三(06~07)福田康夫(07~08)麻生太郎(08~09)鳩山由紀夫(09~10)菅直人(10~11)野田佳彦(2012~)

 松田賢弥『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』(講談社)には、こんな日本にした我欲元凶(角栄以後現在まで)どもが蠢いている。お坊ちゃまモヤシ(世襲)議員を手玉に取った野中広務と小沢一郎。輩には国など無い。あるのは私利私欲のみ。国も国民も全く不在の自民党。形骸化した議員の、我欲闘争が書かれている。こんな政治屋を選べばこうなる。こうなったら国が危ないのサンプル。他山の石、反面教師の本である。政治屋の愚行と斬って捨てずに、選んだ国民の反省の本、反面教師として、一読すべき本である。

内政干渉(靖国参拝や教科書検定)の始まり

昭和57(1982)年教科書検定で政府が「『侵略』を『進出』と書き変えた」と朝日新聞の誤報事件。中国が抗議。内政干渉の始まりである。朝日新聞が凶産のスパイ化し、本格活動開始し、難癖の元造り

靖国参拝は中朝韓罪日の「ゆすりたかり」のカード

昭和60(1985)年8月15日中曽根首相参拝「内閣総理大臣たる中曽根康弘が参拝した」と言明し、公式参拝の声明。ところが、「A級戦犯も祭る靖国神社への首相参拝はわが国人民の感情を傷つけた」として中が激しく抗議し、朝日新聞と人民日報が連携しながら犯日反対運動展開の結果、これに屈して、中曽根首相は春秋の例大祭も八月十五日も取り止めてしまった。以後靖国は、中朝韓罪日の「ゆすりたかり」カードとなった。

鄧小平の捏造犯日紀念館開館と加担した田邊 誠(社会党委員長現民主党顧問

昭和60(1985)年(抗日戦争終結40周年中国「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」開館。「抗日戦争記念館」の中身はといえば、日本軍の残虐ぶりをひたすら強調しようと探したが見つからず困り果て、しかたなく中国兵の伝統的猟奇的残虐手法を色々展示している。1986年6月4日天安門事件以降の江沢民政権で、南京事件は大々的に宣伝活動に利用され、対日批判プロパガンダのネタとして、日本政府から、外交上の譲歩を引き出すカードとして利用され続けている。

 田邊 誠(田辺誠1992~ )民主党群馬県総支部連合会常任顧問は、衆議院議員(11期)、日本社会党委員長(第11代)を歴任。

 田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、当館を建設するよう勧めた。中国共産党が資金不足を理由に建設は消極的だったので、田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付。その資金で南京大虐殺紀念館が建設された。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。また記念館の設計日本人が手がけた」元教科書是正訴訟事務局 事務局長 半本 茂

 1982年、田辺の再三の建設要求と破格の資金提供に対し、中国政府の鄧小平ならびに中国共産党中央委員会が、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国(犯日)主義教育を推進するよう指示。1983年、中国共産党江蘇省委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館を設立することを決定し、中国共産党南京市委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。鄧小平1985年2月に南京を視察、建設予定の紀念館の館名を「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」と揮毫。

田中偽文書と同じ国連委や日本での捏造思想戦展開の中朝韓罪日は戦争起因
 凶産主義中国・国家捏造主義韓国は全体主義。民主主義は個人の集合体。全体主義がカサにかかって個人を攻めればひとたまりも無い。民主主義の弱点である。WW2は凶産全体主義がカサにかかって民主主義の個人を篭絡して始まった。

 タウンゼントが明快に指摘するごとく日中戦争WW2大東亜戦争は世界の「言葉と文字界(拝金主義者)」が凶産に買収されたのが起因。

 犯日や慰安婦や保障請求は、凶産中国捏造韓国の自国民洗脳懐柔が目的。

 凶産中国は、毛沢東周恩来亡き後絶対的求心力を失い、同胞大虐殺(凶産化国内戦での同胞大虐殺、文革での大虐殺)の反動による、大内乱が想定された。凶産中国鄧小平と江沢民は、求心力回復と同胞大虐殺隠蔽目的で仮想敵日本とし、国内を懐柔、捏造犯日工作を開始。

 一方、韓国の大恥辱、同胞大虐殺(四・三、保導連盟、朝鮮戦争等)で同類の韓国も、独裁軍事政権(同胞大虐殺強制隠蔽)から民主化政権に移行し、大虐殺強制隠蔽続行は、危ぶまれ、韓国大内乱が想定された。折も折り、凶産中国が開始した捏造犯日工作は、韓国にとってはまさに渡りに船であった。すぐさま便乗した。

 日本からの援助を受けながらこの2国は、犯日で国内懐柔という卑劣な手口を用いたのである。なんとも愚劣な唯物政権である!

 ハニーマネートラップに極端に脆い日本国内の「信念無き唯物の言葉と文字界職責者(凶授、日弁連、議員、官僚、作家、NHK、朝日毎日等)」は、この、卑劣な唯物中韓の手下に瞬く間に成り下がりスパイ化、犯日(亡国)工作を開始した。

 

反共(日中)戦争時の捏造情報戦と同じ状況の慰安婦問題

2012.10.16
 国連総会第3委員会(人権)で15日、韓国が慰安婦問題を取り上げ、日本に法的責任を認めるよう要求した。これに対し、日本は「解決済み」との立場を強調した。

 韓国の辛東益国連次席大使は日本の名指しは避けつつも、慰安婦問題が「未解決のままになっている」と述べ、被害者への救済措置と賠償の必要性を訴えた。

 これを受けて、日本の児玉和夫国連次席大使が答弁権を行使し、「多くの女性の尊厳と名誉を傷付けた」としつつも、賠償問題については「法的に解決済み」と、従来の日本政府の立場を強調した。

 辛次席大使は改めて日本政府の法的責任を追及したものの、児玉次席大使は再答弁で、「日本の立場は先程言った通りだ」と述べた。

 韓国は昨年10月の同委員会でも慰安婦問題を取り上げた。また、今年9月下旬の国連総会一般討論演説でも、金星煥外交通商相が「戦時中の性的暴力」との表現で慰安婦問題に言及、「人権侵害で人間の尊厳への侮辱でもある」などとして、国連や加盟国に被害者への賠償と加害者への処罰を求めた。

2012/10/24バンク、ソース 
 サイバー外交使節団バンクが米国の有名大学を回って独島(竹島)と慰安婦問題を知らせる「21世紀新ハーグ特使プロジェクト」を始める。

 バンク24日、特使発隊式を持ってパク・ギテ団長と研究員など特使6人が翌月1日から半月行ったスタンフォード大、ハーバード大、コーネル大、ジョージタウン大などを訪問して韓人留学生会と手を握り日本の過去の問題を集中的に照明する計画だと明らかにした。

 バンク1907年ハーグ特使事件に着眼、今回の活動を「21世紀新ハーグ特使プロジェクト」と命名したとして「日本の過去問題解決のための世界次世代リーダーの役割」という主題のカンファレンス等を通して日本の主張の不当性を知らせると話した。

 カンファレンスではパク団長の特別講演をはじめ韓人学生、教授などが参加する「ホロコーストvs慰安婦」、「韓・中・日歴史・領土葛藤の本質:独島vsアジア平和」などを主題に討論会を行い特使らが準備した慰安婦関連演劇も公演する。

 また、自ら製作した'明成皇后殺害事件'、'高宗皇帝のハーグ特使'、'日本政府の慰安婦関連歴史認識'、'慰安婦おばあさんらの痛み'、'日本によって絶滅した独島アシカ'、戦犯国旗の旭日旗排除運動'など過去の問題と関連した8つの映像を見せる予定。

 映像には日本がアジア平和という美名の下、1905年韓国領土の独島を強奪して韓国を植民地化し、韓半島と韓国人がアジア侵略戦争に出た日本帝国主義によって苦痛を受けたという内容を込めている。

 また、植民地過程で多くの青年が強制徴用され女性たちは日本軍強制性的奴隷と呼ばれる慰安婦になった歴史的真実なども紹介。

 バンクは訪米期間に韓国人報道機関と外信を相手に活動説明会を開き、ニューヨーク国連本部とタイムズスクエアで日本の過去の問題を知らせるストリート・キャンペーンも展開する計画だ。バンクはこのプロジェクトを広報する英文ウェブサイトを開設し同時にツイッター、フェイスブック等を通したSNS広報も進める。

 パク・ギテ、バンク団長は「国民と全世界の人は独島を領土問題、慰安婦を人権問題に区分して見ているが、この二つは日本の過去問題として一緒に見なければならない。今回の活動が米国人に日本帝国主義侵略の歴史を知らせる機会になるだろう」と話した。

 パク団長は「私たちの最終目標は独島を通じて日本の新帝国主義の復活を防ぐこと」としながら

「これから全世界大学の韓人留学生と手を握り、ユダヤ人のホロコーストのように日本の過去問題を集中的に知らせていく計画」と明らかにした。

2012/11/01 慰安婦、中朝韓が批判。オランダが日本の教科書での記述がなくなったと指摘。

2012/11/01慰安婦問題中国韓国北朝鮮謝罪と補償を要求

軍隊一部の断罪済み(スマラン)事件を隠蔽して拡大軍隊全部と捏造が真相
 朝鮮人が米国で銃乱射大量殺人を犯した、だから、朝鮮人は皆、「銃乱射大量殺人犯」とは報道しないだろう。がしかし、インドネシアスマランで強制連行され性奴隷にされたと証言するオランダ人」証言者が居る(スマラン事件は60数年前に断罪済)から、日本軍は20万も強制連行し、性奴隷にしたと捏造し、扇動しているのが韓国。

 「一部をつまみ食いし全部と捏造しての、針小棒大扇動」これが、韓国慰安婦騒動の正体。父母が兄弟が身内親族が村が町が、女と少女の誘拐を看過した人間以下は朝鮮人と、世界に向けて発信している。常識があれば、嘘は見え見え!この韓国捏造に追随してマネしているのが、凶産中国と北朝鮮。

慰安婦問題とは強制の有無だけである
 強制スマラン(白馬)事件は、軍紀違反で日本軍に処罰され、2ヶ月で閉鎖。強制事件は日本軍一部の不始末で処分済み。日本軍関与無しの証拠である。

職責者が一般常識皆無の思索回路無き半端者スパイなのでこうなった
「自称慰安婦証言丸鵜呑み」論者は常識欠落半端者との白状

 「女性心理として、過去に売春にかかわっていたことを家族親族への配慮も含めて、通常語りません。声高に主張することなどあり得ません」。常人女性の常識である。強制連行性奴隷のスマラン(白馬)事件は死刑で断罪済。これ意外は皆無なので、戦後45年間騒ぎはなかった。

 45年も経てからの、従軍慰安婦犠牲者証言での「謝罪賠償」要求は、反論者はすでに亡くなっており、「死人に口無し」なので言いたい放題である。当時の常識と証拠で判断する以外に無いのである。

 朝鮮族は、誘拐性奴隷慰安婦は20万人以上と二つの碑(パリセイズ・パーク市とナッソー郡のアイゼンハワーパーク)に刻み、主張している。

 当時の朝鮮(韓国と北朝鮮)の人口は2300万人(1940年帝国書院)なので、女性は1200万。当時の寿命60年として、該当年齢女性(15~20歳)は12分の1の100万人位か(ソウル大学教授李栄薫は、1940年の16~21歳の朝鮮女性は125万人と算定)。つまり、朝鮮族は、なんと妙齢女性5人の内の一人が、誘拐(日本軍が強制連行)されたと主張しているのだ!

 当時の朝鮮は日本統治の下で、女性も平等(日本統治以前の差別階級の女性には、名前すらも無かった。シャルル・ダレ著『朝鮮事情』)となり義務教育を受け、進学もしていたので、学校でも、村や町や市でも当然、大事件となったはずである。

 1929(昭和4)年光州(学生)事件日本人中学生が列車内で、朝鮮人女生徒からかったというのが発端で、大規模な学生抗議運動となり、朝鮮全土に広がった。戦後の1953年、韓国はこの日(11月3日)を記念、「学生の日」とした。このような民族が、20万(5人の内の一人)もの強制連行性奴隷を、看過するはずなど無い!また、当時の「売春(慰安婦)」業は、合法。

※保守右翼自称の中山成彬先生が、今頃ノコノコとネットの追試では、呆れ返るのだが、他の議員先生よりはまだマシと言う事か!2013.6.7「朝鮮人の親は弱虫か」

 45年も経てからの、従軍慰安婦犠牲者証言での「謝罪賠償」要求は、「死人に口無し」を前提にした難癖と見られても仕方あるまい。

 「朝鮮先人は、人さらいを黙って見逃すほど、だれもが腰抜けだった」のか!どこの国に、「強制連行し慰安婦にする自国軍」を看過する国民が、いようか!常識さえあれば、子供でも解ること、すべて偽証で、信用度は50%以下である。信用度50%以下の、証言のみが証拠の者に、「謝罪賠償」に応じる責任は無い。ましてや、条約済みである。

 自称従軍慰安婦は、売春婦の過去を売りにして商売している一種の芸人。

「私は善人」と善人振る言葉と文字界の「私は善人族
 善いとこ盗りし、私は善人と善人振る人間集団。「私は善人族」のNHK朝日毎日TV朝日TBS、日弁連人権派弁護士、凶授銭生民主党社民党共産党や、大江や「九条の会」、落合恵子、みのもんた(TBS)古舘伊知郎(TV朝日)大谷昭宏(TBSとTV朝日)鳩山兄弟菅直人仙谷福島瑞穂辻本清美等が該当する

 調べもせず、WGIPをかさに、先人の短所のみを針小棒大に拡大しこき下ろし、正義の味方を気取り、善人振る輩で、扇動屋で、人道平和強制原爆原発等の単語に、馬鹿の一つ覚えで反応する、実社会大学経験皆無の偽善者である。

予備知識
慰安婦証言者の家族親族世間からの非難回避手段が「私はかわいそうな犠牲者」証言

自称元慰安婦捏造証言者の、必須アイテムが「強制連行(誘拐)・性奴隷(監禁)・日本国の犠牲者(殉難者・英雄)・日本国が謝罪(賠償金奪取正当化の大義名分)」!

 日本叩き用語「強制連行(誘拐)・性奴隷(監禁)・日本国の犠牲者(殉難者・英雄)・日本国が謝罪(賠償金奪取の正当化の大義名分)」は、「自称、元慰安婦証言者」の、身内親族からの非難回避用で、かつ、犠牲者(殉難者)として賠償金を勝ち取る為の必須の小道具である!この捏造小道具を無条件で信用する非常識の輩が、拡大した!

 慰安婦問題唯一の根拠は、「自称、元慰安婦証言」のみ!「慰安婦」は身内親族にとっては不名誉千万なのである。したがって、自ら進んで「慰安婦」になったと証言する馬鹿者(慰安婦は商売なので被害者ではない、証言は不名誉の拡散のみで、百害あって一利なし)などは、皆無。もちろん、「賠償金」は、「合法下の商売」なので、取れないことは常識である!

 したがって、自称証言者の証言内容には、「強制連行(誘拐)・性奴隷(監禁)・日本国の犠牲者(殉難者・英雄)・日本国が謝罪(賠償金奪取の正当化の大義名分)」の事項を盛り込むことが絶対の条件となる(韓国初期の証言は、この完全捏造がまだ徹底されておらず、本音(真実)がちらついている)。

 「自称、元慰安婦証言」は、「強制連行、誘拐された、騙され監禁された、私は被害者(殉難者)」と証言することで、「身内親族からの非難を回避」し、「ならどうして逃げなかった」の追求は、「閉じ込められ(性奴隷とされ)逃げられなかった証言」で「回避」し、このような犠牲者(被害者)だから「賠償金をくれ」論法となる。日本国への謝罪要求は、ただの売春婦が、自国民の同情を集めて英雄となるための必須のアイテム。自称証言者がただの売春婦(売女)か、英雄(殉難者)かの分岐点「お墨付き」が、「日本の謝罪」なのである。

騙れば老人天国

 証言者利得は、金がもらえて、いろんなところに金をもらって行けて、「嘘を話すだけで」歓迎され、旨い物が食える。まさに、騙れば極楽が慰安婦証言者!2につづく⇒


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真実史観背乗りの巣?条約破り推進の凶授・日弁連・記者・政治屋等の団体

背乗りの巣?条約破り推進の凶授・日弁連・記者・政治屋等の団体

予備知識韓国オランダ日本の売春の歴史

韓国の妓生(売春制度)廃止は2004年

 朝鮮戦争後、駐留米軍に対する風俗店は、朝鮮語でヤクザと呼ばれる非合法の犯罪組織が関与し、莫大な金額が地下に流出していた。これを一斉に摘発し、新たな国営の娼館制度を代わりに据え、外貨獲得を行った。

 これが通称国営妓生と呼ばれる制度であり、更なる外貨獲得のため、一時はベトナム戦争時など海外にも派遣された。日本が復興し、海外旅行が再開されると、日本からの観光客に対しても、国営妓生が使われた。1990年代まで、キーセン旅行と呼ばれるほど韓国旅行が風俗旅行と同等の意味を持っていた。

 漢江の奇跡を経て、1980年代に韓国経済が軌道に乗り始めると、国営妓生の志望者は減少し、不足を埋める形で成長した民間の妓生では、フィリピンやインドネシアなどの東南アジアから女性を誘致するようになり、ソ連崩壊後は、ロシア人女性も誘致の対象となった。

 だが、やがて外国人娼婦に対する違法行為が頻発し、一部で社会問題化した。そして2004年に、韓国の議会は、全ての売春施設を閉鎖、売春行為を違法とする法改正を行った。これによって、妓生は大韓民国では事実上廃止された。以後輸出超大国となり、各国で摘発(売春経営者も売春婦も韓国人)されている。

 ソウルのキーセン・ハウスでは「清雲閣」「大苑閣」「三清閣」の「3閣」が有名だった。伝統的なキーセン・ハウスで唯一残っていた「梧珍庵」(오진암)も、2010年に閉店した。

 韓国は現在も売春大国NO1。韓国で稼げなくなった女性をスカウトし、東京・鶯谷周辺で商売をさせ、荒稼ぎしていた韓国籍の経営者(32)ら3人を、警視庁が先週逮捕――2012年10月04日
 韓国売春の歴史は米国の朝鮮人捏造い安婦碑文は宣戦布告文も参照。 

オランダの飾り窓(個人売春制度)は今でも合法

 飾り窓とはオランダ 、ドイツ 、ベルギー 等のゲルマン諸国、またそこから伝播して、地中海等でも見られた売春 の一形態や施設。オランダ語では「nl:Raamprostitutie(窓売春)」である。道路に面したドアはほぼ全面ガラス張りで、室内はピンク、紫、ブラックライト等で照明、軒に赤いランプを灯しているのが特徴で、英語圏等ではこれらが集まるエリアを「en:Red-light district(赤灯街)」と呼ぶ。

 オランダでは、売春婦は、18歳以上でなくてはならず、個人売春のみ合法で、所得税も払い、自営業と同じ扱いになっている。

『サンデー毎日2000/10/22』

 ”自由と寛容の国”オランダで、10月から売春業者が合法化された。売春婦(夫)そのものは1912年施行の売春管理法でれっきとした「自由業」として認められているのだが、セックスクラプや「飾り窓」の経営者はこれまで正式な仕事として認められていなかった。

 どうして今さらの合法化かというと、近年、オランダでは売春婦の強制労働や不法滞在、18歳未満の若年就業が急増しており、政府がこの取り締まりに本腰を入れることにしたためだ。これまで「正業ではない」ことで、万事がいい加滅に済まされてきたこの業界を「正業化」することによって、従業員(売春婦)の管理や納税義務を他の職業と同じように課そうという狙いがあるのだ。

 300軒以上の「飾り窓」が建ち並ぶアムステルダムの赤線地区は今や、観光名所の一つだが、そこで働く1万人以上の売春婦たちの素性は、この数十年、大きく様変わりした。70年代までは大半がオランダ人だったが、80年代に入ると東南アジアや中南米、アフリカからの出稼ぎ移民が増えた。そしてベルリンの壁の崩壊とともにロシアや東欧の女性が急増し、今ではオランダ人は全体の3割程度だ。

 新参者の増加によって30分200ギルダー(約9000円)という売春相場も頭打ちとなり、経営を維持するために手段を選ぱず東欧諸国の女性を集め、強制的に働かせる業者も目立ち始めた。今後は役所の営業認可が必要となり、不法移民などの雇用も禁止される。売春婦の働く環境も改善されるはずだ。

 オランダのセックス産業は年間20億ギルダー(約900億円)を生み出す巨大産業だ。政府とて業界をつぶすつもりはなく、合法的に行ってくれればよい」(内務省)。

 もっとも、晴れて「かたぎ」になった業界は、「余計な設備投資はかかるし、はっきり言って迷惑な話だ」とぼやいているが・・・。

日本は1957年廃止

 日本の公娼制度は鎌倉時代に始まり、1957年売春防止法の実施により廃止で、当時は合法。当時の敵は、植民地同胞ではなく、宗主国。追軍職業婦は、解放植民地同胞婦女保護のために、採用したにすぎない。戦地なので、設営輸送護衛保護は当然、軍が担当した。これらの行動を、逃亡防止強制連行管理主導と解釈されれば、なす術は無いが、そうでなかったことは、韓国人以外に、団体証言者無しが証拠である。

 いかに戦時中といえど、誘拐や強姦禁止は当然で、甘いと、統制が執れなくなり、軍の指揮権崩壊となるので、重罪。

 『売春防止法』は1956(昭和31)公布、翌(1957)年実施、戦後12年後である。売春禁止の現在の道徳観念のみでの批判は、遡及(事後)法と同じ禁止法の愚論。悲惨のみなら、1333年(鎌倉時代)から1957まで、600年以上も続くわけなど無い!現代多発の「慰安婦展」は、日本に暗躍するスパイどもが、悲惨のみを選り盗りし、拡大し、報道する、先人愚弄作戦の一端である。

 戦後12年、55年前までは商売。商いなので、一見客相手の夜鷹(民間人相手の路傍売春婦)商売より、固定客(軍隊という団体)相手の商売は、常識。ましてや、定期的に軍医の身体検査(性病等)も受けられ、保護も施設等も願ったり適ったり、こんな好条件に飛び着かないほうが異常。顧客として条件の良い軍隊を追いかける追軍職業婦は、当然なのである!

 

1872(明治5)年太政官布告第295号
人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ解放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケス

◆刑法◆ (明治四十年四月二十四日法律第四十五号)

224条 未成年者ヲ略取又ハ誘拐シタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ処ス

225条 営利、猥褻又ハ結婚ノ目的ヲ以テ人ヲ略取又ハ誘拐シタル者ハ一年以上十年以下ノ懲役ニ処ス

陸海軍刑法
第九章 掠奪及強姦ノ罪

第八十六条 戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ住民ノ財物ヲ掠奪シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス

2 前項ノ罪ヲ犯スニ当リ婦女ヲ強姦シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ処ス

第八十七条 戦場ニ於テ戦死者又ハ戦傷病者ノ衣服其ノ他ノ財物ヲ褫奪シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス

第八十八条 前二条ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ処シ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス

第八十八条ノ二 戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ一年以上ノ懲役ニ処ス
2 前項ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ処シ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役ニ処ス

第八十九条 本章ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

 

 平和な現代ですら殺人や暴行事件は頻繁だ、ましてや、間違って同士討ちも頻発する非常時戦時下のこと、手違い間違いは平和な現代以上に多発した。一部の命令違反をつまみ食いし、すべてがそうであったかのように針小棒大宣伝121号決議」やスパイ凶授の日本軍非難は、沖縄でアメリカ人の殺人事件があった、だからアメリカ人全部が殺人者だと言う事と全く同じで、整合性が全く無いでっちあげ捏造の好いとこ盗り愚論。

 当時の、この常識を米下院は無視し捏造、上記決議をした。民営慰安所や追軍職業婦はいたが、従軍慰安婦や、性奴隷は、捏造!追軍職業婦は、年季明けには、帰るも残るも自由であった。

 条約を交わした当事者がみまかってから、この問題は蒸し返している。戦後45年間は何等問題は起きていなかった。納得し締結なので、当然なのである。

 

2006年11月04日池田信夫ブログ

河野談話は見直しが必要だ

 安倍首相は、「侵略戦争」を認めた1995年の村山首相談話や「慰安婦」について謝罪した93年の河野官房長官談話を認めるなど軌道修正が目立ち、「自虐史観」を批判する支持者から批判を浴びている。他方、下村官房副長官が河野談話について「事実関係を研究し、客観的に科学的な知識を収集して考えるべきではないか」とのべたことが野党の反発を呼んでいる。しかし、これは靖国参拝のような「心の問題」でなはく、検証可能な歴史的事実の問題であり、政治的配慮で封印するのはおかしい。

 私は、かつて慰安婦騒ぎがつくられた現場に立ち会ったことがある。1991年にNHKの終戦関連企画で、私は強制連行をテーマに、同僚は慰安婦をテーマに取材した。韓国で数十人の強制連行経験者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかった。強制連行とよばれるものの実態は、朝鮮半島で食い詰めた人々が高給にだまされて日本の炭鉱や軍需工場に出稼ぎに行き、ひどい条件で労働させられて逃げられなかったという「タコ部屋」の話にすぎない。慰安婦も、売春でもうけようとする民間の業者が、貧しい農村の女性をだまして戦地に連れて行った公娼であり、「従軍慰安婦」という言葉も当時は使われなかった

 河野談話のいうように「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多く」あり、軍がそれに関与したことは事実だが、公権力で徴用した事実はない。談話でも「官憲等が直接これに加担した」という表現にとどめている。実をいうと、私も当初は軍の強制の証拠をさがしたのだが見つからなかったので、戦争ものとしてはインパクトの弱い番組になってしまった。ところが、ほぼ同時に放送された慰安婦のほうは「私は慰安婦だった」と韓国女性が証言し、その後、日本政府を相手どって訴訟まで起こしたため、国際的にも大きな反響を呼び、政府が謝罪するに至った。

 私は、最初からこの「証言」には疑問をもっていた。証言者を連れてくるところから話の中身まで福島瑞穂弁護士がお膳立てし、彼女の売名に利用されている印象が強かったからだ(のちに彼女は社民党から出馬して参議院議員になった)。実際には、元慰安婦の証言以外には、軍が連行したという証拠は当時も今もない。しかし史実に忠実につくった私の番組よりも、センセーショナルに慰安婦問題を暴いた同僚の番組のほうが「おもしろかった」ため、話が次第に一人歩きし、演出が事実になってしまったのである。

 河野談話の根拠とされたのは、「軍が済州島で慰安婦狩りを行った」と証言する吉田清治氏の『私の戦争犯罪』(三一書房)という本だが、この内容は捏造であることが後に判明した。これについて、安倍氏は97年に「河野談話は前提が崩れている」と国会で質問し、その見直しを迫った。これと首相答弁の矛盾を追及されると、彼は「狭義の強制には疑問があるが、その後広義の強制に議論が変わった」と苦しい答弁をしているが、公権力を執行していないのに政府が謝罪するのは無原則である。これは安倍氏の政治家としての矜持にかかわる問題だ。

 事実関係に疑問があるのに、閣議決定を継承するという手続き論で「科学的な知識の収集」も許さないのはおかしい。もちろん韓国と友好的な関係を結ぶことは重要だが、誤った歴史認識のもとで一方的に謝罪しても、真の友好関係は築けない。日本軍がアジアで行った侵略行為について政府が謝罪するのは当然だが、事実でないことはそう指摘するのが、成熟した日韓関係の基礎だろう。中韓の反日教育の実態もひどい。靖国という「非問題」がようやく後景に去った今、日中韓が率直に対話して、客観的に歴史を検証する必要があるのではないか。

 

2012年08月17日池田信夫blog

慰安婦問題の「主犯」は福島瑞穂弁護士

 竹島問題が慰安婦問題を再燃させ、なぜか尖閣諸島まで飛び火しているが、愛国心に燃える前にまず基本的な事実関係を理解しておいたほうがいい。本書は先週のニコ生にも出演してもらった西岡力氏の解説である。

 慰安婦問題の特異性は、日本人が創作した話だということだ。ふつう「私が犯罪者だ」と嘘をつく人はいないが、奇妙なことに戦争についてはそういう「詐話師」がいる。この問題の発端となった吉田清治がその最たるもので、彼の『私の戦争犯罪』には、済州島で「慰安婦狩り」をした様子が詳細に書かれているが、なんとすべて嘘なのだ。本人ものちに「フィクションだ」と認めた。

  ところが吉田の話に目をつけて日本政府を相手に訴訟を起こそうとしたのが、福島瑞穂氏や高木健一氏などの弁護士で、彼らは韓国に渡って原告になる元慰安婦を募集した。そこで見つけたのが金学順で、彼女はNHKにも出演して「親に売られてキーセンになり、義父に連れられて日本軍の慰安所に行った」と証言した。この話をNHKに売り込んできたのが福島氏で、彼女はスタジオに立ち会って金にせりふを教えていた。目的は、軍票(敗戦で無効になった)で支払われた給与の賠償だった。

※条約締結済みなので給与の賠償は韓国が支払うべきものである。

 しかし朝日新聞の植村記者がこれを(吉田のストーリーにそって)「女子挺身隊として強制連行された」と誤って報じたため、福島氏らは訴状を「軍に連行された」と書き換えた(だから彼女は「強制連行」が嘘であることを知っているはずだ)。その原告団長は植村記者の義母だったが、のちに裁判費用を詐取したとして逮捕され、行方をくらました。

 要するに戦争をネタにもうけようとたくらんだ旧軍人が「軍の性奴隷」という猟奇的な話をでっち上げ、それを政治的に利用しようとした日本の弁護士が韓国人をけしかけ、朝日新聞がそれに乗せられたという構図だ。したがって主犯は福島氏で、朝日は問題を拡大した共犯である。

 この騒動で福島氏は「人権派弁護士」としてマスコミにデビューし、国会議員にもなったが、彼女のおかげで日韓関係はめちゃくちゃになった。今回の慰安婦騒動に彼女が沈黙を守っているのは、ここまで嘘がばれてしまうと取り繕いようがないからだろう。朝日新聞とともに彼女にも説明責任がある。国会で説明すべきだ。

条約破りを捏造や好いとこ盗りして推進した日弁連背乗りの巣? 

1991年8月「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦著新潮選書1999年6月)より。以降「慰安婦と戦場の性」と略記。

日本弁護士連合会(略称日弁連は弁護士加入が義務づけられているので、全員が加入している)

 「人権派」自称の弁護士が、人権擁護委員会を根城にし、条約締結で解決済みの戦後補償問題(犯日活動)に人権を冠して、未解決人権問題であるかのように擬装、捏造に力をいれ、1991年8月、アジア9カ国から13人を迎えた国際フォーラムで、従軍した軍人・軍属、“強制連行”による労務者、兵補、サハリン残留者(高木健一弁護士が取り上げていた)、原爆被害者、軍票などを取り上げた。さらに高木健一弁護士が慰安婦訴訟を提起すると、世間の耳目は慰安婦問題に集中、他の戦後補償はかすんでしまった。

 日弁連も全力をあげて取り組みアジア各地のNGOに呼びかけて、「被害者」を掘り起こし、訴訟へ持ち込んだ。1995年夏の中国人元慰安婦訴訟には、144人の弁護士が訴訟代理人に名を連ねた。

 日弁連人権派の特徴は、法律化集団であるのにも関わらず、観念的、情緒的、非実証的論調に終始する。1992年7月の「日本の戦後処理を問う」シンポは数十人の弁護士を動員したものだが、「戦争を最もよく防止できるのは人民大衆」とか、「国際的潮流と言ってもよい補償の流れがやっと日本に打ち寄せてきた・・・もはや必然的な歴史過程」とか、「近代軍隊の中でそのような制度(慰安婦)を置いたのは日本軍だけで・・・戦後は徹底的に隠蔽されてきた」と、観念扇動言動が頻発した。

 しかしながら裁判による解決は、当初から見込み薄との判断はあったのだろう。日弁連は1992年に海外調査特別委員を委託した戸塚悦郎弁護士を通じ、海外のNGOと連携を深め、国連の場へ持ち込み、国際世論の圧力で国家補償による特別法を制定させる戦略を取った。

 戸塚はこの6年、ロンドン、ソウル、シアトルと移り住み、韓国挺対協やジュネーブに集まる国際NGOたちのブレーンとして、中枢的な役割を果たす。

 さて前記の主旨の日弁連提言は、北京世界女性会議(1995年9月)やクマラスワミ調査団に提出され、96年4月ク報告が国連人権委員会で採択されると、日弁連は土屋会長名ク報告に盛られた6項目の勧告を日本政府が実行に移すよう要請した。

 96年12月には土屋前会長の呼びかけで「慰安婦問題の立法解決を求める会」が設立された。また97年5月には、「慰安婦を歴史教科書に記載して子供たちに伝えていくことが必要」との鬼迫日弁連会長名の声明も出た。

 こうした日弁連の政治的活動は「目的外や職務外の行為」と、内部からの反発も出て、98年4月の会長選挙では人権派が破れ戸塚弁護士も特別委員を解雇されたので、若干の軌道修正が進むかもしれない(秦郁彦)。

 

「言葉と文字界」無検証丸暗記の偽善者体質自白

職責不履行給料泥棒偽善者の発言350p

上野千鶴子東大教授)

 「国家の犯罪であるだけではない。男による性犯罪でもある(朝日新聞1993年1月31日)。フェミニズムは国境を越えるべきだ。元慰安婦の方々の闘いは韓国ナショナリズムを越える(現代思想1996年10月号)。元慰安婦の証言によって歴史は書き換えられた(論座98年3月)」

江原由美子(都立大教授)

 「性暴力の被害者にその身を恥じさせ告発を抑制させることは、それ自体許しがたい性暴力(思想の科学92年の12月)」

藤目ゆき(大阪外大助教授)

 「国民基金のやってきたのは運動の分裂工作、スト破りの組織化みたいなもの(インパクション107号)」

若桑みどり(千葉大教授)

 「慰安婦問題は帝国主義近代国家が抱えるもっとも深刻な矛盾が凝縮した歴史的黒点(週間金曜日97年8月1日)」

福島瑞穂社民党党首弁護士)

 「性暴力の極致ともいうべき従軍慰安婦(書斎の窓92年の11月)」

扇動偽善騙り詐欺師

澤地久枝(作家・九条の会

 「慰安婦の証言を"真実定かならず”などと言うことは許されない・・・時効の壁など絶対にあってはならない(文芸春秋96年10月)」

辛淑玉(朝鮮人コラムニスト)

 「従軍慰安婦は・・・国家権力による拉致監禁強制売春という言い方をしないといけない(朝日労組新聞研委かわら版97年12月25日)」

鈴木裕子(女性史家)

「公娼制度自体がいわば国家強姦システム、それを軍隊でも100%使って・・・(インパクション107号1998年)」

深見史(フリーライター)

 「日本の男のセックスといえば強姦か売春しかイメージできない性意識そのものがすでに十分に犯罪なのだ(RONZA97年5月)」

三木睦子(三木首相の妻)

 「教科書に2、3行書いたぐらいでは足りない(毎日新聞97年の2月6日)」

秋田一恵(弁護士)

 「強姦の姦は女性を蔑視している印象を与えるので強かんと表記せよ(フィリピンの日本軍慰安婦224p)」

正論発言

上坂冬子

 「朝鮮半島の女性も当時は日本人・・・日本女性と同じように日本軍を慰安し、報酬を得た(週間ポスト92年2月28日)」

桜井よしこ

 「あの時代は売春宿は世間にも認められていた。いま振り返って悪いといってもしょうがない(横浜での講演96年10月)」

曽野綾子

 「私も慰安婦だったという詐欺も必ず出てくるだろう。それをどう見分けるのか」

山崎久美子

 「売春は立派な肉体労働の一種だと思っているので、もし私が戦時中に生きていて・・・他になかったら、売春婦になると思います・・・性奴隷だとヒステリックに言う運動家の人たちは、売春婦だった人たちを、本当は蔑んでいるのかしらと思えてしまいます(正論97年5月)」

蘭栽培と戦地の性

 蘭は根腐れすると花芽の成長が早く、よく伸び、子孫を残すため全精力を注いで開花する。見た目には株も生育しているように見えるが、根は皆無なので、やがて消滅。蘭栽培(筆者の趣味)で得た知識である。

 明日無き命の戦場での性欲は、極限となる。売春はか弱い女性生き残り最後の手段として、造物主が与えた種保存の生命力といえる。弱い者は淘汰され、強い者が生き残った。この歴史があるから今が在る。

弱肉強食の戦国(復讐の繰り返し)に戻そうと、人類の英知、法と条約(復讐の連鎖の切断)破壊を企てる偽善者(原告弁護団や支援組織の法律専門家や平和団体)。

戦後補償を分捕るために偽善者が考えた手口341p

1、国際(慣習)法からのアプローチ

条約締結は国と国なので、国と個人ではない、個人の、日本に対する民法上の請求権は有ると、こじつけ、人類の英知、法と条約(復讐の連鎖の切断)を破壊

2、人道人権概念の適用

「重大な人権侵害」、「もう一つのホロコースト・アウシュビッツ並み」と呼称し、ホロコースト=慰安婦制度とこじつけ、ヒトラーのユダヤ人大虐殺と同列視し、時効無しに遡及する特別法の立法主張。

 慰安婦裁判を手がける高木健一弁護士「もちろん慰安所では組織的な大虐殺をしたわけではありませんから、同じとは言えないかもしれない。しかし個々の女性たちにとってはどうでしょう。ある意味では、同じだったのではないでしょうか(文藝春秋96年9月号)」と、慰安婦はすべて被害者と決め付けている。大虐殺(ホロコースト)=慰安婦制度とは、整合(常識)回路皆無の自白で、異常人の証拠である。

3、「挙証責任の転換」ないし「推定有罪」概念の適用

「挙証(立証)責任は加害者側にある」、「加害者に反証責任がある」、「(推定有罪)とするほうが、日本人にとって名誉を守る道」と、感情のみで、物言う輩、上野千鶴子(インパクション103号1997年)、若桑みどり(週間金曜日97年8月1日号)、柳美里(新潮4597年12月号)。 反論者亡き53年後の「当時者反論証明」は、今や「悪魔の証明」となった。これを口実に、いいたい放題である。

4、立法による解決

1995年藍谷邦雄弁護士「日本の裁判所が・・・司法的解決はできないとするのであるならならば・・・今は、その見極めをしなければならない(季刊戦争責任追及第10号1995年)」

 日弁連が公式に立法解決提言が95年1月で、当時の土屋公献会長は退任後の96年12月、「慰安婦問題の立法解決を求める会」を結成し、「議員立法による被害実態の調査機関の設置」「国による個人補償立法」を呼びかけた。

 スマラン事件は断罪済み。事後(遡及)法立法を要求する日弁連は、「狂った!」と、整合(常識)回路欠落自白。

 

冤罪日本年表 

慰安婦は亜細亜同胞被害抑止と性病防止が目的

1929(昭和4)年光州(学生)事件。日本人中学生が列車内で、朝鮮人女生徒をからかったというのが発端で、大規模な学生抗議運動となり、朝鮮全土に広がった。戦後の1953年、韓国はこの日(11月3日)を記念、「学生の日」とした。このような民族が、20万(妙齢女性5人の内の一人)もの強制連行性奴隷を、看過するはずなど無い!

1932年「慰安婦と戦場の性」63pより

上海で誕生した慰安所

 日本軍専用の慰安所が生まれたのは、第一次上海事変(1932)時の上海でというのが通説になっている。

 上海事変は満州事変が飛び火する形で、1932年1月28日、中国第19路軍と日本海軍陸戦隊(兵力2千弱)との間で始まったが、10数倍の中国軍に包囲された海軍陸戦隊を救援するため、日本内地から上海派遣軍司令官白川義則大将の指揮する陸戦部隊が急派された。3につづく

真実史観冤罪日本年表職業婦人を従軍慰安婦と捏造証言のみを楯に謝罪賠償要求

冤罪日本年表

 激戦1ヶ月後、反撃に成功した白川軍司令官は3月3日戦闘中止を声明、5月5日に停戦協定が成立して、陸軍は全兵力を引き上げた。

 事変は3ヶ月余という短期間で収拾されたのであるが、3月から警備体制へ移行した派遣軍は、強姦事件などの頻発に悩まされた。

 ――岡部直三郎大将の日記(芙蓉書房1982年)「3月14日この頃、兵が女捜しに方々をうろつき、いかがわしき話を聞くこと多し・・・積極的に施設をなすを可と認め、兵の性問題解決策に関し種々配慮し、その実現に着手する。主として氷見中佐これを引き受ける」

1932年(昭和7)~1939年(昭和14)朝鮮南部連続少女誘拐事件。朝鮮の南部地域(慶尚道・全羅道地域)で続発した。

 犯人は京畿道京城府本町(現大韓民国ソウル特別市中区忠武路)在住の朝鮮人夫婦で、夫は大田刑務所の元看守であった。1932年(昭和7年)に、夫は大田刑務所を退職したが、転職の当てがなかったため、とたんに生活が苦しくなった。そして「金儲けは娘誘拐に限る」と称し、妻と共謀して連続少女誘拐と人身売買を手がけるようになった。

 慶尚北道大邱府南山町(現大邱広域市中区南山洞)の民家に犯人夫妻が訪れ、「俺は京城でも相当な資産家だ。子守娘を雇うのだが、君の娘はどうだろうか。京城の娘はどうも生意気で・・・」と言葉巧みに親を説得し、前金として10円を支払い、その家の娘(当時18歳)を引き取った。その後、娘を京城ではなく中華民国の天津に連れて行き、1000円で売り飛ばしたという。

 後の7年間、同様の手口で朝鮮半島南部の少女約150人を誘拐し、パスポートなしで渡航できた満州国や中華民国の人身売買市場に連れて行き、60000円を荒稼ぎしたという。

 1939年3月4日、全羅南道光州府(現光州広域市)から連れて来られた少女(当時18歳)は、身の危険を感じて犯人宅から逃亡した。犯人は「自分の姪がいなくなった」と東大門警察署に捜索願を届け出たが、不審に思った署員から問い詰められ、7年間の誘拐・人身売買を自白し、逮捕された。

 加害者及び被害者が全員朝鮮人だったことから、朝鮮語メディアである東亜日報や朝鮮日報が特集を組み、大きく取り上げられた。(資料・『京城日報』1939年3月5日夕刊・秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社1999年)

1937年

陸軍省満州事変陸軍衛生史第6巻1937年

 「公認集娼制の主旨で集めた接客婦(慰安婦)は長崎ばかりではなく、青島、長崎、平壌等より日鮮支那人を集めたるも採用時の検査厳重にして不合格者甚だ多数を出せり」834p。

上海派遣軍4月1日制定「軍娯楽場取締り規則」抜粋

「本則は昭和7年4月6日より之を実施す」

1、営業家屋は軍が指定し、必要な設備と損害は営業者の負担。※戦地なので当然である。

2、利用者は制服着用の陸軍軍人、軍属に限る

3、毎月一回憲兵が指定する定休日を設ける。

4、営業を許可された者は接客婦名簿(雇主、氏名、国籍本籍、芸名、生年月日、略歴を記入、写真を添付)を憲兵分隊に提出する。

5、毎週一回軍医が憲兵の立会いで接客婦を検診し、不合格者は接客を禁じる

6、コンドームおよび消毒薬を用いる

7、営業時間は午前10時~午後6時午後7時~午後10時(下士官のみ)

8、遊興料は

 内地人1時間1円50戦

 朝鮮人・中国人1時間1円

9、接客婦は許可なく指定地外へ出ることを禁じる※戦地なので当然である。

10、営業者が接客婦に対する利益の分配などで不当の行為がある時は営業停止を命じる。

 満州事変陸軍衛生史は、1932年3月31日現在の軍人院患者587人の内、性病(花柳病)患者が85人に止まったことを特筆し、慰安所の設置と同時に定めた「花柳病予防方策」の効果が大きかったと評価している。

 5月5日に停戦協定が成立して、陸軍は全兵力を引き上げたので、「5月28日を以って軍娯楽場より(接客婦を)全部退去せしめたり」。

 中国年鑑の1930年版は「妓女6万(1920年)が、現在に於いては少なくとも10万(中国の中国人妓女)は突破している筈であり、之に諸外国売春婦を加うれば10数万の多きに達するであろう」と、解説している。

1956(昭和31)年5月24日法律第18号『売春防止法』を立法した日本。

1970(昭和45)年8月14日、ソウル新聞が「挺身隊に動員された韓・日の女性はおよそ20万。そのうち韓国の女性は、5~7万名」と報道。

※挺身隊とは日本が大東亜戦争中、深刻なを労働不足を補うために軍需工場に女性を動員したもので、「慰安婦」とは全く異なる。韓国は数合わせ(人数が少ない)目的で、「挺身隊=慰安婦」と捏造。国民徴用令は1939年7月に施行されたが、朝鮮においてはずっと後の1944年8月、国民徴用令が朝鮮にも女子を除いて施行される。同月に内地では女子挺身勤労令が出されたが、朝鮮の未婚女性は戸外労働を忌避する伝統があり、朝鮮総督府は朝鮮女子は除外すると言明した。1944年2月末の日本人勤労挺身隊は、約16万人。朝鮮女性の労働力登記は極小で、「5~7万名」は明白な捏造

1972(昭和47)年韓国「太平洋戦争犠牲者遺族会」結成。韓国政府からの戦後補償を受けるために戦争犠牲者の遺族からの届出を受け付けたり、その他、家族の生死確認や遺骨調査、援護の拡充などを求めて活動してきたが、除々に活動の性格が変貌、現在に至る。

 ちなみに、大東亜戦争の朝鮮人戦死者は皆志願兵で、南北で2万2182人。台湾も皆志願兵で、3万304人、日本は強制兵役、徴兵で、234万2341人が戦死。さらに米軍に80万人の市民が原爆空爆で、虐殺された。朝鮮人のような軍対民の同胞殺し合い(朝鮮同胞虐殺)、無駄死に、犬死ではない。

左右対称背乗りスパイ苗字千田夏光・吉田清治・高木健一弁護士等々犯日率先垂範日本人次々と登場!

毎日新聞記者千田夏光が「ジューグンイアンフ」という言葉を捏造

1973(昭和48)年大連生まれの元毎日新聞記者千田夏光(1924~2000)が「ジューグンイアンフ」という言葉を捏造、『従軍慰安婦』出版。「『挺身隊』として動員された朝鮮人女性20万人のうち、5~7万人が『イアンフ』にさせられた」と捏造。1993(平成5)2月『現代コリア』2~3月号(現代コリア研究所 刊)で、現代史研究家、加藤雅夫氏が、千田夏光著講談社文庫『従軍慰安婦』(講談社 刊)の中の嘘を暴露。千田を問い詰めたところ、「従軍慰安婦」という言葉は千田が勝手に作ったもので、内容も島田俊彦著中公新書『関東軍在満陸軍の独走』(中央公論社刊)を参考にしたもので、直接取材はしていない事が判明した。

※戦後28年間、慰安婦を強制連行したなどと、日本人はおろか韓国人さえ言わなかった。なぜか?そんな事実はなかったからである。

1974(昭和49)年千田夏光(毎日新聞記者)著『従軍慰安婦 続(償われざる女八万人の慟哭)』(双葉社刊)出版

マネし捏造した自称元日本陸軍軍人吉田清治も背乗りスパイか! 

2014年9月8日 夕刊フジ 9月8日(月)16時56分配信
 朝日が報じ続けた慰安婦証言の吉田清治氏 証言も経歴も虚構
 朝日新聞に16回も登場した吉田清治氏。あなたは一体何者なのか(写真:夕刊フジ)

1977(昭和52)年吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人』出版

吉田 清治1913年~ )は福岡県(山口県とも)出身の元日本陸軍軍人であり作家。強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長。清治は筆名で、本名は吉田雄兎。終戦後の1947年(昭和22年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補。129票を獲得したが落選したという経歴を持つ。

1982(昭和57)年吉田清治「第一次樺太朝鮮人裁判」(原告代表高木健一弁護士)で原告側証人として、朝鮮人奴隷狩りを証言。

1983(昭和59)年7月吉田清治 著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行(三一書房 刊)が出版。自著にて「済州島でイアンフ狩りを行い、一週間で205人の女性を強制連行した(5年後の1996年あれは創作だったと著者の吉田清治が認めた)」と記載。

 12月吉田清治が韓国に謝罪碑を建てるために訪韓。天安市の国立墓地に「元労報徴用隊長」の名義で建てた。

1984(昭和60)年千田夏光『従軍慰安婦、慶子』出版
1988(昭和63)年韓国盧泰愚13代大統領。韓国史上初めての民主化政権。軍事政権「強権の皮」では、李朝差別やニセ両班9割が原因の同胞大虐殺の事実を、もう隠蔽不可能となった。人心が内政に向けば韓国は破滅する。結果、仮想敵国日本を国是とすることで、砂の人心掌握を謀った。以後、マスコミや罪日をフル扇動しての本格的な捏造犯日が始った!
 洋公主私娼の矛先(韓国軍や国連軍)を日本に反らす、日本軍公娼騙りは、その一環である。

 前掲の元毎日新聞記者千田夏光吉田清治高木健一弁護士や、後述の売国奴の輩は、捏造犯日国是国家韓国にとっては、まさに、渡りに船だったのである!

 

平成1昭和64(1989)年4月17日天安門事件②胡耀邦追悼集会が民主化要求デモに発展し、人民解放軍が発砲、死者二千人負傷者三万人といわれた。総書記が解任され、小平の抜擢で江沢民党総書記。人心懐柔犯日教育政策の後継者として江沢民小平が指名したのだ。

 

1989(平成1年)年吉田清治『私の戦争犯罪』が韓国語に翻訳され、後にドラマ化。

 韓国梨花女子大学英文科教授 「尹貞玉」 が、「挺身隊問題」を日本の凶産と結託研究。

 

扇動屋「私は善人族」青柳敦子と宋斗会と梁順任登場

 5月朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」事務局長青柳敦子「朝日ジャーナル」に15回にわたって意見広告掲載。青柳敦子は大分県在住で勤務医を夫に持つ40歳の3児の母親、そして、「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会」の宋斗会代表は、罪日朝鮮人青柳敦子は、在日朝鮮人運動家(宋斗会)との特殊な関係(宗教か)を持ち、強度の犯日思想に凝り固まっている。

 6月高木健一弁護士「第一次樺太朝鮮人裁判」の提訴取り下げ。後に韓国政府から、国民勲章を授与される。

 8月吉田清治著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 刊)が韓国にて朝鮮語に翻訳されチョンゲ研究所から出版。

 8月14日『済州新聞』の許栄善記者が、吉田清治の著書に関する現地調査をし、『「私の戦争犯罪」は全くの捏造と報道。さらに郷土史家の金奉玉氏が追跡調査し、「この本は、日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物、と思われる」と語った。

 11月裁判を提訴する原告探しのため韓国へ渡った青柳敦子・宋斗会の二人は、韓国において「慰安婦裁判の原告募集というビラをまく。このビラには「訴訟費用を負担する」という条件が書いてあり、勝訴すれば賠償金をもらえ、敗訴でも損はない。それに応じたのが、太平洋戦争犠牲者遺族会の当時常任理事だった梁順任だった。

 

オランダの条約破り難癖開始・裁判で決着し、条約で締結したものは、一体なんだったのだ!

 1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書で、日本側は「オランダ国民に与えた苦痛に対する同情と遺憾の意を表明するため」、1000万ドルを「見舞金」として「自発的」に提供。こうして、日蘭間の戦後処理は、平和条約と、さらに日蘭議定書において、オランダ政府はいかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことが確認された。

 ところが、戦後長らく反日感情は残り、1971年(昭和46年)昭和天皇オランダ訪問時には、街中「裕仁は犯罪者」という落書きが見られ、卵や魔法瓶が投げつけられ、手植え苗を引き抜かれるという嫌がらせがあり、1986年(昭和61年)には、ベアトリクス女王の訪日計画がオランダ国内世論の反発を受けて中止された。1989年(平成元年)の大喪の礼の際も、多くの君主国が王族を派遣したものの、オランダからは王族が葬儀に参列することはなかった。

1990(平成2年)条約締結担当者すでに亡き34年後のオランダは、対日道義的債務基金(JES)を結成し、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償を支払うよう求める運動(条約破り)を始めた。JESは慰安婦問題も取りあげ、償いに直接に責任をとるべきは日本政府である、という立場をとった。

 オランダは大東亜戦争に勝った、がしかし、植民地をすべて失い、狭いオランダ本土に閉じ込められ、かっての栄光は失墜、没落した。

 インドネシア独立の際、オランダ軍に協力したインドネシア人(おもにオランダ人男性と現地女性の混血。オランダ領時代は間接支配の矢面に立った)が、独立後、オランダに大量に流れ込んだ。引揚者たちは、自分たちはデモクラシーの為にファシストのスカルノと戦った、と主張。帰国後の飾り窓の彼女たも、逆に「反逆罪・利敵行為」となるため、「無理矢理サインさせられた」という証言となる。こういった声が合体し犯日となり、折からの日本の犯日、「従軍慰安婦」非難とも、合体したと推察できる。

 

尹貞玉・梁順任・金学順・高木健一弁護士登場

1990(平成2年)年『ハンギョレ新聞』に、韓国の梨花女子大尹貞玉教授が、挺身隊とイアンフを混同させた「“挺身隊”怨念の足跡取材記」を春から連載。

 3月ソウルで梁順任らが「対日公式陳謝賠償請求裁判説明会」を開き、青柳敦子はそこで、裁判費用として400万円準備しているから書類に判をついてほしいなどと説明した。説明会終了後に集まった約千人が、日本大使館にデモをかけた。今も続いているいわゆる戦後補償を求める大使館前デモは日本人の呼びかけで、こうして始まった。その後梁順任らは、青柳敦子から離れ、高木健一弁護士を頼るようになる。

 8月挺身隊』だったと「金学順」登場。ここで韓国による挺身隊と慰安婦の混同が確定。朝鮮人イアンフ20万人キョ-セーレンコー」の元ネタとなる。

 

職責不履行無検証国会野党議員

 5月30日竹村泰子議員(社会党)が国会で初めて、従軍慰安婦の調査要求。

 6月1日吉岡吉典議員(共産党)朝鮮人強制連行、朝鮮人慰安婦一四万人以上犠牲になったことなど質問。

 6月6日本岡昭次議員(社会党)「強制連行の中に従軍慰安婦という形で連行されたという事実もある」と質問。

 10月17日韓国の三九団体(韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会など)の代表がソウル日本大使館を訪れ、連名で海部首相に「公開書簡」を送付。6月6日の本岡昭次議員に対する清水職安局長の答弁を引用し、これを無責任とし、吉田清治の著書を証拠としながら、補償や謝罪を要求。

 11月16日韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会等16団体が参加して「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)、代表尹貞玉ユンジュンオクを結成。このときから毎週水曜日に慰安婦問題に関してデモを行うようになった。通称「水曜デモ

 12月18日参議院外務委で、清水澄子議員(社会党)6月6日の清水職安局長の答弁について質問。「従軍慰安婦という、強制連行の中で女子挺身隊として強制連行された朝鮮の女性たちの問題は国家も軍も関与しなかったという、それをそのままお認めになるわけですね」

※従軍慰安婦と挺身隊混同質問、検証回路皆無自白。

1991年(平成3)年

オランダベアトリクス女王来日

1991年(平成3年)に来日したオランダベアトリクス女王は、1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書で。国家間における賠償問題が解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会において、「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と発言し、暗に賠償を要求した。日蘭議定書から34年後のことである。当然当事者は皆、みまかっている。

 これに対し日本政府は応答し、アジア女性基金(1995年7月条約破りに加担)により、総額2億5500万円の医療福祉支援を、79名の個人に対して実施した。

1991(平成3)年『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(吉田清治著三一書房 1983)の「済州(チェジュ)島にて軍の協力により、慰安婦狩りを行い、一週間で205人の女性を強制連行した(5年後の1996年あれは創作だったと著者の吉田清治が認めた)」の金儲け目的の捏造本を利用し、「従軍慰安婦」犯日キャンペーン展開中の朝日新聞が拡散した。まさに朝日は捏造新聞である。

 4月1日参議院予算委で本岡昭次議員(社会党)の質問「政府が関与し軍がかかわって、女子挺身隊という名前によって、朝鮮の女性を従軍慰安婦として強制的に南方の方に連行したということは、私は間違いない事実だというふうに思います。この問題をどういうふうに対応していったらいいと思われますか」※社会党不勉強自白従軍慰安婦女子挺身隊混同。

 5月22日『朝日新聞』大阪版にて「木剣ふるい無理やり動員」という見出しで、内容は、吉田清治の慰安婦狩りの証言と、それに関する写真を掲載。

 8月高木健一弁護士らは「戦後補償国際フォーラム」を東京で開催したが、そこに梁順任ら53人の遺族会メンバーが参加し、日本国内を日本人支援者とデモ行進するなどの活動を行なった。日本のマスコミが戦後補償問題を大きく扱うようになったのは、この頃から。

 

粱順任の娘と結婚していた朝日記者植村隆の慰安婦捏記事

 8月11日突如 朝日新聞が、「元慰安婦に聞き取り調査開始」と報道。「女史挺身隊」と慰安婦をワザと混同させた記事を掲載し、慰安婦捏造一大キャンペーン開始。記者は「韓国太平洋戦争犠牲者遺族会」理事(後の詐欺容疑者粱順任ヤン・スニム)の娘と結婚していた植村隆

 『朝日新聞』ソウル支局?の植村隆記者が「元従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」との見出しで記事を掲載する。(詳細後述)

元慰安婦と自称の金学順偽証と発覚

 8月14日元慰安婦と自称の金学順(キム・ハクスン、김학순1924年 - 1997年12月16日)が記者会見。

 8月15日『ハンギョレ新聞』の報道により、金学順(キム=ハクスン)が「親に売り飛ばされた」と証言していた事が発覚する。「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番売られていった。3年間の検番生活を終えた金学順さんが最初の就職だと思って、検番の養父に連れられて行った所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」(ハンギョレ新聞91年8月15日)。

 8月16日「1940年春、中日戦争が最も激しかった中国中部地方の鉄壁陣という所にわけも分からなくて売られて行きました。中国人が戦争のために捨てて行った民家を慰安所として整備していたのです」。金(キム=ハクスン)氏が到着した場所ではミヤコ、サダコと呼ばれる17~21才の韓国女性3人が、日本軍を相手にすでに売春行為をしていた」(朝鮮日報91年8月16日)。

14歳の時母親に強制連行され、平壌にあるキーセンの検番に人身売買され、検番の養父に更に3年後に強制連行され、中国中部地方の鉄壁陣の慰安所に人身売買された。強制連行し人身売買したのは母と養父で、日本や日本軍ではない。
「1991年にNHKの終戦関連企画で、私は強制連行をテーマに、同僚は慰安婦をテーマに取材した。韓国で数十人の強制連行経験者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかった」(元・NHKの池田信夫がブログで告白2006年11月04日)。
 8月27日参議院予算委で清水澄子(社会党)が戦争責任と戦後補償について質問。「これまでは請求権は解決済みとされてまいりましたが、今後も民間の請求権は一切認めない方針を貫くおつもりでございますか」

 10月10日『朝日新聞』大阪版が井上祐雅編集委員による吉田清治のインタビューを掲載する。

1991(平成3)年12月6日宮沢政権発足間もない平成三年12月、金学順(キム=ハクスン)ら3名の元慰安婦を含む太平洋戦争犠牲者遺族会32人の原告が日本政府を相手取り、東京地方裁判所へ謝罪と損害賠償を求める訴えを起こしたが、すぐに、この朝鮮人慰安婦はキーセンであり、日本軍に強制連行されたのではなく、キーセンハウスの経営者である義父に、日本軍の慰安所につれて行かれたことが分かった。しかし朝日新聞はこれについての訂正記事を出していない。提訴する。訴訟原告代理人は高木健一、幣原廣、林和男、福島瑞穂弁護士らである。

 2001年に3月に東京地方裁判所は請求を棄却。この時点で金学順は死亡している。2004年11月 最高裁も棄却。

 

懲りない朝日新聞今度は吉見義明を担ぎ出し「通牒案」は隠蔽災い談話」の元祖となった

1992(平成4)年朝日新聞の記事に追随慰安婦関連団体の多くが1992年に誕生!

1992(平成4年)年1月11日吉見義明が防衛庁防衛研究所図書館から見つけた資料(通牒なので実際に通牒されたものではない草案)と解説(は隠蔽し、実際に通知された文書命令のごとくに装い、軍の関与は明白であり謝罪と補償をと捏造)を載せ、朝日新聞が「慰安所 軍関与示す資料」として、宮沢喜一首相の韓国訪問5日前というタイミングで、扇動した。

 吉見 義明1946年~)東京大学文学部国史学科卒。歴史学者、中央大学商学部教授。日本の戦争責任資料センター代表。山口県出身。慰安婦問題で吉見は、慰安婦は軍政策としての強制連行で、日本による性奴隷制度とする人物である。吉見はこの記事から、世間を騒がすようになった。永井和京都大学文学研究科教授)も同類日本軍の慰安所政策について)。

 こじつけ解釈吉見 義明や歪曲朝日新聞の報道により、政府は混乱し、後のいわゆる「災い談話」へ繋がった。

資料(草案

1938年(昭和13年)3月4日

陸軍省副官通牒2197

軍慰安所従業婦募集に関する件

兵務部

 副官より北支方面軍 (および) 中支派遣軍参謀長宛通牒案(通牒なので、これは未送達の文)

 支那事変地に於ける慰安所設置の為、内地に於て之 (これ) が従業婦等を募集するに当り、故 (ことさ) らに軍部諒解 (りょうかい) 等の名義を利用し、為に軍の威信を傷つけ、且 (か) つ一般民の誤解を招く虞 (おそれ) あるもの、或 (あるい) は従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し社会問題を惹起 「じゃっき(引き起こす)」する虞 (おそれ) あるもの、或は募集に任ずる者の人選適切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等、注意を要するもの少なからざるに就 (つい) ては、将来是等 (これら) の募集等に当りては、派遣軍に於 (おい) て統制し、之 (これ) に任ずる人物の選定を周到適切にし、其 (その) 実施に当りては、関係地方の憲兵及 (および) 警察当局との連繋を密にし、以 (も) って軍の威信保持上、並 (ならび) に社会問題上、遺漏 (いろう)なき様 (よう) 配慮相成度 (あいなりたく) 、依命 通牒 「いめいつうたつ(文書命令)」す。

陸支密第七四五号昭和13年3月4日

素直に読むとこうなる

副官より北支方面軍 (および) 中支派遣軍参謀長宛

 「内地に於て従業婦等を募集するに当り、軍の威信を傷つける等注意を要するもの少なからざる。将来是等 (これら) の募集等に当りては、派遣軍に於 (おい) て統制し、軍の威信保持上等配慮の事」、つまり、「内地では軍の威信を傷つける等があるので、将来外地で実施の際はそんなことが無いように」。大意は将来外地で募集の際は不正無きよう特に配慮せよ」。

 慰安所業者募集の際の不正を、厳しく取り締まれということを指示した資料で、吉見義明や朝日新聞が

「軍の関与は明白であり謝罪と補償を」の資料ではない。

 戦地なので、民間の移動や設営に助力は必要不可欠なものである。それは、「軍の関与」ではなく安全管理で、戦地での民間保護や協力や不正取締りも、軍隊の仕事である。

 朝日新聞の報道(下書き隠蔽)により政府は混乱し、後のいわゆる「河野談話」へ繋がった。

 思索力検証力読解力皆無丸暗記HDD(加藤紘一・宮沢喜一・河野洋平・村山富市等)は、「未送達の」を「送達済文書命令」と丸鵜呑み、欠陥自白談話を次々と発表、今日の災いとなった。4につづく⇒

真実史観条約破りは常識皆無丸暗記HDD加藤紘一宮沢喜一河野洋平村山富市談話

条約破りは常識皆無丸暗記HDD加藤紘一宮沢喜一河野洋平村山富市談話

国民負託の職責をやっと始めた議員

 おそまきながら保守騙り議員(中山なりあき2013年3月8日質疑背景の辻元清美とは好対照)もやっと、ネットの追試を始めたようだが、「全国民の皆さん、勉強不足ですみませんでした」と、まず、冒頭での謝罪が、筋だろう!はるか昔今回の中山議員の質疑は、「歴史を偽造する韓国(中川八洋著徳間書店2002/04)」がソースだが、資料はそれ以前から既出にこのように資料は既出しており、職責者の不勉強が、全ての元凶である。本人は嬉々のようだが、国民負託議員がネットの常識追試では、職責者失格で、なんとも情けない。「保守は集票目的の騙りだったのか?」と、勘ぐられても仕方あるまい。

 なにはともあれ、国会質疑は進歩他の負託議員は全員、中山議員以下だが、「本人嬉々は騙り自白」、言行一致のまともな人間に、はたして、なれるのか?

 

これも朝日のでたらめ捏造記事

 1992年1月11日朝日新聞一九三〇年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。

※「八割朝鮮人女性」は捏造、前掲1932年参照。「挺身隊の名で強制連行」捏造、挺身隊は異なる。

 1月12日朝日新聞社が朝刊に「歴史から目をそむけまい」と題し、「16日からの宮沢首相の訪韓では――前向きの姿勢を望みたい」と社説。更に当時の宮澤喜一首相の平成四年一月十六日よりの南朝鮮への訪問に合わせて「挺身隊の名で連行された慰安婦の数は八万人とも二〇万人とも言われる」という嘘の解説を載せた。その結果、宮澤首相は訪問先の南朝鮮でこの件について謝罪を8回もせざるを得ないようになった。

 

検証(思索)回路皆無の加藤紘一「加藤談話Ⅰ」

 1月13日慰安婦問題をめぐり、政府は初めて、慰安所設置に関して旧日本軍の関与を認める官房長官談話を発表した。主役は加藤紘一だった。 「現に(当時の)軍が関与したんだから。それを否定しなければならないの? 事実をちゃんと認めるのは、やむを得ないのではないか」

1 関係者の方々のお話を聞くにつけ、朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦の方々が経験されたつらい苦しみを思うと、胸のつまる思いがする。

2 今回従軍慰安婦問題に旧日本軍が関与していたと思われることを示す資料が防衛庁で発見されたことを承知しており、この事実を厳粛に受け止めたい。

3 今回発見された資料や関係者の方々の証言やすでに報道されている米軍等の資料を見ると、従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定出来ないと思う。

4 日本政府としては,累次の機会において、朝鮮半島の人々が、わが国の過去の行為によって耐えがたい苦しみと悲しみを体験されたことに対し深い反省と遺憾の意を表明してきたところであるが、この機会に改めて、従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた方々に対し、衷心よりおわびと反省の気持ちを申しあげたい。(朝日92年1月14日)

 加藤は、慰安所で軍が関与した料金表などが資料として見つかったことを根拠にしたという。 「私が長官の時はどうやって慰安婦を集めたか、危ない集め方はあったらしいというところまで。ただ、軍がある種の経営をしていたことは事実だ」 

加藤紘一は、慰安所で軍が関与した料金表などが資料として見つかったことを根拠にしたというが、戦中、慰安所の保安設営その他で、軍隊が関わるのは当然のことである。いかにも常識が無い。通称「加藤談話Ⅰ」。これは事実調査をせぬままに『お詫びと反省』という内容を盛り込んでしまった談話であった。従軍慰安婦は当時は合法。謝罪は事後法(遡及法)で成立しない。戦地なので、護衛等は日本軍の義務で当然ことである。加藤官房長官の職責不履行。確証無き「思う」での謝罪は、国として余りにひ弱!典型的な表音知識丸暗記学問の見本!

 

朝日新聞吉田清治援護記事

 1月13日夕刊朝日新聞北畠清泰

 吉田清治さんは、昭和十七年朝鮮人を徴用するために設けられた「山口県労務報告会下関支部」の動員部長になった。

 記憶の中で最も心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。

 吉田さんと部下、十人か十五人が朝鮮半島に出張する。総督府の五十人あるいは百人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。

 一つの村から三人、十人と連行して警察の留置場に入れておき、予定の百人二百人になれば、下関に運ぶ。女性たちは陸軍の営庭で軍属の手にわたり、前線におくられていった。吉田さんらが連行した女性は、少なくみても九百五十人はいた。

 1月13日英字新聞『Japan Times』が当時の外務省の渡辺美智雄大臣の発言を誇張させて報道。11日夜のTV番組で「50年以上前の話、はっきり証拠ない」「何らかの関与は認めざるを得ない」という旨の発言をしたが、記事では「この発言は政治家が『日本軍がWWⅡ中に何10万人ものアジア人に対する強制売春に加担した』と初めて認めた」と、捏造

 1月14日韓国のマスコミが、「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた」などと、慰安婦と挺身隊を混同して捏造報道。

 1月16日当時の故宮沢総理大臣が韓国を訪問。首脳会談では8回謝罪し、「真相究明」を約束した。本来なら「真相究明」もせずの謝罪。有罪か無罪かも分からぬまま謝罪する愚民が、故宮澤喜一

 1月17 日、宮沢首相は韓国を訪問し、ソウルで政策演説を行い、次のように述べた。

 我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に、我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります、私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが、私は、このようなことは実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っております。(「外交青書92年版」p383)

※戦国時代に加害者被害者もない。WGIP丸鵜呑み首相である。

 追軍慰安婦は、春を売るれっきとした合法下の自由意志商売で、強制ではない!非合法下の現代でも、イエローキャブと名高く、「売春禁止反対売春させろ」とデモを繰り広げ、世界を股に商売をしている民族が韓国である。

 戦国時代なので、朝鮮人のみならず世界中が不幸であった事は事実であるが、追軍慰安婦は、当時は合法で、平和な現代の尺度(非合法)での判断は事後法と同じで違法は常識である。宮沢首相の職責不履行の愚行。

 1月23日『朝日新聞』夕刊「窓」欄のインタビューにて、吉田清治が「強制連行した女性はすくなくみても950人」と捏造発言。

1992(平成4)年2月「慰安婦と戦場の性」より

第九章クマラスワミ旋風259p

 慰安婦問題が国連の場に持ち込まれたのは、宮沢首相の韓国訪問から一ヵ月後の1992年2月に韓国挺対協が李効再代表を国連本部へ、在日韓国人牧師の崔昌華をジュネーブの人権委員会へ送ってアピールしたのが最初であろう。(裁かれるニッポン・日本評論社1996年・挺対協国際協力委員長中薫秀)

 日本政府は1965年の日韓条約で法的処理は終わっているので、新たな国家補償は困難との見解を受けての、国連への働きかけである。裏で日本弁護士連合会(日弁連)の戸塚悦朗弁護士(ロンドン大学客員研究員、「国際教育開発IED」、「国際友和会IFOR」など、国連人権委員会に関係する非政府間国際機構NGOのリーダー)の画策があった。「筆者(戸塚悦朗)ら関係NGOは日本軍性奴隷にしぼって研究する決議原案を内々提案したが、委員から旧ユーゴなど組織的強姦も対象にしたいと提案があり、NGO側も同意した(日本が知らない戦争責任第58回)」

 2月17日に人権委員会で、慰安婦を人道の罪と位置づけ、国連の介入を求める発言。動機は「日本が犯した過去の重大な犯罪問題について、日本人として自らその責任を明らかにしなければ、韓日両民族間の真の友和はありえない(季刊戦争責任研究第五号)」。

 慰安婦問題は、1990年以降の旧ユーゴ内戦に多発した組織的強姦と抱き合わせの形で、国連人権委員会に集まる多くのNGOが取り上げられたため、この問題の審議は異例の早さで進行した。がしかし、事実関係等の証拠は、挺対協戸塚悦朗弁護士等の一方的なものであった。

 

『性奴隷の元祖』戸塚悦郎弁護士

 2月17日日本弁護士連合会(日弁連)の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会において、慰安婦問題を人道上の罪だとして国連の介入を求める。『セックス・スレイブ(性的奴隷)』なる言葉が国際社会で流通しているが、この言葉も反日日本人、戸塚悦郎弁護士というNGO「国際教育開発」代表が、国連人権委員会に国連に慰安婦問題を取り上げるよう執拗に要請した際に、使用した用語である。条約も歴史も知らない弁護士。

 西岡教授のブログ「戸塚悦郎弁護士は、4年間に18回も国連人権委員会に通って日本は人権侵害国家だと告発させるために工作したんです。この戸塚弁護士が『性奴隷という言葉を作った元祖は私です!』と、自分のブログで自慢しちゃってるんです。

 3月5日毎日新聞「第二次世界大戦当時、朝鮮半島を中心として、約十万〜二十万人の十代から四十歳未満までの女性が『挺身隊』の名で集められた」と捏造

 5月『正論』6月号(扶桑社 刊)で、秦郁彦が済州島での実地調査を発表。

 

元慰安婦文玉珠郵便貯金数千万円返して

1992年5月12日の毎日新聞

従軍慰安婦の軍事郵便貯金原簿確認「返して」下関で韓国女性

 第二次大戦中「従軍慰安婦」として強制連行されたミャンマー(旧ビルマ)で預けた軍事郵便貯金の支払いを求めていた韓国・大邱市在住の文玉珠(ムン・オクス)さん(68)が11日、山口県下関市の下関郵便局を訪れ、貯金の原簿があったことが分かった。元従軍慰安婦による強制連行先での軍事郵便貯金原簿の存在を日本側が認めたのは全国で初めて。

 局側は「1965年の日韓協定などで権利は消滅した」としているが、文さんは「個人の請求権は消滅していない。【日本人】として貯金した個人のお金だから、返して」と訴えている。

 文さんは3月、市民グループの招きで来日。当時、貯金の管轄郵便局だった下関郵便局に2度にわたって調査と支払いを求めていた。

 原簿によると1943年6月から1945年9月まで12回の貯金の記録があり、残高は2万6145円となっている。

 文さんの話では、1942年、18歳の時に釜山から百~百五十人の若い女性と共にヤンゴン(ラングーン)に連れていかれ、日本軍人の相手をさせられた。歌が上手だったことから宴会にも呼ばれ、もらったチップを野戦郵便局に「文原吉子」名義で貯金していた。――

 通帳によれば、1943年から1945年の間に12回振り込みがあり、その貯金残高は2万6145円に上がっている。これは今の金額にすると数千万円に相当する。当時日本軍の陸軍大将の年俸は6600円だった。従って文玉珠は陸軍大将の約二倍稼いでいたことになる」二年間一銭も使わずに貯蓄したとしても、日本陸軍大将は1万3千円しか貯蓄できないのである。

当時、従軍慰安婦がどれほどの大金を稼いでいたかがわかる。

元慰安婦文玉珠(ムン・オクジュ)の食い違う証言

1996年5月法廷での証言

 「文さんは十六歳の時、日本人の憲兵らに呼び止められ、大邱市から旧満州(中国東北部)などに強制連行されて慰安所で働かされた」。上記証言とは異なる。

誕生日

 証言集では「1924年4月3日」だが、手記では「1924年4月23日」。

父母

 証言集では「働いていたが決まった仕事はなかった。8歳の時、父死亡」。手記では「両班の家系で独立運動家。7歳の時父死亡」。

慰安婦になるまでの経歴

 証言集では「私立の夜間学校に3年通う。10歳から15歳、お手伝い。15歳から17又は18歳まで、靴下工場勤務。17又は18歳、ビルマに行き、慰安婦にされる」。

 手記では「12歳頃九州で働く。半年で帰国しキーセン見習い。16歳、満州へ拉致される。17歳、帰国してキーセンになる。仲間とビルマに渡り慰安婦となる」

慰安婦となったときの感想

 証言集では「びっくりして、昼も夜も泣き通しだった」。

 手記では「薄々察していたので、驚かなかった」。

※慰安婦証言ではただの売春婦なので非難のまとだが、強制連行・性奴隷・私は被害者となれば、同情を得て非難とはならない。この慰安婦証言法則が徹底されていなかったのでこうなった。ある意味で正直な方である。

 6~7月正論8月号&諸君7,8月号にて、秦郁彦が「吉田清治」の捏造を看破。騒動が急速に沈静化したため、韓国内で反日爆発、「捏造キャンペーン」の朝日新聞を『良心勢力』と呼ぶようになる。

 7月6日日本政府が、吉見義明教授の資料発見を受けて行った慰安婦問題に関する調査結果を発表。100を超える関係資料を公開した。

 

1992(平成4年)年7月6日「加藤談話Ⅱ」朝せん半島出身者のいわゆる従軍い安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表

 朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題については、昨年12月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において政府が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。調査結果について配布してあるとおりであるが、私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。調査の具体的内容については、報告書に各資料の概要をまとめてあるので、それをお読み頂きたい。なお、許しいことは後で内閣外政審議室から説明させるので、何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。

 政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未架に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。

 この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。通称「加藤談話」。

 慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められた」は、特に戦地において味方を護るのは、日本軍(どこの軍隊でも)の当然の務めであろう。常識全く皆無!典型的な表音知識丸暗記学問の見本。「政府の関与」ではなく、「戦時下政府の義務

 

 31日韓国政府が『日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書』で「日本政府による慰安婦の威圧的連行があった」と主張。

 8月12日吉田清治が訪韓し、金学順(キム・ハクスン))に頭を下げて謝罪

※これは吉田清治著作の捏造本を、正当化するための演技。

オランダ条約破りにも捏造朝日新聞が加担し起因となっている

1992年。スマラン(白馬)事件は、裁判後、長い間、一般には知られていなかったが、朝日新聞がオランダ国立公文書館より、白馬事件に関する判決文及び法廷尋問書を入手し、一部を公開(7月21日、7月22日、8月30日)したことにより、日本でも広く知られるようになった。

1992年8月【「河野談話」を出世の踏み台にした「福島瑞穂売国の履歴書:今は知らん顔で頬かむり!?】
週刊新潮 2014-7-3号」 抜粋
・・・長年、市民運動や女性の人権擁護に関わってきたフリージャーナリストの舘雅子氏が振り返る。
 「私は92年8月にソウルのYMCA会館で開かれた『アジア連帯会議』に出席しましたが、それを仕切っていたのが福島さんと元朝日編集委員の松井やよりさん(故人)でした」
・・・そこで舘氏は仰天の光景を目撃する。 
 「お揃いのチマチョゴリを着た女性が4,5人いて、日本人と韓国人のスタッフが”ああ言いなさい!”と一生懸命振り付けをしているのです。本番の会議でも彼女たちが登場し、言われた通りに悲劇的な体験と、 日本政府に対する怒りを切々と述べているではないですか」
 元慰安婦たちは操られている。舘氏はそう直感したという。
 ところが、 台湾人の元慰安婦の番になると”日本の兵隊さんは私たちに優しくしてくれました”などと言い出し、ステージ下に控えていた福島氏や松井氏が大慌て
 「それ止めて!止めて!」と遮り、それでも止めないとマイクや照明を切ったりして発言を封じ込むのです。タイの女性も「日本の軍隊ばかり叩くな!イギリス兵はもっと悪いことをした」と反発していましたが、 福島さんや松井さんが抑え込んでしまいました。
 河野談話で実績をあげた福島氏は、知名度を買われ、98年の参院選で国政に進出。あれよあれよと言う間に、社民党党首にまで上りつめたのはご存じのとおり。・・・
身内親族への恥さらしなので、高給取りの日本軍公娼は当然不参加。身より無き私娼窟私娼(破れかぶれの開き直り)のみの参加であろう!「日本の軍隊ばかり叩くな!イギリス兵はもっと悪いことをした」が証拠!

36年後のオランダに突如証言者が現われた!対日道義的債務基金(JES)を結成(34年後の1990)から年後のことである!

 前掲のように韓国人証言者の虚言が、矛盾が、ことごとく指摘され説得力を失っていた。12月9日東京開催の「日本の戦後保障に関する国際公聴会(日弁連後援)」に向けて、「目玉を失った開催者」たちは、新しい証言者を必死に探したであろう事は、子供でも推察できる。

 オランダ人ジャン・ラフ・オハーン(1923年生まれ・証言当時は69歳・現在はオーストラリア国籍ヤン・ルフ・オヘルネとも呼ぶ、Jan Ruff O'Herne)は、祖国オランダ(JES)とも利害が一致し、新たな証言者となった。

 自身のみならず、子供親族まで貶める慰安婦証言を、何らかの見返りもなしに証言する常人などいない。前掲慰安婦証言者は賠償と称し、ことごとく、金銭を要求していることが証拠である。

 ジャン・ラフ・オハーンの証言や本は、キリスト教で埋め尽くされ、キリスト教に従っての証言であるかのように装っているが、無報酬の聖人証言者で無いことは明々白々である。真のキリスト教信者なら、断罪済事件を隠蔽し、再度断罪など決して、しない。当然相当な金が動いたことは、子供でも推察できる。

 1992年Cry of the Raped :A Story to be Told1992(レイプされた女の叫び1993年5月邦訳)」出版。とあるが、国会図書館サーチで該当無し。後述詳細の、1992年12月9日東京で日本の戦後保障に関する国際公聴会(日弁連後援)」証言がソースか?取材写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち1993年風媒社伊藤孝司も、東京で証言がソース。著者ジャン・ラフ・オハーンは、白馬(しろうま)事件(スマラン事件)当事者なのだが隠蔽、オランダ人強制慰安婦被害者と自称し、証言を開始している。断罪済み事件は隠蔽し、再度蒸し返し扇動。詳細は後述。

 強制連行レイプRaped)や性奴隷人道という犠牲者単語を冠することで、社会道徳の共感を得やすかった。それは伝統的に売春制度があるオランダのような国でも、大きな効果を果たした

1992年12月9日

人類の英知(復讐の連鎖の切断)無知!条約破りを率先垂範した法のニセ番人日弁連と丸鵜呑み文系

 1992年12月、証言者ジャン・ラフ・オハーンが来日し12月9日東京での「日本の戦後保障に関する国際公聴会日弁連後援)」断罪済事件は完全隠蔽し、醜く徹底的に日本軍全体を加害者として罵倒、自らを完全な被害者、無報酬の聖人証言者のごとく、証言した。そうしないと、身内からも非難され、孤立し、また世間の同情も得られないからである。

 反論証言者亡き45年後の一方的な証言などは、信ずるに値しないのが常識なのだが、検証回路無き「私は善人族」は信じたのである。

蘭韓日(朝日作家弁護士凶授)が人道を冠しての遡及法で冤罪日本叩き

 翌10日国際人権セミナー(公聴会実行委員会後援)「戦争と人権、戦後処理の法的検討(日本弁護士連合会主催)」開催。

日本の戦後保障」も「戦後処理」も、「条約締結」で既決(復讐の連鎖の切断)済みなので、「国際公聴会」も「法的検討」も、「復讐の連鎖の接合」、条約(判決)破り以外の何ものでもない!法の根幹無知なのだから、弁護士資格など当然無い!剥奪追放が正当!

 証拠固めの無い証言など信用度は半分。「条約締結」既決なので、「保障」も「戦後処理」も当事国内で対処し他国に責任転嫁など無かった。「条約締結」したのに、自国で対処せず(条約破り)、日本に責任転嫁したのが、韓国とオランダで、日本国内の半端者(丸暗記鵜呑みの言葉と文字界)が助長し拡大した。

 

世界に問われる日本の戦後処理東方出版1993/5.国際公聴会実行委員会

 「戦後すでに47年が経過しているが、アジア各地の犠牲者はいまだに苦しんでいる。従軍慰安婦、強制連行など、日本の人道に対する罪を今いかに償うことができるのか。被害者個人への謝罪と補償の法的理論を構築する。

「慰安婦」、強制連行などの被害者、証人が、日本の戦争による人権侵害をきびしく問う」。

※開国以来、弱肉強食の戦国に対処してきた自存自衛防衛軍に、「戦争責任」などあり得ない。「あり得ない戦争責任」を冠した団体は、捏造団との自白である。法や条約の原点は、「復讐の連鎖の切断」である。「戦争責任」の連呼は、法や、条約締結の意味も知らない偽善者気取りの捏造団と、白状しまくりである。

馬鹿子孫の見本

 丸暗記能力のみで検証回路皆無をさらけ出し、検証もせず証言すべて丸鵜呑した文系の馬鹿ども。先人が条約で締結済みのものを、「世界に問われる日本の戦後処理」と職責不履行(無検証)で条約破り(蒸し返した)!

呼びかけ人(好いとこ盗り半端者井蛙偽善者の職責不履行自白

荒井信一(駿河台大学)実行委員長

木畑洋一(東京大学)

和田春樹(東京大学)

西川正雄(東京大学)

油井大三郎(一橋大学)

吉田裕(一橋大学)

宮田光雄(東北大学名誉教授)

田中宏(愛知県立大学)

吉見義明(中央大学)証拠としているのは皆、部分(事件)で、部分(事件)をいくら集めても全体(軍強制)ではない。同士打ちも頻繁な戦時下、事件も当然頻発した。秋葉原で殺人事件があった、だから日本人は皆殺人者だとは言えないのと同じ。戦国の世の自衛軍を無検証で侵略軍隊と決め付け、論を展開している。極端な偏向思考の持ち主。

姫田光義(中央大学)

高柳先男(中央大学)

浅井基文(明治学院大学)

武者小路公秀(明治学院大学)

内海愛子(恵泉女学院大学)

石井摩邪子(恵泉女学院大学)

古庄正(駒沢大学)

小林秀雄(駒沢大学)

広瀬杲(元大谷大学学長)

二葉憲香(元龍谷大学学長)

佐藤健正(拓殖大学)

高崎宗司(津田塾大学)

鈴木祐司(法政大学)

高木健一(弁護士)

中坊公平(前日本弁護士連合会会長)

藤井秀雄(元日本弁護士連合会会長)

藤原彰(歴史学者)

石田雄(政治学者)

鈴木裕子(女性史研究家)

板垣雄三(歴史研究家)

無責任な「私は善人族」作家ども

井出孫六(作家)

三浦綾子(作家)

瀬戸内寂聴(作家)

木下順次(劇作家)

松井やより(元朝日新聞ジャーナリスト)

大島孝一(「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員長)

相馬信夫(カトリック正義と平和協議会会長

竹内謙太郎(日本キリスト教協議会議長)

西川潤(アジア人権基金)

松井義子(日本友和会)

山内武夫(不戦兵士の会)

 

 12月吉見義明編・解説『従軍慰安婦資料集』(大月書店 刊)が出版。これから吉見義明こじつけ、「広義の強制」という言葉が始まった。

 12月『週刊新潮』吉田清治コメント「私が書いた事は全部事実」。5につづく⇒

真実史観金で元慰安婦を募集した日弁連高木健一は思索回路皆無無知は子供以

5金で元慰安婦を募集した日弁連高木健一は思索回路皆無無知は子供以下

12月25日韓国釜山市などの自称元慰安婦10名が、日本政府に公式謝罪と賠償を求めて山口地方裁判所に提訴。

1993年

インドネシアの場合実は、悪質な仕掛けがあったより転載

中京テレビ製作のドキュメンタリー番組

 インドネシアの場合、慰安婦訴訟を起こしていた高木健一氏らがインドネシアに訪問。「慰安婦は名乗り出れば二百万の補償金がもらえる」という扇動が行われる。インドネシアで200万円といえば、日本円で2億円に相当し、数世帯が一生遊んで暮らせる額である。その為、実に2万2千人もの人々が「慰安婦被害者だ」と名乗りを上げ、大騒動となる。(なお、戦時中インドネシアに駐留していた日本兵は二万に過ぎない)

1996年には、中京テレビ製作のドキュメンタリー「IANFU(慰安婦)インドネシアの場合には」が報道され、インドネシアの慰安婦の実態を広く伝えた。

 実は、悪質な仕掛けがあった中京テレビ製作のドキュメンタリー番組

 有名ドキュメンタリー番組『ドキュメント‘96』の、「ianfu・インドネシアの場合には」における情報操作!週刊言志人 1997年5/26号 中宮崇

 問題となっているのは、96年9月29日放送分の、「ianfu・インドネシアの場合には」。

(中略)

 まず、元従軍慰安婦とされる女性の証言。彼女は何者かに拉致されて慰安婦とされたらしく、字幕は「買い物から帰る途中で無理矢理連れ去られました。日本兵に車に乗せられたのです」となっている。

 ところが実際には彼女はこんな事は言っていないというのだ。

 正確に翻訳すると「買い物から帰る途中で無理矢理連れ去られました。オランダの車、いや、日本の車に乗せられたのです」となるという。

 番組の字幕に出ていたような「日本兵」などという言葉は、どこにも出てこない。番組が勝手に書き加えたのである。極めて悪質だ。

 女性の証言を忠実に検証するなら、「買い物の途中で、何者かに拉致されて車に乗せられた」という事しか言えないはずなのに、番組は「日本兵が拉致したのだ」という勝手な解釈をした上で、そのような情報操作を全国番組で垂れ流したのだ。これはもう、モラルうんぬんの問題を越えて、放送法違反という、市民全体に対する犯罪行為である。早いところ警察に動いてもらわねばならない。

 番組の情報操作行為はこれだけに止まらない。次に紹介するのは、現在タンジュブリオクという所に住んでおられる元慰安婦とされる女性の証言。

 番組の字幕は、「戦争が終わると日本人は誰もいなくなっちゃったんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです。手元に残ったのはお金じゃなくてキップ(軍票?)だけだった。キップという ただの紙キレだけ」

 となっているが、正確に翻訳すると「はい、いま私が一番つらい事はこうなんです。私は体を悪くしているのでゆっくりしゃべります。(戦争が終わって)散り散りになって帰るとき…あの朝鮮人は誰だったろう。全員いなくなってしまったんです。一銭も手元に残されませんでした。キップが残されただけでした。紙キレのお金、それをキップと言っていました」

 話の流れからして、「あの朝鮮人」というのは慰安所の経営者の事らしい。番組は経営者が朝鮮人だったということを隠し、わざとその部分を訳さなかったばかりか、勝手に「日本人」などという言葉を挿入して、あたかも日本人が慰安所を経営して、彼女たちを置き去りにしたというような大嘘を平気で流したのだ。いったいどういうつもりか?日本のテレビ局は、普段からこんなトンでもないことを平気でやっているのか?

 三つ目に、スカブミ第4中学校で教師が、日本占領時代についての授業を行っている場面。先生の発言についての番組の字幕は、「社会面での苦悩の一つに女性の問題があります。女性たちは、「学校に行かせてやる」と誘われました。でも日本軍の性欲を満たすために使われたのです。女性たちはその地位をはずかしめられたのです」となっている。

 ところがこれも、実際には先生は、「「学校に行かせてやる」と誘われました」などとは発言していないのだ。これも番組が勝手に付け加えたのである。これによって、慰安婦たちがあたかも、誰かに騙されて連れてこられたのだというような印象を与えるような「でっち上げ」発言になっている。

 最後に、取材班が元従軍慰安婦の女性と一緒に、かつての慰安所の建物を訪れるシーン。

 通訳が元慰安婦の女性に「この建物は当時のままですか、それとも改装されていますか?」と聞いているのであるが、女性が、「もう、違う」と言っている部分を番組では全く訳していない。まあ、この点に関しては他の点と違って「嘘」というような性質のものではないのかもしれないが、番組の全体にわたって、慰安婦問題を扇動的に扱おうとする意図が隠されているのだという傍証となるかもしれない。

 「ドキュメント‘97」は、市民団体や左翼団体にとってのバイブルとでもいうべき番組である。実際筆者も、この番組を今まで興味深く見るとともに、社会問題について考えるときの参考としていた。ところがそのような番組が、このようなとんでもない悪質な情報操作行為を行っていたのだという事が暴かれてしまった。もはや日本には、信用すべきテレビ番組など無くなってしまったのかもしれない。

この事件を取材したアセアンセンター代表・中嶋慎三郎

「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」 中嶋慎三郎 祖国と青年 1996/12

 中嶋慎三郎1919年、東京生まれ。府立実科工業卒。昭和十四年に入隊し、各地を転戦。現在は、アセアンセンター代表。編著に『アジアに生きる大東亜戦争』ほか。塩川財務大臣と50年来の友人。総理大臣の特使として、何回もインドネシアやマレーシア、サウジアラビアに派遣。現在のインドネシアのバンバン・ユドヨノ大統領や、前大統領ともホットラインをもつ日本で唯一の民間人。また、現在のインドネシア経団連のヒダヤット会長は、中島先生の弟子にあたる

 この番組を見た、英字紙「インドネシア・タイムス」のジャマル・アリ会長が、直接、中嶋慎三郎に語った言葉

 ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦がいたというのか(当時ジャワにいた日本兵は2万余なのに、2万2千人もが元慰安婦として名乗りをあげた)。どうしてインドネシアのよいところを映さない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々には、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史プライドがある。

 「お金をくれ」などとは、360年間、わが国を支配したオランダにだって要求しない。

*ちなみに、アリ会長と中嶋氏は、三十年来の親友である。

 中嶋慎三郎氏が、インドネシア閣僚から告げられた言葉

 今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。あなた方日本人の手で何とかしてください。

陰謀に気づいたインドネシア側の対応

 この番組の予告が、日本共産党の機関紙「赤旗」に出ていたことから、インドネシア政府は、慰安婦問題の動きが、共産党によ り、両国の友好関係を破壊する目的で行われていると判断したよ うだ。 スエノ社会大臣が、すぐにマスコミ関係者を集め、次の見解を明らかにした。

1996年11月14日、情報省ビル会議室の記者会見にて、スエノ社会大臣の発表

1)インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない

2)しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお金を払いたいというので、いただくが、元慰安婦個人には渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。

3)日本との補償問題は、1958 年の協定により、完結している。

*ちなみに、上記のジャマル・アリ会長の発言は、ネット中で広く引用されており、あたかもジャマル・アリ会長が紙面で語ったかのように扱われています。もし、紙面上の発言ならば、何年何月何日の記事であるか分からなければ、資料としての価値がありません。

 このアリ会長の発言の真偽を確認する為、私は、この発言を引用していた自由史観のHPに問い合わせました。すると、「国際派日本人養成講座」の伊勢先生のコラムから引用した為、詳しいことは知らないというご回答を頂きました。そこで私は、その「国際派日本人養成講座」の伊勢氏に問い合わせました。すると、伊勢先生からは「祖国と青年社」に記載されていた中嶋氏のコラムから引用したものである為、知らないとのご返答を頂きました。(伊勢氏のコラムには、引用元として「祖国と青年社」の名がちゃんと記載されています)

 そこで今度は「祖国と青年社」に問い合わせました。すると、「紙面上の発言ではなく中嶋氏が直接本人から聞いた発言だ」というご回答と共に、詳細な説明を頂きました。上記に記した通り、アリ会長の発言は中嶋氏に直接語った言葉であり、ネット上に出回っている「ジャマル・アリ会長が、インドネシアタイムスの紙面で語った」という情報は全くの間違いである為、ここに明記しておきます。転載了

産経新聞2010年8月1日)

 インドネシアの「兵補中央協議会」元会長のタスリップ・ラハルジョは「東京の高木弁護士の指示を受けて始めた。『早く進めろ』と催促も受けた」とジャカルタ郊外の事務所で産経新聞政治部・阿比留瑠比の取材に証言している。同協議会は、慰安婦登録者を対象としてアンケートを実施していたが、「高木弁護士の文案で作成された」とラハルジョは証言している。

 がしかし、インドネシアのスエノ社会大臣は事件を焚きつけた日本人達(共産党・朝日新聞・日弁連ら)に対して「インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない。しかし、日本政府(村山富市首相)が元慰安婦にお詫びをしてお金を払いたいというのでいただくが、元慰安婦個人には渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。日本との補償問題は1958年の協定により、完結している」との声明を発表。

※商売で金を稼いだ者に、さらに金を渡す必要などどこにも無い!補償は条約で完結済み!正論である。高木健一弁護士らは、条約破りの馬鹿どもかスパイである!

 2月1日韓国挺身隊問題対策協議会が、挺身隊研究会「強制連行された朝鮮人『慰安婦』たち」を刊行。この本の日本語版は10月に、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク 訳『証言-強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』として出版された。

 2月ソウル大学の安乗直教授ら「挺身隊研究会」が、慰安婦40数人に本格的な聞き取り調査。

1993(平成5)年3月~02年中国鄧小平引退の後を継ぎ江沢民国家主席を兼務。市場解放政策に伴う弊害、民主化要求の根を絶つ目的で、残虐日本と捏造し、子供から大人まで洗脳した。凶産常套手段、敵国と捏造の愛国教育である。華人華僑に号令をかけ、慰安婦、各種訴訟等の犯日活動工作に拍車がかかった。

 3月29日韓国政府が、国内の元慰安婦約135名に対して約74万円の支給などの支援策を発表する。また、日本の教科書に慰安婦に関した記述をするように求める。

 4月2日フィリピン19人の元慰安婦らが日本政府の謝罪と保証を求めて東京地裁に提訴する。原告は、最終的には46名となる。

 4月5日韓国自称元慰安婦宋神道が、「7年間も従軍慰安婦とされ、肉体的精神的苦痛を受けた」として、日本政府を相手取り東京地裁に提訴。

1993年4月

日本の戦争責任資料センター

 1993年4月設立。同年秋から機関紙として季刊「戦争責任研究」発行。「横断的、重層的に行われている歴史の地道な発掘、検証作業は今後とも客観的、科学的に日本の戦争責任を明らかに」を目標に掲げた。歴史・法律学者、弁護士ジャーナリストの混成で、96年秋には規模を拡大して幹事会の下に「従軍慰安婦」「七三一」「軍票」「賠償」「虐殺」「マスコミの戦争責任」「強制連行・植民地支配」「原爆・空襲」など10の研究部会を設けた。

 役員は代表が荒い信一(駿河台大学教授)、副代表が藍谷邦雄(日弁連)、川田文子、吉見義明の三人、事務局長が上杉聰。

藁はいくら束ねても実の無い藁!

 開国以来、弱肉強食の戦国に対処してきた自存自衛防衛軍に、「戦争責任」などあり得ない。「あり得ない戦争責任」を冠した団体は、捏造団との自白である。法や条約の原点は、「復讐の連鎖の切断」である。「戦争責任」の連呼は、や法や、条約締結の意味も知らない偽善者気取りの捏造団と、白状しまくりである。

 

 6月10日高校日本史の検定済み教科書7社9種類すべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載される事が判明。

 6月11日韓国は「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」を制定。同年8月から元「慰安婦」に一時金、生活費の支給を行う。

 8月4日日本政府「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」を公表。関連し、当時の河野洋平官房長官が日本軍の強制連行を認め、いわゆる犯日のよりどころ(バイブル)「河野談話」を発表。

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

条約破りの大罪を犯した河野洋平と宮澤喜一

 河野談話発表に至る調査のずさんぶりは、産経等が報じているが、一切物証なく、16人の朝鮮人自称慰安婦の証言だけで裏付け作業もされず、聞き取り終了からわずか五日後に発表された。朝鮮人元慰安婦の発言で今まで信頼に足りるものは何一つ無い。条約で締結済みなのに応答し、条約破りの大罪を犯した国賊河野洋平宮澤喜一である

 2013.10.16 産経新聞私娼洋公主」の偽証ぶりを詳細報道

 この国難時に日本を、私利私欲(意図有り)で引っ掻き回していたのが小沢一郎と野中広務である。闇将軍野中広務小沢一郎の正体2003年)松田賢弥著講談社を併読の事。

産経iza-2007.3.1
「河野談話」は強制性、韓国から働きかけ 米慰安婦決議案

 宮沢内閣末期の平成5年8月、河野洋平官房長官(当時)は「慰安所の設置、管理および慰安婦の移送は旧日本軍が直接、間接に関与した。慰安婦の募集は、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、甘言、強圧によるなど本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲等が直接これに加担したこともあった」とする談話を出した。

 官憲による慰安婦募集の強制性を認めたもので、韓国などにより、日本政府が正式に慰安婦の強制連行を認めたと拡大解釈、宣伝された。

 しかし、談話の根拠は元慰安婦女性からの聞き取り調査だけで、9年3月の参院予算委員会で平林博内閣外政審議室長は「個々の証言を裏付ける調査は行っていない」と答弁。河野氏自身も同年、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の会合で「強制的に連行されたものかについては、文書、書類では(証拠は)なかった」と述べている。

 証拠がないにもかかわらず、政府が強制性を認めたのはなぜか-。

河野談話作成にかかわった石原信雄元官房副長官によると、当時、韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗(しつよう)に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診していた。日本側は「強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないか」との期待感を抱き、強制性を認めることを談話の発表前に韓国側に伝えたという。

2013/05/30
 石原信雄元官房副長官は「政府の意を体して、政府の指揮命令下に強制したと認めたわけじゃない」と断言している。一方で、談話が海外で「日本政府が公式に強制連行を認めたもの」と受け止められたのも事実だ。――

 石原氏は筆者の2度にわたるインタビューに当時の事情を率直に答えている。

 「できれば文書とか日本側の証言者がほしかったが、見つからない」「韓国側は元慰安婦の名誉回復に相当こだわっていた。強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった」

まんまと韓国人の罠にハマッタ河野洋平

 「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない非公式に打診」。この見え見えのワナに、小うるさいので「まあーいいか」で出した馬鹿丸出し談話。まんまと韓国人の罠にハマッタ思索回路無き馬鹿政治屋どもである。朝鮮人に名誉や誇りなど皆無は常識(条約破りの要求で自白済)。現実界一般常識も無い者は政治家などになるな!国が滅ぶ!

 8月4日「NHK」教育、捏造番組『50年目の従軍慰安婦』を放映。「ナヌムの家」を紹介。

1994年3月「慰安婦と戦場の性」

 1994年3月国連経済社会理事会に属する人権委員会は、決議45号によりクマラスワミ女史(エール、コロンビア両大学で学び、ハーバードにもいたらしい。米国弁護士資格有り)を、任期3年の「女性に対する暴力に関する特別報告者」に任命した。

1994(平成6)年5月3日法務省の永野茂門大臣が記者会見で、「慰安婦は当時の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない」と述べ、中国、韓国を初め、アジア諸国の激しい反発を招く。4日後、永野大臣は謝罪し、就任からわずか10日で引責辞任した。

正論をはいての辞任だが、条約締結の言葉皆無は、無知の証である!6へつづく

真実史観豪証言白馬事件は46年前に断罪済条約も歴史も無知の村山富一謝罪

豪証言白馬事件は46年前に断罪済条約も歴史も無知の村山富一謝罪

1994(平成6)8月31日日本社会党の村山富一総理大臣が、「平和友好交流計画」に関する談話の中で、従軍慰安婦について謝罪した。※条約も無知の、WGIP被洗脳者の無知の謝罪!

「平和友好交流計画」に関する村山内閣総理大臣の談話
 8月31日

 明年は、戦後五十周年に当たります。私は、この年を控えて、先に韓国を訪問し、またこの度東南アジア諸国を歴訪しました。これを機に、この重要な節目の年を真に意義あるものとするため、現在、政府がどのような対外的な取組を進めているかについて基本的考え方を述べたいと思います。

 我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷痕を残しています。私は、我が国の侵略行為植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。

 我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です。

 戦後五十周年という節目の年を明年に控え、このような認識を揺るぎなきものとして、平和への努力を倍加する必要があると思います。

 このような観点から、私は、戦後五十周年に当たる明年より、次の二本柱から成る「平和友好交流計画」を発足させたいと思います。

 第一は、過去の歴史を直視するため、歴史図書・資料の収集、研究者に対する支援等を行う歴史研究支援事業です。

 第二は、知的交流や青少年交流などを通じて各界各層における対話と相互理解を促進する交流事業です。

 その他、本計画の趣旨にかんがみ適当と思われる事業についてもこれを対象としたいと考えています。

 また、この計画の中で、かねてからその必要性が指摘されているアジア歴史資料センターの設立についても検討していきたいと思います。

 なお、本計画の対象地域は、我が国による過去の行為が人々に今なお大きな傷痕を残しているアジアの近隣諸国等を中心に、その他、本計画の趣旨にかんがみふさわしい地域を含めるものとします。

 この計画の下で、今後十年間で1千億円相当の事業を新たに展開していくこととし、具体的な事業については、明年度から実施できるよう、現在、政府部内で準備中であります。

 いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。

 我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。

 なお、以上の政府の計画とあいまって、この気持ちを国民の皆様にも分かち合っていただくため、幅広い国民参加の道をともに探求していきたいと考えます。

 また、政府としては、女性の地位向上や女性の福祉等の分野における国際協力の重要性を深く認識するものであります。

 私は、かねてから、女性の人権問題や福祉問題に強い関心を抱いております。明年、北京において、女性の地位向上について検討し、21世紀に向けての新たな行動の指針作りを目指した「第四回世界婦人会議」が開催されます。このようなことをも踏まえ、政府は、今後、特にアジアの近隣諸国等に対し、例えば、女性の職業訓練のためのセンター等女性の地位向上や女性の福祉等の分野における経済協力を一層重視し、実施してまいります。

 さらに、政府は、「平和友好交流計画」を基本に据えつつ、次のような問題にも誠意を持って対応してまいります。

 その一つは、在サハリン「韓国人」永住帰国問題です。これは人道上の観点からも放置できないものとなっており、韓国、ロシア両政府と十分協議の上、速やかに我が国の支援策を決定し、逐次実施していく所存です。

 もう一つは、台湾住民に対する未払給与や軍事郵便貯金等、長い間未解決であった、いわゆる確定債務問題です。債権者の高齢化が著しく進んでいること等もあり、この際、早急に我が国の確定債務の支払を履行すべく、政府として解決を図りたいと思います。

 戦後も、はや半世紀、戦争を体験しない世代の人々がはるかに多数を占める時代となりました。しかし、二度と戦争の惨禍を繰り返さないためには、戦争を忘れないことが大切です。平和で豊かな今日においてこそ、過去の過ちから目をそむけることなく、次の世代に戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを語り継ぎ、常に恒久平和に向けて努力していかなければなりません。それは、政治や行政が国民一人一人とともに自ら課すべき責務であると、私は信じております。

 

歴史や条約」等無知は子供以下あきれかえる無知

 捏造慰安婦問題は、韓国の思想戦。条約で解決済みを知らないからこうなる。これではいつまでたっても戦時下で、条約の意味を成さない。韓国の思想戦に、条約も知らず蒸し返した馬鹿と、反応した馬鹿が原因。締結後は、遡及して当時の他国非難でも、条約違反!条約締結で済んでいる事である。返答は、「条約で解決済み!世界を見習え!」一行で、済んだ事だ!職責者不在、職責不履行だから、捏造が膨張し「米の捏造条約破りに豪加蘭追随」の伝染となるのだ!

 村山河野宮沢加藤も、「慰安婦」などよりはるかに悲惨な「原爆投下・大空襲」をなぜ日本が「抗議」しないのかまるで解っていない。条約を締結したからだ。条約を締結したから「抗議」無しなのだ!条約締結国韓国に「謝罪」は、「条約破り」!

 条約を交わした当事者がみまかってからこの問題は蒸し返している。それまでは、何等問題は起きていなかった。納得し締結なので、当然である。今後も、締結したその国が解決すべき問題である。そうしなければ、永遠にWW2は終わらない。戦国時代戦勝国のみが悲惨なのではない、お互いが悲惨だった。先人の締結に帰れ

 

 11月23日「国際法律家委員会」が、「慰安婦被害者には個人補償請求権がある」とする報告書を発表。

※捏造(条約破り)の正当化に励んでいる。

現在の中韓朝罪日、そしてオランダの捏造情報戦は、ソ連凶産に裏で牛耳られた国際連盟日中戦争開始時と同じ状態である。
当時ジャンと同じオランダ人捕虜だったルディ・カウスブルック(オランダの著名な評論家、エッセイスト、コラムニスト。1929年にオランダ領東インド、現インドネシアに生まれ、1942年13歳の時、オランダ軍の降伏により、スマトラ島の日本軍民間人抑留所に収容され、46年、オランダ本国に引き上げる)著、「西欧の植民地喪失と日本草思社 1998」も、併読願いたい。戦国時代の戦時下はお互いさまなのだが、オランダ本土からも「オランダ領東インドの聾(つんぼ・耳の聞こえない人)」と称され、自身のことは棚に上げ騙る、ジャン証言の、特異事情がよく解る。

日本軍公娼(BC級や1994年裁判)告訴人では無い自称日本軍公娼慰安婦騙り屋ジャン・ラフ・オハーン!私娼か?

1994年

 2年前(1992年12月)年の慰安婦証言者オランダ人ジャン・ラフ・オハーンが、50Years ofSilence(50年の沈黙)」を、オーストラリアで出版。

 ジャン・ラフ・オハーンは、前掲のように韓国人証言者の虚言が、矛盾が、ことごとく指摘され、説得力を失っていた当時の目玉証言者である。以後慰安婦問題となると、ジャン・ラフ・オハーンは韓国人証言者とともに、セットで連れ回されるようになった。

 つまり、韓国人慰安婦とやらの証言の矛盾や、”従軍”慰安婦などと言う作り話が危うくなると、ジャン・ラフ・オハーンを出して、オランダ人証言事件があったから、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行もあったかのように装い、自分たちの作り話の証拠固めに使っているのだ。

 現在の捏造上塗りは更にエスカレートし、全く無関係の、ユダヤ人虐殺被害者慰霊碑前でひざまずき謝罪する当時の西ドイツ・ブラント首相の70年代の写真や、ユダヤ人のホロコースト(大虐殺)にまでに関連付けしての嘘の上塗りを工事は、止まるところを知らない。

 韓国の従軍慰安婦証言は完全捏造で、断罪既決事件隠蔽しての再断罪オランダ証言は、日本軍への捏造冤罪事件なので、同列に扱うべきではない。

 

今や決議国家(米加蘭豪EU比韓)唯一のよりどころとなったオランダ人証言者に真贋を検証してみよう。

 関係者物故を逆手に、先人冒涜の限りを尽くしての言いたい放題!同様の言いたい放題で、真相をあばいてみよう!

オランダ条約破りの経緯おさらい

条約破り!裁判で決着し、条約で締結したものは、一体なんだったのだ!

 1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書で、日本側は「オランダ国民に与えた苦痛に対する同情と遺憾の意を表明するため」、1000万ドルを「見舞金」として「自発的」に提供。こうして、日蘭間の戦後処理は、平和条約と、さらに日蘭議定書において、オランダ政府はいかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことが確認された。

 ところが、戦後長らく反日感情は残り、1971年(昭和46年)昭和天皇オランダ訪問時には、街中「裕仁は犯罪者」という落書きが見られ、卵や魔法瓶が投げつけられ手植え苗を引き抜かれるという嫌がらせがあり、1986年(昭和61年)にはベアトリクス女王の訪日計画がオランダ国内世論の反発を受けて中止された。1989年(平成元年)の大喪の礼の際も、多くの君主国が王族を派遣したものの、オランダからは王族が葬儀に参列することはなかった。

オランダ条約締結34年後に条約破り

 慰安婦や条約破りの訴訟ラッシュ等捏造しての日本叩きは、凶産中国毛沢東周恩来に始まり、小平江沢民の、犯日教育犯日政策が起因。犯日便乗商法が、日本の千田夏光と吉田清治と日弁連と朝日新聞。それに罪日と韓国と北朝鮮が便乗、オランダも追随し、条約破りとなった。

1990年(平成2年)そして、条約締結担当者すでに亡き34年後のオランダは、対日道義的債務基金(JES)を結成し、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償を支払うよう求める運動(条約破り)を始めた。JESは慰安婦問題も取りあげ、償いに直接に責任をとるべきは日本政府である、という立場をとった。

1991年(平成3年)に来日したオランダベアトリクス女王は、1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書で。国家間における賠償問題が解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会において、「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と発言し、暗に賠償を要求した。日蘭議定書から34年後のことである。当然当事者は皆、みまかっている

 これに対し日本政府は応答し、アジア女性基金(条約破りに加担)により、総額2億5500万円の医療福祉支援を、79名の個人に対して実施した。

1992年12月9日

 条約締結36年後に突如証言者が現われた!対日道義的債務基金(JES)を結成(34年後の1990)から年後のことである!12月9日証言者ジャン・ラフ・オハーンが来日し東京での「日本の戦後保障に関する国際公聴会(日弁連後援)」証言した。

 

 一部軍人の不始末スマラン(白馬)事件は、44年前に既決し、死罪等で断罪済み(一人は死刑一人は自殺等)である。断罪済みを巧妙に隠蔽し、新たな真実のように装い、強制連行レイプRaped)や性奴隷人道という単語で埋め尽くした一方的捏造証言者が現われ、証言した。

 44年前に既決し、死罪で断罪済みのスマラン事件(事件)でも、これを隠蔽し、反論当事者も亡き44年後ては、皆無知で、社会道徳の共感を得やすかった。それは伝統的に売春制度があるオランダのような国でも、大きな効果を果たし、日本でも共感を得た。

 証言者ジャン・ラフ・オハーンはキリスト教信者を何度も証言や著書で語って、同情を集めているが、一部軍人の断罪済み事件を再度断罪して、かつ、日本軍全体であるかのように捏造した精神は、キリスト精教神ではない。キリスト教騙りのニセ信者である。

 

当時の世界と日本政府

1992(平成4)年もし日本戦わざれば、有色人、未だに植民地のままと、マレーシアマハティール首相演説。

1992(平成4)年天皇を政治利用の偽中国凶産の策動に宮沢喜一首相操られ、天皇皇后両陛下訪中。

1992(平成4)年8月 「元慰安婦に(シナリオ通りに)言わせるのは大変なのよね」社会党参院議員の清水澄子や弁護士の福島瑞穂、12年に昭和天皇を有罪とした女性国際戦犯法廷の共同代表の一人も務めた朝日新聞記者の松井やよりらが捏造!

1993~94(平成5)年細川護熙首相8会派連合

1993(平成5)3月~02年中国鄧小平引退の後を継ぎ江沢民国家主席を兼務。市場解放政策に伴う弊害、民主化要求の根を絶つ目的で、残虐日本と捏造し、子供から大人まで洗脳した。凶産常套手段、敵国と捏造の愛国教育である。

1993(平成5)年8月4日「河野談話」慰安婦関係調査結果発表に関する河野洋平内閣官房長官談話

 

1993(平成5)5月国連小委員会で日本政府に対して、元慰安婦に対して個人補償を勧告するIEDの最終報告書が正式に採托され、日本政府に留意事項として通達された。7月に国連人権委員会の「人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」で「戦時奴隷制問題」の特別報告者を任命する決議が採択され、スリランカのラディカ・クマーラスワーミー(現・国際連合総務。慰安婦問題元凶2007年米国下院決議の底本、1996年クマラスワミ報告書作成者が特別報告官に任命された。

 

1994(平成6)年大江健三郎、ノーベル有色人差別(犯日)賞受賞。マハティール首相の真実を語る演説に、伝播を恐れた白人戦勝国は、文学三流犯日一流、比類なき犯日の大江に急きょ白羽の矢、ノーベル犯日(有色人差別)賞を与えた。世界に語る文学など元々無い三流大江は、三流文学ではなく一流の犯日を世界で語り、ノーベル賞の正体白状、もくろみに応えた。効果覿面の思想戦で、岩波書店朝日毎日NHKなどが迎合扇動、国民はノーベル犯日賞に洗脳された。

 

検証前の予備知識

「慰安婦」捏造団がつまみ食い針小棒大宣伝する白馬事件は軍隊一部の暴走事件

白馬(しろうま)事件(スマラン事件)は46年前に断罪済

 「白馬」とは、当時敵国の白人を「白馬」にたとえての表現。戦後は、「スマラン事件」表記が正当。インドネシア日本軍占領中の日本軍人の一部が暴走、1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所からスマランにあった慰安所に強制連行し起こした、監禁・強姦・強制売春事件とされている。2ヶ月未満で事件発覚、日本は即時閉鎖し処罰した。日本軍の不祥事スマラン事件」を日本が即刻閉鎖処罰は、現在難癖中の「日本国是強制連行性奴隷」は冤罪との、確固たる証拠である!

「従軍慰安婦」吉見義明(木しか見えず、森が全く見えない井蛙史観で、犯日半端者凶授)著岩波新書1995より

 当時スマランには既に慰安所はあったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第16軍司令部のガイドラインを無視した(ガイドラインは未発見であるが証言やスマトラの第25軍の類似の通達からそのように考えられている)。

 複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所の17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的(10名は自発で、強制は25名と裁判で認定された)に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘か双葉荘)に連行した。

 3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。週に1度医師の身体検査があったが、充分な治療はほとんど行われず、医師が強姦することさえあった。(注・ここの女性像は、オランダ人証言丸鵜呑みの、丸記述で、検証無し

 しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え(下記のオランダ公文書館調査報告ではこうだが、日本人側証言は異なる。下記参照)、同大佐の勧告により16軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖し、女性達はクラマト抑留所に移された。

※事件発覚して即時の閉鎖(開店は2ヶ月間)は軍の無関与証拠。「あるヨーロッパ人の証言によると、このスマラン「慰安所」事件の結果、何人もの憲兵隊員が地位を失っている」。日本占領下インドネシアにおける「慰安婦」―オランダ公文書館調査報告―

 上記とは異なる、日本側軍政監部本部鈴木博史大尉証言「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本軍政監(第16軍参謀長の兼任)へ伝えると、山本は“まずい、すぐやめさせろ”と怒り、翌日に閉鎖命令が出た――のちに、彼女たちを集め申し訳のないことだったと謝罪した」。「慰安婦と戦場の性」221p

 後述「ジャンの物語」倉沢愛子解説212p「1944年4月から抑留所の管理が、いっせいに州庁から軍直轄に代わったのだが、その移管にともなって日本から抑留所の視察にやってきたある大佐が、強制的に若い女性が抑留所から連れ出された事実を知って、ジャカルタの第16軍司令部に報告したものである。――ただちに慰安所の閉鎖を命じた」とある。つまり、日本軍の管轄になってはじめて「監督不行き届き事件」が発覚(強制連行強制売春事件)し、日本軍が廃止したのである。

 終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制(無理矢理のリンチ裁判なので、実数はもっと少ない)で10名が自発だったと認定され、罪名は、強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。自発10名は、モーパッサンの小説「脂肪の塊」の主人公に匹敵する。

有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等である。

能崎清次 陸軍中将 (幹部候補生隊長、事件当時少将)懲役12年

池田省三 陸軍大佐 (幹部候補生隊付)懲役15年

岡田慶冶 陸軍少佐 (〃)死刑責任者

河村千代松 陸軍少佐 (幹部候補生隊副官)懲役10年

村上類蔵 軍医少佐 (幹部候補生隊付)懲役7年 

中島四郎 軍医大尉 (〃)懲役16年 

石田英一 陸軍大尉 (〃)懲役2年

三橋弘 スマラン支庁陸軍司政官 無罪

大久保朝雄陸軍大佐(事件の中心的人物とされるが、訴追を知り自殺)

慰安所経営者

葛木健次郎 (将校倶楽部)スマラン軍将校専用はここだけ。 懲役7年

古谷巌  (スマラン倶楽部)懲役20年

森本雪雄  (日の丸倶楽部)懲役15年

下田真治  (青雲荘「ジャンの物語」倉沢愛子解説では双葉荘)懲役10年

「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦著・新潮選書)より

 死刑になった岡田慶治少佐は「青壮日記」と題した獄中手記を残している。日中戦争期の戦場体験から書き起こした半自伝だが、事件について次のように書いている。

 将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり……その彼女たちが告訴している。それも嘘八百を並べて……時勢が変わったので我々に協力していたことになっては彼女達の立場がないのかと想像……起訴状を見ると首謀者にされている……「そうか飼犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない」と覚悟した……敵の銃口の前に立って、日本軍人の死に態を見せてやることではなかろうか。

 開き直ったとも思えそうな論旨だが、それなりの情状は存在したようである。

 岡田手記によると、発端は、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうとする構想を聞いた能崎少将が、内務官僚出身の宮野スマラン州長官に話をつけ、上官の池田大佐、大久保大佐から命じられて実施面を担当させられたのだという。

 個々の選定にはタッチせず、将校クラブが開館する前々夜に集まった女性と初顔合わせして色々な注文を聞き入れてやったので「(彼女たちは)とても朗らかで若い将校と心中でもしてくれなければいいがと、心配しているくらいです」と視察に来た参謀へ報告したという。(P.220)

※この岡田慶治少佐が関わった慰安所は、ジャン・ラフ・オハーン(後の自称証言者)が入れられた慰安所(軍将校専用)に該当する。「ここでは女性たちに「道子」などの日本名をつけていたというから(220p)」なので、ジャン証言も合致。合致はするが、このように公開されているので、後で辻褄合わせのための学習は、可能

 判決文は「自由意志で売春を行う女性は皆無か、いたとしてもごく少人数であり、売春をさせるために実力行使が行われるであろうことを承知しながら、あるいは当然、その疑いを持つべき立場にありながら、女性たちに売春婦として働くことを命じた(季刊戦争責任研究第三号1994年)」と、かなり無理な判決となっている。このようなリンチ裁判なので、かなり割り引いて認識しなければならない。

 1994年のオランダ政府の報告書では、インドネシア各地の慰安所で働いていた200~300人のオランダ人女性のうち少なくとも65人は絶対確実に(most certainly)強制売春の犠牲者だったと判定。小林英夫季刊『戦争責任研究』4号1994年6月つまり、高額の報酬で慰安婦になることに同意した者もいた。オランダにも伝統的に売春制度があった

 女は生きて子孫を残すことが第一義(生命体の最適者生存本能が一番強かったので人間は生き残っている)。女は生きるためには豹変する。男の顔は履歴書だが、女の顔はまさに生きるための請求書。 

 白馬(しろうま)事件(スマラン事件)は、死刑も執行され、こうして決着した

 終戦後、オランダは、捕虜虐待などの容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰した(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。

 日本軍によるスマラン事件処罰無しと非難があるが、明日無き命の戦争の常識に欠ける平和時の論で愚論、敵より味方が何より大事は、当然の常識である。ましてや1944年2月は苦戦の最中。平和時の常識で死活の戦時下を断罪するのは事後(遡及)法と同じで、禁止(遡及)法での敗者虐め以外の何ものでもない。7につづく⇒

真実史観ジャン・ラフ・オハーンは日本軍公娼(BC級や1994年裁判)の告訴人では無い

ジャン・ラフ・オハーンは日本軍公娼(BC級や1994年裁判)の告訴人では無い

1994年

ジャン・ラフ・オハーン(以後ジャンと略記)50Years of Silence(50年の沈黙)検証

 倉沢愛子解説は、とても丁寧な解説なので、読者にとって、これほどありがたいことはない!

50Years of Silence」は、1994年オーストラリアで出版。「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語邦訳は5年後の1999年3月20日」訳者(渡部洋美)あとがき「ラフ・オハーンさん自身、これをマイストーリー(私の物語)と呼んでいる」

 著者ジャン・ラフ・オハーン(1923年生まれヤン・ルフ・オヘルネとも呼称、Jan Ruff O'Herne)は、白馬(しろうま)事件(スマラン事件)当事者なのだが隠蔽、オランダ人強制慰安婦犠牲者と自称し、証言を開始している。現在はオーストラリア国籍。

50Years of Silence(50年の沈黙)検証

 前掲のごとく証言者は自らを完全な被害者として正当化し証言する。そうしないと身内からも非難され、孤立する。このことを念頭に置き読むのが、常識人である。

巻頭

娘たち、アイリーンとキャロルに

感謝の言葉

 この物語を書くよう励まし、惜しみなく支援してくれたアイリーンとギャリー、キャロルとネッド、フィーンとセレスト。理解を示してくれた夫のトム。かぎりない思いやりを見せてくれたオハーン家の人たちとルーケとフレーケ。援助と激励をいただいた〈オランダ対日補償請求財団〉、とくにシュールド・ラブレー。編集担当のエリザベス・ピューテルと発行人のトム・トンプソン。

 最初に勇気をもって名乗りを上げ、この物語を公表する勇気をわたしに与えてくれた韓国の元「慰安婦」の人たち。

 以上の方々に感謝をささげます。

 ジャン・ラフ=オハーン   

ある時は「物語」、ある時は「真実」と「泣き売」。ある時は「許す(リンチ裁判だが、死刑一人自殺一人服役10人で断罪済みなので当然のこと)」、ある時は「ホロコースト」と「捏造非難」の二枚舌!この騙りは、本当にカトリックなのか疑問である。したたかこの上ない騙り女である。「援助激励をいただいた〈オランダ対日補償請求財団〉」とある。援助は金以外あるだろうか?

ジャン年表と検証資料は「邦訳1999年木犀社・オランダ人『慰安婦』ジャンの物語)」と2009/02/23ピーター·トンプソンとの対話。

1602年(1603年に徳川幕府開始)オランダ東インド会社(アジアにおける国防や条約締結権や商業活動等が国王から与えられた)が、西ジャワのバンテンに商館建設。1799年放漫財政でこの会社は倒産したが、植民地支配がオランダ国家に移り、ジャワ島以外のスマトラ、ボルネオ、セレベス等を武力で征服、「オランダ領東インド」とした。

1870年スエズ運河が開通し航海日数が短縮されると、オランダ人女性も、来るようになったが、それ以前は混血(中国人やインドネシア人とオランダ人男性)の、オランダ人女性がほとんどであった。

1883年ジャン父方祖父アンリは、1865年フランスで生まれ、18歳のとき、両親とジャワ移住。祖母は、オランダとインドネシアの混血。

1923年ジャンは、父(オランダ帰化のフランス人が父、オランダ人とインドネシア人の混血が母)と、オランダ人の母(オランダで技師勉強中の父と、母は出会い、結婚)の3番目の子(兄エドワール略してワルドは、後にオランダ陸軍の将官。姉アリーヌ)として、当時の゙オランダ領東インド゙(現インドネシア、ジャワ島)に生まれた。8年後に妹のジョゼフィーヌ、最後に末子の妹セレストが生まれた。

 父は製糖農園(チュピーリン製糖プランテーション)の従業員、母は製糖農園社交場の図書室や売店の管理人。家族のほかに5人のインドネシア人の同居人(召使)、料理人(イマ)、メイド(スミは寡婦)、ハウスボーイ(イマの息子のチャ)、シボレーの運転手(アーマド)、庭師(サルディ)。ジャンらは製糖農園に住んで、そこからスクールバスで一時間、大都市スマランの、カトリック修道院フランシスコ会経営の学校に通った。

1930年世界恐慌始まる。

1935年製糖農園数が六分の一に減少し、ジャンの父の給料が半分になる。修道女から学費を免除され、ジャンは学業を続けた。

1938年ジャン15歳頃、兄弟三人は、アンプル・ガディンの日本人夫婦の高原農場を度々訪問し、歓迎されている。がしかし、あの日本人も、愛想のいい日本人の写真屋も、スパイだったとと証拠も開示せず一方的に非難している。36p

 1993年なって、私は昔の小学校をようやく再訪しました(40p)。

※それまでは出来なかった。1992年の証言利得で、金回りがよくなった

 

1940年5月10日ジャン教員養成学校在学中ドイツ軍オランダ本土侵入、4日後の5月14日、オランダ降伏

1940年9月アメリカの対日輸出制限措置(援蒋ルート遮断目的の日本の南進政策に報復)のため、輸入できなくなった資源を、オランダ領東インドから輸入しようと貿易交渉(日蘭会商)を開始したが、オランダ本土が降伏しているのにもかかわらず固く拒み、9ヶ月交渉したが、1941年6月決裂した。背後にアメリカ有りは明白で、さらにABCD包囲網で、資源無き小国日本を資源封鎖(兵糧攻め)で追い討ち(宣戦布告)。大東亜戦争は真珠湾ではなく既に1940年に始まっていた。

1941年7月オランダ領東インドが、この地の日本人の資産凍結

1941年9月約7.000名近くいたこの地の日本人に引き上げ勧告し、開始。

1941年12月8日真珠湾爆撃で開戦(日本は英米蘭に宣戦布告)。引き上げ未完了の2.039人の日本人は逮捕され、オーストラリアの収容所送りとなった。後の捕虜交換で釈放になった一部の者以外は、終戦まで拘留された。

※ジャンは被害者視点で一方的に日本非難だが、「収容所送り」はお互い様なのである。これではキリストが嘆く。

 

 ジャンの父47歳もとっくに召集されていて、母一人の肩にかかっていた。

1942年2月15日シンガポール降伏。ジャンは19歳で教員養成学校在学中。一家は海岸から離れ、ウンガラン山山腹バンドゥンガンのアンリお祖父さんのもとに疎開。3月1日日本軍ジャワ島に上陸開始し、8日でオランダ軍降伏。この時まで、まさか負けるとは思っていなかったので、24万人(19万人がジャワ島在住)のオランダ人が一挙に捕虜となった。

 4月1日外国人は全て(主に華僑とオランダ人)、登録書に国籍、出生地、年齢、性別、職業を明記し提出を義務づけた。

 9月民間人婦女子収容命令。ジャン一家は、この年のクリスマス前にアンバラワ(スマランの南40キロ)の第六収容所(終戦時には2.200名の抑留で、日本人と朝鮮人軍属各一名と、インドネシア人兵補50名が警備していた)に抑留された。アンリお祖父さんはフランス人(この時フランスはドイツの支配下が理由)なので、抑留されずに残った。ジャンの姉アリーナは、スマランの町で鉄道局に勤務し、看護婦の助手もしていた、

 捕虜交換で戻った日本人は元の仕事には着かず、軍政下の下で大部分が通訳として働いた。「戦前いた日本人は皆スパイ」だったという誤解の始まりである(今なおオランダ人のあいだには、この誤解はある)。オランダ語は使用禁止で、マレー語(現代のインドネシア語)が公用語となった。目的は「大東亜共栄圏」構築であったが、当初は、資源獲得が最優先されたことはいうまでも無かろう。

 アンバラワ第六収容所所長の白猫をジャンが捕まえて食ったりと、収容所の衛生状態、食糧事情

などがいかに劣悪であったか強調されている。ジャワは人口密度が高く、耕地の一部が製糖農園用として使用されていたため、自給が何とかできていた程度のところに、日本軍が進駐し、そして24万の抑留者なので、インドネシア人たちも同様に皆、劣悪であった。

 食料のみではなく、輸入に頼っていた衣料品、薬品、生理用品等も極端な品不足は、輸入が途絶えたので当然なのである。

 アンバラワ第六収容所には修道女の一団もおり、バラックの一つに小さな「修道院」も有り、彼女達は修道服も着続けていた。そして修道女達だけは、日本人から敬意を払われていた。

 「1944年2月のことです。アンバラワの日本収容所に抑留されてもうかれこれ二年になる(79p)」とあるが、前述のように民間人婦女子収容命令は1942年9月なので、山地疎開のジャンは遅れて、実際の収容は12月頃ではないか?収容期間強調目的で、約1年ほどサバよんでいる。正味は1年3ヶ月程度。これでもカトリック教徒なのか!慰安所は3月1日に開設されているので、2月末のことであろう。

 17歳以上の独身の娘は、ただちに中庭に整列せよとの命令に、キャンプ・リーダーイルデラ夫人や母親たちが抗議したが、受け入れられず後述のジャンの証言のようになった。収容所の通訳は日本人実業家と婚約中の金髪のきれいなオランダ女性であった。

 「イルデラ夫人は、シスター・レティシア率いる修道女の一団と一緒に娘たちを連れて行かないよう日本人に嘆願しました。すべて無駄でした。――わたしたちのみじめな一団に別の6人が加わりました合計16人の娘が、意に反してアンバウラの収容所から無理やり連れ出されたのです」87p

 「スマラン市の山の手チャンディ地区のオランダ・コロニアル様式の屋敷道で、リース、ヘルグ、ミープ、エルス、アンニー、ベッティ、それにジャンが降ろされた。まだ名前を知られたくない人もいるのでここでは仮名を使っている」

 「この館を日本人は『七海館The House of the Seven Seas』と名づけていました90p」とあるが、210p倉沢愛子解説「スマラン市内にあった日本軍の幹部候補生隊が、スマランとアンバラワの四つの収容所から計35人のオランダ人女性を連行して、3月1日からスマラン市内に四つの慰安所を開設した。その四つとは『将校倶楽部』『スマラン倶楽部』『日の丸倶楽部』『双葉荘』で、このうち『将校倶楽部』だけが軍将校専用、あとは民間人にも解放されていた」という。

 ジャンは、連れて行かれたのは『七海館』という場所だったと記しているが、このような場所は記録には残っていない。しかし証言が真実なら、前後の関係からみて、彼女はこの時連れ出された35名の一人であることは間違いなく、彼女が住まわされたのも上記の四ヵ所のうちの一つであると思われる。

 ジャンが真の被害者(偽証でないなら)なら、以下のジャン記載の相手はすべて軍人なので、『七海館』=将校倶楽部』以外はない!なぜ偽ったか!『将校倶楽部』は「スマラン事件」として前述のように裁かれ、断罪済みだからである。カトリック信徒を自称し、学歴や証言でたえず信仰を語り、信仰を証言の強力な道具にしているジャンの、死体(極刑断罪済み)を掘り起こしての再度の断罪は、キリストの根本教義に著しく反するからである!

 三日目に年上のオランダ女性既婚者、ドリーとイヴォンヌが志願してこの館に来て9人となった。

 四日目日本軍将校により、「強制売春の奴隷」にされたことを知らされた。責任者の将校が書類を取り出し、署名させようとしたが、私達は拒否し署名しませんでした。96p

 それからまもなく、――写真を撮ってもらうよう命じられました。――娘達のそれぞれに日本名がつけられ、その名前が掲示板の写真の下に出してありました。わたしは自分の名前を覚えていません。知りたくなかったのです。わかっているのは、それが花の名前だったということだけです。――日本人の女性が現われました。いかつい顔をして、がにまたで、眼鏡をかけています。――この館で女の人に会えて、私達はみなうれしく思いました。「女の人なら――このひどい有様を聞いてくれるわ」ところが、この女性は違いました。――もうぜんとわたしにくってかかりました。97p

 その間に館全体が娼館の機能を果たすよう準備されていきました。――館開きの夜がやってきました。

 今では館は日本軍人でいっぱいでした。101p

 ジャンレイプ受難(後述の証言と同じ)の翌朝、朝食時に「志願者」のドリーとイヴォンヌに「志願の理由」を聞いた。彼女たちの収容所から若い娘達が連れ出されるとき、そのうちの二人はほんの16歳だったので、ドリーとイヴォンヌはかわいそうに思い、自分たちが代わりに行ってもいいと日本人に申し出たのです。「どのみち」とドリーは続けます。「飢え死にするつもりはないからね。生きてこの戦争を抜け出したいのよ」106p

 リースが私の部屋にやってきました。ロザリオを手に下げています。彼女は7人のうちで、私のほかただ一人のカトリック教徒です。ほかの5人はともにプロテスタント育ちでした。――その日からリースとわたしは毎朝、時によると2回以上、「ロザリオの祈り」を唱和しました。ともに「ロザリオの祈り」を上げることが癒す働きをしてくれるのは驚きでした。50年後(1994年?)にオランダで再開を果たしたとき、リースは開口一番こういいました。「覚えてる?二人でずいぶん『ロザリオの祈り』をとなえたわねえ」107p

 日中わたしたちは赦免されることになっていました。――プライバシーなどなく、その結果、よく昼間も強姦されました。

※「よく昼間も強姦されました」とある。昼間から遊んでいる兵隊がいたと語っている。ここは常識で考えてみよう。皇軍の兵である、あり得るだろうか?まさに死人に口無しの言いたい放題である!

 

 わたしは木製の十字架を相変わらずベルトに挟んで身につけており、日本人達から「十字架娘」と呼ばれていることを知りました。

 ある朝、裏のベランダにみなで集まっているとき、鉛筆を出してひとりひとりにハンカチに名前を書いてもらいました。それから中央に「26-2-’44」と書きこみました。わたしたちが強制的に収容所から移された日付です。110p

※収容所からの移送日1944年2月26日。

 

 いついかなるときでも、わたしは相手を撃退しようとしました――かなりひんぱんに日本人を痛い目にあわせてやりました。このように頑として抵抗をやめなかったため、わたしは事務室に呼ばれ、いいかげんにしないと繁華街の売春宿にやってしまうぞ、と言われました。それは兵卒用にインドネシア人の娘を置いた宿です。そこでは待遇はさらに悪くて、夜も昼も「働く」ことになるのだぞ、と。わたしは度を失って事務室を出ました。112

※従ったでは世間の同情は得られず、ただの売春婦に成り下がり非難の嵐となる!抵抗した女性の強調である。そうとうに割り引いて読むべきであろう。なにしろ、反論者は一人も居ないのだから。「兵卒用」とある。ジャンはここを明白に、「将校用」と認識していた。

 

 ミープの部屋を通りがかったとき、――ミープは自殺をくわだてて、両手首を切ったのです。わたしはちょうど間に合ったのです。――車で病院に運ばれました。二、三日たって帰ってきたとき、彼女は口数が少なく、わたし達もそのことにはふれませんでした。いっそうの愛と支えを向けてあげました。113p

※自殺者は繰り返す。「二、三日」で帰すはずなど無い。反論者は物故、「泣き売」強調の捏造である。

 

屈辱の性病検査114p

 「七番館」に軍医がやってくる朝になって、わたしはとっさに思いました。医者なら当然、同情してくれるだろう。わたしは話があるからと言って、事務所に医者を訪ねました。いつもの丁寧なお辞儀をして入ると、わたしはここのありさまを説明しようとしました。わたしたちは心ならずもここにいるのです。収容所から無理やり連れ出されたのです。このことはジュネーブ条約に違反しています。この恥ずべき犯罪を当局に報告してください。

 軍医は頭の後ろで両手を組んだまま、椅子にそっくり返って、わたしを上から下までじろじろ見ていました。こちらの話には何の関心も見せません。同情や弁明のそぶりもありません。わたしはがっかりしましたが、やってみるだけのことはしたのです。そのとき軍医はいきおいよく立ち上がって、こちらに向かってきました。つかみかかってこようとするところを、わたしはすばやくかわして、部屋を飛び出し、裏庭へ行って隠れようとしました。

 わたしは鳥小屋に向かいました。そこは狭く、天井が低めです。軍医は大柄で太っているので、ついてこれれないはずです。――二、三分後、息を弾ませた巨体の胴部が小屋の狭い入り口に押し入り、くぐり抜けようとしました。それと同時に、見物人からいまわしい笑い声があがりました。いつもどおり、結局わたしの負けでした。軍医は初めて館にやってきた日、獣のようにわたしを犯したのです。――

 性病検査の始まる朝がきました。わたしたちは支え合おうと、ひとりが検査をうけているあいだ、べつのひとりが付き添いました。わたしはこの日本人軍医にこんなやりかたで検査されることにぞっとして、完全な屈辱を感じました。軍医は定期的に館を訪れ、そのたびに、まるで処置の一部であるかのように、日中わたしを強姦しました。

※立会人憲兵の記載無し。通訳の記載無し。ジャンは日本語を話せたのか?軍医はオランダ語やインドネシア語を話せたのか?通訳等の第三者が居ない?下記とは真逆の証言である。捏造である。

 検査室にはドアがありません。そのうえもっとひどいことに、さらにわたしをはずかしめることに、いつでもほかの日本人が見物しているのです。図に乗って室内に入り込んだり、開いている戸口に立ったりして、わたしたちが検査を受けているのを眺めているのです。こういう検査は、強姦と同じだけ恐ろしいものとなりました。

※毎週一回軍医が憲兵の立会いで接客婦を検診し、不合格者は接客を禁じるほかの日本人が見物」は立会人憲兵である。

 この屈辱をわたしはどうにか耐えました。磔になる前、衣類をはぎとられたイエスがどんな苦しみをあじわったか、わたしは生まれて初めて完璧にわかりました。軍医の訪問あるたびに、あとでわたしは自室へ行って、「十字架の道行き」の第十番を祈りました。イエスが衣類をはぎとられる場面です。

※イエスと軍医を対比させ、同情を得ようと謀っている

つかの間の休息117p

 ジャンは内働きのハサンの助けを借り、手紙で姉のアリーヌ(蘭印鉄道に勤務中)と連絡を取り合った。姉は信頼できる日本人「ヨディ」に打ち明け、ジャンを助ける計画を練った。

 ふたりの計画はこうです。ヨディが娼館を訪れて、わたしを丸々ひと晩「買い上げ」、そのあいだ、わたしがほかの日本人に強姦されないですむようにするのです。――

 その夜、気さくな感じの華奢な日本人がわたしを求めてきました。わたしを助けてくれることになっているヨディだということがすぐにわかって、うれしさに心が躍りあがりました。――

 ヨディはよく承知しており、日本人のしうちをすっかり恥じていました。つつましいしぐさで謝りながら、何も恐れることはないと言って、丸々ひと晩分買った切符を見せてくれました。――

 一週間というもの、ヨディは毎晩、館にやってきて、わたしを守ってくれました――特にわたしに指一本触れなかったのですから。

 ヨディは、訪ねてきていた時期、よくアリーヌの手紙や、姉がほかの娘たちのために包んだものを渡してくれました。リースもまた短期間、助けてくれる人を見つけていました。この日本人男性はクリスチャンで、いっときアメリカに住んでいたことがあって、リースに同情し、何度か訪れて、強姦をまぬがれるようにしてあげたのです。

 二週間にわたって助けられたあと、コディの訪問が急に途絶えました。ふたたびハサンに姉を訪ねてもらいました。アリーヌの返事によれば、ヨディはほかの部隊とともにスマラン市を引き払うことになり、もう来ることはないそうです。8につづく⇒

真実史観冤罪日本反論者亡きジャン・ラフ・オハーン証言は示談金目的の痴漢証言

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神の手にゆだねて122p

 さらに心配事が降りかかりました。妊娠したらしいのです。わたしはぞっとして、きっとあの最初の夜の結果だと思いました。こんなことはごめんだ。こんなことまでは!どうやって出産を待ち望めばいいのでしょう。あのような恐怖の中で宿った子供をどのように愛せるというのでしょう。わたしの心はとうていその状況を理解しかねました。いつものとおり、わたしは自分の生を神の手にゆだねました。自分のみに起きることは何であれ、神の構想で、自分の人生の中でひとりでに解けるということがわかっていたのです。神がわたしを見捨てるはずがありません。

 その朝、朝食のあとで仲間たちに打ち明けました。――彼女たちはわたしに、例のひどく恐れられている女看守に話すよう勧めました。妊娠したとなれば、収容所に返してもらうチャンスになるかもしれません。

 わたしはその女が事務室にいるところに近づきました。――わたしは入出するとき丁寧にお辞儀をしたのですが、頭をもっと下げてやり直させられました。事態を説明するのはたいして難しくありませんでした。その問題の答えとして、女は錠剤の入った瓶を取り出し、わたしにひと握りくれて、飲ませようとしました。それがどういった錠剤かわかりませんが、明らかに流産を引き起こすためのものです。。わたしは首を振って、飲むことを拒否しました。たとえこの場合でも、胎児を殺すことはできません。そんなことをしたら、滞在になります。拒否し続けたのですが、結局、むりやり錠剤を喉に押し込まれ、そのあとまもなくわたしは流産しました。

※反論者は亡くなり皆無。信用度は半分であろう。ちなみに当時のカトリックは、堕胎禁止である 

ベランダのスケッチ125p

 ――ある朝、わたしたちの話しているのを聞いて、珍しくどりーとイヴォンヌが加わってきました。

 「忠告してあげていい?」とドリーが言います。「あんたたちも自分のチンタ(愛人)を作らないとね。知ってる男で、あんまりつらい思いをさせないのを二、三人選ぶんだね。そいつらに調子を合わせて、おだてあげるのよ。そうすれば、夜になるともどってくれるわ。毎晩、同じ男をとるほうが、ちがう男をあいてにするよりましよ。ほんとよ、これでずっと楽にやってけんだから」

 ――たとえこの忠告が目先のきいたものだったとしても、わたしには絶対に従えないことはわかっていました。

 どれほどのあいだ、わたしたちはスマランの娼館にいたのでしょう?正確にはおぼえていませんが、少なくとも三ヶ月はいました。昼間、館を訪れる軍人はますます増え、昼の貴重な時間さえ、もはや自分のものではなくなりました。この先どのくらいやっていけうのか、と自問しました。組織的な強姦は、わたしたちに影響をおよぼしていきました。

 リースとわたしは「ロザリオの祈り」を、もっともっと唱えました。ヘルグは神経過敏になって、これまで以上に泣いています。ミープは夢遊病者のように館の中を歩きまわっています。ベッティは神経をなだめる為、鈎針で小さな敷物をさいげんなく編み続けています。いっぽうエルスとアンニーは、大好きな食べ物と料理を気晴らしの種にして、数かぎりない献立を教え合っていました。

 わたしたちのもとに位の高い軍人が大勢やってきて、事務室では、怒号の飛びかういい争いが続きました。突然、わたしたちは荷物をまとめて退去するよう命じられました。理由は何ひとつ知らされません。どこへ行くのか教えてもらえないので、恐ろしく思いました。

 ――別の娼館に行くのか?スマラン市には、ほかにもいくつかオランダ娘のいる娼館があることを、わたしたちも知っていました。

※日本軍が、一部軍人の犯罪に気付き即刻閉鎖したのだか、その事実を書けば逆に、日本軍完全不関与の決定的な証拠となるので、慰安婦日数真実は二ヶ月未満(スマラン事件)なのに、「正確にはおぼえていませんが、少なくとも三ヶ月はいました」と、既決断罪済みのスマラン事件とは異なるかのように装い、捏造、「日本軍が慰安所を閉鎖」したことを故意に隠蔽している。真の当事者ならこのことは、知らないと言い逃れできない、明白な事実である。真のカトリック信徒はこんなことはしない。

 ――またもや、おびえる若い娘の一団はトラックで運ばれ、今回は列車で二日がかりの長旅をしました。

 スマラン駅を離れる時から、列車の窓という窓は板でふさいでありました。社内は胸が悪くなるような旅でした。列車は西部ジャワ州の、バタビア(ジャカルタ)から50キロ余り南のボゴールに着いて、最終的に、わたしたちはボゴールの収容所に来ていました。

 なぜ急にスマランの娼館を出ることになったのか、日本人からは何の説明もありませんでした。

※日本側軍政監部本部鈴木博史大尉証言「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本軍政監(第16軍参謀長の兼任)へ伝えると、山本は“まずい、すぐやめさせろ”と怒り、翌日に閉鎖命令が出た――のちに、彼女たちを集め申し訳のないことだったと謝罪した」とある。「慰安婦と戦場の性」221p

沈黙の始まり129p

 ボゴールの収容所に着くとすぐに日本人から、自分たちの身に起きたことは絶対に口外するなと言われました。もし話したら、家族ともども殺されるからな、と。ただちに沈黙が始まりました。わたしたちは沈黙を押し付けられたのです。

 ボゴールのその収容所は一時的な滞在場所にすぎませんでした。そこは、以前オランダ人の住んでいた家々を、周囲に塀をめぐらして収容所にしたものでした。ここでわたしたちは、ほかのオランダ女性といっしょにされました。全員、それぞれの収容所から強制的に連れ出され、日本人用の娼館で働かされていたのです。こうしてボゴールに来て初めて、人権に反するこの極悪非道な犯罪の大きさがわかりました。そこには百人以上のオランダ女性がいました。全員、日本軍による性暴力の被害者でした。

※「百人以上のオランダ女性」は捏造である。終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制(無理矢理のリンチ裁判なので、実数はもっと少ない)で10名が自発だったと認定され、罪名は、強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。

 「人権に反する」とか「性暴力の被害者」は、後の学習証言。

家族との再会130p

 いっぽう、わたしたちの母達、妹たち、弟たちも列車に乗せられて、ボゴールまで二日がかりの旅をしていました。そこでわたしたちは愛する家族と再会したのです。――

 フィーン(妹)はいつでも物事を見抜く子供で、もの珍しそうにわたしを見ていました。頭に巻いてあるスカーフに目をやっているので、わたしは何とか説明せねばと思いました。――

 つぎの日、母とふたりっきりになった時を見はからって、わたしは自分のみに起きたことをすべて話しました。わたしがその話をしたのは、このときかぎりです。母がもてあましているのがわかったので、二度とその話を持ち出しませんでした。そこで、またしても沈黙が始まるのです。

 ほかの娘たちの場合も同じでした。彼女たちも母親の打ちのめされようを見て、まともにその話をすることができなかったのです。わたしたちが娼館にいたときには、仲間同士で話すことができました。今では沈黙するのみです。

※「わたしは自分のみに起きたことをすべて話しました」とあるが、話すものだろうか?

 ――ボゴールに来てから、わたしは頭にスカーフをかぶっていました。たくさんの友だちが助けにきて、坊主頭を覆う布地をわけてくれました。

坊主頭は反論者亡き証言なので、信用度は半分。

慰安所から来た娘133p

 ――人数が数えられているとき、所長がわたしに目をつけました。この男は、ショーコー(将校)クラブという「慰安所 comfort station」から来た娘のことは話に聞いていたにちがいありません。――

※これまで「この館を日本人は『七海館The House of the Seven Seas』と名づけていました90p」と隠していたがここで、「ショーコー(将校)クラブという「慰安所 comfort station」から来た娘」と本音(真実)が出た。「将校倶楽部」 は、スマランの軍将校専用はここだけで、 スマラン事件に該当し、慰安所経営者葛木健次郎は、46年前に懲役7年で判決済である。

 

 所長は刀の鞘を払いました。続いて刀をさっと振ると、わたしの頭からスカーフを取りのけました。わたしは坊主頭をさらして立っていました。女、子供、日本人衛兵の前ではずかしめられ、あざけりの対象となって、残忍な陵辱をを受けたあかしとなって、妹ふたりは、いまだにあのときのことは絶対に忘れられないといいます。

 (収容所での強姦未遂事件があり、犯人の日本人衛生兵を朝の点呼のとき、所長が呼び出し)厳しく叱責、しました。

 衛兵はおそれおののいて立っています。すると所長は拳銃を取り出して衛兵に渡しました。そこでこのあわれな男は口に拳銃を向けて自殺させられたのです。

 ――でも、日本人はなんて変な精神構造をしているのだろう、と思わずにはいられませんでした。ついこのあいだまでわたしたちは、天皇ヒロヒトとケンペイタイと軍の最高機関の承認のもとで、毎日、少なくとも10人の日本人に強姦されていました。それが今、全く同じことをしようとして、この男は自殺させられたのです。

※収容所での強姦未遂事件で自殺させられた?軍法会議にもかけず、勝手に自殺命令など下せない。日本軍貶め目的の捏造話である。

 ――この二、三ヶ月間で母に肉が少しついたと思う間もなく、またもやわたしたちは別の収容所に移されました。――わたしたちはバタビア(ジャカルタ)市のクラマット収容所という大規模な女子収容所に送られました。

収容所の中の収容所137p

 クラマットに着いてみると、収容所内のわたしたちの居住区域は、ほかの部分から完全に切り離されていることがわかりました。実はそこは、収容所の中の収容所だったのです。日本の将校たちは、噂が広がって、わたしたちになされたことの真相が露顕するのを恐れていました。わたしたちを隔離することで、恐るべき話が漏れるのを防ごうとしたのです。またしてもわたしたちは、あのことは絶対口外するな、人に話したら殺すからな、と言われました。

 ――クラマット収容所のほかの区域いる女たちは、わたしたちと接触するなと言われていました。ともかくも、わたしたちが隔離されている理由についてはなおも噂が広まり、残酷にも、こちらの収容所にはフーレン・カンプ(売田女収容所)という名前がつけられました。わたしたちは自由意志で日本軍の売春宿で働いていたとおもわれていました。

※オランダは「飾り窓」という伝統の、公娼の国である。35人(リンチ裁判なので実数はもっと少ない)程度の者が居たから、「フーレン・カンプ(売田女収容所)」と呼ばれたは、協調のための捏造であろう。35人が黙っていれば、バレル事は無い。以下の「売女、裏切り者、コナイネン(兎たち)」も捏造。

 ――そこの境遇は、十分ひどかったアンバラウ時代よりもさらにひどいものでしや。収容所のjほかの区域にいる女達が兵越しに、こちらに向かって大声で口汚くののしり、言たいことを書いた紙を石に結わえて塀の上から投げてよこしたものです。わたしたちは売女、裏切り者、コナイネン(兎たち)と呼ばれました。わたしたちの話を信じてくれたのはカトリックの修道女だけです。修道女たちとわたしたちはひそかに連絡を取り合っていました。

 わたしたちの収容所に居たある女性は、白い肌と金髪のために「ブロンディ」というあだ名がついていました。ブロンディは自由意志で娼館で働いていましたが、妊娠して収容所にもどされたのです。だれが父親なのかまったくわかりません。娼館にいた時代の成果ではあったのですが。

 ブロンディは感じのいい若い女性で、とてもうれしそうで、自分の妊娠を誇りにさえしていました。子供達も彼女が好きで、お腹がだんだん大きくなると、赤ちゃんの誕生を心待ちにしました。現実にはブロンディは7ヶ月で双子の赤ん坊を出産しました。日本人の顔をした、すばらしい双子です!子供たちには、単調な収容所生活の気晴らしをしてくれる楽しい出来事になりました。だれもがブロンディの双子の誕生を祝いました。子供たちは双子の赤ん坊のことでやきもきし、母親の支えとなって育児を手伝いました。

 ――クラマットに近隣の男子収容所からひとりの医師がやってきました。――先生は診療室を開設しました。母親たちはみな喜びました。娘達も喜んだなかで、わたしだけは違いました。わたしに関するかぎり、婦人科医がやってくるのは、屈辱がそっくりそのまま再開されるということでした。――母にしきりに説得されて、しぶしぶ承知したのです。――あの軍医は娼館を訪れるたびにわたしを犯したことを。こういう体験のおかげで、わたしは医者への恐怖心を植えつけられたのです。

※ジャンは家族で収容されている。これは泣き売のために取って付けた嘘。

戦争を生き抜く141p

1945年1月18日、この日はわたしの22歳の誕生日でした。わたしの髪の毛は人並みにもどっていました。

 ――1945年8月15日、日本の無条件降伏とともに戦争が終わりました。

※日本貶め目的の捏造。軍隊のみが無条件降伏で政府は有条件降伏。

 

 ――わたしたちはほかに行くあてがないのでさらに5ヶ月、クラマット収容所で過ごさねばなりませんでした。

 ――わが家は全員、戦争を生き抜いたのです。スマトラ島で日本軍に捕らえられていた父も、ヨーロッパでドイツ軍の捕虜となっていた兄のワルドも。祖父のアンリも姉のアリーヌも戦争に生き残っていました。

父の受難144p

「死の鉄道」「ロームシャ(労務者)」「順洋丸」等、後付の知識とともに、「日本人が救命ボートを占領し、溺れかけている人がしがみつこうものなら、その手を切り落としました」と見てきたように書き、日本を貶め、神を信じるジャン家はみな善人としている。

解放所の喜びと失望148p

 ――収容所を通っていくとき、ひとりの女に道をたずねました。すると彼女は無造作に顔をそむけ、ほかの女たちにささやいたのです。

 「ほら、売女収容所のやつが行くよ」

※被害者協調のための捏造。通りがかりの人間に、「売女収容所」かどうか解るはずなどない

 わたしは身の置き所のない思いがして、いっそうの屈辱感にさいなまされました。沈黙は続きました。

 ――妹たちまでが、わたしのみに起きたことで侮辱されました。けれども、いとしい修道女たちはわたしたちを心から迎え入れてくれました。この戦争の歳月、彼女たちが何とか尼僧服を着とおしたのは驚きでした。もっとも、もう真っ白というわけにはいきませんでしたが。――

 わたしは今やなんとしてでも司祭と話をする必要にかられていて、ミサが終わったあとで司祭に会うことにしました。――わたしはその司祭に、日本人から受けた試練の話を語りました。

 つらい困難なことでした。ときどき話しやめて涙を飲み込まねばなりませんでした。話のあいだ中、司祭はじっとすわっていました。最後にわたしは、それでも修道女になりたいので、導きと忠告をお願いします、と言いました。恐ろしい沈黙がありました。わたしは緊張して下唇を噛み、手を揉み合わせはじめました。ついに司祭の言葉が返ってくると、わたしの心はしぼんでしまいました。あのときの言葉は、まだ一言一句おぼえています。

 「わが子よ、こんな事情では、あなたの身に起きたことゆえにも、修道女にならないほうがいいと思います」

 ――わたしはその言葉に打ちのめされ、ひどく失望しました。深い劣等感を与えられました。自分は今では信仰生活に入るにはふさわしくないのか?自分は急に変わったというのか?自分は、けがれてきたないのか。

 ――わたしはいつも司祭の言葉を絶対視していたので、その意見に異論を唱えたりはしませんでした。

※キリスト教信者を強調することで、同情を得ることが目的。反論者亡き証言なので、信用度は半分。

インドネシアの独立戦争151p

 母が入院しているので、わたしは妹たちをしあわせにしてやる責任がありました。今では14歳と11歳の妹たちは、子供時代の貴重な3年半を収容所で無駄にしたのです。

 ――インドネシア人はオランダの支配にもどることを望まず、日本の反オランダ宣伝にあおられて、暴力をもってオランダ人に敵対したのです。

 ――アンバラウの収容所にいたときからの親友で、やはりスマラン市の娼館に押し込められた女性は、わたしの隣の床の上にうずくまっているところを刺し殺されました。――

 50年後、わたしは、収容所で無くなった女と子供の為の戦没者墓地を訪れて、あの勇敢だった女性の墓に小さな花束を手向けることができました。

 この5ヶ月間、収容所を離れるのはとても危険でした。――それでもわたしは母を見舞いに、歩いて片道20分かかる病院通いは続けることにしました。

 ――病院に着くと、そこにはいつでもオランダ人の死傷者が運び込まれていて、忘れようのない光景がありました。インドネシア人にナイフで刺され、切り裂かれ、銃で撃たれて血まみれになっているのです。

トムの愛と理解に支えられて

 余りに危険な状況なので、イギリスのインド第23師団の軍隊がオランダ領東インドに派遣されてきました。――

 イギリス軍が到着したとき、大変な歓呼で迎えられました。そこにはイギリス軍人だけでなく、グルカ兵からなるインド師団もいました。――

 トム・ラフ(夫)と出会ったのは、イギリス軍の到着があってのことです。母の見舞いに行くため、表門を通り抜けているときでした。ハンサムな兵士がこちらに近づいて、護衛もなしに収容所を離れるのはとても危険だと言うのです。

 「どこへ行くのか言ってくれれば、ジープで送ってあげますよ」

 それ以来、母の見舞いに行きたいと思えば、必ずトムが病院まで無事送り届けてくれるようになりました。――これが戦時のロマンスの始まりで、トムとわたしは定期的に合うようになりました。――

 わたしはトムがとても好きになりました。――トムは親切で優しく、うるさいところがなく、ひとことで言えば「いい」人でした。ふたりが愛し合っているのがわかって、わたしは自分のことを話す決心をしました。

 ふたりっきりでジープにすわっていたときです。わたしは戦時中、野蛮な日本人から受けたしうちを打ち明けました。彼はさえぎることなくわたしに話をさせてくれて、そのあいだ涙を浮かべていました。わたしがそんな目にあったと知っても、トムは、あるいは彼のわたしへの愛は少しも変わりませんでした。わたしの立場を理不尽に裁断したあの司祭とちがって、トムは愛と理解で答えてくれました。そこでわたしは自尊心と自身を取り戻すようになったのです。

※「トムに野蛮な日本人から受けたしうちを打ち明けました」は捏造であろう。「打ち明け無い」が常識である。オーストラリア移民15年目の1975年ジャントムは高度の脳障害の寝たきり病人となり、この本出版の翌年1995年(ジャン歳の時)に死亡している。トムは脳障害の寝たきり病人、真実を知るものはジャンのみなので、捏造は自在であった。

 トムは、日本のこの戦争犯罪を報告することが肝心だと考え、わたしをイギリス軍警察本部にある軍当局の上層部へ連れて行きました。わたしは当局に自分の話を語りましたが、それっきり何も聞かれることはありませんでした。

※事実なら重要証人、終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議の証人となり記録に残っているはず。捏造である。

 産経新聞(2007.3.10)には「慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた『スマラン慰安所事件』の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた」とジャンが、軍事法廷で証言したことになっているが、これは誤報である

 

 トムとわたしは2ヶ月ほど交際しただけで婚約することに決めましたv。1945年のクリスマス・パーティーのことでした。インドネシアの楽団が「いつでも君を愛して」を演奏していました。トムは緑の翡翠の婚約指輪を取り出して、わたしの指にそっとはめてくくれました。

 それからまもなく、わたしたちは父と再会し、オランダ船に乗ってオランダへ向かいました。オランダに帰ってから結婚するまでの6ヶ月間、トムとわたしは毎日手紙をやりとりしました。

 手紙に書くほうが、相手を前にして言うより、ずっとたくさんのことが言えます。こういう手紙を通じてトムは、わたしが結婚生活の性的部分に直面するのはむずかしいこと、気長にわたしと接しなければならないだろうということをわかってくれたと思います。この親切でやさしい人のおかげで、ようやくわたしは戦時中の記憶を置き去りにして、自分の為にイギリスで新生活を始める準備ができたのです。――

※「わたしが結婚生活の性的部分に直面するのはむずかしい」と被害者を強調し同情を扇動9につづく

真実史観当事者物故の45年後悪魔の証明となってから犯日のオランダと証言者

9当事者物故の45年後悪魔の証明となってから犯日のオランダと証言者

 1946年8月14日、わたしたちは結婚(ジャン23し、「ゾンネフーク」と名づけた家で暮らしました。オランダ語で「陽だまり」という意味です。

 わたしはすぐに子供を作りたかったのですが、体に損傷を受けていたため、妊娠を持続させられませんでした。現実には、3回流産したあと、大手術を受け、最終的にふたりの娘のアイリーンとキャロルをさずかりました。

※「体に損傷・3回流産・大手術」も証拠皆無なので、被害者強調し同情を扇動目的の捏造。「2ヶ月未満」でそうなったのなら、他の9人もそんな体になったのであろうか?当時の職業婦人は皆、生存不可であったろう!

 イギリスには14年間暮らしました。しあわせですばらしい年月でした。1960年、一家でオーストラリアに移住しましたが、それを悔やんだことは一度もありません。オーストラリアはわたしに親切にしてくれて、わたしは自分の新しい国が大好きです。わたしたち一家は、この国でしあわせに暮らしています。

※オランダ語と英語、上手く話せたのか?

 

2009/02/23ピーター·トンプソンとの対話より

 私はトムと、14年間イギリスに住んでいました(37歳まで)。 ――私たちはバーミンガムの郊外に住み、とても幸せでした。 

 その後、私たちは新聞のこれらの広告を見ました。 それで、私たちは、現在、10ポンドのPOM(ヨーロッパからの白人移民)と言うことになりました。これは1960年37だった、私たちはオーストラリアに来て後悔したことがありません。

 1975年)に、私たちの人生は、ちょうど逆さまになってしまったトムは交通信号で道を渡っていて、はねられました。私が病院に着いたとき、彼昏睡状態で、そこに横たわっていました。至る所に行っているチューブは、彼が高度の脳障害であると私に語った。――

※オーストラリア移民15年で、夫は高度の脳障害となり、子供は女二人の女三人で、寝たきりの病人をかかえての身寄り無き移民の地での生活は、悲惨を極めたであろう事は、常識として推察出来る。

 トムは、彼が事故にあってから20年後の、1995年(ジャン歳の時)に死亡しました。

 私が1992年に意見を述べるまで、トムは私の秘密を知っていたただ一人の人でした。

 

50年の沈黙を破って

 長年のうちには、娘たちに真実を話しそうになったときがいくらでもあります。1980年代の初め、キャロルといっしょにテレビでアンザック・デー(第一次世界大戦に参戦したオーストラリア・ニュージーランド連合軍団、略称アンザックが、1915年4月25日、トルコのガリポリに上陸した記念日)の行進を見ていたときのことです。その行進にフェミニストのグループが合流して、いつもの男支配のやりくちを「粉砕」したのです。

※「娘たちに真実を話しそうになったときがいくらでもあります」とあるが、こんなことを娘に話しても、「マイナス要素のみ」であろうと、誰もが思うであろう。余りにも非常識である。

 

 この女性達は怒っていました。戦争で強姦の犠牲となってきた女たちのために、正当な扱いと認知を求めていました。彼女たちが行進から強制排除されたとき、わたしは心のなかで大声をあげていました。

 「あの人たちは正しい!それは本当よ。人々がわかってくれさえしたら」

 わたしは娘たちに話すのにふさわしい時を待ち受けて、一生を過ごしてきたような気がしました。でも、自分の秘密をうまく隠してきたので、話す糸口がありません。

 誕生日や特別な機会に、わたしがいつも「何をしてくれるにしても、花を買うのだけはやめてちょうだい」という理由を、娘達はどうやって知ることができたでしょう。

 どうやって娘たちは知ればいいのでしょう。花はわたしの心のなかで永久に、娼館のあの恐るべき最初の夜を連想させるということを。「七番館」の掲示板に張ってあった自分の花の名前を連想させるということを。――

ショーコー(将校)クラブという「慰安所 comfort station」から来た娘133P」と書いておきながら、ここではまた「七番館」にもどっている。「七番館」では意味が通じないので、「133P」では真実を書かなければならなかった。意図的は明白である。

 

 自分の身に起きたことを秘密にして生きていくのは大変な重荷です。自分の内に恐ろしいものがあって、それをぜひ人に話して聞かせたいのに、自分ではそれを恐るべき恥辱に思っているため話すことができない――それがどういうことか、誰にも想像がつかないでしょう。

 誰にも知られてはならず、一生のあいだ重荷をにない、いつの日か、どうかして秘密が知れるのでは、という心配にいつもつきまとわれているのです。

 50年のあいだ、わたしは、絶対にしてはならないという明白な理由さえなければ、そのことを絶叫して言いたいと思っていました。私はそのことについて絶対に、自分の家族とさえ話せないのです。ほかの女たちも話せないでいました。

 50年にわたる悪夢と眠れない夜。50年にわたって消えることの無い苦しみと、心にくいこんだ恐ろしい記憶。そういうものがいつまでもそこにあり、きっかけをまっていました。

※オランダは犯日で賠償目的。ジャン自身は困窮生活からの脱出金目的。真相を隠し、「証言者」となった理由作りに懸命である。当然この捏造犯日物語りは、目的は金で同じ、オランダ政府との合作である。

 

名乗りを上げた韓国の「慰安婦」

 1992年の初めごろ、テレビで韓国の「慰安婦comfort women」の窮状を見るたびに、わたしは心を動かされ、涙をさそわれました。彼女たちが正義を求めて泣く姿を、わたしは心を痛めて見ていました。ただただ彼女たちに腕を回して抱きしめたいと思いました。自分は彼女たちに味方すべきだ。そう思いました。

 それが本当の始りでした。この強烈な感情が自分の内にありました。自分はこれらの女たちに味方せねば、彼女たちを支援せねばならない。すると突然、今なら語れるような気がした。この長い年月、心のなかにかかえていた話を。この韓国女性たちの勇気がわたしに勇気を与えてくれました。とうとう、その話を語ることができるのです。

 それにしても、よくもまあ日本人は、これらの哀れな陵辱された女性たちのことを「慰安婦」などと呼べるものだ。彼女たちの姿をテレビで見ながら、わたしは思いました。「慰安婦」という婉曲的な言い回しは侮辱です。マスコミまでがこの言葉を使い続けていることをわたしは残念に思いました。私たちは決して「慰安婦」ではありませんでした。慰安という言葉は、温かくてやわらかい、安全で楽しいものを意味します。それはやさしいということです。わたしたちは大日本帝国軍によって奴隷にされ、徴用された戦争陵辱の犠牲者だったのです。

 最初に声を上げた韓国のいわゆる「慰安婦」金学順さんでした。彼女は家族がみな亡くなり、もはや恥じることがなくなって、日本政府に補償を要求する決心をしたのです。この勇気ある実例のおかげで、ほかの「慰安婦」も名乗りをあげ、日本に対する訴訟の仲間入りをしました。

 

8月15日『ハンギョレ新聞』の報道により、金学順(キム=ハクスン)が「親に売り飛ばされた」と証言していた事が発覚する。「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番売られていった。3年間の検番生活を終えた金学順さんが最初の就職だと思って、検番の養父に連れられて行った所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」(ハンギョレ新聞91年8月15日)。

 8月16日「1940年春、中日戦争が最も激しかった中国中部地方の鉄壁陣という所にわけも分からなくて売られて行きました。中国人が戦争のために捨てて行った民家を慰安所として整備していたのです」。金氏が到着した場所ではミヤコ、サダコと呼ばれる17~21才の韓国女性3人が、日本軍を相手にすでに売春行為をしていた」(朝鮮日報91年8月16日)。

 

 そのときまでの日本政府は「慰安婦」に謝罪すらしていませんでした。その問題にまったくそ知らぬ顔をして、日本が何千人という女性に、日本軍のための売春宿で、むりやり売春させた事実すら否定してきたのです。アジアの「慰安婦」はヨーロッパ女性の支援を必要としていることが見てとれました。これはオランダ人の娘たちにも起きたことです。戦時下の強姦は戦争犯罪だということが認められねばなりません。ヨーロッパ女性が名乗り出たら、きっと日本は目を向けるでしょう。

※14歳の時、母親に強制連行され、平壌にあるキーセンの検番に人身売買され、検番の養父に更に3年後に強制連行され、中国中部地方の鉄壁陣の慰安所に人身売買された。強制連行し人身売買したのは母と養父で、日本や日本軍ではない。謝罪義務など皆無。事実を隠蔽した、オランダとジャンの捏造である。

 

 ボスニアの戦争が、世界の変わっていないことを示していました。まるでそれが戦争の自然ななりゆきであるかのように、女たちはまたしても強姦されていました。まるで戦争が強姦を正当化できるみたいです。そのことはいつでも軽く扱われました。

 これが50年前だけに起きたのではないことがわかりました。わたしは自分の話を語らねばならない。それがこういう残虐行為が続くのを止めるのに役立つかもしれない。そう思いました。

※証言は、キリスト教の犠牲的精神であるかのように装い、真の目的「ゆすり、たかり、金盗り」を隠蔽した。こんな輩がキリスト教信者を名のるのでは、キリストが嘆く。

 

 こういう思いが自分の内で積み重なっていったおかげです。アデレードの戦争記念碑に、ジャワが日本軍に降伏して50年を記念する花輪を捧げようと思ったのは。それは1992年3月8日、日曜日のことでした。

 地元の「メッセンジャー・プレス」とアデレードの「アドヴァタイザー」を通じて、わたしは人々に仲間入りするよう呼びかけていました。特に第二次大戦中、ジャワの日本軍収容所にいた人たちに。さらに日本人にも、平和と和解のしるしに、わたしの隣に立ってくれるよう呼びかけていました。その日、わたしは日本人に対して怒りも恨みも憎しみも感じませんでした。許しのなかにのみ回復の道が見つかるのです。

 その朝、花輪を捧げたとき、収容所でいっしょだった女性と子供の顔が、あざやかに心によみがえってきました。これらの女たちはすさまじい境遇の中で、さまざまな恐怖、屈辱、残虐行為、陵辱、飢えに耐えたのです。今、わたしたちは彼女たちの勇気、彼女たちの苦しみ、彼女たちの忍耐に敬意を表し、日本軍の収容所で死んだ何千人もの女性と子供の誉れを後世につたえたいのです。これら幾多の勇気ある女たちのおもかげがほうふつとしました。彼女たちの話は世に知られないでいます。彼女たちは戦争から、英雄のように勲章をつけてもどったわけではありません。傷痕をつけてもどったのです。

※「日本軍の収容所で死んだ何千人もの女性と子供の誉れを後世につたえたい」と、「勝者善敗者悪」の勝者気取りで書いているが、何千人もの」は誇大捏造。当時は戦争、「恐怖、屈辱、残虐行為、陵辱、飢え」はお互い様である。日本はABCD封鎖で、アウシュビッツのガス死以上の餓死(日本殲滅)、ホロコースを迫られたのだ。求道者モドキである。

 

 戦争記念碑の段上に置かれた花輪をわたしは見つめました。それが、どうもわたしをしきりにうながしているのです。もうひとつの話をするように、まだ語られていないたったひとつの話をするように、と。第二次世界大戦に発する、最悪の基本的人権侵害の一例であるあの恥ずべき話を。50年後の今、自分がそれを語りたいのはわかっても、いつ、どのように、ということまではわかりませんでした。

 あの日曜日、わたしが花輪を置いたとき、それは知られざる勇敢な女たちへの賞賛のしるしだったのです。残忍な日本軍によって、わたしと同じく苦しんだ女たちへの。

※証言の真の目的、「ゆすり、たかり、金盗り」を隠蔽し、「基本的人権侵害」すり替えに必死である。

 

秘密を明かすノート165p

 その年(1992年)も終わりに近づいた10月のことです。オランダのドオ・ハイスマンから公式の手紙が届きました。 「ジャンニーさん、〈オランダ対日道義補償請求財団〉にかわってお手紙をさしあげます。あなたが証人になられることに同意していただけないかと・・・」

 ドオは東京で開かれる〈日本の戦後補償に関する国際公聴会〉で発言する人を探していました。母の友人だった彼女は、わたしの戦争中の体験を知っており、前もって手紙や電話で打診してきていました。そこでわたしは、これぞ声を上げる好機だと知ったのです。

※娘の不幸を、他人に吹聴する親などいるだろうか?ジャンの捏造である。

 1990年(条約締結34年後オランダは、韓国金盗り話に便乗し、ゆすり、たかり、金盗り目的」の対日道義的債務基金(JES)を結成し、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて、一人当たり約2万ドルの補償を求める運動が始まった。被害者がいなければ「金盗り難癖」は当然始まらない。同時に、「被害者(証言者)探し」を開始したのは言うまでも無い。

 移民15年で夫は高度の脳障害で寝たきりの病人、それから15(1990)年移民の地で困窮の極みの女子供二人の母親ジャンは、「金儲け話」物色中であったことは想像に難くない。

 二人の母親ジャンが、待ってましたとばかりに飛びついたであろうことは、想像に難くない。女は弱し、されど母は強し(したたか)である!

 

 公聴会は12月9日と10日日本弁護士連合会と、東京に本部のある人権擁護市民団体の支援を受けて、東京でおこなわれることになっていました。

 わたしは証人になりたかったのですが、それは娘や孫、親族、友人、同じ教区の人たちに、50年近く胸中に秘めていた話を語るということです。やはり、なかなか決心のつかないことでした。

 どのようにして母が娘に、祖母が孫に語ればいいのでしょう。第二次大戦中の3ヶ月日本軍によって毎日、組織的に強姦され、なぐられたという話を。

※実際は25人(リンチ裁判なので真実はもっと少ない)2ヶ月未満なのに「3ヶ月日本軍によって毎日、組織的に強姦され、なぐられた」は、「暗に収容所の捕虜」を意図した、誇張捏造である。

 

 ノートに話を書き記して、わたしの恐ろしい秘密をふたりの娘に話すことにしました。――

 9月のある朝、――下の娘キャロルと空港で落ち合う会うことになっていたのです。彼女は中部オーストラリアで、次の個展に向けて絵を描くため、アリス・スオウプリングズへ行く途上にありました。空港で、今では5歳になる孫娘のルビーを受け取って、キャロルの留守中、わたしが預かることになっていました。

 それは、わたしの人生でいちばん重大といっていい瞬間でした。そのノートを渡せば、たちまち、わたしの何よりも暗い最奥の秘密が明るみに出るのです。キャロルに搭乗するよう呼び出しがかかったとき、わたしは彼女の手荷物のなかにノートをすべりこませました。

 「ほら、これ読んで」。あっさり言ってのけました。

 キャロルは、何かしら、というようにこちらを見ました。――推さない孫の手を引いて帰宅しながら、わたしは泣いていました。

 機内でわたしの話を読んだキャロルは完全に打ちのめされました。泣く崩れ、涙が止まりません。近くに座っている乗客は、彼女の悲嘆ぶりがわかっても、どうしていいやらわかりません。エア・ホステスはティシューの箱をつぎつぎくれました。だれもが、この人はきっと肉親を亡くしたのだろうと思いました。

※娘の大事(5歳になるを娘母親に預けてまでの)な仕事次の個展に向けて絵を描くため、アリス・スオウプリングズへ行く)の直前に、しかも、みんなが居る飛行機の中で読むように手渡すとは、常人のなすことではない!「同情を誘うための」作り話は見え見えである!下記が、常人の親子。

 

 上の娘のアイリーンには次の日、家で静に読めるよう、ノートのコピーを渡しました。読み終えるとアイリーンはうちにやってきて、何も言えないまま、わたしを抱きしめました。娘たちは、母親がそんな恐ろしい目にあったということに打ちのめされ、その事実を受け入れるには長い時間がかかるだろうと思いながら、何週間も泣き暮らしたのです。

※これが、実際の母と娘のすることで、前記は、「同情を誘うための」作り話なのは、見え見えである!娘にすぐバレル捏造話をここで書いているということは、娘も共謀か?なら、母親はニセの証言者?と疑うのが、常人の心情である。

 

日本の国際公聴会へ167p

 公聴会で証言しに東京へ行くことにしたといったとき、キャロルは感動するとともにショックを受けました。

 「ママ、ひとりじゃとても東京に行かれないわよ。わたしたちもついていくわ」

 わたしが出かけることは、教区の友だちのだれにも話していませんでした。それでも、一週間消えたっていいじゃない、だれも困りはしない、と単純に考えていました。

 12月6日、東京に到着しました。満員電車で東京へ向かう2時間は悪夢のようでした。――ホテルのレストランは閉店していたので、その古い地区の裏通りを歩くことになり、ようやく小さなレストランを見つけました。

 わたしたちの一行は、キャロル(末娘)夫のネッド(夫も共謀か?わたし、それにオランダの〈対日道義補償請求財団〉の代表二人でした。このふたりはアメリカ人弁護士のラッセル・ハントリーと、オランダ人弁護士で東京での公聴会のあいだじゅう、守護天使のように私のそばにいてくれることになりました。わたしはキャロルの隣にすわってメニューを見ていました。

 目を上げると、店主の、太っていかにも安っぽそうな男が、キッチンのドアの柱にもたれて、わたしを上から下までじろじろ見ていました。娼館でしっかり記憶に刻まれた例のあの目つきです。それがわたしをあの暗い過去に投げ込んだのです。恐怖が体をはい昇っていくような気がして、パニックになりかけました。背筋を震えが走りました。体がすくんでしまいました。

 キャロルもその男と、こちらを見ているさまに気づきました。

 「さ、ママ、こんなところは出ましょうよ」

 わたしの反応を察して、そう言いました。

 あれがもう一度、わたしの体に残る深い傷痕をまざまざと思い起こさせたのです。これほどの年月がたったあとでさえ、治癒を要することがまだたくさんありました。

※日本を徹底的に叩き貶め、完全な被害者とならなければ同情は得られず、金も得られず、ただの売春婦になり下がり、娘は非難の的となる。母親は、日本バッシングに必死である。

 

 国際公聴会の前夜、参加者全員のために歓迎会が開かれました。――

 わたしたちは話をかわすことはできませんでした。共通の言葉がなかったのです。でも、わたしはすぐにでも彼女たちを抱きしめたい気持ちでした。ひとりの女性が特に目にとまりました。中国人で、黒いズボンに黒い中国式上着という黒づくめの服装です。――

 わたしは部屋を突っ切って、この人に会いに行きました。ふたりで抱き合ったとき、まるでわたしの苦しみの一生が、突然、この小さな女性の抱擁のなかで溶け去るように思えました。わたしたちは長い貴重な抱擁をかわしたのです。

※母親は金と娘のために、求道者を演じ、被害者に成り切った。

 

 その夜、わたしはすばらしい日本人にたくさん会いました。贈り物や、共感と支援の表明が雨あられと降りそそがれます。これら若い世代の日本人は、父親たちのしたことの罪滅ぼしををしたがっているかのようでした。

※「父親たちのしたことの罪滅ぼし」と書き、被害者に被害者に成り切っている。

 

 翌日の12月9日、――わたしは、夜のテレビの時事番組で放映されるインタビューに応じました。

 自分の話を初めておおやけにしながら、わたしはインタビュアーの若い日本女性の目を見つめていました。彼女の頬に涙がつたい落ちるのを見たとき、日本の若い世代には、真相を知りたいと思っている人たちがいることを実感しました。

※被害者に成り切れたと喜びの心情吐露である。

 

証言する「慰安婦」たち171p

 12月9日の公聴会では、午後2時から8時まで、もとのいわゆる「慰安婦」の証人が証言しました。韓国、北朝鮮、台湾、フィリピン、中国の人たち、それにオランダ領東インド出身のわたしです。さらに強制労働の犠牲になった中国、韓国、サハリンの男性が、言語に絶する苦しみを語りました。――

 最初に三人の女性が、いいようのない屈辱、拷問、苦しみ、迫害の話を語り、わたしは胸をいっぱいにさせて夢中で聞き入りました。聴衆の多くが泣いています。三人目は中国の万愛花さんでした。日本軍によってなされた野蛮な犯罪行為を語るうちに、彼女は記憶に圧倒され、壇上で気を失って、うしろなりに倒れてしまいました。

 ――医師が姿を現しました。聴衆席はざわめいていました。つぎはわたしが発言する番でした。――中央の演壇に向かいました。わたしの脳裏を去らないあの秘密を公表するのです。10へつづく⇒

真実史観「売春婦」を貫いたオランダ人女性こそが「思いやり基金」真の受領者

10「売春婦」を貫いたオランダ人女性こそが「思いやり基金」真の受領者

 キャロル(末娘)とヘラルドを両横にして席につくと、わたしは証言しました。陳述の一部として、日本人がわたしにしたしうちは許すけれども、決して忘れることはできない、という意見を述べました。

※「許す」としているの言葉のみで、行動は「捏造難癖金盗り」で、明白な言行不一致。

 その日、あとで日本人の人権問題弁護士のひとりが近づいてきて言いました。

 「わたしにはわかりませんね。なぜ、あなたは許したいのですか?

 この人は、それではわたしたちの申し立てが先に進まないと思っていました。

※日本人の人権問題弁護士が「許すな!と、けしかけた」とジャンは書いている。

 

 ネッドは聴衆席に出て、ジャーナリストにまじって、わたしの証言をビデオにおさめていました。

 ――韓国女性の一人が一瞬その場にとどまって、苦しげに叫びました。

 「どういうわけで朝鮮の女たちはあんな恐ろしい目にあわされたのか?なぜ、わたしたちの青春は花の盛りで引きむしられたのか?・・・人をないがしろにして!」

 聴衆席には同じオーストラリアから来た人がいました。オーストラリア・ブロードキャスティングコーポレーションの〈7・30リポート〉の若い記者で、このところ「慰安婦」問題についてリポートをまとめていました。公聴会の直後、わたしはこの人のインタビューを受けました。いつ放映されるのかと聞きますと、「明日です」という返事。

 となると、わたしがアデレードで飛行機を降りるときには、地元の教区の人たち、わたしの友人全員がこの話を知っているのです。どんな反応を見せるでしょう。

 その夜キャロルとわたしはホテルの着物を着て、ベッドに体を横たえ、公聴会の前に収録されたテレビ番組を見ました。そこではジャワ時代のわたしの家族の写真が映し出されました。母も父も、バンドゥガンにあった祖父の美しい家も。

 これらのいとしい人たちと大切な過去を、東京最大の報道時事番組で見るのはとても奇妙な気分でした。個人のものだったこれらの時は、今では歴史の一部になっていました。わたしは泣きました。

 その夜は眠れませんでした。わたしの顔は、わたしの心は、際限のない苦悩でいっぱいでした。

 よく10日、戦争と人権に関するシンポジュウムが催されました。シンポジュウムのさなか、ヘルドからファックスを手渡されました。当日のオランダの新聞の切り抜きです。それは一面記事でした。

 スマラン市でわたしと高校がいっしょだった、そしてやはり日本軍によって娼館に入れられたエレン・ファン・デル・プルーフが、報道機関の求めに応じて名乗り上げていて、その記事がわたしのとならんでいるのです。わたしはとてもうれしくて、シンポジュウムの出席者にそのいい知らせを教えてあげました。

 「いいこと、どうなるかわかる?みんなが名乗りを上げると思うのよ。そうなったら、わたしたち、強いわよ!」

ジャンと新たな証言者(エレン・ファン・デル・プルーフ)は、高校はいっしょだったが抑留所は、ジャンがアンバラワ(スマランの南40キロ)の第六収容所で、プローグはスマランのハルマヘラ抑留所、その後クラマット収容所で異なり、『七海館(ショーコー(将校)クラブ=将校倶楽部)』では一緒ではなかった。

 「従軍慰安婦 吉見義明 岩波書店 1995」の(P184)に、オフェルネ(ジャン・ラフ・オハーン)プローグ゙(エレン・ファン・デル・プルーフ)の証言は、事件後、ほぼ50年たってからのものである。この証言内容は、いくつかのくいちがいをのぞけば、敗戦直後になされた裁判での証言おどろくほど共通している」とあるが、なんと「3ヵ月後(実際は2ヵ月未満)に解放される」と証言まで捏造で、同じなのだ?

 

 そのときです。オランダにもどって、あのときの娘たちと再会したいと思ったのは。

 ――〈被爆者の会〉の女性の一団が――ヒロシマの生存者ですが――会議の合い間にわたしのところへやってきました。

 「今では、苦しんだのはわたしたちだけではないことがわかります」

 そう言って、わたしを抱きしめたのです。――

 翌11日、わたしたちの一団は国会に迎えられました。

許しの花輪

 ――わたしは憎しみをかかえて日本に来たわけではありません。心に許しを抱いていることを日本の人たちに示したいと思っていました。キャロルに手伝ってもらって、オーストラリアの野の花で、「許しの花輪」をこしらえ、はるばるオーストラリアから持ってきていたのです。それを千鳥ヶ淵戦没者墓苑の記念碑にささげることに決めました。――

 公聴会の場で、わたしはこの献呈式に参加するよう呼びかけていたので、さまざまな人が記念碑のところに集まっていました。そのなかには東京駐在のオランダ大使や、さまざまに人権、平和、環境団体の人たちがいました。そのうえに、第二次世界大戦で戦った旧日本軍兵士も、バスを仕立ててやってきていました。〈不戦兵士の会〉という、世界平和のために活動している団体です。――

 「この人たちは元兵士で、二度と戦わないと心に決めているのです」と、通訳のケイコが言いました。

※WGIPを戦後学習し丸鵜呑みした哀れな団体。自立自存飢餓脱出の戦いを「不戦」とは、この輩に「兵士の会」などと「兵士」を語る資格など無い!

 この人たちは、花束や本や贈り物で、わたしを歓迎してくれました。そのひとりひとりと握手しながら、わたしは感動に圧倒されていました。それはある意味で、東京滞在の6日間でもっとも対立する瞬間でした。現実には、わたしはこうして、大日本帝国の軍人だった男たちと握手しているのです。

 花輪をささげる前、こういう人たち全員に、わたしがここにいる理由を説明しました。

 「今日わたしは、ここにいらっしゃる日本のかたがたとともに、東京のあなたがたの記念碑に花輪をささげます。この花輪は平和と許しのしるしです。世界の未来、子供達の未来のための希望のしるしです。

※「この花輪は平和と許しのしるし」なら、この後の証言三昧やこの本の日本叩きは何なのだ!言行不一致もはなはだしい限りである!

 50年たってわたしたちは教訓を学び、あの戦争を忘れて、平和の世界をめざしてともに働くことができれば、と願っています。憎しみや恐れのない、戦争や暴力のない世界を、さらには平和と強調、友情と愛と自由の世界をめざして」

 ――わたしは花輪の献呈式のしめくくりに、アッシジの聖フランチェスコの和解の祈りをささげました。父親が大日本帝国の将校だったケイコは深く感動して、わたしの言葉を通訳しながら泣きだし、ふたりで手をつないでいっしょにスピーチを終えました。わたしは、この簡素な式に居合わせているこれらの日本人たちと強烈な一体感をおぼえました。わたしにとって、日本でのその一週間は、たえず回復していく過程だったのです。

※信仰(アッシジの聖フランチェスコの和解の祈り)を掲げ、同情を得たと、自画自賛。

安らぎのもとへ179p

 クリスマスの一週間前、わたしたちは東京を飛び立ちました。シドニーのキャロルとネッドの下でしばらく過ごしてから、わたしはひとりアデレードへと旅を続けました。帰宅して最初の月曜日は、わたしの70歳の誕生日でした。キャロルが、わたしの祖父のアンリと祖母のジャンヌを描いた美しい絵を送ってくれていました。午前8時のミサに出かけようとしているところに、ドアをノックする音がしました。それは教区に親しい友人でした。

 ――教会までは、うちから歩いてほんの二、三分です。戸口に着いてわたしは、「老信者たち」がいつもどおり、ささやかな口論でもしているものと思っていました。

 教会は満員でした。友だちがみな集まっています。まわり一面で声がします。

 「お誕生日おめでとう!」「おめでとう!」「お帰りなさいジャン」

 わたしのいつもの席には花が置いてありました

 子供がひとりこちらに笑顔を向けました。

 「ラフさん、テレビで見ました!」

 教区の人たちが心から喜んで、わたしの帰宅を歓迎してくれているのです。クロー人神父がわたしのためにミサをささげてくれているのです。わたしは喜びと、こういう温かい人たちへの愛とに圧倒されていました。

 長いあいだ、わたしは沈黙を破ることの結果を恐れていました。ドオから手紙をもらって以来、すべてがやつぎばやに起こり、こうして今、わたしはわが家にもどっていました。安らぎのもとへ、愛のもとへ、しかも受け入れられて。完

※オランダとジャン家族の、「ゆすり、たかり、金盗り」作戦初戦終了。

 

訳者(渡部洋美)あとがき

 (ジャンの)姉のアリーヌと兄のワルドは、1990年代初めに相次いでオランダで亡くなり、夫のトム・ラフは95年に亡くなったそうだ。

※兄姉はすでに亡く、夫は高度の脳障害で病床、証言は1992年12月9日、娘と家族を説得すれば、「金盗り」の障害はなかった

 

オランダ人もう一人の証言者プローグ(エレン・ファン・デル・プルーフ=エリー・プローグ)

「慰安婦と戦場の性217p」

 豪州テレビの番組(NHKが1996年8月16日放映)などから要約紹介。

エリー・プローグの証言

 1923年オランダに生まれ、父母とともに東部ジャワへ移住、母、姉弟とともにスマランのハルマヘラ抑留所へ入った。

 1944年2月、15~35歳の女性達が集められ、5~7人の日本軍人の前を歩かされ、3日目に私を含む15人が選び出された。バスで慰安所に着いて、はじめて「日本兵に喜びを与えるのだ」と知らされ、逃げると家族に危害が加わるとおどされた。

 2月26日クラブがオープンし、軍人達は写真で好きな女を決め、切符を買って私たちに性サービスをさせた。カネはもらっていない。3ヵ月後に解放される。戦後に結婚したが離婚。

 

 1994年1月にエリー・プローグが一般抑留者7名とともに東京地裁へ補償を求めて提訴

東京地裁判決1998(平成10)年11月30日

一 原告らの主張

(8)原告E(エレン・ファン・デル・プルーフ=エリー・プローグ)

ア 原告E(以下「原告E」という。)は、一九二三年一月一四日出生し、一九四二年三月当時、高校を卒業したばかりであった。そのころ収容が始まり、原告Eは、母親及び姉弟とともに車の展示場に閉じこめられた後、スマランにあるハルマヘイラ収容所、その後クラマット収容所にそれぞれ収容された。原告Eは、右のいずれの収容所においても、炎天下の中で点呼やお辞儀を数時間も強制され、軍靴で蹴られるなどの暴行を受けた。また、食料及び医療品は不足していた。

 原告Eは、マックジラブリィのたばこ会社で働くと聞かされていたにもかかわらず、スマランのクラブで慰安婦として強制売春をさせられた。そのため、原告Eは、性病に罹患してしまい、オランダ本国に帰国後、その治癒に一年間の期間を要した。

 原告Eは、一九四五年八月一五日、バタヴィアのクラマット収容所から解放された。しかし、原告Eの家族は、インドネシアでの家も店もその他あらゆる財産を失い、原告Eの父も殺されてしまっていた。

 原告Eが収容されたスラマン(ハルマヘイラ)抑留所は、モロタイ臨時軍法会議法廷において、戦争犯罪で断罪されており、原告Eが戦争犯罪行為の犠牲者であることは明らかである。

イ 原告Eに対する本件加害行為のうち、非人道的な取扱、強制労働に従事させたこと、虐待をしたこと、特にスマランにおいて慰安婦として使役したことは、ヘーグ陸戦規則四六条一項に違反する。

第一 請求

被告は、原告ら各自に対し、二万二〇〇〇米国ドル及びこれに対する平成六年四月八日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

平10・11・30民事第六部判決

主 文

一 原告らの請求をいずれも棄却する。

二 訴訟費用は原告らの負担とする。

 なお、現在、ヘーグ陸戦条約三条に基づく責任について、加害国の内国裁判所において被害者個人が加害国に対し直接金銭の支払を請求できるようにするための国際的な合意は存在しない。

4 以上認定説示してきたところを総合すれば、ヘーグ陸戦条約三条は、専らヘーグ陸戦規則に違反した加害国の被害国に対する国家の国際責任を明らかにした規定に過ぎず、我が国の裁判所において、ーグ陸戦条約三条を根拠として、国際人道法に違反する軍隊構成員の行為により損害を被った個人が、違反者の所属する国家に対して損害賠償を請求することはできないというべきである。

三 以上のとおり、原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六五条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 梶村太市 裁判官 増森珠美 裁判官 大寄久)

 

「慰安婦と戦場の性(216p)」

 1994年オランダ政府の報告書によると、15万人を越えるオランダ人が捕虜収容所および民間人抑留所に収容され、2万人が女性。

 占領の前半期(1943年中期頃)は女性達の多くは抑留所以外の居住を許されていたが、働き手を失った貧困な女性の中には、民間の売春宿や風俗産業で働く者も少なくなかった。白人女性が経営する売春宿もあり、マダム達の中には日本軍幹部や民間人の妾になる者もいた。と、1994年のオランダ政府報告書は述べている。

 戦局の悪化により、日本の陸軍省は、「軍抑留者取り扱い規定(1943年11月7日陸亜密第7391号)」を通達、オランダ人を含む敵国人全員を捕虜収容所に併設された軍抑留所に移すよう指示した。(蘭イ混血のユーラシアンは原則として対象外)

 その結果、指定居住区域に住んでいたオランダ人女性は売春婦も含め軍抑留所へ入ることになるが、給養条件は悪く不満が高まっていた。

 こうした状況に目を付けたのが、軍の担当者と慰安所の業者で、好待遇を約束すれば相当数の慰安婦が集まるだろうと見当をつけたようだ。この種の勧誘や説得は早い段階から始まっていたが、強制性がどこまで働いたか微妙なところである。

日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告(1944年1月)「季刊戦争責任研究」4号(1944年)収録オランダ人女性が関わった強制売春の例

桜クラブ(バタビア)。 シデン(バタビア)抑留所から43年9月、11人の欧米女性が連行され慰安婦に(志願者もいた)。

フォート・デコック(スマトラ)。 パダン(スマトラ)抑留所から42~43年、11人の欧米女性が強制または志願で慰安婦に。

テレシア・クラブ(バタビア)。 チハピット(バンドン)抑留所から44年1月、11人の欧米女性が業者に説得され慰安婦に。

マゲラン(東部ジャワ)。 ムンチラン抑留所から44年1月、連行に際し暴動化し鎮圧、3日後に13人の欧米人女性が慰安婦として連行された。

スマラン。アンバラウなど4ヶ所の抑留所から42年2月に連行。

フローレス島。 44年4月、スマランで集めた17人(うち欧人7人)をフローレス島へ輸送し慰安婦に。

パダン(スマトラ)。 44年、インド人業者の下で欧米人女性約20人が売春を強制。

 抑留所を管理していた第16軍軍政監部(44年になると軍直轄)は、強制しないこと自由意志で応募したことを証する本人のサイン付き同意書を取るよう指示していたが、なかには違反する出先部隊もあった。

海軍管轄下のセレベス島カンピリで下士官の抑留所長(山地正)が、職を賭して慰安婦150人の徴集計画を阻止した佳話もある。菊池政男「白い肌と黄色い隊長」文芸春秋1960年・「新評」1972年8月号の山地正稿。

 バタビア軍事法廷における裁判記録はハーグの国立公文書館に保管され、一部は閲覧可能だが、全文は2025年まで非公開とされている。221p

オランダは「公娼」が伝統の国、統治下インドネシアにも当然いた全て自前の「私娼」におちぶれるのを拒否、当然の如く保障保護健康管理の「公娼」に殺到した。スマラン事件で唯一死刑になった岡田慶治少佐の前掲「青壮日記」には、「受難時女性の豹変迎合」振りが、詳細に語られている。善悪を超越し、素直に読むべきである。受難時女性豹変迎合は、種保存本能。この種保存の本能があったから現在がある。善悪での単純非難は、次元が異なる

 

「白い肌と黄色い隊長・菊地政男著・文藝春秋昭和34年10月号」ある抑留所の秘話

 ──この抑留所には1800人の婦女子が収容されていたが、総督令嬢や知事夫人、市長夫人など反抗的、ヒステリックな女性たちは扱いづらかった。そのなかで山地正二所長(27歳、海軍二等兵曹)はヨーストラ夫人というリーダー格の協力を得、抑留者の自治を認めて、安心して生活できる抑留所づくりに努力した。新しい宿舎のほかに診療所や老人ホーム、教会や学校が建てられた。200台のミシンが導入され、農園もつくられ、自給自足の体制ができあがる。

 衣服や靴、食器、鏡、石けんなども支給され、抑留所は「女の楽園」の異名をとる。明るく秩序のある模範的存在として知られ、陸軍から見学者も訪れるほどだったが、民生部長官の決裁で慰安婦の提供を求められたときにはさすがの山地も頭を抱え込んだ。

 悩んだ末に大河原長官に決死の直訴を試み、やがて慰安婦採用は不許可になる。

 終戦後、ヨーストラ夫人は「人間山地はわれわれか弱い婦女子をよく理解し、民族を超越した人間的なあたたかい愛情を注いでくれた」と感謝の言葉をささげ、2451名の抑留者は山地への感謝状に署名した。視察にやってきた連合国軍の調査団は「抑留所内に学校があるというのは連合国内のも見られない。感謝と敬意を表する」と山地に握手を求めた。

 のちに本国オランダに帰国したヨーストラ夫人は「オランダ金鵄勲章(きんしくんしょう)」を授与され、山地との交流も続いた。

 

カンピリ敵性国婦女子収容所

 この風光明媚なマリノにも暗い影がある。昭和17年2月に日本軍がマカッサルを占領した後、停戦協定により敵国の婦女子をマリノに集結させたが、その後、昭和17年8月から昭和20年8月の終戦までの3年間、スングミナサに近いカンピリに敵性国婦女子収容所という施設を作り、オランダ人を筆頭にイギリス人、アメリカ人、アルメニア人など11カ国におよび、最大時には2,600人の婦女子を収容していた。  収容所長の山地二等兵曹の奮闘と、マカッサル専門学校の先生だったオランダ人のヨーストラ夫人を中心とする抑留者側の協力により、自治体制が確立され自活運営が行われた。この間の事情については菊池政男著「白い肌と黄色い隊長」(昭和35年 文芸春秋新社 発行)に詳しく書かれ、後日同じ題名で映画化された。

 「セレベスでは特警がうるさく、からかう以上のことをするとぶん殴られた。女性たちを野放しにすると、食べるために必ずパンパンに崩れるので、セレベスでは最終的には、敵性国人収容所をもうけ、オランダ国籍の者を全部収容し、街娼を防いだ。このために山地兵曹は、戦後オランダから感謝状をもらっている。セレベスの民政は安定していたようである。

 一方、南方全占領地の軍需物資供給地で、南方占領地で最も物資が豊富だったジャワでは、街娼がゴロゴロし、贅沢な暮らしをしていた者が急には生活を落とせず、下男下女を使いながら街娼になっている女性もいた。白人は希少価値があるので日本人より花代が高かった。戦後オランダ軍事法廷で問題になった「スマラン将校慰安所事件」では敵性国人収容所からオランダ女性を連れ出し慰安婦にしたという責任で、何人もが死刑や重刑に処されている。・・・・」(シュミーズ一枚の戦争 P124-125 原著不明 戦友会配布資料 粟竹章二氏所蔵)

 「白い肌と黄色い隊長.」 松竹 1960年、菊池政男原作、猪俣勝人脚本、堀内真直監督作品。

 

スマラン(白馬)事件の実際の被害者は?

 終戦3年後の1948年、バタビアBC級戦犯裁判で、一人が死刑10人が有罪とされ、既決した。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定(「従軍慰安婦」吉見義明1995岩波新書)され、罪名は、強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。

 「売春婦」証言は、家族親族世間から差別されるが、「犠牲者」証言なら、世間から同情を得ることが出来る。強制だったとリンチ裁判認定の25名が、はたして全員被害者であったのであろうか?この裁判は戦勝国の一方的裁判(リンチ)なので、慰安婦にされた35人全員が強制だったと認定されてもおかしくないのである。25名中相当数の「ニセ犠牲者」が混在したであろうことは、子供でも推察できる。

 しかし10名は、あろうことか、「ニセ犠牲者」を拒否し、「売春婦」を貫いた。一方的裁判(リンチ)なので、「犠牲者」とだけ、ただひとこと言いさえすれば、世間のあらゆる非難を回避できたのにである・・・。なんと、朝鮮(韓国)のように全員ではないのだ。宗教国オランダと、やりたい放題無宗教国朝鮮(韓国)の、違いであろう。

 先人福沢諭吉127年前の、1885年(明治18)「脱亜論(支那とその属国朝鮮対処論)」は、まさに正論なのである!

 1994年のオランダ政府の報告書では、インドネシア各地の慰安所で働いていた200~300人のオランダ人女性のうち、少なくとも65人は絶対確実に、(most certainly)強制売春の犠牲者だったと判定(小林英夫季刊『戦争責任研究』4号1994年6月)。「犠牲者」が65人に増加しているが、「200~300人のオランダ人女性」は、「ニセ犠牲者」を拒否し、「売春婦」を貫いた。朝鮮(韓国)のように全員ではないのだ。

 「売春」は、「造物主」が女性に与えた最後の手段の「生命力」である。「200~300人のオランダ人女性」は、明日無き死活の中で、「最後の手段」を行使し、「造物主」に従った。彼女達は、「従い」を良しとし、「嘘」をとしたのだ!人間としてなんと輝いていることか!

 中朝韓罪日は、日本軍一部の断罪済事件を隠蔽し、新に「人権」を冠し日本軍全体の新事実と捏造しての事後(遡及)法で、難癖犯日中である。これに便乗した、1990年(終戦45年後で反論者物故)からのオランダ政府の犯日難癖は、いかにも醜い。

 モーパッサンの「脂肪の塊」を彷彿させる同胞先人、「ニセ犠牲者」証言を拒否し、「売春婦」を貫いた数多のオランダ人女性に、恥ずかしくないか!

 ジャンを遥かに超え、輝いている彼女達こそが、「思いやり基金」真の受領者である。11へつづく

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プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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