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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1軍命は捏造米軍急迫で集団自決トラウマ尼港済南通州等で潔く自裁が真相



 右翼左翼(捏造団)保守革新(正体は革悪)、自虐(善悪)史観呼称では、マスコミ鵜呑みのオウム返し表音記憶で、咀嚼が足りず、余りにも軽すぎる。軽薄思考との自白である!多くの愛国騙りが、モドキと白状している。思考には、禍福全面思考と、禍福つまみ食い善悪思考。歴史には、真実捏造(凶産・贋半島・罪日)が、あるのみ!

 応戦せずの降伏は、有色人は劣等との自認で、子孫や有色同胞への禍根打刻。有色人最後の砦の唯心日本、屈服は命に換えても出来なかった。

 軍命令は、大江健三郎、家永三郎、岩波書店等凶産の、明白な捏造である。米軍が火炎放射等で急追したため、累積したこれまでの唯物凶産老若男女虐殺のトラウマと、古からの身の処し方、唯心日本があいまって、米軍になぶり殺しされるのなら、潔く自ら死をと、集団自決となった。トラウマのごとく敵になぶり殺しされるのなら、我が子も一思いに親の手でと、愛するゆえに我が子を手にかけたのだ。当時子供の、沖縄の生き残り証言(集団自決)は、後の学習や、自決加担の子供の負い目がバイアスとなっているので、鵜呑みで信用は出来得ない。集団自決者は、軍命で死ぬお馬鹿なロボットではない!古式に従った先人への限りない冒涜である!

 米軍急追無ければ、トラウマも起こらず、集団自決の悲劇も起こらなかった。集団自決は米軍急追が起因!戦陣訓や軍命に非ずは、明白である!

集団自決悲劇の起因トラウマ虐殺の歴史

1、中国史書中国兵虐殺の歴史(肉食文化圏人殺しの源流で、家畜屠殺と同じ。属国朝鮮も当然踏襲している)

南宋の荘季祐による「鶏肋編」という故事逸聞集

 1126年、金兵が中国に侵入してから6、7年間、山東、京西、淮南等の諸路は荊榛千里にわたり、米が入手できないため、盗賊、官兵、居民は互いに食い合った。人肉の価は犬や豚より安く、曝して乾肉にした。

斎藤遼太郎「北京私書箱1号」

 中国伝統の虐殺方法については、虐殺の記録「蜀碧」や「揚州十日記」などが克明に伝えるところであり、近代では中国共産党の反対者虐殺方法たる「六十大刑罰」として継承されてきている。

 「耳を削ぐ」、「牽黄牛」(鼻に穴をあけ縄を通して引き回す)、「開胸堂」(生きたまま胸を割き内臓を出す)、「仮剥皮」(生きたまま顔の皮を剥ぐ)等があり、これらのうち「控目割耳」「牽黄牛」「開胸堂」「仮剥皮」は、1928年(昭和3)年5月済南事件、1937(昭和12)年7月29日通州事件で、日本人居留民に対して中国兵が実際に加害。

1742年「蜀碧」副題「集載張忠入蜀始末」

 「人を殺す方法には色々な名前があった。『匏奴』というのは、手足を切り落とす方法である。『辺地』と言うのは、背筋で真二つに切り離す方法である。『雪鰍』というのは、空中で背中を突き刺す方法である。『貫戯』というのは、子供たちを火の城で囲んで炙り殺す方法である。『開胸堂』(腹を割き腸を引き出し、その長さを競争する)。その他に、歩行になくてはならぬ筋(アキレス腱)を抜いたり、女の足を斬ったり、人の肝をひき砕いて馬の飼葉にしたり、人の皮を剥ぎ取って目抜き通りに張り出したりした」

人間を食う風習調理法

 年を取って痩せた男子を「饒把火(じょうはか)」(タイマツよりはまし)、若い婦人を「下羹羊(かこうよう)」(スープ用の羊)、小児を「和骨爛(かんこつらん)」(骨ごと煮える)と呼び、また人肉を「両足羊」(二本足の羊)と総称。

2、トラウマ虐殺(肉食文化圏中国や韓半島唯物凶産の人殺しは、家畜屠殺と同じ)

尼港(にこう)事件

1920(大正9)年2月尼港(にこう)事件。凶産に無知なアメリカの派遣軍が、突如撤兵(日本政府への通告なし)したために起きた事件。

1920年初頭。尼港(ニコライエフスク)事件とは樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する市邑で、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊計7百数十名が在住していた。連合軍(米派遣軍)が突如撤兵するや、露西亜人、朝鮮人、中国人から成る千名の共産パルチザンが氷雪に閉ざされた同市を包囲襲撃、守備隊との間に偽装講和を結んで同市を支配した。

1920(大正9)年3月12日(露西亜革命3周年記念日)彼らは仮借ない革命裁判と処刑を開始し、この記念日に日本軍と交戦状態に入り、守備隊は大半が戦死、居留民ら140名が投獄された。

1920(大正9)年4月20日この時、事件を目撃した一人の海軍士官が、ウラジオストックに脱出し、共産パルチザンの蛮行を伝えている。「大阪毎日」抜粋

 「露国資産階級の根本的壊滅に着手し、所在資本階級者の家屋を包囲し、資産の全部を公然掠脱したる後、老幼男女をとわず家人ことごとくを家屋内に押し込め、これに放火し、虐殺。

 親日的知識階級に属する官公吏と私人とを問わず、容赦なく虐殺、奪掠、強姦など不法の限りを尽くした。

 獰猛な毒牙は同胞日本人にも及んだ。

 公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞婦人を極端に辱めて獣慾を満たし、なほ飽く処を知らず指を切り、腕を放ち、足を断ち、かくて五体をバラバラに斬りきざんだ。

 馬匹二頭を並べ、同胞男女のかまひなく両足を彼此の馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞍を与うるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなりる。

 帝国居留民一同悲憤の涙を絞り、死なばもろとも、散らば桜と、一同老幼相携え相助け、やうやく身を以って領事館に避難し。その後市街における同胞日本人に属する全財産の掠奪は勿論、放火、破壊その他暴状至らざるなし。しかりといへども、飽くまで彼等と衝突を避くる事に注意し、堅忍自重す。しかるに彼等過激派はますます増長し、つひに領事館に向かって砲撃を加え、我が領事館は砲火のため火災を起こすにいたり、もはや堪忍袋の緒も切れ万事休す。

 これまでなりと自覚するや、居留民の男女を問わず一斉に決起して、自衛上敵対行動をとるに決し、男子という男子は総員武器を取って頑強に防戦し、また婦人も危険を厭わず、敵の毒手に斃れんよりは潔く軍人の死出の途づれ申さんと、一同双手をあげて決死賛同し、にはかに活動を開始す。

 全員いかに努力奮戦するも、刻一刻味方の減少するのみ、ついに繊弱なる同胞婦人に至るまで、戦死せる犠牲者の小銃、短銃を手にし、弾はかく込むるものぞ、銃はいかに撃つものなるぞと教わりつつも戦線に加わり、無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、ことごとく壮烈なる戦死を遂ぐ。かくてもはや人尽き、弾丸尽き、力尽き、人力のいかにすべきやうもなくなほ生存の健気なる婦人または身動きのできる戦傷者は、なんすれぞ敵の侮辱をう来るものかはと、共に共に猛火の裡に身を躍らし、壮烈なる最期を遂げたり」

 凶産パルチザンは日本軍到着に先だって5月下旬、収監中の日本人を悉く惨殺、更に尼港市民1万2千人中、凶産主義に同調せぬ者約6千人の老若男女を虐殺、市街に火を放ってこれを焼き払ったのち遁走した。石田副領事夫妻以下居留民384名(内女子184名)軍人351名、計7百数十名の日本人同胞が凶産パルチザンによって陵辱暴行された上、虐殺されたのであった。

1920(大正9)年6月13日事件から二週間後の従軍記者の記事。「時事新報」

 監獄は市の北部にあり。中は八室に別れ、最も落書きの多かりしは二号室にて、「大正9年5月24日午後12時を忘るな」「曙や物思う身にほととぎす」「読む人のありてうれしき花の朝」「昨日は人と思えども、今日は我が身にかかる」「武士道」等の文字、白ペンキ塗りの壁に鉛筆を以って書かれあり。これ24日夜、140名は監獄より曳き出されて、黒竜河畔に連れ行かれ、ことごとく刺し殺して河に投じられたるなり。

 津野司令官は涙を浮かべ「我が同胞は一名も残らずことごとく死にました。同情に堪えません。ただその中一人として卑劣な行いもなく、最後まで潔かったということだけは嬉しいです」と。

 尼港事件は「元寇以来の国辱」として国民は激怒。事件解決まで北樺太を保障占領。

南京虐殺事件(192724国共合作軍が、南京占領時日英米の公館を襲撃した事件)  

南京虐殺証言

 「南京虐殺の真相を広くアメリカ人に知ってもらわんがため、外国人の生命財産に危害を加えられた3月24日に南京に在住していた我々アメリカ人は、署名のうえ、ここに声明文を記す。

 この残虐行為は、上官の承認の下、制服着用の兵士によって行われた。南京在住の我々アメリカ人全員がこの目で見たのであるから断言できる。彼らは、外国人の私邸、領事館、学校、病院、会社の事務所を略奪しただけではない。家にも学校にも火を放った。外国人と見ると老若男女構わず撃った。誤射ではない。殺意を持って撃った人殺しである。ある若いアメリカ人娘などは二発も銃弾を打ち込まれ重傷を負った。アメリカ女と見ると強姦する。その他、外国人女に、言葉にできないほどの侮辱行為を加えた。こうした事件の多くをこの目で目撃したのである。その他さまざまなことが、疑いの全くない事実である。北伐軍の兵士や中国人の友達の証言によれば、南京入城に際して命令ではないにしろ、「略奪、外国人殺害許可証」の類のものを持って南京に入城したようである。外国人の家に押し入る。金庫を開けさせる。着ているものまで剥ぎ取る。女は犯す。すべて計画通りだったことは部隊の行動からして明らかである。我々の中には、「隠れても見つけ出して殺してやる」と言われた者もいる。中国兵だけでなく、匿ってくれた中国人までもがそう言ったのである。ところが、この虐殺がピタリと止んだ。英米の軍艦の艦砲射撃が始まったからである。とたんにあちこちでラッパの合図があり、組織的破壊行動が止んだ。これで兵士の暴虐、破壊活動へ上が命令した組織的行動だったことが証明された。以上は嘘偽りのない事実なのである。

 この南京虐殺を画策したのは誰か。外国人と中国人双方の意見であるが、首謀者はロシア共産党指導者の指導を受けた国民党政府内に潜む共産主義活動家である。これらは外国人だけでなく、中国人にとっても敵である。根絶やしにしないと中国の統一どころではない。我々は中国の国家目標に心底共鳴してきたし、これまで危険に晒されてはきたが、今後とも気持ちは変わらない。故に、現在、国民党政府の政策に強い影響を与える陣営を抑えねば、中国のみならず世界の行く末は安心できないものがある。署名者(17名)」「暗黒大陸 中国の真実」 ラルフ・タウンゼント著 芙蓉書房出版より

済南事件

1928年5月3日済南事件。日本人居留民虐殺。

 南京駐在武官・佐々木利一中佐「ある軍人の自伝」「予は病院において偶然その死体の懸案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様なもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に俸が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となってゐた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。我が軍の激昂はその極に達した」

 5月9日田中外相宛西田領事報告「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割り木を挿し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突き傷あり。全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの二」

通州事件

1937年7月29日通州事件(中国人保安隊の日本人虐殺事件)通州において、婦女子を含む日本人居留民約2百名が目をくりぬかれるなど、残酷な強姦・虐殺事件があった。

30日午後救援に当たった天津歩兵隊長萱島高証言

 「旭軒(飲食店)40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居利、その中4、5名は陰部を銃剣で突き刺されていた。商館や役所に残された日本人男子の屍体はほとんど全てが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」

通州救援の第二連帯歩兵隊長代理桂鎮雄証言

 「近水楼(旅館)入り口で女将らしき人の屍体を見た。足を入り口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場も無いほど散乱し、掠奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、あるいはうつ伏しあるいは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されていた。廊下座敷に女の屍体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の女の屍体があった。その裏の日本人の家では、親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」

 近水楼を襲撃したのは黒服の学生団と保安隊であった。彼等は女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑した。当日近水楼に宿泊した同盟通信特派員安藤利男は、処刑場から脱走し、手記「続対支回顧録」「通州の日本人大虐殺(文藝春秋昭和38年8月号)」を書いた。「文藝春秋に見る昭和史」第一巻(昭和63年1月)にも転載。 2につづく

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真実史観百人斬り・大江裁判で司法界異常自白歴史に汚点を刻むのか司法よ!

2百人斬り・大江裁判で司法界異常自白歴史に汚点を刻むのか司法よ!

救援隊支那駐屯歩兵第二連隊小隊長桜井文雄証言

 「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており。一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないのか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦らがそこここの埃箱の中や壕の中などから次々這い出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では、7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒を差し込んである者、口中に土砂を詰めてあるもの、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」。在留邦人380名中惨殺された者260名。

 凶産カルトはこのように、非戦闘員の老若男女までを、虫けらのごとくにことごとく虐殺するのが大きな特徴である。スターリン毛沢東金日成ポルポト、李朝差別の李承晩は、ヒトラーナチスとまったくの同類である。日本軍とは大きく異なる。犯日はここを隠蔽し、日本軍も同様であるかのように針小棒大に捏造し扇動する。中国韓国の記念館が、証拠である。展示虐殺手口は、中国朝鮮の伝統手法で、日本軍に、こんなものは無い!

ルーズベルトの人種差別と日本人殲滅を企てていた陰謀は右記1NHKスパイ白状アッツ島 米軍急迫火炎放射の焼き殺し作戦は、サイパン硫黄島沖縄戦映像でおなじみである。

以上等でトラウマは累積され、そして唯心日本の、古来神道。

「神国日本」(1904年初版)ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著柏倉俊三訳注東洋文庫平凡社

14忠義の宗教

 平田篤胤は、「死者はことごとく神になる」と書いている。すなわち善人は善神になり、悪人は悪神になった。

 日本の祖先の祭祀は、いまだそこには祖先崇拝全般に共通する特徴を多分に持っている。そこには三つの信仰が見られるが、これらは、あらゆる気候風土に存続している祖先崇拝のすべての形式の土台となっているものなのである。

、死者は、この世に残っている。その墓どころや、またそのもとの住居のあたりに屯(たむろ)して、目には見えないけれども、現在生きているその子孫といっしょになっている。(注・祖先神

、死者は、超自然の力を持つという意味では、ことごとく神となる。しかしその存命中にきわだっていた性質は、やはりそのままそれを持っている。(注・存命中の生き様が、祖先神の重大要素

、死者の幸福は、いきているものの捧げる敬神的奉仕の如何にかかっている」。

 先に殺さなければ殺される死活の戦国時代の死生観と互恵平和の死生観とは異なる。しかも、死活の戦国時代の結果、互恵平和が成し遂げられたのだ。当時の尺度で捉えるのが常識である。童謡詩人金子みすずや、八田與一の妻外代樹の自裁は、「この世で叶わぬものならあの世で」との、明らかに祖先神として見守るための自裁である。 

 トラウマのように敵の手にかかり残虐損壊生き殺しの死では、なんともぶざまな祖先神となってしまう。先人は、潔い立派な祖先神を願い、「敵になぶりころしで殺されるよりは潔く自決」をと、沖縄のみならず皆決断していた。そこへ米軍は急迫した。沖縄蜂起沖縄県民斯ク戦ヘリ

 米軍が徹底的に追い詰め、万事休す。軍命令有無など軍の保護無き状況では、一切無関係。古今東西市民の死生観で皆行動している。ワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人街)蜂起後、収容所で虐殺されるよりは自決をと、残った指揮官と100人以上のユダヤ人(老人女子供すべて)は、集団自決した(上ポーランドと日本不屈復興世界遺産子孫へ)。米軍に尼港済南通州等のように老若男女を問わず、すべて嬲り殺し(米軍は原爆空爆無差別殺戮)されるくらいなら、事ここに至ってはもはや最後の手段をと、古式に従い、皆潔く自決した。米軍急迫で古式とトラウマが相俟って、悲劇となったのだ。サイパン等も同様である。このことは誰の目にも明白であろう。自決の起因は侵略し急追した米軍で、日本軍ではない!

 真実はこうなのだが、ところが、凶産大江健三郎や家永三郎や凶産出版社岩波書店等は、真犯人米軍を隠蔽し、敗残の日本護国兵をさらに鞭打ち捏造、濡れ衣を着せ犯人に仕立て、そして、軍命令で死んだ考える意志無きお馬鹿さん(ロボット)と、集団自決者を嘲り笑った。唯物凶産の手口は、いつの世でも醜く汚い。米軍が、尼港済南通州等のトラウマを引き起こすほどに追い詰めたから自決したので、急追でなければ、トラウマとはならず、自決など無い。誰の目にも明々白々な捏造で、冤罪である。

 真犯人すり替え捏造で、名指しされたので、名誉毀損で訴えた、当然である。そして米軍が徹底的に追い詰めての、火炎放射で焼き殺しトラウマ作戦は、カラー映像でおなじみである。軍命で自決する市民は、古今東西居ない、これは常識。あまりにも明白なので、即決着と皆考えていた。ところが裁判は、米軍急追とトラウマと古式の証明ではなく、軍命令有無の論点すり替え裁判となった。結果、2011年「軍命令の有無証明は不可能なので、捏造とは断定出来得ず、疑わしきは罰せず」と退けられ、日本司法界の異常を露呈した。なんと被告の大江と岩波書店は、この「亜黒判決」を勝訴と小躍り、教科書改訂を要求した。お馬鹿の上塗りで、整合常識回路欠落との、自白である。

 百人斬り裁判は、記者の戦時下(無法下)の捏造(戦意高揚)を、戦後(法治下)も続行(毎日記者二人)し続け弁護しなかったため、護国兵二人は刑死し、さらに高じて本多勝一と朝日が捏造を拡大し、護国兵二人を貶めたことに対する名誉回復裁判である。誰の目にも捏造冤罪は明白なのに、これも退けられ、日本司法界の異常を露呈した(1百人斬り競争)。 この二つの裁判は、日本司法界史上の汚点である。DNA鑑定で遡及し、真実追及の現代、争点を「無法下の捏造を、法治下なのに更に拡大捏造し、続行した罪」と「集団自決真犯人は急追米軍とトラウマと古式」にしぼり、再審が、日本司法界正常の証である。

 東大卒等やキャリア官僚や司法官と一般人の違いは丸暗記したか、しないかである。脳は無限ではなく容量があるので、記憶のみに容量を使い切った東大卒やキャリアや司法官等は、覚えた知識を使う能力が無い糞味噌混濁記憶、ただのハードディスク(表音記憶)と化し、一般常識の思考や整合回路は皆無となる。66年間も職責放棄しての、無検証が証拠。職責者は物まねのただの記憶屋で、丸暗記も中古千円の電子辞書以下。丸暗記又鵜呑みは、捏造の連鎖で愚考。

 一方、空き容量大の一般人は、思考や整合能力は正常なので、知識ゼロから出発、その都度電子辞書やネットより得て、現実界の常識と比較し判断、真実を突き止めた。ご先祖から授かった頭脳と思考が、66年間もの捏造を破壊したのだ。必要なのは丸暗記力ではなく、思索する頭脳

大江健三郎のノーベル賞受賞理由は、文学ではなく、類まれな「犯日」!項目が無いので、文学賞にしただけのことである

 表音記号を金魚の糞のごとくにつないだのが大江だ。大江が東大でなかったら、表音文字羅列金魚の糞そのものの原稿は、金魚の糞の汚物として廃棄だった。東大なので、わからないものをありがたがる言葉と文字界凶産のみが祀り上げ、煽っただけに過ぎない。国民は正直で、読まない。高じて凶産犯日朝日等がノーベル文学賞に推薦。折も折、戦勝国の捏造がマハティール首相の演説で暴かれた。日本が必死に推薦する、「類まれな犯日」大江に、戦勝国捏造隠蔽団が渡りに船と飛びついたのは、当然なのである。史上唯一のノーベル文学贋賞である(もし日本なかりせば)。

 ノーベル受賞者なので、真っ黒大江を、「疑わしきは罰せず」と、「亜黒判決」で逃げた司法。裸の王様大江は、思考や整合回路皆無のただのハードディスク。何様と思っているのかすぐふんぞり返り、お馬鹿を自白の大江。裁判官や支援者やNHK等の無思考鵜呑み集団。これまた同類の、ハードディスク崇めを扇動する言葉と文字界は、異常だ。言葉と文字界は糞味噌混交表音記憶で腐り、整合回路皆無を、異常判決で自白した。「『さようなら原発』一千万人署名 市民の会」「脱原発」呼びかけ人・「賛同人代表」宇都宮健児よ、日弁連会長なら、司法界異常を正すのが職責。まず、業である職責を果たせ!偽善者は無責任なので、責任の無い扇動をする。いつもだまされるのは善良な老人女こどもの国民なのだ。「脱原発」は禍福を天秤にかけ、現実界唯心国民が判断し決断する。「福」は隠蔽し、好いとこ(禍)盗りして扇動洗脳する、言葉と文字界売名拝金無責任捏造団、唯物「市民」の、「脱原発」など不要

 業とすれば同時に職責が生じ、業の職責を全うする。世の中は、この職責を信用することで成立している。職責者の捏造は不信となり混乱を招くので、「職責違反」として処罰し捏造を淘汰。人類は実事求是のこの真実で、進歩してきた。言葉と文字界業者(報道、出版、書籍、講演、教授、教師、歴史家、政治家等)にも、当然職責が有り、職責者。ところが輩は「表現の自由」の土台の「職責」は隠蔽、「言論出版の自由」と称し、捏造の自由もあるかのごとくに、「捏造三昧66年」明け暮れた。職責者に「捏造の自由無し」は前記の通り。職責を全うしての自由で、捏造有りの自由などない。職責者の捏造は「表現の自由」ではなく、明白な「職責違反」で処罰対象!処罰放置の結果、捏造渦巻く、こんな惨めな日本になった。現実界同様に、言葉と文字界も、「職責違反処罰が妥当。

 老若男女の集団自決は、「軍にだまされ」ての軍命や戦陣訓が原因と、戦後の言葉と文字界は迎合した。あなたは軍命令や戦陣訓で死ねますか?先人はだまされるような馬鹿ですか?日清も日露もだまされたのですか?軍命で死ぬ馬鹿など古今東西どこにもいない。現実界の常識皆無の空論である。先人を、軍命で死ぬ自我無きロボットと揶揄したお馬鹿裁判官と、的絞れずの原告司法官、表音文字羅列のお馬鹿羅列屋大江、家永、岩波!そろいもそろって覚えた知識を使う能力が無い。大の大人が赤子のように簡単にWGIP洗脳され、なんと大馬鹿な輩か。検証力が無いから、糞味噌なんでも丸暗記して信じてしまう。戦後の丸暗記教育成れの果てである。輩は是正能力も皆無。66年間も是正無しが証拠である。輩は無能か、スパイである!戦後66年現実界は「公」の真実追及で日本隆盛を成し、仮想界は、「私」の我欲追求で、日本を混乱の極みに蹴落とした。戦後の我欲社会は、石原都知事等のWGIP鵜呑み先人罵倒が起因。石原都知事の我欲連呼は、実に滑稽。整合無き思考は鳩山兄弟や菅等と同類で、偏向な憂国だがこれが唯一の救い。都民は消去法で投票した。必要なのは、丸暗記力ではなく、思索する頭脳だ!大容量HDDではなく、HDDを使いこなす血の通った人間の思索だ

 言葉と文字界の心ある者(石原都知事等)は、偽中国や贋半島や罪日と同類(捏造して日本に責任転嫁)の、醜い責任転嫁(日教組等に)などはせず、潔く即刻総懺悔し、靖国にて額ずき、先人に詫び入ることがけじめで、始まりだ!かく言う真実史観も、06年、愚かな子孫としてまず詫び入り、そして解析を始めた。異常なのは、国無き故郷無き大和無き唯心無き「公」無き、自己のみ有り(唯物私欲)我欲の、言葉と文字界の犯日(大和の破壊者)。即刻、牢獄や無人島へ追放し、そして、生徒学生には、実技表意(禍福現実界)教育。これで、更に強力な、大和日本が復活する!

 実に凄まじい時代を、祖父母や父母は生き、先憂後楽で「決断」し、「歴史の急曲線を描き」、新秩序「互恵の平和」と「自由貿易」を築き、同時に、我々子孫を産み、そして育んだ!感謝以外の言葉があろうか! 完

 

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真実史観1空中蘭園・温室・植え込み材料無し無し空・皿栽培胡蝶蘭バンダ

 以下の写真皆、右クリックで背景に設定可能です。blog_import_52747fe8035a4.jpg

空中蘭園  温室無し植え込み材料無し 無し無し栽培 空栽培と皿栽

胡蝶蘭(Phalaenopsis)は一稔植物か多年生植物か?

祖母がよくいっていた。「間違ったことをたくさん知っているより、知らないほうがいいんだよ」。「アメリカの鏡・日本」ヘレン・ミアーズ

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冷暖房湿度制御不用で長命ラン栽培 洋蘭の栽培は、過保護ともいえるほどの好環境の冷暖房湿度制御完備の温室で促成栽培されています。過保護の温室から出された多年草の洋蘭が、ラン展等で販売される。一気に不適環境という奈落の底に突き落とされたランは、たちまち枯死してしまう。蘭展はいわば、枯死宣告展とも言える。現在のNHK等の栽培方法は、冷暖房湿度制御完備の温室とセットでなければ成立しない、栽培方法です。NHKはここを隠蔽し、あたかも簡単であるかのように、歴史同様、得意の良いとこつまみ食い放送である。与えられた寿命の多年草ランを、一年草として枯死させず、多年草ランとして栽培する、空栽培皿栽培の世界への流布が、私の念願です。

 

 洋ラン・胡蝶蘭や蘭の、病気や害虫に強く生育の良い、栽培管理作業し易い、植え替え作業簡単な、最新の育て方、葉茎根目視確認 水遣り時短 肥料僅少 置き場所取らず。胡蝶蘭の育てかた、習うより慣れよう。寄せられました皆様のご意見により、見るだけでなく、栽培管理を体感する、HPとなりました。従来の基礎知識から脱却し原点に回帰、環境を再現した最新の栽培管理の育て方で、ヒントやポイントも異なる。HP見るだけの耳目表音知識ではなく、胡蝶蘭と共棲し栽培、表意管理する、胡蝶蘭等の最新栽培法です。やっと四季折々に体感出来るHPになりました。

 

 ただいま蘭・洋蘭「ファレノプシス・カトレア・デンファレ・オンシジウム・エリデス・ナゴ蘭・風蘭・ギンギャヌム、等々」と共棲中。鉢無し、水苔(植え込み材料)無し、温室無し、無い無い尽しの、病虫害に強い最新の胡蝶蘭の育てかた、着生蘭が長命蘭となるECO空中栽培、空中蘭園開園中。環境を再現した最新栽培管理皿栽培で、マイナス生育ではなくプラス生育で、長寿な長命蘭、霞に生育する天空の蘭を、育成しよう。

 

空中蘭園 蘭生の 皿栽培(Sara saibai)data 04,1,7.東京都練馬地区、現在の長命蘭最新栽培管理データ。蘭は平屋の室内、根も葉も生育中、居間、300鉢(単茎性9割)と共生越冬中、エアコン(air condtioner)加温で最低気温13度維持(厳冬期1月15日~2月15日夜だけ加温)、加湿せず給水だけ、給水時間20分、湿度40~50%の人体最適湿度、共棲して風邪ひかず。加温不要になりました。04.3.29.。屋外栽培管理04.05.11.から。屋内栽管理培04.10.20.。05.11.1。06.11.11..から。

天空の蘭

 人と蘭の生活温度帯が酷似するのに着目し(複茎性着生蘭の水苔無し、温室無しの栽培方法は既に確立していたが)、16年ほど前のこの着想より始まった私と胡蝶蘭との付き合いは、4年間は従来のあらゆる栽培法を試みたがマイナス生育のため、生殖成長し毎年開花はするが(開花するので株は生育しているものと勘違いして)三年程で全滅。胡蝶蘭の花言葉は、あなたを愛します、白い花は、純愛、なのに、愛の表現に贈られなかった理由が氷解した。これまでのあらゆる栽培法では全滅し,従来の入門書や育て方は温室必須の栽培方法であり、温室を持てない購入者側の栽培方法ではないことが、間違いの発見(失敗)判明した。結果、変化不可の温室栽培管理必須から脱却、育成の原点に回帰、胡蝶蘭の自生地を再現し、鉢無し、水苔(植え込み材料)無し、温室無しの、無い無い尽くしの病気や虫害に強い、環境の激変不可(従来の栽培管理)ではなく、環境の激変に対応した最新の皿栽培方法に変えて多年生植物となり、マイナス生育からプラス生育へ、病気や虫害に強く長寿となり、10年生も数が増え、蘭と共棲し合うことが出来るようになりました。換言すると、“温室使用は変化不可栽培管理が最大のポイントに成る”。花が終わって、リストラされた胡蝶蘭が、いつも身近にいる長命蘭となり、ペット蘭まで進化、複茎性着生蘭と共に長寿な胡蝶蘭、天空の蘭となりました。

間違いを失敗と認識すれば後退、間違いを発見と認識すれば進歩、人類は後者だと、「蘭」に教わった顛末である。

 挫折しかけたのですが、昨秋、残っていた大きな課題を解決しましたので、2004年、HPに載せました。これまでの苦労が嘘のようなこの最新の皿栽培方法は、簡単なので、愛玩蘭として気楽に付き合っています。温度と葉焼けに注意し、水が切れたら根を見て水やりすればいいのです。水やりは、葉や根が輝いて教えてくれます。自生地では自然に生えている蘭ですので、慣れれば他の稙物よりはるかに簡単で、誰でも栽培できます。失敗の連続だったバンダ(Vanda)が、栽培方法を変えて只今越冬中、今年越冬すれば問題なし。2004年は、空中蘭園開園元年です。16年かけてやっと我が家が、胡蝶蘭も共棲する、空中蘭園になりました。

 私が皿栽培中の蘭は、現在5割が、リストラされた蘭の、再生蘭です。複茎性蘭の再生は容易ですが、単茎性の胡蝶蘭だけは、観賞と輸送を目的に、花茎を固定し、根を固定するため、ミズゴケを固く詰め込んで植え込まれているので、根への障害が大きく、根が少ないと、単茎性であるがゆえに非常に難しい。現在、再生率9割であるが、出荷時が最良で、購入時は、弱っているため、病虫害に侵されたものがほとんどの最悪の状態の蘭ですので、病虫害の見極めが出来なくて、他の蘭に移り、全滅したこともありました。病虫害の見極めが出来ない方は手を出さないほうが無難です。でも、花落ちでリストラされた蘭が再生していく命の生きざまは、造られたドラマを見るよりはるかにおもしろく、また、癒され、どれだけ、励まされたことか、計り知れない。開花時の一部分の花だけでなく、華やかな花を創造する葉・茎・根の生育を、四季折々観賞しています。栽培方法が確立したので、品種が少ない、リストラされた蘭だけでなく、現在は苗からも育てています。もちろん、値は張るが、苗からの栽培の方が多品種で病虫害も無く、根が張りやすく病気もなくより長命蘭となり簡単です。

 

(注1)単茎性 一本の茎が上に伸びながら花を咲かす蘭。バンダ(Vanda)、レナンセラ(Renanthera)、胡蝶蘭(Phalaenopsis)、エリデス(Aerdes)、リンコステリス(Rhynchostylis)など。洋ラン最低気温10℃~15℃。皿栽培

(注2)複茎性 毎年茎が横から伸び、1年で成長し花を咲かす蘭。カトレヤ(Cattleya)、シンビジウム(Cymbidium)、デンドロビウム(Dendrobium)、オンシジウム(Oncidium)、ギンギヤヌム(Kingianum)、デンファレ,など。ちなみに、これら複茎性蘭は温室無し、水苔無し、のほうがよく育ち花芽もつきやすく、病気や虫害に強く、長命となり、初心者でも簡単に育てられる。最低気温0℃~5℃。空栽培

(注3)着生蘭 樹皮や岩などに根を張っている蘭。上記の蘭。

(注4)地生蘭 地中に根を張っている蘭、敦盛草、熊谷草、サギ草、など。

(注5)マイナス生育・プラス生育 辞書にも載っていないので、説明してくださいとのmailへの返信。マイナス生育・プラス生育は蘭生独自の使い方かもしれないので説明します。

マイナス生育 株が生殖成長となり、一稔植物として生育している状態。株が衰え、生殖成長となり、衰えるのに反比例して、花芽の成長が早く、よく伸び、見た目には株も生育しているように見える。子孫を残すため全精力を注いで開花、やがて消滅。

プラス生育 多年生植物として栄養成長している状態。

 

 下の写真は典型的なマイナス生育の胡蝶蘭、アマビリス(amabilis)である。病気のため根無し株となり、3枚の葉も乾燥して皴皴となったがなんと、花芽3個と新葉が2枚出ている、しかも花芽の生育が早い、4センチあるが、他は、まだ1センチである。蘭生は5年間このど根性蘭に幻惑されるが、花芽分化や命のしくみを理解したときは、蘭育成のさまざまな疑問がこれにより一瞬に氷解し、瞬時に学んだ瞬間でもある。子孫繁栄へ向かって鬼気せまるものを感じる。プラス生育に変換可能か。2005.11.15.

ど根性蘭

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高芽と花と根と葉。花後の花茎を切らずにおくと、たまにこのようになり高芽になる。手前の緑の茎は今年の花茎。

 

最新の育て方(葉茎根目視確認 水遣り時短 肥料僅少 置き場所取らず)の特長は次の3点です。

◎三次元で栽培出来るので置き場所が10倍に増える。

◎着生蘭の自生地を再現し、植え込み材料を一切使用しないECO栽培のため、病気や虫害に強く、長命蘭となる。

◎自然体で飾り棚に飾り、華やかな一部分の花だけでなく、宝石のように輝く根や葉など、全体を観賞する。

皿栽培(sara saibai) 07.1.1.開花中。バンダ・銀河・アングレカム

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空中栽培(夏は屋外、冬は屋内で蘭と共棲。)  蘭の花は開花期間が長く、胡蝶蘭などは4ヶ月咲きつづけます。(咲き始めたら場所をかえない。)長命蘭TV上の胡蝶蘭(茎は根が無くなったため15センチ程切断してます)は、空中栽培を12年間応援し続けている最長命胡蝶蘭12年生です。右は今年の最長命です。病気に強く、虫害にもめげず、3枚の葉を出し、背中に子供を背負い(右)、只今葉も根も輝き生育中、今年も定位置のTV上に鎮座しています。05年屋内栽培。05.11.5.バンダ(Vanda)皿栽培方法確立。むき出しの根が気になる方は紗で覆って観賞すればよい。06.2.9.

しかしながら、蘭のことを思えば、如何に根を張らせるかが最大のポイント、根を診るのが、正当である。歴史もこれと同じ、マスコミは花のみつまみ食いして大騒ぎするが、国民はこれに惑わされずに、しっかりと足下を見つめることが最も肝心なのである!根が無くとも生殖成長し蘭は花を咲かすが、すべて枯死する。2011.11.10.

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テレビ蘭開花

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バンダ

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[ 2011/08/02 19:00 ] 天空の蘭 | TB(0) | CM(1)

真実史観1大東亜戦争が遺したもの全世界の証言台湾パラオインドネシアイギリス

大東亜戦争が遺したもの全世界の証言     

8月になると「軍人極悪悲惨悲惨」と鳴きだすNHK8月蝉

 お互いに極悪で悲惨なのが戦争である。悲惨で無い戦争など皆無。この当たり前の事実を「軍人極悪悲惨悲惨」とNHK8月蝉が日本軍人だけが極悪のように鳴く。NHKは戦争の悲惨さだけ(木を見るだけの)のつまみ食い報道をしてきたし、今も、し続けている。NHKはなぜそんな悲惨な戦争をしなければならなかったかを、一度も放送していない。報道の内容はどうか。各国の戦争被害者は、直接手を下し殺した相手(米英中ソ日)を非難し、当然の証言をしている。証言はもちろん正しい。しかしNHKは、対(米英中ソの被害者)は報道せず対日の被害者の証言だけしか報道しない。森の報道が全くされていない、対(米英中ソの被害者)報道皆無だ。

 兵士の証言は、「先にやらなければやられる、それが戦争だ、自己保存の本能に従い戦った。」人間としてのたましいからの証言は、「戦争で人殺しをした、私は悲惨なことをしてきた」どちらも正しい証言である。

 NHKの大罪は、兵士を超え、人間として日本人としての、元日本兵のたましいのこの叫びを悪用し、殺した方に罪があるようなつまみ食い報道だ。なんとNHKは、兵士を超え、人間としてのたましいの叫びの証言をつまみ食いして、悪用し日本軍人極悪を連想させているのだ。戦争はこんなに悲惨だ、悲惨な戦争をした日本軍人はこんなに極悪だと。すべての報道がそうだ。

 TV朝日、朝日、特にNHKが大罪の偏向報道だ。証言には、兵士(建て前)と、人間(本音)、各々視点の異なる証言が有る。

 NHKは、兵士の証言は全く取材せず、報道せず、人間としてのたましいからの証言(戦争で人殺しをした、私は悲惨なことをしてきた)だけの一方的なつまみ食い報道をし、生還した護国の兵や護国の戦死者を、単なる殺人者のように冒涜し続けている。

 結果日本兵は、先人は極悪にされた。日本のマスコとミNHKと、鵜人のつまみ食い報道によって。

 先に殺さなければ殺される、それが戦争だ。そんな狂気の世界から生還した護国の兵のたましいからの証言(戦争で人殺しをした、私は悲惨なことをしてきた)に、子孫は感謝こそすれ、責めることなど言語道断だ。NHKは護国の兵に自己否定させて、責めている。戦争は互いに悲惨なのだ。日本軍だけ極悪の、一方的な放送は、もう見飽きた。NHKにはなぜそんな悲惨な戦争をしなければならなかったかを、放送する責任がある。なぜなら、放送するのが先人を冒涜しつづけたNHKの償いとなるからだ。

 我々日本人は、マスコミのこの偏向拡大報道に洗脳された。NHKは太平洋戦争と呼称し、傀儡国家満州と今でも先人を、つまみ食い史観で冒涜し続けている。NHKは全国民から料金を取り、朝日は購読者から料金を取り、日本を護国した先人を臆面も無く偏向拡大報道で冒涜し続けている。異常な世界だ。
 弱肉強食の時代の戦争、日清日露大東亜は、自由希求の護国戦争だ。護国の兵を冒涜するNHKや朝日は日本最大の売国奴だ。

 「戦わざれば確実に亡国、戦うもまた大東亜各国の助力無しでは、亡国であった。護国に殉じた戦友が戦後、犬死に、無駄死に、民間人殺しの極悪兵士と、護った子孫やNHKや朝日に、あらんかぎりに罵倒され続けてきた。いままでは、冥土で戦友に語る言葉など皆無だった。このままでは死ねなかった」これは、生還した自由希求の一護国兵士のメールです。

 読売新聞渡辺恒夫や石原都知事やNHK8月蝉は、江藤淳著『閉された言語空間』を読み、文を煎じて呑み「自由希求の護国の兵士感謝感謝」と早く鳴いてもらいたいのだが、今年も「軍人極悪悲惨悲惨」と鳴くようだ。07.8.4.

 以下は、封殺され日本のマスコミに報道されなかった、木を見ず、森を見ての全世界の証言である。

『パラオと日本の友好よ永遠なれ』(展転社、1997年)「日本時代はオール・グッド(皆よい)でした。日本の皆さんは、我々といっしょに汗を流して働き、勤勉の徳を教えてくださいました。

 砂糖キビや米の作り方を教えられ、生産することの喜びを知りました。スペインやドイツの植民地時代とは違って心が通じました。自然に日本人の生活態度を学び、子供たちは親孝行になり、治安がよくて泥棒がいませんでした」(同書10頁の和文)

 

パラオ統治 ここは第一次大戦のあと、ドイツ領から日本の委任統治領になった。その当時は「タロイモと魚が島民の主食だった」「日本がきてからその生活は大きく変わった」と続ける。日本はコメを持ってきた。ナスやキュウリなど野菜に、サトウキビ、パイナップルも持ち込んだ。そして雇用創出もした。マグロ缶詰工場やかつお節工場もつくり、島民に仕事を与えた。

 インフラも整備し、舗装道路を敷き、電気を供給し、電話も引いた。今、英語で話される日常会話に日本語の「デンワ」が交じるのもそのころの名残だ。 

 しかし、その統治は三十年と続かず、パラオは三度、新しい統治国、米国を迎えた。彼らはまず「すべての工場を破壊し、畑もつぶした。島々を結ぶ橋も壊し、道路の舗装まではがしていった」。すべての破壊が終わった後、米国は島の人々にアメリカ米を支給し、働かなくてもいいように生活保護費を出した。

 東西冷戦の中でこの島が東側に取られた場合を考えれば、数千の島民にただ飯を食わせるぐらいは安いものだという考え方だ。そして、冷戦が終わった今、島民への援助は間もなく打ち切られる。もうこの島を持っている意味はなくなったからだ。カリブ海に浮かぶハイチはナチやソ連の進出が懸念されるたびに米国が占領した。脅威がうせれば捨てられた。それと同じパターンである。 パラオ共和国の上院議長だったピーター・スギヤマ

インドネシア インドネシア進軍後、日本軍はまず、幽閉されていた独立指導者・スカルノとハッタを救出し、民族運動の指導者として認めました。「主人がオランダから日本に代わっただけだ」と考えた人もいましたが、独立指導者・後の初代大統領スカルノと副大統領ハッタは、日本の大東亜共栄圏構想を信頼して、日本軍政の3年半協力しつつ、独立へのチャンスを待つことにした。台湾や朝鮮統治の実績があるので、大東亜共栄圏構想を信頼したのだ。

 日本軍の功績として次のような点を挙げている。第1に、インドネシア語を作ったことです。インドネシアは多くの島からなっているので、言語も多様だったので、そこで日本軍は共通語を定め、それを普及させた。第2に、イスラム教への寛容です。第3に、学校教育、軍事訓練を含めた集団訓練を行ったことです。

インドネシアで55年間歌い継がれてきた「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」。

 

アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす

連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず

進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ

古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ

大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る

進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ

 

インドネシア独立後のナチール首相と青年道場での同期生ルビスの証言

 ・・・青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立は自分の力で成し遂げるものである。しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、いますぐ独立はできないだろう、日本軍は知っていることをすべて教えるので、一日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。

 訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。

 ・・・青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。

 ・・・ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、一人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。午前中だけでもくたくたになり、その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、小団長候補生の隣で同じように直立不動で立ち始めた。二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。

 私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。・・・インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。

 ・・・土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちのことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人を育成しているのだ、といって私たちを励ましてくれました。

 同じ中隊にいたスハルト(後の第2代大統領)も土屋中隊長からは深い感銘を受け、大統領に就任してはじめて日本に行ったとき、土屋中隊長にだけはぜひ会いたいといって探してもらい、20数年ぶりに会っています。

 ・・・そこでの教育はインドネシア人の民族精神を改革した画期的なものといえるのではないでしょうか。まず愛国心を育てたことであり、次に死を恐れぬ精神を植え付けたことです。さらにいえば、向上心を涵養(かんよう)したことなどもあげられると思います。インドネシアの夜明け 
 

インドネシア中学3年用歴史教科書 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。…」

 

日本兵2000名がインドネシア独立のため戦った理由 自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多かった。その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、明治大学で柔道とラグビーの名選手だった。スマトラのアチエ州で、地元の青年達を「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育していた。昭和天皇の終戦の詔勅の中の「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という言葉から、インドネシア人を見捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、同じ部隊の少尉4名とともに、独立軍に参加した。戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、常に先頭に立って、指揮をした。

 オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心である。オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出たと言われる。インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行った。全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのである。

 小野盛氏(元16軍陸軍指令部参謀部勤務)は、「約2千人の日本人が独立戦争に参加したが、その内約千人が戦死した。何故これだけの戦死者がいるかと言うと、日本人は指揮官として第一線で戦ったからである」と語っています。

 ・・・「かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」という今村均中将の言葉は、現実となったのである。

 

今村均陸軍中将 インドネシアのスカルノは、戦後に戦犯として獄に繋がれた今村均陸軍中将を実力で助けようとして、今村にその旨を伝えたところ逆に「部下が捕まっているのに私だけ逃げ出すわけにはいかない」と断られた。・・・日本の武士道では、そのような方法で生きのびることは不名誉とされている。まして私を救うため、独立軍とオランダ兵が鉄火(銃火)を交え、犠牲者が出るようなことは絶対に避けたい、と。

 判決を受けてすぐ、今村は同時に下された部下への判決に対して、再審の請願をしている。自分に対する判決については、何もふれずに。

 

1998年インドネシア インドネシアのマスコミは、8年前にオランダ女王を迎えるにあたって、このような意見を載せました。

 「日本政府は、1958年に賠償と援助で8億ドルを出してくれた。ハッタ副大統領は“日本軍はインドネシア独立の恩人だから、賠償という名称は不適当だ。独立達成を記念する祝賀金として戴く”と言っていた。日本政府が3年半の占領の分として8億ドル払ってくれたのだから、オランダは350年分の賠償として800億ドル支払うべきだ。それに独立戦争の死者は80万人だから、一人当たりの補償金を1万ドルとすれば80億ドル、10万ドルとすれば800億ドルになる。つまり、オランダは最低1600億ドルぐらいは支払うべきである。その前に、まず女王に謝罪してもらいたい」。大東亜戦争・アジア解放←インドネシア 「責任の人」今村均将軍(上・下)

インドネシア大統領特使、アラムシャ陸軍中将は語る

 平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」と述べると「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ」。

 「どういうことですか?」

 「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこはオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。

 もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」とアラムシャ陸軍中将は語りました。(『祖国と青年』平成6年2月号、アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論 中島慎三郎より

インドネシア、サンパス将軍(東欧大使歴任)は、日本の村山首相の謝罪をなげく

 平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」となげいていた。(『祖国と青年』平成6年2月号、アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論 中島慎三郎より要約抜粋)

 

歴史を共有した同じ国民  司馬遼太郎「台湾紀行」のガイド、蔡焜燦(さい・こんさん)氏「台湾人と日本精神」著者

 日本統治時代、日本人教師達は、我々台湾人に「愛」をもって接してくれた。そして「公」という観念を教えてくれたのだった。愛された我々は、日本国家という「公」を愛し、隣人を愛したのである。

 どうぞ心に留めていただきたい。「日本」はあなた方現代日本人だけのものではない。我々「元日本人」のものでもあることを。

 台湾には、日本がいまこそ学ぶべき「正しい日本史」がある。どうぞ台湾に正しい歴史を学び、自信と誇りを取り戻していただきたい。

 

英霊に捧げる 

台湾忠魂「ちゅうこん(忠義を尽くして死んだ人のたましい)」碑

 南海の荒海に屍(し)されし英霊よ、故国台湾台北州烏来の聖地に立つ、忠魂碑に降臨して、日台青年交流団の捧(ささ)げる、感謝と哀悼の誠を受けられよ。

 顧みれば五十数年前、英霊各位は、白色人種の植民地政策から、黄色人種と黒色人種を開放する偉大なる理想実現のため、第二次世界大戦に従事なされた。抑々(よくよく)東洋平和の安定を確保し、以て世界平和に寄与するのは、日本建国の精神であった。しかし黄色人種と黒色人種は、白色人種の植民地政策の迫害を被(こうむ)り、教育を受けられず、殆ど未開発の原始生活に留まって居た。これらの諸民族を開放し、自主独立の国家を建て、平和且つ平等に生活ができるよう指導するのも、又日本に課せられた重大使命であった。

 昭和十六年十二月八日、日本は破邪顕正「はじゃけんしょう(誤った見解を打ち破り、正しい見解を打ち出すこと)」の旗を押し立て、国運と国力を傾注して、白色人種追放のため、東南アジアに進出した。正に青天の霹靂「せいてんのへきれき(突然の変動)」である。白色人種の数世紀に亘る、世界制覇の夢は醒め、難攻不破の厚い壁は遂に崩潰した。英霊各位は赤道直下の炎熱焼くが如き猛暑と、悪性伝染病を克服なされ、強敵白色人種と、勇猛果敢に激闘なされ、これらを追放し、新生国家の基礎を確立された。殊に高砂義勇隊は、ジャングル伐採の先頭に勇み立ち、我が軍が苦戦に陥るや、高砂挺身隊はジャングルを利用して、敵陣に神出鬼没して、敵の軍心を攪乱し、勇敢に敵陣に切り込み、華々しく戦い、遂に護国の英霊となられた。英霊各位は尊い命を犠牲になされ、世界人類の自由平等のため、多大の貢献をなされた。其の偉大なる理想は、花を咲かせ実を結んだ。終戦後、小民族は開放され、相次いで独立した。今、全世界の独立国家は、合計百八十五カ国となった。

 各民族は、共存共栄の信条の下、自由平等且つ幸福に暮らせるようになった。此の偉業は、世界の一頁に刻まれ、太陽の光と共に、天攘無窮「てんじょうむきゅう(永遠)」に照り輝きます。そして英霊各位は平和の神として、全人類から敬愛尊敬されます。

 本日、日台青年交流団は日本青年を代表し、感謝と哀悼の誠を以て、英霊各位を慰(なぐさ)む目的であります。

 尚、一九八九年日本政府は台湾人元日本兵、戦没者遺族補償費と、戦傷者の慰問金交付を発表した。一人当たり日幣二百万円です。台幣に換算すると約四十万元です。金額は微々たるものですが、日本国の誠意として受け取れます。遺族の生計に多少役立つと思います。英霊各位本当にご苦労様でした。何卒、安らかに御安息ください。最後に御冥福をお祈り申し上げます。

            一九九六年五月十二日

            台湾中日海交会 呉 宗姓    台湾で見た「日本」遺産 

 

引用・参考文献 『「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編、展転社』○ルーズベルトニ与フル書 http://www.chukai.ne.jp/~masago/roosev.html○Japan On the Globe(191) 国際派日本人養成講座http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jogix2107.htm○米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯http://www.yoyokaku.com/itimarurinosuke.htm

○ロスロップ・スタッダード(アメリカ、歴史学者)

 すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人も考えおよばなかった。

 ・・・1900年は、四百年間みなぎり来った白人潮勢の頂点であった。白人はそのとき、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起こって露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせ世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。「有色人種の勃興」長瀬鳳輔訳政教社

○ドゴール将軍(後のフランス大統領)

シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終えんを意味する。(亡命先のロンドンでシンガポール陥落を知った日の日記より)

○英国サッセックス大学のクリストファー・ソーン教授 

 「日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国主義の終焉(しゅうえん)を早めた。」「太平洋戦争とは何だったのか」

○スリム中将(イギリス第十四軍司令官) 

 ・・・「たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。」

 ・・・「かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない」「敗北から勝利へ」

○H・G・ウェルズ(イギリス人歴史学者)

 「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた」 2につづく⇒

真実史観2大東亜戦争が遺したもの全世界の証言アメリカタイセイロンインド

○ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)

 大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256~7ページ)

○ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)

 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。・・・インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。「日本軍政とインドネシア独立」後藤乾一訳鳳出版社 

○タイのククリット・プラモード首相 1973年に氏は、「サイヤム・ラット」紙の主幹だった頃、「12月8日」と題した次のような記事を書いた。 

 日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。

○J.R.ジャヤワルダナ蔵相(後に大統領)の演説セイロン(現スリランカ)

 アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか、それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往事、アジア諸民族の中で、日本のみが協力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。

 ・・・「我々アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本こそが必要である」と強調。ロシアなどが主張した日本分割案に真向から反対してこれを退けた。そして、『憎しみは憎しみによってやまず、愛によってのみやむ』というブッダの教えを引いて、よってセイロンは日本に賠償を求めないと、対日賠償請求権を放棄し、各国にそれに続くよう呼びかけた。インド、ラオス、カンボジアなどがこの呼びかけに答え、自発的に対日賠償請求権を放棄した。(1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)

○インドの独立の英雄、「NETAJI SUBHAS CHANDRA BOSE」「ネタジ(指導者)」スバス・チャンドラ・ボースがインド人民に向けて訴えた演説。

 

 ・・・「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。われわれの任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式をおこなう日までは終わらないのである。・・・われわれはこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」

 「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」は、後の自由希求独立への、合言葉となった。(1943昭和18年7月5日1万5千名のインド国民軍兵士への演説)

 

(注・日本のデリーは、自由希求の兵士の社、靖国だ。日本の自由希求の合言葉は『靖国へ!靖国へ!』)

 

 ・・・「大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定している。自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。・・・1944年3月20日ラングーンで自由インド放送を通じて「インド国内の同志への呼びかけ」「ネタジと日本人」スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー著

 

 ・・・インドに関するかぎり、われわれの運命は日本及びその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や生き残って自由インドを見られるかは問題ではない。ただ一つの感心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドから駆逐されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章となることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを。・・・「大東亜会議」演説1943(昭和18)年11月5日

 

 インド独立運動の指導者(NETAJI)スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)(1897~1945)は日本と協力してシンガポールに「自由インド仮政府」を樹立し(1943)、インド国民軍を組織し米英に宣戦し、インパール作戦を日本軍と共に戦った。日本の敗戦後も、最後まで、インドの独立に命を懸けたチャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の取り計らいで、ソ連に亡命する途中、1945年8月18日台北で日本軍機墜落、事故死、火葬後、遺骨は日本に運ばれ東京都杉並区の蓮光寺に手厚く葬られた。享年48歳。毎年8月18日に慰霊祭がおこなわれている。

 

 スバス・チャンドラ・ボースのこの世で最後の言葉 1945年(昭和20)8月18日 享年48歳

 「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」

 インド国会議事堂の正面にはスバス・チャンドラ・ボース。右にはガンジー。左にはジャワハラル・ネール(初代首相)の全身像が建てられている。Chandra Bose 亜細亜独立インド
 

○インパール作戦(インドの独立戦争) 

 この作戦は色々批判もあるが、日本の本意を世界に示した戦いであった。この作戦が無ければインドの独立もなかったし、アジアの独立も無かった。先人がした赤心の血適者生存の心(大東亜団結戦争、大東亜の適者生存のため、ひいては日本のために戦った)がインドの独立、アジアの独立をうながしたのだ。さらにこのした赤心の血は現代の世界の史家や、かっての敵将の覚醒をもうながし宗主国撤退の起因となった。皆この作戦より、日本の本意にたどり着いている。

 

 ネルーもガンジーもラダ・ビノード・パールも、インパール作戦以後翻意している。NHKや朝日などの反日は、インパール作戦以前のこの方々の反日証言(1942年7月26日、ガンジー日本の「大東亜戦争」について等)を針小棒大に報道している。なぜ翻意したか、インド独立のため、ひいては日本のための比類なき適者生存護国の戦いざまを、目の当たりにしたからである。 

 

  昭和19(1944)年3月、日本陸軍(牟田口廉也第十五軍司令官)とインド国民軍の合わせて十万の将兵が、アラカン山脈を越えて進撃を開始し、一時はコヒマを占領しインパールの周辺まで突入したが、弾薬、食糧の補給が途絶し、飢餓と悪疫が重なって撤退を余儀なくされた。

 

 インパールの山野は「白骨街道」と化し、日本軍の死者は三万、戦病者は七万。インド国民軍は数千人の犠牲者を出した。

 

○マパオ村の「日本兵士を讃える歌」

 インパールの北16キロにあるマパオ村では、インド独立のために散った日本軍兵士の慰霊祭が行われ、「日本兵士を讃える歌」が、毎年マパオの空に響きわたっている。歌を作ったのは村の女性ニイヘイラさんである。

マパオ村とニイヘイラさんと歌を紹介する動画

http://www.youtube.com/watch?v=__7fG0aqJDk

 

「日本兵士を讃える歌」

作詞作曲マパオ村ニイヘイラと村民

日本語訳  古田中 勝彦

 

一、

父祖(親)の時代(時)より今日の日まで

美しきマパオの村よ

いい知れぬ喜びと平和(やすらぎ) 

永遠(とわ)に忘れまじ

 

*合唱(繰り返し)

美しきマパオの丘に日本兵来(きた)り

戦えりインパールの街目指して

願い果たせず

空しく去れり

 

二、

日本兵マパオの丘に来る

それは四日の火曜日一九四四年のことなりき

我は忘れじ四月のあの日

 

三、

罪なき民も散り散りに

西に東に追いやられ

再び神の恵を受け

集まり住まん

この地マパオに

 

四、

広島の悲報

勇者の胸をつらぬき

涙して去れる

日本の兵士よ

なべて無事なる帰国を

われ祈りてやまず

 

○英軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将

 「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追いつめられたとき、前途に横たわるものは生地獄だった。日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくして敗れた。兵理である。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れた。しかし、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。『すなわちもし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』

日本軍に関する報告書

①日本軍はアアジア諸民族の眼前で、彼らがとてもかなわぬと思っていた欧米軍を 一挙に爆破した。

②とても独立の意思も能力もないと思っていた植民地民族を戦時中の短期間の組織し訓練し、強烈な愛国心をかきたて、軍事力も行政力も見違えるばかりに変貌させた。いわゆる《metamorphosis(魔術的変化)》を遂げさせた。このことは、当時の連合軍の誰もも予想できないことであった。

③日本軍は敗戦すると、連合軍との間に交わされた停戦協定に基づいて、武器は全部連合軍に引き渡すことになっていた。ところが、日本軍はインドネシア軍に『武器が奪われた』と称して巧妙に裏で武器を渡していた。それによって、これまで『猫』のようにおとなしかったインドネシア人が『虎』に変身し、ついに独立を達成したのである。回想記「ビルマ戦線の大逆襲」ルイス・マウントバッテン。

 

マウントバッテン司令官ネパール国王の戴冠式パーティの席での皇太子殿下への言葉

 インド独立のための工作をした藤原岩市中佐がインパールへの遺骨収集実現のためインド側と交渉し、昭和50年(1975年)に無事それを実現させ、現地の人々の予想外の協力を得て帰国した。その模様と東宮御所に参上し、皇太子殿下(今上天皇陛下)に報告されたときに皇太子殿下が、マウントバッテン元帥の言葉を仰せになられた。

 「藤原さんの報告を伺って、事の次第が分明いたしました。先月、ネパールの戴冠式に参列した節、パーティの席で、英国首席随員・マウントバッテン元帥が私を捉えて、いとも懇ろに『過ぐる戦争中、私が東亜連合軍総司令官として、印緬戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう』と激賞してくれた」(藤原岩市「進めデリーへ」の反響に想う)

 

 かっての敵将も、インド独立のため、ひいては日本のために流した日本の赤心の血に、日本の本意を見たのだ。そしてイギリスは宗主国から撤退した。

○アーノルド・トインビー(英国歴史学者)

 「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の汎神でないことを明らかにしたことである。イギリス人もフランス人もアメリカ人も、ともかくわれわれはみな将棋倒しにバタバタとやられてしまった」(1956年10月28日、英紙「オブザーバー」)

 「英国最新最良の戦艦二隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーショナルをまき起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本はすべての非西洋国民に対して、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の士気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである」(昭和43年3月22日 「毎日新聞」)

 

○ロンドン大学教授のエリック、ホプスバウ

 日本では殆ど知られていないが、インド独立のきっかけも大東亜戦争にあった。英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授のエリック、ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著「過激な世紀」の中で、「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく、日本軍とチャンドラ、ボース率いるインド国民軍(I N A )が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた」と述べている。

○卒塔婆を建てた村長 インパール作戦で日本軍は惨敗した。シンハ村の村長は次のように語った。「レッド・ヒルの争奪戦で、戦死した日本軍の将兵の骨を集める為、村民を総動員した。村民は丘の激戦を見ていました。日本軍は全滅し、丘は真紅に染まりました」イギリス軍がレッド・ヒル(真紅な丘)と名づけた理由がよく分かった。

 村長はその丘の麓(ロッパチン村)にレンガを積んで、卒塔婆(高さ約4㍍)を建て、毎年、日本軍が玉砕した5月20日には、村を挙げて法要していると言う。我々は、ロッパチン村の卒塔婆に参拝し、あつく礼を申し述べた。卒塔婆の中心に貼られた白い大理石に、雄渾な日本の文字で立派な追悼の詩が書いてあるので、尋ねたとら、村長は「我等の尊敬してやまない牧野財士先生が書いたものです」とほほえんだ。シンハ元村長は、「この頃私は呆けましたが、死ぬまで日本兵の墓を守ります。私が死んだら、息子(現在の村長)が引き受けます。その後は孫が守ります」とまことに実直である。

 この優しい老人の家(村長の家)は、余りにも質素(貧乏)なので心が痛んだ。竹の家に、竹の寝台、竹のテーブル、鍋釜と槍だけである。牧野先生は「農地が無かったら老村長はカルカッタに行って出稼ぎ人夫になっていた」と教えてくれた。家の前に3百坪ほどの水田と養鶏場と養鯉池もある。畑には豆類と薬草が植えられ、やせた小菊や菜の花が咲いていた。完全な自給自足である。我々がレッド・ヒルを見上げている時、シンハ元村長は「生き残った兵隊はいなかった」と涙を浮かべてつぶやいた。(平成9年6月25日号)アジアの曙光 -6-アセアンセンター代表 中島慎三郎

○元クルガ兵(ネパール人)の証言 我々は世界最強の傭兵だ。第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。インド軍は1日で降参させた。だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。

○ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー 激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。  「自由アジアの栄光」副題「インドミャンマー独立史」

○インド 日本に対する賠償を放棄している。

アジアにおける大東亜戦争←さらに詳しく

○グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶) 3につづく

真実史観3大東亜戦争が遺したもの全世界の証言インドビルマ韓国

○ランボ・ラル・グプタ インド独立運動指導者
 東京裁判は21世紀になれば必ず見直される。そして第二回東京裁判が実現する。その頃にはアジアも良識を取り戻し、東京裁判で重罪を被った日本人、7人のA級戦犯は、一転して全アジアの救世主となり、神として奉られる日が来るであろう。また、そのようになるべきだ。

○S.S.ヤダフ、インド国民軍全国委員会事務局長、インド国民軍大尉

 戦時中、インパール作戦を戦ったインド国民軍の戦友会(I N A 委員会)も日本に感謝を示すために、平成九年(1997年)インド独立五十周年に、靖国神社に感謝状を奉納しました。

 インドが日本のお陰を蒙っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。偉大な貴国はインドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何十万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗と涙を流してくれました。

 インド国民軍は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します。

○マンモハン・シン・インド首相演説

2006年12月14日

 

河野洋平衆議院議長閣下

扇千景参議院議長閣下

安倍晋三内閣総理大臣閣下

 

衆議院議員ならびに参議院議員の皆様

著名な指導者の皆様ならびにご列席の皆様

 この威厳のある議会において演説の機会を得ましたことは栄誉なことと認識しております。我々二カ国の国民が互いに寄せる善意と友情の表れです。

 ご列席の皆様

 日本とインドは文明的にも近い国であります。我々の最も古い絆を形成するのが、共通する遺産でもある仏教です。二つの文化は歴史を通して交流し、豊かさを増してきました。1000年余り前、インドの僧侶ボディセナ(菩提僊那)は、東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れました。近代においては、タゴールと岡倉天心が、アジアの偉大なる両国の間に理解の新しい架け橋を築きました。

 科学技術の発展に基づく明治維新以降の日本の近代化と、戦後に日本再建の基となった活力と気概は、インドの初代首相であるジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は、インドが日本と緊密な絆を結び、その経験から学ぶことを望みました。

 インドが日本からのODA(政府開発援助)の最初の受益国になるよう尽力されたのは、当時の岸信介総理大臣でした。今日、インドは日本のODAの最大の受益国であり、こうした援助に我々は深く感謝しております。

 日本の工業は、自動車や石油化学などインド産業の発展のために貴重な役割を果してきました。90年代の初頭、インドが深刻な経済危機に陥った時期、日本は迷うことなく支援し続けてくださいました。

 1952年、インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦争賠償要求を放棄しました。戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。

 こうした出来事は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです。

 日本を訪れるたびに、お国の発展を見て真に鼓舞され、寛大さに心を打たれます。私は、1992年の訪日を決して忘れることがないでしょう。それは、インドの財務相として初の両国間の訪問でした。

 1991年に前例のない経済危機に対処した際、日本から送られた支援に謝意を述べるための訪日でした。古い型を打破し、グローバル化しつつある世界での競争に備えるべく経済を開放し、新たな前進への道を乗り出す機会を、あの危機は我々に与えたのでした。当時、弾力性や献身といった長所、あるいは逆境にあって如何に機会を創造するかといったことを日本から学ぼうとして、我々は日本に目を向けたのでした。・・・

 

 赤心には赤心、歴史には歴史で語りかけたこの演説は、片隅での報道であった。報道を操作し、亡国を企む、NHKや朝日などのマスコミや、団体に巣くう売国奴、捏人。先人冒涜を裏の家業とし、表裏で金を得、反日侮日で分不相応な生活、誰の目にもよく目立つ。冒頭のように翻意前の話や、小さな欠点や落ち度だけを、全体であるかのように棒大に報道するのですぐ分かる。ブログに散見する異様な先人冒涜の輩も、糧は同じで同類だ。単なる鵜呑みの素人には、長期に渡って、あれほどしつこく、欠点探しは出来ない。心ある同胞からの内部国発は、ネチズンに数多届いている。余りにも目に余る冒涜に子孫が覚醒し、自浄回路が作動し始めたのだ。ネチズンも心ある同胞も、赤心の血を流し、同胞の琴線を鳴らし、覚醒を促した先人の、真の子孫だ、愚かではない。捏造主義「独裁国家、共産(狂惨)国家、捏造報道屋、捏造扇動家」は、必滅する。国づくりや物づくりは、事実のみが成せる業、人間の小細工、捏造ごときで成せるものではない、古今の世の習いだ。

スクープ! マスコミがひた隠す、マンモハン・シン・インド首相の親日マル秘?演説原稿

○オッタマ僧正ミャンマー(ビルマ)

 オッタマ僧正は完全自治を要求する抗英独立運動をおこなって何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまい、日本と協力して立ち上がったビルマ青年の活躍を見ることは出来なかった。しかしその精神は、独立の志士たちに確実に受け継がれていった。日本にやってきたのは1907年。彼は3年間日本に滞在して『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊。その中での主張。

 ・・・日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。・・・長年のイギリスの桎梏「しっこく(足かせと手かせ)」からのがれるには、日本にたよる以外に道はない。・・・

○ウー・ヌーミャンマー(ビルマ)

 日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言。そのとき外相に就任したウー・ヌーの演説。

「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」

○バー・モウミャンマー(ビルマ) 大東亜会議にも出席し、戦後も首相として活躍したミャンマー(ビルマ)の首相

 

 ・・・真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。

 ・・・歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかし、またその解放を助けてやった諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。自伝「ビルマの夜明け」

 

アリ・ムルトポ准将(インドネシア)

 一九七七年、マニラにおける国際会議で、韓国代表が日本を強く非難した時のことです。インドネシアの大統領内外政治担当特別補佐官兼副長官のアリ・ムルトポ准将が嚢言を求めて、韓国代表をたしなめました。

 「日本はアジアの光である。太平洋戦争はアジアの独立のための戦争であったゆえ、本来ならアジア人が戦うべきであったのに、日本人が敢然と立ち上がって犠牲になった」

 

○アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

  日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略)日本は目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57~65ページ)

○朴 鉄柱 大正11年韓国釜山生まれ、平成二年一月逝去(六十八歳)。昭和四十二年十月大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業、住吉神社に奉職、終戦後韓国に帰国。昭和29年5月「日本文科研究所」を設立。

 「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」

 「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」

 「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」

 時に昭和42年、朴氏四十五歳の時の言葉だそうです。

 その後、朴氏は肺がんに犯された体に鞭打って、亡くなる一年前の平成元年一月に先帝陛下の御大喪のさいに来日したそうで、朴氏から兄と慕われた中村武彦氏の文章より朴氏のお人柄を偲べます。

 「平成元年一月、先帝陛下の崩御の直後に重い足をひきずって彼は東京にやってきた。

 先ず二重橋の砂利の上にひざまづいて、長い間頭を上げなかった。御大喪の日には、雨の中を早朝から皇居前の堵列に加わり、御見送り申し上げた。名も無き一韓国人が、瀕死の身を似て氷雨に濡れながら、泣いて先帝陛下にお別れしたその悲しい真心を、御神霊は必ずや御嘉納になったであろう。」

日韓共鳴二千年史P602~609名越二荒之助編著 明成社より

 

○崔基鎬(チェ・ケイホ) 1923年生まれ。明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶大学客員教授 『日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実』著者真実史観者

武士道の覚醒と強い日本を願う 
隷属国家の李氏朝鮮

  私は80歳になります。ここまで生きてきて、やはり韓国のためにも日本のためにも、自分の思うことを正直に語りたい。それが本音です。ご承知の通り今の韓国では、植民地時代の日本統治を肯定的にとらえて発表することは、相当の覚悟がいります。極端な話、身の危険も覚悟しなければなりません。しかし私の使命として、どうしても言わなければならないと思っています。

  なぜなら、歴史を歪曲するということは、国の進むべき方向を間違わせてしまうからです。実のところ韓民族は、いつも身勝手な解釈で歴史を解釈し、これがもとで幾度も実態を見誤り、国を滅ぼしてきたのです。とくに危惧するのは、それが韓民族の宿痾であるということです。だからなおのこと私は、歴史の真実を見る重要性を訴えたいわけです。

日韓併合を検証する

  ・・・よく中国や韓国は、日本の教科書は歪曲していると非難しますが本当でしょうか。日本人は、そう言われると本当にそうかと思ってしまう人も多いと思いますが、日本人はあまり韓国や中国の状況を知りません。私に言わせれば、例えば韓国と日本を比較した場合、日本が十のうち一の歪曲があるとするなら、韓国は十のうち九は歪曲があると言っていいでしょう。日本についての歴史だけでなく韓国の歴史そのものを歪曲しています。韓国の権力者たちによって恣意的に作られた『国定教科書歴史編』は、まさにその傾向を強めています。

  その顕著な例は、李朝500年末期の政治紊乱に蓋をして、公然たる売官買職が横行し貧官汚吏が跳梁した事実をまったく教えず、日韓併合がなければ、李朝は立派な国家として独り立ちできたかのような書き方をしているところに表れています。これこそ、実態を知らない歴史観です。

  日韓併合のことに少し触れれば、併合を通じて全国民に教育が徹底され、近代的医療制度が確立し、農漁業と重工業が興り、社会のインフラ整備によって工業国家としての基礎が築かれたことは、明白な事実です。

  終戦後、独立した韓国・朝鮮の教育は、日韓併合を日本帝国主義の侵略政策の産物であったと糾弾しますが、それがいかに歴史の実態を無視した身勝手なことであり、自己中心的な解釈であるかはいうまでもありません。

  教科書では、例えば次の記述があります。

 「日帝の狙いは、韓国を日本の経済発展に必要な商品市場と原料供給地にし、彼らの国家利益を増大させるものであった。日帝の産業侵奪政策で我が民族の経済活動は大幅に萎縮し、民族産業もその発展が抑えられて、沈滞するほかなかった」

  これには、あまりにも歴史の誤魔化しがあり、私などはコメントする気にもなりません。李朝500年を知らないか、故意に隠蔽しようとしているとしかいいようがありません。民族産業の芽を切り捨てたのは、ほかでもない李朝であり、李朝の下では経済発展など夢のまた夢でした。なぜなら近代化を唱える者や先進的な思想家は、反逆分子として、その親族までも処断されたのです。そういう史実を、忘れたとでもいうのでしょうか。

  本当に日韓併合が悪かったというなら、それが事実かどうかを検証してみようというのが私の立場です。大勢の人が虐待されたとか、従軍慰安婦にされたとかいいますが、私にはとてもそうは言えません。それは歴史の真実を知っているからです。それを今回、本に書いたということです。もし私が間違っていたら言えばいいです。

搾取されたのは日本

・・・そうした状況にある李朝を隣国において、1868年日本は明治を迎えます。当時の世界は強いものが弱いものを食う時代です。日本にとって清もロシアも大国です。その力が、清の属国になっていた李氏朝鮮、すなわち朝鮮半島から日本にやってくるという危機感が日本にありました。だからそれを防ぐために日本は、朝鮮としっかりと手を結ぶ必要があったのです。

  そこで1876(明治九)年二月、李朝と「日朝修好条規」を結びます。李朝成立後、484年が過ぎたときのことです。それは李氏朝鮮に、独立国家であってほしいという願いがありました。それが第一条にある「朝鮮国は自主の国」という言葉に表れています。これはきわめて重要な意義を持っています。

 ・・・1897年、李朝は国号を「大韓帝国」とあらため、年号を「光武」とし、王を皇帝と称し、表面的には510余年ぶりに明・清の束縛を脱し、独立国家を形成したのですが、清の保護下にある李朝の専横は変わるところがありませんでした。それは近代化と自主独立の道を拒否しつづけることであり、列強が蠢くなか李朝の存在は、東アジアの情勢に不穏な種を宿していたことになるのです。

 1904(明治37)年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎(1853~1926年)を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として立て直すという態勢がようやく緒につくことになります。

  目賀田財政顧問と総監府は、朝鮮の歳入不足分を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金「立替え」を実施したほか、直接支出で援助しました。

  例えば1907年度、朝鮮の国家歳入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上ありましたから、その差額は全額日本が負担しています。1908年には、これがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出しています。

  総監府時代の四年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にものぼっています。そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達しています。

  現在の朝鮮・韓国の歴史では、このような日本の特恵的支援には一言の言及もありません。そして侵略だけを強調していますが、これがいかに偏狭な歴史観であるかということが分かると思います。それら詳しい数字については本に書きましたが、日韓併合によって、搾取されたのは、韓国・朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきでしょう。 4につづく⇒

真実史観4大東亜戦争が遺したもの全世界の証言フランスフィリピンオランダ

強い者に弱く弱い者に強い・・・朝鮮半島、台湾までが中国の支配になったらどうなるでしょう。アメリカがいるから、そうはならないという考えもありますが、やはり日本は日本で考えていかなければならない問題です。アメリカと同盟を結んでいる立場からも考えることは重要なことです。中国は日本の生命線であるシーレーンも自分の管轄下に置きたいと狙っています。そうなれば日本の産業は成り立たなくなり、日本の経済力は急激に衰退するでしょう。

  ですから今のうちに日本は明治時代の武士道を覚醒させて、しっかりと韓国と手を組んで中国と対処してほしいのです。これはアジアの安定のためにも大事なことです。

  日本が強くなって韓国と手を組むとどうなるか。終戦前、満州で中国で活躍したのは日本人よりも韓国人でした。平均して中国人より韓国人の方が強さを発揮し、中国に対して強く出ました。日本が明治時代の日本軍隊のように強くなると、韓国、朝鮮の人は日本人以上に日本人になるのです。今の台湾において、日本人より日本人の生き方を伝承しているという事実。昔の日本人は、それほどに誠を尽くして現地で働いたということです。その意味するところは、併合自体が侵略でもなく略奪でもなかったということです。

 

ソウル遷都は滅亡の運命・・・ソウル遷都は滅亡の運命 小泉首相も小泉首相です。蘆溝橋に行って謝罪している。謝罪する必要はありません。日本がやったわけではないのです。撃たれた兵隊は、秋田の部隊で秋田にいます。私はインタビューして資料を取っています。

 中国のいう歴史認識の共有は、中国のいう通りにしろということです。そんなことはすべきでないし、できるはずもない。支那事変というのは、日本が中国共産党と戦った防共戦です。これをはっきりと認識しなければなりません。向こうはアジア、中国、日本を共産化しようとしていた。背後にはソ連のコミンテルンの野望がありそれと日本は戦った。日本の軍隊がいたからこそアジアは、日本が敗れるまで共産化されなかった。日本が敗れたために中国も満州も朝鮮も共産化されてしまった。

  それを知っている人は世界にいなかったわけではありません。ローマ法王のピオ11世はよく分かっていた。支那事変が始まった年の10月にメッセージを出しています。全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよといっています。だからこそ戦後マッカーサーが靖国神社を解体しようとしたときに、カトリックのビッター神父、バーン神父は反対した。

  靖国神社の近くに白百合学園という女学校があります。靖国神社の前を横切るときに生徒は頭を下げる。どうしてかと気になっていた。それはローマ法王にお伺いをたてたら頭を下げるようにと指導があったという話でした。

 結局中国共産党は戦争を一番望んでいた。昭和7年、満州事変の2年後に対日宣戦布告を出しています。昭和9年にも同じようなものを出しています。蒋介石の国民党軍と日本を戦争をさせて、その間に自分たちの勢力を伸ばして中国を共産化するという戦略だったわけです。

 支那事変が始まった後、毛沢東が出した指令があります。日本との戦争では、七分の力をもって党勢を拡大せよ、二分の力をもって国民党と妥協せよ、残りの一分の力をもって日本と戦争せよというものです。

 中国は共産党政権です。その共産党と防共戦を戦った日本の歴史観が合うわけがないでしょう。そういうことを日本は中国にはっきりという。それで初めて同じ土俵に上がることができるのです。日本は、論争の土俵に上がるまえから頭を下げているわけです。

○ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)

 これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)

○フランス アンドレ・マルロー元文化相

特別攻撃隊の英霊に捧げる アンドレ・マルローの言葉 元リヨン大学客員教授で特操3期出身の長塚隆ニ 

 ・・・特攻隊員の純粋な心を傷つける言葉に、私は憤怒を覚えたことは一度や二度ではない。

 昭和49年夏、パリ南方郊外のアンドレ・マルローの家を訪れた私は、ふとそんなことをぐちともつかず口にした。すると、かすれがちだった彼の声がにわかにきびきびしてきた。

 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕-リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチック(狂信的)だったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズム(狂信)とは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。

  戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。

  フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである」

  二十世紀の思想を代表するフランスの文人アンドレ・マルローは、こういうと床に視線を落としたまましばし瞑黙した。まさに百の頌詞(しょうし)にまさる言葉であろう。私はこれをつつしんで特別特攻隊の英霊に捧げたい。(会報「特攻」第8号より引用)筆者は元リヨン大学客員教授で特操3期出身の長塚隆ニ 第8号 平成元年/9/23 

○フィリピン独立記念での演説   パルガス フィリピン大使 

 「しかし、大日本帝国は軍政を最終的に撤廃し、フィリピン共和国の独立を承認するというこのうえない形で、その高邁な精神と理念を証明した。

 帝国はその全ての誓約と宣言を誠実に守り、フィリピン国民が憲法を制定し、自らの文化と伝統に調和する国家を樹立する最大の機会を開いたのである。大東亜において日本帝国はあまりに激しく、あまりに不当に圧政暴虐の侵略者として非難されているが、その寛容と自由の実践は世界も驚くであろう。日本は帝国であったが一つの共和国を認め、まさにその樹立に参画した」

○(フィリビン・カミカゼ記念協会)の会長を務めるディゾン画伯(マバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立)

  肖像画の前に立ったディゾン画伯は、「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理由も理解できたのです」

  私の方に向きなおった画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう」

  そしてディゾン画伯は、両手を固く結んで私に託すのだった。

 「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」

 地元通訳のマリオ・ピネダ氏(73)の証言だった。

 「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ぱせてもらえなかった。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」神風特攻隊はフィリピンで英雄だった (SAPIO(小学館)2000年12月20日号より)2001/1/28up)

○マッカーサーから靖國神社の存廃について意見を求められたカトリックの神父さん(メリメール会のバーン神父とイエスズ会のビッター神父)の言葉

 

 昭和二十年の秋に連合軍総司令部(GHQ)が、宗教政策の一つとして靖国神社を焼き払うことを考えており、マッカーサーは、その是非について、当時は上智学院(今上智大学)の院長で駐日ローマ教皇代表となったブルーノ・ビッター神父(1932年イエズス会の神父として来日、日米開戦の阻止のために尽力し、開戦後も日本に留まった。90年の生涯の50数年を日本で過ごし、日本の土となった。)に、キリスト教会としての意見を求めた。

 

 ビッテル神父が、数人の神父と意見交換し次のように回答した。「・・・自然の法に基づいて考えてみると、いかなる国家もその国家のために死んだ人々に対して、敬意を払う権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か敗戦国かを問わず平等の真理でなければならない。無名戦士の墓を想起すれば自然に理解できるはずである。もし、靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史は、そのような行為を理解しないに違いない。はっきり言って、靖国神社の焼却・廃止は、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。靖国神社は国家神道の中枢で、誤った国家主義の根元であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道、キリスト教、ユダヤ教などいかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言するものである・・・」『マッカーサーの涙』・朝日ソノラマ刊

 

 靖国神社の廃止計画を持っていたマッカーサー元帥は、昭和20年11月、バチカン代表のビッター師と米国宣教師団代表のバーン師を呼んで、カトリック教会の意向を聞いた。両師は他の宣教師たちの意見も聞いた上で、次のように答え、その正論に、元帥は翻意し、靖国神社の存続が決まった。

 

○バーン神父とビッター神父の比類なき靖国論

 「私達はそれに(靖国廃止計画)に反対です。日本は不義の戦争をしたから、軍国主義の温床となった靖国神社を廃止すべきと、一部の人は考えているようですが、それは間違いでしょう。靖国神社の存廃はその本質にかかっていることで、今度の戦争の正不正と関係がありません。いかなる国民も、祖国のために身命を賭した人々に対して、尊敬を表し、感謝を捧げる事は、大切な義務であり、又権利でもあります。ですから、戦没者の墓碑に対しては、敵国人といえどもこれに敬意を表わしているではありませんか。

 いま、靖国神社は神道の単なる霊廟ではなく、国民的尊敬のモヌメントであると申上げねばなりません。なぜなら、そこには、神、仏、基(キリスト教)いずれの宗教を問わず、戦没者の英霊が平等に祀られているからです。

 従ってこのようなものを廃止するのは、国民の大切な義務と権利を否定することになりはしないでしょうか?」(志村辰弥神父著「教会秘話」聖母文庫204頁)

 

 これ以上の靖国論は無い。まさに比類なきだ、言うべきことはすべて言い得てる。咀嚼し探究した言葉だ。言葉が生きている。反靖国にはこれを掲げればよい

 人種差別撤廃、有色人種独立への扉を、世界史上初めて開いた解放者の社、靖国神社。先駆けの解放者に続けとばかりに、アジア、アフリカは自由希求し次々と独立し、いまでは世界に百以上の新生独立国が誕生している。日本史観では20倍以上の敵への服従を拒否、自由希求で戦った護国の兵の社であるが、世界史観では人種平等、自由への扉を開いた解放者の社、靖国神社なのだ。敗戦必至でも服従を拒否、20倍以上の敵と戦う尊厳な自由希求の心、靖国神社は世界の自由希求精神の象徴、服従を拒否し、自由に殉じた解放者の聖地なのだ。愚民政策からの解放を恐れる愚民政策国家だけが、聖地靖国神社や解放者を畏怖し非難する、畏怖し非難する国は、愚民政策国家だけなのだ。先人とアジアの同胞は、アジアの南北アメリカ化を阻止し、自由希求への礎石となりアジアに貢献した。我々解放者の子孫は、世界に貢献する使命を、帯びている。愚民政策からの解放や、誕生した新生独立国への支援が、我々解放者の子孫としての役目である事を、決して忘れてはならない。

 大東亜戦争開戦1941年(昭和16年)当時のアジアとアフリカの独立国は、日本、タイ、トルコ(1923年独立)、サウジ-アラビア(1927年独立)、エジプト(1922年独立)、リベリア(1847年独立)だけの僅か6カ国しか存在しなかった。2002年現在国連加盟の独立国の数は189カ国、そのうちアジア、アフリカだけで100カ国以上となる。

○オランダ ヴァン・ティン・Eduard van Thijn(サン・ティン?)アムステルダム市長(1983-1994)・現(1994年)内務大臣の1991年の挨拶。  

 「憲兵少尉のシベリア抑留経験者、溝口平二郎(平成9年3月14日逝去)が挨拶を聴き、後に財団法人日本国防協会の理事の浅井啓之が1994年3月24日に文章に起こした」

 サン・ティンの名前が実在しないので捏造論があるが、ヴァン・ティンの聞き違いだろう。発音してみれば分かるが、・ティンが強く発音されるため、聞き違えやすい。要は名前よりも、年代と、アムステルダム市長の後に国務大臣を勤めたという経歴が大事なのだ。捏造であれば、決してこんな初歩的なミスはしない。ましてや公開された挨拶文などはすぐばれるので、決して捏造などしない。常識で考えればすぐ分かることだ。

 1991年の訪蘭時」平成3年、日本傷病軍人会代表団が、大東亜戦争の敵国であったオランダを訪問した折、同国の傷病軍人代表と共に、首都アムステルダム市長主催の親善パーティに招待された。その時の市長の挨拶です。

 「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間、屈辱の連続。即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。戦前は「アジア」に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。あなた方の日本国は、「アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた」と、自らを蔑(さげす)み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。

 何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必要があります。本当は私共白色人種が悪いのです。100年も200年も前から競って、武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。

 植民地や属領にされて永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏と言う旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、その東亜の解放は実現しました。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。その結果アジア諸民族は独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分を蔑(さげす)むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」。1994年3月24日浅井啓之氏記聞

 善悪論での日本賞賛であるが、当時は弱肉強食適者生存の時代、侵略は合法で、違法は1960年の植民地独立付与宣言からである。宗主国であると同時に、文明の伝導者でもあったことを、決して忘れてはならない。かつての植民地はこの清濁を併せ呑み、皆一様に踏まえている。当然かつ英断である。世界で唯一禍福をあざなえない輩が、民族浄化同族殺しの凶産中国、贋半島、罪日である。

 敵であった、オランダの、この見解はいさぎよく、見事だ。この見解があるから、両国の王室が親密なのだ。昭和天皇訪欧時は険悪だった。現に今、皇太子一家が招待されて滞在中だ。護国の英霊に、これ以上の頌詞(しょうし)はない。アメリカがこの見解に達した時が日本の真の終戦だ。2006.8.26.オランダ・アムステルダム市長のご挨拶
全世界の証言 完

世界の証言
NHK職員への正しい日韓史授業 NHK@テレビ等
動画
日本人は心優しき侍/世界から感謝される日本【独立アジアの光】


 

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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