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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観他虐偽善者司馬遼太郎史観の覚醒宣言!ノモンハン書いたら俺死んじゃうよ!


他虐偽善者司馬遼太郎史観の覚醒宣言!ノモンハン書いたら俺死んじゃうよ!

 検証回路皆無の表音丸暗記教授や作家は“負ける戦争・無謀な戦争をした軍隊・負けるとわかっていた戦争を戦った軍人”と、したり顔で愚弄するが、日清も日露も圧倒的に不利な戦争であったが、戦った。なぜ戦ったか、座しても死、戦っても死と追い詰められたからである。
 資源なき小国日本が大国相手に勝機をつかむには、支援の当て無き籠城は亡国、先手必勝あるのみ、打って出た。今川が信長を攻め、信長が桶狭間に打って出たのと同じである。奇襲をかけた信長は侵略者では無い、被侵略者であるのは子供の目でさえ明白で、歴史の常識である。
 先人愚弄常套句は、“可能なら回避したが、できなかった”を物語って余りある。先人罵倒常套句は同時に、回答なのである。それさえも気づかず愚弄する文系は、検証回路欠損欠陥人間か、工作員の白状である。
実学皆無の虚学文系、65年間もの職責放棄は万死に値する。

 ネット常識の追試が、やっと始まった。一学究の救国論「日本国民に告ぐ」2010文藝春秋7月号「日中戦争は侵略ではない」と表意記憶。藤原正彦・御茶ノ水女子大名誉教授数学者、エッセイスト、新田次郎藤原てい夫妻の次男。
 以前は、「国家の品格」2005.11.新潮新書「当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な『弱い者いじめ』でした。・・・無意味で恥ずべき関東軍の暴走でした」と、表音丸暗記だった。「日韓がタブーにする半島の歴史」10.4.室谷克美著新潮新書も
追試

昭和4年1939年5月~9月ノモンハン事件までの予備知識。

 南下するロシア、東進する英仏蘭、西進するアメリカ、超大国中国とその属国朝鮮、一触即発の戦国時代に、資源無き島国日本は開国し、対峙した。教授や日教組やNHK等の言葉と文字の凶産犯日半端者が隠蔽し、平和な時代と捏造する時代背景である。日本は資源無き島国、資源封鎖海上封鎖されれば、即亡国は現代でも同じ。本土決戦や籠城は負け戦なので、当然打って出た。英米の助力で、象と蟻の戦い日進日露の難局をなんとか制した。しかしロシアが凶産ソ連となり、近隣諸国を次々と凶産化、モンゴルを手に入れ、中国日本に迫った。

 「花神」で幕末・維新を描き、「翔ぶが如く」で西南戦争を描き、「坂の上の雲(1968年~72.サンケイ・夕刊)」で明治を描き、ノモンハンで昭和を描きたかったのだろうが、司馬遼太郎は断筆した。

 全世界が相手で勝敗明白な、愚かな負け戦に、なぜどうして突入かを、常識でたどれば、全世界連合国(凶産・食民治主義の侵略者)対世界で唯一の独立国日本と、誰でもがたどり着ける。司馬遼太郎はノモンハン事件調査で、一兵士のWGIP耳目知識二次元から、三次元鳥瞰に進化、全世界が凶産・食民治主義の侵略時代、戦国時代、選択肢皆無にたどり着き、受動戦争に覚醒した。二人しか居ない息子も戦死の、象と蟻戦争に勝利した乃木を、愚将と罵倒した司馬が、「ノモンハン書いたら俺死んじゃうよ!」と断筆。

乃木希典(まれすけ)(1849~1912)の手紙

 自刃する2年前、陸軍時代の部下で、修道学園前身の修道中学校総理(理事長)だった佐藤正に宛てた、1910年7月6日消印の手紙。戦争で跡継ぎの2人の息子を亡くした乃木に養子縁組を勧める佐藤に対し、「「弊家(へいけ)ハ小生共(しょうせいとも)一代(いちだい)」と乃木家を断絶させる決意をつづり、天皇陛下や戦死した将兵の遺族に対し「申譯(もうしわけ)ナク」と謝罪。息子2人の戦死は、「愚父ノ面目ヲ添ヘタル」と、かえって面目を保てたと記している。

司馬遼太郎(1923~1996)
 大阪外語大蒙古語学科卒。1944年学徒出陣で出征、満州の陸軍戦車学校に入校、12月牡丹江の戦車第一連隊に配属。この戦車第一連隊は、「ノモンハン事件」で戦い、還ってきた戦車部隊で、同僚となった兵隊から「ノモンハン事件」の戦いの詳細を聞かされていた。翌年の1945年、新潟県、そして栃木県佐野で陸軍少尉として司馬は、実戦皆無で終戦、22歳。1948年産経新聞入社。1960年「梟の城」で直木賞。1993年文化勲章。

 摘み食いし、軍の総意であるかのように工作員に捏造引用されている「轢っ殺してゆけ」は、「歴史と視点・新潮文庫」に収録の「石鳥居の垢」と、「歴史の中の日本・中公文庫」に収録の「百年の単位」に書かれている。仮定での模擬演習上の発言で、実戦上の命令ではない。事実なら、軍の総意では無く、発言者個人が鼓舞する余りの失言であろう。蜂起目的が護国の兵が、国民を殺すことなど無い。常識有る者が、常識で考えればわかることである。実戦皆無で、有るのは耳目の机上知識のみ、軍隊一年未満の司馬は、摘み食いし本意と受け取ったようだ。ただし、司馬以外の証言者は皆無なので、WGIPで洗脳され、創作の可能性もある。旧帝国陸軍軍人として、ましてや誇り高い戦車隊将校として、聞き捨てならぬことと問題になり、近藤新治氏(元戦車第二十八連隊中隊長)が「司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当たったけれど、だれもこの話を聞いていない」と答えている。昭和五十八年八月の中央公論社『増刊・歴史と人物』誌に「座談会 もしも本土決戦が行われたら」

「ノモンハン 隠された『戦争』」 鎌倉英也著NHK出版 赤字()内は真実史観の推察。

司馬遼太郎のかたわらで蒐集資料整理を長年担当してきた伊藤久美子の証言 

 「『ノモンハン事件』 っていうのがあったでしょ。あれを書きたかったんですって。それでずいぶん資料も集めたし、聞き取り調査もしたんだけど全部ここに押し込んであるのよ。もう書かないから目に見えないところにしまっといてくれって言われてね。そのくせ、何でもとっておくと手狭になっちゃうでしょう。私が『あれはもう処分してもいいですか?』 って聞くと、決まって『捨てちゃ困るんだ。とっといてくれ』って言ってね。それが、この段ボール箱なんだけど・・・」

司馬遼太郎の妻、福田みどりの証言 

  「取材から帰ってくるでしょう。『面白かった?』って聞くのね。すると『ふん』とか言うだけでね。あとから日をおいて『つまらなかった』(司馬の極悪軍認識とは異なった)とか『あんなやつ』(司馬覚醒の萌し)とか、いろいろいってましたよ」・・・「出版社の方なんかに書くってお約束もしていたんですけれど、だんだんもういつ書くかわからないってことになってしまって・・・・ それで、今でもはっきり覚えていますけれど、編集の方が『ノモンハン、よろしくお願いします』って言ったときに、こう言ったんです。『ノモンハン書いたら、俺、死んじゃうよ』(これまでのすべてを覆さなければならず、多大な損害を与えるため、当時の世情では不可能。浅学を反省し断筆までした作家だ、現代なら覚醒宣言したであろう)。皆、ハッとして黙ってしまいました。

 なぜ、彼は「ノモンハン事件」を書こうと思ったのか。
 どうしてここまで調べ上げた資料を埋もれるままにしていたのだろうか。
 そして、なぜ「ノモンハン事件」は終に書かれなかったのか。・・・

 半藤一利が、文藝春秋の専務時代、司馬遼太郎に「ノモンハン事件」の執筆を迫った時の発言(前記鎌倉英也著には、死の一年前のことであるとある)。WGIP鵜呑みし「ノモンハンの夏(文春文庫)」を書いた脳天気半藤一利の、自著宣伝や極悪軍強調のプロパガンダは明白なのだが、事実なら、裏返しの本音がここには溢れている。

 司馬遼太郎「調べていけばいくほど空しくなってきましてね。世界に冠たる帝国といい気になって、夜郎自大となった昭和の軍人を(こんなになるまで戦いやがって・・・・バカヤロー!哀惜ゆえの侮辱)、つまりは日本そのものを、きちんと描くには莫大なエネルギーを要します。(司馬は戦国時代無視のWGIP極悪軍が基点なので、まず全てを覆してから始めなければならず、倍以上のエネルギーが必要)昭和12年に日中戦争が起こって、どろ沼化し、その間にノモンハンの大敗北があり、そしてノモンハンの敗戦からわずか2年で太平洋戦争をやる国です。(一兵士のWGIP耳目史観者が調査の結果、まともでない時代背景に気付いた)合理的なきちんと統治能力をもった国なら、そんな愚かなことをやるはずがない。(日本軍極悪のWGIP司馬史観が、日本が愚かに見えるほど逼迫した戦国時代、選択肢皆無に気付いた)これもまたこの国のかたちのひとつと言えますが、上手に焚きつけられたからって、よし承知したという具合にはいきません(笑)淋しい話になりましたね(悔恨と、翻意を公に出来ない己の不甲斐なさへの自嘲)」「司馬遼太郎とノモンハン事件」プ『レジデント』96年9月号半藤一利

 また司馬遼太郎は、下記のように象と蟻の戦いを強調している。果たして侮辱だけだったろうか?「坂の上の雲」は1972年まで連載。ノモンハン事件取材は1973年から。

1974年「このスターリンの大鉄槌によって、薄弱な兵力で火遊びをしていた関東軍は徹底的に敗北してしまった」「街道をゆく五・モンゴル紀行」朝日新聞社

1080年「八九式戦車からソ連のBT(ベーテー)戦車に射撃しても、タドンを投げつけたようなもの」「歴史の世界から」中央公論社

1993年「ノモンハンの戦いは、ソ連の近代兵器に対して『元亀・天正(安土・桃山)のいくさじゃないか』と須見連隊長は思うに至る」「八人との対話」文藝春秋

 オウム“鰯の頭”と同類、書き物屋大江とは異なるまともな作家司馬が、ゴシップ記事屋の如く罵倒のみでいつも終わっている。これからが本番なのに、立ち止まり進行無きはいかにも不自然。誰が見てもの愚行、象対蟻の日清日露大東亜戦争を、日本はあえて、なぜかし続けた。ここを紐解くのがまともな作家の仕事であり、唯一の出番であろう“こんな武器なのに戦いやがって・・・・バカヤロー哀惜ゆえの愚弄”が本音。選択肢は一つ、戦うの、追い詰められた受動戦争に、司馬は気付いた。“それでも戦わなければならなかった。なぜかで、書きたかった”が、司馬裏返し発言の本意!

 「誤解を助長することになりかねないテレビや映画など映像化の話には、亡くなるまでうなずかなかった」「司馬遼太郎という人」和田宏(文春編集者)、文春新書、2004.10.(司馬遼太郎はこれ以上の脚色強調を恐れて、映像化を拒否した。本意の証し。なんとNHK工作員がこれを洗脳の道具にしているのだ。NHKは腐りすぎて異臭を撒き散らしている。このままでは日本が腐り果てる)

 このように体験者の証言は、ほとんどが耳目の二次元証言なので従来のニセ歴史家同様に惑わされてはいけない。善悪史観は歴史ではないことを明確に物語っている。

「ノモンハン」事件の真相

 「死傷者日本約2万人、ソ連2万5千人。戦車損失日本29両、ソ連800両以上。飛行機損害日本百数十機、ソ連1500機前後」にもかかわらず前述半藤一利は、日本の大敗戦と主張し続けている

 作家は面白くが宗の、物語を作るのが仕事で、真実を宗とする検証者学究者ではない。司馬は一兵士耳目二次元証言者小説家から、三次元歴史家検証者に進化すると同時に、真実に覚醒した。“日清日露大東亜戦争は自立自存適者生存の戦いで、皆同じ”の真実に直面し、嘘は書けなくなり、そこで断筆せざるを得なかった。世界史を繰れば、“当時は国盗り合戦適者生存時代”は、誰でも分かる公知の事実。常識で調べれば、子供でも戦国時代にたどり着く。司馬が間違いなく調べた証しでもある。司馬の覚醒がもっと早かったら、断筆も無く、こんなに無残な仮想界にはならなかった。専門でもない物語作家が、犯日や凶産や拝金主義のマスコミに、司馬史観などと祭り上げられた悲劇である。

 司馬の断筆が推察以外なら、司馬史観呼称は捏造で、史家などではなく、ただの新釈諸国話勧善懲悪作家。

 素人はゼロ(定説)から調べるので、発見(新定説)できるが、文系玄人(教授や高学歴者)は、途中(定説表音丸暗記知識以降)から調べるので、定説の間違い(新定説)に気づけない。よって教授や高学歴者は、単なるオウム返しのオウム、空肩書き貼り付けたクダラン張子の虎となる!

 護憲を叫ぶ前に、警察不要と叫ぶのが先の文系愚民の極致、九条の会、「大江健三郎(作家)井上ひさし(作家)梅原猛(哲学者)奥平康弘(憲法学者)小田実(作家)加藤周一(評論家)澤地久枝(作家)鶴見俊輔(哲学者)三木睦子(元総理三木武夫夫人)」などを、歴史家や平和主義者として崇めるのは間違い。輩は実技無き言葉と文字が糧で、鵜呑み烏合の私利私欲無責任凶産工作員、事有れば真っ先に逃げ出すのが輩。工作員でないのなら、世界史を繰りもせず、肩書きで国民を騙す詐欺師が正体。工作員か詐欺師、いずれかである。手弁当で資料開示に必死な無私ネチズンとは、雲泥の差、地獄餓鬼の輩。

 世界の識者トヨタは即謝罪し、即リコール(韓国は自動車売れると喜び報道)だが、日本の識者は職責で税金を貰い、職責放棄の本を書き、無辜の国民はブランド(肩書)で本を買い鵜呑みして欠陥知らずのまま、識者おおいに儲かる!坊主丸儲けならぬ、税金で、識者丸儲けである。

 「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」加藤陽子著 朝日出版社 (2009/7/29)が浮世では売れているそうだ。「『戦争』を選んだ」の題名が白状のように、媚中犯日の内容である。当時は適者生存の戦国時代、選択肢など皆無で、戦わざれば亡国を、「日本人は『戦争』を選んだ」と捏造。凶産隠蔽押っ取り刀の摘み食い追随ではあるが、「アメリカの鏡・日本」も理解不能の歴史つまみ食いの張子東大教授が、「侵略・被侵略」の点丸暗記善悪史観から脱却し、ネット常識線検証、なぜどうしての真実史観入り口に、やっと辿り着いたようだ。浮世の被洗脳国民も、59年の長きにやっと、遅蒔きながらもまともになる萌しか?それにしても税金泥棒59年間の職責放棄は長すぎた、責任はいったい誰がとるのか?マスコミも、傀儡田原総一郎降板等のトカゲの尻尾斬りで、落とし所をさぐりはじめたようだが、子孫のためにも断固として一線を引くべき!日本独立までは蜂起なので、責任皆無。日本独立(1952年4月28日サンフランシスコ講和条約発効)以後は、当然責任有り。皆が死で償ったムシロ旗蜂起責任者や先人を、輩は愚弄し続け国民を騙し、59年間もの長き税金・給料泥棒生活で、のうのうと暮らしてきた。護国帰還兵と遺族が、汗と涙で復興に懸命な時に、知識記憶のみが取り得で使うことも出来ず、記憶機のままのうのうと暮らし、他国の傀儡、工作員勤務もいる。総括も無く、頬かぶりしての継続など、唯心子孫、断じて許してはならない。一教授個人の摘み食い資料などより、膨大な最新公明資料が巷には溢れている。中古品五千円の電子手帳のほうが、肩書き中古でも、はるかにすぐれ物である。立派な先人の親から授かった立派な頭脳で年表を繰り、なぜどうしてと辿れば、59年間も記憶機のみの教授超えなど、子供でもすぐ出来る。古色燦然の空肩書きを、59年間もひけらかす前史の文字と言葉の机上の輩や、煽る出版社や報道など、まず不要!次に、党のみが在って国が民が無い、摘み食い政治屋と党の「せんたく」。勝者なのにアメリカはいち早く反省し、終戦からわずか5年後の1950年2月、マッカーシズムで、大東亜戦争の真の元凶を「せんたく」した。独立後59年も日本は経た。言葉と文字の仮想(机上)界の「せんたく」、日本未だ成らず!

 児遊官主自滅の残滓が、反省謝罪の総括もせず、保守を連呼し、自滅にも懲りずまた児遊官主の保守を始めようとし、私党民主は、凶産犯日工作員の巣。歴史家にゆだねるなどと、59年間も職責放棄した与野党、まさに残滓。いつの世も日本は、天道を宗とする“真正”だ、浮世の保守革新などではない。保守の反対語は革新!“真正”の反対語は?・・・・

 

坂本龍馬29歳。勝海舟の下で、海軍塾塾頭。1863年9月29日姉、坂本乙女宛の書簡。

 「夫(これ)より江戸の同志と心を合セ、右申所の姦吏(不正をはたらく公人)を一事に軍(いくさ)いたし打殺、日本を今一度『せんたく』いたし申候事ニいたすべくとの神願二て候」。

 言葉と文字の教授日教組NHK等、凶産犯日半端者の輩が捏造する大東亜戦争は、考えれば分かる事!戦国時代の資源無き小国島国日本、資源封鎖海上封鎖で亡国、籠城は本土決戦は敗北。打って出なければ勝算など皆無。ABCD資源封鎖でハルノート受諾は、丸裸となり、次の資源封鎖で日本国名も消滅は、戦国時代の常識。大阪城内濠を埋めたのと同じで、選択肢など皆無ABCD資源封鎖は宣戦布告。アジア同胞蜂起に一縷の望みを懸け、大東亜共栄圏建設のため打って出た。敵は食民治主義凶産主義連合で、アジア同胞ではない。詳細は下記へ

子孫よ竜馬になれ!

 難しいことではない。職場や学校から、凶産犯日の半端者を、職員や父兄や学生が一掃すれば事足りる。それだけで、戦後復興したように必ず日本は復活する。

 

亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

祖母がよく言っていた。「間違ったことをたくさん知っているより、知らないほうがいいんだよ“アメリカの鏡・日本”ヘレン・ミアーズ

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真実史観朝鮮戦争起因は李朝差別済州島四三は朝鮮浄化殲滅軍対耽羅死守隊

凶産蜂起は捏造済州島四三は血が汚れるの朝鮮浄化殲滅軍対耽羅死守隊

賎民朝鮮人(9割)の両班偽証が、耽羅人済州島4人の内の一人が虐殺された四・三大虐殺の原因!
 四・三耽羅人大虐殺は、両班偽証賎民朝鮮人(9割)の両班証明競争となり、老人女子供妊婦までがニセ両班に赤と捏造され、殲滅された!ちなみに、現代の何でも起源も、両班偽証賎民朝鮮人(9割)のなせる業!嘘つき白丁の、劣等感の裏返し!

四・三事件、四・三済州蜂起、朝鮮戦争、などではない、朝鮮の民族浄化殲滅戦。

 ネット常識の追試が、やっと始まった。一学究の救国論「日本国民に告ぐ」2010文藝春秋7月号「日中戦争は侵略ではない」と表意記憶。藤原正彦・御茶ノ水女子大名誉教授数学者、エッセイスト、新田次郎藤原てい夫妻の次男。
 以前は、「国家の品格」2005.11.新潮新書「当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な『弱い者いじめ』でした。・・・無意味で恥ずべき関東軍の暴走でした」 と、表音丸暗記だった。「日韓がタブーにする半島の歴史」10.4.室谷克美著新潮新書も、田母神諫言も、ネットの
追試

(共産党)」と捏造して「李朝差別に復讐」した数で勝る「白丁」や、ニセ両班9割が犯した同族大虐殺を隠蔽しての矛先反らしが、捏造犯日抗日の第一目的!「日本が悪かった」わけでは、断じて無い!
動画
 韓国最大のタブーThe maximum taboo in South Kore
 カラーで見る朝鮮戦争
 韓国の秘密 - 朝鮮戦争大虐殺
 悲劇の島 チェジュ(済州)~「4・3事件」在日コリアンの記憶~


予備知識

 戦後の韓半島や在日の犯日も、済州虐殺や南北殺し合いの古今未曾有の愚行も、人間殺しの差別抜きでは整合しないが、人間殺しの差別を嵌めるとピタリと符合する。在日韓半島日本、皆、人間殺し差別ひた隠しだ。そんなものは歴史ではない、摘み食いの洗脳でしかない。

 人間を獣扱いし、生かすも殺すも思いのままの、凄まじい人身売買獣家畜差別(日本は1100年前に破壊)や差別の教え儒教を、100年前まで続けた李氏朝鮮が、四・三耽羅人虐殺、南北殺し合い、済州人血が汚れると侮蔑、犯日等、すべての悪因である。「朝鮮事情」グレ著平凡社には、日本統治以前の、「ヒトモドキ朝鮮差別」が詳細なので、未読の方は、併読を。

「李氏朝鮮では、奴婢が公賎(官庁に所属した奴婢)と私賎(両班などに所有された奴婢)に分けられ、私賎は男子が少なく、女子がほとんどであった。婢(女の奴隷)は日韓併合当時、まだ一人三十円で売られていた。婢に特定の夫はおらず、何人かの間で替えていくのが風習であった。しかし、婢は主人の所有物であったから、その生まれた子供もまた主人の所有に属し、その子もまた転売されていくので、婢の子孫は、女子であれば、ほとんど世々代々奴隷として浮かぶ瀬あらんやといわれた(まさしく性奴隷)」『朝鮮農業発達史』『同・政策編』小早川九郎編著友邦協会

詳細は下記参照。

毛皮が語る 強制連行 1朝鮮南 皆戦争反対  


1897年“『朝鮮紀行』イザベラL・バード第三十七章最後に”
 ・・・改革(日本が貴族を廃止し、皆平民にした)があったにもかかわらず、朝鮮には階級が二つしかない、盗む側と盗まれる側である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であり、人口の五分の四をゆうに占める下人(ハイン)は文字通り「下の人間」で吸血鬼に血を提供することをその存在理由とする558頁。

 日本が破壊した悪習、李朝人間殺し差別。この悪習復活無きを、撤退した日本は祈念したが、半島人はこぞって出自を、被差別から差別する側、両班(10人中9人がニセ者)に改竄した。

 家系図捏造が高じて身分高貴と錯覚、南夷の済州島をマネ中華で最下層とし、さらに見下した。

 ニセ者同士の疑心暗鬼が、南夷の済州人を差別せずは、同じ半島人からニセ者と疑われ除け者にされる。差別し続けなければ身分が疑われ正体がバレ差別される、恐怖である。

 犯日を叫ばなければ親日とされ、差別される現代と、まったく変わらない。反省無き愚民の成れの果てである。悪習破壊の日本撤退後、この恐怖の連鎖が半島人を覆いつくし弾け、島では対立の溝が、限りなく深まった。

 凶産が混入のためぼやけたが、発端は日本撤退後豹変し差別に拍車を掛ける者への抗議で、済州人の姿勢は最後まで一貫している。

 四三は凶産を排除しないと見誤る。済州島ガス室の始まりである。

 日本統治で破壊したが李朝519年の悪習は容易には消えなかった。

 同族殺し合い民族浄化の始まりは、李朝人間殺し差別を破壊した、日本の敗戦である。

 人口の90%以上が李朝人間殺し差別の復活を畏怖した。数で勝る被差別民(土地無し)は、差別民(土地所有者で元生殺与奪権者)を追い出し、占領した。

 追い出され南に逃亡したのが元生殺与奪権者(実体は下克上の落人、難民だが、反共右翼となり西北西青会を結成し復讐の塊となった。略称西青)80から100万人。当時の人口南北2.512万人の1/2で約一割の難民(元生殺与奪権者)で合致する。

 これ幸いと労さず便乗したのがソ連凶産である。これが半島北瞬時に凶産化の顛末。

 半島南も北と同様であった。「市民社会の爆発(韓国現代政治の条件。崔章集)」。

 敗戦後勃興した半島南の凶産も、下地は李朝極差別、日本で暴徒と化した朝鮮在日と同じ。そして復活を恐れた在日60万人(親日を含む)は日本に残留した。

 朝鮮も在日も李氏朝鮮獣家畜差別を隠蔽し、捏造のみが書籍やサイトでも一人歩きし、お題目、日帝連呼愚民の犯日である。“自らを改革する能力がないので、外部から改革されなければならない”と、イザベラL・バードは100年前に喝破した。現代も反省無くすべて責任転嫁の罪日や半島人、喝破適中である。

 古代、海洋民で輝き、四三蜂起で唯心を死守した耽羅(たんら)精神を、“外部”真実史観で検証。

 済州島は噴火で産まれた島である。中央にそびえる漢拏山(はるらさん)は、白頭山に次ぐ韓半島第二の(1950m)の高峰である。

 石、風、女が多い「三多の島」、大門(門扉)無、盗(泥棒)無、乞(物乞い)無、「三無の島」が済州島である。

 いにしえは州湖国、次に耽羅(たんら)国といい、五世紀末に百済に服属したが、古代から15世紀初めまで実存した王国である。古代言語は朝鮮でも中国でもなかった。下記のように倭人と協力し、建国する様子が古記、国造り神話として伝えられている。

 神話は、朝鮮神話僧一然創作の私選歴史書(1289年)檀君朝鮮などよりこちらが古い。

神話

高麗史(高麗朝の紀伝体の史書。李朝文宗1451年撰)57巻地理志(史012)

地理志二、全羅道・羅州牧・耽羅県。全羅道の南海中に在り。

 耽羅の古記はこう伝えている。
「天地が開けた初め、人物なし。三神人、地よりそびえ出る『その主山の北麓に、穴ありて毛興という、これ、其の地なり』。年長は良乙那といい、次は高乙那といい、三は夫乙那という。三人は荒れた僻地を周って猟をし、皮を着て、肉を食す(狩猟民)。ある日紫泥で封緘せる木の函、浮きて東海の浜に至るを見る。行って之を開ければ、函又石函あり。一の紅帯、紫衣の使者が付き随っていた。石函を開くと、青衣の処女三人、及び、さまざまな子馬や子牛、五穀の種が出現した。そこではじめて使者曰く、『吾が王、この三女を生み、“西海の中獄に降りし神の子三人、将に開国しようとしているが、配偶者がいない”と云い。これの成就を臣に命じられたので、三女に付き添い、以って来たらしむ。我れこのことの日本国使者なり(曰我是日本国使者也が原文)。なんじ宜しく作配し、以って大業を成すべし』と。使者たちまち雲に乗りて去る。三人は年の順におのおのが娶った。水の良い、肥えた土地で矢を射て土地を占い、良乙那の所居は第一部といい、高乙那の所居は第二部といい、夫乙那の所居は第三部といった。始めて五穀を播き(農耕民)、そして子馬と子牛を牧し、日ごとに物が豊かになった。15代孫の高厚、高清、高李の兄弟三人、船を造りて海を渡り、耽津に至る。・・・」と。注・狩猟民に日本国使者が五穀を授けた。

 233~297年頃『三国志魏書』馬韓伝東夷伝韓の条。

 また州湖あり。馬韓の西の海中、大海上にあり。其の人小ぶりで、言語は韓と異なる。皆一様に髪を剃っているのは、なめし革の衣のみ着用の鮮卑のようだ。牛及び猪(いのしし)を好く養う。其の衣は上有りて下無く、裸の姿のようだ。船に乗り往来、朝鮮南部で売り買いをする。

476年4月耽羅、百済の文周王に朝貢した。『三国史記』

498年9月耽羅、百済の東城王に服属した。『三国史記』

508年12月南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた。『日本書紀』

662年耽羅、新羅に服属したが、この時唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅は、日本に朝貢し続けた。『日本書紀』

663年白村江の戦い。3月、上毛野稚子ら、2万7千の兵を率いて新羅を討つ。8月、やがて唐本国から援軍到着し、倭国の水軍と白村江で決戦に及んだ。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結し、亡命を希望する多くの百済貴族を伴なって、帰国した。これより日本は半島の権利を放棄。以後天道を宗とする者(海洋民)と、そうでない者(半島人)とに分かれた。

665年8月耽羅の使い来朝。

666年1月耽羅王子始如ら、来朝。高句麗の使い来る。

667年7月耽羅佐平の椽磨らを派遣して朝貢。

668年唐と連合して百済高句麗を滅ぼした新羅が半島の単独政権と成ったのは668年、大同江以南の地は唐を宗主国とした属国新羅が支配し、唐から儒教仏教律令制などを取り入れ、独自に発展させた。

669年3月耽羅王子の久麻枝らを送って日本に朝貢。日本は耽羅王に五穀の種を授けた。

673年6月耽羅王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢。

 ?~846年張保水皐 、新羅、唐、日本(能登や十三湊)の貿易を展開し、耽羅は海上貿易の拠点となった。

 918年新羅を倒し、高麗王朝誕生。

 938年耽羅王星王(そんじゅ。王)高自堅が太子の末老を高麗に遣わし入朝。

1105年耽羅郡として、高麗官吏が民政掌握。

1213~59年済州と改名された。耽羅は島の国の意、済州の済は、大海を越えたの意。州は一行政単位。耽羅は独立を失った。

1168年良守の乱。

1202年煩石・煩守の乱。

1267年文幸奴の乱。

高麗官吏暴政に対しての反乱が続き、難治の島と呼ばれるようになった。

1274年日本に侵攻、元寇。

1275年高麗軍三別抄の乱を制圧した元は、高麗から分離、耽羅国に戻し、蒙古軍や代官を置いて、蒙古馬の放牧地にした。170人ほどの罪人も送られ、流刑地としての歴史も始まった。

1281年日本に侵攻、元寇。

1294年高麗忠烈王済州奪取を試み、名目上は実現したが、元の牧胡(モンゴル人)支配は続いた。

1368年元滅び明王朝。

1374年牧胡の乱を、高麗殲滅。目だった乱も無く融合し、約100年のモンゴル支配は終わり、左(ちゃ)という姓や、マル(馬)など融合の足跡を残した。

1392年倭寇征伐で名を上げた李成桂が475年続いた高麗を倒し、朝鮮王国建国。

1445年星主(そんじゅ)、星子(わんじゅ) 身分廃止。行政区画も、一牧二県済州牧(北)、族義県(南東)、大静県(南西)に再編された。牧には牧使(もくさ。任期3年)、県には県監(ひょんがむ。任期1年)が派遣された。

1629年仁祖の時代出陸禁止令(1830年までの200年間)、島を出ること、半島人との結婚、船建造が禁止され、島は封印された。絶海の孤島に閉じ込められた島民は、李朝末期までの人口、5万人前後で推移した。李氏朝鮮に支配され政治犯両班等の流刑地となり、半島からさげすまれ、悲劇の島となった。李氏朝鮮は儒教支配を推し進めたが、李氏朝鮮のように遺跡を破壊し尽くさず、かたくなに伝統を守り、半島のように儒教化(人身売買獣家畜差別)唯物化せず、唯心のままであった。(終戦後の島民同士の騒乱は皆無で、団結が証し。半島や在日は前述のように賎民の反乱となった)現在の韓国も李朝悪弊を引き継ぎ、日帝時代と称し否定、破壊し尽くしている。李氏朝鮮もこのようにして破壊し尽くしたのだ。

1723年朝鮮語の通訳として長く対馬藩に仕え、八代将軍吉宗時代に毛利藩に転じた松原新右衛門が当時の朝鮮についてこう述べている。

一、釜山の周辺に豊臣秀吉の朝鮮征伐のときに築いた城がまだ残っていて朝鮮政府で管理している。

一、朝鮮ではシナ(中国)の年号を用いている。

一、朝鮮には砂糖がない。

一、済州島の住人は、たいてい日本語を用い、日本の歌などを歌っている。今は朝鮮の領土となっているが、もともと日本から来た者が住んでいる。「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著より引用 (日本図書館協会選定図書)

1813年腐敗した半島地方官が島民に対し悪辣を極めたため蜂起。実行直前に発覚、首謀者は逮捕され処刑。

1863年島民が重税に対して蜂起。竹槍で武装した島民が済州城内占拠、数人の下級官吏殺害し、解散。官は追放、税金免除し、新免税発表。

1898年腐敗した官吏と新課税への蜂起。房星七の乱。

1901年新徴税行政とカトリック導入に対しての李在守の乱。辛丑蜂起。いずれもが島民対差別する李氏半島人との乱。半島人はマネ中華と儒教と獣家畜差別で、「血が汚れる」と差別した。

1910年日韓併合

1917年3月ロシア革命、ロマノフ王朝倒壊。11月ソビエト政権樹立、レーニン首班。

1918年WW1終戦

1919年3月1日「三・一独立運動」が京城で起きた。統治下最大の朝鮮独立運動。各地に波及したが、日本とタイ(シャム)のみが独立国の戦国時代に、何たるたわ言と一蹴され、5月には沈静。
 戦国時代の認識欠如、ロシア革命やWW1終戦に刺激された、一部の独立ごっこなので、扇動されたが、すぐ現実に目覚め、5月には沈静した。当時の朝鮮に独立力皆無は、世界の常識、ゆえに戦争もなく統治された!これを隠蔽してのNHK等の放送は、亡国奴工作員の証拠。
 この「戦国時代」を隠蔽した現代韓国の「三・一独立運動」賛美は、「国民愚民化洗脳」の、明白な証拠

1919年4月 上海仮政府(大韓民国臨時政府)樹立(追われた戦国時代無知扇動屋テロリストの、大言壮語名ばかり政府)。
1921年金元鳳率いる義烈団が欧州訪問のと途上香港で裕仁皇太子(昭和天皇)を暗殺計画、未遂。

1923年9月1日関東大震災。9月3日 朴烈大逆事件義烈団(上海仮政府テロ組織)の朴烈、裕仁皇太子暗殺計画発覚 拘束。

1923年2月直通航路大阪・済州間を君が代丸が就航。20万人(李朝末期5万人×4倍)済州島1万人済日。

 

耽羅人(済州島人)と半島朝鮮人との闘争

1924年10月30日京都日出『鮮人争闘事件/手打ち成る/顔役の仲裁で(東九条松の木町、済州島出身者と慶尚南道出身者の反目。朝鮮人有力者と国民研究会が調停)』

1926年5月18日九州日報『鮮人の争い/本島人と済州島人とで(嘉穂郡庄内村)』

1929年6月6日  芸備日日 『福島紡績の鮮人女工/あはや同盟罷業/済州島人を雇入れたので/大事に到らず解決(福島紡績福山工場)』

1929年6月6日  中国『朝鮮本土人と済州島人軋轢/福山紡暴動事件(福島紡績福山工場)』

日本内地で評判の良い耽羅人(済州島人

1928年2月10日  大阪朝日『内地で評判の良い/済州島の鮮人/他道の者が生地を偽り/島民に化けて渡航』

1929年10月4日 大阪朝日『済州島人の/評判はよい/今後大いに善導する/広瀬代議士はかたる』

 

1931年海女の抗議デモ。海女漁業組合を海女自身の手から島司(日本人)に移行したことへの抗議で、何でも責任転嫁の朝鮮人が叫ぶ抗日半日ではない。島司は非を認め要求を呑んだ。

1934年19万人済州島、5万人済日。男は職工、女は紡績工というのが済州島出身者の代表的な職業である。半島人は人夫など土木建築労働者が大半であった。

 「埠頭労働者や農民、海女などによるストやデモが時折起こったものの、日本の支配に対する抵抗はほとんど無かった。日本人の島民に対する偏見は、ほかの朝鮮人に対するそれよりもましだった。日本人は島民たちを素朴にして誠実、しかも働き者であるとみなしていた(済州島四三蜂起ジョン・メリル著新潮社)」君が代丸釜山ではなく、済州島直通航路が証。

1944年の朝鮮人人口2.512万人(日本統治で2倍になった)。

1945年5月7日済州、木浦間の連絡船「晃和丸」、米軍の空爆で沈没。520~600人死亡。

1945年7月3日半島への第一回疎開船「豊栄丸」木浦沖で触雷沈没。500名死亡。生存者45名。責任転嫁の常習犯、半島人や罪日なら日帝責任と大騒ぎの種だが、そうはならなかった。済州人は唯心、責任転嫁はしなかった。WBC2009年日韓決勝戦、韓国監督、敗戦はサイン無視した投手に有りと責任転嫁し、何ともはや涼しい顔で居直った。韓国民も監督非難せず、投手非難に集中した。たとえそうであっても、全責任を負うのが監督、日本では責任転嫁する監督など有り得ない。星野も転嫁せず全責任を負った。この一コマは、半島人や罪日と、日本人の根源は徹底的に異なることを証明した。李朝の反省無き責任転嫁が、悪はすべて済州人と決めつけ、四三の起因となった。悪はすべて日帝と叫び、謝罪連呼し続ける65年間の犯日が証明している。

 島独自の物は限られ、単独で島は成り立たず交易で島は成り立つので、来島者には親切が島の特長である。島や漁港は男が漁や交易に出て留守、なんでもこなすのが島の女である。事有る時は親戚縁者より最も頼りになるのが隣組。島や漁港に住む海洋民の、長い伝統に培われた万国共通の知恵であり、民主主義の極致である。済州島耽羅人にはそれが有り、韓半島人や罪日にはそれが無くて、李氏朝鮮差別儒教と空身分のみがある。板子一枚下は地獄の現実世界に、身分肩書きなど通用しないのである。韓半島人は皆責任転嫁し、反省しない。耽羅人は責任転嫁しないで反省する。ここが小日本と言えるほどよく似る、矜持高き耽羅人の原点である。

 韓半島人は四三蜂起を反省せず、差別隠蔽のため凶産蜂起と捏造した。李氏朝鮮に救いようの無い無恥にされた民族である。唯心耽羅民族とは思想が間反対、矜持無き李氏朝鮮民族である。

1945年8月8日深夜ソ連中立条約を破棄し参戦満州南下。

1945年8月10日米国三者調整委員会(SWNCC)北緯38度線を境にし。米ソ分割占領を決定。ソ連南北をつなぐ三つの鉄道を8月26日、電話線を9月6日に遮断。建前の信託統治案(1945年の12月米英ソのモスクワの外相会議、朝鮮人自らの統一臨時政府を樹立し、米英中ソによる5年間の後見)があったが、凶産主義と食民治主義、敵の敵は味方が連合し伊独日を倒したが、しょせん正体侵略者同士の水と油、対象の日本が消え、以後本性剥き出し米ソの戦いとなった。

1945年8月15日終戦。戦勝国と大暴れした罪日下克上(暴動)出自の白状

 終戦時の在日人口は2百万で、米軍の命令で日本は送還を開始し、運賃無料手荷物制限230キロという条件で帰国させた。昭和21(1946年)末までに約140万人(生活基盤土地有りの出稼ぎ者)が帰国。差別から逃れ半島から脱出していた罪日は、日本の敗戦に付け込み戦勝国と大暴れ(賎民の下克上)したが、差別復活を恐れ、自分の意思で残留を選択、60万人(親日を含む)(朝鮮に生活基盤土地無し)が日本に留まり在日となった。

 統合から13年、「三・一」から4年、関東大震災でも同様の朝鮮人暴動があり、騒乱の原因を成した(阪神大震災等、地震での理由なき暴動、日本人には無い)。

 暴動朝鮮人(賎民の下克上)と、日本自警団の闘争で、233人死亡(政府発表)。自警団に無辜の朝鮮人を殺している暇など無い!キジも鳴かずば撃たれまい!

 上海で大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」発行の金承学らが組織した、「罹災同胞慰問団」が秋に調査したとされる虐殺犠牲者6415名が、捏造思想戦「朝鮮人虐殺」の、元ネタ。朝鮮独立運動派が諸外国の外交官にばら撒(ま)いた謀略宣伝用小冊子(ロンドンのナショナル・アーカイブス)には、なんと2万3059人虐殺

 1923年震災時の在日は全国で8万415人、関東地域には約1万2千人、震災地域の人数は約9800人と推定。9月17日(9月1日震災)時点で身元判明朝鮮人は、政府によると総計6797人。
かんとう大震災犠牲同胞慰霊碑 には、「同胞を虐殺するようにした。在留同胞中で、この凶変蛮行による被害者は6300余名を算え、負傷者に達した。この犠牲同胞の怨念は、実に千秋不滅であろう」と、捏造死亡者数をさらに捏造、虐殺犠牲者数とし、堂々と碑に記した。震災犠牲虐殺犠牲にすり替えたのだ。

 正体暴かれたこの碑は、以後、震災犠牲者皆無の証、捏造の動かぬ証拠朝鮮人捏造
白状碑となって、実に千秋不滅であろう!この捏造数字は、朝鮮戦争四三等同胞殺しや罪日出自の、隠蔽目的に利用され、日教組や凶産教授等の亡国奴が、無検証で鵜呑みばら撒き、現代に至る。関東大震災、出自自白の下克上が起因の、朝鮮人死亡(虐殺と捏造)事件の顛末である。諸悪の根源、族譜破壊もせぬ北朝韓罪日、唯物朝鮮をまともに信じるは愚か!

 常識のみの検証でも捏造は明白。突然の震災に、朝鮮人のみの選別は不可能。助け合いの震災時に、暴徒が出たので成敗したら、すべて朝鮮人であった。朝鮮人のみが暴動を起こしたので成敗されたが、真実。朝鮮人の暴動がすべての起因である。

以下、団体、組織、左派=凶産の如き資料のまま記載するが、凶産ではなく差別者へ抵抗のための組織なので念頭に置き読んで欲しい。特に済州島は、凶産などまったく無関係

人殺し差別復活の恐怖が爆発した半島北

 人口の90%以上が、李朝人間殺し差別の復活を畏怖した。数で勝る被差別民(土地無し)は、差別民(土地所有者で元生殺与奪者)を蹴散らし追い出し、占領した。土地有りは越南者として南に逃亡した(1945年9月~48年1月で80~100万人)。当時の人口南北2.512万人の1/2で約一割の難民(元生殺与奪権者)で合致する。当然逃亡者は奪われた土地を取り戻すべく、徹底した反共主義者と化し、半島南での左翼攻撃、反共の先頭に立った。済州島に投入された迫害と虐殺の限りを尽くした西青(西北青年会)は南への逃亡者である。

1946年2月ソ連軍の傀儡金日成の北朝鮮人民委員会が作られ赤化開始。差別の復活阻止が、一気に凶産と結びつき、労さず瞬時に赤化した。

人殺し差別復活の恐怖が爆発した半島南

 半島南も北と同様であった。「市民社会の爆発(韓国時代の政治の条件、崔章集)」。がしかし一方、数に勝る被差別民とその同調者は、呂運亭や安在鴻を中心に朝鮮建国準備委員会(建準、後に人民委員会)8月15日に結成、翌日には放送や遊説で地方組織の発足を訴え、8月31日までに145の支部が組織され9月6日中央で朝鮮人民共和国の樹立が宣言された。北も同類の動きはあったであろうが、相手は凶産、潰された。南の爆発は米軍政が抑えた。「市民社会の爆発」や「建準」はどれも左派記載であるが、日本統治下で共産は封殺されており、組織は皆無。李朝人間殺し差別の復活阻止に、8割以上の被    差別民が結束、一気に動いた。結果、たったの20日間で結成出来た。

 半島南北の瞬時の自治化は、李朝人間殺し差別阻止が第一義で、左派共産党ではない。10月10日朝鮮人民共和国は、米軍政で否認され、呂運亭の朝鮮人民党と、朴憲永の朝鮮共産党など、それぞれ独自の組織に分裂して、このことを証明している。

 米軍仁川9月8日、ソウル到着は翌9日、占領統治に遅れをとった米軍は、当初は人民委員会に協調したが、後に左派と決めつけ人民委員会を忌避、日本統治下での行政警察機構と人員を重用し庇護した。人民委員会は消滅し、46年2月民主主義民族戦線と衣替えした。

1946年3月名目上の米ソ共同委員会始まる。信託統治の米ソ合同委員会は紛糾し5月26日の第二会議で無期延期。侵略者凶産主義食民地主義の正体が現出。

1946年7月25日米軍政は左派右派の合作を試みたが、22日、5週間の北朝鮮訪問から帰った左派朝鮮朴憲永共産党は、米軍政庇護下の右派と米軍政に、反旗を掲げた。対する米軍政は共産党指導層朴憲永等の逮捕令で応じ、新聞等の停刊などの弾圧に着手、共産党の呼びかけに、労働者学生一般大衆25万人余りが参加する暴動へと発展し、農民反乱を触発し、「10月人民抗争」と呼ばれた。済州組織は共産ではないので、参加せず。鎮圧には警察、土地を奪われ追われた逃亡者西清が投入され地方の民青も徹底的に破壊された。追われた土地無し(常民・賎民)は日本へ一部は脱出した。残ったものは出自捏造をバレないように工作し、成り済まし、身分制度復活阻止に備えた。韓国人や罪日の10人中9人の家系図捏造の理由であり、在日を差別する、韓半島人の理由である。

 成り済まして後顧の憂いを払拭したニセ両班は、手のひらを返し一斉に右翼に変身、凶産弾圧に励んだ。結果半島南の凶産は、沈静した。2につづく


真実史観2十人中九人がニセ者家系図露呈が恐怖となり朝鮮人の済州人虐殺に拍車

1946年12月軍政、南朝鮮過渡立法議員設置。官選議員45人、民選議員45人(済州島は凶産ではないので、凶産ボイコットの10月の選挙に参加、二名当選)の右派で占められた。

1947年7月10日米ソ合同委員会第二次会議決裂。左派右派の合作は決裂した。

島民団結平穏に自治の済州島と済州人をマネ中華差別大威張りの半島人

 南夷の済州人を差別せずの懇意は、同胞半島人からニセ者と疑われ除け者にされる。差別し続けなければ身分が疑われ、正体がバレて差別される。恐怖である。妊婦や赤子までもが赤と偽り大虐殺された原因は、ニセ両班同士の疑心暗鬼!
 
犯日を叫ばなければ親日とされ、差別される現代とまったく変わらない、反省無き愚民の成れの果てである。悪習破壊の日本撤退後、この恐怖の連鎖が半島人を覆い尽くし弾け、島での対立の溝が、限りなく深まった。悲惨、済州島ガス室の始まりである。

1945年8月15日終戦。済州島出自戦後帰島し、数ヶ月で島民倍増、30万に達した。日本軍5万人が島の駐留地に留まったが、島民倍増食料不足にもかかわらず、いさかいもなく食料も調達し、10月に引き上げている。重し取れ弾けたような韓半島の反抗暴動や、日本での戦勝国気取りの暴動三国人の不法行為は済州島では起きなかったのである。島民には李氏朝鮮獣家畜差別の身分差別は、皆無の証である。戦後日本に留まり、戦勝国と自称し暴れた罪日とは明らかに異なる。罪日は暴動で、李氏朝鮮儒教人身売買獣家畜差別の犠牲者出自を、自白している。李朝差別の憤懣が爆発し、賎民脱出に動いたのだ。犯日を叫んでいるのは輩の子孫、現代の罪日だ。暴動は李朝差別で帰国せずの罪日のみで、三国人(朝鮮、中国、台湾)などと同一視すべきではない。戦勝国、敗戦国、どちらともいえない国が三国の意味。朝鮮は敗戦国。

朝鮮には李朝差別が有り台湾には無かったが、暴動有無の違いである。

 現代同様差別の根の深さに無知な日本が、警察や官吏は親類縁者でつながる島民を避け、日本のように島外なら中立と思い込み、半島人を起用した。李氏朝鮮やマネ中華差別半島人の警察や官吏と島民は軋轢があり、島民末端は自治組織として団結していた。日本統治の間は、監視も行き届き目立った対立は無かった。しかし終戦後ただちに島独自の治安隊が自主的に組織されたことは、半島人の横暴を警戒してのことと推察できる。四三事件朝鮮人著作に、対日協力者として出てくるのは、島民を差別した半島人のことで、半島人の島民差別が起因の虐殺を、凶産や日帝や対日協力者等に責任転嫁して、隠蔽した。

1945年9月初めには日本や満州から帰還した青年を中心に青年会が組織され、島民への啓蒙活動を展開し、下からの積み上げで治安隊や自治組織等がつくられた。島の警察は無視されたのだ。

1945年9月10日半島木浦での建準(朝鮮建国準備委員会)に触発された凶産主義呉大進、金正魯などが済州島に渡り、島の自治組織にもぐりこんだ(凶産の撒き餌、平等が一致したのだ)。建準は、40~50代の島の長老や名士が重責を占め、韓半島凶産主義とは程遠い異なった組織であった。9月末には人民人民委員会(建準青年同盟)として発足した。

済州人をマネ中華差別し大威張りの半島人と伝統に生きる耽羅(済州)人

四三登場人物の出自資料があれば、こんな遠回りなどせず一目瞭然なのだが、いかんせん隠蔽されている。後の研究者に託す。

 済州島は北済州郡(済州邑、涯月面、翰林面、朝天面、旧左面)南済州郡(西帰面、中文面、安徳面、大静面、南元面、表善面、城山面)からなる。

 身分制度廃止の日本が居なくなると、待ってましたとばかりに、李氏朝鮮儒教人身売買獣家畜差別の半島人官吏が威張りだし、半島の役人が、済州島からの商品に関税を掛けたり、済州島からの旅行者に上陸税を課したりし始め、「血が汚れる」と半島人から差別された帰島者の話が真実となり、済州島は半島の南朝鮮労働党指導の下に済州人の人民委員会を設立、団結した。半島の「血が汚れる」差別を肌で感じた委員会は、獣家畜差別復活を畏怖し、半島の委員会従属を拒否、独立の道を主張した。 

1945年半島の凶産暴動勃発「10月人民抗争」。日本軍帰還後鉄道労働者のストの鎮圧と穀物の強制徴収に端を発し、日本罪日と同様の暴力騒動が半島の各地で起こり、米軍の戦術部隊が鎮圧するまでに、警察とデモ隊合わせて数百名の犠牲者が出たことで、米占領軍の左翼に対する姿勢は急に硬化した。済州島は凶産組織ではないので、島民は当然不参加、平穏な島であったが、済州島委員会も左翼とみなされ、公職から追われ、差別団体右翼が攻撃するようになった。10月差別団体「漢撃団。右翼」と衝突し、委員会が罰金刑、差別団体は処罰されなかった。半島人は被差別者の乱と認識済みだが、米軍は左翼と認識するのみ。済州衝突実体は、差別者(半島人)対被差別者済州(耽羅)人である。“三無”の人の良さが災いし、殲滅者(半島人)と明確に判別出来得ず悲劇となった。

1946年10月の半島軍政。前記のように、半島凶産がボイコットした選挙に、凶産に非ずの島民は当然参加、二名選出。島の人民委員会は学習会や講座、体育会や演芸会などの文化啓蒙活動を全島で展開し、教育に力を入れ、1947年までに小学校44校新設し、生徒数18000人増加。中学校は10校新設、生徒数3百人から3千6百人に急増している。(済州島四三事件第一巻済民日報)。島の人民委員会は半島の凶産と異なる、島民総意がボトムアップされた最新の民主主義自治組織として機能していた。凶産独裁ではなく、現代民主主義同様、共産の集合体であった。

1947年2月5日物資が不足し、米軍政官吏や警察と癒着し密輸で荒稼ぎする「暴利輩」がはびこり「暴利輩天国」と呼ばれた(東亜日報)。

1947年2月23日半島から100名の増派警察官来島。

1947年3月1日三・一事件。三・一節28周年を記念して、現在の済州市で開かれた集会の行進に警察が発砲、10数名の死傷者を出した事件。

 軍政の指定会場を拒否し、済州北国民学校で開かれた。この済州の地区には3万人、ほかの10地区でも数千名が集まり全島挙げての大会となった。南朝鮮過渡政府の形勢に反対し、モスクワの三国外相決定と国土統一を求める大衆行動へと急速に発展、島の政府職員や警察官や兵士も加わったが、半島や日本のような暴力騒動ではなく、非暴力的なデモであった。行事終了後警察署の近くを行進中、騎馬警官の馬に6歳ぐらいの幼児が蹴られたが、、騎馬警官気づかず通り過ぎようとしたため、群集が非難し責めた。驚いた警官が馬を走らせ警察署に逃げ込んだため、居合わせた警官、群集が攻撃と勘違いし一斉射撃。15歳の少年と島民6人が死亡、6人が重症を負った。近くの道立病院に血だらけで担ぎ込まれた負傷者を見て、病院にいた警官が動転して小銃乱射、通行人二名に重症を追わせた。発砲したのは一週間前に半島から増派された100名の警官隊であった。半島の「血が汚れる」519年の獣家畜差別とニセ中華差別、行進=左翼=赤化の先入観と最下層民で、過敏に反応、獣を撃つごとくに一斉射撃した。注・警察官のほとんどが半島人で、差別破壊の日本の重しがとれたため弾け、島民をマネ中華で獣差別が、真相だろう。三・一までの島民対警察の軋轢が隠蔽されているので、推測に過ぎないが、余りにも安易な発砲の説明がつかない。

 その後警察隊は、病院での発砲は無分別と認めたが、警察署一斉射撃は正当防衛と開き直り、翌3月2日実行委員会の幹部15人を捕縛した。

 一週間後石と棒で武装した1000人を超える群集が逮捕者の釈放を求めて朝天面の留置所前に集合し小競り合いとなり、警察の発砲で五人が死亡した。

1947年3月10日南労党は反警察を掲げ、全島ゼネスト突入、一部の警官や160の団体と軍政庁官吏の75%が参加した。この抗議のゼネストは島のすべての行政を麻痺させた。要求事項は、警察官の処分と対日協力者の警察からの追放、事件死傷者への保障、逮捕者の釈放、米ソ共同委員会の再開などであったが、米軍政は拒絶。

1947年3月14日米軍政調査団の見解。「ストライキの根本原因は三・一暴動当時の警察の行動に対する憎悪心によるようである。最近、南労党がこのような憎悪心を住民の扇動に利用している」。「済州島は人口の70%が左翼団体の同調者や関係者であるような、左翼の拠点として知られている」(3月14日付米第6師団G-2報告書)注・半島人=対日協力者なのだが、婉曲表現。米軍は単に左翼とみなしているだけ。

 摘み食い朝鮮人の著書だと、こんな見当違いの捏造本となる「近世の済州島の民乱と抗日運動の伝統を引き継いだ民衆戦後史の絶頂」「済州島抗日運動と四・三の関連性・朴贊殖」。戦国時代、寄る辺無き窮鳥となり、日本の懐に飛び込んで来たくせに、抗日運動などとは摘み食いの限りだ。米軍を恐れおののき迎合し、単に抗日を隠れ蓑にしたに過ぎない。厚かましいにも程がある。

1947年3月14日半島から警察総帥趙炳玉警察部長来島」し済州道庁のストライキ中止の呼びかけで、「済州島の人々は思想的に不穏である、建国の邪魔になるなら、一気に片付けてしまうこともいざとならば出来る」と語った(道職員の証言。済州島四・三事件。文京洙)。注・同胞半島人へ家系図誇示、明白なマネ中華差別、済州島ガス室宣言である。

西北青年会(西青)以下、西青と略。

 西北青年会(西青)は半島北で土地無し賎民に追い出された元土地所有者。人間を獣扱いし、生かすも殺すも思いのままの、元は凄まじい人身売買獣家畜差別した身分で、復讐心の塊でバリバリの反共蔑視差別集団である。当時の人口南北2.512万人の1/2で約一割、80から100万人の亡命者数は、ほぼ全員であろう。実体は下克上の落人、難民なので、見透かされるのをキライ、耽羅人虐殺をより粗暴に残酷に振る舞い、南半島人に見せつけた。半島人も耽羅人をやさしく扱えば家系図捏造がバレ、差別されるので、負けじと凶暴になった。残虐と凶暴の競争である。犯日を叫ばなければ親日とされ、差別されるので、犯日競争に明け暮れる現代の韓国や罪日、まったく同じである。李朝時代半島北が西北呼称されたことが由来。当時西北とか西青と略称された。1946年11月30日の結成式には700人余りが参加、49年9月に一部分派(大同青年団略称は、大青)、登録団員は6000人ほどであったが、最盛期には7万人を超えた。西青は李承晩や韓国民主党を後ろ盾に反共テロ右翼活動のみならず、政敵の暗殺、半島北工作にも利用された。この西青を済州島に送り込んだのは軍政警務部長趙炳玉。

 1947年3月15日左派暴動吹き荒れる半島から増派された222~400名の済州蔑視のマネ中華警察官と左派に土地を奪われ恨み骨髄の西青800名(済州島四・三蜂起。ジョン・メリル)の元生殺与奪権者到着。差別が元のいさかいが、新たな差別を呼び拡大し、もはや消火ではなく火に油は、誰の目にも明白である。半島や罪日隠蔽の皮を、一皮剥げば差別が現出、明解になる。耽羅(済州)人は、ユダヤ人虐殺民族浄化のヒトラー差別で虐殺されたと言える。済州島はガス室にされた。

以下正体現出したので耽羅死守隊(済州人と潜り込んだ凶産)と朝鮮殲滅軍(半島人、警察、西青)と略記

 趙炳玉はストライキ首謀者の逮捕を命令、18日まで200名、趙炳玉が半島に戻った後も検挙は止まず5月10日までにさらに500名が検挙された。

1947年4月15日三・一ゼネストに同調した朴景勳は解任され、米軍政も極右みなす柳海民知事が、西青7名を護衛に従え来島。就任当初は「極右極左を廃し、中道で臨む」との言明であったが、常にサングラスの強面で島民に接し、極右そのものであった。西青は、西北の腕章を巻き大極旗や李承晩の写真の押し売りを収入源とし、島民へのテロに明け暮れたが、47年後半になると警察や教育分野に登用される者が増えた。

 1947年6月終達里村で何人かの警察が殺害されたため、警察と西青の朝鮮殲滅軍は終達里村を包囲、村人数人を手当たり次第に引きずり出し、即決で処刑し報復した。こうしたことで西青や警察との対立がさらに深まり、より結束は固まり、敵の敵は味方凶産の撒き餌、共産の平等へ飛びついていった。

1947年10月21日大青の大同青年団済州道団部統合(警察補助隊として、左派勢力に対抗した島民右派が主体。当初団員数1000人を超え西青を凌駕していた)

1947年11月2日西青の西北済州道本部結成大会。

1947年11月12日~48年2月28日までの米軍特別監査官の報告「柳(知事)が独創的な方法で政治理念を統制しようとしていること、これによって左派は地下に追いやられその活動は一層危険変貌し、その数と同調者は増加している。警察の幹部をすべて本土出身者に挿げ替え、警察はテロ行為をほしいままにしている」と報告し、柳海辰知事の更迭、警察行政等の改革意見を上申したが、柳海辰知事は留任し、やり方はそのままとなった。西青に正規の収入は無いため、島民に寄生し、ゆすり、脅迫、所場代など“赤狩”をたてに、警察の法の枠からも外れ、非道の限りを尽くした。警察と反共李朝差別階級西青の島民への振る舞いは横暴を極め、横暴、報復の悪循環が始まった。そして柳海辰知事の強硬な米穀徴収政策は、島民の差別の不満や怨念をたぎらせ、島は一食即発の爆弾と化した。「全島が鬱憤と呪いで満ち溢れた。村ごとに職場ごとに、秘密集会が開かれ、ビラが撒かれ(地上に匙一つ。玄基榮)」

 事実と対面せず歪曲し今度は米軍に責任転嫁する摘み食い朝鮮人著書「テロと報復テロの悪循環を起動させたのは結局、そうした米軍政の対応であった(済州島四・三事件。90P文京洙)」朝鮮人著書は一様に右翼左翼の戦いとしているが、「血が汚れる」差別の半島人の侵略者対、奴隷拒否の済州人蜂起が実体である。

1948年初頭までには島の人口の二割6万人が南朝鮮労働党員となり、8割の島民が支持した。半島人(警官・西青)対済州人との対立が明確になった。

1948年1月22日朝鮮殲滅軍、朝天面の耽羅死守隊アジトを急襲106名を逮捕、26日までにアカと決め付けさらに221名を逮捕、逃走慣れのアカは逃げるのも巧みで皆逃走、捕まったのはほとんどがアカとは無縁の島民。

1948年2月9~11日国連介入反対の二・七ゼネストに呼応し、済州島南労党デモや警察への襲撃。警察は南労党本部襲撃し一斉検挙。3月6日に朝天警察で学生(21歳)、14日に留置中の大静面の青年(27歳)、3月末に翰林面で青年(22歳)がそれぞれ拷問獄死や銃殺され、済州島に極差別皆殺しの恐怖が走った。当然穏健意見が消えた。

1948年2月末~3月初旬南労党メンバーで蜂起に参加し日本に脱出した李三龍の証言(真相調査報告書)「武装蜂起が決まったのは、1948年2月末~3月初めのことだ。その日、新村で会議が開かれ、島党の責任者と各面の党の責任者など19人が新村のある民家に集まった。参加者は趙夢九、姜大錫、金達三、私、金斗奉、高七鐘、金良根など19人だ。李徳九(後に凶産逃亡後引き継いで戦死)は居なかった。その場で金達三が、蜂起の問題を提起した。金達三が先走ったのは彼が短気だったからだ」。

 「ところが、議論は強硬派と慎重派に二分した、慎重派は趙夢九城山浦人達7人だった。彼らは『我々は失うものもない、もうちょっと成り行きをみよう』といった。強硬派は私と李鐘佑、など12人だった。当時中央党の指令はなく、済州島自身で決定したことだ。オルグはいつもやって来たし、金斗奉の家が本拠地だった。解放後、姜文鐘は一度も済州島に来ていない。金達三は20代だったが、組織部長なので実権を掌握していた。もう長老たちは捕まって獄中にいるか、逃げていた。安世勲、呉大進、金澤銖など長老はすでに済州を発った後だった。強硬派の中心人物は金達三であり、この証言に登場する姜文鐘は、南労党の中央委員会で金達三の岳父(妻の父)であった。この大物南労党員の七光りも済州島内での金達三の昇進や発言力を支えていたと考えられる。いずれにしても、蜂起の決定は、南労党中央の指令を待たず、李三龍の証言を借りれば、『情勢把握も出来ず、慎重さを欠いたまま金達三に煽られ』るようにして下されたのだった」

 脱出者の証言なので鵜呑みには出来ないが、『我々は失うものもない、もうちょっと成り行きをみよう』は本音だろう。極度に追い詰められ、敵の敵は味方としての蜂起が実体。

1948年3月15日済州島人民遊撃隊報告書。「漢拏山は知っている。埋もれた四・三の真相。文昌松」「・・・事態がより悪化することを看守した島常委は、3月15日頃、道(全羅南道)派遣のオルグを中心に会合を開き、第一に単選・単政(単独選挙・単独政府)反対の救国闘争の方法として、適当な時期に全島民を決起させる武装反撃戦を企画決定した。決行の日時が決まったのは3月28日のことであった」。

1948年4月3日午前1時前後、漢拏山中腹に烽火揺らめき、蜂起の信号弾煌きこだました。

 合言葉大豆小豆を交わしながら、攻撃は、警察24支所の内12支所と、右翼事務所宿所に限定された。「真相調査会」による、この日の犠牲者。「警察死亡4人、負傷6人、行方不明2人、右翼など民間人死亡8人、負傷19人。耽羅死守隊(推定300人が、98式銃30丁、竹やり、斧、鎌で襲撃した。貧弱な武器、まさに蜂起である)死亡2人逮捕1人」

 耽羅死守隊「武装隊、遊撃隊、人民解放軍、自衛隊、特警隊。山の人、山軍、山部隊と記録や証言が様々である。報告書では遊撃隊(主力部隊)、自衛隊(村ごとに組織の主力部隊を助ける補助部隊)、特警隊(偵察情報の特務隊)」が組織されたとある。

蜂起のビラ島民へ

市民同胞よ!

敬愛する父母・兄弟の皆さん!

今日、4月3日、あなたがたの息子と娘、兄弟たちは、武器を持って立ち上がりました。

売国的単独選挙・単独政府に死を賭し、反対し、祖国の統一・独立と完全な民族解放のために。(凶産)

あなたたちを苦難と不幸に貶めた米帝人食い人種(凶産)とその手下等の虐殺行為を阻止するために!(耽羅人)

今日あなた方の骨髄にしみた怨恨を解き放つために!我々は武器を持って決起しました。(耽羅人) 

あなた方も、最後の勝利のために闘っている私たちを援護し、我々と共に決起しなければなりません!

注・凶産反乱目的は後方撹乱で、耽羅人は虐殺蛮行行為阻止目的で異なる。唯心「三無」の好人物耽羅人は、唯物凶産に利用された。

蜂起のビラ警察官へ

親愛なる警察官よ!

弾圧ならば抗争だ。済州島遊撃隊は人民たちを守護し、同時に人民たちと同じ立場に立っている。

良心的な警察官等よ!抗争を望まないなら人民の側に立ちなさい。

良心的な公務員等よ!一日も早く我々の側に立って、任務を遂行し、職場を守りながら、悪質同僚らと最後まで闘え!

良心的な警察官、大同青年団(警察補助員として左派勢力に対抗した。島民右派が主体。当初団員数千人を超え西青を凌駕した)よ!あなた方は誰のために闘うのか?(混在する耽羅人へ)

朝鮮人ならば我が領土を踏みにじる外敵を跳ね除けなければならない!国と人民を売って、愛国者等を虐殺する売国・売族等を倒さなければならない。(凶産)

警察官たちよ!銃口は奴らに向けろ。あなた達の両親・兄弟達に銃口を向けてはならない!(混在する耽羅人へ)

良心的な警察官、青年、身主要人らよ!一刻でも早く人民の側に立ちなさい!反米救国闘争に呼応して、決起しなさい。(凶産)

注・警察官と大同青年団と公務員に混在する耽羅人への呼びかけと、凶産の呼びかけ。

1948年4月5日警察監察庁内に済州非常警備司令部が設置され、半島より司令官金正浩が来島。新たに趙炳玉警察部長の要請で応援警察官100人と、西青団員500人が済州島に派遣された。

1948年4月17日警察力だけでは無理と判断した軍政は、軍を介し、朝鮮国防警備隊だ9連帯にも鎮圧作戦参加を命じた。

朝鮮国防警備隊

 警備隊は軍政化の軍事組織として1946年1月16日に組織。軍隊とは名ばかりで装備は警察より劣り、警察の補助機関的存在であった。第9連隊は島のほかの連隊より遅れて組織され、他は島民隊員なのに韓半島光州から54人が派遣され創設された。47年からは島民も募集され。四・三当事は800人となっていた。

 耽羅死守隊は警備隊を識別し、第9連隊攻撃を避けており、鎮圧命令後も第9連隊は討伐ではなく宣撫活動に専念した。第9連隊長金益烈の後日証言「米軍政の監督不足と失政(本音は半島人極差別)によって島民と警察が衝突した事件であり、官(半島人)の極度の圧政に耐えることの出来なかった民の最後の手段として起こした、民衆運動(四・三の真実。金益烈)」。

1948年4月17日咸徳里付近で数名の警官を捕らえた。「戦闘で済州に捕らえられた警官は、人民裁判の後の刑の執行は、済州の女性兵士にゆだねられた。彼女たちが警察に最も苦しめられていたからである。(済州島四・三蜂起。ジョン・メリル)」。注・米軍失政の証言であるが、本音は半島人極差別。李朝の奴婢差別を物語っている。現政権隠蔽中なので語れない。

1948年4月28日第9連隊長金益烈と耽羅死守隊金達三の和平交渉で以下の三つの条件で戦闘中止に合意、島軍政も同意した。

一、72時間以内の戦闘の完全中止。もし散発的な衝突があれば連絡ミスとみなし、五日以降の戦闘は背信行為と見なす。

二、武装解除は暫時行うものの、約束を違反すれば直ちに戦闘を再開する。

三、武装解除と下山がなされれば、主謀者の身の安全は保障する。(四・三の真実。金益烈)

 三・一事件から四・三蜂起まで一年余の逮捕者は2500人を超え、左翼や同調者と見なされただけで、職場からも追われた。「血が汚れる」差別に徹底抗戦のため、一身を賭して山にこもるか、差別の軍門に下り奴隷となるか、島を捨てて差別無き日本に亡命するかの、選択肢しか無かった。4月3日から29日までの死亡者は65名であった。(第24軍団の情報報告書)。

 しかしこの和平はソウル軍政の強行鎮圧論で破られた。(真相調査報告書)

1948年4月29日ある警備中隊の大多数30~100人が耽羅死守隊に合流した。(済州島四・三蜂起。ジョン・メリル)。

1948年5月1日警察の手先右翼青年団が吾羅里の村に放火する「吾羅里事件」を引き起こし、ソウル軍政首脳が急遽来島、和平を破った。

1948年5月1日和平交渉の第9連隊長金益烈は解任され、第9連隊は第11連隊が吸収。5月15日朴珍景中佐が第11連隊長に就任し、「暴動事件を鎮圧するためには、済州島民30万を犠牲にしてもかまわない(四・三の真実。金益烈)」と同胞半島人へ家系図誇示の殲滅宣言。騒乱の根源極差別が正体を現した。まさにナチスである。注・この時点で済州島民30万。3につづく⇒

真実史観3ガス室済州島耽羅人大虐殺四三事件は民族浄化同胞殺し族譜戦争の始まり

1948年5月10日選挙当日の攻撃で警察官一名、右翼青年団7名耽羅死守隊21名が死亡。五・一0選挙、米軍の総力を挙げた韓半島では95,5%となったが、済州島南済島郡86,6%、北済島郡甲区43%、乙区46,5%となり、甲乙区の選挙区無効宣言し、6月23日の再選挙とした。しかし耽羅死守隊の攻勢止まず、6月10日無期延期と発表。

1948年5月20日頃米軍政ブラウン大佐を済州地区米軍司令官として派遣。ブラウン大佐指揮下で、“済州島民30万を犠牲にしてもかまわない”殲滅宣言の朴珍景第11連隊による海岸地域を除くすべての鎮圧戦が始まり、2000人の警察は海岸地域を攻めた。第11連隊は五月下旬から6月の6週間で4000人を逮捕し尋問、約500人を拘束。しかし逮捕された者のほとんどが、警察や右翼の横暴を避け入山した村人達であった。

従軍記者趙徳松の取材
「・・・捕虜たちが護送されてくる・・・うなだれたまま引き立てられていく彼・彼女たちの顔色はその衣服の色と同じ色だった。どこから観ても暴徒にはみえない。12~13の少年だったり、60を越える年寄りだったり、さらに婦女子までもが、なぜ暴徒だとされなければならない境遇に至ったのか、話かけてみた。しかし、後ろを向いてしまう。鉄兜と軍の腕章をはめた筆者の姿も、彼・彼女たちの目には警備隊と映ったであろう(流血の済州島)」

1948年6月1日この戦果に満足した軍政は、殲滅宣言朴珍景を大佐に進級させた。朴珍景は進級祝賀会の翌朝6月18日に部下に暗殺された。

 こうした無差別逮捕は溝を深めるばかりで、6月18日266人に減った耽羅死守隊は、7月15日には逆に501人と増え、武器もM1銃6、カービン銃19、小銃147、軽機関銃1、摘弾筒2門、手榴弾43、ダイナマイト69、拳銃8と、蜂起初めの、98式銃30、竹槍斧鎌とは異なり、充実した物となった。(済州島人民遊撃隊報告書)

1948年7月15日第11連隊を分割し第9連隊を復活させた警備隊総司令部は、住民虐殺に及び腰の崔

慶録連隊長から、宋尭讃だい9連隊長に挿げ替えた。

1948年7月李承晩(73歳)大統領に選出。

 半島北も南に対抗し統一選挙を打ち出すが、戦時下の済州島では、白紙に署名捺印の白紙委任方式となった。

1945年9月28日日本軍の降伏受理と武装解除が任務の米軍先発隊38人到着。

1945年10月22日日本軍送還が任務の米軍到着。総計5万人の民間人と日本軍はすみやかに帰還した。

1945年11月10日米軍スタウト少佐の中隊、将校7人兵士40人、たったの47人で島の占領と軍政が始まった。いかに平穏であったかの証である。「済州島出身の朝鮮人が大挙して帰郷してきたのである。解放後の数ヶ月で民間人の数はほとんど倍増し30万人に達した。・・・ようやく11月半ばになって第59軍政中隊が到着した。それまでの間に人民委員会が“島で唯一の政党、一切の範囲と目的において唯一の政府”として自らを強固に確立した(済州島四三蜂起。ジョン・メリル)」

1948年8月初めこうして選ばれた金達三など5、6人の幹部は、済州島を脱出し半島北の会議に参加、35人の主席団の一人に金達三が選ばれ、南側から選出の360人の代議員に済州島の5人(金達三、安世勲、姜圭燦、李貞淑、高珍姫)も含まれていた。金達三は以後済州島に戻らず、朝鮮戦争で戦死とされている。輩は耽羅殲滅戦と見切っていたため、無駄死になので帰島せず。まさに凶産は唯物そのものだ。耽羅死守隊凶産に非ずの証。

 金達三指導部が去ったため、耽羅死守隊再編成、当時28歳の李徳九が隊長となった。古来済州では指導者を状頭(チャンドウ)と称し、李在守(1901年新徴税行政とカトリック導入に対しての李在守の乱)のように戦いに成果を収めた後は、命を差し出し、島民に塁が及ばぬようにした。事態悪化を前にして、凶産主義金達三らの戦線離脱は非難の的となった。唯物凶産の正体である。

1948年8月13日USAから朝鮮独立。ここから実体あらわな、ナチスとユダヤの民で、同胞半島人へニセ家系図誇示のため、済州島は虐殺のガス室と化した。

1948年8月28日800人の警察応援部隊到着。海岸線封鎖し、旅客出入り査察を強化し、島民を隔離し閉じ込めた。

1948年8月29日国防警備隊と海岸警備隊が国軍に編入され、9月に国軍として正式発足。国軍司令部は引き続き米軍のまま。

1948年10月5日島民の済州警察監察庁長が突如更迭、後任に半島北(平安南道。元生殺与奪権者)出身の洪淳鳳が着いたため、また皆殺し西青団員が大挙して来島した。

1948年10月11日新規発足国軍直属の済州道警備司令官が設置され、半島の金相謙大佐が司令官に着き、すべて掌握した。警察主体から軍隊に移行した。「強制鎮圧作戦は米軍顧問官の強制の下に実施された(済州島四・三の焦土化作戦と大量虐殺に関する研究。咸玉琴)」と半島人はここでも責任転嫁しているが、米軍は半島の済州差別「血が汚れる」を知らない。知っている半島人が、現代までひた隠しに隠したように当時も隠蔽したので、当然である。米軍は単に敵凶産と認識したに過ぎず、焦土化作戦を実行したのは独立直後の半島人で、米軍ではない。実に醜い責任逃れである。

1948年10月17日老若男女無差別殲滅宣言、宋尭讃第9連隊長の布告。
 「軍は、漢拏山一帯に潜伏し、なんぴとも憤怒する蛮行を敢行する売国極列分子を掃討するため、10月20日以降、軍の行動終了までの期間中、全島の海岸線から5km以外の地点および、山岳地帯の、不許可通行禁止令を布告する。この布告に違反するものはその理由如何に関わらず、暴徒の輩とみなし、銃殺の刑に処す」そして海軍7隻の艦艇で、済州の海は封鎖された。まさに済州島は虐殺のガス室と化した。

1948年10月19日麗水・順天事件。済州焦土化作戦を発令された韓半島麗水駐屯の第14連帯が拒否し反乱。14連帯は左翼が多い光州地域の兵が主で、警察への反発も強かった。四・三蜂起以後の「粛軍(軍内左翼粛清)」の猛威で、左派は逼迫していた。2500人余の将兵に、左翼や学生が合流、順天を始めに近隣に拡散した。占領地では警察や右翼に対し“人民裁判”が横行、麗水だけでも1200人が殺害された。10月22日に戒厳令。以後30日の軍鎮圧と、60日の特殊警察の関係者逮捕で終息。残党は山に逃れ野戦隊に合流、後に智異山界隈で勢力を成した。「この鎮圧作戦を指揮したのは米軍事顧問ハウスマンであったが、その強硬な鎮圧家庭には民間人を含むおびただしい犠牲者がともなった(済州島四・三事件文京洙)」 とここでも、国内の差別復活阻止下克上の乱を、責任転嫁である。

 第14連帯と兼任の、半島の金相謙司令官は更迭され、済州道警備司令部の副司令官宋尭讃が昇格、済州島殲滅作戦の陸海警察の陣頭に立った。

 麗水・順天事件以後、「11月から12月にかけての2ヶ月間の間に、少なくとも1000人以上の西青団員や警察が警備団員としてにわかに服を着替えて鎮圧戦のただ中にたつことになった(真相調査報告書)新司令官宋尭讃は西青団員を、軍の“特別中隊”とし「特別中隊にはタッチするな、もし手を出せば死ぬ思いをするだろう」と将校を威嚇、同胞半島人へ家系図誇示し、西青団生殺与奪差別に拍車をかけた。「実はこの西青済州島への導入にも、米軍は関与していた(済州島四・三事件。文京洙)」とここでも日帝日帝と叫ぶが如くに、米軍米軍とそこかしこで責任転嫁、まさに無恥な愚民だ。

1948年11月11日耽羅死守隊朝天面警察支所襲撃。

1948年11月13日深夜2時朝天面橋来里を朝鮮殲滅軍襲撃し放火、100余りの村が一夜にして消えた。3歳から70歳までの老人女子供30人が虐殺された。朝鮮殲滅軍は近隣臥屹里にも移動し襲撃、2歳の赤子や婦女子が虐殺された。この虐殺は他の村々でも同様であった。「9歳になる息子が“お母さん”と私のほうに走りよってきました。すると軍人は息子めがけてまた銃を撃ちました。“この野郎まだ死ななかったのか”という軍人の声が今でも生々しいです。息子は胸を貫通して撃たれ心臓が飛び出ました。彼らは人間ではありませんでした。それに背中に負ぶっていた娘の足にまで銃弾が貫通して、手の平ほどに穴が開いていたのです(梁福天証言。済州四・三。許榮善)」

1948年11月17日戒厳令布告。「戒厳令布告以前は若い男子が犠牲の対象であったが、以後は、3,4歳の子供から80代の老人まで老若男女が銃殺された(真相調査報告書)」済州島耽羅民族老若男女無差別殲滅作戦は、韓国政府の陣頭指揮で始った。裁判無しの無差別殺戮は、島民を山に追いやった。

 さらに朝鮮殲滅軍は11月21日避難し空になった朝天面善屹里に放火し、村を壊滅。次いで25日から3日間難民捜索し、隠れていた難民を即決銃殺し、ガソリン焼却した。

1948年11月28日朝鮮殲滅軍の手先とみなされ、南元面為美里で、約50人の住民が耽羅死守隊の犠牲になった。

1948年12月3日旧左面細花里で朝鮮殲滅軍の手先とみなされ、約50人の住民が耽羅死守隊の犠牲になった。

1948年12月14~19日表善面兎山里の虐殺。兎山里は指定避難地海岸から5キロ以内の2キロにある上兎山と下兎山からなる村である。12日、上兎山村民が下兎山への移動を命じられ、素直にしたがった。15日、18~40歳までの男たち157人が、表善の砂浜に連行され、虐殺された。

1948年12月10日朝鮮殲滅軍は涯月面蓋水洞で戸籍を手にし、村民を飛鶴トンサン(村の山)に呼び出し、応じず隠れた者は探し出され、63人が殺害された。東広里ムドゥンイワッ集落は朝鮮殲滅軍に消された村で、現在は爪あとのみが残っている。済州で86の村が殲滅の村となり消えた。「25歳くらいの妊婦でした。警察はその女性を大きな榎木に縛りつけ、警察官3人が銃に帯剣をはめて突き殺した。(死んだ母親の下敷きで助かった当時13歳安仁行証言。真相調査報告書)」

1948年12月19日あらたに250人の皆殺し西青団員到着。そのうちの一人朴亨尭の回顧「李大統領の許しも無く誰もが裁判も無しに民間人をやたら殺せる権限を持てるだろうか・・・李承晩は我々を利用した(済民日報四・三取材班済州島四・三事件第4巻)」

1948年12月20日ごろ、海岸から3キロの新興里や、表善里でも集団虐殺された。表善里でも同様に命令に従い避難した住民を表善里国民学校に集決させ、戸籍を点呼、1人でも抜けていれば耽羅死守隊家族と決め付け、家族を代わりに“代殺”、76名を虐殺した。「人々を集めておいてそれを見物しろといった。そして銃殺するとき拍手しろといった。銃殺のとき、子供が這って上のほうへ上がっていくとその子供にも銃を撃った(当時23歳呉泰京証言。済州四・三。許榮善)」

1948年12月21日「“自首”の呼びかけに応じて、朝天面成徳国民小学校に集まった200人あまりの住民の内、20代の青年を重点に、150人余りをパッソンネの川辺に連行し即刻銃殺、ガソリン焼却した。(一人だけ生き残った金太準の証言)」。

 「裁判なしの無差別殺戮は、住民を隠れ場所の無い海岸から山へ追いやり、漢拏山や周辺の雪中に6000人余の住民が避難した(地上に匙一つ。玄其榮)」。朝鮮殲滅軍はこのような難民も暴徒とみなし即決処分の対象とし、命令順守海岸部難民老若男女も、暴徒の家族とされ、処刑された。漢拏山麓の130余りの村はすべて焼却され、少ないときでも数十名の虐殺が12月まで毎日繰り返された。

 済州人と明記はされていないが済州島各界も、“左翼・赤色・細胞”として粛清された。10月末から11月初めにかけて第9連帯100人余が処刑、11月1日85人の警察官が検挙され、其のうちの20から30人が即決処刑で水葬、11月5日新韓公社職員30人余りが即決処刑で水葬、11月中旬、裁判長や現職検事等が連行され、大半が処刑。京郷新聞済州支社長玄仁廈やソウル新聞支社長李尚熹や済州新報の編集局長金昊辰等が処刑された。

1948年12月29日第9連帯から第2連帯へ済州島駐屯部隊交代。

1949年1月安須徳面東広里の住民120人は逃れ、クンノルケの洞窟に40日余り隠れ住んだが発覚、朝鮮殲滅軍に捕らえられ虐殺された。

1949年1月13日表善面城邑里で38人の住民が、朝鮮殲滅軍の手先とみなされ、耽羅死守隊に殺された。

1948年1月16日涯月面ピルレモツ窟に隠れている30余命の女子供老人を発見、外に出るよう誘導し、朝鮮殲滅軍は皆殺しにした。「子供たちの足をつかみ岩にたたきつけて殺し(済州四・三。許榮善。だまされず洞窟に残り助かった梁泰柄、当時25歳の証言)」

1948年1月17日朝天面北村里で朝鮮殲滅軍第二連隊が奇襲を受け、二人の軍人が死亡した。驚愕した北村里の長老等は議論の末に、二名の死体を担架に乗せ、成徳の軍本部に届けた。しかし軍は警察の家族1名を除き皆、殺した。さらに軍は、村民全員1000人余りを北村国民学校に集め、村を焼き払い、歩哨不行き届きで民保団責任者を即決処刑、挙句の果ては、村民を銃殺し始め、夕方の大隊長の中止命令まで延々と続けられた。大隊長は生き残った村民に、明日成徳軍本部への出頭を命じ、引き上げた。この日は300人余りが犠牲になった。一部の村民は山に逃れたが、翌日命令に従い出頭した村民100人余が、犠牲になった。「おぞましい悪夢、寡婦の村・・・男女の有権者の比率を見るとほとんど1/3に近いほどに男子の比率が少ない所(1960年12月22日の朝鮮日報)」

1949年3月2日新たに済州地区戦闘司令部が設置され、漢拏山や周辺に帰順勧告のビラが撒かれ、掃討戦(~4月12日)となった。「最も血生臭い時期で、一日平均の死亡者が100人を超えた(済州島四・三蜂起。ジョン・メリル)」。飢えに瀕した1万人余りが下山し、酒精工場に閉じ込められた。その内の多くが軍法会議にかけられ、量刑も罪名も知らされず、韓国の刑務所に送られた。

1949年4月9日李承晩大統領来島。

1949年5月10日再選挙で半島から1年遅れで国会議員選出。

1949年5月15日済州道司令部解散。

1949年6月国民補導連盟組織(左翼を転向させる思想善導団体)組織。1年後の済州島では2万7千人が加盟。

1949年6月7日逃げた凶産金達三の後を引き継いだ耽羅死守隊長李徳九、耽羅殲滅軍との戦闘で戦死。警察は木の十字架に縛り、丸1日さらし者にし、火葬にした。「骨だけでも収拾せよといいました。しかし、翌日雨がたくさん降り、すべて流してしまって収拾できませんでした(李徳九の姉の子で在日本済州四・三事件遺族会会長康実証言)」。耽羅の神々が哀れみ大地に引き取った。

1949年6月23日第二回四・三軍法会議

1950年6月25日朝鮮戦争。差別が起因で、差別で拡大の同胞殺し合いの愚行が半島で始まった。北朝鮮軍南下し4日後にソウル占領。数で勝る賎民(8割)の、差別復活阻止の乱、各地で爆発し助けたので、一気に南下出来た。韓半島は凶産の乱に非ず。すべて下克上の乱で、凶産はただ便乗しただけ。北朝鮮軍に占領された地域の囚人一万七千106人は解放され行方不明。戦乱を逃れ日本に脱出であろう。それ以外の地区の囚人2万229(済州人300人)人は、暴動を恐れた韓国が惨殺したと見られている。済州島に10万の難民が殺到した。

闇処刑闇埋葬で検束者の口封じ

1950年7月27日済州邑予備検束者(左翼活動経験者や左翼と疑われる者)集団虐殺し水葬。

1950年7月29日西帰浦予備検束者150人を集団虐殺。

1950年8月4日警察や酒精工場に閉じ込められた予備検束者500名余りが済州沖合いで水葬にされた。

1950年8月19日済州警察収監中の予備検束者数百名が済州飛行場で銃殺され闇埋葬された。島民252人が安徳面南端の旧日本軍弾薬庫で虐殺されている。松岳山で予備検束者252人を集団虐殺。同様の虐殺され闇埋葬は、各警察で有った。口封じのためである。 4につづく

真実史観4朝鮮戦争同胞殺し大殺戮は民族浄化李朝差別戦争李朝獣差別族譜が元凶

1951年1月17日~3月末まで朝鮮殲滅軍の残党狩りが再開し、50人余りを射殺した。

1951年2月朝鮮殲滅軍(韓国軍第11師団)が居昌で14歳以下の子供385人を含む719人を虐殺し、共産党討伐の成果とした。同種の共産党討伐の名を語る殲滅戦は、いたるところで展開された。

1960年誰が象かの証、選挙の投票率100%。

1960年4月19日不正選挙糾弾学生革命で、李承晩政権打倒。李承晩ハワイに亡命、65年死去。

1960年4月29日知事、警察局長罷免。治安維持のため軍隊出動。

1961年軍事クーデター

1962年済州島老若男女無差別殲滅宣言した、元第九連隊長宋尭讃が軍事政権の内閣首班となる。

1963年朴正熙大統領就任。以後87年まで軍事政権。

 「この頃には(1960年代初め)、在日の済州出身者も柑橘苗木寄贈運動を展開して、この(柑橘)ブームに一役買っている。・・・在日の故郷訪問は、日韓条約以後急増し、67年の1423人から71年には5477人と増えて、この71年には故郷(済州)に喜捨した金額も三億ウオンを超えた(済州新聞。72年10月18日)」

1965年朴正熙大統領日韓条約締結

1979年朴正熙大統領射殺される

1980年クーデターデ全斗煥軍事政権

1987年(昭和62年)8月15日韓国は中国の思想戦犯日館をパクリ、便乗。日本は朴正熙政権に1800億円もの経済援助をしていたにもかかわらず、ソウル近郊に日本軍の残虐を捏造した、思想戦独立記念館、開館。朴正熙は、差別で砂の国民を軍事政権の皮でくるみ、まとめ、日本と協調することで漢江の奇跡を成し遂げ発展してきたが、後の政権は民度が上がった国民の民主化要求を押さえきれず、手のひらを返し、犯日で押さえようとしたのだ。中曽根の靖国不参拝で、中国同様に学んだ打ち出の小づち犯日を、外交カードにし、“泣き売”で国内の目を国外日本に向けさせ、国内の砂の人心を掌握した。

1988年民主化政権。もう軍事政権の皮は使えないので、仮想敵国日本とし、マスコミ、罪日フル扇動して、国家総動員の思想戦犯日で、差別で砂の人心を掌握し続けている。凶産並みのスポーツ選手強化も、同じ目的。NHK、TBS、TV朝日、毎日、朝日、国会議員等の思想戦犯日工作員が証し。中国凶産の人心も砂で同じ。スパイ天国、これが日本の実体で、犯日はすべてが思想戦工作員。歴史捏造韓国ドラマを垂れ流し、日本国民洗脳に必死なNHK(中国凶産と朝鮮と罪日の工作員)とTBS(毎日新聞。罪日と朝鮮の工作員)は、国賊TV朝日(朝日新聞。中国凶産と罪日)と同類の、報道の自由を隠れ蓑に捏造する、思想戦亡国報道団

済州島その後
 以後罪日や半島の家系図主義で、子々孫々、赤化、アカの島と捏造されたまま、“血が汚れる”と不当に差別され続けている。

 済日(耽羅出自)は帰島し援助、尊敬され(唯心)、李朝出自の罪日は帰朝し、ひけらかし、さげすまれる(唯物)。済日(唯心)罪日(唯物)異なる。日本人や耽羅人や済日は、唯心共生だが、李朝出自の半島や罪日は、唯物差別異種。唯物主義者には物欲、損得あるのみ。上の身分には米搗きバッタで、身分下は前記のように扱いの嬲り殺し。輩の尺度は損得と身分のみで、矜持は皆無。中国凶産や李朝出自の半島や罪日の、65年間もの長き愚行が、自白している。トヨタ車リコールで現代自動車売れると、喜び報道するのが韓国(唯物)という国である、罪日も同類亀田親子、野村夫人、女占い師等罪日と同類の、矜持皆無の祭り上げは、日本(唯心)叩き潰しが目的の、TBS罪日(唯物)の洗脳で、罪日(唯物)放送TBSが正体の、証拠である。李朝出自(唯物)は、矜持高き耽羅人や台湾人に学べ。

2007年6月ユネスコの世界自然遺産として登録。李朝差別愚行遺産である、罪日や半島人の目に余る責任転嫁の愚行を知らしめるために、世界の人類が遺産としたのであろう。

 韓半島が報じる済州で凶産反乱は素人目にも?である。中国やソ連の支援がなかった。中国ソ連から離れ、米軍のただ中、他からの支援がまったく当てに出来なかった。権力掌握など誰の目にも不可能であった。凶産蜂起は共産党中央の計画ではない。どんなに言い訳しようとも、民族浄化そのものである。それを韓半島は凶産反乱、凶産と決め付け、捏造し、民族殲滅差別ホロコーストを隠蔽した。なんと“知る権利”をお題目にし、声高に叫ぶ識者マスコミは信じて疑わない。机上界の正体である。

大虐殺国民懐柔のため、李承晩ライン(仮想敵日本とし犯日開始)で竹島を火事場泥棒占領し、同胞大虐殺の矛先をそらした。現代も続く「竹島・慰安婦・難癖等の犯日」は、同胞大虐殺隠蔽懐柔目的の小道具!

日本統治離脱後の朝鮮同胞殺し合い虐殺者数

 韓半島殺し合い、実体は凶産に非ず。韓半島北は被差別民が差別民を虐殺し、韓半島南は差別民(ニセ者9割)が被差別民を虐殺した。

1945年9月~48年1月約100万人が南に難民避難し、一部が西青となった。北には被差別民だけが残った。1946年2月凶産党赤化開始。差別の復活阻止下克上が、一気に凶産と結びつき、労さず瞬時に赤化した。元生殺与奪権者差別民虐殺追い出しが先で、凶産は後に便乗したに過ぎない。韓半島北の虐殺数は不明。

1946年韓半島南の暴動勃発「10月人民抗争」虐殺者数は不明

1948年済州島「四・三事件」済州人虐殺8万人以上

1950年6月25日朝鮮戦争南北の死者400万人(北250万人)。実体は南(ニセ者9割の差別民と被差別民)対北(被差別民)。呼応した南の被差別民の助力で、たった2ヶ月で一気に釜山まで南下した。以後ニセ者9割の差別民、韓半島南の韓国は、被差別民を凶産と捏造、済州人同様虫けらの如く虐殺した。

1950年保導連盟事件。韓国30万人以上虐殺(60~120万人ハンギョレ21。2001.6.20)

1951年居昌事件。韓国8千人以上虐殺

1951年国防防衛軍事件。韓国10万人以上虐殺

1980年光州事件。韓国2千人以上虐殺

合計 449万人+北朝鮮不明+(60~120万人)

 韓国同胞虐殺元兇凶産は、捏造。李朝差別がすべての元凶。

 ちなみに大東亜戦争の朝鮮人戦死者は皆志願兵で、南北で2万2182人。台湾も皆志願兵で、3万304人。日本は強制兵役、徴集で、234万2341人が戦死。さらに米軍に、80万人以上の市民が、原爆や空爆で虐殺された。罪日や工作員が捏造したがる、軍対民の同胞殺し合い(朝鮮同胞虐殺)ではない。

 差別が原因の悲劇である。半月城通信、美しい壺、何でも起源、ウィキ捏造、慰安婦やビンピ謝罪要求、ウヨ発言者(成り済まし日本人の罪日は、右翼発言で優位誇示し自白デマがリアルタイム。右翼発言者は皆罪日。日本人なら賛同のみで無言)等の日本を蹴落とし貶め上位に立ち、下位侮蔑、済州人を貶め殲滅寸前まで追い詰めた典型的な李朝差別である。軍人に責任転嫁し善人面する、日本の言葉と文字の机上界や、極悪軍戦争証言者も同類、ナチスと同じ。

 犯日の半島人や罪日、犯日一皮剥けば内部爆発する差別集合爆薬で、一皮の仮想敵国失せれば内乱は必然、岩ではない。証しは家系に以上にこだわる家系図主義、なんと家系図の9割、10人中9人がニセ物である。519年間の李朝差別は未だ消えていない。日本は1100年前に破壊、未だに1100年前のままなのが、罪日や半島人である。ベトナム婦女子奴婢扱いし大暴行、アメリカ遠征奴婢のイエローキャブ、韓国での売春させろの奴婢デモ、成済まし罪日の暴行虐殺賎民事件等は、519年間の李朝儒教差別が起因。米国等移民先での朝鮮人孤立は、部落化し差別するから忌避される、マネ中華ニセ家系図差別の朝鮮人にすべての原因がある。米国銃乱射大虐殺も、同じ。帰国自由なのに勝手に居座り、戦勝国と大暴れして出自白状の罪日、差別差別と“泣き売”し、被差別民(白丁、奴婢)の裏返しで大威張り。日本は差別破壊者、差別したのは同胞朝鮮人。罪日も同類。ご主人様の命令が絶対だった賎民の名残か?犯日は建前が理解不能で、戦陣訓を侮蔑の旗としてウィキ等でしつこく掲げる。命令で李朝賎民のように死ぬ、日本人など皆無。“敵を知り己を知れば百戦危うからず”孫子の兵法である、すべての日本国民がこの事実を刻印すべきだ。

 差別復活の恐怖が家系図捏造に走らせ、捏造隠蔽のため、悲惨さを競い、李氏朝鮮最下層身分、南夷の済州人を虐殺することで、差別身分両班を半島人の仲間に誇示した。西青の実体は下克上の落人、難民なので、見透かされるのをキライ、耽羅人虐殺をより粗暴に残酷に振る舞い、南半島人に見せつけた。半島人も耽羅人をやさしく扱えば家系図捏造がバレ、差別されるので、負けじと残酷に走った。嘘を嘘で塗り固めた挙句の果てが、残虐の度合い唯物競争となり、古今未曾有の耽羅人大虐殺となった。韓半島でも、実体は差別なのに、1950年夏凶産分子の名の下に、子供を含む60~120万人を虐殺(保導連盟事件)、排水溝や炭鉱や海に遺棄(ハンギョレ212001年6月20日)。同胞老若男女をも、身分が下という理由のみで、狩猟の獲物の如くに虐殺するヒトラー超えの李朝差別民族が、罪日南北朝鮮の正体。正体隠蔽のため、無恥な犯日で侮蔑を国是とし、人心を掌握する民族である。こんなぶざまな祖国朝鮮に嫌気がさした真の脱出者は、犯日ではない。脱出者の犯日は罪日のみで、輩はヒトラー超えの李朝差別民族である。犯日を叫ばなければ親日とされ、差別されるので、犯日競争する現代と、まったく同じ。反省無き愚民の成れの果てである。李朝差別破壊のための同胞殺し合いで、60~120+449万人も死亡したのに、李朝やビンピを賞賛し、ビンピ謝罪要求する韓国人、まともではない。519年間の李朝儒教差別で、論理回路が完全に破壊されている。北は皆賎民(被差別民)、南は皆貴族(9割がニセ者の差別民両班)、犯日罪日は賎民(被差別民)、南北統一などと、たわ言である。真に統一を願うなら、責任転嫁などせず、李朝儒教差別の真実にひれ伏し、朝鮮519年間の巨悪の族譜家系図を、完全破壊し反省することが第一義である。李朝差別完全破壊無き統一は、再びの同胞殺し合い、北の被差別民南の差別民両班9割のニセ者は嘘のうわぬり誇示のため、さらに強力な殺戮者と化す戦争となるは明白。罪日の口癖“日本人に差別された”のなら、帰国自由の韓国に帰ればよかったのに、帰らなかった。恐怖の同胞賎民皆殺し、民族浄化や、獣や家畜扱いの差別が待ち受けていたからだ。北朝鮮帰国は、同じ賎民仲間と思ったから、南の韓国出自の者もためらわず、北へ帰国した。519年間も虐げられた人々には、“平等・共産”がなによりも、輝いて見えたのだ!

 ルーツが同じ海洋民日本と朝鮮、隔たりの差は、海洋民から乖離し水稲民のみで属国化した朝鮮と、海洋民水稲民山の民が共存継続し、八百万の神を崇め団結、天道を死守した日本との差。白村江の戦い以後が乖離の始まりである。日本千百年前破壊の人身売買を、百年前まで続け、伝統文化をも破壊した。朝鮮に巨樹無く、日本に数多の巨樹在り。李朝は日本とは真逆の、悪しき鏡。朝鮮は自立自存の高麗文化を破壊し中国に事大、日本統治時代も破壊し捏造、李朝獣・家畜差別を隠蔽し、四三民族浄化虐殺も、10月人民抗争・朝鮮戦争・居昌事件・国民防衛軍事件・光州事件等の同胞差別殺しも、みな共産殺しと捏造した。伝統文化を破壊し、歴史を捏造するのが朝鮮である。みな破壊の結果、歴史破壊の空白を埋める小道具、なんでも起源を捏造、嘘の上塗り国家、民族と成った。捏造朝鮮史の顛末である。

 犯日罪日ご先祖は帰国自由なのに李朝差別国に帰国せず大暴れ、残留理由を強制連行と捏造し強引に居座り、正体は被差別民(白丁奴婢)を白状した。さらに動乱で逃亡した罪人や密入国者も加わった。韓半島の掃き溜めの子孫が犯日罪日の正体。韓半島の侮蔑や差別や棄民政策が何よりの証拠。犯日は先祖が被差別民か罪人の白状である。真の亡命者は犯日ではない。朝鮮や罪日の無恥な犯日からくりは、白日の下に曝されたのだ!ジタバタせずに天道に従え!犯日は出自白状の先祖冒涜!犯日の愚行を糧として明け暮らす、矜持皆無の罪日ニセ教授やニセ作家よ、真実にひれ伏せ!元海洋民の子孫よ!朝鮮人や罪日が叫ぶべきは、李朝差別打倒だ、犯日などではない!

 中国は凶産カルト教差別で同胞殺し、朝鮮は李朝差別で同胞殺し、差別同胞殺しを犯日で隠蔽した国家である。差別が捏造を生み、捏造が捏造を生んでいる。すべて差別が起因、差別の醜さ、捏造が捏造を生む愚行を、李朝差別の朝鮮人を鏡として、日本人は学ばなければならない。半面生臭坊主よ!同胞殺し李朝獣家畜差別抜きで朝鮮を語るな、朝鮮戦争族譜戦争(北の被差別民対南のニセ差別民9割と本物差別民1割との殺し合い)

 「済州島四・三事件済民日報四・三取材班・新幹社・2巻付録、金益烈将軍(韓半島出自)の実録遺稿「四・三の真実」は、元凶李朝差別、被差別民対差別民、民族浄化隠蔽以外は真実で、何でも責任転嫁人には稀有な、「四・三」唯一の朝鮮人の書である。犯日朝鮮人が李朝差別を破壊し、洗脳から覚醒、真の朝鮮、高麗回帰への、啓示の書である。

2005年12月29日親日罪犯日でないものは財産没収という前代未聞の韓国の事後法

 親日罪(親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)は、盧武鉉政権にウリ党の崔龍圭、民主労働党の魯會燦など与野党169人の議員が国会に提出し、に公布された。親日派と認定された人物の名前を公表して吊し上げ、その子孫が所有する財産をも没収する法律。毛沢東の「文化大革命」と酷似する。

 没収対象は日露戦争開始前から大東亜戦争終結までの親日者なので、完全な事後法。正当な法律ではない。

 没収対象は大東亜戦争終結までなのだが、トラウマとなり疑心暗鬼が拡散。「親日は財産没収(親日罪)」と拡大し、犯日運動に油を注いでいる。韓国・「親日人名辞典」の配布禁止訴訟、最高裁で敗訴2012/04/15(日) 11:07
 北は互恵の世に先軍政治、南は事後法政治の犯日。無法で異常な政治を、世界に発信しまくりである。

『 反日に打ち勝つ!日韓・日朝歴史の真実 』 別冊正論第二号2006年4月発売
「《発掘対談》「在日」と「日本人」の間で…「役に立つ人間になれ」と語った祖父の教え前田日明(元総合格闘家在日帰化人)/福田和也」
 日本のやった戦争に問題があったのは確かだけれど、当時の日本人にしたら、煩悶、苦悩を重ねた末にやらざるをえないと覚悟を決めてやったわけでしょう。男子に生まれ、徴兵されたら、否でも応でも闘うしかない。なかにははっきり嫌だと思っていた人もいただろうけれども、一応は「お国のため」という大義名分で自分を納得させたはずでしょう。 そういうそういうギリギリのところで国とか公に殉じた精神、心根を汲まなくて、全部あの戦争は侵略だったみたいにして断罪するのはそれこそ卑怯だと思います。敗北と言う結果が分かっていて、まるで時間のカンニングペーパーを見て答案を書いているようなものじゃないですか。カンニングペーパーを使って、当時の人たちの行動を批評するのじゃなくて侮辱する。そういう人たちの書いたもの、言っていることというのは、もう本当に嫌ですね。しかも、自分は日本の罪を認めています、悔いていますという、自分一人だけを良心の高みに置いているような感覚がたまらない。
 どんなものにも光と闇がある。歴史もそうです。広瀬武夫や佐久間館長のような軍人もいれば、そうでないひどい軍人もいたでしょう。誇らしいこともあれば、惨めな、恥ずかしいことを背負っていくこともあったはずです。でも、そうした諸々を引っくるめて背負っていく。そういう熱い思いが、歴史を語るには何より大事じゃないですか。俺はそう思いますね。
 (従軍慰安婦問題に関して)俺は、やむをえなかったというのも、一方では確かなことだったという気がするんですよ。当時、東北の農村なんか本当に貧しかったわけでしょう。日本の娘も遊郭に売られれることは珍しくなかった。それは朝鮮半島も同じだった。そういう現実を前にして「親には考を尽くす」という価値観のなか、親がそうしたのか、子供がみずからそうしたのか、それはもうさまざまだったろうけれども、逃れられない運命のようなものに、人も国家も翻弄されたというのが実相だったんじゃないかと思うんです。確かにその舞台が戦場と言うことで、いっそう悲惨になったのは間違いないけれど。
 (従軍慰安婦問題・強制連行に関して)俺はいろいろと親戚とかに昔の話を聞くんだけれど、少なくともその範囲では聞かなかったですね。
 ・・・名前を出して悪いんだけれど、辛淑玉さんなんか見てると、情けなくなってくる。差別されたとか、日本は加害者だとか言うだけで、それだけ叫び続けて一生を送るのかなと思うと、とても俺は共感できない。力道山や大山倍達だって差別されたはずだけど、ちゃんと一個の人間として、大した生き方をしてみせたじゃないですか。有名無名に関係なく、俺の知ってる限りそういう在日はたくさんいますよ。
 でも俺のような考え方は、在日の中でも少数だと思います。たとえば在日への差別問題にしても、日本の部落問題と同じように、実際にそれを「食い物」にしてるやつがずいぶんいます。自分が現役引退を契機に出自を公にしたら、もう嫌になるぐらい多くの奴が寄ってきましたよ。でも、その中にどれだけ本物がいたか。
 朝鮮総連や韓国民団は日本に対して差別だなんだと言うけれど、同胞が北朝鮮でどういう目に遭わされているか、あるいは韓国に帰ってどういう扱いを受けているかについては、世の中に聞こえるような形では誰も何も言わない。何だこれは!
 出自が在日だからということで韓国で就職差別を受けたり、北朝鮮に帰国すれば殺されたりひどい目に遭わされたりする。こういうことに黙っていながら、日本国内の差別反対だとか、参政権をよこせだとか言う人間を、少なくとも俺は信用できない。
 「出自が在日だからということで韓国で就職差別を受けたり、北朝鮮に帰国すれば殺されたりひどい目に遭わされたりする。こういうことに黙っていながら、日本国内の差別反対だとか、参政権をよこせだとか言う人間を、少なくとも俺は信用できない」。注・唯物罪日は鑑とすべきで、唯心の至言である。済日か?

前田日明氏の出馬取りやめに2010年3月24日産経新聞
 民主党幹部は24日、今夏の参院選比例代表の公認候補者に内定していた元総合格闘家の前田日明(あきら)氏の出馬が取りやめになったことを明らかにした。選挙態勢づくりをめぐって党と前田氏側の調整がつかなかったものとみられる。これに関連し、前田氏は同日、都内で記者会見を予定していたが、急遽(きゅうきょ)中止した。
5につづく⇒

1952年2月李承晩ラインを設定し、武力で日本人を殺して日本の領土竹島を奪い、軍隊により支配し、違法に居座っている。李承晩は人殺しで竹島占領し、李承晩ラインの日本船拿捕で敵国日本とし反日教育、差別の乱内乱の目を仮想外敵日本に向け、人心を掌握した。

1953年1月末虹部隊がほぼ一掃する。

1953年3月25日物乞いする母を見かねて、殺す事件発生。(済州新聞)

1953年7月朝鮮戦争休戦。

1954年9月漢拏山の禁足令解除。

1956年誰が象かの証、大統領選挙の投票率95%。

1957年4月耽羅死守隊最後の呉元権逮捕。済州島は独裁凶産アカの島などではなく、民主主義最先端、耽羅人の島であった。

1958年11月14日四・三虐殺の真犯人朝鮮殲滅軍の死者(警察142人軍人47人西青335人)の「警民合同追悼式」がいとなまれ、殲滅軍の遺族や傷痍者に記念品が贈呈された(済州新聞)。朝鮮殲滅軍の死者たったの524人、象が蟻を、いかにいたぶったかを語って余りある。殲滅軍呼称はまことにふさわしい。1951年5月の済州簡易人口調査、5万4041戸、26万6419人(前年1950年朝鮮戦争10万人の難民は?もし数えたのであれば、殲滅犠牲者は16万人)。済州島四・三事件平凡社著者文京洙は、殲滅犠牲者3万人としているが、殲滅側の調査なので鵜呑みには出来ない、桁違いに少ないが常識。少なくみても、耽羅人3~4人に一人、8万人以上(百科事典マイペデア)が虐殺され、130以上の村が焼かれ、84の村が消えた。済州蜂起などではない、済州島ガス室での、朝鮮の民族浄化、耽羅人殲滅である。

 ちなみに大東亜戦争の朝鮮戦死者は、皆志願兵で2万2182人。

 朝鮮人の恨(ハン)とは、519年間血を吸い続けた李朝差別者(一割)に対して、虐げられし人民(九割)の恨(ハン)で、李朝差別破壊者日本(たかだか35年の統治)への恨(ハン)では無い。朝鮮人や罪日よ捏造するな!日本統治後の四三や朝鮮戦争や内乱は、すべて差別殺し、無辜の老若男女を蚊蝿の如く虐殺が証し。李朝やビンピを礼讃し、日本に謝罪要求する前に、「朝鮮紀行」をまず読め!113年も前に、いかに無恥かを予言している。食民治と植民地の違い、さらに詳しくは次の書籍を読め!満州朝鮮台湾「日本の植民地の真実」黄 文雄著扶桑社2003

1959年12月14日在日朝鮮人の帰還事業開始。1984年まで続いた。9万3340人が北朝鮮へと渡り、そのうち6千839人は日本人妻や子などの日本国籍保持者。在日朝鮮人は、朝鮮半島南部の出身者が多かったが、凶産の旗印平等や撒き餌は、在日の弱みをくすぐり、皆だまされ、祖国ではあるが異郷への帰還となった。帰国船の費用は北朝鮮が負担。北朝鮮の目的は、戦争による労働力不足解消であった。両班はいなかったが、その下と新たな凶産差別がいた。待っていたのは、白丁奴婢差別と凶産差別であった。

真実史観5ススキとひまわり唯心金東日耽羅人の矜持を語る四三大虐殺対耽羅死守戦

5ススキとひまわり唯心金東日耽羅人矜持を語る四三大虐殺耽羅死守
 軍人にすべて責任転嫁の証言は、責任転嫁すれば責められず、除け者にされず生きていける、生きるための知恵である。戦後生きるため、勝者のWGIP学習証言となったのだ。鵜呑み扇動屋みのもんた、沖縄の人に聞けと叫んでいたが、責任転嫁沖縄証言もしかりである。勝っていればこの責任転嫁証言者、まったく逆の証言となった。勝敗で異なる敗者悪の善悪史観など歴史に非ず。

 NHK等のマスコミが摘み食いし、この責任転嫁証言者のみ報道、善良な国民は皆洗脳され、除け者にされ差別されるので、我も我もと責任転嫁した。愚民化の顛末である。

 日教組や大学文系には、符号記憶表示発音機はあるが、人間が居ない。符号表示し発音のみの思考回路欠損機の骨董品、ノーベル贋賞大江や、同類の符号表示発音機をありがたがる時代ではない。朝鮮通としてマスコミの寵児で、一見愛国者風の他虐偽善者重村智計(1945年~。元毎日新聞記者・早稲田大学国際教養学部教授)は、“朝鮮創氏改名を、強制、真珠湾開戦を、戦争をしたかったから石油もないのに戦争に突入した”と教えているのだ(韓国の品格。2008.5.三笠書房)。はるか昔の知識を金科玉条にし、無検証でいかに大事にしているかの証明である。何とも見識が浅く、核心皆無の教えである。つくる会石原都知事渡辺昇一櫻井よしこ等と同類、浅学無検証の、符号記憶表示発音機である。出版社やTVの御用達、自浄回路皆無、金儲け愛国論者が正体である。輩が金儲けに走らず、単なる反対論の対極者などではなく、真の愛国者学究者であったなら、日本仮想(机上)界はこんなに無残にはならなかった。

 巷には最新の記憶機が氾濫している、あとは考えるのみ。符号丸暗記表示発音機の鵜呑みではなく考え、符号を文字や言葉にするのが人間であり、学問だ。

 責任転嫁者は、1100年経ても愚行を繰り返す朝鮮と同じ俎上である。先人の子孫、NHK等の職責者各位殿、殺し合い反対は、生きとし生ける者の常識、常識は反省不可能。反省すべきは戦争起因、勝敗で異なる善悪史観ではなく真実史観で、なぜどうして、戦争なんぞしなければならなかったか、である。責任転嫁せず“考える人”で人類は進歩したのだ。 

 民主主義の極致、海洋民民主主義国家日本の敵、凶産カルト教や罪日。日本人とは国籍に非ず、天道が宗か否かである。

癌(族譜)国への戦後の思いやりは、癌増殖(隠蔽)の餌でしかなかった!思想戦を仕掛け、戦時下体制の癌半島と罪日!

 整形(顔の捏造)の癌流スター、癌流ドラマ、癌ポップは、思想戦(日本洗脳)の道具。癌国は国是で罪日と共謀、癌国よりも日本で、罪日のサクラを動員し呼び水にし、捏造(整形)人間大バーゲン中。追随日本亡国マスコミ(スパイか馬鹿か?)も、癌国思想戦扇動中。

 李朝差別・ニセ両班・北の同胞殺し(両班殺し)・南の、(共産)と偽ってのニセ両班の同胞殺し(差別殺し)や、四三虐殺(済州島民、殲滅目的の民族浄化)等、真実の隠蔽に癌国と罪日は必死だ。スポーツや、情報工作も、凶産国以上の国策で、ハニー、マネートラップ・スパイ(NHK・TBS・TV朝日・TV東京・共同通信)等、思想戦(KCIA)のやりたい放題だ。癌半島、北も南も偽中国凶産同様、捏造が国是。北は捏造と恐怖で支配し、南、癌国は捏造のみが団結の求心力である。矜持皆無の唯物(李朝差別ニセ両班9割)と、正体をさらけ出した。福沢諭吉の予言適中である。

 TBS(ハニー・マネートラップ癌半島と罪日の巣)が、亀田親子をおだて上げ、プロレス同様にショービジネス化し、ダーティ日本人と思想戦工作。何でも有りが癌半島、大相撲ものせられたのか?唯物八百長は、癌半島癌国並だ。ちなみに、唯心ゆえの勝ち星は、唯心も実力の内、八百長ではない。唯物が八百長! 

文系丸暗記凶授無検証(職責不履行)自白!伊藤成彦、中央大学名誉教授

4.3蜂起60周年記念国際会議に参加して 日米両政府は済州島民に謝罪せよより抜粋

 ――(1)日本の植民地支配がなければ、朝鮮民族が戦争に巻き込まれることはなく、外国軍が来ることも、38度線での分断もありえなかったことを想起する。

 (2)日本の植民地支配は、45年8月15日の敗北で終わったと考えられがちだが、日本軍はマニラの米軍司令部の指示で38度線以南で9月8日(済州島では9月28日)まで支配を続け、その間にカイロ宣言を無視して民族独立運動を弾圧し、マニラの米軍司令部に38度線以南の民族独立運動とその活動家をすべて「アカ=共産主義者」だと伝えて偏見を植えつけた。

 (3)本来カイロ宣言を実行すべきであった米軍は、日本の支配を受け継いで支配者となり、李承晩傀儡政権を作るために、これに反対した済州島民の無差別虐殺を指示した。

 (4)日米両国は、こうした過去を省みて韓国政府同様に済州島民に謝罪すべきだ。

 こうして、60周年を契機に真相究明・謝罪・和解の過程がいま始まったのである。(伊藤成彦、中央大学名誉教授)[朝鮮新報 2008.4.23]

※余りにもボンクラ給料泥棒凶授である。金東日「漢拏山へ ひまわりを」を煎じて呑め!

NHK功凶放送無検証(職責不履行)自白!

登場人物

金東日(キム・ドンイル済州島朝天面生まれ1932年~)・金東日(16歳少女)は、民主愛国青年同盟の一員として4・3事件に関わり投獄された。日本に密航避難後も拷問による心の傷は癒せず、夫亡き後も都内で弁当店を営む。

朝日新聞 asahi.com(2008年03月29日15時16分)より(捏造尽くし朝日の、「珍品といえるほどまともな記事」なのだが、現在は削除されている)。

『拷問・戦争・独裁逃れ…在日女性60年ぶり済州島に帰郷へ』

 東京に住む76歳の在日コリアン、金東日(キム・ドンイル)さんは31日、60年ぶりに韓国の済州島(チェジュド)に帰郷する。朝鮮半島が南北に分断された1948年に島で起きた民衆の蜂起で故郷を離れたままだったが、韓国で過去の見直しが進み、腰をあげる決心がついた。

 東京都江戸川区の小さな弁当屋で、金さんは土日も休まず店に立つ。ずっと故郷に足が向かなかったのは多忙だけが理由ではない。「またつらい目にあわされるのではないか」という不安が消えなかったからだ。

 48年4月3日に始まった済州島4・3事件だ。女学生だった金さんは、子どもにも容赦なく暴行を加える警察に反感をもち、山にこもった武装隊の伝令役として制服姿で島を走り回った。

 軍や警察の包囲網が狭まり、山の洞穴に身を隠した。雪がつもり始めるころ山をおりたが、警察に見つかった。一緒にとらえられた年長の女性は銃殺。金さんも拷問を受けた。刑務所に移されるため、島から離された。

 出所後、半島南端の木浦(モッポ)の叔父宅に身を寄せていた50年6月に朝鮮戦争が始まった。

 木浦は数カ月で占領者が南、北、南と入れかわり、金さんは再び拘束された。当時の韓国は独裁政権下。

 密航船で祖国を後にした。母の死の知らせが入っても足を運べなかった。

 やがて、韓国では民主化が進んだ。軍事政権下ではタブー視されていた4・3事件も、金大中(キム・デジュン)大統領下の2000年には真相究明と犠牲者の名誉回復のための特別法ができ、03年には盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が島民に謝罪した。

 今年は事件から60年。済州道庁などが4月3日に島で開く節目の慰霊式に在日コリアンの関係者も招かれた。金さんは最初はためらったが、最後の機会になるかも知れないと思い、初めて旅券をつくった。

 済州島では、幼いころサザエをとった海をながめ、両親の墓参りをしたい。事件で死んだ仲間の生きた証しにと、好きなヒマワリの種をふるさとの山にまきたいと考えている

 

「漢拏山へ ひまわりを」副題「済州島四・三事件を体験した金東日の歳月」新幹社2910.05より抜粋

1947年3月1日 済州島三・一節事件発生。

1947年9月 朝天中学院入学(二期生)、民愛青に加入し、連絡係として活動。

1948年4月3日 16歳、四・三抗争勃発、引き続き連絡員として活動。

1948.11月 軍討伐隊が中山間地域から海岸地域へ住民を避難させる租界作戦を実施した。その後、山へ連絡に行き、山から下りることができず、同志と共に漢拏山(ハルラサン)で逃避生活を送った。

1949年春頃 警察に検挙された。済州警察署留置場で100日間拘禁生活。

1949年7月 裁判後に光州刑務所に移送され三ヶ月ほどの獄中生活を送った。釈放後に叔父を頼って珍島(チンド)に定着。

1950年6月25日朝鮮戦争勃発。

1950年6月末 珍島郡党委員長秘書として活動。

1951年3月頃 全羅道智異山(チリサン)付近で軍討伐隊により逮捕された。光州、珍島、木浦(モッポ)警察署を転々と移動したが、同僚の父親の奔走により釈放された。巻末年譜

 

 しかしどこに帰ればいいのか。故郷に戻れば、死んでしまった人以外に知り合いは沢山いる。しかし当然ながら友人は元の友人ではない。血で血を洗う内戦で一方の側に立ち敗北した者は、権力から徹底的にマークされるだけでなく、友人のはずだった友からも冷たくされてしまう。そうしなければ友人自身疑われてしまうからそれもやむを得ないのだが。

 「(済州島に帰り)仕事は片っ端から何でもしました。畑に行って草刈りしたし、何でもしました。一緒に山に入った人たちの遺族は、怖がって、私とは口も聞きませんでした。もちろん一緒に活動した人たちとも話もしませんでした。かといって不思議なのは……反対側の人たちも罵ったりもしませんでした。影では何か言っていたのかもしれませんでしたが、少なくとも私の前で何か言うようなことはありませんでした」p105

 

結局私は日本に来る。1958年、逮捕釈放されてから7年後に。

 「八方ふさがりの息の詰まるような生活をするよりも、日本に行けば自由になれる、という思い一つしかありませんでした。日本に行けば天国のみたいな生活が送れるに違いない、そう考えて結婚を決めました」 p108 

 しかし彼女には密航するだけのお金やコネクションは皆無だった。韓国中で味方は病弱な母親ただ一人だったのだから。彼女は究極のサバルタン(下層民とか従属民の意)の選択をする。誘われるままに、在日韓国人の中年男の第二夫人になったのだ。独立運動家を父に持つ誇り高い両班の家系の彼女が。

 「わたしは年はまだ若いし、字で書くと愛というのはたった二文字だけれども、わたしはその愛というものが何なのかもまったくわかりません。それでもわたしは親がくれた名前を汚したくはない。わたしはこんな人間ですけど、もし、可哀想に思ってくれるならば、年齢は二十歳も年の差があるけれど、結婚します」p108

ところが男が妾を作った事に怒ったその男の日本人の妻は、自分名義になっていた財産をすべて処分し出て行ってしまう。男は財産をすべて失ってしまう。そして天国のはずだった日本での苦労ばかりの生活が始まる。

 「15歳の時から戦い始めましたが、こんなふうに命だけが残っていますが、あの頃戦ったことは後悔していません。――たとえ贅沢な暮らしはしなくとも、若いころに命をかけた戦いは正々堂々としたものだったと思います」p168

ススキとひまわり」p17

 あのススキの野原の中を彷徨い続けた私たちが、今度はひまわりとして新しく咲いてくれたら、過ぎ去った時間が無駄ではなかったということを伝えたいのです。ススキは私達の過去の苦しみ、ひまわりは今、新に蘇って脚光を浴びている「四・三」を意味しています。

韓半島李朝「獣」差別「虐殺」に対して、唯心耽羅人の矜持を世に知らしめた、歴史に残る、立派な戦いであったいえる!ススキとは、生死のしじまに浮かぶ、逆光に光ったススキであろう。

李鳳宇(リ・ボンウ)・映画「パッチギ」プロデューサー在日二世

金石範(キム・ソッポム)・作家

悲劇の島 チェジュ(済州)~「4・3事件」在日コリアンの記憶1/9NHK教育TV 2008年4月27日(90分)

悲劇の島 チェジュ(済州)~「4・3事件」在日コリアンの記憶 1時間28分
 NHK騙り屋広瀬修子が「植民地支配」を連呼し強調しているが、「日本統治」が正しい。始めから「赤」とNHKは決め付けているが、始めは「赤ではなく」、済州人差別に対する抵抗運動で、後に、敵の敵は味方と成ったに過ぎない。NHKの印象操作洗脳放送!

内容

 日本語強制と捏造だが、併用が事実。

 映像で徴兵を強調しているが、末期に朝鮮人徴兵はされたが、すぐに終戦で実戦なし!

 南労党済州島委員会 故・李三龍(イ・サムヨン)証言は真実を語っている!責任はアメリカ軍統治としているが、本音(怨念)は、もちろん韓国である。

 李鳳宇や金石範の語りが、色褪せて空しく感じるのは、私だけではあるまい。

韓国似非従軍慰安婦との対比が余りにも際立つ済州島出自金東日

 済州島での金東日原体験証言は直接琴線に迫り、圧巻である。八方が敵と化し捕らえられ、投獄への道すがら、今はもう変質(差別に対しての戦いが凶産と捏造され被洗脳)してしまった村人に、「暴徒(ポクト)。暴徒(ポクト)」と罵倒され、髪をつかまれ小突かれる様の証言は、胸に迫る。島民のためにとの16歳少女、青春を懸けた自己犠牲の行動は、報われなかったのだ。韓半島人や罪日の火病発言とは真反対の、訥々と語る愛憎あざなう唯心の思いは、深く胸に残り、特に圧巻である。

究極の共産(唯心・差別無き助け合い・絆)済州島=ソ連凶産ではない!李鳳宇(リ・ボンウ)の父母転向が、明々白々な証拠!

 板子一枚下は地獄の海洋民(台湾・済州島・日本・南洋諸島等)は究極の共産(差別無き助け合い・絆)唯心で、唯物民は生存不可!大門(門扉)無、盗(泥棒)無、乞(物乞い)無、「三無の島」が済州島である。究極の共産(差別無き助け合い・絆)唯心の島済州島だから、大門(門扉)無、盗(泥棒)無、乞(物乞い)無、「三無の島」なのである。矜持皆無唯物(李朝差別)の韓半島とは真逆で、火病も皆無!

 日本統治(李朝差別破壊)時代は、究極の共産(差別無き助け合い・絆)唯心の島済州島は、それまでの「李朝差別」からも解放され、唯心日本とは、最も共存共栄していた。李朝差別破壊者日本が去った途端、韓半島が本性の牙(唯物李朝差別)をむき出しにし、李朝差別が復活した。当初は、李朝差別韓半島対済州島日本統治(李朝差別破壊)時代維持の、差別抵抗運動(韓半島内対立も同じ)にすぎなかったのである。

 がしかし、韓国に凶産と捏造され、一様にソ連凶産の烙印を押された。凶産無知の米軍も錯誤し、差別虐殺(民族浄化)が始まった。結果、差別抵抗運動は単純に、敵(韓国)の敵(ソ連凶産)は味方に変化。八方が敵で藁にもすがりたい後半は、単純なソ連凶産化への一縷の望みに変質した。差別抵抗運動が先で、敵の敵は味方(ソ連凶産)は後。「南北分断に反対した」は後付で、凶産の烙印を押す(差別虐殺隠蔽)目的で針小棒大に捏造された。四・三虐殺は「李朝差別」が根底の、「差別民族浄化」以外の、なにものでもない!

北朝鮮は凶産!済州島は究極の共産(古来から助け合いの島)!

 済州島四・三は、凶産主義闘争などでは決してない。韓半島李朝「獣」差別「虐殺」に対して、耽羅人(究極の共産「助け合い」)の、「人」としての「尊厳戦争」であることは、明々白々である。

 金東日や、ほとんどの済州島民や済州島出自は、目隠しされ「凶産主義闘争」と錯誤している。韓半島も済州島も犯日罪日で、李朝差別を隠蔽するからこうなるのだ。
 四・三以前の「三無の地済州島」を信じての、北への帰国や恭順、総連に参加は、耽羅先人四・三犠牲者の嘆きであろう。北朝鮮は凶産!済州島は究極の共産(古来から助け合いの島)で、異なるのだ!耽羅の悲劇である。
 鵜呑みせず立派な先人から授かった子孫の頭脳で、呉善花のように「事実か否か」と考えるのが肝心。
耽羅人は世界の識者の意見を聞き覚醒が子孫の務め!NHK職員への正しい日韓史授業 NHK@テレビ等 
 

都道府県別本籍地別外国人登録者(その2 韓国・朝鮮)2011年8月19日公表(本籍地と国籍は別)

特別永住資格在日

 戦前に朝鮮から内地に渡航し、そのまま自由意志で日本に定住した者、およびその子孫と、戦後、四・三虐殺(8万人推定以下同様)・保導連盟(60~120万人)・居昌虐殺(8千人)・国民防衛軍虐殺(10万人)等の李朝差別虐殺(老若男女同胞殺し)や、朝鮮戦争(双方で400万人)の避難民として日本に密航した推定20万~40万とされる密航者およびその子孫に付与された資格。定住資格在日

 定住(連続90日以上滞在)し韓国・朝鮮籍外国人として外国人登録している者は170,755人。

韓国・朝鮮籍在日合計565,989人。韓国・朝鮮籍特別永住者は395,234人。長年に渡り日本定住外国人の最大勢力であったが、帰化と死去による特別永住者の減少で、2007年度、急増する在日中国人が上回った。

韓国籍在日474,890人。

済州島(特別自治道)籍在日88,510人(15.6%)

北朝鮮籍在日2,589人(0.5%)本籍地が韓国でも、朝鮮籍の者もいるため、朝鮮籍の者が3~4万人がいると推察される

※戦前の徴用労務者(戦時下なので日本国民も徴用された)は245人で、「強制連行」は捏造

 

四・三は、唯心耽羅(海洋民)と、唯物韓半島との戦いである!

 唯心日本敗れ、八方が敵となった耽羅の戦いは、日本蜂起に酷似する。唯心日本を継承し当時の唯心民族も独立の戦いの真っ最中、救いの手は差し伸べられなかった。満州、内モンゴル、新疆ウィグル、チィベット等々、皆唯物(中国韓半島ソ連)の餌食となり、耽羅同様、多くの唯心が敗者となった。

 唯心に天道(人の道)はあるが、唯物(我欲獣道)にはない!

戦後目隠しされた日本と、四・三虐殺後、目隠しされた耽羅は、酷似する!

 どんなに詭弁を弄しても、唯物差別(命への尊厳皆無、いたぶり弄んでの物扱い)虐殺が証拠で、「狩り」と誤魔化しても、覆ることなど永遠に無い。耽羅は、「助け合いの民唯心」で、決して凶産唯物などではない!共産極致、「助け合い」無き者(唯物凶産)などは生存不可が海洋民唯心の島生活(三無の島)で、これは世界の常識である。日本先人はそう看破していたのが、揺るぎのない証拠である。

 賎民朝鮮人(9割)の両班偽証が、耽羅人済州島4人の内の一人が虐殺された四・三大虐殺の原因!

 四・三耽羅人大虐殺は、両班偽証賎民朝鮮人(9割)の両班証明競争となり、老人女子供妊婦までがニセ両班に赤と捏造され、殲滅された!ちなみに、現代の何でも起源も、両班偽証賎民朝鮮人(9割)のなせる業。劣等感の裏返し!

 李朝差別が原因の四・三いたぶりもてあそび虐殺(劣等感の裏返しは、ユダヤ人虐殺、ヒトラーを超える。 


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

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プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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