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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観脱亜論全文現代語訳国難に団結の日本と国難に我欲で砂中朝韓罪日看破

1「脱亜論(現代語全訳)」国難に団結の日本と国難に我欲で砂中朝韓罪日看破

 戦後67年の捏造教育(一つまみのただの記憶装置HDDを信用した)で、日本人の根幹は破壊された。「なぜ?どうして?」と、立派な先人から授かった子孫自身の頭脳で、新に思索すれば、日本人の根幹はただちに回復する。現在横たわる全ての問題は、「職責者の捏造による日本人の根幹破壊」、職責不履行原因である。

 福沢諭吉(1834~1901)は3回の欧米渡航で後進性を痛感、亜細亜(唯物我欲中国朝鮮)からの脱却「脱亜論」を説き、個人の「独立・自由・平等」は天賦のものであるとして、儒学(空論)に代わる実学を主張した。

 「尚商富国」は「富国強兵」に連なるものであったとか、「日清戦争」には熱烈な指示を与えたとか批判されているが、「先見の明があった思索家公人福沢諭吉」が、実像。

 共に亜細亜を興(おこ)す」と「脱亜論」にある。「脱亜論」掲載1885年から9年後の1894年に日清戦争、19年後の1904年に日露戦争、25年後の1910年から朝鮮統治なので、大アジア主義(大東亜共栄圏)は付け焼刃では無く、白人列強に対して、開国当初からの護国思想であったことが、明々白々である。 

 福沢諭吉「脱亜論」は、迫る白人列強戦国時代に、先憂後楽一丸で国難に対処(究極の共産助け合いの唯心人間)の日本人精神と、国難に、目先の我欲のみに固執する砂の人心、中朝韓罪日の「(未熟)人間精神(戦国時代の大局は見ずに、目先のパンのみに執着する我欲の固まり、唯物ヒトモドキ)」を、見事に看破している。

 先人福沢諭吉127年前の「脱亜論(支那とその属国朝鮮対処論)を、戦後の日本の職責者(安岡正篤等々)は、無視した。結果、中朝韓罪日は本性ヒトモドキをあらわにし、あらん限りの狼藉で犯日の限りを尽くし、戦争を挑発している。先人遺訓の無視はこうなると、現在の日本を予言したこの「脱(亜)論」を、子孫は、あらためてかみしめなければならない! 

 「脱亜論」は、名も無き社説を、後世の他人が福沢諭吉「脱亜論」と命名したものだが、この命名は、「亜=全アジア諸国」と誤認されやすく、筆者の本意に著しく反している。事実、スパイは、「亜=中朝韓罪日」を、「亜=全アジア諸国」と捏造し宣伝工作している。内容は「脱=脱(未熟人間で、「脱=全アジア諸国」ではない。表記は、「脱論=(未熟人間)論」がふさわしい。

「脱亜論真実史観意訳『時事新報』1885年(明治18)年3月16日付社説が、福沢諭吉「脱亜論」と呼ばれている。

 世界の交通が便利になって、西洋文明の風、東に徐々に進み、到る所、草も木もみななびいている。

 西洋の人物は昔も今も同じだが、行動のみが、昔は遅かったのに今は早い。その理由は、交通の利器を利用しているからである。

 現在の東アジアの国々の西洋文明に対する最善の方法を考えるに、この西洋文明は、覚悟があれば拒否可能だが、世界情勢を視察しても、文明に無頓着な者は、この西洋文明に従う他に道は無い。

 文明は、まるで麻疹(はしか)の流行のようだ。ただ今の東京の麻疹は、西国長崎の地方より東漸「とうぜん(東に徐々に進む)」して、春暖と共に次第に蔓延(まんえん)しており、そっくりだ。この流行の時期に直面し、この西洋文明の害を憎みこの蔓延を防ごうとしているが、私は、断じてその手段が無い事を証明する。

 有害のみの流行病麻疹(はしか)においても、なおかつその勢いに取り乱してはいけない。ましてや、利害はあるが、利益多大な文明においては、当然である。ただ単に文明拒否ではなく、文明蔓延を手助けし、国民に、すみやかにその文明を浸透させることは、智者「ちしゃ(賢い人)」の仕事である。

 西洋最新の文明が、わが日本に入ったのは嘉永の開国であった。国民は西洋最新の文明の必要性を知り、文明開化運動は徐々に活発になった。がしかし、進歩の道の障害物に、古風老大の政府(徳川幕府)があって、これを、どうすることも出来ない。

 徳川幕府を残し最新の文明を拒否すれば、その文明に征服されるが、徳川幕府を倒し最新の文明を学び対等になれば、征服される事も無く、独立は維持できる。

 このような選択を迫られた我が日本のサムライは、大義独立国を選択、皇室の神聖尊厳を柱として政府徳川幕府を倒し、新政府を立て、全国が一切万事、西洋最新の文明をとりいれ、ただ単に日本の武家社会から脱したのみならず、次々と植民地化の亜細亜全洲の中で、唯一新しい一機軸独立独歩を打ち出し、亜細亜植民地化からの脱出、脱亜を主義とした。

 我が日本の国土は亜細亜の東の端であるが、その国民の精神はすでに亜細亜の古いしきたりを脱して、西洋の文明に移った。それなのに、ここに不幸なことに近隣の国がある、一を支那と言い、一を朝鮮と言う。この二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に育ったこと、我が日本国民と違わないのだけれども、その人種の由来が特殊なのか?あるいは、日本と同様の政教風俗中に居ながらも、遺伝や教育の中心に、同じでないものがあるのか?異なる。

 日支韓三国対等で、支と韓と相似ているのは、支那と韓は日本よりも近く、そしてこの二国の者達は、我欲であり、改革して進むことを知らない。交通至便の世の中に、文明の事物を見聞しないということはないのだが、聞いたり見たりするだけで考えないため、心を動かして改革するまでに至らない。その古風旧慣にしがみつくさまは、百千年の古代と同じ。

 この文明日々新たに活動中の時代において、教育を論ずれば、儒教主義と言い、学校の教えの中心は、仁義礼智と称し、一より十に至るまで中身より外見の虚飾のみを大事にするばかりである。現実の有様は、真理原則の知識が無いのみならず道徳すらも皆無で、残酷恥知らずを極め、さらにおごりたかぶって、自ら反省する考えなどは、まったく無い者のようだ。

 私からこの二国を見ると、今の文明東漸「とうぜん(東に徐々に進む)」の風潮に際し、とてもその独立を維持する道は無い。

 運良くその国中に志士が出現して、まず国事開進の手始めとして、おおいにその政府を改革する状態が、我が日本の維新のような大挙をくわだて、先ず政治を改めて共に人心を一新する日本維新のような活動ならば、話は異なるが、もしもそうでない時は、今より数年を経ることも無く亡国となり、その国土は世界文明諸国に分割されること、一点の疑いもない。

 日本維新のように出来ないとなれば、麻疹(はしかは一度の罹患で免疫を得、再び感染しない)と同じ文明開化の流行に遭(あ)いながら、支那と韓両国は、その伝染の自然のままにそむき、無理にこれを避けようとして一室内に閉じこもり、空気の流通を断っての窒息死となるだろう。

 輔車唇歯「ほしゃしんし(密接な助け合い)」とは、隣国相(あい)助けるのたとえだけれども、今の支那朝鮮は、我が日本国のためにほんの少しの援助にもならないのみか、西洋文明人の眼で見れば、三国の地利相接(あいせっ)しているために、なにかのはずみに三国を同一視し、支那と韓の評価で同様に我が日本に命ずる、危うさがないわけではない。

 たとえば、支那朝鮮の政府が古風の専制「せんせい(独断決定)」にして、法律という柱にするものなければ、西洋の人は、日本もまた無法の国かと疑い、支那、朝鮮の士人「しじん(識者)」が惑溺「わくでき(迷って本心を失うこと)」深くして科学の何ものたるかを知らなければ、西洋の学者は、日本もまた陰陽五行(迷信)の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らなけば、日本人の義侠「ぎきょう(強気をくじき弱きを助ける男気)」も、このために隠され、朝鮮国に人を刑する残酷な刑あれば、日本人もまた、共に無情なるかと推測されるように、これらの事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。

 これをたとえれば、比隣「ひりん(近隣)」軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にしてしかも残忍無情なるときは、まれにその町村内の一家人が、正当の人事(正しい人間関係)に注意する(気を配る)も、他の醜におおわれて埋没するものと同じである。その影響が現実に現われて、間接に我が外交上のさしさわりを成すことは、実に多い、我が日本国の一大不幸と言うべし。

 されば、今日のはかりごとをなすに、我が国は隣国の文明開化を待って、共に亜細亜を興(おこ)す(亜細亜共栄圏)の猶予(ゆうよ)はない。むしろ、その伍「ご(仲間)」を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にと言って特別の会釈「えしゃく(おもいやり)」をする必要は無い。まさに、西洋人がこれに接するの風に従って処分「しょぶん(きまりをつける)」すべきのみ。

 悪友と親しくする者は、共に悪名から逃れることは出来ない。我れは心において、亜細亜東方悪友支那と朝鮮)を謝絶するものなり。完

 露西亜南下、列強東進西進の戦国時代に対し、中朝韓罪日先人は呆れるほどの脳天気で、亡国など我関せずとばかりに、私利私欲我欲闘争をくり広げた。国難に団結の日本と、国難に我欲の砂中朝韓罪日は、全く真逆の異質である。福沢諭吉は、こうした本質を看破した結果、「共に亜細亜を興(おこ)す」から、「悪(亜)論」に転換したのだ。

 「支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にと言って特別の会釈をする必要は無い」という先人の遺訓を封殺し、ODA等の援助で、強大な犯日国に仕立て上げた「言葉と文字界」職責者の責任は、重い!

 人類は分業で隆盛している、分業職責者の職責不履行は、亡国(言葉と文字界以外の現実世界では処罰され、即刻存亡の危機)となる!

日本統治以前はハングル皆無漢字全盛文盲時代!
 1446年第4代王世宗が「訓民正音」の名で公布したハングルは、1504年、10代王・燕山君が禁止し、1506年後継王・中宗が、正音庁(諺文庁・ハングル研究機関)も閉鎖し、日本統治までの406年間、公用禁止文字であった(朝鮮王朝実録)。

「朝鮮事情」ダレ著金容権訳平凡社抜粋
 ダレ著となっているが、フランスの第五代朝鮮教区ダブリュイ主教(1866年ソウルで李朝に処刑された)が、1845年から21年間命懸けで収集したものを編集したもので、ダレは編纂者。1910年から日本統治なので、統治直前の「朝鮮事情」である
 「第七章朝鮮語・・・試験(科挙)は、すべて漢字で行われ、中国の文字と書籍きのみをその対照としていた。政府の八つの主な学校では、中国の文学と科学だけを研究し、国語である朝鮮語は除けものにされ蔑視されている。・・・国王や王国の年代記、布告、守令の命令、法廷の判決、科学書、碑文、通信、商人の会計帳簿、商店の看板等、あらゆるものが漢字で書かれる」

日本統治文盲解消に尽力!

 そのハングルと漢字混合文を世界で最初に発案した福沢諭吉は、活字を私費で築地活版所に作らせ、弟子の井上角五朗が「脱亜論(1885年3月)」の翌年1886年1月、朝鮮史上初の漢字ハングル混合文を用いた「漢城周報」を発行(朝鮮族は完全隠蔽教育)等々尽力し、文盲解消に努力(「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店2002年4月)。   ハングルと漢字の混合文発行前年の「脱亜論」は、諫言と見るべきであろう。
 言行一致尊しが日本で、言行真逆虚言尊しが支那族朝鮮族。虚言崇拝精神は128年後の2013年も健在で、益々盛ん!まさに水と油!似て卑成る者である。

「脱亜論(特異民族)」証明の書
「朝鮮事情」ダレ著金容権訳平凡社
1中朝韓は植民地独立付与宣言友好恩知らずの他力独立犬の躾外交が適切
『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著・田中秀雄・先田賢紀智共訳芙蓉書房。
中国の真実タウンゼントが暴く東大女凶授NHKスパイ等が隠蔽中朝韓

国難に我欲の砂、詳細は下記参照。
1閔妃成敗角田房子NHKTV朝日銭生かん国スパイの籠絡で土下座志士子孫
Ⅰ中国の真実タウンゼントが暴く東大女凶授NHKスパイ等が隠蔽中朝韓

福沢諭吉台湾論をつまみ食いして非難する犯日

 この論文には、先に殺さなければ殺された戦国時代が皆無で、完全隠蔽されている。平和時の事後法(侵略者悪、被侵略者善)で、遡及しての難癖(1960年まで植民地政策は合法)は禁止法。善悪物語仕立ての、プロパガンダ以外の何ものでもない!。

第3章福沢諭吉の台湾論
 福沢諭吉は欧米の文化に追いつくため若者たちに洋学を修めさせなければという信念のため、幕府の招きを断り、さらに新政府への出仕も断った。それから西洋事情、西洋旅案内、学問のススメ、文明論の概論などを次々に公刊し、明治維新後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作り、啓蒙運動の先頭に立った。ところが晩年に入った福沢諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定し、人種差別主義者となり、後世の批判を受け続けている。要するに、日本の近代化を導いた思想的リーダーとして今も一万円札を飾る福沢諭吉は近代日本の先駆者とされながら毀誉褒貶半ばする思想家と思われる。――

 「アジア諸国を蔑視し」とあるが、支那朝鮮のあまりの我欲がトラウマとなり、敵国の台湾や他国もそうであろうと錯覚したのもあいまって、統治開始時に、注意喚起目的の親心で過激に扇動(1895年5月台湾の処分法等)したに過ぎない。「アジア諸国を蔑視し、侵略を肯定し、人種差別主義者」として扇動は、国を思うあまりの愛国心が発露であり、台湾統治安定後は、支那朝鮮のトラウマからは脱却し、温和になっている。

 「侵略を肯定し」とあるが、先に攻めなければ攻められ、先に殺さなければ殺されるのが戦国(国盗り合戦)時代、殺されるのを待つ馬鹿など皆無!「侵略を肯定し」の、後世の平和時道徳善悪論など論外。

 「人種差別主義者」とあるが、戦争を仕掛ける敵と味方を分別するのは、人種差別ではなく正当防衛である。現代の支那人や朝鮮人の限りの無い捏造難癖(教科書や靖国参拝への内政干渉、慰安婦、東海呼称、旭日旗、南京虐殺、犯日ドラマや犯日教育等々)や威嚇(ミサイル、領海侵犯、国連や米国等でのプロパガンダ等々)は、思想戦である。思想戦を仕掛ける敵と味方を分別するのも、人種差別ではなく正当防衛である。戦争を仕掛ける敵と味方を分別することを「人種差別主義者」と捏造難癖も、思想戦である。

 歴史学には善悪など皆無で、真実と捏造があるのみ!こんなものは歴史学ではなく、いいとこ盗り成り済まし偽善者の、善悪物語プロパガンダにすぎない。

 以下の先人の、戦国時代の苦悩(護国に腐心)を踏まえて初めて、当時を生きた当事者福沢諭吉を、理解(福沢諭吉論文は日本護国論)可能となる。時代背景を吟味し加味しない論評は、偏向論プロパガンダである(東大京大等の文系教授NHK朝日毎日中日TBSナベツネ等々)。過激な表現には、その原因(時代背景)が、必ず在る神は賽を振らない!

「脱悪(亜)論」までの経緯を「大東亜戦争肯定論」を資料に辿る
予備知識・被征服者(有色人や弱小国)連合大アジア主義の原点
佐久間 象山(さくま しょうざん・松代ではぞうざんと呼称。1811~1864年)は松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家・象山神社(松代)の祭神。父(佐久間一学)は下級武士、母(まん)は農民出身。妻(正室)勝順子は、勝海舟の妹。

 1833年江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び、1833年に江戸で私塾「象山書院」を開いた。洋学の認識は芽生えつつあったが、ここで象山が教えたのは儒学で、基本的にはまだ「伝統的な知識人」であった。

 1842年、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍の下で、兵学を学ぶことになる。

 江川英龍は「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法のため、洋式砲術を使った戦略を短期間で習得することは困難と知った象山は、同じ高島流の下曽根信敦から文書を借り学習し、西洋兵学の素養を短期間で身につけることに成功、藩主・幸貫に『海防八策』を献上し高い評価を得た。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れて、大砲の鋳造にも成功した。1849年に日本初の指示電信機による電信や、ガラスの製造に成功した。1853年(嘉永6年)浦賀にペリーが来航した際も、象山は浦賀に出向き視察としている。

 1854年再び来航したペリーの艦隊に、門弟の吉田松陰が密航を企てて失敗、象山も事件に連座して入獄。その後1862年)まで、松代での蟄居となった。

 1864年象山は、一橋慶喜に招かれて上洛。慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都はまだ、尊皇攘夷派志士の潜伏拠点で、「西洋かぶれ」の代名詞のような象山には、危険な行動であった。7月11日三条木屋町で、前田伊右衛門、河上彦斎等に暗殺された。享年54。彼を暗殺した河上彦斎は後に、象山の履歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという。

 「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法を破壊した象山の教育に対する態度は近代的で、自分が書物から学んだことはすべて公開した。自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説き、断っている。

 学問に対する態度は、小林虎三郎へ送った次の文書からうかがい知れる。


 「宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、まさに以って我が聖学を資くる足る」

 象山は当時の日本において、洋学を学究し、思索し、指針を示した、紛れもない第一人者だった。しかし実事求是に徹した(真理至上主義)象山の態度は、当時の旧来常識から見れば邪道で、「象山は自信過剰で傲慢」と敵も多く、誤解を受ける大きな要因となり、数々の業績を残したにも関わらず、戦後のWGIP教育も影響し、評価が低い。がしかし、ただ今続々と国民が覚醒中なので、再評価は高くなるのみで下がることなどは、無い!
 「自信過剰で傲慢」は、見え過ぎた者の勲章で、敵は、時代の先駆者の、宿命である。

 勝海舟の妹順が1852年に象山に嫁ぎ、勝は義兄となったが、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて――(氷川清話)」とけなし、当時の勝は、傲慢な義弟象山をあまり高く評価していなかった。がしかし、12年後の1864年、象山暗殺の報を聞いた時点では、「蓋世の英雄」と評価は一変していた。「この後、吾、また誰にか談ぜむ。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」とその死を悼み、西郷隆盛や山岡鉄舟は「殿」「氏」であったが、義弟象山には「先生」と、敬称をつけた。

 吉田松陰勝海舟坂本龍馬橋本左内、小林虎三郎、河井継之助、岡見清熙、加藤弘之など、後の日本を回天した人物が、象山の門弟である。「国家の財産」と自認象山、以って瞑すべしであろう。

1885年「脱悪(亜)論」までの経緯を名著「大東亜戦争肯定論」を資料に辿ってみよう
「大東亜戦争肯定論」について
 著者林房雄(1903~1975年)は東大法科中退。始めはプロレタリア作家で、「京大事件」で下獄。出獄し「青年」を発表。1933年小林秀雄らと「文学界」創刊。文学の政治への従属を否定し、プロレタリア作家の廃業を宣言し転向。戦後GHQから追放処分を受けたが、「息子の青春。1950年」などの中間小説で復活した。「大東亜戦争肯定論」は1963(昭和38)年中央公論に9月~40年6月連載(著者60歳)。39年(上巻)刊行し、「続(下巻)」は40年に刊行された。

国難はペリー来航以前に始まっていた
1844(弘化元)年から1853(嘉永6年6月)年ペリー来航まで
 「国史大年表(平凡社版)」によって、弘化元年(1844年)から嘉永6年(1853年6月ペルリ来航)に至る外国船と海防関係の記事をひろってみると、実に80件以上にのぼる。――事実上の戦争状態は、ペルリ来航のはるか以前に発生していた。その思想的背景として水戸斉昭・藤田東湖の「攘夷論」、平田篤胤とその門人たちの「日本新国論」が生れたと見ることができる。即ち「抗戦イデオロギー」の発生であり、「戦争教育」の開始であった。2につづく⇒


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真実史観「脱悪(亜)論」までの経緯を「大東亜戦争肯定論」を資料に辿る

2「脱悪(亜)論」までの経緯を「大東亜戦争肯定論」を資料に辿る 

国難に際し「思索する日本人

1854年(安政元年)吉田松陰の「幽囚録

 長州藩士吉田松陰がアメリカに密航しようとして捕らえられたのは、安政元年、ペルリ二度目の来航のときであった。松蔭は長州萩の藩獄に幽閉されたが、獄中で「幽囚録」を書き、師にして同士である佐久間象山に送った。これは当時として知り得るかぎりの世界大勢論であり、日本が西よりポルトガル、イスパニア、イギリス、フランス、東よりアメリカ、北より露西亜に狙われていること、支那大陸とアフリカ大陸がすでに英夷の侵寇をうけていることを述べて、武備の増強を強調し、次のように主張している。

 「艦ほぼ具わり、砲ほぼ足らば、即ち蝦夷を開墾し、諸侯を封権し、――間に乗じてカムサツカ、オーツカを奪い、琉球を諭し、――朝鮮を攻め、質(しち)を納れ(いれ)貢(こう)を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾呂栄諸島を収め、漸く(ようやく。しだいに)進取の勢いを示すべし。然る後、民を愛し士を養い、慎く(かたく。固く)辺囲を守らば、即ち善く国を保つというべし 」

 同じく獄中から、門下生久坂玄瑞の攘夷即時断行論をいましめた手紙がある。大意をとって訳せば、

 「足軽は軽鋭で、深く考えることをしない。今日、蒙古来襲時における時宗の行き方を学ぼうとしても、それは無理だ。神功皇后や豊臣秀吉の生きかた(侵略して征服)も昔だからできたので、今はできない。できないことをやろうとして、大志を捨て雄略を忘れてはいけない。およそ英雄豪傑の事を天下に立つるや、謀を万世に胎(のこ)し、必ず先ずその志を大にし、その略を雄にし、時勢を察し、事の原因をつまびらかにし、先後緩急、先ずこれを内に定め、操縮張弛、おもむろにこれを外に及ぼす。幕府はすでに外夷と和親条約を結んでいる。これを日本人が破ったら、信義にそむくことになる。だから、現在の策としては、条約を立派に守って、その限度で外夷をくい止めておき、その間に乗じて蝦夷をひらき、琉球を収め、朝鮮を取り、満州を拉(ろう)し、支那を圧(おさ)え、印度に臨(のぞ)み、以って進取の勢いを張り、以って退守の基を固めたら、神功皇后や豊臣秀吉が果たせなかったことを果たすことができる。そうなれば、外夷はこっちの思うままに駆使することができるのだから、前日の無礼の罪を責むるもよし、ゆるすもよし。何ぞ必ずしも時宗が蒙古の使者を斬って快としたような子供っぽい真似をする必要があろうか」

 ――吉田松陰一人だけではなく、佐藤信綱「宇内混合秘策」、橋本左内「日露同盟論」等々、「西力東漸」に対する思想的反撃は幕臣たると陪臣たるを問わず、すべての「考える日本人」の胸中に生れていた。

終戦までは、職責者自らが知行合一の手本となったが!戦後の職責者は、空理空論丸暗記オウムスパイ
 1854(嘉永7)年日米和親条約締結に、ペリーが再航した。吉田松陰は、足軽の金子重之輔と二人で、旗艦ポーハタン号に漁民の小舟を漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否され、吉田松陰は幕府に自首した。
 この密航事件に連座して佐久間象山も投獄され、象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の阿部正弘の反対で助命され、長州へ檻送、野山獄(藩獄)に幽閉された。1855(安政2)年出獄を許されたが、杉家(実家)に幽閉の処分となる。
1857(安政4)叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開いた。この松下村塾で久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義等々の塾生に教えた。松陰の松下村塾は、文字(丸暗記)だけでなく、登山や水泳(実技)なども行なうという、生きた学問、言行一致の「実学」だった。
1858(安政5)年幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒、討幕を表明し老中首座である間部詮勝の暗殺を計画したが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)らが反対して計画は頓挫した。さらに松陰は、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕を持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に再び幽閉された。
1859(安政6)年10月27日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。
 25日「留魂録」を書き始め、26日書き終える。
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
 享年30(行年29歳没)の生涯で、教えた時間もわずかではあったが、後の日本への多大な影響は、測り知れない。吉田松陰生い立ち詳細は⇒吉田松陰について

橋本佐内「日露同盟論」の大意

 「日本は東海の一小国、現在のままでは四辺に迫る外来の圧力に抗して独立を維持することはむずかしい。すみやかに海外に押し出し、朝鮮、山丹、満州はもちろん、遠く南洋、印度、更にアメリカ大陸まで属領を持って、はじめて独立国としての実力をそなえることができる。そのためには露西亜と同盟を結んで、イギリスを抑えるのが最善の道である――これと同盟して英国と戦えば、たとえ敗れても滅亡だけはまぬがれる。しかも、対英のこの一戦たるや、かならず我が国を覚醒せしめ、我が弱を強に転じ、これより日本も真の強国になるであろう。

 正面の敵は英国であるが、もちろん、今すぐに戦えというのではない。日本の現状では、それは不可能だ。英国と一戦を交える前に、国内の大改革を行い、露国と米国から人を雇い、産業をおこし、海軍と陸軍の大拡張を行わねばならない」

 ――松陰(長州藩士1830~1859)も左内(福井藩医1834~1859)も、――どちらも30そこそこで刑死したが、彼らの残したものは多かった。

※露西亜は欧米列強以上の侵略国家なのを不勉強であった橋本佐内ではあるが、とにもかくにも皆、「考える日本人」であった。

苦悩する藩主

1851~1858年(安政5年)

 「苦悩」は学者と志士だけのものではなく藩主たちも「国内改革案」と「東亜経略論」を持っていた。水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬。斉昭には藤田東湖、慶永には橋本左内がいた。島津斉彬の場合は、藩主自身の思想と実行が、西郷隆盛大久保利通等の藩士を導き、啓蒙し、訓練した。

 斉彬は嘉永4年2月に封をつぎ、藩主としての在位わずかに7年、安政5年7月に50歳で急逝した。この間にペルリ来航、ハリス(米)、エルジン(英)、プチャーチン(露)が江戸に乗りこんでいる。

 賢候中の賢候は、「西力東漸」に対して常人以上に対策に苦心していた。琉球は弘化以来、英仏艦隊の再三の訪問をうけて、開港を強要されたので、幕命で弘化2年藩地にもどり、対処した。

 それよりも、斉彬にとって重大な事件は、斉彬の壮年時代の印度の崩壊と、支那におけるアヘン戦争と、襲封直前に勃発の内乱、太平天国の乱であった。この内乱の中に清帝国の解体を予感し、やがて日本の運命になりかねないことを、憂慮した(蘭学者高野長英庇護は、世界情勢を聞くことが目的の一つであったと伝えられている)。

 斉彬が越前藩主松平慶永に与え、また西郷隆盛に教えたという意見書の写しが残っている。・・・斉彬もまた雄大な「大陸出撃策」を秘めていた。斉彬の秘策によれば、まず日本の諸侯を三手にわけて、

 「近畿と中国の大名は支那本土に向かい、九州の諸藩は安南、カルパ、ジャワ、印度に進出、東北奥羽の諸藩は裏手よりまわって山丹、満州を攻略する。わが薩摩藩は台湾島とその対岸広東福建を占領し、南シナ海を閉鎖して英仏の東漸をくいとめる

 大陸出撃の目的は清国の内政改革だと斉彬は言っている。

 「出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むのではない。一日も早く清国の政治を改革し、軍備を整えしめ、日本と連合するときは、英仏といえども恐るるにたりない。然るに清国は版図の広大なるを誇り、驕慢にして日本を視ること属国の如く、日本より連合を申し出ても耳を傾けるどころではない。故に、我より出撃して、清国を攻撃し、これと結んで欧米諸国の東洋侵略を防ぐを以って上策となす」

 もちろん、斉彬はこの策を嘉永安政のころに直ちに実行できると思うほど空想化でも「過激派」でもなかった。

 「もしも余が現在公然とかかる説を唱えたら、世人は斉彬が発狂したと思うだろう。まさにそのとおりだ。今、海外出撃の大号令が下ったとしても、命令一下、南シナ海の激浪を乗り切る軍船を結集し得る藩は一つもない。我が薩摩藩にしてすでに然り、他藩については申すまでもない。ただし、余に15年の歳月を借せ。薩摩を日本一の富強の国にし、日本統一の基地にしてみせる。日本を西洋諸国並みの富強の国にするためには、50年かかるかもしれぬが、薩摩を日本一の強国にするのは15年あれば十分だ。まず、そこから始める」と西郷隆盛に教えたと伝えられている。

 松平慶永は斉彬の年少の同士であり、その心酔者でもあった。上山春平氏が引用している慶永の意見書(老中堀田正睦宛て)が斉彬の意見に甚だ似ているのは偶然ではない。

 開国派もまた攘夷派であったのだ。「つまり、開国は、攘夷のための実力をたくわえる手段に他ならなかった」という上山氏の意見に、私は同意する。

 最初は「異船出没」による「斥候戦」であったが、英艦サラマン号の沿海測量、再再度に及ぶ英仏艦隊の琉球入港と上陸、海軍代将ビットルのひきいる米艦二隻の浦賀入港は、明らかな「威力偵察」と見なければならぬ。それより約5年後のアメリカ提督ペルリと露西亜提督プチャーチンの「来航」は、ともに完全武装の軍艦4隻(ペルリの最初の予定では12隻)をひきい、幕府を強要して和親通商条約を結ばせたのであるから、これを「発砲なき戦争」と解釈することは必ずしもこじつけではなかろう。

 「国を強くするためには、まず民を富ませねばならぬ」と斉彬は側近に語った。「武士も百姓も芋ばかり食っていて、忠義だ攘夷だとさえずっていても、何の役にも立たぬ。農業工業教育の三つがそろわねば国の本は立たない。蔵方にいくら金銀を積んでも、士民の生計が豊かにならねば、富国も強兵もない」

 吉田松陰の弟子達が、米国船ペンブローク号を下関で、仏国船キャンチャン号を豊浦沖で、オランダ船メジュサ号を馬関海峡で砲撃した。これにこたえて、米国軍艦ワイオミング号が長州軍艦二隻を撃沈し、仏国艦隊は下関を攻撃し、砲台と町を焼いた。「局地戦争」は瀬戸内海でも始まっていた。

 

ついに露西亜が日本占領

1861年2月3日~7月25日まで6ヶ月間日本の対馬を占領した露西亜艦隊。当時ロシアの南下政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣して、露西亜軍を対馬から排除。

 

勝海舟の興亜論

1863(文久3年)勝海舟の対韓政策「勝海舟秘録」

 「文久の初、攘夷の論、甚(はなはだ)だ盛んにして、摂海(大阪湾)守備の説、また囂々『ごうごう(やかましい)』たり、予(海舟)建議して曰く、よろしくその規模を大にし、海軍を皇張し、営所を兵庫、対馬に設け、その一を朝鮮におき、ついに支那に及ぼし、三国合縦連衡して、西洋諸国に抗すべし」

「海舟日記』4月27日

 「今朝、桂小五郎、大島友之充(対馬藩主)同道にて来る。朝鮮の議を論ず。わが策は、当今アジア州中、ヨーロッパ人に抵抗する者なし。これみな規模狭小、彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今わが邦(くに)より戦艦を出し、ひろくアジア各国の主に説き、縦横連衡、共に海軍を盛大にし、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙をのがるべからず。まず最初朝鮮国よりこれを説き、後支那に及ばんとす」

 勝の諸説は島津斉彬の東亜経略論によく似ている。「まず朝鮮を説き、次に支那を説き、三国同盟して欧米の力に対抗せよ」。

 

列強との戦争

1863(文久3)年

薩英戦争

 「生麦事件」以来すでに一年、犯人の処刑と償金の支払いを延ばし、薩摩は全く謝罪の意志がないように見えた。文久3年6月22日イギリス東洋艦隊7隻は横浜を出港した。この戦争における死傷者はイギリス側は戦死13、負傷50または65、薩摩側は戦死5、負傷者14と記録されている。犯人の処刑も償金の取立てもできず、わずかに鹿児島市街の一部を焼いただけで、陸戦隊を上陸させることもできず、イギリス艦隊は予想もしなかった大損害をうけて、横浜に逃げて帰った。

1864年

馬関戦争

 イギリス主導の英(軍艦9隻)仏(3隻)蘭(4隻)米(1隻)、兵員5014名の4カ国連合艦隊が、長州を攻撃した。禁門戦争(蛤御門の戦)に破れ兵力の大半を失っていた長州が、一撃粉砕されるのは常識であろう。たしかに長州が破れたが、ただの惨敗では片付けられぬ諸点が発見される。

通訳官シーボルト(アーネスト)・サトーの回想録

 イギリス公使オールコックは元治元年正月、ロンドンから横浜に帰任して、ニール大佐に代わって、列国外交団の主導的地位についたが、「帰任するに際し、実に大きな権限をあたえていた。彼は長州藩の敵対的態度に対し、膺懲(ようちょう・征伐して懲らすこと)を加えようと決心していた」

 日本における英仏の利害鋭く対立していた。フランスは幕府援助を決意して、幕府との単独条約締結にほとんど成功していた。しかしオールコックは強引に連合艦隊を出動させた。

 「日本人が頑強に戦ったことは認めてやらねばならない」とサトーは書いている。彼の計算によれば2日間の作戦でイギリス側の死者8名、負傷者30名である。これに仏蘭の死傷者を加えれば、その数は長州側の死傷者より多い。

 「オールコック公使たちの間で、――下関附近の充分な土地を占領し、――つづけるという計画があった。オールコックは萩を攻撃する必要をキューパー提督に説いた。――しかし提督は自分の権限内の手段では長州のいかなる土地をも永久に占領することは不可能であると考えていた。――馬関戦争戦争直前に『日本内地においては断じて軍事行動を取ることを許さず』と急信されたが間に合わなかった。オールコックは罷免された」

 幕末におけるABDFラインが日本に加えた圧力はたしかに強力なものであった。が、日本は「敗北」したが「屈服」しなかった。不平等条約は押し付けられたが、いかなる土地の占領もゆるさなかった。東漸する「西力」はその意思に反して極東のはてに日本という「非占領地帯」をのこさざるを得なかった。

※上陸占領すれば、ばらばらであった諸藩が一気に団結、大戦となり、食民治連合も乱れ、巻き込まれる。大戦を望まぬ食民治連合が日本人の団結を感じ取り、中国のような蚕食を避けた

イギリス人トインビー教授「文明の実検」(人類の自滅原爆戦争回避のための警告の書)

 「東方をのぞめば、瓦解した諸帝国が、トルコから中国にいたるまでアジアの全大陸にその残骸をならべていて、・・・いたるところの原住民らは、羊のごとく従順にその毛を刈りとらせ、ただ黙々たるのみ。あえて彼らの毛を刈りとる者に立ち向かって反攻しようとはしなかったのである。 日本人だったら、全く違った反応を示したであろう。しかし、日本はきわめて珍しい除外例であり、かえって、原住民は反抗しないという一般法則を証明しているにすぎないのだ」。

 力点(赤字)は私(林房雄)がつけた。『文明の実検』は日本の歴史を扱ったものではない。人類の原爆戦争という集団自殺の愚挙を回避するためには、

 「ただちに世界政府を結成せよ。これに失敗するか、あるいはその実現が遅れるならば、人類は自滅するであろう」と言う警告の書である。

 

 この「きわめて珍しい除外例」は何によって生じたのか?

東洋学者現アメリカ大使ライシャワー「中央公論昭和38年3月号日本と中国の近代化」

 「私はその一つの理由として、徳川時代のように安定した封建的社会(幕藩体制)の習慣法が、中国のように全国を完全統一した中央集権的な君主国よりも、もっと経済成長を促進する役割を果たしたこともあげられると思う」といっている。「日本の近代化は19世紀半ばに(封建制度の下で)すでに始まっていたと言えるので、同世紀後半に入ってからさらに速度を加えたのは驚くにあたらない」

※日本は最極東なので、学習時間が有り、学習し備えた、結果唯一の例外となったのだ。もちろん、天災列島なので、天災人災(侵略)に対する団結力絆は、他国よりも抜きん出ていた事が最大の理由だ。

 薩英戦争も馬関戦争も占領をあきらめざるを得なかった。だが薩摩も長州もみずから敗北を認めて、償金を支払い、「和親通商条約」という不平等条約を受け入れ、「攘夷」を「開国」に切りかえた。他の諸国の「開国」は「降伏」であったが、日本はそうではなかった。「開国は実力を蓄え、攘夷を貫徹するための手段となった」。

※倒幕日清日露大東亜戦争はすべて、戦国の御世に「攘夷(日本民族の適者生存)を貫徹するための」戦争であった。

天道が宗の徳川慶喜

1867年仏公使ロッシュの援助を断り諭し「大政奉還江戸城明け渡し」した徳川慶喜

 軍艦武器資金はすべてフランスから供給するとロッシュは言ったが「我が邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令ことごとく行わる。たとい今日公家大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といわんには違反しがたき国風なり。されば、今兵を交えて此方勝利を得たりとも、万々一天朝をあやまたば、末代まで朝敵の悪名まぬかれがたし。さすれば昨日まで当家に志をつくしたる大名も、皆勅命に随わんは明らかなリ。よし従来の精義によりて当家に荷担する者ありとも、かくては国内各地に戦争起こりて、3百年前の如き兵乱の世となり、万民その害を受けん、これ最も余が忍びざるところなり」と答えた。

幕臣も、公家や薩長とは戦っても、日本を分裂させて清国の二の舞を演ずることはしなかった。幕臣である前に日本人であった。

 劇作家や作家が勝・西郷の会見を、英公使パークス(薩長を支持)と仏公使ロッシュ(幕府支持)の国際的圧力下を強調しているが、両者は天道が宗で攘夷は同じである、国際的圧力を利用したに過ぎない。

岩倉具視の「全国合同策」

 「君子小人、国内に扮争する時、多力の者は其党を樹て「たて(樹立)」、寡力の者は外権を仮るは、古今の通患なり。外権を仮るとは外夷の力を仮ることにして、恐るべく憂うべきなり」具視はここで、唐宋元明の歴史を引用し、支那の各王朝がトルコ、キタイの兵を借りたために亡国への道を開いた先例をあげ、「これ他方の談として看過すべからず。もし今日我が皇国にして之れに類することありとせんか、たとえば西国はアメリカを引き、中国四国はイギリスを引き引き、北国は露西亜を引き、東国はフランスを引き、遂にこれら諸夷の権力を仮り、相互に勢いを争いて征伐せば・・・金甌無欠(きんおうむけつ。外国の侵略を受けたことのない)宇内(うだい。天下)に冠絶(かんぜつ。とびぬけてすぐれている)する皇国は、犬羊に均しき外夷の管轄に属するに至らんこと明鏡の如し

幕府も薩長も土肥も、ひたすらに日本の分裂と植民地化を恐れ、苦労し、苦心し、精根尽くして外国の蚕食(清国の蚕食で学習していた)から日本を守った。かくして欧米露列強の日本蚕食作戦は清国同様とはならず失敗、大きく後退して変更を余儀なくされた。日本は大東亜戦争まで侵略を防ぎ、持ちこたえたともいえる

中岡慎太郎三篇の時勢論

1867(慶応3)年終り中岡慎太郎伝

 「薩長連合」と「大政奉還」の事実上の計画者中岡慎太郎は龍馬と共に暗殺される直前慶応3年終り、三篇の時勢論を書き残している。いずれも「ひそかに知己に示す論」である。「予は草莽無頼の者なり。言を王侯貴人に献ぜんと欲して、その道なし。故に虚心黙座、一点の私念を交えず、既往の過を悔い、将来の事業を企て、思うところをところとして、天下の同志に示す」

三書を総合しての大意要約(林房雄)

 「今より後、一年以上もうかうかとすごしたら、外夷の処置はついに出来なくなるだろうと実に心配でならぬ。

 自分はかねて西洋の兵制を学び、商業もまた西洋の会社組織に習えと主張しているから、ただ西洋好きの開国論者だと思う者もあるかも知れぬが、さにあらず、自分は攘夷の実行方法として開国論を唱えているのだ。

 そもそも攘夷は日本だけの専売ではない。やむ得ない時には、世界の各国はみなこれを行う。アメリカはもとイギリスの属国であった。イギリス国王はこの属国をしぼりあげることに専心したので、アメリカ国民の生活は日々に困窮した。ここにおいてワシントンという人物が現れ、民の疾苦を訴え、13州の民をひきいて立ち、イギリス人を拒絶し、鎖国攘夷を行った。英米、戦うこと7年、イギリスは和を乞い、アメリカは独立して合衆国と号し、一大強国となった。今を去る80年のことである。ドイツ国もまたスペインの属国であったが、よく国論を統一し、拒絶攘夷を行い、戦うこと8年、戦うごとに破れれたが、最後に至って、一戦大いにスペイン軍を破り、ついに独立した。

 吉田松陰がアメリカに渡ろうとしたは、攘夷の志によって、彼の長をとり我が短をおぎなおうとしたのだ。其の門弟久坂玄瑞は曰く『すでに通商条約が定まった上は、ひろく有志の者を海外に派遣し、西洋の諸学諸芸及び工商の術を学ばしめ、大いに海陸の軍備を張るべし、それをやらなければ、国体を立つることはできない』また高杉晋作は曰く、『今日、西洋事情を説き、西洋を知っていると自認している連中は、わずかに西洋の一端だけを見て、其の歴史の盛衰を知らぬ。彼らが強盛になったのは、過去にその理由がある。今日、日本が彼の『強盛を学ぼうと欲するなら、英仏がまだ強盛にならないとき、国内改革の内戦が度々あったこと、また露西亜が百戦危難の中から国を興したことを手本として学ばなければならない。もし日本が現在内政改革をおこたり、現状のままで、西洋強盛の文明のすでに出来上がったものを、居ながらにして学ぼうとするのは大間違いである。よろしく奇変、英達、実効をもって、天下を一新すべし』と。

 自分の攘夷の策は、今日深く外夷と結ぶにあり。涙をのんで、外夷と手をにぎるのだ。ひろく海外諸国に留学生を送り、外国人を雇い、国産を開き、断然と大いに国を開くべし。かくして、すみやかに軍備を設け、兵を練り、名分条理をふみにじって攻めてくる強悪の外賊を討つべし。近い将来に必ずその時が来る。露西亜も恐るべきだが、アメリカもまた油断はならぬ。

 敗戦を恐れることはない。文久2年、薩州の壮士、英夷を生麦に斬る。その後、英軍鹿児島に入り、罪を問う。世論はいかに薩州が強大でも、英国の力で攻められては支えることはできまいと言った。然るに、この一戦によって志気は大いに振るい、俗論は閉塞し、因循とその日暮の旧弊は破れ、いわゆる攘夷家なる者も進んで航海練兵の実用を主張するに至り、薩州の国是は定まった。また、長州においては、しばしば夷船を暴撃し、京都では蛤御門の一戦に敗軍し、つづいて馬関戦争の大敗があり、また幕府追討軍によって四境を包囲された。世人はみな、長州の滅亡疑いなしと思ったが、あに計らんや、長州が国内の政治を改革し、兵制を一新し、士気大いに奮い立ったのは、この危機によってである。また、幕府が昨年、征長の役に破れた時、世人はみな、もう幕府は恐るるに足りぬと思った。何ぞ計らん、幕府の海陸制の奮い立ったのは、この敗戦の機によってであった

 わが神州、危急存亡、今日に至って極まれリ。いやしくもわが国民たる者、傍観することが出来ようか。まことに古人の言う如く、領地あるものは領地を投げ出し、勇ある者は勇を振るい、智謀ある者は智謀をつくし、一技一芸ある者はその持芸をつくし、愚なる者はぐをつくし、光明正大、各々、一死以ってその誠を尽くし、然る後、政府立つべく、武備充実、国威張るべく、信義外夷に及ぶべきなり。かくの如くすれば、あに好皇運挽回の機なからんや。あにまた外夷を制するの術なからんや」

※角栄以後の日本を駄目にした政治家や戦後の職責者は、正座して熟読せよ!3につづく⇒

真実史観資源無き小国日本の護国思想が親秩序「互恵・平等・自由貿易」の起因

3資源無き小国日本の護国思想が親秩序「互恵・平等・自由貿易」の起因 

朝鮮事情探索後の上書

1870(明治3)年

 外務卿柳沢宣嘉は朝鮮事情探索のため、外務権大録佐田白茅等を派遣した。探索後明治3年3月の上書。

 「全皇国一大城となさば、即ち蝦夷、ルソン、琉球、満清、朝鮮みな皇国の藩塀なり。蝦夷すでに開拓を創(はじ)む。満清は交わるべし。朝鮮は伐つべし。ルソン、琉球は手に唾して取るべし。・・・4年前、仏国は朝鮮を攻め、・・・また露国ひそかにその動静ををうかがい、墨国(アメリカ)もまた征伐の志あり。・・・皇国もしこの好機会を失うて、これを匪人(欧米人)に与うれば、即ち実にわが唇を失うて、わが歯かならず寒し。・・・故に、三十六隊を出兵して、国王を虜にすべし」(徳富蘇峰近世日本国民史86巻)

 公家出身の外務権大丞柳原前光もまた岩倉具視に意見書を提出している。

 「目下、フランスとプロシャは交戦中であるから、そのすきを狙って、露西亜は必ずわが樺太と朝鮮に手を出すであろう。樺太を守ることはすでに不可能である。しいて守ろうとすれば、露西亜は数万の兵を出すであろうから、とても現在の日本の兵力では対抗できない。問題は朝鮮である。

 露西亜が北は樺太を略し、西は朝鮮を占領したら、維新の大業も破れ、将来の大難となる。政府においては、経略の遠図をもって、十分に御勘考ありたい」

※相手は朝鮮ではなかった。清国でもなかった。「南下する白人勢力露西亜」であり、「欧米列強」であった。

孫文の秘書戴天仇『日本論』

 「事業の点より言えば西郷の征韓論は死後18年(日清戦争)にして事実となり死後30年(日韓合邦)にして公然とその目的を果たした」

西郷隆盛の言葉

 「道を行う者は、天下こぞって毀(そし)るも足らざるとせず、天下こぞって誉むるも足れりとせず」

 「人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

 「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。・・・天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って人を愛するなり

 即ち「敬天愛人」の思想である

 

1885年(明治18)年3月16日『時事新報』「脱亜論掲載

 資源なき小国日本の護国思想は、このような興亜論に腐心したが、正体が我欲の支那とその属国朝鮮には伝わらず、「脱亜(支那と朝鮮)」となり、大アジア主義、大東亜共栄圏、植民地独立付与宣言と展開した。結局、先人の遺志、興亜論(大アジア主義、大東亜共栄圏)を成し遂げたのは、植民地独立付与宣言(1960年)で開闢以来の人類の悪病(弱肉強食)を破壊した、支那と朝鮮(脱亜論元凶)以外の、虐げられし同胞であった。

 その間支那と朝鮮(脱亜論元凶)は何をしていたかと言うと、正体をさらけ出し、我欲闘争(同胞殺し)や他国侵略に明け暮れ、ホロコースト(大虐殺)をしていた

 この支那と朝鮮(脱亜論元凶)は現代においても疫病神で、エスカレート中である。福沢諭吉の脱亜論は、支那と朝鮮の正体、喝破論である。

 

1914年8月大東亜戦争を予言した山県有朋大隈首相宛ての意見書

 「人種の競争は年1年より激烈を加うるの状あり。・・・白人と有色人との競争が、今後一層激烈になり、ついに衝突のやむをえざるに至ること、もとよりこれなきを期すべからず。(第一次世界大戦が終了したあとにはヨーロッパの)各国が再び東洋の利権に注目するの日は、・・・白人はみな相愛して、われわれ『有色人』の敵となるの時たるやも知るべからざるなり」。「公爵山県有朋伝」下巻徳富蘇峰著原書房復刻923p944p

 

「歴史を偽造する韓国 韓国併合と搾取された日本」中川八洋著徳間書店

 著者の「朝鮮併合に大反対」だけが井蛙史観(執筆2002年当時)で、唯一の難点だが、他は白眉。理系の整合する論理(全資料対比の労作)は、戦後の、丸暗記文系非整合歴史騙り学(好いとこ盗りつまみ食い点の羅列、善悪物語)を駆逐し、正統歴史学(善悪ではなく、事実か否かの検証)の復活胎動をこの本に関しては予感させ、圧巻である。

 先人の、宣教師のごとき苦闘(519年間の李朝差別で野良犬化した人心の浄化)が、如実に読み取れるので、必読を、お勧めする。

 南下中の露西亜や清国の侵略に対して、欠くべからざる戦国時代の資源無き小国日本の砦として、韓半島は絶対に必要な、肝心要の地であった。理由もなく厖大な持ち出しなどしないのが人間である。厖大な持ち出し(赤字)は防衛費用であったと見るべきで、日韓戦後条約の法外な援助も、ソ中凶産に対しての、凶産の砦化のためである。ところがなんと、砂の人心唯物韓国は、法外な援助で慢心し、李朝519年の人心に戻ったのである(野良犬化)。

 ソ連凶産が消えた現在、中朝と同様の犯日教育で敵国化した現在の韓国は、もはや「砦」では無い!罪日も「完全な敵」!韓国や罪日への友好も協力も、敵国化慢心増長の餌に過ぎないので、厳禁。今や「捏造国家中朝韓」は、「世界の癌」に増殖した。環(癌)包囲網に予算を費やし、立派な先人同様に「世界の癌撲滅」に、環包囲網(米豪亜露)と共に励むのが、子孫の責務。

共産主義を検証不足の中川八洋

 天災多発日本列島に日本人が適者生存出来得た術が、八百万の神崇拝による、唯物ではなく唯心の「助け合い(究極の共産)」である。この古来からの日本精神究極の共産(助け合い)唯心と、共産騙りのカルト教凶産唯物を、一緒くたにした本が「近衛文麿の戦争責任(中川八洋著PHP)」。 

「大東亜戦争肯定論」著者林房雄について

林房雄の転向

 私はちょうど日本のナショナリズムの最盛期であり、同時に最初の崩壊の徴候を示しはじめた明治40年代に少年として育ち、社会主義思想の最初の開花期である大正末年に高等学校と大学の学生であった。私の思想経歴は例えば河上肇博士がたどったような激しい国家主義から「無我の愛」を経て国家主義に至るという自然なコースとは逆に、いきなり河上博士の「貧乏物語」と「社会問題研究」を読むことから始まった。つづいて、発生したばかりの日本共産党の学生部隊となり、「資本論」も完読せず、レーニンとトロッキーとスターリンのパンフレットを読むだけで、「実際運動」の中を右往左往した。日本の歴史については何も知らなかった。しかも、確信的な天皇制打倒論者であり、インタナショナリストのつもりでいた。

 この確信がゆらぎはじめたのは、入獄によって日本歴史と日本人の伝記を読む機会を与えられた時からである。これはおかしいぞと思いはじめ、母と妻にたのみ、手にはいるかぎりの歴史書を集めて差し入れてもらった。私の「転向」が始まった「転向」の原因を弾圧のみに帰するのは間違っている。刑務所というものは―私の知っているのは日本のそれだけだが―外の人が想像しているほど恐ろしいものでも陰湿な場所でもない。刑務所だけでは思想犯は転向しない

 出獄して、私は「青年」を書き、再入獄して、また歴史書を読み、「壮年」を書いた。共に30代の作品である。30代の半ばから戦後にかけて「西郷隆盛」12巻を書いた。これも日本歴史の勉強になった。

 私の思想遍歴または思想成熟の経過は別にくわしく書く時があろう。ここで言っておきたいことは「大東亜百年戦争」という仮説は、これらの私なりの勉強の中から生まれたもので、例えば当代野次馬精神の親玉大宅荘一氏が茶化したような「ひろげ得るかぎりひろげた大風呂敷」などというものではない。

左翼も右翼もない。真実だけが真実なのだ』林房雄の言葉。大宅荘一は扇動屋が稼業で、林房雄のような思索家ではない!

 

林房雄の思想(天皇制については同一思想なので、林房雄は転載している)

竹山道雄論文「天皇制について」の重要性

 「国民の心の中にある天皇のもともとの性格をもっとも簡単に言ってみれば、それは土俗的なものだと言えるのではないかと思う。

 この島国に住んでいる、一人種・一国語・一歴史・一習慣・・・という世界にめずらしい国民の中に、久しい年月の間におのずから中心となるものができた。すべての人々が信頼して、そのいうことをむりなくきく精神的な権威が出来た。教団の祭主がまつりごとを行って、全国民の上にいる世襲の神となった。・・・しかし、神道には最後の絶対者(人間)はいないのだから、このカミは西洋のゴッドとは全く別のものである。・・・天皇は絶対権力をふるった古代のインペラトール(皇帝)とかツェザールとかいうものともまったくちがったものである。神権説によって権威づけられた王者でもない。・・・

 平安期のはじめころまではいざ知らず、それ以後、天皇は政治的権力もキリスト教におけるような宗教的権威ももったことはなかった。むしろ、土俗的(エトノグラーフィッシュ)な、いわば神主の本家のようなものだった。京都の御所を見ると、幕府の二条城が爪の先まで武装しているのに反して、武備らしいものはなにもない。・・・

 明治になって国家体制を近代化しようとしたときに、そのころの近代国家がおおむね君主国だったから、このミカドを君主にして、これがはじめて軍服を着て、はじめて武装して千代田城に入った。・・・

 我々日本人は同質の国民で、ここにせっかく長い歴史によって成立した統一と結合の中心(天皇)があり、人々がむりなく自然の信頼をよせているのだから、これをよく生かすようにしたいものである。それが悪用されたこともあったが、しかし力のある者が悪用しようと思えばどのような体制もできるのであり、天皇制を美しいものにするか、醜いものにするかは、やっぱり国民の心構えによる」

林房雄の「東京裁判」観

 私は「東京裁判」そのもの(裁判)を認めない。いかなる意味でも認めない。あれは戦勝者の戦敗者に対する復讐であり、すなわち戦争そのものの継続であって、「正義」にも「人道」にも「文明」にも関係ない。明らかに、これらの輝かしい理念の公然たる蹂躙であって、戦争史にも前例のない捕虜虐殺であった(裁判ではなくリンチであった)。

 かかる恥じ知らずの「裁判」に対しては、私は全被告とともに、全日本国民とともに叫びたい。「我々は有罪である。天皇とともに有罪である!」と(団結して戦った自衛戦争なので、指導者が有罪なら我々国民も天皇も有罪で同罪である。責任転嫁は一切しない!)。

 自分は絶対に戦わなかった、ただの戦争被害者(日和見主義者)だと自信する人々は、もちろんこの抗議に加わらなくてもいい。あの戦争の後に生れた若い世代にも責任はない。だが、私は私なりに戦った天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。「太平洋戦争」だけではない。日清・日露・日支戦争をふくむ「東亜百年戦争」を、明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。「東京裁判」用語とは全く別の意味で(天皇と国民は自存自衛のため一丸と化し戦った。それを戦争責任と言うなら)「戦争責任」は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ。

※「天皇の戦争責任有りと林房雄は言っている」とブログに散見するが、つまみ食いである 

 林房雄の略年譜をみると東京帝大法学部政治学科卒ではあるが、大変な苦学生である。共産にかぶれ、臭い飯も食い、共産は凶産カルトと気づき、転向した。温室のパブロフ犬ではない。十二分に現実の波風にもまれている。温室育ちのままで世間知らずのパブロフ犬教授や識者ではない。ゆえに真実を見事に喝破できた。現代で最も近いのは、西部邁(すすむ1939年~)元東京大学教養学部教授だが、林房雄のような、核心論が無い!

真実への道造物主への道

 幼児より、表音記憶(丸暗記)が苦手表意記憶(思索)に長けていたアインシュタイン1879年~ 1955年)は、1900年チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー と不仲が理由で、大学の助手になれず、保険の外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ていた。二年後の1902年、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職し、特殊相対性理論(1905年)と一般相対性理論(1907)に辿り着いている。アインシュタインがもし「不仲でなく」、大学に残っていたならば、既存知識に洗脳されてしまい、ゼロから思索(なぜ?どうして?)とは成らず、後の特殊相対性理論等は生まれなかったであろう!

 ちなみに、アインシュタインの「神は賽を振らない」は「造物主の造物には法則がある」で、「神は賽を振る(偶然)」現象は、「法則が未発見」ということである。

 林房雄は既存知識を一旦リセットし、ゼロから思索(なぜ?どうして?)を開始している。新発見は、既存知識を一旦リセットし、ゼロから思索(なぜ?どうして?)が母なのだ!日本芸能や文化(能・庭師・津軽三味線等)の多くは、河原者(当時の浮世から外れた者・当時の既存知識を一旦リセットした者)から生まれている。歴史も、賽は振らない!真実史観

 

薄氷の日本九九年戦争

 1861年2月3日~7月25日まで6ヶ月間日本の対馬を占領したロシア艦隊。当時ロシアの南下政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣して、ロシア軍を対馬から排除。「資源無き小国日本の後手は必滅!先手以外に必勝の道無し」を、思い知った。

 資源無き小国日本の生きる術は、自由経済自由競争。最適者生存の道は、これ以外は皆無。凶産主義食民治主義のブロック経済(独占貿易)破壊に、打って出た。

 人類最後の砦日本(台湾、満州、南洋諸島、汪兆銘南京政府、朝鮮)が幕を開け、米軍は硫黄島で日本占領の旗を立て、道半ばで敗れ、身体を筆にし血と汗と涙でえがいた日本自立自存戦争の悲願(有色人の悲願でもある)は、ついえたかにみえたが、戦いザマに共振した同胞(有色人や虐げられた小国白人)が継承し、占領の旗を破壊し、1960年植民地独立付与宣言の旗、「互恵と平等と自由貿易(新秩序)」を世界に掲げ、開闢以来の戦国時代は幕を閉じ、新秩序の時代となった。

 資源無き小国日本が、はじめて占領されてから99年後である。最後の最後にたった一カ国で立ち向かい克ち得た、人類平和の第一歩である。

 今年は、はじめて占領されてから151年だが、1960年以後から2012年の今年まで52年間、戦勝国(食民治主義凶産主義)のWGIP、追随したロシア、偽中国凶産、癌半島、罪日と、国内のスパイ(東大教授、NHK、朝日毎日等)が、捏造の歴史を撒き散らし続け、国民は洗脳され続けている。

 

 戦国の世の力なき小国は「恭順」が適者生存の唯一の術。戦いもせず恭順(自立不能朝鮮を自覚し賛同)しておきながら、戦後、手のひらを返しての被征服悲惨論など、単なる“泣き売”で、“是々非々”知らずの暴論。醜い正体を世界中にさらけ出している。こんな民族は癌半島と凶産中国のみで、世界のどこにもこんな愚論を吐く被征服国などいない。みな、禍福を併せ呑み自力で独立した。癌半島は米軍中京軍ソ連軍が後ろ盾、凶産中国はソ連軍が後ろ盾の紐付き独立。張作霖爆殺も柳条湖事件も盧溝橋事件も先に殺さなければ殺される戦争(先手必勝以外の術無き小国日本)の、一手段にしかすぎない。どちらが先に仕掛けたか等の善悪論は無用で、敵の謀略といかに戦ったかを論ずるだけで事足りる。戦国時代の先手が悪論など、負け惜しみの難癖、敗者の愚論である。先に攻めなければ攻められる戦国時代に、攻めてこないという保証など、どこにもない! 

 

 1961年ロシア軍の対馬占領から始まった文明先取国(白人)対文明後進国(有色人)の開闢以来の弱肉強食戦争、日本九九年戦争は、1960年の植民地独立付与宣言で、ひとまず終了した。残るは、捏造国凶産中国と、癌半島のみである。

 

 戦没者の遺書には恨みつらみは皆無なのに、戦後の生還者(生き残った者)の恨みつらみのみが大言壮語され続けている。生還者の証言は、戦後の学習迎合証言は明白である。先人の意志は、戦後の生還者証言と異なることは、明々白々である。

 世界の弱肉強食の戦国時代は、植民地独立付与宣言で終わった。1861~1960年まで日本は非常時の戦時下で、1960年以後は平和時。当然思考は異なる。先人の思いの背後には、戦時下が絶えずつきまとっている。これを踏まえないNHKや東大教授等の論は、痴論。林房雄の「大東亜戦争肯定論」は、掛け値無い戦時下の赤裸々な先人の思いを語って、余りある。

 

京都大の山室信一教授「私は善人族」は自国の歴史を捏造してまで媚びまくる

2012年11月05日<インタビュー>京都大の山室信一教授「韓中日関係はガラス細工」

【ソウル聯合ニュース】「韓日関係など東アジア3カ国の関係はガラス細工のようです」――。

 京都大学の山室信一教授(近代法政思想史)は、韓中日3カ国の関係をそう表現した。

 ――韓中国交樹立20周年と日中国交樹立40周年を記念して2~3日、ソウル・延世大学で韓国政府系の東北アジア歴史財団が主催する国際学術会議が開催された。会議出席のため韓国を訪れた山室教授がインタビューに応じた。

 山室教授は同会議で「曼陀羅(まんだら)としての中国-日本から見た視点」をテーマに基調講演を行った。近代以降日本が中国と朝鮮を蔑視し、侵略対象として見るに至ったことについて「距離の苦悩が生んだ憧れと恐怖」という概念で分析した。

 尖閣諸島問題、独島問題は国民感情、「心の問題」を把握しなければ解決はできないと指摘した。

 山室教授は韓国を見つめる日本人の意識世界を説明しながら神功皇后の三韓征伐を例に挙げた。  「神功皇后が新羅・高句麗・百済の三韓を征伐したという話だが、事実ではなく神話に過ぎません。しかし、三韓征伐神話は日本が近代化する時期に注目を集め日本の韓日併合や植民地支配に影響を与えました。神功皇后は新羅に財宝が多かったため新羅を征伐したものの、征伐後は新羅の人たちを下層の者扱いしたという内容が出てきます。憧れ(財宝)と軽蔑(下層の者)という相反する側面を表しているわけです」と分析した。

 新羅に憧れを抱きつつも恐れ感じ、軽蔑することで恐怖心を治めたということだ。

 また、脱亜論を主張した福澤諭吉も中国や韓国を下に見たわけではなく、大国になることに恐怖心を抱いていたと指摘した。その恐怖感が逆に蔑視へとつながったと主張した。

 現代の日本でも同じ現象が見られるという。

 「中国が大国となり、韓国が日本の大企業を上回る成長を見せていることへの反発として、中国と韓国を蔑視する風潮が強まっています。領土問題をめぐる法的問題が解決しても、心の問題が解決しなければ意味がありません」と主張した。――

存在感アピールのみに必死の田中真紀子文科省大臣は、賞味期限切れの矛先違い!捏造の自由など無い!職責を果たせ!「京大給料泥棒犯日扇動亡国奴成敗!」が、仕事。

 

「言葉と文字界」の「言葉と文字」は余りにも軽すぎる!

 2013年評論家・屋山太郎中山なりあき西尾幹二等自称保守の、ネットの追試がかまびすしい。今後も追随者続出が予想されて喜ばしいことだが、したり顔が疑問である(もちろん加藤陽子の子供洗脳等々や田原総一郎の「勉強したら解った」よりはましだが)。真の保守なら、追試発表冒頭で、己の不勉強や不徳をまず先人に、真摯に謝罪するのが真の保守職責者としての、道であろう!

 これまでの彼等(自称保守の櫻井よしこ等)の言や文は、過程(線)の無い点(結果)のみの反論なので、著しく説得力に欠け、ただの暴論で68年間が過ぎ、支持したのは一部の拝金家(自称右翼で金儲け)のみであった。犯日凶産に対してのただの対極論(保守扇動の対極で金儲けが目的)なので、彼等は知識を一端リセットし、ゼロからの検証(学究)をしなかったのである。

 現在は、手弁当ネチズン汗と涙の実事求是(ゼロから検証)がネットに溢れんばかりである。この結晶が自称保守の未検証部分過程(線)を、完全におぎなっているから、自称保守も現在は通用しているのであって、決して彼らの力ではない。もっと早くに職責者がゼロから検証しておれば、国民はとうに覚醒していた。職責者がネットの追試で「どや顔」では、役立たずで、ニセ保守との自白である!素直に謝罪しなさい!

 これまで疑問山積であった真の愛国者は、ネットの普及で先人の冤罪解明に立ち上がり、職責者隠蔽資料を手弁当で開示し、凶産中朝や韓、華僑華人(国外居住支那人)僑胞(国外居住朝鮮人)の正体を炙り出した。

 一方、これまで捏造三昧の凶産中朝韓や華僑華人(国外居住支那人)僑胞(国外居住朝鮮人)は、暴かれればこれまでの捏造が命取りとなり我が身の破滅。中朝韓や海外の支那人朝鮮人以外のネットの実事求是に抗しきれず、敵対(犯日の中韓慰安婦や旭日旗難癖等々、対米対日敵視の北朝鮮)強化で、自国民人心懐柔に懸命になっている。結果、犯日反米敵対行動が露骨になりネチズン以外の日本国民も、あまねく輩の正体を知ることとなった

 世界の真実史観ネチズンが、実事求是で燻り出したから居たたまれずに、中朝韓や支那人朝鮮人の捏造三昧集団が正体を露骨に現し、無知の者も覚醒したのであって、無知国民の覚醒は、「自称保守の言や文」では、断じて無い

大局見地
 当時は、白人(南下露西亜と東進西進する欧米列強)対有色人の弱肉強食の戦国時代で、独立国はタイ(英仏の緩衝国)と日本のみ! 
 大国相手の資源無き小国日本の、援軍の当て無き籠城(内地戦)は自殺なので、打って出て(外地戦)、朝鮮や清国との「極東有色人連合」を画策。清国は、「有色対白人」の大局が見えず「日清戦争」となり、消滅!
 経済破綻の朝鮮は独立を維持出来得ず、「一進会」等大多数が賛同、挙国一致で日本の統治下に入り、有色人自立自存を共にめざした。
 孫文・汪兆銘・蒋介石等も賛同し支那統一を図ったが、孫文死後分裂し、「白人連合(凶産ソ連と植民地宗主国)」に蒋介石が籠絡され、脱落、「白人」側に寝返った。
 汪兆銘(南京政府)は孫文の遺志を継ぎ、「極東共栄圏」から「大東亜共栄圏」に拡大した日本と共に、めざした。
 あらん限りに戦ったが、矢尽き刀折れ、日本(有色人極東連合)は、敗れた。
 がしかし、日本のあらん限りの戦いに覚醒した有色人同胞や白人小国は決然と立ち、皆独立し、1960年植民地独立付与宣言を成し、開闢以来の悪弊、植民地主義を破壊した!
 対馬の露西亜占領以来99年後に、日本の一方の戦争目的は、こうして完遂された。残るは、凶産のみである!
 毛沢東と蒋介石は、強者「白色人」に加勢し、弱者の有色人を迫害した、史上唯一の有色人である!

 

戦後68年間も歴史家不在の日本!国民が総じて歴史家に成らねば国滅ぶ!

 戦後の復興に汗と涙で懸命な国民が託した歴史家は、WGIPを記憶したHDDのみで、68年間も日本の役立たずのみならず、逆に、NHK、朝日新聞、毎日新聞等と共に中朝韓の捏造反日宣伝を扇動し、戦争起因を拡大中である!丸暗記のみの更新皆無のHDDなので、自浄回路など当然無い!

 このままでは先人九九年間の護国が潰え、国が滅ぶ!覚醒した我々国民一人一人が歴史家と成り、歴史家という職責を托せる子孫を新規に、育成しなければならない!

 

 神(造物主)は賽を振らない!

 歴史もまた、賽を振らない!

 

亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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