QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2011 06123456789101112131415161718192021222324252627282930312011 08

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観小国日本適者生存の術は共栄圏神道敬天愛人と孫文が一致大アジア主義


小国日本

 NHKシリーズ、証言記録「兵士・市民たちの戦争」は、真実の積み重ねの歴史学を、「悲惨だ話」一辺倒(楽しい戦争など皆無なので、当然の話)の、善悪話にすり替えた戦後の学習を、さらにつまみ食いした兵士・市民の証言で、真実(兵糧攻め打破のための応戦)は隠蔽し、極悪侵略日本軍にだまされ、「悲惨にされた無辜の兵士や国民」と捏造、真の敵、英米蘭(宗主国)ソ(凶産)は隠蔽した。8月12日「犬の消えた日(副題が、日本軍は一般家庭の飼い犬を徴集した)」である、本土決戦となれば飼い犬も消えていた。一丸の応戦を茶化した日テレも、同類!凶産捏造の旗、「上悪下善」へ誘導する、凶産NHKの、洗脳放送である。凶産はカルト教、NHKはカルト放送局である。

 「原爆投下・活かされなかった極秘情報」8月6日「語り伊藤敏恵ディレクター松木秀文・夜久恭裕制作統括井上恭介・春原雄策」は、制空圏があったかのごとく「たら・れば」で証言者に語らせ、原爆投下責任は極悪日本軍にあるかのごとくに、放送したが、制空圏を失ったので、空爆原爆され放題の嬲り殺しとなったのだ。空爆原爆なぶり殺しの米国を隠蔽し、降伏会議で息絶え絶えの護国軍を「原爆投下放置極悪軍」となじった。ユダヤ人虐殺のナチスドイツヒトラーを隠蔽し、逃げ方が悪かったから虐殺されたと、ユダヤ人を責めているようなものだ。敵味方転倒の獅子身中の虫、亡国奴を養っている(NHKに受信料支払い、東大、京大教授らに給料支払い)国が、日本だ!米国大統領が歴史を教訓に無条件降伏にこだわった結果、ポツダム宣言と同時に、原爆投下ゴーサインも出していたので、『もっと早く降伏していたら原爆投下は無かった』というトルーマンの捏造詭弁も、NHKの捏造洗脳、崩れる。加藤陽子著「それでも日本人は『戦争』を選んだ」p74。

 国盗り合戦の戦国の世に、「日本は侵略国家ではない」等の侵略(悪)被侵略(善)論や、「先手が悪で後手は善」の善悪論や、「絶対に勝てないのに開戦し、日本を滅亡の淵まで追いやった責任」の軍人悪論や、「何の責任も無い一般国民」の国民善人論等の平和時の尺度論は、徒労で無意味。資源無き小国日本の後手、本土決戦は必滅、先に攻めなければ攻められた。応戦(先手)せずでは、日本消滅だった。先手は小国生き残りの唯一の手段で、日本軍は小国軍である。

 資源無き小国日本、戦国の世の適者生存の術は、「大東亜共栄圏樹立」以外皆無なので、開国以来の志士の理念で、自明の理なのだが、石原都知事石破茂等WGIPが根深いので、あらすじから。詳細は頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏大アジア主義に殉じた人々犯日隠蔽の歴史

 

黄禍論白人連合対大東亜共栄圏有色人連合が大東亜戦争の真実

1840年アヘン戦争。英国のアヘン密貿易を阻止し、銀の流失を防ごうとした清国と、英国の侵略戦争。

1842年8月敗れた清国は英国と屈辱的な南京条約を締結。これが中国食民治化の始まりとなった。この事件に驚いた日本徳川幕府は、異国船打ち払令を、天保の薪水供与令に改めた。

1853年7米国ペリー、軍艦4隻で日本に来航、国書提出し開国を迫った。1854年再来航し日米和親条約締結。

戦国と護国と屈辱(不平等条約)が大アジア主義の母

1858年日米修好通商条約。領事裁判権を与え、関税自主権がなく、居留地を設ける、最恵国条款を認めることなどを内容とした、不平等条約。同年英仏蘭露とも同様の条約を結ぶ。安政五カ国条約。これらの屈辱条約打破の方策と、戦国の世の護国方策が模索された。

露西亜侵略更に南下・中国食民治化加速

1860年アロー戦争(第二次アヘン戦争) 英仏連合軍北京入城、北京条約(英仏露)締結。イギリスへの九竜割譲、天津開港等の条約。露西亜は英仏仲介の代償として、ウスリー川以東の共同管理地沿海州を領土とした。王朝末期に弱体化した清朝は露西亜の進出を抑えきれず、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約2つの不平等条約によって、満州地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満州地域(現在のウラジオストクを含む)は、露西亜に征服されることとなった。露西亜はウラジオストク(ロシア語の意味“東方を征服せよ”)を建設、極東侵略の拠点とした。

露西亜対馬を占領九九年戦争の始まり

1861年2月3日~7月25日まで6ヶ月間日本の対馬を占領した露西亜艦隊。当時露西亜の南下政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣して、ロシア軍を対馬から排除。

1863年薩英戦争(英対薩摩藩)

1864年馬関戦争(英米仏蘭対長州藩)

1867年大政奉還。明治維新。適者生存の時代対応のため、軍民一丸適者生存軍と化した。戦後復職の赤化教授らは、「征服目的」と捏造し非難するが、日本開国での軍国一丸化の目的は、戦国の世の護国で、それ以外の何ものでもない。国難に際し神道日本は一丸と化すが、露西亜や中国や朝鮮は待ってましたとばかりに分裂する。分裂民族偽ロシア、偽中国、贋半島、罪日の、執拗な難癖付けは、この汚点(分裂)隠蔽のためである。他の同胞はすべて、対処不能をいさぎよく認め、日本敗北後も継承し、新秩序全世界共栄圏(植民地独立付与宣言)を樹立した。片や未だに世界や日本の火薬庫(偽ロシア偽中国贋半島罪日)である。

1868年9月8日 明治時代

1891(明治24)年7月7日、横浜に入港の清国北洋艦隊10数隻。南下露西亜や欧米に蚕食されながらも、示威行動での来日は明白であった。

 「清国は東洋の覇権をめざして海軍を増強しつつあるし、露西亜は東方進出に乗出してきている。強兵なくして富国があり得ないどころではなく国家の独立もあり得ない。軍部としては何よりも先ず軍備の充実を現下の急務と考えていた」は、当時の国民の常識(年表を繰れば一目瞭然)であった。

 日清日露大東亜戦争は、戦力分析すればとてもやれる戦争などではない。何れも戦国の世の象(侵略)と蟻(護国)戦争で、護国目的を明白にしている。先手なのは、小国戦争の後手は必滅で、小国必勝の術は先手以外に皆無だからである。

 神道日本団結民族は、列強からの多額の借款は受けず、自力更生を旨とした。偽中国、贋半島、罪日とは真逆である。

1893(明治27)年3月1日「軍艦増製に関する詔勅を発し、明治天皇が金30万円を下賜。文武官は俸給の10分の1を製艦費として差し出し、貴族富豪からも製艦費の献納を願出る者が続出、財力において軍備においてはるかに優越した大国支那を敵として戦う準備はようやく整えられた」

1895(明治28)年日清戦争(朝鮮半島や満州は、島国日本の生命線である。その朝鮮支配をめぐる、日清間の戦争)。座せば確実に亡国なので打って出た。象と蟻戦争に勝利し、清国とその属国朝鮮との分断に成功。

1895年孫文最初の武力蜂起。19世紀末の清国は、600万人の満洲人が幹部を独占して、4億人の漢民族を支配する専制国家であり、200年の泰平に溺れて、政府は腐敗しきっていた。孫文は日本の明治維新をモデルに、漢民族による近代的独立国家を作ろうと、「滅満・興漢」を掲げて、広東で蜂起したが失敗、同年11月日本に亡命した。以後孫文は、革命家としての30年の内、のべ約10年を日本で過ごした。

大アジア主義が戦国と護国と屈辱(不平等)条約唯一の打開策

 大アジア主義は、有色人で最初に近代化を成し遂げた日本をまず中心に、アジア諸民族が団結して、欧米露の圧迫に対抗するという思想。1881年玄洋社を結成した頭山満(とうやまみつる1855~1944)が唱えた。頭山満は西郷隆盛を尊敬し、西郷の言葉「敬天愛人」が座右の銘。

 宮崎滔天も日中提携によるアジア独立を目指していた。滔天は、横浜に潜伏していた孫文を見つけ出し、語り合った。

 「支那四億万の蒼生(そうせい・人民)を救ひ、東亜黄種(アジア黄色人種)の屈辱を雪(そそ)ぎ、宇内(うだい・天下)の人道を恢復(回復)し擁護するの道、唯(ただ)我国の革命を成就するにあり」と述べる孫文の悲壮の語気に、滔天は、誠に是(これ)東亜の珍宝なり。余は実に此時をもって彼に(心を)許せりと、後に記している。

 孫文もまた初対面の滔天の印象を「他人の急を救わんとのこころざしやみがたき…現代の侠客」であると評した。

 この頃、頭山満も孫文と初めて会い後に語っている。「救国愛民の革命の志は熱烈なものであった。かれは天下の財を集めて、これを天下に散ずるすぐれた能力のある人物であった。自分は四百余州(中国の意味)を統治しうる英雄と信じた」

 頭山の「大アジア主義」が滔天の「革命的アジア主義」と結びつき、頭山、滔天、孫文、による「大アジア主義日中」が一致した。

1895年日本領となった台湾を宗主国政策ではなく、極東共栄圏政策で統治した。

1900年(明治33年)日本が上海に建てた東亜同文書院の教授山田良政は、孫文と広東省恵州で挙兵したが失敗、中国革命(大アジア主義)に一命を捧げた最初の日本人となった。 

1904年汪兆銘清の国費留学生として法政大学に留学した。

1904(明治37)年3月に発行された内債第1回1億円は申し込み数134万、応募額4億5千万と、募集額の4倍以上に達した。第二回1億円は同年6月に、第3回8千万円は11月に募集されたが、いずれも応募額は募集額の3倍以上に達した。国民がいかに戦争目的を理解し、協力したかが分かろう。これらの公債に応募したのは富豪階級ばかりでなく、中産階級以下の者も、その日の生活を節して応募する風であった。また金の不足を補うというので、婦人たちは競うて指輪かんざし等の装身具を提供し、応分の奉公に努めたのである。

1904~05(明治37~38)年日露戦争

 腐敗した清国満州は、露西亜の蚕食なすがまま、ついには不凍港旅順を租借し、何時でも日本侵略可能となった。日本は南下露西亜に対処のため、「門戸開放政策」の米国に協力を仰いだが、「内政不干渉」と拒否された。がしかし、米銀行家ユダヤ人ジエイコブ・シッフが外債500万ポンドを引き受けてくれた。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、「日英同盟」を結んだ。座すれば日本は消滅、象と蟻戦争に打って出た。清国は中立国と称し他人のごとく傍観した。勝利し、韓国を保護国化、関東州の租借権および長春・旅順間の鉄道を傍観者清国の同意を得て、露西亜、日本へ譲渡。満州権益合法獲得のいきさつである。満州は複合民族社会であり、当時の満州には「馬賊」「匪賊」と呼ばれる盗賊集団が暗躍していた。そのような満州で、日本人の安全を守るために、日本軍(関東軍)が駐留した。

 日露戦争勝利は、小国(白人)や植民地や有色人の虐げられし人類の星となると同時に、白人(大国、宗主国)の標的となった。

中国の孫文「どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。――ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアに伝わりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります」

 日本はアジア・アフリカ諸国の「希望の星」になったと同時に、それまで欧米列強にはかなわないと諦めていたアジア・アフリカ諸国に、「独立」という希望を現実にした。そして、「日本の勝利」のリーダーである「明治天皇」は、虐げられし人々に強烈なインパクトを残し、次々と新たなリーダーを輩出させた。

「黄禍(こうか)論」の始まり

ドイツ皇帝ウィルヘルム二世「世界に人類の運命を決する大きな危機が近づいている。その第一回の戦争は、我ら白色人種のロシア人と有色人種、日本人との間で戦われ、白色人種は、不幸にして敗れ、日本人は白人を憎んでいる、白人が悪魔を憎むように憎んでいる。しかし我等にとって日本そのものが危険な訳ではない。統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである日本による中国の統一、それが世界に脅威を与える最も不吉なことである」

イタリア ムッソリーニ「日本に加え、眠れる獅子と称されたアジアの大国中国が、日本化されて協力したらどうなるか。日本が眠れる隣人を目覚めさせ、手を携えたとき、だれがこの2国が世界のヘゲモニー(主導権)を取らないと言い切れるか」 

1905年7月日露戦争における日本の勝利は、アジアの人民に独立への大きな希望を与えた。清国から、2~3万人の留学生が日本に来た。孫文は滔天らの支援を受け、「中国革命同盟会」を結成し、約3千の会員を集めた。中国同盟会総理となり「三民主義」を発表した。同会機関誌「民報」の発行名義所は、宮崎滔天の自宅になっている。

 汪兆銘(1883~1944)は22歳で書記長に抜擢される。同盟会の機関紙『民報』紙の編集長を務め、健筆をふるった。24歳の時に発表した「革命之決心」の一節。「革命の決心は、だれもが持っている惻陰(そくいん・あわれみ)の情、言うならば困っている人を見捨てておけない心情から始まるものだ。たとえば子供が井戸に落ちていると聞けば、だれもが思わずその子を救いたくなるだろう」

1907(明治40)年4月から4年間、蒋介石(1887~1975)は、松井岩根の支援で日本の陸軍士官学校に留学した。蒋介石の滞在中、松井は親身になって蒋の相談相手となった。

1910年4月27日汪兆銘清朝摂政の暗殺を計画して失敗、死刑を宣告されるが、無期懲役に減刑。ペナン島の華僑の娘陳璧君と獄中恋愛のすえ、後に結婚する。

1910年朝鮮併合。極東共栄圏政策で統治し、富国に励んだ。

1911(明治44)年辛亥革命。武昌での革命軍蜂起が成功すると、これに呼応して、全18省のうち、15省で革命が成功した。汪兆銘釈放され、袁世凱と孫文の提携を策している。武昌での蜂起に加わっていた日本人志士約20名のうち、数名が死傷した。日本人志士はさらに陸続と集まって、辛亥革命に参加した。北一輝はこの時、参謀役として働いている。山田良政の弟純三郎と滔天は、香港にいた孫文を出迎えにいった。蒋介石辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角をあらわす。

1912年1月1日臨時政府成立(臨時大総統:孫文)。滔天らに迎えられて、南京に入った孫文は、大総統として、この日を民国元年とし、列国に向かって、中華民国の成立を宣言した。犬養毅、頭山満の両巨頭をはじめ、滔天その他の多くの志士たちも総統就任式に参加し、感激を分かち合った。

 その年の12月に桂太郎による第3次内閣が組閣された。滔天は政界の陰の実力者秋山定輔を通じて、桂首相に孫文との協力を説いた。12月孫文は国賓として来日し、桂首相と語り合う。その結果、新支那の建設は孫文にまかせる。日本は孫文の新政権を支援し、日支協力して、満洲を共同開発する。日支協力してダーダネルス海峡以東のアジア民族の自立達成(解放)に助力するなどの密約を交わした。日本と中国が相協力して、アジア独立のために立ち上がるという孫文や滔天の大アジア主義が、両国の正式な政策として採用されたかに見えた。しかし、桂太郎はまもなく急死し、孫文も袁世凱にその地位を奪われて、失脚した。こうして日支提携密約は実現しなかった。

1912(大正元年)年清朝滅亡

1913年宋教仁は孫文と共に国民党を組織し、選挙に臨んだ。宋の国民党が圧倒的第一党となり、実権を握る宋が最大実力者となった。

1913年3月20日 敗北の袁世凱らは上海停車場で宋を暗殺した。宋は流れる血潮を押さえながら「南北統一は余の素志なり。小故を以って相争い国家を誤る勿れ」と遺言した。革命党は支柱を喪失した。

1913年春南京袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。

1913年8月5日広東の独立失敗の孫文、台湾へ亡命。

1914年袁世凱と争って破れた孫文は、またもや日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため、孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養毅を通じて山本権兵衛総理に交渉し、亡命を認めさせた。孫文がかくまわれたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家。孫文は東京で、犬養、頭山、宮崎らの助力を得て、中華革命党結成

1914年第一次世界大戦勃発。日英同盟により参戦。ドイツの中国の拠点青島、山東半島占領。赤道以北の南洋諸島制圧。

1914年孫文、宋慶齢と結婚。挙式の場所は孫文が寄寓していた梅屋庄吉邸(新宿区百人町2-23)であった。

1916年袁世凱失脚し病没した。以後群雄割拠し、中国は麻のごとく乱れた汪兆銘は「国民党史概論」において次のように論じている。「彼(袁世凱)の死するや、部下の将領は四分五裂して蜂起した。その混乱状態は、今日に至るまで全く収束されていない。…それ以来北方の反革命家は大軍閥となり、南方の変節せる革命党員は小軍閥となった…かくて14年、兵乱は絶えることなく、中華民国は太陽なき暗黒となった」

凶産得意の撒き餌を共産と見誤った癌に侵された孫文

1917 ソビエト社会主義共和国連邦誕生

1917年広東政府。孫文らの中華革命党が孫文を大元帥として、広東に樹立した。

1918ロシア共産党に改名

1918年11月11日  第一次世界大戦(WW1)終結。

1919年1~5月 パリ講和会議。人種平等への旗手 全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを見守っている。1919年パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことのないよう、国際連盟創設のための議論が進められていた。米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。しかし、日本の提案は16カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソン(民主党)の「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。大東亜戦争は人種平等を勝ち取る戦いでもあった。

1919年5月4日五・四運動。日本が戦って得た山東利権を承認した、民国政府の態度を不満として起こり、日貨排斥運動に拡大し、講和条約の署名拒否を決定させた。戦わずの中国日貨排斥運動は、中華思想のごり押しである。

191928ベルサイユ講和会議。ドイツが中国から租借していた極東の拠点青島をWW1で日本占領。このドイツ租借地を日本が継承することになったのであるが、この会議で自らも対独参戦した戦勝国であるとして、直接返還の主張を行ったのが中国全権団である。この中国の主張は、実際に戦っていないものには権利なしとする列強の意見で、青島に代表されるドイツの山東権益は日本が継承することとなり、中国側は講和条約への署名を拒否することで抗議の意志を示した。青島は、3年後の1922年2月日中条約で返還している

1919 1次カラハン宣言で、ソ連凶産党が得意の撒き餌をばら撒いた。1919(大正8)年にソ連政府は中国政府に対し、それまで中国と結んだ一切の協約を廃棄し、東支鉄道及び、満州の鉱山、森林、金鉱など一切を中国へ返還(当時はソ連の支配下ではない)する協議にはいるという第1次カラハン宣言を発した。2につづく

スポンサーサイト

真実史観自由貿易互恵の全世界共栄圏植民地独立付与宣言の起点が大東亜会議

自由貿易互恵

1919年10月10日 中国国民党結成し孫文総理となる(中華革命党を改組)

1920年1月10日 国際連盟発足。日本、理事国として加盟。提唱国アメリカ不参加。

1920年南洋諸島が日本の委任統治領となる。極東共栄圏政策で統治し、富国に励んだ。

1920第2次カラハン宣言。レーニン指導下のソ連が誕生した直後の1919年、ソ連は中国に「帝政ロシアの中国に対するすべての不平等条約は廃止されるべき(ロシア領となった外満州や賠償金返還)」との宣言を行い、中国側に、領土返還撒き餌をまいた。しかし1924年の中ソの新条約交渉時、帝政ロシアの結んだすべての条約類を廃止するとした条項が用意されたが、ソ連代表の帰国により締結には至らず。後のスターリンは不平等条約廃止の宣言を否認し、中国への領土返還を拒否した。孫文、汪兆銘、蒋介石はこの撒き餌に踊らされた。正に凶産党は捏造が党是なのだ。

1921中国共産党結成ソ連凶産党撒き餌の成果。この時、レーニンの秘書マーリンが、上海での共産党代表大会に参加し、孫文とも会って、新経済政策を吹き込んだ。また中国共産党員がコ ミンテルンの指示で、次々と国民党に入党し、主導権をとろうとしていた。 

1921年11月~22年2月 ワシントン会議。アメリカ大統領ハーデングの招請で開かれた。日米英仏伊の五大国と、中国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの計9ヶ国が参加。海軍軍縮、太平洋・中国問題に関する国際会議。九ヶ国条約、四ヶ国(日英米仏)条約が締結され、日英同盟が廃棄された。

1922年2月青島返還。日本は、日本人3万人が居住しかつ1億5千万の巨費を投資した青島を、山東懸案解決に関する日中条約によって、6ヶ月以内の還付を決定。

1922 ウクライナ・白ロシア・ザカフカス・ロシアの4ヶ国凶産化

1923年1月26日孫文・ヨッフェ共同宣言(上海)国共合作準備

 22年8月、孫文は広東軍閥陳炯明の反乱に遭い、広東を脱出して上海に着いた。彼はここで共産党員の李大釗、陳独秀らと接触し、彼らの協力を得て国民党改革を本格的に開始した。そして23年1月、ソビエト政府代表ヨッフェとともに、「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈な共感をもって援助する」という共同宣言を発表して、「連ソ容共」への転換を鮮明に示した。

1923年孫文の指示により、蒋介石ソ連の軍制を視察しての報告。ソ連はまるで誠意を持っていない。…ソ連共産党の中国に対する唯一の目的は中国共産党をその分身とすること…彼らのいわゆるインターナショナリズムとか、世界革命とかも、その実はウィルヘルムⅡ世の帝国主義となんら変わることなく、ただ名前を変えて世間を惑わそうとするものだ。

1923年孫文「しかし、われわれはまだ、日本に絶望してはいない。それはなぜか、自分は日本を愛し、亡命時代に自分をかばってくれた日本人に感謝しているからである。また、東洋の擁護者としての日本を必要とするからである。ソヴィエトと同盟するよりも、日本を盟主として、東洋民族の復興をはかることがわれわれの希望である」

1923 日英同盟失効。大東亜戦争(有色対白色)が萌芽した。

1924年1月20日第一次国共合作(中国国民党と中国共産党との協力体制。1927年7月まで、ソ連は広東政府に、小銃約23万丁、大砲100門及び飛行弾薬を送り、さらに毎年300ルーブル強の資金を提供した)。中国国民党孫文は、ソ連共産党の組織を模倣した国民党の新組織を形成し、第1次全国代表大会を広東で開催した。孫文は「民主主義を共産主義は包含している」と演説、共産主義受容発言。

 この頃から日本軍国主義批判、社会主義思想への共鳴を示し、国民党大会で容共、農工支援、ソ連承認を行った。ソ連、日本と国民党軍と日中反共戦争させて、衰えさせる、漁夫の利工作開始。

唯心日本とは異なる唯心唯物混合体国民党が孫文の苦悩

 宋慶齢(孫文未亡人)「私は孫中山(孫文)に、共産党員が国民党に入党することがなぜ必要なのかとたずねました。中山は答えました。『国民党は堕落して死につつあります。それゆえに、生き返らせるためには、新鮮な血液が必要なのです』と。堕落という言葉で彼は何を言おうとしたのでしょう?彼は、国民党員が革命精神、士気と勇気に欠け、国民党が革命の目的をかかげて創建されたことを忘れていたことを言いたかったのです。――個人的な利害が党員の行動を支配しはじめた、悲しむべき結果でしょう。

 一度ならず、中山は自分の身近で見たことに嫌悪や失望を覚えて、私に意見を述べました。『国民党は、中国のもっとも優秀な人びとと、もっとも卑劣な人たちからなっています。優秀な人たちは国民党の理想や目標にひきつけられ、一方、卑劣な人たちは、出世のステップになると考えるから入党します。もし、私たちがこれらの寄生虫どもを追い出すことができなければ、国民党にはどんな意味があるでしょうか』」

2自由貿易互恵の全世界共栄圏植民地独立付与宣言の起点が大東亜会議

1924ソ連モンゴルを侵略し征服赤化。「蒙古人民共和国」と凶産化。南下征服残る唯一の植民地候補中国満州日本を、ソ連の独裁者スターリンは虎視眈々と狙っていた。

1924ソ連ウズベク・トルクメンの2ヶ国を侵略し凶産化。

1924年5月31日中ソ国交回復

1924年6月16日孫文、広州に黄埔軍官学校開校(校長:蒋介石)

1924年9月18日孫文、第二次北伐宣言

1924年9月18日第二次奉直戦争。1920年成立の奉直連合政権の対立戦争。奉天派軍閥張作霖と直隷派軍閥呉佩孚との戦争。第一次(1922)は英米支援下の呉が勝利。第二次は日本の支援下に再起した張が、呉側の馮玉祥の内乱もあり勝利。結果呉が下野し、張が北京に進出した。

1924年12月28日馮玉祥は北京を占領すると、孫文を大総統に迎えた。孫文は上海から北京に向かう途中で、わざわざ日本に立ち寄り、頭山と対談し、講演をした。

「大アジア主義」神戸高等女学校において、神戸商業会議所外5団体におこなった、病死(肝臓癌)3ヶ月前の講演(「孫文選集」1966)

 「本日は皆様よりアジア主義と言うことについて、私に講演しろと言うお話でありました。わがアジアはとりもなおさず最も古い文化の発祥地であります。

 ・・・日華両民族は共同戦線を結成してインドの独立を支援すべきである。中国と日本とインドの三国が一体となって起ちあがるならば、西欧の帝国主義など恐れることは何もない。西欧の文化は、鉄砲や大砲で他人を圧迫し、功利強権をはかる覇道の文化である。これに対して東洋の文化は、仁義道徳を主張する王道の文化である。われわれは東洋の王道文化をもって、西欧の覇道文化に対抗しなければならない。すなわち仁義道徳を主張するということは、正義公理によって西欧人を感化することである。

 ・・・我々が大アジア主義を説き、アジア民族の地位を恢復しようとするには、唯だ、仁義道徳を基礎として各地の民族を連合すれば、アジア全体の民族が非常な勢力を有する様になることは自明の理であります。

 さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります。

 我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」となるか、或は東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」。

1924年汪兆銘は中国国民党中央委員・宣伝部長に選出。

1925年2月24日孫文の病状が絶望的になった時、後継者の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。孫文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言い、3月11日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した遺書を、孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇りとした。その遺書は、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、「革命尚未成功 同志仍須努力」(中国革命未だ成らず、同志なおすべからく努力すべし)という有名な一句を含んでいる。

 公的な問題に関する彼の最後の発言は、「平和・・・闘争・・・中国を救え」であったといわれている。

1925年3月12日朝孫文病死(肝臓癌北京にて)行年59歳。孫文の南京での国葬、犬養毅、頭山満、近衛文麿など参列。

 救国愛民の志士孫文も、各国の凶産化が侵略ではなく解放に、凶産が共産に、凶輪国が共和国に、見えたのだ。人民の植民地化に気付かなかったのだ。捏造主義に世界中が欺かれたように、孫文も欺かれたのだ。病がそうさせたのだろう。もう少し長生きすれば実現不可のおいしい空論凶産に気付いたはずだ。現に孫文側近の汪兆銘も、蒋介石も、気付いた。孫文がもう少し長生きすれば歴史はかくじつに変わっていた。

1927年4月12日蒋介石は孫文の死後、共産党勢力の排除に乗り出す。汪兆銘も偶然、ソ連から派遣された国民政府最高顧問ボロディンへのコミンテルンからの訓令の内容を知り、ソ連の真意を知った。そこには、汪兆銘、蒋介石らを駆除すること、クーデター後、コミンテルンの命令に従い党の改組を行うこと、などの内容があった。中国共産党は、まさしくソ連共産党の手先であり、それと組んでいることは、中国の自主性を奪われることであると気づいた。こうして汪兆銘と蒋介石の見方が一致し、両者は協力して南京で国民政府を組織した。上海クーデターで南京事件の主犯として中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。

1927年7月国共合作破棄。中国国民党と中国共産党分裂

1927(昭和2)ソ連コミンテルンの指令により中国共産党は武装暴動を決議し、最初のソヴィエト政府を広東省に樹立した。

1927年12月15日中国国民政府、ソ連に国交断絶を通告。

1928年蒋介石政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。

1928(昭和3)年8月27日不戦条約ケロッグ・ブリアン協定)。不戦条約の正体は、日本のような新興国家の力を制限し、それぞれが征服分割し終えた食民治の、再争奪戦防止目的の意味合いが強く、平和を基にしたものではない。極論すれば、食民治主義者が侵略で奪い取ってきた領土や権利を、新興国家日本は侵すな、植民地は紛争を起こすな、宗主国同士は争うことなく連合し、事に当たれ、という「黄禍論白人連合」条約である。

193118満州事変柳条湖事件(満鉄線路爆破)から満州事変対ソ反共戦争)始まる。

1932年3月1日満州国建国。極東共栄圏政策で助力した。

193410中華ソブィエト共和国臨時政府(瑞金)は、蒋介石第5次掃討戦(1930年から)に敗れ、長征(逃亡)開始。中国共産党軍30万人が華南華中から撤退。移動中3万に激減し、毛沢東の指導権が確立した。

1935(昭和10)年8月1日。日中戦争の始まり。中国共産党「八・一宣言」で日本に宣戦布告。「八・一宣言、抗日救国のため全国同胞に告ぐるの書」が発せられた。蒋介石の表現によれば、凶産掃討戦は「最後の5分間」の段階に来ていた。中国共産党軍の兵力は30万人から3万人に激減したため矛先を日本に変え、宣言した。赤化戦争を抗日救国戦争にすり替えた。起死回生の一発がこの宣戦布告で、日本と蒋介石国民党軍と交戦させ衰えさせる、漁夫の利作戦を本格的に開始したのだ。以後日本との交戦はすべて、国民党軍に潜入していたコミンテルンの指令を受けた中国共産党工作員による、中国凶産軍の仕業と考えて間違いはない。そしてそれは1937年7月7日の「盧溝橋事件」へと展開してゆく。

1935111汪兆銘はカメラマンに扮した刺客から3発の銃弾を受けた。危うく一命はとりとめ たが、療養のため、ヨーロッパへ渡った。

1935年12月9日「12・9運動」北京の学生の抗日運動。

1936年消滅寸前の共産党にとっては、反共で一致している日本と蒋介石を分裂させ、味方につけて、反日(赤化)戦線を形成することは、まさに死活問題であった。国民党幹部として共産党討伐に携(たずさ)わっていた張学良は、共産党に一本釣りされ、共産軍に食料や防寒衣や巨額の私財を送るようになった。

19361212西安事件。共産軍討伐のため西安に駐屯中の張学良の旧東北軍が、抗日救国反日戦争を要求し、南京から督戦に来た蒋介石を監禁した事件。凶産軍を「最後の5分間」から蘇生させたのが、西安事件である。「黄禍論白人連合」成立

1937年7月7日盧溝橋事件。蒋介石が再び親日反共掃討戦に戻らぬよう、クサビを打つため、「最後の5分間」の段階の凶産党が、抗日戦争を仕掛けたのだ。

1937年7月8日「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンデ兵力ヲ行使スルコト避クベシ」7月8日付けの日本軍の不拡大方針を指示した電報の原文が靖国神社の遊就館に展示してある。

1937年7月11日盧溝橋事件そのものは国民党政府軍の宋哲元が、正式陳謝し、責任者を処罰し、部隊を撤収させることで解決(現地協定)をみていた。日本政府は不拡大方針を示し、11日現地で停戦協定が結ばれた。ところが事件を機に日中間の全面衝突赤化戦争に発展させようとするソ連・コミンテルンの策動が行われた。

1937年7月29日通州事件(中国人保安隊の日本人虐殺事件)通州において、婦女子を含む日本人居留民約2百名が目をくりぬかれるなど、残酷な強姦・虐殺事件があった。中国側の謝罪、慰藉金支払いで落着はしたが、この事件をきっかけに、日本国民と日本軍の間には激しい怒りが支那側に向けられることになり、日中間で対立が極度に激化し、凶産の思う壺となった。

1937年8月9日大山事件は、国民党軍に潜入していた中国スパイによる日本将兵虐殺事件。中国兵の死体を現場に置き、偽装工作。

1937年8月13日第二次上海事変。上海では事を起こさないと言う蒋介石の方針に反し、国民党に寄生したコミンテルンは非武装地帯に陣地を構築し、日本の陸戦隊を挑発し8月13日先制攻撃を開始した。中国空軍のマルチン爆撃機は共同租界フランス租界などところかまわず爆撃し、千二百数十名が犠牲になった。14日応戦し、各地飛行場、翌15日には、南京・上海方面に対し、渡洋爆撃し、敵空軍基地に打撃を与えた。このように凶産党は、国民党に寄生し、党勢を拡大するという秘密指令を実行していった。日中戦争本戦。

1937第二次国共合作(中国国民党と中国共産党との協力体制)。日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。

1938年11月3日第二次 近衛声明(対日協力と和平を呼びかけた東亜新秩序声明)

 近衛の『東亜新秩序声明』は日中(黄禍論有色人)連合で、白人が畏怖する連合である。使い方を間違えると対白人への戦争必至宣戦布告声明となる。深慮無き声明は、西安事件以後連合した「黄禍論白人連合」の火に油を注いだと言える。近衛側近凶産の画策か。

1938年12月第三次近衛声明。近衛三原則(善隣友好・日中防共協定締結・経済提携)

1938年12月月20日汪兆銘は、副総裁の座を捨て近衛三原則に呼応し、反共親日を唱え重慶を脱出しハノイ経由で南京入りした。

極東共栄圏樹立に尽力「アメリカ人の鑑・日本」ヘレン・ミアーズ著

第三章の1「蒋介石のオーストラリア人顧問W・H・ドナルドが、ルソンの日本の抑留所から解放された後の記者会見によれば、日本軍は1938年から1940年に至までの時期に、『十二回講和提案』を行ったとのことである。ドナルド氏の略述したところによれば、日本側の条件は、中国に有利だった。日本軍はただ、満州国の独立承認、北支におけるある種の経済的及び開発権益、及び「外蒙からのソ連勢力の拡張防止のため、内蒙の政治的調整」を要求したに過ぎなかった。ドナルド氏の言によれば日本は『これらの提案の中で、何ら領土的要求はしなかった』」

※中国225万人、ソ連130万人、日本25万人。日中戦争の常備軍の兵力である。いつでも中国とソ連は合体し4百万の兵員と圧倒的優位な資源で日本に対する恐れがあった。中国赤化で日本の命運は尽きる(戦後の朝鮮戦争が証拠)。日中戦争(支那事変)は、日本の護国(防共)戦争である!第二次国共合作(1937年9月)後も、蒋介石に「防共」を呼びかけたが、米・英・仏・ソの「黄禍論連合」にがんじがらめの蒋介石は、梨のつぶてであった。

 日中戦争(支那事変)は「黄禍論」に惑わされた米・英・仏の凶産無知が、起因と言える。と同時に、日本助力後の満州の大躍進を目の当たりにした「黄禍論白人連合(米・英・仏・ソ)」にとって、日中有色人連合は恐怖であった(凶産無知のため、防共連合を有色人連合と錯覚した)。戦国時代は相互が疑心暗鬼、不可避の戦争となった。

 

1940年3月30日汪兆銘(南京)政府成立。日本(台湾、朝鮮、南洋)と満州(五民族)の極東共栄圏に、孫文後継筆頭汪兆銘南京が加入し、極東共栄圏から拡大、大アジア共栄圏を目指した。その第一弾が唯一の独立国タイ国との交渉である。大東亜政策の趣旨のもとに平和的交渉が進められ、その結果が下記。

1940年6月12日大東亜政策の趣旨のもとに、日泰友好和親条約締結。

1941年5月9日保証および政治的諒解に関する日泰閣議定書を締結し、相互に善隣友好関係、経済的緊密関係を約した。

 応戦後も。「1941年12月21日、日泰同盟条約を締結し東亜新秩序建設の趣旨に合意し相互に独立および主権の尊重を確認しかつ和平的軍事的相互援助を約した。1942年10月28日には日泰文化協定を締結して両民族の精神的紐帯強化することを約した。1943年8月20日帝国はマレーにおける日本の占領地域中の旧泰国領土中マレー四州すなわちベルリス、ケダー、ケランタン、およびトレンガンならびにシアンの二州ケントン、モンパンを泰国領土に編入する条約を締結した」で、継続している。

後付論者」は凶産隠蔽の半端者

 渡部昇一は「東條英機歴史の証言」で、「たしかに、ここでも認めているように、『東亜の解放』という理念は、開戦後の後付けです。はじめからその理想をめざして戦争を始めたわけではないことは、認めているのです(P470)」と検証が半端である。加藤陽子も遡り日本史NHKで「後付け」とけなしている。東條英機宣誓供述書「東條内閣はこれを承継して戦争の発生とともに之を以って戦争目的の一としたのであります」とあるように、後付ではない!民間の高村光太郎なども開戦時歌に詠んでいる。戦争の勝敗よりも「戦争目的の一」としたのだ。「後付論者」はすべてつまみ食いである新聞も下記のように報道。

「大東亜戦争開戦に当たっての『帝国政府声明文』」昭和16年12月9日の朝日新聞夕刊

 「――而して、今時帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亞を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を頒たん祈念するに外ならず、帝国はこれら住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり」

 大東亜戦争開戦直前までのあらすじが、少年倶楽部にも掲載。誰でも分かりやすいので、クリック必読!昭和16年4月号高瀬海軍中佐に 太平洋戦のお話を聞く昭和16年12月号少年時局問答「日本の覚悟」木村 毅著
 

1941年11月26日妥協案をすべて拒絶し降伏を要求した「ハル・ノート」をハル国務長官は、日本に手渡した。ハルノート要旨

(1)日本陸海軍はいうに及ばず警察隊も支那全土(満州を含む)および仏印より無条件に撤兵すること。

(2)満州政府の否認

(3)南京国民政府の否認

(4)三国同盟の死文化。

 「ハルノートでは、どんな小国でも戦うだろう」と、東京裁判で、米軍弁護士等、数多の人が証言している。3につづく⇒

真実史観天皇不訴追に尽力クエーカーフェラーズ一色ゆり河井道グルーとフーバー

3天皇訴追

東條英機宣誓供述書

 「ソ連邦にたいし、侵略をなせることはもちろん、これを意図したこともありません。・・・日本陸軍の対ソ作戦計画の本質は対ソ防衛であります。その計画の内容に攻撃の手段を含んでおりますが、これは国家が万一開戦を強いられた場合において採るべき戦闘手段を準備計画せるものであり、わが方より進んで戦争することを意味するものではありません。

 けだし、共産主義政策の東亜への浸透を防衛するにあらざれば、国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を撹乱し、ひいて世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。これがため、区内政策としては1925年(大正14年)治安維持法を制定し(若槻内閣時代)1941年(昭和16年)更にこれを改定し、以って国体変更を戒め、私有財産の保護を目的として共産主義による破壊に備え、また対外政策としては、支那事変において、中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるにかんがみ、共同防衛を事変解決の一条件とせることも、また東亜各独立国家間において「防共」を以って共通の重要政策の一としたることも、これはいずれも東亜各国共同して東亜を赤化の危険より救い、かつ自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。これら障壁が世界平和のためいかに重要であったかは、第二次世界大戦終了後この障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁にこれを物語っております」(注・中国満州北朝鮮南樺太千島列島を支配し、そして、この東條供述から3年後の1950年、朝鮮戦争が始まった。満州、朝鮮、台湾、南洋、汪兆銘南京、日本の、極東共栄圏が凶産の砦であった証拠である

ダグラス・マッカーサー証言1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会)

 「過去100年においてアメリカが犯した最大の外交的過ちは、シナ大陸において共産主義者の勢力がのさばるに任せてしまったことである。・・・」(注・共産主義に対してのルーズベルト等の無知を、非難している。日本の対中戦争は中国征服ではなく、反共戦争と、マッカーサーは体験し、明確に認識した)

 資源無き小国日本の真の独立(兵糧攻め防御)は、桎梏するブロック経済を破壊しての自由貿易平等の確立と、南下する世界征服が目的の凶産ソ連防御である。単独では限界ありなので、連合での防御極東共栄圏を腐心し、樹立した。しかし、頼みの中国、再三再四の攻略せずの呼びかけを逆手に取り、逆に付け上がり、長期戦となってしまった。

 一国単独独立では、タイや日本と同じ状態(ブロック経済に桎梏され、結局は隷属となる)になるので、真の独立は極東共栄圏を拡大した「大東亜共栄圏」樹立が条件。このカードは、各国が一致一斉独立し、互恵連合しなければ、成立しない。日本極東共栄圏交戦意志と、食民治の一斉一致の独立意志が合致しなければ成立不可能な、切るタイミングが非常に難しいカードである。

 あからさまな降伏要求「黄禍論白人連合」のハルノート。降伏は日本必滅。事ここに至っては日本必勝の秘めた切り札極東共栄圏を拡大「大東亜共栄圏」を掲げ、応戦以外に道無しとなった。この切り札は、宗主国対食民治の大戦争となるカードなので、弱小国日本、「肉を切らせて骨を切る」覚悟が無い限り、軽々しく切れないカードなのだ。応戦は、換言すれば、開国以来桎梏し続けた黄禍論白人連合経済ブロックから、一気に脱出のチャンスでもあった。近衛は深慮なく切って、「黄禍(日中)連合」を恐れる「黄禍論白人連合」の炎に油を注いだが、東條英機は、前述のタイとのように、「仏印更に蘭印友好的経済的提携に務る中で、死中の活と判断、日本の真の独立への唯一のカードを、「包囲陣脱出」を懸け、「切るはまさにこの時」と、切った。

1941年9月6日の御前会議で奉答永野修身(1880~1947)軍令部総長

 「・・・尚一言附け加へたいと思ひますが。平和的に現在の難局を打開し、以て帝国の発展安固を得る途は、飽く迄努力して之を求めなければなりませぬ。決して、避け得る戦を是非戦はなければならぬと云う次第では御座いませぬ。同時に又、大阪冬の陣の如き平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬ様な不利なる情勢の下に、再び戦はなければならぬ事態に、立至らしめることは、皇国百年の大計の為、執るべきに非ずと存ぜられる次第で御座います

 本日申述べましたる中、作戦に関しますることは、戦争避くべからざる場合に対する所見に付、之を開陳したる次第であります」「太平洋戦争への道」別巻資料編512P

東條英機宣誓供述書

 「日本は止むを得ず、自存自衛のため、武力を以って包囲陣を脱出するに至りました。右武力行使の動機は申すまでもなく日本の自存自衛にありました。一旦戦争が開始せられた以後においては日本は従来採り来った大東亜政策の実現すなわち東亜に共栄の新秩序を建設することに努めました。――歴代内閣が大東亜政策を提唱いたしましたことはこの憂慮より発したのであって、東條内閣はこれを承継(しょうけい・継承)して戦争の発生とともにこれを以って、戦争目的の一としたのであります」。・・・

 

 反共の砦日本が撤退するや否やソ連は、中国と韓半島を瞬時に支配した。アメリカと国連軍が総がかりでなんとか韓半島半分まで押し戻したが、66年後の現在も、停戦のままで終戦には至らず。これが史実。この史実が物語るのは、日本累積砦がいかに強大な反共の砦で、共和党フーバー大統領の見識がいかに正当で、NHKや東大らの御題目「不戦は平和」がいかに空論で、応戦は先憂後楽との、証明である。つまり、不戦=撤退すれば、見捨てた同胞支援は当然皆無の孤立無援、対「兵糧攻めカード所持者黄禍論白人連合」に、丸裸の日本などは潰えて、分断され、消滅していた!

 よしんば「止めたとしても」アメリカのみが敵ではない、水と油の「黄禍論白人連合」なのだ。世界征服が野望のソ連南下は必然。弱体日本と見るやいなや、終戦なのに北方領土を征服したではないか、火事場に乗じ、癌国すらも竹島を、火事場泥棒したではないか、あれが現実である。水と油の「黄禍論白人連合」ではあるが、米英が、日本に助力したかどうかは、はなはだ疑問である。見捨てた同胞アジアの支援は、当然無い。外堀埋めて(生命線の満州韓半島そして汪兆銘名南京無くして)大国凶産ソ連中国と、どう戦うのだ。日本国内が戦場となり、唯物対唯心日本の戦いである、まさに一億玉砕の壮絶な戦いとなっていたであろう。日本は消滅し、日本人は、死に絶えていたかも知れないのだ。終戦後、共産は凶産に気付いたアメリカは、凶産の砦日本(フーバー大統領の発言)を瞬時に理解し、大東亜食民治独立戦争も助力となり、統治は緩和され、分断もされず、独立も、領土返還も速まった。

 

 永野修身の御前会議の言葉、「大阪冬の陣の如き平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬ様な不利なる情勢の下に、再び戦はなければならぬ事態に、立至らしめることは、皇国百年の大計の為、執るべきに非ずと存ぜられる次第で御座います」は、この事を語っているのだ!

 

 戦後のお馬鹿作家やマスコミは、両極つまみ食い極端論「開戦派・和平派」と色分けするが、当時の兵力や輸入依存度をみれば、皆「和平派」。「和平」に八方尽力の果て、逆に、米国の揺ぎ無い本心は、「最後に残った唯一の有色人の星、日本を潰しての、白人完全支配の食民治化」であることを思い知った。結果、「座しても死、戦っても死」なら、「戦っての死」と、皆「開戦」に同意したのだ。米国の本心看破以前は、皆「和平派」で、本心喝破後は、皆「開戦派」で団結が、真実である!

 

 その時代の先人が、禍福を糾い、熟慮と苦渋の果てに下した先憂後楽の決断を、「たら、れば」の空論で非難は、子孫にあるまじき愚行である!

 一度弱みを見せればつけ込むのが戦国の常識(竹島北方領土が実例)。再度の資源封鎖で万事休すは明白で、戦わずの降伏は、同胞に対しての開国以来の信義がすべて水泡と化すため、同胞蜂起に一縷の望みを懸け、決起した。

 人類の最後の砦日本がつぶれれば、有色人の東亜は思いのままに蹂躙される。かくして自由貿易民族平等の平和、真の独立へ向け、決然と起った。戦争に勝っても負けても、ブロック経済破壊無き(東亜からの宗主国の排除)は、子孫への禍根で日本の敗北。最後の最後まで辛抱した末の応戦で、唯一の一縷の術が大東亜共栄圏だった


「十二月八日の記」高村光太郎(開戦時58歳1883~1956)

 「聴きいくうちにおのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡がくもって来た。私はそのままでいた。奉読が終わると、みな目がさめたようにして急に歩きはじめた。私も緊張して控え室にもどり、もとの椅子に座して、ゆっくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかえした。頭の中がすきとおるような気がした。

 世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られ昨日は遠い昔のようである現在そのものは高められた確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった

 この刻々の時間こそ、後の世から見れば歴史の急曲線を描いている時間だなと思った。・・・またアナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行ってみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が奉じられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報(しょうほう・勝利の知らせ)が、少し息をはづませたアナウンサーの声によって響き渡ると、思わずなみ居る人達から拍手が起る。私は不覚にも落涙した」

「十二月八日の記」を引用して語る林房雄(開戦時38歳1903~1975)の思い

 「明治と大正を生きてきた日本人の感慨であり、涙である。高村氏は西洋の文明と文化の価値を知っている詩人である。にもかかわらず、政治的軍事的には、西洋が日本の圧迫者であることを、すべての明治人・大正人とともに知っていた――果たしてこれは大正に生れて昭和に育った世代には、わからない心情なのであろうか?」

 NHKや東大京大等の戦国隠蔽「戦かわざれば平和」は、全くの空論で、選択不可。「応戦」には望みがあったが、「戦かわず」は必滅が、戦国時代の常識。日清日露大東亜と、いずれも象と蟻の戦争で、応戦理由もまったく同じである。

日本の言行一致「大東亜共栄圏樹立」が戦争目的

1943年7月タイへ旧領地返還。東条首相はバンコックを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタイに戻した。タイ国民は躍り上がって喜んだ。

1943年8月1日 ビルマ独立。

1943年10月14日 フィリッピン独立。

1943年10月30日 日中不平等条約を撤廃し、対等の関係にした。

1943年11月5日~6日虐げられし国々の団結と戦い・東京開催大東亜会議と大東亜共同宣言

大東亜会議

 戦後復職赤化教授岩波書店は、「日本傀儡の指導者を集めた茶番劇」と捏造し、日本救国同胞を貶め、隠蔽している。岩波新書「昭和史(新版)」にはまったく記載が無い。岩波書店捏造赤化出版社、即刻不買破壊が道である。

 日本(台湾・朝鮮・南洋)(東條英機首相)、満州(国務総理帳恵景)、中華民国行政院長汪兆銘)の極東共栄圏と、タイ(総理大臣ピブンの代理,ワンワイタヤコーン殿下)、自由インド仮政府(チャンドラー・ボース主席)、フィリピン(ラウレル大統領)、ビルマ(バモー大統領)が出席。共存共栄・自主独立を尊重・伝統を尊重・互恵提携・人種差別を撤廃・資源を開放(貿易の自由化)などを定めた「大東亜共同宣言」を採択した。食民治・凶産経済ブロック以外の、桎梏無き第三経済圏AU(Asia Union)(アジア連合)を目指したのだ。

 まだ独立していないので正式参加ではなかったが、インドネシアからスカルノ(独立後の初代大統領)とハッタ(独立後の初代福大統領)も来日し、皇居に招かれ、天皇と対面した。

 タイ国代理は、戦国の世の処世術で、日本も承知済み。タイのピブン首相は1957年軍事クーデターで失脚、日本に亡命し神奈川県で亡くなっている。

 南京政府代表汪兆銘の演説「日支両国は兄弟と同様であり、日本はかって不平等条約の束縛を受けたるため発奮興起し、初めてその束縛を打破し東方の先進国ならびに世界の強国となった。中国は、現在同様に不平等条約破棄を獲得せんとしつつあるものであり、日本の十分なる援助を切望するものである。中国の解放はすなわち東亜の解放である」

大東亜共同宣言(東條英機は手帳「修養録」に自記し、常に軍服の上衣のポケットに入れて、肌身離さず持ち歩いていた)

 「抑(そもそ)も世界各国が各(おのおの)其の所を得相倚(あいよ)り相扶(あひたす)けて万邦「ばんぽう(万国)」共栄の楽を偕(とも)にするは世界平和確立の根本要義なり。

 然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞(たくま)しうし遂には大東亜の安定を根底より覆(くつがへ)さんとせり。

大東亜戦争の原因茲(ここ)に存す。

 大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏(しっこく・手かせ足かせ)より解放して其の自存自衛を全(まっと)うし左の綱領に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す」。

一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す

一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す

一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚「こうよう(高める)」す

一、大東亜各国は互恵「ごけい(相互に図りあうこと)」の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す 

一、大東亜各国は万邦との交誼「こうぎ(親しい交わりを)」篤(あつ)うし人種差別を撤廃し普(あまね)く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運「しんうん(進歩)」に貢献す」

 これが、平等平和互恵自由貿易連合大東亜共栄圏のいきさつである。

 欧米列強と露西亜(後のソ連)の侵略や、ブロック経済の戦国時代に、日本単独対処不可能は、誰の目にも明らか。対抗手段としての共栄圏発想は、国内的には露西亜の対馬占領1861年が起因で、対外的には中国孫文と日本の日中連合構想が最初。汪兆銘が引き継いだが、蒋介石毛沢東が欧米ソの傀儡となり、中国が3分裂したため、日本は近衛声明(東亜新秩序)から2年後、応戦前の1940年、極東共栄圏を大東亜に拡大して提唱、唯一の独立国タイ国等大東亜に呼びかけ、大東亜会議で大東亜の意志統一を再確認し、世界に宣言した。

そして実行した

1944年3月~7月インパール作戦(大東亜共同宣言を実行した日本の、インド独立支援戦争)

 この作戦は色々批判もあるが、日本の本意を世界に示した戦いであった。この作戦が無ければインドの独立もなかったし、アジアの独立も無かった。先人が流した赤心の血適者生存の心(大東亜団結戦争、大東亜の適者生存、ひいては日本のために戦った)が、インドの独立アジアの独立をうながしたのだ。さらにこの流した赤心の血(適者生存の心)は現代の世界の史家や、かっての敵将の覚醒をもうながし宗主国撤退の起因となった。皆、この作戦より、日本の本意にたどり着いている。

 ネルーもガンジーもラダ・ビノード・パールも、インパール作戦以後翻意している。NHKや朝日などの工作員は、インパール作戦以前のこの方々の反日証言を、針小棒大に報道している。なぜ翻意したか、インド独立のため、ひいては日本のための比類なき適者生存護国の戦いざまを、目の当たりにしたからである。

  昭和19(1944)年3月、日本陸軍(牟田口廉也第十五軍司令官)とインド国民軍合わせて十万の将兵が、アラカン山脈を越えて進撃を開始し、一時はコヒマを占領しインパールの周辺まで突入したが、弾薬、食糧の補給が途絶し、飢餓と悪疫が重なって撤退を余儀なくされた。

 インパールの山野は「白骨街道」と化し、日本軍の死者は三万、戦病者は七万。インド国民軍は数千人の犠牲者を出した。

元クルガ兵(ネパール人)の証言

 我々は世界最強の傭兵だ。第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。インド軍は1日で降参させた。だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。

英軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将

 かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追いつめられたとき、前途に横たわるものは生き地獄だった。日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくして敗れた。兵理である。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れた。しかし、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。『すなわちもし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』

日本軍に関する報告書

1、日本軍はアアジア諸民族の眼前で、彼らがとてもかなわぬと思っていた欧米軍を、一挙に爆破した。

2、とても独立の意思も能力もないと思っていた植民地民族を、戦時中の短期間に組織し訓練し、強烈な愛国心をかきたて、軍事力も行政力も見違えるばかりに変貌させた。いわゆる「metamorphosis(魔術的変化)」を遂げさせた。このことは、当時の連合軍の誰も予想できないことであった。

3、日本軍は敗戦すると、連合軍との間に交わされた停戦協定に基づいて、武器は全部連合軍に引き渡すことになっていた。ところが、日本軍はインドネシア軍に『武器が奪われた』と称して巧妙に裏で武器を渡していた。それによって、これまで『猫』のようにおとなしかったインドネシア人が『虎』に変身し、ついに独立を達成したのである。回想記「ビルマ戦線の大逆襲」ルイス・マウントバッテン。

マウントバッテン司令官ネパール国王の戴冠式パーティの席での皇太子殿下(現天皇)への言葉

 インド独立のための工作をした藤原岩市中佐が、インパールへの遺骨収集実現のためインド側と交渉し、昭和50年(1975年)に無事それを実現させ、現地の人々の予想外の協力を得て帰国した。その模様を東宮御所に参上し、皇太子殿下(後の今上天皇陛下)に報告されたときに皇太子殿下が、マウントバッテン元帥の言葉を仰せになられた。

 「藤原さんの報告を伺って、事の次第が分明いたしました。先月、ネパールの戴冠式に参列した節、パーティの席で、英国首席随員・マウントバッテン元帥が私を捉えて、いとも懇ろに『過ぐる戦争中、私が東亜連合軍総司令官として、印緬戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう』と激賞してくれた」(藤原岩市「進めデリーへ」の反響に想う)

 かつての敵将も、インド独立のため、ひいては日本のために流した日本赤心の血に、日本の本意を見たのだ。そしてイギリスは大乱にせず、宗主国から撤退し、他の宗主国も習った。英断である。

アーノルド・トインビー(英国歴史学者)

 「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の汎神でないことを明らかにしたことである。」(1956年10月28日、英紙「オブザーバー」)

ロンドン大学教授のエリック、ホプスバウ

 日本では殆ど知られていないが、インド独立のきっかけも大東亜戦争にあった。英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授のエリック、ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著「過激な世紀」の中で、「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく日本軍とチャンドラ、ボース率いるインド国民軍(I N A )が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた」と述べている。4につづく⇒

真実史観終戦のエンペラーあらすじの真実天道に額ずいた昭和天皇と日米の人々

天道に額ずいた人々

終戦後3年1948年出版「アメリカ人の鑑・日本」ヘレン・ミアーズ著

第九章の5誰のための共栄圏か

 ・・・私たちは「世界を征服し奴隷化する」野望に燃えた軍国主義的侵略者、日本の姿にとらわれすぎ、日本が「白人ブロック」の「奴隷体制」から、太平洋地域と「アジアを解放する」というスローガンの下に、日華事変(日中戦争)と第二次世界大戦を戦っていることを、見ようとしなかった。・・・1931年の満州から1941年のインド国境まで日本が破竹の勢いで進出できたのは、アジア・太平洋諸国をヨーロッパの政治・経済的支配から解放するという大アジア建設計画(大東亜共栄圏)のダイナミックな革命的魅力が起因。

 ・・・開戦当初の日本は、ほとんど銃火を交えないで戦果を収めている。

 ヨーロッパのアジア「領有者」たちは、日本軍からの逃亡ではなく、現地住民の敵意からの逃亡だった。私たちが「解放」戦争と呼んでいたものは、実はヨーロッパによるアジアの再征服(恥ずかしいことに、アメリカが手を貸した)だったのである。

 ルーズベルト大統領は・・・アジアの民衆は日本の奴隷になることを望んでいないといった。まったくそのとおりだ。しかし、歴史的に見てアジアの民衆を「奴隷にしていた」のは日本ではなく、私たちが同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国であることを、ルーズベルトは隠蔽したのだ。

 日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返している。戦争中にもかかわらず日本は、実際に、占領したすべての地域に現地「独立」政府を樹立していった。

 たとえば、フィリピンは1942年10月14日に「独立」を獲得している。これは私たちが二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。ビルマは1943年8月1日に「独立」した。マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。マレーではインドの代表的指導者、ボースが率いる自由インド亡命政府が樹立された。ボースはイギリスに宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍とともにインドへ進撃した。今日の、インド代表的指導者の中には、イギリスの政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者(ガンジー)の、長く実りない平和的手段(非暴力主義)ではなく、ボースの隠然たる脅威、(イギリスに)忠誠心のないインド軍、そして日本軍だったという人もいる。

 日本の初期段階の勝利から、再び戦争の潮(再征服の欧米軍)が押し寄せてくるまでの比較的平和な期間、日本の「保護」のもとに樹立された現地政権は、かなりの安寧秩序を達成していたようである。

 たとえば、戦争中に「独立」したビルマは急成長する国として紹介されている。独立から一年間で、12ヶ国(フィリピン、中国南京政府、満州国、ドイツ、その他の枢軸国を含む)がビルマ政府を承認した。ビルマ政府はまず土地を農民に配分してから計画に着手した。ビルマ国立銀行、物資統制委員会を設立し、経済を安定化させ、戦争が国民与える影響を最小限にとどめようとした。これらの計画は日本人の利益のために、日本人によって促進(指導)されていた。しかし、これは現地の人々にとっても大事なことだった。彼らの独立が法的擬制であったにしても、かっての植民地としての地位を越える一歩だった。(注・時は戦時下、保護下の指導は当然で、素人の指導は傀儡とは言わない、教育と言う)

 もしヨーロッパ諸国とアメリカがアジアの植民地に戦争をもち込まなかったら、現地独立政権は彼らの共栄圏発展のために、喜んで日本に協力しただろう。そう考えられる証拠は十分にある。1943年11月、大東亜「解放」諸国会議が開かれ、「共同宣言」を採択した。日本のジャーナリズムが「大西洋憲章」になぞらえて「太平洋憲章」と呼んだものである。太平洋憲章によれば、大東亜共栄圏の目的は西洋の支配から自由を勝ち取り、世界の平和と繁栄のため、文化、経済の両面での発展を図るというものだった。

 ある日本の記者はこう説明している。「これまでの統治者が搾取を目的としてこれらの諸国に押し付けた植民地的、半植民地的経済構造は排除されるだろう。そして、遠隔地の領主のために働くのではなく、住民の幸福を図る経済システムに置き換えられるのである」。

 太平洋憲章はこういう。「大東亜諸国は世界の国々との友好関係を培い、人種差別撤廃と文化交流の促進を図り、資源を広く世界の利用に供するために、ともに努力し、人類の進歩に貢献するものである」。

 私たちは戦争中日本に協力した現地政権はすべて傀儡であると、いとも簡単にきめつけてきた。確かに自己利益のために、日本に協力したものもいた。しかし、当初、現地住民が日本のプロパガンダと計画に熱烈に応えたのは、法的擬制の「自由アジア」というスローガンを現実のものとして考えたかったからだろう。日本に協力したのは、ほとんどの場合、それぞれの国を代表する人たちだった。彼らはナチスの協力者とは違って、対日協力の動機は純粋に愛国心であると胸を張っていえた。なぜなら、戦争は日本と現地政府の間ではなく、日本とヨーロッパの異民族支配者との間で戦われていたから。

 アメリカがすでに自由を約束していたそのフィリピンでさえ、単なる傀儡的人物として切って捨てることのできない人々の中に、日本は協力者を得ていたのだ。たとえば、ケソン大統領の閣僚だったヨルヘ・バルガスである。彼は大統領がアメリカに亡命する前にマニラ市長に任命された人物だが、1944年10月14日、フィリピン独立一週年を祝うために、フィリピン共和国から大使として東京に送られている。バルガス大使はこの記念式典で次のように演説した。

 「しかし、大日本帝国は軍政を撤廃し、フィリピン共和国の独立を承認するというこの上ない形で、その高邁な精神と理念を証明した。帝国はそのすべての制約と宣言を誠実に守り、フィリピン国民が憲法を制定し、自らの文化と伝統に調和する国家を樹立する最大の機会を開いたのである。・・・

 大東亜において・・・日本帝国は、あまりにも激しく、あまりにも不当に圧制暴虐の侵略者として非難されているが、その寛容と自由の実践は世界も驚くであろう。日本は帝国ではあったが、・・・一つの共和国を認め、まさにその樹立に参画した」・・・。

 賛同しての一斉蜂起は、日本敗戦後も続行、宗主国の翻意となり、撤退(食民治主義崩壊)、米軍の日本占領統治も緩和され、早期の独立と相成った。残滓は凶産(偽中国、贋朝鮮)と偽ロシアと贋国と罪日のみ。

TPP論争に欠落日清日露大東亜戦争は食糧確保生存が目的の適者生存戦

世界中が戦国時代の弱小国適者生存の術が共栄圏

 1騎馬文明(モンゴル)2帆船文明(スペイン・ポルトガル)3化石燃料文明(イギリスのワットから)と、これまで三度の文明伝播(世界一体化)の波が日本に押し寄せた。第3波の較差に驚愕した日本は、歴史に従い、天皇の基に団結し、開国し、日本存亡の危機に対処した。

 戦国時代の資源なき小国日本の開国は、自給自足から、輸入加工輸出国への転換となリ、同時に兵糧攻めが弱点となった。結果、開国以後の日本は、戦国時代の防衛と、兵糧攻めへの対策、軍事と資源確保が護国の要となり、そして資源なき小国の宿命、対策の後手は必滅、先手のみとなった。

 TPP論争に欠けているもの。生命体はおしなべて衣食住ではなく、食衣住。世界が食糧危機に陥った場合、自国優先は当然で、輸出せずは当たり前、余してもいいから、食料確保自給自足は国の根幹。

 日清日露大東亜戦争は、露西亜、凶産ソ連中国、列強食民治主義の、ブロック経済を破壊、食糧確保し生存するのための、適者生存戦争であった。

 時代対処のため戦国の世に開国し、自給自足(江戸初期1600年1227万人で、121年後の1721年3128万人に倍増したが、以後は、125年間江戸末まで横ばい間引きと推察されるで、1846年3230万人。つまり、これが、当時の日本の、自給自足限界人口棚田は、日本民族自給自足苦闘の証し!)から輸入加工輸出国に転換、85年で人口倍増(昭和6年1931年6500万人なので、自給自足に後戻りは、二人の内一人が餓死者)。迫る清国とその属国朝鮮、南下する露西亜、そして凶産ソ連と食民治主義連合、そして更に巨大化した黄禍論白人連合との対峙と、まさに未曾有の時代であった。先人はこの死活(負ければ二人の内一人が餓死者)の時代を、一丸で命を懸け、子孫に禍根を残さずと、日清日露大東亜、すべて先憂後楽で対処した。資源無き小国、援軍のあて無き籠城や後手は確実な餓死。全て先手、外地戦は、古今東西小国戦法の、定法である!※人口推移資料は、「図説・人口で見る日本史・鬼頭宏著PHP2007」。

 マッカーサー証言「1951年5月3日・彼らが戦争を始めた目的は、大部分が護国(by security)のためだったのです」は、このことを看破した、証言なのだ。ベンブルース等、弁護人の弁護も同類である。

 先人は最悪の中で先憂後楽の選択(応戦)をして果てたが、墓標となり、虐げられし諸民族が継続し続け、開闢以来の戦国を、ブロック経済を、破壊、新秩序自由貿易と互恵を産み、人類の総意(賛成89、反対0、棄権9)で現代の全世界共栄圏(植民地付与宣言)を築き、平和をなした。

 少なくとも、俯瞰した三次元史観が、子孫の思索であろう。先人が余りにもあわれだ。ましてや愚弄や善悪の二次元史観や、「九条」が平和の源などとの世迷いごとは、追随した同胞への、この上ない侮辱である。

その1占領軍が最も恐れたもの「大東亜会議の主催者東條英機の「解放の戦士」としての神格化」

「ハル・ノート」で知られるコーデル・ハルの言葉と解放の戦士日本国の痕跡の排除

 ハルは終戦前年の秋、「日本は敗れても、解放の戦士としてアジアに影響力を残すだろう。その影響力を排除しないと欧米のアジアの植民地支配は終わり、マッカーサーのいう『米国の未来はアジアとその周辺の島々(の支配)にかかっている』という夢も無駄になる(大統領文書44年10月5日)」と。ルーズベルトに警告している。戦後日本の名残を消し去る作業は、あの「戦場にかける橋」の泰緬鉄道をはじめとし、パラオや、アジア各地でも見られた。彼らは、すべてを消し去ったあと、もっと積極的に日本の否定的イメージを植え込んだ。「日本は侵略国家」だとか「残虐非道」だとか、「極悪日本」だとかと。

 大東亜共同宣言に基づき一斉蜂起している大東亜。ただの処刑では大東亜会議の主催者東條英機は、殉難者になる。貶めての処刑が前提条件となった。手始めが「解放の戦士剥奪失墜作戦であった。「自決未遂」作戦は開始され、東條英機は66年後の今日も、日本国民から愚弄され続けている。

大東亜会議の主催者東條英機からの殉難者剥奪作戦

 午後4時19分左胸部を撃った~午後5時19分傷口を洗浄するのみ~午後6時25分米軍医師縫合か~午後7時出発~第98陸軍野戦病院到着(早くても8時30分以降治療輸血だろう)。左肺を貫通一時間後消毒、二時間後縫合モルヒネ注射、四時間以降に治療輸血。左肺を貫通で二時間後に縫合である、出血多量で死なないものだろうか、四時間も輸血なしで、もつものだろうか?そして、なんと緊急搬送もせず、三時間も新聞記者の晒し者にし、カメラマンまで呼び寄せ撮影している。作意無しと思うほうが、異常で、語るに落ちている。

 先憂後楽清濁併せ呑み決断しての応戦で、新秩序「大東亜共栄圏」を掲げ、「大東亜会議」を開催し、「大東亜共同宣言」をなして、虐げられし同胞への指針とし、あらん限りに戦ったが刀折れ矢尽き敗れた。そして、敗戦の責を負った。東條英機は急に総理大臣となり満4年で予備役に下がった。野心など皆無の、日本国忠臣で、現代平和の源、全世界共栄圏(植民地独立付与宣言)の基礎を築いた。それ以外の何者でもない!

 かつ子(東條英機の妻)の晩年、五十三年十月二十日にマレー半島に住んでいるインド人が東條家を訪れた。かつ子に記念すべき行事の報告と東條の仏前に参るためであった。マレー半島に住んでいるインド人達が、インド独立のために尽くした人達の慰霊祭を行い、日本の東條英機もその一人として共に慰霊したというのである。インドの独立は、チャンドラ・ボーズがつくったインド義勇軍の活躍が発端となっているが、その運動に日本が協力した事に対し、インド人はいまも感謝し続けているのだ。

 ・・・東條は処刑される前、刑務所内の、墨でいたるところを消した不自由な新聞を読み、アジアの国々が次々と独立していく様を察することが出来、とても喜んでいたという。それを知っているかつ子は、インド人達が東條の慰霊祭をしてくれたという報告を聞いて、涙を流して喜んだ。四十年もたって東條もやっと報われたと思ったのであろう。東条英機の妻・勝子の生涯・佐藤早苗著

 子供だましのずさんな東條英機失墜作戦は、2008年3月問題点検証済み(東條英機真実解明こそが大和日本隆盛起点戦後60年間誰もが忌避)。現代の法医と鑑識が本格参入すれば、更に詳細に判明するであろう。

その2占領軍が最も恐れたもの「裁判での、全責任を負った天皇の、『臣下無罪発言』」

 占領軍が次に恐れたのは、東京裁判法廷での「朕が一切の責を負う、臣下はすべて無罪」発言であった。命令一下ですべて矛を納めた国民が再決起し、一斉蜂起中の大東亜に連動して、さらに全世界の有色人が決起しての、白人対有色人の大戦に発展しかねなかったからである。この圧力が、征服者の転換となった。多民族国家米国は即内乱なので、真実(有色人対白人の差別戦争)徹底隠蔽、日本の国体は鎮静化目的で護持、軍隊のみを極悪侵略軍と捏造するすり替えで、内乱の危機を回避した。

天道に額ずいた人々(2013年3月公開映画「Emperor」邦題「終戦のエンペラー」7月公開の真実

 神道を理解し天皇不訴追に尽力したクエーカーフェラーズ、一色ゆり、河井道、グルー、フーバー、そして忠臣東條英機、大東亜共栄圏同胞の一斉蜂起、昭和天皇無私の覚悟。この一丸が、日本分断食民治化を阻止し、護った

クエーカー(震教徒)

 1650年ごろ、イギリスのフォックスが始めたプロテスタントの一派。正式名称はフレンド教会。クエーカー(震教徒)の名は、フォックスが審問を受けた時「キリストの名を聞いて震えた」が由来。奴隷解放・刑務所改良・男女同権・非暴力・絶対平和を主張。WW1・WW2に多数の良心的兵役拒否者をだしたことは有名で、1947年この団体にノーベル平和賞が授与された。

 クエーカー(キリスト友会・反会徒・アメリカ東部ペンシルバニア州フィラデルフィヤ)全世界で60万人。北米12万英国約4万。中心にある考えは「内なる光」。クエーカーの大学アーラム大学では「教授」や「博士」と呼称せず、個人名で呼んでいる。神道と共通点有り。

 「ララ物資」として救援品(学校給食の脱脂粉乳、食料、医療、医薬品当の生活必需品)を、1946年11月30日から1952年まで、約200隻の輸送船で運んだ。「Lara」とは米国13のキリスト教界が超教派で組織した「アジア(特に日本、朝鮮)救済連盟」の通称で、アメリカフレンズ奉仕団もその一つである。

 ちなみにヘレンミアーズ(1989年3月13日老衰で死去、行年90歳)の葬儀は、クエーカー教のフレンドシップ・ハウスで行われ、遺灰は湖に散骨された。

ボナー・F・フェラーズ(1896~1973)元米軍陸軍准将(1944年から2年間マッカーサーの軍事秘書・共和党)はイリノイ州の農家(プロテスタントの一派クエーカー教徒)に生まれた。

 フェラーズ(18歳)はクエーカーの設立したアーラム大学で、日本の留学生渡辺ゆり(1888生まれ26歳)と知り合い、二年間学生生活を共にした。渡辺ゆりは津田英語塾に入学、英語教師の河井道(日本のYWCA創設に尽力した女性で恵泉女学園創立者)の影響でキリスト教に入信。渡辺ゆりが卒業して帰国した1916年、アーラム大学を退学し陸軍士官学校に進んだ。(ゆりの一人娘一色義子恵泉女学園理事)

1922年フィリピン駐留のフェラーズ(26歳)は休暇を利用して来日、渡辺ゆりと再開した。ゆりはクリスチャンの仲間を次々と紹介した。とくに河井道(1877年生まれ44歳)は印象が深く「戦争を望まないリベラルな日本人リーダー。世界のすばらしい女性の一人」と書き記している。

 フェラーズ来日のもう一つの収穫はラフカディオ・ハーンとの出会いだった。

 休暇は早くも終りに近づいた。私は横浜からマニラ行きの船に乗ることに決めた。ゆりは横浜までついてきてくれた。そのとき、日本をもっと知るにはどうすればいいかと私は尋ねた。一番いい資料はラフカディオ・ハーンだと、彼女は答えた。外国人だけど、日本人の内面をよく理解している。文章も美しい。そして日本に西洋を紹介した。でも、と言ってゆりは付け加えた。「彼はクリスチャンじゃないから、私は好きじゃないわ」

 「私はハーンの本を二冊抱え航海に出た。その後、彼のすべての著作を私は集め、読破したと思う(フェラーズ文書以下F文書)」

 フェラーズのハーンへの傾倒ぶりは、ワシントン在住、娘ナンシーの自宅本棚に残された、200冊以上ものハーンの著作で、窺い知れる。

1930年、フェラーズはドロシー夫人(25年に結婚)と共に再び来日し、初めてハーンの遺族小泉家(東京西大久保)を訪ねた。健在の節子夫人が出迎えた。訪問時の来客名簿の記帳が今も小泉時(ハーンの孫)に残されている。「私がウエストポイント陸軍士官学校でブラウニングやジョージ・メレデスやカーライル(それぞれ、イギリスの詩人、作家、歴史家)を教えようとした時、ハーンがこれら作家の考えを理解しているばかりかその先へいっていることに気がつきました。ついでハーンは私に日本を愛することを教えてくれました。今回のお宅へのご訪問は私の生涯の感激であります。ハーン夫人、あなた様に御礼申し上げます」

 「ハーンは日本人を理解した、初めての、そしておそらくは唯一の西洋人であろう」(F文書)

 フェラーズ夫妻は湘南の一色ゆり(旧姓渡辺)の家にも滞在した。ゆりの夫一色乕児は、英語が堪能な実業家であったので、話がはずんだ。

 「武士の精神と日本の国民精神は不可分なものであり、切腹と言うのは、絶望的な苦境に立たされた武士が安らぎを得るための自然な行為であるという。彼は、日本国民が天皇に崇敬の念を抱いていることを懇切丁寧に説明してくれたのである」(F文書)1946年4月東京雑司ヶ谷ハーンの墓参り。「墓地にある間中脱帽して居られた謙虚な態度には少なからず感激させられた」(小泉一雄「父小泉八雲」)

1944年8月29日心理作戦部(PWA)部長にフェラーズ就任。彼の指示書。

 「先ず、敵の心理を詳しく知ることが重要である。『日本兵への回答』と『日本兵の心理』、それに新聞や雑誌の記事が参考になるだろう」フーバー研究所資料

『日本兵への回答』

 「天皇を退位させたり、絞首刑にしたりすれば、すべての日本人の激しい暴力的反発を招くだろう。日本人にとって天皇が絞首刑にされることは、我々にとってキリストが十字架にかけられることと同じである。すべての日本人が蟻のように死に物狂いで戦うだろう。悪質な軍人の立場は限りなく強まるだろう。この戦争は極端に長びき、我々の損害も必要以上に増えるだろう」

1945年4月上旬に天皇の扱いについて方針付加。フーバー研究所資料

 「天皇に関しては、攻撃を避け無視するべきである。しかし、適切な時期に、我々の目的達成のために天皇を利用する。天皇を非難して国民の反感を買ってはならない」

1945年5月28日10年間駐日大使を務めたジョゼフ・グルー(マッカーサーと同じ共和党・プロテスタントの一派聖公会教徒)が、トルーマン(民主党)政権の国務次官に就任し、トルーマンに訴えた。「日本政府は無条件降伏によって『天皇と天皇制を永久に破壊されてしまう』と恐れており、『将来の政治体制は日本人自身の決定に任される』と保証すれば、降伏しやすくなる」この日元大統領(31代)ハーバート・フーバー(共和党・早世した両親がクエーカー・防共の砦日本と評価していた)も「鈴木を首相に任命したのは、天皇が和平を求めていることをアメリカに伝えるためのシグナルだ」と説き、グルーと同じ要請を繰り返した。(F文書5月7日メモ)

 同様の進言を受けたトルーマンは、フーバーに覚書の作成を依頼した。覚書は6月上旬届けられた。グルーは「天皇を戦争犯罪人として裁いたり、天皇制を廃止したりすることが連合国の意図ならば(日本人は)徹底抗戦するつもりだ」と論点を強調し、採用を強く迫った。(ハワード・B・ショーンバーガー著宮崎章訳「占領1945~1952」) 5終章へつづく⇒

真実史観丸暗記平和主義九条の会等の「護憲が平和」は先人への限りない冒涜

終章丸暗記平和主義九条の会等の「護憲が平和」は先人への限りない冒涜

1945年8月15日玉音放送後の、河井道の感想。

 「この未曾有の国家的危機に際して・・・父親らしい戒めに対して、国民は孝心を明らかにして従順に従ったのであった。天皇にたいする代々にわたる忠誠心は、塵や埃のように一吹の風にあえなく散ってしまいはしない」(河井道「スライディング・ドア」恵泉女学園1995年)

1945年8月27日終戦でPWSは、情報頒布部(IDS)に改組。同日のフェラーズ政策指示書。

 「天皇は依然として日本人の信仰の生きた象徴であるから、この天皇の力は、敗戦のショックによる人心の同様を抑えるのに有効であろう」フーバー研究所資料

1945年8月30日、元帥と共に厚木に降り立ったフェラーズは、真っ先に一色(渡辺)ゆりと河井道の探索を開始し、突き止め、9月23日アメリカ大使館内の自宅の夕食に招待した。

1945年9月15日娘ナンシーへのフェラーズの手紙「きょうまでわたしはルーズベルト大統領が、アメリカ国民を戦争に巻き込まないよう努力した行動を、ひとつも見出すことが出来ない。そうではなくて逆に、あらゆる施策が、まっすぐ戦争に向けてリードされた

1945年9月23日「フェラーズは『天皇が戦犯になることについてどう思うか』とたずねた。ゆりは、とっさに『陛下にもしものことがあれば、自分は生きていない』と答え、河井も『日本にとって大変なこと』であると語った。フェラーズは、二人の反応を深刻な目つきで聞いていたという」(一色義子「愛の人河井道子先生」)

 「天皇が追放されれば暴動が起きるだろう」という河井道の言葉が記されている。(同日の9月23日フェラーズ日記)

 河井道(父は代々伊勢神宮の神官だったが、明治の合理化で失職)も一色ゆりもクリスチャンでクエーカー、「天皇崇拝者」ではない。「天皇不訴追」の覚書マッカーサーへ提出は、この直後である

1945年9月27日(天皇とマッカーサーと会見日)河井道に「先日相談した件についての下書きを同封します。あなたの意見を聞かせてください」と依頼し、10月1日にも同様の以来を繰り返し、翌日マッカーサーに提出(F文書)。

 「当時、本国(アメリカ)や連合国の間で天皇批判の声が高く、その圧力に抗するために覚書を書いた。大体の案はあったのだが、確認のため河井道に協力してもらった。彼女は実に偉大な女性だった。あれはミチ・カワイから授かったものだ。・・・河井道自身は知らないことかもしれないが、マッカーサーの天皇観は、たぶんに河井の影響を受けている」フェラーズ死去の9ヶ月前の証言1973年1月19日(コロンビア大学所蔵)

1945年9月27日10時過ぎ天皇がマッカーサーと初会見

 「フェラーズ文書」家族宛の手紙。「天皇がアメリカ大使館を出発したとき、マッカーサーは感動の面持ちでこういった。『私は自由主義者であり、民主主義国で育った。しかし、惨めな立場に立たされた天皇の姿を見ると、私の心は痛む』

 オフィスに向かう途中でマッカーサーは、天皇は困惑した様子だったが言葉を選んでしっかりと話をした、と語った。『天皇は英語がわかり、私の言ったことはすべて直ちに理解した』

 私は言った『天皇は、あなたから処罰を受けるのではないかと恐れているのですよ』

 マッカーサーは答えた。『そうだな、彼はその覚悟が出来ている。処刑されてもしかたがないと考えている』」

キ-ナン主席検察官(1888~1954)の証言(教養特集日本回顧録・東京裁判・1963年5月27日放送)

 「キ-ナンは私(キ-ナン秘書山崎晴一)にこう言ったんです。『・・・もし天皇を証人として証言台に立たせたら、・・・天皇がこうしてここにおる被告は、東條以下全員、朕の命令で戦争を遂行した。どうか朕を訴追して、これは全部釈放してもらいたい”、こう言われたらどういうことになる?拍手喝さいして大喜びのやつは大勢いる。しかし占領政策はそれでぺしゃんこになる。だから天皇は証言台に絶対呼べないんだ』こういうことを私に言ったことがあるんですよ」1954(昭和34)年文芸春秋10月号「鬼検事キーナン行状記(生前公開禁止とされたキーナン自署の手紙を公開)」山崎晴一(前述)著も、同内容。

2009/07/02 動画 昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言

 

1945年10月4日フェラーズもう一つの覚書(フェラーズとマッカーサーは共に共和党で反ソ反共)

 「ソ連は、日本に革命が起きることを望んでいる。我が国(アメリカ)の政策は、革命を期待しているかのようだ。革命には、天皇の排除が最も有効なのである」「(F文書)

1946年1月下旬、フェラーズから吉田茂外相へ、占領軍と天皇の連絡係と、皇太子の家庭教師アメリカ人女性を置くべきと、二つの提案があった。

 吉田は直ちに人選を行い、寺崎英成(ワシントンの日本大使館勤務中米人グエドレン・ハロルドと結婚)を「連絡係」に任命した。用務は天皇の通訳とGHQとの連絡などであった。寺崎は戦前からの熱心な尊王家であった。(木下道夫「側近日誌」解説)

1946年3月6日米内光正(終戦時の海軍大臣)とフェラーズの会談(通訳横田主一)。(旧海軍省記録)

 フェラーズ「裁判に於いて東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。すなわち東條に次のことを言わせて貰いたい。『開戦前の御前会議において、たとえ陛下が対米戦争に反対せられても、自分は強引に戦争まで持って行く腹を既に決めていた』と」

 フェラーズの示唆「東條に全責任を負担せしめよ」は、米内から東條の弁護人塩原時三郎を経て伝えられた。東條は塩原にこう語ったという。

 「そんなことは心配ないと、米内君に言ってくれ、俺が恥を忍んで生きているのも、この一点があればこそだ」期日は明確ではないが、1946年3月13日以降。(塩原時三郎「天皇の責任と東条英機の死刑」)(注・田中隆吉の「天皇不訴追のために」は、便乗し、取って着けた言い訳。寝返っての売国は、私怨で、「公」など皆無のただの我欲

1946年3月8日フェラーズの祖母が、寺崎英成の妻グエドレンの伯母と判明し、親密になった。

1946年4月13日のソ連検察陣来日で、フェラーズの危機感はさらに増した。

 「モスクワは『天皇は去るべきだ、マッカーサーは手ぬるい』という宣伝戦を開始した」(F文書家族への手紙)

1946年4月23日「フェラーズに機密話してよし」の許可が与えられた。(「昭和天皇独白録寺崎英成・御用係日記」)こうして英語版が作成され、フェラーズに渡されたものと考えられる。天皇訴追阻止の切り札として万一に備えていたのが「フェラーズ版独白録」なのだ。

1946年5月5日フーバー元大統領(早世した両親がクエーカー)が食糧問題視察の特使で来日。

 「天皇が自ら戦争中の立場と降伏までの経緯を説明した記録(昭和天皇独白録)を作成していることを歓迎している。アメリカの対日感情がまだよくないため、この資料の発表はいま少し先にしたほうが効果的だろう」とフーバーは語っている。しかし、「然るべき緊急事態が発生した場合は躊躇なくこれを利用すると言う」(1946年5月7日F文書)

1946年10月15日皇太子の家庭教師バイニング夫人(クエーカー)が来日、以後4年間勤めた。帰国後の52年に出版した「皇太子の窓」は、アメリカでベストセラーとなり、天皇イメージ変換に貢献した。「資料。昭和天皇二つの独白録NHK出版1998年東野真(1965生まれ東大文学部卒NHK入社)著。陛下をお救いなさいまし集英社岡本嗣郎著」

 天皇訴追はまぬがれたが、天皇の証人喚問の可能性が残されていた。がしかし、東條英機の開戦決定は自らの内閣責任とした天皇責任完全否定が、決定的証言となり、天皇証人喚問問題は沙汰止みとなり、「昭和天皇独白録」も役目を終えた。1948年4月16日結審、判決までの長い休廷に入った。

1948年11月12日東京裁判の判決。東條ほか7人に死刑判決が下された。

1948年12月23日死刑は皇太子(現天皇)誕生日12月23日執行された。侍従の村井長正によれば、この日、天皇は終日書斎にこもり、「泣きはらして真っ赤なお顔をされていた」という。(高橋絋「象徴天皇の誕生」金原左門編「戦後史の焦点」)

 天皇の法廷出廷は、「臣下に罪なし全責任を負う」発言が懸念され、一気に日本国再蜂起への恐れがあった。進行中の平和裏の占領政策が瞬時に破壊され、大騒乱となる。「天皇不訴追」は当然だったのである。

 「解放の戦士としてアジアに影響力」を恐れ、日本軍隊極悪の槍玉に挙げ、自殺未遂で貶めての東條英機処刑は、天皇の身代わりとしての日本国民や米国国民の不満のガス抜きには、一石二鳥だった。そこで全責任を東條への作戦が実行された。66年後の今日も、大多数が東條英機罵倒のまま変っていない。いかに効果的な作戦だったかを物語って余りある。

 東亜の決起なければ、日本も食民地。その東條を、66年間も罵倒しているのだ、日本は!

思考を奪い丸暗記教育の元凶がWGIPと戦後復職の赤化教授と後継文系教授

 WGIPの軍人極悪国民善の二極分別は、戦後復職の赤化教授が飛びついた。戦中の売国奴追放を払拭し自己保身目的のためである。以後、歴史を善悪の二極(道徳)にすり替えて捏造教育、善悪史観は蔓延し、善悪が歴史と国民は錯覚した。加藤陽子や五百旗頭真等は、66年後の今日も、得意の絶頂で道徳史観(善悪)連呼である。先に殺さなければ殺される戦国時代は、勝者が善で道徳など皆無は常識。そしてこの戦国常識、「勝者が善敗者が悪」を破壊したのが、植民地独立付与宣言なのだ。善悪が歴史ではない。歴史は真実の積み重ねである!

 北部軍司令官樋口季一郎は、アッツ島救出作戦間に合わず、アッツ島守備隊2638人へ救出不能苦渋の打電「百の手段を講じて敵兵員の壊滅を図り、最後に至らば潔く玉砕し、皇軍軍人精神精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」、重傷の捕虜27人以外は全員討ち死となった。がしかし、アッツ島守備隊のこの果敢な抵抗の結果、アメリカ軍は作戦変更せざるを得ず、隣のキスカ島攻撃に間をおいた。その結果救出万全となった隣のキスカ島は、5183名全員を無傷で救出した。停戦8月15日以後も北千島を攻撃してきたソ連軍を撃破、北海道上陸を阻止した樋口季一郎を、ソ連極東軍は「戦犯」指名した。この樋口の危機を聞いて、世界ユダヤ協会が動いた。マッカーサー総司令部は、ソ連からの引き渡し要求を拒否し、逆に擁護することを通告した。アッツNHKスパイ手口詳細ラジオ音声改竄玉砕戦陣訓米軍民族浄化隠蔽

 軍人樋口季一郎や外交官杉原地畝等のユダヤ人救出者は、共に国策(人種平等の原則)に基づいたものであったと語っており、事実もそうである。一方は文官ゆえにもてはやし、一方は武官ゆえに隠蔽するマスコミ、職業差別に他ならない。イスラエルは平等に記している。八紘一宇世界同胞主義樋口季一郎安江仙江犬塚惟重杉原千畝とユダヤ人

 無人島なら獲物を殺し解体し調理と、すべての禍福を併せ呑まなければ生きられない。つまみ食いは出来ないのだ。戦後は、禍福併せ呑むこの現実教育が欠けて非現実な好いとこ盗り教育となった。言葉と文字界の捏造三昧、絵に描いた餅の「九条の会」、政治家のていたらく等は、つまみ食い洗脳WGIP、戦後教育の成れの果てで、肉食う人(朝鮮人)が屠殺人(白丁)を忌避差別した朝鮮と同じである。下記はていたらくの一例。

○沖縄の集会人数や贋国贋流スターの出迎え人数(眼前の人数は明白に異なる)を主催者発表と言逃れしての報道。マスコミは詐欺師の巣となった。

○やらせメール(九電)ではなく主張メール。主張の権利は平等である。主張(権利)をやらせ(捏造)と決め付けての一斉糾弾(主張封じ)は、言葉と文字界異常の自白である。

○日本の肉食も屠殺も明治以後。以前は解体皮革加工業(肉食前後の身長差が証拠で、明治以後の肉食で身長がのびた)で、朝鮮のこの漢字が言葉狩りで使えない)殺人(白丁)とは明白に異なる。中国や朝鮮は伝統的肉食文化圏なのだが、なんと朝鮮は、肉食う人(朝鮮人)がこの漢字が言葉狩りで使えない)殺人(白丁)を忌避差別するという 、特異な歴史を持っている。民主党松本龍復興9日大臣(部落解放同盟副委員長)や野中拡務(同和出身元自民国会議員)等は、部落民の真実 Ⅰ毛皮が語るペクチョン・えた白丁差別が自白朝鮮ルーツは水稲民海洋民) を究明もせず、ぶらくこの漢字が言葉狩りで使えない)民を逆手に利権にしている。国難(大災害)にはやくざも炊き出しが大和民族。被災地宮城県庁での民主好いとこ盗り党松本龍(部落解放同盟副委員長)正体丸出し恫喝は、大和民族に非ずとの自白である。
 

「九条の会」等の「九条護憲が平和の源」は、世界の虐げられし同胞への限りない冒涜である

 日清日露戦争は勝ったが、真の元凶ブロック経済は残り、桎梏は続いた。真の元凶ブロック経済破壊以外、日本の真の独立無しと誰もがここに帰着する。がしかし相手は全世界を牛耳る超大国、対戦の意思もなく「大東亜共栄圏」は、うかつに切れないカードなのだ。

 巨大象連合軍と蟻一匹との戦いなので、勝ち目皆無は当然である。しかし勝敗が目的ではなく、排除(大東亜共栄圏樹立)を目的にすれば、日本の悲願、真の元凶桎梏、ブロック経済破壊には絶好のチャンスであった。真珠湾の中途半端な攻撃、拡大し過ぎた戦域の「なぜ」が、これで氷解する。応戦目的は勝ち目のない勝敗ではなく、桎梏ブロック経済破壊であった。

 「大東亜会議」は敗色の色濃い中でとの愚論がある。しかし言語も歴史も異なり、これまで食民治に甘んじてきた国々への提言である。戦って証明せずの論など、誰が信じる、空論であろう。じじつガンジーもネルーもパールも、インパール戦までは日本を侵略者扱いであった(NHKや犯日はここをつまみ食い)。戦いと、これまでの実績(台湾朝鮮満州の躍進)と、「大東亜共栄圏樹立」が戦争目的の言行一致の証拠と、勝敗度外の捨て身戦法が、同胞の琴線をかき鳴らし覚醒させた。旗色は悪くはなったが、たった一カ国で世界を相手に撃破したのは事実で、会議開催条件はすべて整った。機は熟しまさにこの時と開催したのであって、「敗色の色濃い」は犯日の「跡付け」で、たまたまそうなっただけのことである。逆に、「敗色の色濃い中」なのによくぞ集まったこの同胞こそ、真の同胞といえる。東條はこの時、たとえ戦いは敗れても、ブロック経済破壊は必至を確信したのであろう。肌身離さぬ手帳「修養録」への自書、続々独立する同胞を伝える獄中新聞に喜ぶ姿、東京裁判での世界への凛とした発信、そして敗戦の責を負った迷い無き最後が物語っている。

 先陣を切り、走って、先駆けの旗(極東共栄圏)は潰えたが、敗戦前に掲げた大東亜共同宣言が同胞の一斉覚醒をうながし、同胞が奪取し「大東亜共栄圏」として掲げ、さらに世界の虐げられし同胞が決起、巨大象を追い払い、日本は復活した。そして、「大東亜共栄圏」から一気に拡大し、かつての敵、宗主国の翻意をもうながし、人類の総意(反対国ゼロ)で、「全世界共栄圏(植民地独立付与宣言)」を築いた。まさに、「肉を切らせて骨を断った」のだ!勝者善の戦国を破壊しての侵略禁止互恵は、人類開闢以来の大転換である、戦いには敗れたが、日本悲願、真の独立国自由貿易は、九九年後に、やっと成就したのだ!これぞ、まさにまさに、「死中に活」といえる!

重光葵(東條首相のブレーンで、大東亜会議開催に尽力した外務大臣。終戦文書に日本政府全権として署名)

 日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して各国平等の地位に立つことが、世界平和の基礎であり、その実現が、即ち日本の戦争目的であり、この目的を達することをもって、日本は完全に満足する(重光葵著作集1・原書房p. 228)(注・日本の戦争目的は、互恵・自由貿易・民族平等)

「大東亜戦争論」アメリカ人オーエン・ラティモア
 「日本が立派にやりとげたことは、アジアにおける植民地帝国の19世紀構造を破壊することであった。戦時中日本人によって占領されていた土地のうち、ただの一つも(旧主人のヨーロッパ人によって)満足に取りもどされたものはなかった。日本が敗れる前に、全極東にわたる古い均衡とヨーロッパ帝国主義支配の構造を破壊したという事実こそ、日本が最後に敗退したという事実に劣らず、重要なものである」

 自己検証も無いにわか騙り保守が、汗と涙の手弁当ネチズン資料を、コピペしまくりでかき集め、自書のごとく扇動洗脳した「コピペ盗作屋」が、「非心会凶祖」に変身、似非保守政治屋に取り入り、威を借りて立身の道具にしているが、「鵜呑みし従えで思考を奪う手口」は、WGIPや戦後復職の赤化唯物教授と同じで、世事に疎い善良な女が真っ先に被害者となっている。非心一味の手口は典型的な「詐欺師の保守騙り」と、賢明なネチズンは既に喝破している。歴史には真実か否かがあるだけで、保守革新右翼左翼も無い!自称他称者は皆、選挙のみが目的で、似非である!思考を奪われての鵜呑み丸暗記がここまで日本をだめにしたのだ。立派な歴史を持つ子孫、愚考の繰り返しは、唯心日本人のやることではない。この立派な歴史を鵜呑みせず、立派な親から授かった頭脳で考え理解することが、最も肝心なことなのである。
 世界同胞が全世界共栄権建設に必死な時に、大東亜共栄圏にも加担せず、黄禍論白人連合を後ろ盾に宗主国気取りで近隣を征服した有色人唯一の裏切り者が偽中国毛沢東で、悲惨な同胞殺しに明け暮れたのが贋半島である。偽中国贋半島の汚点が、参加全世界共栄圏なのだ。輩の傀儡となり下がり、日本がいつまでも真実を語らない限り、「全世界共栄圏(植民地独立付与宣言)」を成し遂げた世界の同胞の、「先憂後楽」の真実は、埋もれたままとなる。
 丸暗記平和主義者よ!「九条護憲が平和の源」の前に、いにしえより途絶えたことがない「警察不要」が可能かどうか、思索脳が存在するなら、考えてみよ!
 国の警察が軍隊なのは、子供でも判ることだ!
 暗記平和主義「九条の会」等の、「九条護憲が平和の源」は、世界の虐げられし同胞、「先憂後楽」真の平和樹立者への、限りない冒涜である。

 護られた日本、同胞の真実語たらずの冒涜看過は、同胞への卑劣な裏切り。即刻語っての謝罪感謝が我々の使命!

 勝ち方があり負け方がある。戦国の資源無き小国日本、適者生存の術は団結。小国日本、あらん限りで立ち向かった。日清日露では戦勝だが、桎梏は残った。大東亜では敗戦だが、継承した全世界共栄圏同胞が、桎梏を破壊し、九九年の悲願は成就した。一丸と化しての、あらん限りへの、八百万の神の御加護か

 戦後66年間も整合回路無き言葉と文字界(暗記平和主義)のみが凶産と贋半島罪日に侵され、異常界と化し、日本丸乗員なのに、進路の逆へ逆へと櫓を漕ぎ、この一丸を「美化」と捏造、破壊し続けた

 2011年7月18日、子孫なでしこジャパンW杯優勝勝因は、なんと、先人のこの一丸である。薄氷を踏みながらの桎梏九九年、虐げられし人々の扉を開いたこの一丸、「美化」と称し捏造され、戦後66年間も破壊され続けたが生きつづけ今日、眼前にその開花を見た!

 なでしこジャパンは負けて当然(象と蟻)を二度も勝ち、そしてなんと、唯一の敗戦は修正指示の敗戦であった。攻撃も守備も完全一丸化で、個々の実力以上を発揮した。清貧に、八百万の神が微笑んだのだろう。日本九九年と酷似する・・・。マスコミ造作の虚像に溺れた男子は、虚像を破壊し、初心に帰れ!

 抵抗勢力異常界捏造の虚像破壊で、日本丸再一丸化は成り、復活し、必ずや邁進する!資源無き小国日本、一丸に勝るものなし!なでしこジャパンに学べ!

 ワットの化石燃料文明で一歩先んじ、世界を席巻した白人、有色人最後の砦が唯心日本、九九年戦争は有色人唯心日本の宿命だったといえる。応戦せずの降伏は、有色人は劣等との自認で、子孫や有色同胞への禍根打刻。有色最後の砦の唯心日本、命に換えても屈服は出来なかった。

 実に凄まじい時代を、祖父母や父母は生き、先憂後楽で「決断」し、「歴史の急曲線を描き」、新秩序「互恵の平和」と「自由貿易」を築き、同時に、我々子孫を産み、そして育んだ!感謝以外の言葉があろうか

開闢からの弱肉強食を破壊し、新秩序、互恵による平和、世界共栄圏の礎となったのが、靖国の英霊である…。靖国参拝に、理屈は無い!…完

 

日本適者生存史目次へ

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。