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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1卜部日記富田メモ暴露分祀ナベツネ中曽根日経朝日秦保阪御厨半藤の犯罪


左右論者は、言葉と文字のペーパー似非識者か、工作員の自白である!現世には、真実と捏造があるのみで、ウヨ・サヨなど無い!

 ネット常識の追試が、やっと始まった。一学究の救国論「日本国民に告ぐ2010文藝春秋7月号「日中戦争は侵略ではない」と表意記憶。藤原正彦・御茶ノ水女子大名誉教授数学者、エッセイスト、新田次郎藤原てい夫妻の次男。以前は、「国家の品格」2005.11.新潮新書「当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な『弱い者いじめ』でした。・・・無意味で恥ずべき関東軍の暴走でした」 と、表音丸暗記だった。「日韓がタブーにする半島の歴史」10.4.室谷克美著新潮新書も、田母神諫言も、追試

 靖国分祀騒動富田メモ・卜部日記が炙り出したナベツネ・中曽根・日経・朝日・秦郁彦・保阪正康・御厨貴・半藤一利・立花隆・熊田淳美・安岡栄志・富岡知子(富田の妻)等の犯罪者

昭和天皇の御意

『東大落城──安田講堂攻防72時間』文藝春秋1993年佐々 淳行(さっさあつゆき)

 ・・・安田講堂の攻防戦からしばらくして、秦野章警視総監が治安情勢内奏のため参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、さっそく各機動隊長を通じて全隊員に伝達し、士気昂揚を図らなければいけない。ところが帰庁した秦野総監は怪訝そうな表情を浮かべている。「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。安田講堂のこと奏上したら、『双方に死者は出たか?』」と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、たいへんお喜びでな、『ああ、それは何よりであった』と仰せなんだ。機動隊と学生のやり合いを、まるで息子の兄弟げんかみたいな目で見ておられるんだな、ありゃあ」私は感動した。天皇は一視同仁、お相撲好きの昭和天皇が終生、誰がご贔屓力士かを口外されなかったように、「機動隊、よくやった」と御嘉賞されることは帝王学の道からは外れるのだ。・・・

昭和50(1975)年8月15日他虐偽善者三木首相参拝。三木首相が八月十五日の参拝を「首相としてではなく渋谷区南平台の一住民三木武夫として参拝します」と公式参拝ではなく私人としての参拝を力説。これ以後、公人私人などという特異な議論が、マスコミの世界を支配するようになった。天皇は日本の象徴公人である、公人たる天皇は参拝しにくくなった。摘み食いの会(九条の会)他虐偽善者三木睦子は、夫人。

昭和50(1975)年11月20日富田朝彦宮内庁長官が参議院で、明日の天皇靖国参拝は公人か私的行為かと厳しく追及された。吉国一郎内閣法制局長官は、憲法違反とまで言えないが、「第20条第3項の重大な問題になる(国の宗教活動の禁止)」と発言。神仏混交の錯誤、神道は宗教に非ず!日本は神の国(多神の国)宗教の国(多宗教の国)翌日終戦30周年の参拝。

昭和50(1975)年11月21日終戦30周年の参拝。これ以後参拝無し。

昭和53(1978)年10月17日「昭和殉難者」としてA級戦犯14人が靖国神社に合祀

昭和60(1985)年8月15日中曽根首相参拝。「内閣総理大臣たる中曽根康弘が参拝した」と言明し、公式参拝の声明。ところが「A級戦犯も祭る靖国神社への首相参拝はわが国人民の感情を傷つけた」として中国が激しく抗議。これに屈して、中曽根は春秋の例大祭も八月十五日も取り止めた。中曽根が中国首脳の名をあげて「盟友支援のために参拝を中止した」という意味の演説。これが起因で以後犯日拡大、脅しの外交カードと成り、中韓に脅され莫大な援助となる。ここで「盟友支援」などと阿諛追従せず、植民地独立付与宣言」を掲げ、楔を打てば、以後の中韓のゆすりたかり、陛下の参拝中止、犯日団の増長など皆無。凶産迎合中曽根は、板垣征四郎遺族正参院議員に、「分祀署名簿」を持参させ、7人の遺族を回らせた。英機次男輝雄は、「(靖国神社以外の)他国の干渉に屈した形での分祀は、認めることは出来ない」と、毅然と拒絶した。他の6人の遺族は分祀を認め署名したが、靖国神社の強い反対もあり成立せず(以後は、全遺族反対)。週刊朝日05年7月29日号にも「聞いた(合祀)瞬間、非常にありがたいことだと思いました。靖国神社に合祀されている現在の状況に感謝しています。もし、分祀をすると靖国神社が決められたとしたら、私としては非常に残念だけれど、遺族は『それはいけない』と言う立場にないと考えています」。増すごみは東條家だけ反対と侮蔑したが、議論の余地など皆無の至論である!現在も懲りずに犯日扇動の中曽根は、国賊!

昭和61(1986)年藤尾正行文相 日韓併合は韓国にも責任」に韓国抗議。正論で→罷免

昭和61(1986)年8月15日この年のこの日にも また靖国のみやしろのことに うれひはふかし」前年靖国参拝の中曽根首相が、一転して不参拝発表当日の歌。「この年のこの日にも」が御意、余命を悟られた御詠である。3年後の8月15日を迎えることなく、昭和天皇は1月7日に崩御された。「この年のこの日にも(合祀は8年前、この年ではない。終戦後41年も経たこの大事な日にも)また靖国のみやしろのことに(なぜ靖国不参拝に)うれひ国思わぬ輩に、参拝の道を閉ざされた嘆き)はふかし」。ご不快は分祀に非ずは明白!

昭和63(1988)奥野誠亮国土庁長官「(日中戦争について)日本に侵略の意図はなかった」中国抗議。正論で→辞任

 4月28日合祀騒動の発端、富田メモ・卜部日記の日付

 8月15日全国戦没者追悼式最後の御製やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど

平成1昭和64(1989)年1月7日昭和天皇崩御

平成2(1990)年10月20日「おほうなばら・昭和天皇御製集」宮内庁侍従職解説・徳川義寛・岡野弘彦・読売新聞刊。徳川義寛元侍従長(尾張藩)(1906~1996)1936年侍従、1969年侍従次長、1985(昭和60)年10月1日~1988(昭和63)年4月13日侍従長(入江相成の後継)、1988年4月26日から参与。

 ・・・徳川義寛元侍従長解題・・・昭和62(事実は61年御製、本文も61年)年8月15日この年のこの日にも また靖国のみやしろのことに うれひはふかし」靖国とは国をやすらかにすることであるが、とご心配になっていた。昭和63年8月15日全国戦没者追悼式「やすらけき世をいのりしもいまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」永遠の平和をいのりつづけて、なお心残りがおありになった生涯であった。那須でお詠みになった秋の庭は最後の御製であった。「あかげらの叩く音するあさまたき音たえてさびしうつりしならむ」

平成16(2005)年3月3日去る二月十五日、テレビ朝日番組「サンデープロジェクト」で放映されました中曽根康弘元首相と田原総一朗キャスターとの対談において、中曽根氏からまたしても所謂A級戦犯分祀案が提言され、今回は分祀に対するご遺族の同意も得られそうだとの見解を示しました。しかも過去において、靖國神社が分祀案を頑固に反対したので果たせなかったとの発言もありました。このことは、翌日の朝日新聞朝刊にも報道されたことから、神社に対する問い合わせも多くありましたので、この際、靖國神社としての見解を明確にする必要を感じ、ここに発表させていただきます。・・・もし仮にすべてのご遺族が分祀に賛成されるようなことがあるとしても、それによって靖國神社が分祀することはありえません。以上靖國神社社務所

2006(平成18)年4月13日日本経済新聞社杉田亮毅社長と唐家璇(セン)国務委員の会見。・・・中日関係は国交正常化以来、これまでにない困難に直面しているが、中国政府と人民は中日関係を重視しており、中日友好の基本方針は終始変わっていない。・・・われわれは「日本経済新聞」はじめ日本のメディアが現在の中日関係と中国の対日政策を日本国民が正しく認識するよう導き、中日関係の改善と発展のために積極的かつ建設的役割を果たすよう期待している。

 杉田社長は、日中関係は現在、重要な時期にあり、日本経済新聞は両国民の理解増進、日中関係の改善のため積極的に努力したいと表明した。(北京4月13日発新華社)

 中国国民懐柔洗脳のための犯日がほころびかけたため、凶産カルト中国が手下朝日を使い再攻勢、韓国罪日便乗。戦後教育の負の遺物、仕掛けに乗った財界と日経杉田社長、負い目払拭中曽根、拝金ナベツネが便乗した。分祀騒動の発端である。凶産カルト相手では、ミイラ取りがミイラは世の習い、赤子の手をひねるようなものである。わずかの真実開扉に、うろたえた犯日国とその輩、捏造犯日が暴露とあわてふためいた。ここが輩の弱点で急所!ここを突ける政治家メディア不在が、日本の仮想界である。思想戦には思想戦、捏造国家や罪日が恐れる最大の敵は、捏造国家転覆可能、真実史観である!

平成18(2006)年7月20日日本経済新聞(朝刊)

富田朝彦元宮内庁長官昭和63年4月28日のメモだとして発表。松岡白取は裁判中、プリズンで病死。○は判読不能。()は朝日解釈。

「私は 或る時に A級が

合祀され その上 松岡、白取 

までもが、

筑○は小○○に対処して (筑紫は慎重に)

くれたと聞いたが

松平の子の今の宮司がどう (考)

えたのか 易々と

松平は平和に強い○○○ (考えが)

あったと思うのに 親の心子知

らずと思っている

 だから私あれ以来

していない それが私の心た」

富田メモの捏造報道

富田メモ研究委員会“御厨貴(東大教授)・秦郁彦・保阪正康・熊田淳美(元国立図書館副館長)・安岡栄志(日経特別編集委員)・富岡知子(富田の妻)”は「分祀、天皇不快感以外の解釈はあり得ない」と結論、2007年4月30日発表。富田メモは非公開で隠蔽のまま。密室での御意判断自作自演は、検証回路皆無か工作員で、日経は亡国奴の巣窟を自白した。

 昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀について不満を示し、合祀後、参拝中断を決意したと勝手に解釈し発表。「親の心子知らず。参○」等、言葉遣いが天皇ではない。天皇は親拝、参拝とは言わない。宮内庁長官である、天皇なら、たとえメモでも不敬は明白(後述卜部日記原文参照)、陰日向宮内庁長官である。富田の妻が御意と判断は、夫富田朝彦への最大の侮辱で、拝金妻の白状以外の何物でもない。

 松平永芳宮司が当時、昭和天皇のご意向を無視して勝手に「A級戦犯」を合祀したかのように報道。事実は異る。誰を合祀するのか、その対象名簿は、遺族援護法等に基づいて政府が決定。政府は遺族援護法等の対象となる戦没者の名簿を「祭神名票」という形で靖国神社に提出。「名簿」受領の靖国神社は、合祀該当者の芳名を記した「霊璽簿(れいじぼ)」と「上奏簿(じょうそうぼ)」二通作成。「上奏簿」を宮中に提出後に合祀。例大祭の前に合祀はされ、合祀後の例大祭には必ず勅使を戴いている。「A級戦犯」も、当然このような手順で合祀された。「私はあるときA級が合祀され・・・聞いた」は、話し手、天皇に非ずを明白に語っている。手順に無知な偽造者の捏造メモなのは、明白である。無検証で取り上げ、松平宮司が勝手に合祀は捏造報道    

 合祀後も、引き続き昭和天皇からは勅使を戴いており、昭和天皇の弟宮である高松宮同妃両殿下と三笠宮同妃両殿下、そして常陸宮同妃両殿下、寛仁親王同妃両殿下がたびたび御参拝になっているのは、史実。

平成18(2006)年12月20日「昭和天皇御製・四季の歌」岡野弘彦著同期舎メディアプラン。岡野弘彦(1924~)宮内庁御用作歌指南歌会始の選者(1983~2007)。

 昭和61年8月15日この年のこの日にも また靖国のみやしろのことに うれひはふかし」御製解説 昭和天皇の和歌のご相談をお受けするのは三・四ヶ月に一回、三・四首たまったお歌を侍従長の徳川さんが持ってこられて拝見していた。昭和61年(1886)の秋、このお歌を初めて見た時の印象は今も鮮明である。天皇がこれほど深い憂いを抱いていられる理由が、歌の表現だけで十分に計りかねた。なにをどう憂いていられるのかを尋ねると、徳川さんは次のように答えられた。「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。天皇はA級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼みの心を表していられました。ただ後年、その人たちの魂を靖国神社へ合祀せよという意見がおこってきたとき、お上は反対の考えを持っていられました。その理由は2つあって、1つは国のために戦に臨んで戦死した人々のみ魂を鎮め祭る社であるのに、その性格が変わるとお思いになっていること。もう1つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとお考えなのです。ただ、それをあまりはっきりお歌いになっては差し支えがあるので、少し婉曲にしていただいたのです。そのお上のお気持ちは、旧皇族のご出身の筑波宮司はよくご承知で、ずっと合祀を抑えてこられたのですが、筑波宮司が亡くなられて、新しく松平(永芳)宮司になるとすぐ、お上の耳に入れることなく、合祀を決行してしまいました。それからお上は、靖国神社に参拝なさることもなくなりました」徳川さんの話は大要、右のようであった。

 当時の世論を考慮した侍従長徳川当然の職責、真意露見隠蔽、天皇擁護目的の歪曲解釈工作で、天皇の御意ではない。理由二つは徳川個人の持論で、かつ御意隠蔽目的の方便「それ(御意)をあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがある(世論に反する)」のです」と徳川は、御意隠ぺい工作を白状している。天皇擁護目的の侍従長徳川の歪曲解釈を、語感に鋭敏な歌詠みは当然見抜いた。結果、特筆し、詳細な解説となった。臣の差別皆無天皇の「うれひ」は、天皇の基に臣一丸の護国蜂起軍愚弄の分祀騒動か、合祀か、考えれば子供でも分かる事だ。工作員がこの歌で騒がなかった理由でもある。

 昭和50(1975)年11月20日富田朝彦宮内庁長官が参議院で、明日の天皇靖国参拝は公人か私的行為かと厳しく追及された。吉国一郎内閣法制局長官は、憲法違反とまで言えないが、「第20条第3項の重大な問題になる(国の宗教活動の禁止)」と発言。翌日終戦30周年の参拝。これ以後参拝無し。当時徳川は、侍従次長。

 昭和53(1978)年10月17日「昭和殉難者」としてA級戦犯14人が靖国神社に合祀。徳川は、侍従次長。

 昭和54(1979)年4月19日「入江相政日記」朝日新聞社刊『・・・朝刊に、靖国神社に松岡、白鳥合祀のことなど出、テレビでもいふ、いやになつちゃう・・・』と入江侍従長記す。合祀で大騒ぎするマスコミを非難したのであって、合祀を非難したのではない。

 昭和61(1986)年8月15日前年靖国参拝の中曽根首相が、一転して不参拝発表当日の歌。「この年のこの日にも また靖国のみやしろのことに うれひはふかし」日本国最上位の臣職天皇に、臣職上下の差別など皆無。「また」は、昭和50年昨年今年と、中韓に迎合し参拝を非難する与野党とマスコミ。天皇の「うれひ」は合祀に非ず、国民の愚民化騒動が「うれひ」。世論に反する御意を知り、徳川侍従長は以後、天皇擁護工作に動いた。当事者徳川は侍従長として、問われた場合の返答に、世論に迎合した、前出の二つの理由を用意した。御意と明らかに異なる理由が工作の証し。

 翌62年9月22日天皇入院、腸の通過障害のバイパス手術、10月7日ご退院。

 63年4月25日天皇天皇誕生日(29日)のための記者会見(最後の)。体調不良で半分の15分で会見切り上げ。卜部日記に「陛下の涙が話題に(目に光るものがあったと記者の証言)」とある。
 4月26日
に徳川は侍従職参与となり、最初の出勤が28日。

 昭和63(1988)年4月28日(翌29日は天皇誕生日)は、当時宮内庁長官富田のメモ日付。同様のことを聞いたとされる、報道担当卜部侍従の日記も同じ日付。体調不良の天皇に非ずは明白。徳川は侍従長を退任し、4月26日から参与職、問われたので答えたで辻褄が合う。富田メモ研究委員会は“合祀に不快”と捏造、敗戦にも逃げずの天皇を、他虐偽善者扱いし愚弄。御製が捏造を暴いた。2につづく⇒

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真実史観2松平永芳宮司の至論昭和殉難者(A級戦犯)合祀と私論中曽根参拝

松平永芳宮司の至論昭和殉難者(A級戦犯)合祀と私論中曽根参拝

 昭和63年8月15日御意は御製のままで最後まで揺らいでいない。その証が全国戦没者追悼式最後の御製「やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」にある。天皇は日本国最上位臣職、靖国(国をやすらかすること)を願い、「祈りし」は日本、世界ではない。「いまだならず くやしくもある」、戦後沈黙の天皇、最後に「くやしく」といみじくも御心中を明かされた。御意くやしく」は敗戦などに非ず。国難存亡の危機に一丸で戦った先人への、国思わぬ輩の冒涜を、一掃出来なかった天皇御自らの自責「くやしく」と、余命無き命では「きざしみゆれど」見れず、あの世で臣に語れない「くやしく」である。戦没者への最後の御製となった。子孫よ!以って瞑すべし。

 9月19日(御製から35日後)大量の吐血で病床に臥す。9月22日、皇太子に全権委任。

 64年1月7日8月15日を迎えることなく崩御。まさに御意くやしく」である。

 4年後の平成2年刊行前出の「おほうなばら」徳川侍従長解題には、「靖国とは国をやすらかにすることであるが、とご心配になっていた」とあるのみで、工作は無い(質問ではないから)。

 徳川義寛死後刊行の「侍従長の遺言・昭和天皇との50年」平成9年11月「徳川義寛終戦日記」平成11年10月朝日新聞刊等で、前述の富田メモや、後述の卜部日記と同類を述べている。

『侍従長の遺言』

 また、徳川氏は戦争放棄・戦力の不保持が定められた日本国憲法についても言及し、「私個人としては、今の憲法は変える必要はないと思いますね」(149P)

 「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです」(181P)

 「しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったんですから。それに靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ」(182P)

 拓殖大学総長だった小田村四郎氏は徳川氏に会った際、しきりに「松平さんは親の心子知らずだ」と言っていたと証言している。

 徳川は、昭和からの近眼史観(2D)、天皇は、神武からの鳥瞰史観(3D)である。

 侍従在職52年侍従長の天皇擁護発言が因で、拝金子孫が守秘義務違反、訳有り嘘売り屋、日経朝日毎日が飛びついたのだ。翌2007年8月4日朝日共同通信等天皇擁護目的の捏造解釈工作論報道。同年11月21日岡野弘彦「辞任とのつながりはありません」との言葉を残し退任と、訳有り朝日毎日等が報道。拝金子孫と亡国奴が、御意を改ざんし捏造した、中国ナベツネ中曽根の影有り分祀騒動の顛末である。

松平永芳宮司の至論昭和殉難者(A級戦犯)合祀と私論中曽根参拝
http://www25.big.or.jp/~yabuki/2001/yasukuni.htm 

松平永芳 1915大正4年~2005年)尾張の徳川家を継いだ侯爵徳川義親(靖国会初代会長)は、叔父に当たる。海軍少佐で敗戦、サイゴン海軍部長として戦後処理を済ませ、1946年(昭和21年)7月、部員47名と共に、最後の復員船で帰国。戦後は陸上自衛隊に入隊。1968年(昭和43年)、1等陸佐で退官。同年より福井市立郷土歴史博物館館長。1978年(昭和53年)7月1日、靖国神社の第6代宮司に就任。1992年(平成4年)3月に宮司を退き、再び館長に復職した。2005年(平成17年)7月10日、死去。

第6代松平永芳(~)宮司は1978(昭和53).7.1~1992(平成4).3.「別冊歴史研究神社シリーズ」新人物往来社平成1年10月刊。「誰が御霊を汚したのかー靖国奉仕14年の無念」文藝春秋「諸君!」平成4年12月号

 ・・・昭和60年の公式参拝 あの時はその直前に私は遺族会とか英霊をたたえる会等の主だったかたによばれました。私が非常に厳しいことをいうものですから、今度は靖国問題懇談会できめた以上、もうゴタゴタいわないで呑んでくれ、というようないいかたをしてきたんです。先方が神社に来るのではなく、私を呼出して、相当に大勢の方々で、いわばつるしあげのようなかっこうで、強引に迫ってきたのです。その時、私がいいましたのは、手水を使わないのはまあ宜しい。これは自分の家できちっと潔斎してくれば、それは心がけ次第だ。それから二礼二拍手というのも、これは中曽根氏のやることで、いくらかっこうばっかりやっても、心がなければしょうがないんだから、心をこめて拝をすれば、それはそれでもこちらからとやかくいうことではない、と譲りました。けれどもお祓いを受けないのは困る。お祓いは神社のやることで、火とか塩とか水で清めるというのは日本古来の一つの伝統習俗です。津地鎮祭で合憲とされたのと同じ習俗だとすれば,それを拒否することにもなる。ところが先方では、宗教法人たる靖国神社がやる行為だから困るという回答なんです。そこでそれならばやむをえないから、結局うちはうちでお祓いをする、いわゆる陰祓いをすることにしました。ただお祓いはひとり靖国神社だけの問題ではなくて、全神社界に関係する非常に大きい問題だから、ここでは即答できない、明日回答するということで、わざと間合をとったんです。そのぐらい大きい問題ですぞ、という意味をわかってほしかったのです。

 翌日、先方が回答をとりに来た時に、私が要求したのは、神社の神様に対する礼儀として、中曽根総理サイドの責任者が、今度はこういう方式でお参りをさせていただきたい、ということを願いに出に来られるのが当然でしょう、と申しました。そうしたら、それはもっともだとして八月十四日に藤波官房長官が来られた。そこで私は、はっきりお話したんです。神社というものはこうだ。私がおそれるのは、本質が崩れていくということだ。よその神社でも知事なんかの公式参拝について、中曽根方式なら憲法に抵触しないということで、同じように祓いも受けないということになったら、神社参拝の本質が崩れてしまうことになるだろう。これは、単にうちだけの問題じゃないから、この点を私は非常に重要視して、先方でいう参拝のしかたで宜しゅうございますよ、とは簡単にはいえない。ただ、今回こちらはやむなく目立たないように陰祓いをしますが、そっちはあくまで祓いを受けなかったということでも結構です。ということで、結局、幕をコの字型に張りまして、記帳台を置き、神社としては総理の記帳時、外から見えないようにしてお祓いをしたんです。けれども、私は挨拶に出ないということを官房長官に言ったんです。それは、いかになんでも人の家に泥靴で踏込むような人の所に宮司が出ていって、よくぞいらしゃいました、ということは口が裂けてもいえませんから、私は社務所にいて出ないことにしました。


 あの時、総理は武道館での全国戦没者追悼式に参列した後、時間調整のためそこでお昼を食べ、遺族なんかを参道に並ばせておいて、それからやってきました。非常に芝居がかった演出だといっては適切ではないかもしれませんけれど、神門から拝殿までの間に、ずっと遺族さん方が並んで拍手で迎えるように取仕り切り、参道の総理に手を叩いている。まるでショーのようなつもりでやってるんです。しかも、あとで夕刊を見て驚いたのは、うちの荒木禰宜が先導して中曽根総理、それから幕僚として厚生大臣と藤波官房長官を従えているのはよいとしても、その横に四人のボディーガードを連れて行動していたんですね。私は前日、藤波氏に条件として、記帳したあと、拝殿から中の、いわゆる神社の聖域にはボディーガードなんか連れて行かないでくれ、と申しておけばよかったと後で後悔しました。まさかそんなことをするはずがないと思っていました。うちの神様方というのはみんな手足四散して戦場でなくなった方が大部分です。そこへ参拝するのに自分の身の安全をはかるため、四人もぴったりとガードをつけるなんていうのは、無礼・非礼のきわみというほかありません。


 ・・・合祀問題 たまたまどうしても宮司にということで、お受けせざるを得なくなったんですが、主として私をくどき落されたのが石田和外先生、もとの最高裁長官です。私はお受けするということを最終的に決心する前に、いわゆる東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだという意見を申し上げた。それに対して石田先生は、これは国際法その他から考えて祀ってしかるべきものだと思うと明言されました。それで私は宮司に就任してから、合祀の書類や総代会議事録等を調べました。


 私の来る数年前に総代さんのほうから、最終的にA級は一体どうするんだという質問があって、いま議会が国家護持問題なんかでごたごたしてるからしばらく待ったほうがいい、それで時期は宮司に一任してくれ、という返事をして総代会も了承された。それが私の就任する6、7年前のことで、以来合祀時期は宮司預けとなっていたのです。この経緯は議事録に遺っています。そして国家護持法案が昭和四十九年に一旦流れましたから、そこでしばらくして前宮司が合祀してくださっていれば問題なかったんです。しかし私が来た時には、まだ合祀されていなかった。

 7月に就任しまして、10月には合祀祭を迎えるのですが、それまでに名簿をつくったりいろいろな手順があるが、間に合うかと係のものに聞いたら、いまなら間に合いますという。そこで間に合うなら合祀しようと決断しました。もし私がこれを4年保留しておいてから合祀した場合、その間、宮司はどういうつもりで握っていたんだ、といわれても回答ができない。したがって、就任した早々であるが、前宮司から預ったこの課題は解決しなければならないということで、思い切って合祀申し上げたわけであります。その根拠は明白です。すでに講和条約が発効した翌二十八年の議会で、援護法が一部改正され、いわゆる戦犯者も全部一般戦没者と全く同じようにお取扱いいたしますから、すぐ手続しなさい、ということを厚生省が遺族のところへ通知しているんです。いわゆる戦犯、役所では「法務死亡者」といいますが、その遺族達は終戦後、一切の糧道を絶たれていたんです。財産も凍結されていたんです。家を売ってなんとかしようとしても家の売りようがなかった。実は私の家内の父親(醍醐中将)が戦犯で銃殺になって死んでおります。家内の弟がまだ学生でしたから、私が実家の母親の面倒も見ていたのです。それで、役所からくる書類などにも目を通し、こと戦犯に関しては普通の方よりもよく知っていたわけです。そこで私は、いつまでも「戦犯」とか「法務死亡」なんていうことを言うべきでないから、さっき申上げた「幕末殉難者」とか「維新殉難者」という従来から当社の記録に使っていた言葉にあわせて、「昭和殉難者」ということにし、靖国神社の記録では戦犯とか法務死亡という言葉を一切使わないで、昭和殉難者とすべしという通達をだしたのです。

 ・・・靖国神社は政府のお金で維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならんじゃないかと考えています。いまこういう教育をしていないから難しいんだけれども、やっぱり国民総氏子という考え方に基づいて独立独歩でいくべきものだということを職員にも常に言うんです。政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない、その時の不安があるから、私は絶対に政府からお金を貰わないほうがよいと考えているんです。仮に国家護持ということになれば、政府がお金を出して守ればよいと思うようになり、国民はノホホンとして靖国の存在も忘れ去ってしまうかもしれません。私がいつも例にとるのは、各地域の氏神様は、おまつりの時期になると氏子に奉加帳がまわってきて、みんな分相応に寄付をする。そうして、まつりで笛や太鼓が鳴り出せば、仏教徒であろうとなんであろうと、みんな氏神さまのところへお詣りに行くわけです。こうして、自分達のお宮だ、という意識が生まれてくるのです。これをすべて県費やる、町費でやるとなれば、自分達の神社という考えがなくなってしまうだろう。それと同じ理屈で、みんなが僅かずつでも出し合う、小額多数というのが、理想なんだといつでも言っているんです。一人の人が一時的に何百億円寄付しても、決して神社の末永いご安泰には通じないんです。それよりも小額でいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分達の今日があり平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。それで、いまでも遺族会や戦友会の人々なんかが来られますと、お子さんでもお孫さんでもいいから、わかい人を一緒に連れてきて欲しい、みたま祭りの時でもいいし、ハトやコイにえさをやろうということでもいいから、何もあんまり難しいことをおっしゃらないで一緒に来て欲しいというんです。

靖国関連「昭和天皇最後の側近・卜部亮吾侍従日記(朝日新聞社刊)」原文太字紫が報道部分)

、昭和63(1988)年「4月28日(木曜)・・・藤森(宮内庁)次長を表御座所棟各室案内主階のみ、お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと、

、平成13(2001)年7月31日(火曜)[一時退院中]10時昨夜予約の入った朝日の岩井記者応接間にて会う、予想どおり靖国神社のご参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず 50/11/21が最後 この時戦没者墓苑にも 御幸啓あり 三殿正式御代拝もこの年で変更に 30分くらいで辞去」。

 全5巻にわずか二つのこの文を、あたかも御意であるがの如く尾ひれを付けまくり、プロパガンダ報道。

 侍従卜部日記が記したのは全5巻中昭和63(988)年4月28日靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと、」と、崩御12年後の2001年731日の「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」のわずか2ヶ所。の原文には主語皆無。、2001年の原文は、「7月31日(火曜)[一時退院中]10時昨夜予約の入った朝日の岩井記者応接間にて会う、予想どおり靖国神社のご参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず 50/11/21が最後 この時戦没者墓苑にも 御幸啓あり 三殿正式御代拝もこの年で変更に 30分くらいで辞去」とある。「予想どおり・・・」は、卜部が朝日の岩井記者に「50/11/21が最後 この時戦没者墓苑にも 御幸啓あり 三殿正式御代拝もこの年で変更に」と、調査結果報告風(30分くらいで辞去が証し)に誘導されて、崩御12年後にやっとたどり着いた卜部個人の感想で、御意ではない。1の主語が天皇で御意なら、最重要、当日に記し、後日の日記に、「予想どおり」などとは書かない。無記載は、富田メモの話しの主は天皇に非ずの証拠。2、「予想どおり」とあるは、天皇の御意、崩御12年後にも開示されずを証言して、余りある。天皇御意開示皆無なので、侍従等は皆「予想」していただけに過ぎない。それを天皇が合祀に不快感とは、捏造も甚だしい限りだ。肝心要の部分、「予想どおり」等を削除し、摘み食いは、誘導洗脳を隠蔽し、捏造が目的。朝日記者の誘導洗脳から2週間後の終戦記念日「8月15日・・・靖国合祀以来天皇陛下参拝取止(や)めの記事 合祀を受け入れた松平永芳は大馬鹿。・・・」は、完全洗脳された証し。輩は語るに落ちて工作員(凶産・韓国・罪日)を白状した。人間昭和天皇08.3朝日新聞社刊半藤一利・御厨貴・原武史でも、原文「予想どおり」は隠蔽。半藤一利「入江日記『朝刊に、靖国神社に松岡、白鳥など合祀のこと出、テレビでもいう(原文ふ)。いやになっ(原文つ)ちまふ』79年4月19日・・・みんな符合していたんだなと、わかります」と勝手に合祀反対と決め付けている。「いやになっ(原文つ)ちまふ」は新聞テレビの大騒ぎで、合祀に非ずは明白。

 このように現実界での当て推量紙屑を、証拠として大騒ぎする工作員の巣窟が、丸暗記仮想現実界の実態である。

 卜部は1924年生まれ終戦時21歳、28歳まで7年間のWGIP、以後引き継いだNHK朝日毎日の犯日、狂産の嵐である。当事者で53年の侍従職徳川侍従長の言動、8ヶ月前の朝日岩井記者の誘導洗脳で「予想どおり」と、闘病の卜部は日記に記載。1ヶ月前、朝日に日記を託し、02年3月に78歳で死去。そして07年4月26日、朝日新聞摘み食い報道。卜部騒動の顛末である。

 公開も出来得ぬ単なるメモ書きを、素人委員会が御意とし報道。病人を誘導洗脳、書かせた日記をさらに摘み食いし報道。仮想現実報道界は、異常である。丸暗記文系には、整合性皆無、鳩山総理(理系だが実技皆無なので、理系丸暗記のまま)、大江健三郎がサンプル。検証回路ゼロ(65年間の無検証が証)近眼史観文系丸暗記稗田阿礼、教授や作家や記者は、整合性皆無の丸暗記D。2Dの捏造なんぞ、記憶現実界(3D)の、整合する道理で検証すれば、前述のように真実が現出する。東條自決未遂事件もそうだが、記憶整合が宗の、3D警察が検証すれば、真実判明は瞬時。

 2006年7月、府中自衛隊基地内の盆踊り大会に、菅直人の代理で招待された伸子夫人と田母神の討論。「田中角栄が中国との国交正常化の際に、総理の靖国参拝をやらないと密約を約束。約束した以上参拝するべきではない」と伸子夫人。「それは違うと思います。密約と言いますが外交文書にそれは残っているんですか」と田母神反論。「角栄さんの“密約”の話は私ももちろんその時初めて聞きました。お客様ですから私としては静かに反論したつもりでしたが、伸子さんはかなり激しい口調でしたね。はっきり物をおっしゃる女性だなと驚きました」と田母神証言。02年菅の発言「A級戦犯が合祀された靖国神社に、首相として参拝できない」。週刊新潮2010年6月24日号。

 市民運動の正体は理念方策など皆無で、市民の不満ならなんでも取り入り、市民の不満に火をつけ回り大火にして集票する、単なる付け火党の白状で、政策皆無集票目的の、他虐偽善者付け火屋が正体。鳩山は、命が大事・友愛等理想常識論の垂れ流しのみで、政治家職責肝心要の実現方策は皆無。こともあろうに方策皆無の鳩山、沖縄基地問題に付け火し大火災、大火にして逃亡、無知無能を自白した。菅はA級合祀だから不参拝と、オウム返し。自民自壊、棚からぼた餅政権、職責の理念方策皆無、ペーパー宦官政治、白状しまくりである。

 2007年4月27日。「痴の巨人立花隆日経BP「メディア ソシオ-ポリティクス」で「『卜部亮吾侍従日記』は、富田メモを裏付ける決定的な資料である」とでほざいた。戦後の東大等の文系は、いかに無検証で、丸暗記で、鵜呑み知識の貼り付け(コピペ)屋かの白状である。それにしても頭隠して尻隠さず、子供だましの幼稚さはこの上ない。「予想どおり」を突けば、富田メモも、卜部日記も覆り、捏造は即座に破壊出来た。幼稚な不整合見抜けぬ否定論者(保守・日本会議等)も、幼稚で同類。核心無検証のオウム返しで、対極の否定論を述べたに過ぎない。仮想現実言葉と文字の机上界は、検証回路ゼロ、両極共に丸暗記の半端者コピペ屋で、既に腐り、病原菌を撒き散らしている。分祀騒動、文系識者丸暗記以外は総白痴か、犯罪者実証した。

 東大文系教授加藤陽子・御厨貴・姜 尚中、東大卒業生・大江健三郎・立花隆・半藤一利・鳩山由紀夫(理系だが丸暗記のペーパードライバー)、東大文系は、論理回路欠損表音丸暗記の病人や工作員製造所。

 真実検証の職責も果たさず日経やアサヒルを鵜呑みし、分祀を叫ぶ石原都知事国会議員丸暗記には、付ける薬が無い。輩は丸暗記仮想現実報道界に操られる、脳みそ無き単なる人形だ。毒饅頭・毒パン・毒キムチ・毒餃子!言葉と文字の日本文系机上界は私利私欲、毒の坩堝だ!一つまみの私利私欲毒で、土台は一億総白痴!亡国である。 遺族会よ、だまされるな!丸暗記空識者?工作員?の、亡国奴を信じたが故の、靖国合祀騒動の顛末である。

阿呆発言繰り返す石原都知事2010.10.24.のフジテレビ「新報道2001」にて。日本の過去を眺めたって軍部が独裁していた日本の戦時体制というのは北朝鮮みたいなもんだった」。「天皇は神格化されていたし、あの頃を思い出すと碌な国じゃなかったよね」。

 日本は立憲君主国で選挙も議会もあったが、当時は戦国時代なので、対処のため、天皇の基に団結した戦時下体制であった。時代背景も判らぬ石原都知事は、検証回路皆無の欠陥人と、またもや自白した。丸暗記空識者、エセ保守、まさに真空人間である。

 

倭は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる倭しうるはし」倭建命、国思(やまとたけるのみこと、くにしのひ)歌。

日本経済新聞社捏造犯罪「昭和天皇実録」A項目戦犯合祀が理由
2014年9月9日 日本経済新聞社Web刊
昭和天皇の靖国参拝取りやめ、A級戦犯合祀が理由

 実録で179カ所に典拠資料として採用された「富田メモ」は、1975年を最後に昭和天皇が靖国神社を参拝しなくなった理由が、78年10月のA級戦犯合祀(ごうし)だったことを明らかにした。富田朝彦元宮内庁長官は天皇が合祀ゆえに参拝をやめたと語った言葉をメモしていた

 その後、『卜部亮吾侍従日記』、天皇の和歌を指南した歌人の岡野弘彦氏の『四季の歌』など、同様の事実を裏付ける資料が出版され、近年の昭和天皇研究では定説となっている。 

 実録では、88年4月28日の項に「靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀、御参拝について述べられる。なお、平成十八年には、富田長官のメモとされる資料(靖国神社におけるいわゆるA級戦犯合祀の経緯や御参拝に関する記述が含まれる)については『日本経済新聞』(七月二十日付朝刊)が報道する」と記述された。

毎日新聞も、「昭和天皇実録」の事実に基づかず、「富田メモを追認」と、勝手な解釈を報じている。
2014年09月09日 毎日新聞
昭和天皇実録:靖国神社不参拝の経緯…「富田メモ」を追認

すべてが丸暗記脳のみで思索脳皆無自浄不可能のマスコミが自白! 
天皇靖国不参拝は合祀に非ず。犯日団(ナカソネ・ナベツネ・朝日・日経・富田子孫・御厨貴・立花隆等々)の捏造が、原因

本文は抜粋版、詳細は下記へ

天皇不参拝合祀に非ず犯日団捏造英霊愚弄に慰霊の言葉喪失が理由



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Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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