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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観Ⅰ毛皮が語るペクチョン・えた白丁在日差別自白朝鮮ルーツは水稲民海洋民


 ネット常識の追試本もでたようだ「日韓がタブーにする半島の歴史」2010.4.室谷克美著新潮新書。ネットのコピペのみで検証が無い!

 分業の都には有るが、自給自足の村には無い。忌避職業故に、人をも侮蔑する極差別、分業無ければ成立せずの都のみに、存在。済州島は自給自足の島、白丁論ネットに散見するが、愚論。

 物事すべてに禍福がある。個人で生きれば、捕獲・解体・火おこし・料理等禍福すべてをこなさなければ生存はできない。集団の分業が禍業福業と分かれ差別を生んだ。力強き者勝者が福業につき、弱き者敗者が禍業についた。

 共同作業水稲で、共同体の村が、国が生まれ、作業者と監督者に分業、収入無き監督者に作業者が上納。この共同体から外れた者が賤民(敗者)、差別の起因である。監督業を世襲するため身分も固定化し世襲となり、身分制度も固定化され、賤民身分も固定化された。監督が変われば固定化されていた身分制度も変化、賤民が監督になる場合もある(下克上)身分は、その時代その人間界だけの取り決めで、不変ではない。

 近年差別的字句などと煩い。その時代の字句や言葉はその時代を語る証、封殺すべきではない、封殺し隠語化することこそ差別。臭いものには蓋ではなく、蓋を開け、禍福をあざなうことこそが学究。

 一部を除き、朝鮮人や在日著作の戦後の歴史書は史書ではなく、悪辣非道な願望物語である。税金経営東大文系姜尚中在日教授も、この類。でないのなら、年表を繰れば子供でも分かることが分からない、日本の子供以下、まったくの愚者、ただのハードデスクである。戦後の韓半島に史学皆無なので、韓半島史真実史観検証。

韓半島とペクチョン(白丁)の歴史

「三国志史記」現存最古の官選史書。1145年高麗17代仁宗の命で編纂。前57年の新羅始祖から、約千年を描く。

檀君朝鮮 高麗の僧一然(1208~89)の私書「三国遺事」に、朝鮮全土の始祖神とされ、今の平壌に都し、治世千5百年、1908歳の長寿と記されている。檀君朝鮮はこの私書以外初出無し。三国の雑史を収録。仏教的な記事が多く、史書ではなく説話集。なんと韓半島ではこの私書を歴史(事実)として教えているのだ。史学捏造の始まりである

ツングース族 中国歴史上の呼称、粛慎・挹婁・勿吉・濊白・夫与・鮮卑・高句麗・靺鞨(まっかつ・いずれも革編)・渤海・女真(高麗は刀伊と呼称。1019年対馬・壱岐・北九州を襲った)・(金)・女直(後金)・満州(清)。東部シベリア・満州に分布、シャマニズム・至高神の観念を持ち、ツングース諸語を話すトナカイ中心の民族や、狩猟遊牧民族。現在はロシア・中国凶産に封殺されて見えないが、有史以来万里の長城以東北や以東に君臨し、中国・満州・韓半島・沿海州を支配、「清」を建国した民族である。西の漢族、北のツングース族、南の海洋民族が韓半島の曙で、願望民族(単一民族)ではない。

BC1000~BC400年 中国最古の書物のひとつ「書経」記載。冀州(山西省・河北省・渤海北岸一帯韓半島北)の「島夷」から「皮服」献上。

BC770~BC221年(春秋戦国時代) 「万里の長城」斉・燕・趙・魏などの諸国が「匈奴(北方の騎馬遊牧民族)」を防ぐために築き始め、秦の始皇帝が大修築し連続させ、命名。東は現在の河北省産山海関が境。「匈奴は君主より皆以下家畜の肉を常食とし、その皮革を身にまとい毛織物を着る遊牧民族であった」「漢書匈奴伝」。遊牧民(肉食・毛皮・寒冷地)と農耕民(穀物食・植物繊維・団地)の当時の境が「万里の長城」といえる。以後韓半島は、漢族と遊牧民と農耕民が争乱融合し、現在に至る。

~BC222年 「燕」華北・東北南部朝鮮北部を領し、「薊(北京)」に都。

BC195頃~BC108年衛氏朝鮮。華北の燕から朝鮮に逃れた衛満(漢族)が、平壌界隈に建てた王朝。

BC108年中国漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし玄菟(遼東に移転)・臨屯(楽浪東から北東、ほどなく廃。後に濊貊)・楽浪・真蕃(楽浪以南、ほどなく廃。後に三韓)の4軍を置く。(ここまでは皆、平壌界隈以北、中国と匈奴からみの歴史のみ)

204年頃 朝鮮楽浪郡南半分に、帯方郡が設けられる。

BC108~4世紀中葉朝鮮原三国時代。楽浪郡・馬韓・辰韓・弁韓。

濊貊(わいはく) 後の夫余(扶余)高句麗の祖先、狩猟牧畜が主で農耕は従。半島北部から中部の日本海側に住んでいたツングース系民族。

楽浪郡 BC108年中国漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし置いた4郡の一つ。韓半島中部の西で、東は濊貊、中心は現在の平壌界隈。北部朝鮮楽浪は、中国植民地として長らく栄えた。

帯方郡 204年頃遼東の公孫氏が楽浪郡南半に新設。東で接する濊貊、南の三韓に備えた。今の黄海南道からソウル界隈が南限。313年高句麗(濊貊)に滅ぼされ、後に百済領。

甕棺墓も語る

 韓半島南西や南部限定で、北九州と同類の甕棺墓が数多発掘されている。前2~3世紀が北九州発表、韓国は4~5世紀と発表。水稲のみが同時進行で墓制だけが遅れては、有得ない。韓国いつもの病気であろう。

三世紀中国の文献に書かれた倭と三韓

『三国志魏書』馬韓伝。魏史の韓の条

「韓は帯方郡の南在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、方(南北領域)は四千里(1里60km×四千里=240km)ばかり。韓に三種在り、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西にある、その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各楽には長帥(邑楽の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない

『後漢書』馬韓伝。

「馬韓は西にあり、五十四国。その北に楽浪郡、南に倭と接している。辰韓は東にあり、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰(弁韓)は辰韓の南にあり、また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済(後に百済建国)は馬韓の一国なり。土地は合わせて四方四千余里、東西は海で尽きる

馬韓 楽浪郡の南、辰韓の西、南は倭。250年ごろ54国に分国し、住民は稲作養蚕綿織を知り、首長を有し、三世紀には祭りと政治 が分かれていた(邪馬台国と酷似する)。この中の伯済国が350年ごろ百済建国。

辰韓 北は濊貊と接し、西は馬韓、南は弁韓。漢江以南で洛東江の東、今の慶州北道界隈。250年頃12国に分立。この中の斯慮が統一し、356年新羅と改称。「脱解本多婆那國所生也其國在東北一千里」三国志史記

弁韓(弁辰) 辰韓の南、馬韓の東。250年頃12国に分立。南は倭。 洛東江の中下流域。後に加羅(任那)。倭と密接な関係あり。562年新羅に併合される。

以後の韓半島変遷

北部高句麗(遊牧民1世紀~668年)、西部百済(水稲民350頃~660年)、東部新羅(水稲民356~935年)。

北部渤海(高句麗遺民遊牧民698~926年)と契丹(遊牧民926~1125年)、中部南部新羅(水稲民356~935年)。

北部金(女真族遊牧民1616~1234年)と元(モンゴル遊牧民1271~1368年)と明(1368~1644年)。高麗(基礎民族は水稲民918~1392年)。朝鮮史上始めての統一国家。唐に習い貴族官人主体の政治が続いたが、12世紀後半に、遼・金の侵入を受け武人主体の政治となる。1231年より元の侵略始まる。1270年より元の属国。

北部明と清(女真族遊牧民1616~1912年)。李氏朝鮮(水稲民1392~1910年)。李朝は始祖の李成桂がクーデターによって王位を簒奪したために、逆に強い軍隊を警戒して、軍事力を持たなかった。国防は、宗主国である中国に委ねた。

  三韓はいずれも川と平野が数多で、水稲好適平野は馬韓最多、結果が54国の分立。南部海洋民が水稲で隆盛を成し、水稲民と成り北上、三韓と成り、北部中国人や狩猟遊牧民ツングース系民族との対立が窺い知れる。狩猟、答えは明白、米が凌駕した。南部海洋民→水稲民→三韓(水稲)→新羅(水稲)→高麗(水稲)→李氏朝鮮(水稲)。仏教も南部が起源で北上。そして高麗と李氏朝鮮が、狩猟遊牧民を白丁(ペクチョン)と差別。この事は、海洋民を始祖とする水稲民文明が北上、狩猟遊牧民南下文明と融合し、韓半島文明の基盤と成った事を、明解に語っている。韓半島基礎民族は水稲民。したがって、朝鮮人の真似中華、済州島や南部差別はご先祖冒涜の愚行で無知の自白となる。

白丁(ペクチョン)

隋(中国)時代(589年) 無官の平民

高麗時代(918~1392) 仏教を保護。賦役に従事しない民、歌舞音曲の芸能氏「才人」と、禾尺(柳細工と畜殺肉類販売業)に大別。高麗時代の白丁は良民。白丁前身は揚水尺。「水尺・禾尺」の出自は胡種(異民族)。1491年朝鮮王朝実録。「鞬靻と禾尺はト牛をもって耕食に代える」高麗史。柳細工は狩猟遊牧移動の民、移動物入れ製作は必須であろう。493年高句麗より製革染革の工匠来朝し、日本に伝えた。728年渤海使節団、国書と貂(しょう。テン)皮300枚日本に献上。高麗北部は、昔の高句麗・渤海、武具馬具製作民族の地、残った末裔はいた。「禾尺」はツングース系民族の末裔が導き出される。始祖王権は、高句麗の末裔の可能性が高い。国名高麗と、ソウル北の開城が都が、理由。武具馬具製作民族製作で隆盛時代もあったが、仏教の浸透で、多勢の基礎民族牛馬共存の水稲民に、殺傷のト畜民として差別されたと、推察できる。

李氏朝鮮(1392~1910年)国教は儒教(朱子学)。李朝4代王世宗、遊牧民の定住化政策として、「才人」と「禾尺」を白丁に改称、1423年(世宗貫録)。後に「才人」は白丁から分離され、白丁は基本法典「経国大典」で一般集落居住禁止となり、白丁のみの部落を形成した。高麗時代の白丁とも区別、新白丁と記され、別種異種と差別された。李朝初期は行李白丁(柳細工)、宰殺白丁(畜殺肉類販売)との区別あり。後に区別なし。

李氏朝鮮身分制度

君主・貴族・両班・中人・常人・賎民

賎民

七般公賎 官奴婢・妓生・官女・吏族・駅卒・獄卒(牢屋番人)・犯罪逃亡者

八般私賎 私奴婢・巫女・酢牽令・令人(演奏家)・才人(芸人)・僧侶・水尺(狩猟民)・白丁(ペクチョン。畜殺・獣肉販売・皮細工・柳器作成)。ペクチョンが最下層。

注・日本の杞柳(柳細工)は、ペクチョン差別はるか以前の27年に渡来し発達したもので、ペクチョン独占柳器(柳細工)とは異種。柳行李(やなぎごうり)呼称は、明治中期以降の呼称で、以前は骨柳と呼称。多婆那國、丹波、豊岡、行李柳で合致。

高麗と李氏朝鮮が、狩猟遊牧民を白丁(ペクチョン)と獣差別は、海洋民を始祖とする水稲民を自白している。

1910年日本統治。1894年日本勅命の甲午改革で身分制度が廃止され平民となったのはこの年から。独占業から競争業で失職転業となった。

「みにくい韓国人」朴泰赫著光文社

・・・両班(地主)3割200軒・中人4割・常人(小作人)3割・奴婢が居住する村での、中人身分著者10歳(1935年)の李朝家畜差別耳目記録。李朝時代の常人は無知なため、女の子は生まれ月を名前にした。常人は常奴(野郎)と蔑称され、両班への挨拶は低く腰を落とし「ご主人様」と呼ばなければならず、年貢が足らず障害者にされた者もいた。李朝時代の両班は、生殺与奪の権を、常人にふるっていた。

 仏教が消えたが儒教が科挙と結びつき、実業無視の身分差別で桎梏し、机上政治で形骸化、現実会はヤル気を失い衰退し高麗以前に後退した。儒教の礼儀はかしずかせ、権力誇示が目的。朝鮮人や在日の被害妄想癖、火病、ニセ両班、パクリ、唯心無き唯物、移住しても同化せずの差別排他、泣き売等の負は、この時代の遺産。

 差別はされたが、遊牧民(肉食)と水稲民(牛馬使役)の融合民族には不可欠な職業、しかも差別ゆえに競争相手無しの独占業なので旨みもあり絶えることなどなかった。李氏朝鮮世襲は27代519年も続いた。身分は世襲され確実に固定した。白丁の技術は継承されたが、人が世襲されたかは定かではない。独占業なので食いぱぐれ無しが魅力、生きるために飛び込んだ者もいたはず、旨みを貯め、出た者もいたはずである。差別だけが唯一の障害で、中身は 両班並ではなかったのか。殺傷禁止の僧侶が賎民で、犬も食する肉食の朝鮮、日本のように仏教が差別の原因ではない。遊牧民命の糧は動物、水稲農民の牛馬は穀物の糧、多数を占める牛馬使役の基礎民族の忌避が起因で儒教の形骸、礼儀が助力した。北部遊牧民が大多数の基礎民族なら、白丁差別など当然皆無。朝鮮の差別は基礎民族の差である。ペクチョン差別は水稲民の証、水稲は海洋民が居住し、伝播したものだ。

 済州島出身者との結婚となると、在日でさえ「血が汚れる」と一族が猛反対。済州島は自給自足の島、都市部のごとき分業は皆無、分業最先端のペクチョンなど生活不可は道理。ニセ家系図のニセ両班が、ニセ優位身分誇示のため、両班の真似中華や李朝家畜獣差別を猿真似、極南の済州島や南部を極差別が真相。極南の済州島や南部差別は猿真似ニセ両班の証で、誇示行為、出自の自白である。

 韓半島以外の世界の常識、後世13世紀の創作「檀君朝鮮」より、済州島国造り神話がはるかに古い。現代朝鮮の基礎民族のご先祖は海洋民、ご先祖愚弄は無知の証である。

 済州島、元は州胡(しゅうこ)国、次に耽羅(たんら)国といい、5世紀末に百済に服属したが、古代から15世紀始めまで実存した王国である。古代言語は中国でも朝鮮でもなかった。倭人と協力し、建国するようすが国造り神話として伝えられている。(高麗史57巻)朝鮮神話はこちらが正統。右記参照。1朝鮮南 強制連行

 朝鮮民族2千万の中の40余万白丁が平民となった甲子改革は独占ゆえにそれなりに旨みがあった独占業が崩壊、職にあぶれた元ペクチョンや常人(小作人)や賎民が、満州や日本の新天地を目指したことは当然の成り行きである。差別廃止の後ろ盾日本が倒れ、朝鮮復活の戦後、身分制度復活無しの保障など全く無かった。差別のため生活出来得ず脱出した火中人身売買復活し、旨みの独占業廃止)に、帰る愚者など皆無。敗戦でどん底だが、火中のような、獣家畜差別が無い日本に懸けた。この残留理由隠蔽のため、在日のみが犯日親日での亡命者は帰化し、犯日ではない。獣家畜差別は、差別朝鮮戦争やハン(恨)の根源でもある。内心は差別で分断、一枚岩ではない。差別破壊せずの南北統一など、絵空事。ご主人様の命令が絶対だった賎民の名残か?犯日は建前が理解不能で、戦陣訓を侮蔑の旗としてウィキ等でしつこく掲げる。命令で李朝賎民のように死ぬ、日本人など皆無。

 済州島蜂起四・三事件(1948年から7年間で、島民四人に一人、8万人が韓国人に虐殺された)は、日本統治下で平等のはずの半島朝鮮人に、日本でも「血が汚れる」とまで極差別され(現代も同じ)、トラウマとなった李氏朝鮮の差別が根源。戦後帰島したが極差別され、さらにトラウマとなり、凶産の掲げる共産平等に、藁をも掴む思いで飛びついての差別蜂起が、真相。四・三事件は半島人の李氏朝鮮差別の教え儒教と、真似中華と、人間殺し人身売買獣家畜差別の虐殺である。済州差別蜂起は、高麗・李氏朝鮮下では頻繁で、元・日本統治下では無い。1995年済州島出自(済日)在日、島民の1/6の10余万(実数は遥か上)人。済州島出自(済日)の在日理由は、明白な半島出自(罪日)とは明らかに異なる。「済日」は済州を見捨てた思いと望郷相まって、ミカンの伝播等ふるさと済州へのきずなが深い。済日(亡命望郷の済州島出自)と、罪日(人身売買獣家畜差別脱出の韓半島出自)は水と油、在日単一呼称は不適。

 世界が食うか食われるかの戦国時代、朝鮮人だけではなく、皆悲惨で、悲劇で無い国家など無い。窮鳥朝鮮を矢面にも立てず(朝鮮志願兵2万2千182人、台湾志願兵3万304人が戦死。日本は強制兵役、徴集で、2百34万2千341人が戦死)戦った日本を極悪人にし(台湾人は戦いを誇りにしている)、朝鮮人だけが悲劇の主人公と捏造し、同情を集め金をせびる。南北朝鮮在日は、哀れを装って金をせびる「泣き売」の詐欺手法、皆同じである。厚顔無恥の詐欺愚民行為「泣き売」、日本人や台湾人に、愚民呼ばわりされても仕方あるまい、身から出た錆び、自業自得だ。愚民呼ばわりは、無知や無恥を知らしめんがための、かっては身内の親心だ!

毛皮の歴史

毛付の皮のなめし法発見

 毛皮は皮下脂肪等をそぎ、乾かし硬化したものを軟化(なめし)して使う。始めは叩いたり歯でかんで軟化したが、湿ると腐敗したので、燻製にした。この燻なめし法はBC8千年、植物の渋タンニンなめし法はBC3千年、並行してミョウバンなめし法が開発。

皮革の古代製法

1・毛皮を水に漬け軟らかくし、掻き出し器でこすり表皮と毛を除去後、なめす方法。

2・動物の脳髄や肝臓、胃の内容物、獣脂、魚油、魚卵、草、枯葉、樹脂などを漬け込んだ液に一定時間漬け、丈夫な真皮層以外の部分を腐らせ、腐りにくい真皮のみを取り出した。時には人間や家畜の糞尿を用いることもあったらしい。現代人には不潔で穢れた製法と映るが、腐物中に増殖した細菌の分解作用を利用して、表皮と毛根皮脂腺などを腐らせ一挙に除去するもので、実に、理にかなった方法である。汚物液中に発生したアンモニアやフェノールなどによって、真皮層のコラーゲン繊維が固化されて、なめし効果も生じたはずである。この方法は、腐敗し残った毛の抜けた革の発見か、毛皮が湿ると腐り毛が抜けるがヒントであろう。腐らすというきわめて簡単な原理で、しかも材料は身近なものばかり、手のかかる1ではなく2を、誰もが得心し用いたであろうことは、推察できる。2の臭いが忌避され、部落化への大きな要因。

 この方法は、シベリアの先住民族やサハリン北海道のアイヌでも、近年まで用いられていた。ヨーロッパでも、タンニンや明礬なめしが普及するまでは、糞尿でなめすことが行なわれていた。・・・こうして除毛・なめしがなされた革は十分に洗浄され利用された。タンニンなどのなめし製法との併用もあったらしい。「毛皮と人間の歴史」西村三郎著

 「2で毛皮と表皮を除去後、タンニン法や明礬法でなめした」が導き出される。農耕定着後近年まで、糞尿は田畑の有機肥料や魚の餌として人類の貴重な循環資源であったが、1843年英国化学肥料の発明以降徐々に忌避され、さらに水洗化で不定な物に拍車がかかった。日本での糞尿不浄忌避は、たかだか半世紀程度。糞尿循環は生命体の習い、蟹味噌・シラス・煮干・うるか・貝類等現代でも食している。

日本の毛皮と皮革の歴史

 冬でも毛皮着用の寒さでもなく、夏は毛皮に大敵の微生物や害虫大繁殖の高温多湿での劣化で保存に不適の日本。遅くとも弥生時代(BC百~3百)までには、寒冷地を除いて毛皮依存から脱却し、食物繊維へ移行したであろう。毛皮の職能集団も近世以前の日本には育たなかった。弥生時代以降は牛馬を家畜として活用、隆盛をなし大勢を占め、狩猟依存民は極少数となった。さらに、6世紀半ばの殺傷禁止仏教の伝来が毛皮離れに拍車をかけ、日本での毛皮は、穢れ多き物になった。

皮革の歴史

 日本では毛皮よりも、皮革、なめし革としての需要が高く、早くから貢物とした。

 BC86年「男は獣皮を貢し、女は布を調せしめた」日本書紀 しかし、早くに狩猟民から水稲民に変化したため、なめし革製法は未熟。

三世紀後半、百済から皮革で履を作る革工手部(てひとべ)来朝。革帯、鞍具等の馬具製作にも携った。

493年高句麗より製革染革の工匠須流枳(するき)奴流枳(ぬるき)らが来朝。革なめしと革染めに不可欠な流水豊富、大和郡額田村で製造させた。「高麗(こま)の熟皮師(おしかわし)」と呼ばれ、代々製革染革に従事し、後に狛部(こまべ。狛は高句麗人の意)、狛染部(こまそまべ)と称した。日本書紀。以後急激に発展、染革も文(模様)を出し、技術向上。

538年殺傷禁止の仏教伝来。

592~628年仏教の伝来以後は薬狩と名を変え、毎年5月5日中国の風習に習って朝廷の恒例行事となった。中国で珍重された鹿の袋角、鹿茸(ろくじょう)を獲るのが目的とされた。

 鹿は袋角のみならず、内臓から毛皮まで皆利用されたことが、現存最古の歌集万葉集16巻乞食者(ほがいひと)が薬猟で仕留められる{鹿の為に痛みを述べて}つくったとして収録されている、寿歌(ほがいうた)からも窺い知れる。

大君に われは仕えむ わが角は 御笠のはやし

(材料) わが耳は 御墨の坩(つぼ)・・・わが爪は 御弓の弓はず わが毛らは 御筆はやし わが肝も 御膾(なます)はやし わが肱(みげ。胃袋)は ひ塩(塩辛)はやし・・・

 肉や内臓がなます(生食)や塩辛の材料とされ、爪や毛皮まですべて利用されている。当時も多数生息した鹿は、もっとも利用された動物の代表であった。日本狼は絶滅し、鹿は残った。日本民族共存共栄の証である。

646年大化の改新の詔で駅伝制度始まる。駅に多数の馬が飼育。

658~660年阿倍比羅夫の出羽津軽渡島(北海道)の「征夷」。生羆(ひぐま)二つ、羆の毛皮70枚を朝廷に献上。

701年日本最初の法典大宝律令の「牧厩令」で「官の馬牛死するものあるときは、各々皮、脳、角、(たん。肝臓)、を、収めよ」とある。当時朝廷は騎乗用の馬を大和や河内の馬飼部が飼育し、各地に駅伝や軍団用として飼い、官田耕作や、乳や蘇(ヨーグルト)を得るために、牛も飼っていた。この牛馬が斃死の際は、捨てずに、採取とのおふれである。皮はなめし革、脳はなめし材料、角は弓矢の部品、(たん。肝臓)は薬用。朝鮮は畜殺、日本は斃死(自然史)

718~757年「養老律令・職員令別記」当時造兵司には、甲(よろい)作戸、靫(ゆき)作戸、鞆張戸、楯張戸。漆部司には、泥障戸(あおりこ)、革張戸などが所属し、毎年10月~3月の間(農閑期)、各々の製品生産に一丁(青年男子)が従事。

728年「高句麗の子孫が、漢半島北部白頭山地帯(高品質の毛皮獣産地)の狩猟民靺鞨人を支配し、建国した渤海使節団、国書と貂(しょう。テン)皮3百枚天皇に奉った」。日本からは、絹・絹糸・綿・綿織物・黄金・水銀・金油(こしあぶら。塗料および矢じり固着用硬化接着剤)・ツバキ油・真珠などが送られた。始めは対新羅の軍事同盟目的だったが、交易に変化、以後2百年間37回にわたり来航は続き、貂のほか、虎・豹・羆・蜂蜜・朝鮮人参などが伝播。続日本書紀。日本特産品入手目的の来航である。

780年続日本紀

「今後は丈夫で軽便な革製の甲冑を造って国に納めよ。しかし、以前に造った鉄製の甲冑も捨てずに修理して使うように」武具や馬具製造用皮革需要増大。

790年続日本紀

「駿河以東、信濃以東の国々に数を定め、三ヵ年以内に造るよう命じた。蝦夷討伐用に革の甲二千領造らせた。

905~927年「延喜式(巻49兵庫寮)」甲冑一具に2~3頭分の牛皮が必要。馬皮鹿皮は、革紐用。甲冑一具製作日数。長工(熟練工)192日、中工220日、短工265日。

古代日本穢れの思想と仏教

 生命体は、「1食・2衣・3住」の生きるが第一義、食料生産民が主で正業、以外は「穀潰し」従の序列となる。現代とは真逆。

「生まれた以上は死にたくない」死の忌避は生命体の業で、結果最下層が芸能や生きると真反対の死に関する業となる。造化の神の造化物狩猟採取「獲る」、の受動から農耕「育てる」、の能動へ、自らが造化の神となる心の変化が、意識の大変革となり、精神と技術が研磨され、現代人の原点となった。しかし現代の資源なき日本、燃料は未だに受動で採取のまま、そして「穀潰し」は隆盛の極みで、「生きる」が第一義の食料生産民が「汚れ多」である。

律令制 良民と賎民にし、賎民を五賎に分けた。陵戸・官戸・家人(家来)は家族生活を許され売買されず。公奴婢・私奴婢は売買され家畜と同じ扱いの規定。総数は全人口の一割。650年頃からで750年頃が最盛期、律令国家の崩壊で拡散、10世紀には良・賎の区別消滅。Ⅱにつづく⇒

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真実史観Ⅱ世界の毛皮の歴史と日本肉食の歴史

Ⅱ世界の毛皮の歴史と日本肉食の歴史

 世界が殺し合いの戦国時代、朝鮮人だけでなく、皆が悲劇であった。日本は窮鳥を矢面に立てず(朝鮮志願兵2万2182人、台湾志願兵3万304人戦死。日本は強制兵役、徴兵で、234万2341人が戦死)戦った。それを極悪人呼ばわりし(台湾人は誇りにしている)、朝鮮人だけが悲劇の主人公と捏造。同情を集め金をせびり取る詐欺の泣き売、厚顔無恥のし放題だ。南北朝鮮罪日、みな同じ詐欺手法で出自自白。日本人や台湾人に、愚民行為を愚民呼ばわりされても仕方有るまい、身から出た錆び、自業自得である。台湾満州朝鮮「日本の植民地の真実」黄 文雄著扶桑社2003.10.に学べ。朝鮮人や罪日が叫ぶべきは打倒李朝差別だ!犯日などではない。愚民呼ばわりは、無知や無恥を知らしめんがための、かっては身内の親心だ!

毛皮の歴史

毛皮(毛が付いたままの皮)のなめし法の発見 

 毛皮は剥いで直ぐ使えるものではない。裏の皮下脂肪等をそぎとり、乾かし硬くなったものを軟らかくしなければ使えない(なめし)。始めは叩いたり歯で噛んだりして軟らかくしたが、湿ると腐敗したので、燻製にし、対処した。この燻なめし法はBC8000年。植物の渋タンニンなめし法はBC3000年。並行して明礬(ミョウバン)なめし法が開発された。

皮革(表皮と毛を除いた皮)の古代製法

1・毛皮を水に浸け軟らかくし、掻きだし器(スクレイパー)でこすり表皮と毛を除去後、なめす製法。

2・動物の脳髄や肝臓、胃の内容物、獣脂、魚油、魚卵、草、枯れ葉、樹脂、などを漬けこんだ液に一定時間漬け、丈夫な真皮層以外の部分を腐らせ、腐りにくい丈夫な真皮のみを取り出した。時には人間や家畜の糞尿を用いることもあったらしい。現代人には不潔で穢れた製法と映るが、腐物中に増殖した細菌の分解作用を利用して、表皮と毛根皮脂線などを腐らせ一挙に除去するもので、実に、理にかなった方法である。汚物液中に発生したアンモニアやフェノールなどによって真皮層のコラーゲン繊維が固化されて、なめし効果も生じたはずである。この方法は、腐敗し残った毛の抜けた革の発見か、毛皮が湿ると腐り毛が抜けるがヒントであろう。腐らすという極めて簡単な原理で、しかも材料は身近なものばかり、手のかかる1ではなく2を、誰もが得心し用いたであろう事は推察できる。2の臭いが忌避され、部落化への大きな要因となったであろう。

 この方法は、シベリアの先住民族やサハリン北海道のアイヌでも、近年まで用いられていた。ヨーロッパでも、タンニンや明礬なめしが普及するまでは、糞尿でなめすことがおこなわれていた。おそらく、この方法はかっては世界各地で広くおこなわれていたのではあるまいか。こうして除毛・なめしがなされた革は十分に洗浄され利用された。タンニンなどのなめし製法との併用もあったらしい。「毛皮と人間の歴史」西村三郎著。

 「2で表皮と毛を除去後、タンニン法や明礬法でなめした」が、経緯から導かれる道理である。農耕定着以後近年まで、糞尿は田畑の有機肥料や魚の餌として人類の貴重な循環資源であったが、1843年英国化学肥料の発明以降徐々に忌避され、さらに水洗化で不浄な物に拍車がかかった。日本での糞尿不浄忌避は、たかだか半世紀程度。糞尿循環は生命体の習い、蟹味噌・シラス・煮干・うるか・貝類等現代でも食している。

現代の表皮と毛の除去法

 毛を除去してなめしたものをなめし革、毛をつけたままなめしたものは毛皮。動物の皮はタンパク質ケラチンを主体とする表皮層と、強靭な繊維状のタンパク質コラーゲンを主体とする真皮層からなり、真皮層はさらに上層の乳頭層と、下層の網状層に分かれる。乳頭層の表面は銀面(ヒアリン層)と呼ばれ、各動物固有の凹凸模様を示す。

 生皮は腐敗しやすいので、塩漬け(塩蔵皮)・乾燥(乾燥皮)・塩蔵後乾燥(塩乾皮)・防腐剤処理後乾燥(薬乾皮)して保存。不要なタンパク質、脂肪など除去し皮の組織間になめし剤を充填してコラーゲン分子間に橋かけ結合を形成させ安定化させる。

なめし準備作業(汚物、可溶性タンパク質、皮下組織、脂肪、毛など不要部分の除去)

 浸漬し吸水軟化させ水洗し脱塩後、フラッシングで皮下組織を除く。アルカリの石灰水に漬け、皮を豊潤させ毛根を緩め、表皮層を分解し機械的に脱毛する。酸やアンモニュウム塩で皮から石灰分を除き(脱灰)。さらにペーチングでタンパク分解酵素により、コラーゲン以外の不要タンパク質を除去し洗浄。この石灰漬け法の起源は調査中。百科事典にもなぜか記載無し。

現代のなめし法

タンニンなめし(植物なめし・渋なめし)1760年英人マックス・ブリッジ、タンニンエキスを考案。

 薄いタンニン液から徐々に濃い液に数日から数十日浸す。ぬめ革、多油革等の製造に適し、堅く強靭で耐水性にすぐれる。ベルトや靴の底革など。

明礬なめし(白なめし)

 白い革となる。汚れやすく水に弱い。竹刀の握り。

クロムなめし(1858年クロップ発明)

3価のクロム塩溶液に浸す。なめしの80%以上がこの方法。水に強く伸縮や熱や摩擦に強い。

クロム・タンニンなめし

 クロムなめし→タンニンなめし。両方の特長あり。

ホルマリンなめしや油なめし

 セーム革 鹿、ヤギなどの皮の銀面を落とし油なめしした革。淡黄色で柔らかい、洗濯可。

日本の毛皮の歴史

 冬でも毛皮着用の寒さでもなく、夏は毛皮に大敵の微生物や害虫大繁殖の高温多湿での劣化で保存に不適の日本。遅くとも弥生時代(BC2百~3百)までには、寒冷地を除いて毛皮依存から脱却し、植物繊維へ移行したであろう。古代オリエント王国や欧米諸国や中国歴代王朝のように、権力や富のシンボルとして、利用されることはほとんどなく、毛皮の職能集団も近世以前の日本には育たなかった。弥生時代以降は牛馬を家畜として活用、隆盛を成し大勢を占め、狩猟依存民は極少数となった。さらに、6世半ばの殺傷禁止仏教の伝来が毛皮離れに拍車をかけ、日本での毛皮は、になった。

皮革の歴史

 日本では毛皮としてよりも、皮革、なめし革としての需要が高かったので、朝廷では早くから皮革の原料を貢物としていた。

 BC86年(崇神天皇12年)「男は獣皮を貢し、女は布を調せしめた」日本書紀。しかし、早くに狩猟民から水稲民に変化したため、なめし革製法は未熟だったに相違ない。

応神天皇朝(三世紀後半)に、百済から皮革で履をつくる革工来朝。彼等は手部(てひとべ)と呼ばれ、革帯、鞍具などの馬具制作にもたずさわったようだ。

291年(応神天皇22年)応神天皇淡路島の狩。日本書紀

485年(雄略天皇2年)10月大和の御馬瀬の狩。「猟場の楽しみは膳夫をして鮮(なます)を割(つく)らしむ」とある、獲物の肉を鮮(なます。生肉を細かく刻む)として、生食している。日本書紀

493年(仁賢天皇6年)高句麗より製革染革の工匠須流枳(するき)奴流枳(ぬるき)らが来朝した。天皇は革なめしと革染めに不可欠な流水豊富、大和郡額田村に居住させ、製造にあたらせた。「高麗(こま)の熟皮師(おしかわし)」と呼ばれ、代々製革染革に従事し、後に狛部(こまべ。狛は高句麗人の意)、狛染部(こまそまべ)と称された。日本書紀。これより急激に発展し、染革も、文(模様)を出せるほど精巧なものになった。

538年殺傷禁止の仏教伝来。

545年(欽明天皇6年)百済への使いが帰朝時に、虎の皮を持ち帰ったのが最初の虎の皮の文献。日本書紀

592~628年(推古天皇)仏教の伝来以後は薬狩と名を変えて、毎年5月5日朝廷の恒例行事となった。5月5日は中国の風習に習ったもの。中国の薬草学で珍重された鹿の袋角(この時期に伸び始め、まだ袋をかぶった若い角で鹿茸「ろくじょう」とよばれた)を獲るのが目的とされ、推古天皇以後多くなった。

 しとめた鹿は袋角のみならず、内臓から毛皮まであまねく利用されたことが、現存最古の歌集万葉集(400~759年まで、約350年間の歌集)16巻乞食者(ほがいひと。元来は、貴人の面前で祝福の言葉や歌をつくり唱えて報酬を得る芸人の一種)が薬猟でしとめられる「鹿の為に痛みを述べて」つくったとして収録されている、寿歌(ほがいうた)からもうかがい知れる。

大君に われは仕えむ わが角は 御笠のはやし

(材料) わが耳は 御墨の坩(つぼ)・・・わが爪は 御弓の弓(ゆ)はず わが毛らは 御筆はやし わが皮は 御箱の皮に わが肉(しし)は 御鱠(なます)はやし わが肝も 御鱠(なます)はやし わが肱(みげ。胃袋)は ひ塩(塩辛)はやし・・・

 肉や内臓がなます(生食)や塩辛の材料とされ爪や毛、皮まですべて利用されている。このほか、鹿の毛皮は敷き皮や衣服としても利用されたことは疑いない。当時も多数生息した鹿は、もっとも利用された動物の代表であった。日本狼は絶滅し、鹿は残った。日本民族共存共栄の証しである。

611年(推古天皇)高位の大徳と小徳は黄金の飾り、次の大仁小仁は、毛皮の「豹の尾」を着けるとある。日本書紀

646年大化の改新の詔で駅伝制度始まる。駅に多数の馬が飼われた。

658年~660年阿倍比羅夫の出羽(山形・秋田)津軽(青森)渡嶋(北海道)の「征夷」。生羆(ひぐま)二つ、羆の皮七十枚を朝廷に献上。

688年(持統天皇)新羅からの献上品。馬一疋、騾(ラバ)一頭、犬二頭、薬物類、虎や豹の毛皮合わせて百余品。日本書紀

701年(文武天皇6)日本最初の法典大宝律令の「牧厩令」で「官の馬牛、死するものあるときは、各々皮、脳、角、膽(たん。肝臓)、を収めよ」とある。当時朝廷は騎乗用の馬を大和や河内の馬飼部が飼育し、各地に駅伝や軍団用として飼い、官田耕作や、乳や蘇(ヨーグルト)を得るために、牛も飼っていた。この牛馬が斃死の際は、捨てずに採取とのおふれである。皮はなめし革、脳はなめし材料、角は弓矢の部品、膽(たん。肝臓)は薬用。注・朝鮮のような牛馬畜殺(屠殺)ではなく、斃死(自然死)。

718~757年「養老律令・職員令別記」当時造兵司には、甲(よろい)作戸、靫(ゆき)作戸、鞆(とも)張戸、楯(たて)縫戸。漆部司には、泥障戸(あおりこ)、革張戸などが所属し、毎年10月から3月の間(農閑期)、各々の製品生産に一丁(成年男子)が従事した。

728年(聖武天皇)「高句麗の子孫が、韓半島北部白頭山地帯(高品質の毛皮獣産地)の狩猟民靺鞨(まっかつ。いずれも革偏)人を支配し、建国した渤海(ぼっかい)使節団、国書と貂(しょう。テン)皮三百枚天皇に奉った」。日本からは絹・絹糸・綿・綿織物・黄金・水銀・金漆(こしあぶら。塗料および矢じり固着用硬化接着剤)・ツバキ油・真珠などが贈られた。始めは対新羅の軍事同盟目的だったが、交易目的に変化、以後200年間37回にわたり来航は続き、貂のほか、虎・豹・羆・蜂蜜・朝鮮人参などがもたらされた。続日本書紀。日本から贈られたものは韓半島になかったため、入手のための来航といえる。

780年(光仁天皇勅)続日本紀

「今後は丈夫で軽便な革製の甲冑を造って国に納めよ。しかし、以前に造った鉄製の甲冑も捨てずに修理して使うように」武具や馬具製造のための革の需要は増大した。

790年(桓武天皇勅)続日本紀

「駿河以東、信濃以東の国々に、国ごとに数を定め、三ヶ年以内に造るよう命じた」蝦夷討伐に備えて革の甲(よろい)二千領造らせた。

927年「延喜式」皮革産地は鹿皮35カ国、牛皮14カ国。

905~927年「延喜式(巻49兵庫寮)」甲冑一具に2~3頭分の牛革が必要。馬革鹿革は革紐用。甲冑一具製作日数。長工(熟練工)192日、中工220日、短工265日。

古代日本穢れの思想と仏教

 生命体は「1食・2衣・3住」の生きるが第一義、食料生産民が主で正業、以外は「穀潰し」、従の序列となる。現代とは真逆である「生れた以上死にたくない」死の忌避は、生命体の業で、結果、最下層が芸能や生きると真反対の死に関する業となる。造化の神の造化物狩猟採取「獲る」、の受動から、農耕「育てる」、の能動へ、自らが造化の神となる心の変化が、意識の大変革となり、精神と技術が研磨され、現代人の原点となった。しかし現代の資源無き日本燃料は未だに受動で採取のまま、そして穀潰しは隆盛の極みで、生きるが第一義の食料生産民が「汚れ多」である。

律令制 良民と賎民に分け、賎民を、五賎に分けた。陵戸・官戸・家人(武士の時代は御家人、家来)は家族生活を許され売買されず、公奴婢・私奴婢は売買され、家畜と同じ扱いの規定。総数は全人口の1割。650年頃からで、750年頃が最盛期。律令制国家の崩壊で拡散、10世紀には良・賎の区別消滅。

538年殺傷禁止の仏教伝来。

675年(天武天皇4年の詔)野獣・家畜・家禽・猿の肉を食するを禁止。日本書紀。

676年(天武天皇放生の詔)捕らえた鳥獣や魚を解き放つ詔。後にもたびたび発せられている。以後朝廷や貴族の獣肉食は穢れとなり、口にした場合は忌みの期間を設け、穢れを落とした。肉食の拒絶反応は、貴族や仏教界等の現実界の実業無き階層に先に広まった。家畜、特に犬や牛馬は苦楽生活を共にした友で、その死は人と同じで涙したことは想像できる。自給自足の農家育ち、同じ原体験有りの真実史観も同感である。死と肉食を穢れと拒否する水稲民以後の信仰が根底にあるので、日本人の特性として深く根付いた。古代日本水稲民以後の土俗信仰は死を穢れとして忌み、穢れが我が身に及ぶことを恐れ、死体に接したり見たりすることを避ける風習となった。

 土俗信仰は死を穢れとして忌避したが、立ち会う人がいて埋葬した。牛馬の斃死にも同様の人がおり「現代の(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)畜解体業者」)、引き取り多方面に加工した。地方は水葬や埋葬。しかし前記のような社会情勢、「穢(けが)れが多い→ゑた」と見られ特定の人に限定された。水稲民以前狩猟時代の獲物や家畜の処理は、家族単位で加工し、家族内で用い、禍福をあざなった。やがて共同作業の水稲が主体となるにつれ、肉から穀物へ変化、そして犬や牛馬との苦楽共同生活が、家畜の家族化となり、人間の死と犬や牛馬の死が同等なり、肉食や(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)畜を穢れとする信仰が生まれ、始めは処理したが後に、斃死の家畜をマタギの先祖山の民に依頼した。分業化が進み、仕事が細分化、禍福業が生まれ、最福業が実業無体験の人、最禍業が当時の穢業となった。

 始めは狩猟民儀式の下の清め。水稲駅伝等、牛馬作業時代となり、動物斃死や清掃等の始末処理仕事の浄め。殺傷禁止の仏教以後れ」。武具需要増で屠者となり、」か。

清めの兼業から専業の「」へ、仏教が差別社会の元凶となった。

 皮剥ぎ・解体・なめしは、多量の流水を必要とするため、始めは河原が作業場の「清め」仕事であった。鷹狩の鷹の餌獲りと並行し、三世紀後半の革工来朝、493年高句麗より製革染革の工匠来朝の技術革新で需要拡大し「部」となり定職化、周辺に住み技術は世襲された。がしかし、後の武具馬具の需要拡大(本音・現実・清め)と仏教(建前・理想・穢れ)のはざまで賎業者を救済し、葛藤しながらの、皮革産業日本の幕開けとなった。清めと穢れ拮抗の時代を経て前記905年のように、濫僧屠者「ろうそう・としゃ。非人、落伍者・(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)児、動物解体者」と朝廷では定まったようだ。

琵琶法師 琵琶を弾き語り、語るを業とした、盲目僧形の芸人。平安時代が初出で、平家物語などを弾き語った。江戸時代に傀儡芸人と結びつき、人形浄瑠璃、文楽に発展した。

1185年鎌倉時代となり、これまでの身分制度は完全に崩壊した。がしかし、衰微したが、身分制度の公家は残った(現代差別の坩堝関西、特に京都の原点)。落伍者の入れ替えはあったろうが、屠者も残った。平安末期の天下の分け目の源平合戦、独占業なので実入りも多く隆盛となった。動乱で律令国家崩壊、官の革加工は民へ移行し、以後民間産業と成った。

 律令国家を破壊した武士の始祖は、律令制の良民以外の賎民であることは間違いのない事実だ(下克上)。陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢の五賎が始祖である。律令制では売買され、家畜と同じ扱いだった公奴婢・私奴婢も、始祖なのである。京都(公家)以外の良民は、皆賎民と化したであろうことは、否めない。代々の世襲で浮世離れし、生命力の衰えた良民の行き着く先は、落伍者以外あっただろうか(落人伝説)?白拍子は平安末から鎌倉にかけての歌舞である、無関係とは言えないだろう。平清盛が愛した祇王・祇女(ぎおう・ぎにょの姉妹。後に嵯峨でともに尼となる)も、源義経の愛妾静(しずか)も白拍子であった。以後の河原者の遊芸・造園等は、その末裔ではないのか。当時の日本の縮図、転落者賎民の坩堝で安らぎ所ゑたは、現代スポーツの故障者リストの場といえる。虚業数多の転落者救済の主力が、実業の物づくり、賎業とされた皮革業であったことは間違いない。

河原者

 律令国家が解体し、官の皮革従事者は荘園などに所属したが、一部は失業し、免税の河原に定住したため、河原者と呼ばれた。斃死牛馬処理や葬送や寺社など「聖なる場」の清掃墓守、刑吏役、ライ者の管理など清めの仕事に深くかかわった。細工(皮革・竹)・造園(御庭者)などにも従事し、善阿弥(銀閣寺作庭師)のような造園の名手も出た。遊芸の者も多く、江戸時代には役者の賎称。兼業か専業かは現時点では定かではない。

餌取と(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)(穢れ多)の文献初出

白丁(はくちょう・はくてい)

 律令制で公の資格を持たない、無位無官の一般男子。「白張」とも書く。傘持・沓持・口取などの役をする白張装束を着た仕丁(しちょう・律令制で、親王家大臣家寺社等の雑用に従事した者)。神事や神葬などに物を運ぶ人の呼称。(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)多や朝鮮のペクチョンとは異なる。

905~927年「延喜式(神祇三臨時祭)」鴨御祖社(下鴨神社)の南辺は、四至(境内)の外に在りと雖も、濫僧屠者(「ろうそう・としゃ。非人、落伍者・(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)児」等は居住するを得ざれ。注・「屠(と)。殺してばらばらにし、肉をとること。日本在来語は、ほふる。屠は、仏教伝来以後か?」初出は、武具需要増加で皮不足となり屠殺。清めの始末業兼業から、専業の屠者()に変化。

931~938年「和名類聚(じゅ・じゅう)集」日本最初の分類体漢和辞書

(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)児。和名、恵止利(えとり) 「牛馬を屠り肉を取り、たかヒナのえさとするの義なり。殺生及牛馬を屠り、肉を取り、売者也」

1120~1156年「今昔物語」15

北山餌取法師往生語第27

「奇異(あさまし)く餌取の家に来にけるかな・・・餌取の取残したる馬牛の肉を取り持ち来て・・・食に依りては往生の妨げと不成ず。只念仏に依りて極楽には参る也けり」

鎮西餌取法師往生語第28

「奇異(あさまし)き所に来にけるかな、我は餌取りの家に来にけり」注・餌取忌避、肉食は往生の妨げか。

1240年「今物語り」説話集。「美しげなる女房のきよめが家の有りけるに」注・キヨメ(清め・浄め)不浄なものの清掃に従事する人、業。美しく変化させること、美化。

1275年鎌倉末期「名語記」国語辞書。

え多 「河原の辺に住して、牛馬を食する人をゑたとなつく如何」「ゑたは餌取なり。ゑとりをゑたといえる也」

1264~1288年鎌倉末期「塵袋」百科事典

「きよめをゑたと云ふは何なる詞ばぞ。注・え多、以前はキヨメ(清め・浄め)。 41餌取

根本は餌取と云ふべきか、餌と云ふはししむら(肉)、鷹等の餌を云うなるべし。其をとる物と云ふ也。ゑとりをはやくいひて、いひゆがめて、ゑたと云えり。たととは通音也、えとをゑたと云ふなり。えとりを略せる也。子細しらぬものはらうそう(濫僧)とも云ふ。乞食等の沙門の形なれども、其の行儀、僧にもあらぬを濫僧と名けて、施行ひかるるをば濫僧供(施しをする)と云ふ。其れを非人・かたひ(乞食)・ゑたなど、人まじろいもせぬ(交流をしない)、おなじさまのものなれば、まぎらかして(まぜこぜにして)非人の名をゑたにつけたる也。らむそうと云ふべきをらうそうと云ふ、弥(いよいよ)しどけなし。天竺に栴陀羅(せんだら)と云ふは(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)者也。いき物を殺てう(売)る、ゑた体の悪人也」

 旃陀羅(せんだら)はインドの最下級身分、狩猟・屠殺などを業とした。チャンダーラ。仏教は旃陀羅を差別した。1133~1212年法然「南無阿弥陀仏」。1173~1262年親鸞「悪人正機説」。日蓮(1222~1282)佐渡御書(御勘気抄1273年)に「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ、旃陀羅が家より出たり。心こそ、少し法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり」とあり、法然親鸞日蓮は差別を超えようとしたが、いずれも流罪。この一時期旃陀羅は、狩猟(獣、鳥、魚)業の呼称として使われた。旃陀羅から、屠者の字句が使われ始め、穢れ多か?注・不可触民(チャンダーラ)、インドの最下級身分。ガンディーは身分制度撤廃を目指し、ハリジャン(神の子)と名づけた。

1296年鎌倉時代「天狗草子」絵巻。
 「(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)多」の表記。鳥肉商いと、河原で天日干しの皮の図。Ⅲにつづく⇒

真実史観Ⅲ子孫世襲と錯覚穢れ多元凶公家差別鵜呑みヒトラー猿真似京都大阪腐民

1444年室町時代「下学集」漢和辞書。

 多 (この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)児也・河原者 

 「穢(けが)れが多い→多」当て字が正答であろう。差別化は分業がすすんだ都市部が激しく、自給自足の田舎は皆無に等しい。田舎の斃死牛馬は埋めたり水葬にした。

仏教で多・戦国でカワタ・平和で清めへ戻った

1333~1384年観阿弥・能・観世流の流祖。

1363~1443年世阿弥・観阿弥の長男・能役者能作者。

1489年山水河原者、善阿弥、銀閣寺などの庭を作庭した。

1423~1502年村田珠光、茶道の始祖。南都の杢市検校の子とされ、11歳の時奈良称名寺にあずけられ出家するが、後に還俗し諸国放浪(体制から落伍しての、放浪)。一休に学び、茶禅一味の境地に達し、侘茶を創始した。

1392~1481年一休、名は宗純、号は狂雲子、後小松天皇の子とされる。生涯定住することまれで、各地を巡って貴賎士庶の別なく布教。晩年の1474年京都大徳寺住持となり、応仁の乱で荒廃した同寺の再興に尽くした。著書「狂雲集」。

1526年駿河の国の大名今川氏親が城下の府中にカワタ部落をつくり、毎年の皮づくりを命じた。

1538年相模の国の北条氏が伊豆地方のカワタを集め毎年の皮づくりを命じ、移住を禁じた。

 武具馬具は戦争の必需品、戦国大名は多くの特権を与え、カワタを集めた。

1550年(室町末)頃、それまで他の賎業と一緒にされ、河原者、多と呼ばれた集団は、急に賎業から選別され、カワタ「皮 田皮 多革 多(連続は、言葉狩りで使えない)・川田」と呼ばれるようになり、集まって生業を営んだ。集落名をカワタ村カワタ部落と呼んだ。部落形成は差別のためではなく、戦国大名の移住禁止や効率促進のためで、戦国時代で革産業が隆盛を極めた証し。兼業の賎業から独立した専業カワタ産業時代、江戸時代始めまで続いた。手部→皮手→カワタか?

1590年家康江戸城入場後、頼朝以来の賎業民(丐徒・かいと)28座を取り締まる(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)多の頭領と口上の、だん(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)左衛門と出会い、多頭「ちょう(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)吏頭」)に任命した。28座とは、カワタ、舞舞(幸若舞などの芸人)、猿楽、座頭(琵琶法師)、陰陽師、壁塗、石工、土器師、鋳物師、弦差(弓の弦張り職人)、猿引(猿回し)、傀儡師(操り人形師)、旅役者興行権、ちょう吏など。ちょう吏とは、清掃や死穢の片付け、逮捕処刑等刑政上の末端的役割を担った者で、当時全国には数多のちょう吏集団が在り、ちょう吏頭は、名前を代々襲名していた。だん左衛門一家もその一つ。新興の技能集団と芸能集団とカワタが賎業民の中身である。江戸時代の「河原者」は歌舞伎役者の賎称。芸能集団の興行権も多頭(ちょう吏頭)が有したので、始めは歌舞伎の興行元でもあった。この時代までは「工」も多。

1603年歌舞伎芝居の始祖出雲の阿国、お国歌舞伎(流行り歌や念仏踊りをまじえた演劇)を京都で興行。かぶき者(体制から外れた異端者)の風俗を取り入れた演劇。出雲大社の巫女と称したが、出自は不明。没年は1613年以後。

1603年(江戸時代)徳川家康「士・平民(農工商)・賎民(えた・ひにん)」と身分を固定した。従来の死牛馬処理及び皮革製造はそのままで、新たに、犯人逮捕・牢屋番・処刑役・警備人足役などに従事させた。関八州を含む12カ国7千余戸(9千8百余戸とも)の多・ひにんの総頭として君臨した。

 最下層「ひにん」は、出生のほか、刑罰や心中未遂や生活困窮転落者で、都市での遊芸物貰いなどの浮浪者。清掃・罪人引き回し・死骸の取り片付けが仕事。もとの身分に戻る「足洗い」の制度もあった。抱えひにんと無宿の野ひにんとがあり、江戸や関東周辺12カ国の抱えひにんは、各地のひにん頭を通じてだん左衛門が統括した。江戸時代は、士農工商ひにん以外はか?

1645年だん左衛門は、山谷堀が墨田川に合流する1万4千坪の「囲内」に移り、皮革製造、太鼓の皮張り、雪駄や灯心づくり等の生業も営み、下駄屋、草履屋、鼻緒屋、馬具屋、三味線屋、筆屋等に製品を卸した。皮なめしは夏で2ヶ月、冬で3ヶ月を要したという、墨田川を作業場に、ここに代々世襲で住んだ。

 カワタから多に戻らされた理由は、武具馬具は戦争の必需品なので、表の士農工商・親藩譜代外様から外れた枠無き裏組織で、幕府が裏でも全国を支配しようとしたからだろう。だん左衛門は結果世襲し、15代265年間続いた。

1656年出島のオランダ商館、鹿皮の輸入最高記録19万5574枚。平和な時代に武具作りはすたれたが、皮の袴や羽織(明暦の大火で耐火・耐水性が証明され普及)、鼻緒、足袋等の民需に移行した。足袋の語源は「単皮。たんぴ」で元々は革製、鎌倉武士が始まり。

1690年人倫訓蒙図彙

「滑皮師と皮細工師」絵図。民間産業と成った証し。

1711年唐人屋敷中国商人からの唐革(からかわ)輸入記録。総数8万5821のうち、鹿皮6万7607枚。

1714年大阪への皮革入荷2万1503枚、和毛皮4806枚。輸入皮革は主に長崎と大阪で加工されたようで、大阪の渡辺村には輸入革専門の革問屋も出来ていた。ここから地元播磨神戸京都などの加工業者に送られた。

1789~1801年だん左衛門書上 支配数、多5664軒・ひにん1995小屋・猿飼61軒。支配下の者への徴税権を持ち、皮革及び灯心等の独占製造販売の特権を与えられ、莫大な収入を得た。特権の代償として、太鼓類・皮革類・灯心等や刑政上の末端的役割を、無償で提供した。

1800年の資料。「囲内」には、多232軒・猿飼15軒のほか、太物屋(綿麻織物屋)・質屋・湯屋・髪結いまで軒を並べ、ミニ江戸を形成していた。だん左衛門屋敷は2千6百坪で板塀をめぐらし、表門には6尺棒を手に手下が警備した。邸内には金方役所(貸し金業)・7棟の土蔵(弾家の財宝)・11棟の物置(皮革品貯蔵)・多・ひにんを裁く白洲・3棟の牢屋まであった。上役・下役・小者・非役220人ほどが、毎日屋敷で勤務した。これだけのことを許可した徳川、裏幕府さながらで、代々の世襲は裏大名裏親藩である。単なるゑた頭と見ては間違い。朝鮮のような差別し排除ではなく、落伍者を賎業者が救済、幕府の「油を以って油煙を落とす」政策である。この排他無き統治が、比類なき百花繚乱芸、落語・漫才・講談・浪曲・音曲・雑芸(曲芸・軽業・奇術・傀儡)を育む土壌を生んだと言っても、過言ではないだろう。救済目的の差別で、無知の民族浄化、李朝獣・家畜差別とは、根源が異なる。李朝には、江戸匹敵の諸芸無し!

1857年渋染め一揆。「着物は無地渋染め藍染に限る、絹類は一切不可。雨天時の下駄履きは認めるが、百姓に出会ったら、下駄を脱ぎお辞儀せよ、雨天以外は禁。年貢滞納無き家の女子は、竹の柄の白張り傘使用は認める」(以前は、そうではなかった。明らかに李氏朝鮮と異なる)岡山藩のカワタ差別のこのお触書に、53ヶ村のカワタ者が抗議し強訴、撤廃させた。首謀者5人は獄死。カワタ者は百姓が放棄した土地で耕作し、年貢を収めていた。百姓同様にしているのに、差別は不服が、抗議の主旨であった。一揆には、見事な連帯と統率と堅固な意志が有り、お触書作成者があずかり知らぬ約束違反への、抗議ともとれる。藩主、非を認めての撤廃ではないのか。

 大名不可欠武具製造カワタも、平和の御世となり変化した。江戸末期のカワタは諸藩で異なる。分業の都は、仏教隆盛地最悪忌避地となったが、絶対不可欠職、最悪忌避地ほど独占業の度合いは増大、旨み度も増し部落化、閉鎖された特別部落となった。この違いが、現代の差別有無である。旨みも無く差別のみでの存続不可は道理、最悪忌避地ほど旨みはあった。無人島に堕ちた者はしがらみを捨て、1食2衣3住に徹した。いわば故障者リストの場であった。

 だん左衛門のような長は、技術伝承目的で世襲されたであろうが、部下の職人の世襲は皆無で、絶えずの入れ替わりであったと推察できる。260年経ても部落、が証し。差別業を父子相伝する親など皆無は道理で、癒された者は皆回帰し、これを閉鎖性が助力した。差別無き木地屋集団世襲とは異なる。

 後の賎民廃止令は、旨みや閉鎖性の一切を破壊、忌避のみを白日の下に晒し、忌避民、忌避部落民として職業から人へ差別を変貌させ、固定した。回帰の場を破壊した、新たな人差別令といえる。折悪しく居合わせた者と子孫は、悲劇となった。

1866年だん左衛門第二次長州征伐に、500人を人足として従軍させ、幕府に協力。

1867年大政奉還

1868年だん左衛門直属の手下65名と共に、「平民」に身分が引き上げられ、町奉行与力格に任ぜられ、名を弾内記と改めた。江戸城開城2ヶ月前のことである。新政府から、役目はこれまでどおりでよいと通達された。

1868年5月3日江戸城無血開城。身分制度崩壊。

1870年7月弾内記は陸海軍の皮革製造局を提案。兵部省これを受け、王子滝野川に「製革製靴伝習所及び御用製造所」開設。12月弾内記は名を、直樹に改めている。他和歌山に「西洋沓伝習所」、築地に製靴工場を兵部省は設置、外国人の指導のもとに伝習させた。

1871年(明治4年)3月「斃牛馬勝手処置令」飼い主が勝手に処理してよいという法令で、牛馬獣類入手が無料ではなく有料と成った。皮革業には大打撃となった。

※犬も食う肉食伝統文化朝鮮白丁の、殺業と混同し、殺業と記載の、無知の書籍氾濫だが、日本の「肉(牛豚)食明治時代から」なので、殺業ではない。「斃(自然死)牛馬処理皮革加工業」が正しい。

文明開化の肉食で、徳川時代のが、仏教の穢れ多に逆行、民差別民浄化に変貌。

1871年(明治4年)8月解放令(賎民廃止令)多・ひにんなどの称を廃し、身分職業とも、平民同様であると発した令。法令上解放されたものは40~50万人。喜びではあったが、えた・ひにんの独占業も希望する全ての人に解放されたため、差別(禍)のみではなく、独占業(福)という温室も排除されたのである、当然生活は皆困窮した。以後差別は陰に籠もり、新平民などと婚姻職業等、いわれのない差別が、関西地区特に京都で増した。勝った公家が権力を倍加し、結果、差別も倍加したのだ。

1872年(明治5年)3月兵部省から向こう10年の軍靴製造委託を受けた弾直樹は、皮革収集にいそしんだが、翌年5月、契約解除を通告され危機に瀕し、2年後、三井家の援助で三井家の手代北岡文平が加わって事業が再開された。

1889年(明治22年)7月9日270年の世襲職、だん左衛門の幕は閉じられた。弾直樹死去、69歳。事業は息子の良裕らが継いだ。政府は賞状と銀杯を下賜、功に報いた。

1895年(明治28年)日清戦争 差別は日清戦争後から次第に社会問題化されたが、主眼は生活改善におかれた。融和教育。

1899年(明治33年)弾の共同経営者北岡文平が老齢で引退、これを機に会社組織に改め、「東京製皮合資会社」として再出発した。

1922年水平社運動 差別撤廃運動。西光万吉・奈良県出身、父は浄土真宗本願寺派西光寺の住職。部落差別のため僧侶画家への道を阻まれた。「水平社宣言」を起草。

 平民の旧多は、独占業崩壊で専門職以外は失職、転職は差別で阻まれ、見た目には異種と見間違うほどの困窮者部落と化したであろうことは、識字教育が物語り、想像に難くない。「衣食足りて栄辱を知る」、その衣食を奪った元凶は、倒幕勝者公家の「穢れ多」差別を鵜呑みし、ナチス民族浄化を猿真似した京都腐民。京都の公家は武士の台頭にも残り存続、そして今度は倒幕の勝者である。江戸は倒幕され、敗者なので身分制度は崩壊したが、京都の律令以来の伝統差別は、倍加され今度も公家と庶民に残り、新平民呼ばわりで関西に広めた。関西のみに残る極差別が、証拠である。水平社運動の根底には、破壊されず延々と残ったこのすさまじい形骸差別があり、根深いものとなった。そして京都発のこの形骸差別はあろうことか、以後、ヒトラーの浄化差別へと変貌していく。

1945年終戦 大東亜戦争にも、伝統差別の京都は空襲にも遭わずこんども残った。関西の穢多は敗戦と差別で困窮の極みとなり就学不可、識字さえ儘ならなくなり差別はどんどん比例し、奈落へ突き落とされた。身分調査“一見さんお断り”はその証しである。在日が、「血が汚れる」と済州島出自を侮蔑するのと同類、関西の“婚姻出自調査”は執拗で異常。律令以後破壊されず残った京都発の猿真似差別、サントリーの東北差別発言等関西は根深い。

 こんな差別は関東等、他の多には無く、関西のみである。とかく伝統を冠する城下町ほど、よそ者差別はつきものだが、東北出自の真実史観も関西で始めて目の当たりにし、当時の見下す目には驚いた。この事は、京都発の浄化差別猿真似が、すべての原因を、明晰に証明している。関西は、浄化差別で生きる権利を奪った。生殺与奪の権を行使した朝鮮両班やヒトラーと、同じといえる。下克上無く唯一遅れた遺物文化の関西は、ヒトラーの猿真似、京都発浄化差別払拭教育が必須。このままでは、取り残された日本唯一の、「穢多」となり、逆に差別される。

1955年部落解放同盟と改称

1960年全日本同和会と改称 同和教育(戦前は融和教育)。差別のため、職につけずの貧困で、子供を学校に行かせられず、教育がなおざりにされてきた被差別部落救済目的の、識字教育運動。

1976年全国部落解放運動連合会と改称

差別業父子相伝皆無は常識。子孫無茶苦茶差別に世襲錯覚、由来書偽造喧伝、さらに拡大。

1912~1981年森田嘉徳。古代の神話伝説に接合し、現在の起源を説く一連の、「河原者由来書」提唱者の元祖と思われる人。「河原巻物」と言う用語を提唱して、定着させた。「河原巻物」は、各地の被差別部落に伝わる由来書、「三国ちょう吏由来記」・「蛭子末流由来記」・「皮 田由来書」などの総称。いずれも木地屋集団の伝説を手本とした、近世紀の成立と考えられる偽文書。マイペディア百科事典。

 木地屋集団(ろくろ師)は、塗装しない木地のままの器類を作るのが生業の職人。良材を求め全国を旅し、山間に定着した。近江の国君ケ畑を本貫地とし、惟喬(これたか)親王を祖神とする伝説を持つ集団。

 賎民ゆえに争乱が、脱出最大のチャンス、争乱の度に人員入れ替え有るは、道理。結果、職業(独占業)だけが逆転待機の場として継承された。関西限定差別は、折悪しく再起待機の場に居た人が狙われ、犠牲になった。賎民廃止令以後、京都腐民の公家真似差別で、なんと字も読めぬほどに隔絶され、完全失職、貧困の極みで異容(元凶は腐民)となった。これを見た腐民が輪をかけ喧伝、子孫払拭目的の由来喧伝がさらに差別拡大を煽り、関西は又聞きと偽造の坩堝と化し、ペクチョン排他差別と同類化した。盛者必衰禍福あざなえり、禍のみ世襲、福のみ世襲など、史上皆無は常識、基を辿れば皆賎民。人は堕ちるが世の習い、堕ちた時代が運悪く身分固定の時代、運が無かっただけで、人は人で皆同じ。たかだか100年前が始まりの、関西限定差別の顛末である。再発防止のために、腐民の証しとしての差別語は、子孫に残すべきものである。

 日本は、良民賎民あざないの下克上流転の歴史だが、唯一京都だけは、あざなわず破壊されず、主客転倒無く2000年間も、律令の都である、差別はそう簡単には消えないだろう。差別業を、好んで世襲させる親など居無い。御先祖愚弄由来書と同類の、連合会なんぞ解散し、関西脱出が策。堕ち、そして歴史に名を刻んだ先人、1900年を範とし、歴史とするのが賢者の策。禍を、子供に残す親などいない。

 遊牧民は極地故に肉食が糧であった、水稲民は暖地ゆえに肉食から早くに脱却しぬくぬくと暮らせた。寒暖ただそれだけの違いである。ペクチョンも「穢れ多」も肉食の欧米ではただの人、水稲民数多の中の、少数ゆえの差別といえる。動物か植物かの違いで、命を食っていることは同じ。生きている者すべてが、児である。

 歴史の転換は勝者と敗者の入れ替わり、下克上であざなってきた。良民(勝者)賎民(敗者)と各時代は政策上区別したが、李朝では害獣差別業。日本では、転落を賎業が救済、現代スポーツの、故障者リストの場でもあった。職業に貴賎は無い世となった現代、恩恵にあずかる食肉業や皮革業を賎民とはだれも呼ばないだろう。古代も現代も民は民、同じである。伝統は悪しき弊害を継続することではない、弱者少数民族を差別し続けた欧米は、ヒトラーで断ち切った。日本の穢れ多は、難民救済職でもあった。日本は京都の公家以外、下克上の歴史である、関西差別は李朝獣・家畜差別と同類、愚行以外の何ものでもない。

 ルーツが同じ海洋民日本と朝鮮、隔たりの差は、海洋民から乖離し水稲民のみで属国化した朝鮮と、海洋民水稲民山の民が共存継続し、八百万の神を崇め団結、天道を死守した日本との差。白村江の戦い以後が乖離の始まり。日本では1100年前に消滅の律令制を、李氏朝鮮は100年前まで続け、人間を家畜とみなし売買し、伝統芸も文化も破壊した。朝鮮に巨樹無く、日本には数多の巨樹在り。日本とは真反対の、悪しき鏡である。
 朝鮮は、自立自存の高麗伝統文化を破壊し中国に事大、日本統治時代も破壊し捏造。李朝獣・家畜差別を隠蔽し、四三民族浄化虐殺も、10月人民抗争・朝鮮戦争・保導連盟事件・居昌事件・国民防衛軍事件・光州事件等の同胞差別殺しも、みな共産殺しと捏造した。伝統文化を破壊し歴史を捏造するのが朝鮮である!
 全部破壊の結果、歴史破壊の空白を埋める小道具、なんでも起源を捏造、嘘の上塗り国家と成った。中国は凶産カルト教差別で同胞殺し、朝鮮は李朝差別で同胞殺し、差別同胞殺しを犯日で隠蔽した国家である。捏造朝鮮史の顛末である。

 生命体は「1食・2衣・3住」の「生きる」が第一義、食料生産民が主で、正業以外は「穀潰し」、従の序列となる。現代とは真逆である。資源無き日本の現代、燃料未だに採取のまま、そしてなんと仮想現実界穀潰しは、隆盛の極みで、生きるが第一義の食料生産民が、「汚れ多」である。

仮想界公に働けば傍目八目の世界、無知蒙昧を啓発し教え導く啓蒙が第一義。ナチス差別蔓延の元凶はNHKや仏教等の仮想界。

 年号等、おもての結果のみ丸暗記してオウム返しの文系教授等識者、持ち上げ煽る出版社やマスコミ、拝金主義仮想界には、清濁併せ呑む検証が全くの皆無。戦後、NHK新聞出版社教授教師作家等の仮想現実界職責者は無検証で、職責も果たさず、いわれ無き差別を助長した。その時代の字句や言葉はその時代を語る証し、差別的字句と差別し、検証もせず封殺したのも仮想界である。狭義と広義、歴史を善悪史観などの狭義でみると見誤り差別が産まれる。司馬史観などと仮想界こぞって煽り、特にNHKは小説を歴史と捏造し金儲け、国民を愚民にした。司馬の小説は狭義の善悪史観、勧善懲悪新釈諸国話の類、歴史に非ず。A(朝日・悪事(NHK・ネットT(TBS・中朝)の日本軍は、全て極悪。善悪判決はANTの仕事ではない韓流騒ぎも、この中朝ANTのみ。

 田舎の正月のご馳走である家禽の鶏でさえ、解体調理した父は、旨いとは思わないといつもつぶやいていた。解体調理の過程を知らない子供心には、こんな旨いものは無かった。実業と虚業の差である。

 仮想現実界良民保証、現実界保証無し、賎民も有りうる。実業無き文系教授識者等の仮想界は、下克上が無かった京都公家社会だ。下克上無き公家の真似、関西差別「穢れ多」と、検証無きオウム返しの先人冒涜は同じである。仮想現実界学究の志士は、おしなべて、形骸の空七光りは捨て、諸芸の始祖の如くに皆堕ち、禍福併せ呑むのが道。呑めば、法然親鸞日蓮も、芭蕉も、牧水も、山頭火も、東條英機も、傍目八目もみな、しみいる。臭い物には蓋ではなく、蓋を開け、「なぜ、どうして」と禍福をあざなう事が学究であろう。

2012/10/19橋下VS朝日の「DNAとして受け継がれて危険」は執筆者佐野眞一の捏造である。人口増加無しは、始終出入りの証拠で、「解体皮革加工技術」は受け継がれたが、代々居残り、子孫を増やした者は居ないは、世襲(DNAの継続)なしを明白に物語っている。もちろん、殺(肉食目的で殺す)業ではない。

 全て正真正銘の日本人である。災害や事業失敗や失職等の生生流転が人生。何らかの理由(火事や災害等で文無し又は身体障害等)で、当時も現代同様に、浮世から外れた人々が当然居た。忌避職業を選択した人々は、浮世のしがらみを捨てることを代償に、生きる為の殺人強盗詐欺師等の罪人になることは拒否した、清廉な人々である!だから、津軽三味線や能、歌舞伎等の禍福昇華芸能、唯心の極みが産まれた。

 集まった場所が、「同和や被差別部落」という仮の宿(今風表現なら故障者待機所)だったにすぎない。子供に差別職を継がせる馬鹿親など、いない!常識で考えれば子供でも解ることだ。止むに止まれぬ事情となったが、犯罪者の道には進まず、生きるために、浮世人が蔑む職に就いたに過ぎない!差別教育がそもそもの間違い、転落の可能性は誰にでも等しく有る。

 一方では人権(慰安婦)、一方では差別(部落)。歴史無知の朝日の輩が繰り返す蛮行!職責(学究)を果たしての言論の自由で、捏造の自由など無い!製造日誤植でも断罪存亡の危機が現実界!「おわび」ごときで決して許してはならない、また繰り返す。現実界同様の断罪が妥当。言葉と文字界職責者の、この無責任が、日本を貶め、苦しめているのだ

生き者の実像、無人島では皆が屠者。無人島穢れ多島日本清め島原点回帰島。

 落伍し堕ちた河原者永遠回帰(永劫回帰)から、一期一会・伝統芸・歌舞伎・造園・茶道・人形浄瑠璃・文楽・幸若舞・津軽三味線・能・わび・さび等が産まれた。転変に不動の、人の矜持をもった民族を物語っている。良民(枠内)では物欲の七光りが眩しくて見えない、枠から外れ落伍、むくろと対話した者にしか見えない、現代仮想界皆無、命との火花の世界である。かたちは相伝されたが、おもいを知るは果たせない、一代限りの華火である。末期の目にしか現出しない。生命体共通の末期の響きが言葉や人種の壁を震わせ、直接琴線を奏でるのだ。日本文化が世界に伝播した起因である。錆びがみえないのはまだ堕ちていない証。堕ちて詫び入りさ錆びしみる。おちてわびいりさびしみる。真実史観

 最下層とされ差別されたが、最下層なので同時に独占業でもあった。故に、生存競争の落後民や難民等の最弱者お助け所でもあり、能、石庭、そして、わび・さびを産んだ。糧を得脱出、勇躍した者、糧を得たが力尽きた者もいたであろう。縮図、裏面史である。日本人、「生きる」への、なんとも巧妙な知恵か?はたまた万の神のご加護か?形容の言葉もない。

 恨みとパンのみに生きる、唯物凶産中朝韓罪日とは、根源的に異なる。真逆の極が、日本人唯心である!

 津軽三味線や能、歌舞伎等、今に残る数多の芸は、おしなべて苦界に落ち、苦界より生じた芸である。がしかしそこには、恨みつらみなど、微塵も無い!まさに禍福昇華、唯心の極みがあるのみである。ゆえに、時代を越えても、人種宗教言葉を超えて、共振するのだ。

 完

 

参考文献

「毛皮と人間の歴史」西村三郎著紀伊国屋書店 

 

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プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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