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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1八紘一宇世界同胞主義樋口季一郎安江仙江犬塚惟重杉原千畝とユダヤ人


1八紘一宇世界同胞主義樋口季一郎安江仙江犬塚惟重杉原千畝とユダヤ人
 大戦になると「迫害」されてきたのがユダヤ人の歴史で、世界平和が民族安泰の第一原則。「大戦防止の火消しには即行動(アメリカの軍事介入)」するが、「大戦の付け火(自殺)」は断じて、無い!ブログ散見の「ユダヤ金融資本が平和破壊」は、浅学無検証隠蔽目的扇動屋の、こじつけ集金道具に過ぎない!「気違いのゴミブログ」に騙されてのユダヤ人非難は、日本人に非ずの愚民である!ユダヤ人は団結している。団結は唯心(公)でないと出来得ない崇高な行動(シオニズム・ユダヤ人の祖国回復運動)!

 韓国や北朝鮮や罪日の犯日行動起因は、「仮想敵国日本として非難」で「自国民を懐柔」し、「李朝差別・同族殺し」を隠蔽しての洗脳「ニセ愛国団結」目的。これを知らない無検証偽愛国団か、ユダヤ人へ責任転嫁し責任逃れを図る朝鮮工作員が、無理にこじつけたのが「ユダヤ金融資本が平和破壊論」と言う、根も葉もないこじつけ論(無思索かスパイ自白)である。   

 朝鮮も罪日も、ユダヤ人や日本人のような、真の団結(唯心)であったなら、愚かな同族殺し(李朝差別、四・三・虐殺、保導連盟事件、朝鮮戦争等)など無く、当の昔に統一されていた。中国やその属国朝鮮は、唯物民族で異なる。

 真実史観と思索回路が有れば(正常なら)、こんなことは常識だ。「検証無き扇動ブログ」には、騙されるな

人種平等への旗手
 1919年、パリ講和会議。第一次世界大戦の惨禍を再び引き起こさぬよう、国際連盟創設の会議が進められていた。全米1200万の黒人は会議の成り行きを、固唾を飲んで見守っていた。黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。しかし、日本の提案は16カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソン(民主党)の「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。大東亜戦争は人種平等を勝ち取る戦いでもあった。

樋口季一郎少将、安江仙江大佐、犬塚惟重大佐、杉原千畝領事の行動は、「日本帝国の原則」「人種平等の原則」・「八紘一宇」の精神UniversalBrotherhood(世界同胞主義)、国策に基づいたものであった。

・・・我国は、八紘一宇を国是(こくぜ・国の方針)としておりユダヤ民族に対してもこれを例外とすべきではない。彼らは世界中に行先無く、保護を求めているのである。窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずという。況(いわ)んや彼らは人間ではないか。安江仙江大佐の講演。脱北者いじめの中国凶産党とは、対比が際立つ。

注・ 「八紘一宇」八紘(はっこう)は、八つの方角で全世界の意。宇(う)は家のこと。全世界を一軒の家のように睦まじくすること。日本書紀の「兼六合以開都、掩八絋而為宇』に基づく。田中智学(たなか ちがく)(1861~1939)は、日蓮宗系の在家仏教運動家。国柱会の創設者、戦前の日本国体思想に多大の影響を与えた思想家である。「八紘一宇」という言葉は、彼が日本書紀の「八紘為宇」という語句を使って造語したものである。中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)http://www.yorozubp.com/0511/051109.htm

日露戦争
 日本がロシアからの侵略から独立を守るべく日露戦争に立ち上がった時、ロシアのユダヤ人同胞を救おうと日本に協力したのがアメリカのユダヤ人指導者、銀行家のジェイコブ・シフで あった。日露戦争の総戦費19億円のうち、12億円がシフを通じて引き受けられた外債によるものだった。日本人はシフの助力に深く感謝し、ユダヤ人に感謝した。

日本「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定
 昭和8(1933)年1月、ヒトラーは首相に就任すると、4月1日にユダヤ人排斥運動声明を行い、ユダヤ人商店のボイコット、ユダヤ人の公職追放、教師・芸術家・音楽家の締め出し、ニュルンベルク法(1935)によるドイツ市民資格剥奪、と矢継ぎ早にユダヤ人排斥政策を打ち出した。急増するドイツ、オーストリアからのユダヤ人難民を救うために、米国のハル国務長官が1938(昭和13)年3月に国際委員会を組織する提案を行い、その第1回委員会がフランスで開かれた。しかし国際社会はユダヤ人に対して冷たかった。米国の議会は自国の政府提案を拒否。ベルギー、オランダ、アルゼンチン、ブラジル等は、移民受け入れの余地なしと回答。カナダは協力の意向あるも、収容能力に限度あり。イギリスは、農業移民ならギニア植民地に収容できるかもしれない、と事実上の拒否。

日本は大恐慌以来、英連邦、アメリカ、オランダなどの輸出市場から閉め出され、さらには中国での日貨排斥によって、経済的な苦境に立たされていた。国際社会での人種差別に苦しめられ、人種平等を唱えていた日本人にとって、ユダヤ人に対する迫害は、他人事ではなかったのだ。

昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人約2万人が、シベリアを列車で横断し、満洲国への入国を求めてきた。ハルピン特務機関長樋口季一郎少将はこれを許可。難民の大半は大連、上海を経由してアメリカに脱出、残り約4千人は開拓農民としてハルピン奥地に入植した。ドイツは同盟国として強硬な抗議をしてきたが、樋口少将は、ユダヤ人迫害は「人倫の道にそむくもの」としてはねつけた。

 昭和13(1938)年11月7日、ユダヤ系ポーランド少年がパリのドイツ大使館書記官を暗殺。報復として、ドイツ全土のユダヤ教会堂ほとんどと、7千5百のユダヤ商店が破壊され、2万6千人のユダヤ人が収容所に送られた。打ち壊されたガラスの破片で街路が埋め尽くされ、きらめいたので「水晶の夜」と呼ばれた。この事件を機に、ヒトラーはユダヤ人の大規模な国外追放を始めた。

 昭和13(1938)年12月6日、日本では5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定した。これはユダヤ人を「獨国(ドイツ)と同様極端に排斥するが如き態度に出づるは啻(ただ)に帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神に合致せざる」として、以下の3つの方針を定めた。

○現在日本、満洲、支那に居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。

○新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。

○ユダヤ人を日本、満洲、支那に積極的に招致はしないが、資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。(全否定ではなく招致も可)

5相会議決定の根回しをしたのが、陸軍の安江仙弘(やすえ のりひろ)大佐であった。安江大佐は陸軍内随一のユダヤ問題の専門家として、ユダヤ難民保護を訴えていた。後には満洲国政府顧問、および満鉄総裁室付嘱託として、満洲・支那在住のユダヤ人保護の活動を続けた。

 有色人種国家として、ただ一国近代化に成功、世界5大国の一角を占めるようになった日本は、人種差別と長年戦ってきた。虐げられし同胞、ユダヤ民族の苦境を、看過は出来なかった。

 昭和14(1939)年夏から、上海に赴任した海軍のユダヤ問題専門家犬塚惟重(これしげ)大佐は、日本海軍が警備する虹口地区において、世界でただ一カ所ビザなしでユダヤ難民を受け入れた。

 ここには、1万8千人の難民が押し寄せ、以前から居住していた住人と含めて、3万人のユダヤ人が自由な生活を送っていた。ドイツからは度々上海のユダヤ人を排除するよう働きかけがあったが、日本はそれを拒絶。

 昭和15(1940)年7月、ドイツ占領下のポーランドから脱出したユダヤ難民の一部が、バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に押し寄せた。リトアニアもソ連に併合され、ユダヤ人迫害が始まったので、日本経由でアメリカやイスラエルに逃れようとして、ビザを求めに来たのである。 杉原千畝(ちうね)領事は、6千人ものユダヤ難民にビザを発給し、その生命を救った。

誰もが閉ざした扉を開いた
 ドイツやソ連に追い立てられ、アメリカ、イギリス、スウェーデンにさえも、門前払いのユダヤ人。扉を開けていたのは杉原だけではなかった。特に目立つのは、カウナスの他では、ウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなどだが、1940年から41年にかけて、12以上のヨーロッパの都市の日本領事館で、ユダヤ人へのビザが発行されていた。1940 (昭和15)年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間だけで、1万5千人のユダヤ人が日本に渡った。

 その規範となったのが、39年12月の5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要綱」だった。ここでは、ユダヤ人差別は、日本が多年主張してきた人種平等の精神に反するので、あくまでも他国人と同様、公正に扱うべきことを方針としていた。当時の外相松岡洋右はこう言っていた。「いかにも私はヒットラーと条約を締結した。しかし、私は反ユダヤ主義になるとは約束しなかった。これは私一人の考えではない。日本帝国全体の原則である」と。

 日独伊三国同盟(1940年9月)は、1936年11月25日の日独防共協定(正式には共産インターナショナルに対する日独協定。対コミンテルンの対抗措置を定め、秘密付属協定でソ連を仮想敵国とした反ソ反共協定)、翌年1937年11月イタリヤも参加の日独伊防共協定が原点。付け焼刃などではなく、敵の敵は味方の同盟。

「ゴールデン・ブック(献金記帳簿)
 新資料ハルビン極東ユダヤ人協会が、1941年7月14日献金し、樋口(東京)・カウフマン(ハルビン)・安江(大連)と記帳している」指揮官の決断・早坂隆著2010文春文庫

 旧資料「イスラエルには世界的に傑出したユダヤ人の名を登録し、その功績を永遠に顕彰する「ゴールデン・ブック」という本がある。その中に、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達にまじって、「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている」

樋口季一郎少将
 ユダヤ人排斥は日本の人種平等主義に反する。当時の日本軍占領下の上海は、ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の上陸可能な都市だった。ユダヤ難民は、シベリア鉄道で満洲のハルピンを経由し、陸路、上海に向かうか、日本の通過ビザを取得して、ウラジオストックから、敦賀、神戸を経由して、海路、上海を目指すルートをとった。

 杉原千畝が命がけで日本の通過ビザを発行した6千人のユダヤ人難民は、後者のルート。そして、前者のルートで3万人のユダヤ人を救ったのが、樋口季一郎少将である。

 当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していた。1942年には、東京のドイツ大使館からゲシュタポ(秘密治安警察)要員が3度にわたって、上海を訪問し、ドイツと同様のユダヤ人強制収容所を建設する事を働きかけている。しかし日本側は居住区を監視下に置きはしたが、身分証明書提示で自由に出入りできた。大半のユダヤ人は戦争を生き延び、無事にイスラエルや米国に移住した。

 猶太(ユダヤ)人対策要綱は、日米開戦後に破棄され、新たに難民受け入れの禁止などを定めた対策が設けられたが、「全面的にユダヤ人を排斥するのは、(諸民族の融和を説く)八紘一宇の国是にそぐわない」とした。

 昭和12(1937)年12月、満洲ハルピンの夜は零下30度近くまで下がり、吹雪が続いていた。カウフマン博士は、8月にハルピンに赴任してきたばかりのハルピン特務機関長・樋口季一郎少将を訪問し、流暢な日本語で、「夜分、とつぜんにお伺いしまして、恐縮しております」と言った。博士は、50を超えたばかりの紳士で、ハルピン市内で総合病院を経営し、日本人の間でもたいへん評判のよい内科医であった。大の親日家であると同時に、ハルピンユダヤ人協会の会長として、反ナチ派の闘士でもあった。

 樋口少将は、着任早々、満洲国は日本の属国ではない。だから満洲国、および、満洲国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、満人の庇護に極力努めるようにしてほしい。と部下に訓示し、「悪徳な日本人は、びしびし摘発しろ」と命じていた。カウフマン博士は、その樋口に重大な頼み事を持ってきたのである。それは、ハルピンで極東ユダヤ人大会を開催するのを許可して欲しいということだった。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の暴挙を世界の良識に訴えたいというのである。樋口はハルピン赴任以前ドイツに駐在し、ロシアを旅行、ユダヤ人達の悲惨な運命をよく知っていた。樋口は即座に快諾し、博士を励ました。

 翌13年1月15日、ハルピン商工倶楽部で、第一回の極東ユダヤ人大会が開催された。東京・上海・香港から、約2千人のユダヤ人が集まった。樋口も来賓として招待されたが、部下は身の危険を心配して辞退するよう奨めた。当時のハルピンでは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化しており、治安の元締めである機関長がユダヤ人大会に出席しては、ロシア人過激分子を刺激して、不祥事を引き起こす恐れがあったからだ。しかし、樋口は構わず出席し、カウフマン博士から求められる来賓としての挨拶をした。

「曰く、ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。とうぜんとるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺にひとしい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ! そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ」

 演説が終わると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、つぎつぎに握手を求めてきた。

 大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員や新聞記者達が、いっせいに樋口を囲んだ。イギリス系の記者が、核心をついた質問をしてきた。ゼネラルの演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに水をさすような内容である。そこから波及する結果を承知のうえで、あのようなことを口にしたのか。

樋口はまわりを取り囲んだ十数人の新聞記者やカメラマンに言った。

日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。・・・今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。・・・世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、この問題は解決しないだろう

 樋口の談話は、各国の新聞に掲載された。関東軍司令部内部からは、特務機関長の権限から逸脱した言動だとの批判があがったが、懲罰までには至らなかった。ユダヤ人迫害は人種平等の国是に反するという国家方針に沿ったものであったからだ。

 昭和13(1938)年3月8日、ハルピン特務機関長・樋口少将のもとに重大事件のニュースがもたらされた。満洲国と国境を接したソ連領のオトポールに、ナチスのユダヤ人狩りからのがれてきた約数千(「回想録」は何千人)~二万人(オトポール経由の総数か)のユダヤ難民が、吹雪の中で立往生している。これらのユダヤ人は、満洲国に助けを求めるために、シべリア鉄道を貨車できたのであるが、満洲国が入国を拒否したため、難民は前へ進むこともできず、そうかといって退くこともできない。食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために、凍死者が続出し、危険な状態にさらされている、これらのユダヤ難民は、フランクフルトからポーランドに流れ込んだのだが、すでに数百万のユダヤ人を抱えていた同国は、対応できず、ソ連に依頼した。

 ソ連は、開発を放棄した酷寒の地シベリアに難民達を入植させた。都市生活者ばかりの難民達に、開拓などできるはずなどない。彼らは満洲国を経由、上海へ脱出を試みて、オトポールまでやっとのおもいでたどりついたのである。

 ハルピンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士も飛んできて、樋口に同胞の窮状を訴えた。しかし、満洲国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱である。なぜ外務部は動かないのか。ユダヤ人問題で下手に動いて、ヒットラーから横やりでも入ったら、関東軍からにらまれるからだろう。樋口は腹立たしさを覚えた。彼らは満洲国の独立国家としての自主性をまったく失っている。満洲建国の理想として世界に掲げた旗印は「五族協和」であり、「万民安居楽業」ではないのか。博士!難民の件は承知した。だれがなんといおうと、私がひきうけました。博士は難民の受け入れ準備にかかってほしい。

力強い樋口のことばに、カウフマン博士は感きわまり、声をあげて泣いた。「博士、さあはやく、泣いている場合ではありませんぞ」樋口はすぐに満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車の交渉を始めた

それから2日後の3月12日。ハルピン駅では列車の到着を待つカウフマン博士をはじめ、十数人のユダヤ人協会の幹部が、救護班を指図しながら、温かい飲み物や、衣類などの点検に忙しそうに動きまわっていた。やがて、轟然たる地ひびきをたてて、列車がホームにすべりこんできた。痩せたひげだらけの顔が、窓に鈴なりになって並んでいる。期せずして、はげしいどよめきの声が、ホームいっぱいにひろがった。列車が停止すると、救護班がまっさきに車内にとびこんだ。病人や凍傷で歩けない人たちが、つぎつぎにタンカで運びだされてくる。ホームのあちこちで、だれかれのくべつなく肩にとびつき、相擁して泣き崩れる難民たち。やつれはて、目ばかりギョロつかせていた子供たちは、ミルクの入った瓶をみると、狂ったように吠え、わめき、オイオイと泣きだした。

「よかった。ほんとによかった!」カウフマン博士は、涙で濡れた顔をぬぐおうともせず、ホームを走りまわって、傷ついた難民にいたわりの声をかけている。数刻後、樋ロは、オトポールの難民ぜんぶが、ハルピンに収谷されたという報告をうけた。凍死者は十数人、病人と凍傷患者二十数名をのぞいた全員が、商工クラブや学校に収容され、炊きだしをうけているという。救援列車の手配がもう一日おくれたら、これだけの犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言っていた。

難民の8割は大連、上海を経由してアメリカへ渡っていったが、あとの4千人は開拓農民として、ハルピン奥地に入植することになった。樋口は部下に指示し、それらの農民のために、土地と住居をあっせんするなど、最後まで面倒を見た。

 樋口のユダヤ難民保護に対して、案の定、ドイツから強硬な抗議が来た。リッべントロップ独外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議書を送ってきた。「満洲国にある貴国のある重要任務にあたる某ゼネラルは、わがドイツの国策を批判するのみか、ドイツ国家および、ヒトラー総統の計画と理想を、妨害する行為におよんだのである。かかる要人の行為は、盟邦の誓いもあらたな、日独共同の目的を侵害するばかりか、今後の友好関係に影響をおよぼすこと甚大である。この要人についてすみやかに、貴国における善処を希望している」。

 樋口は、関東軍司令部からの出頭命令を受け、参謀長・東條英機(後の首相)に対して次のように述べた。

「もし、ドイツの国策なるものが、オトポールにおいて、追放したユダヤ民族を進退両難におとしいれることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策ではないか。そしてまた、日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであるといわねばならないでしょう。私は、日独間の国交親善と友好は希望するが、日本はドイツの属国ではないし、満洲国もまた、日本の属国ではないと信じている」

樋口は、東條の顔を正面から見据えて言った。「東條参謀長!ヒトラーのおさき棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」東条は、ぐっと返事につまり、天井を仰ぐしぐさをしてから、言った。

 「樋口君、よく分かった。あなたの話はもっともである。ちゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう」

樋口を待っていたのは、「不問」どころか、参謀本部第2部長への栄転だった。

出発の当日、駅頭は、二千人ちかい見送りの群集で、埋めつくされていた。その人波の中には、数十キロの奥地から、わざわざ馬車をとばして駆けつけてきた開拓農夫の家族たちなどもまじっていた。樋口が土地や住居の世話をしたユダヤ難民たちであった。

樋口が駅頭に立つと、いっせいに万歳の声がわきおこった。日の丸と満洲国旗とをうちふり、「ゼネラル、ヒグチ!」と、ロ々に連呼しあう。孫に手をひかれた白髪のユダヤの老婆は、路面にひざまずいて樋口を拝み、涙をながしつつけていた。待合室に入ると、カウフマン博士が、白系ロシア人の代表者ロザノフとともにやってきた。ユダヤ人と白系ロシア人は、血なまぐさい暗闘を繰り返していたのだが、樋口が親睦のクラブまで作って、仲介に努力していたのである。ロザノフは、カウフマン博士の頬に長い接吻をし、巧みな日本語で言った。これが閣下に対する餞別です。閣下の言葉を忘れず、これから仲良くやっていきます。

 樋口が「あじあ」号の最後尾の展望台に立つと、列車は高らかに警笛を響かせて、ゆっくりと動き出した。「ヒグチ!」「ヒグチ!」。群衆は堰を切ったように改札口を乗り越え、ホームにあふれ出した。あどけない顔をした少年達は銀髪を振り乱し、両手を振り上げながら、あじあ号を追って走り続けた。

終戦後、ソ連極東軍は、札幌にいた樋口を「戦犯」に指名し、連合軍総司令部に引き渡しを要求してきた。停戦後の8月19日まで、北千島を攻撃してきたソ連軍は、北方防衛の責任者であった樋口に大損害を与えられ、北海道上陸を阻止された事を恨んでいたのである。樋口の危機を聞いて、ニューヨークに総本部を持つ世界ユダヤ協会が動き出した。その幹部の中には、オトポールで救われた人々もいた。

「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない」世界各地に散らばっているユダヤ人に檄がとび、樋口救出運動が始まった。世界ユダヤ協会は、アメリカの国防総省を通じて働きかけ、マッカーサー総司令部はソ連からの引き渡し要求を拒否し、逆に擁護することを通告、樋口は救われた。2につづく⇒

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安江仙弘(やすえのりひろ)大佐
 5相会議での「猶太(ユダヤ)人対策要綱」策定に大きな力となった人物がいた。安江仙弘(やすえのりひろ)陸軍大佐である。安江大佐は幼年学校時代からロシア語を学び、シベリア出兵時に武功をたて、その後、陸軍随一のユダヤ問題研究家となった。この前年の昭和12(1937)年12月26日、満洲ハルピンにて、第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、ハルピン陸軍特務機関長の樋口季一郎陸軍少将が、ドイツのユダヤ人排斥政策を批判し、「ユダヤ人を追放するまえに、彼らに安住の地をあたえよ!」と演説して、聴衆を感激させた。この大会のわずか3日前に樋口少将を補佐するために陸軍中央部から派遣されたのが、安江大佐である。大会後、翌13年1月21日には、安江大佐が中心となって、関東軍は「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」を策定し、世界に散在せるユダヤ民族を「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合するを理想とする」とした。「八紘一宇」の八紘とは、四方と四隅、すなわち、世界中のことで、一宇とは「一つ屋根」を意味する。初代・神武天皇が即位された時に、人民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、天の下のすべての人民が一つ屋根のもとで家族のように仲良く暮らすことを、建国の理想とされた。英語では、Universal Brotherhood(世界同胞主義)と訳されている。関東軍はこの八紘一宇の精神をもって、ユダヤ民族を助けるべきである、と安江大佐は主張したのである。同時に「施策要領」は「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑止す」とした。ユダヤ難民をあくまで人道的に取り扱うが、ユダヤ資本をあてにするような事はしない、という方針である。この後、3月8日から12日にかけて、約2万人のユダヤ難民がシベリア鉄道経由で押し寄せ、吹雪の中で立ち往生している所を、樋口季一郎少将が中心となって、特別列車を出して救出した。

安江大佐は9月19日、外務省本省において、外務、陸海軍関係者を集めて、ユダヤ問題に関する講演を行い、次のように述べた。

「ユダヤ人は従来第三者のごとき地位にあったが、支那事変とともに我々の軒先に入ってきたのである。これをいかに扱うか。ドイツのごとき方法を取るべからざることは明瞭である。日本の八紘一宇、満洲の諸民族協和の精神からしても排撃方針は不可である。よろしく保護し、御稜威を彼らにおよぼすべきである」。御稜威(みいつ)とは皇室の民を守る威光のことである。その威光をユダヤ難民にも及ぼすべく、安江大佐は日本帝国全体の国策決定を板垣征四郎・陸軍大臣に働きかけた。

 「我国は、八紘一宇を国是としておりユダヤ民族に対してもこれを例外とすべきではない。彼らは世界中に行先無く、保護を求めているのである。窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずという。況(いわ)んや彼らは人間ではないか」。

 講演、板垣大臣への説得、ともに、「八紘一宇」が安江大佐の主張の基盤となっていた。こうした働きかけにより12月6日の五相会議において、板垣陸軍大臣より「猶太人対策要綱」が提案され、国策として決定された。

 国策として決定20日後、12月26日から3日間、第二次極東ユダヤ人大会がハルピンで開かれた。上海、青島、天津、大連、などから1千余名のユダヤ人が集まった。日満側からは安江大佐やハルピン副市長・大迫幸男などが参列した。大会では以下のような決議文を採択し、カウフマン会長名でニューヨーク、ロンドン、パリのユダヤ人団体等に打電された。「この日本国ならびに満洲国の示されたる誠意と同情的処置とは吾人をここに安居楽業せしむると共に、吾人特有の文化を発展せしめ、かつ日満両国に対し、善良なる人民たらしめ得るものとす。ここに民族大会において吾人はユダヤ民族が民族的平等と民族的権利とを国法にしたがい享受すると共に、東亜新秩序の再建に努力しある日満両国に対し、あらゆる協力をなすべき事を誓い、かつこれを吾人同族に対し、呼びかけるものなり」。(現代文訳)

 昭和15(1940)年12月、安江大佐は予備役に編入され、その年の第4回ユダヤ人大会は中止命令が出た。安江大佐は、予備役編入の理由「この二つは東條陸軍大臣の直々の命令であり、それは9月に締結したばかりの日独伊三国同盟の手前、ナチス・ドイツへの気兼ねと、大佐が東条と対立関係にあった石原完爾中将の同志であった」と、推測した。

 安江大佐が松岡外務大臣を訪ねると、自分から満鉄の佐々木副総裁によく話をしておくとして、今後は外務省とも密接に連絡して戴きたい。私は貴君に働いて戴き度い事が色々ある。ユダヤ人に対しても八紘一宇の大精神で向かわねばならない。ドイツの尻馬に乗って日本がユダヤ排斥をやらねばならぬ理由がどこにありますか。日本には日本の立場がある。今、日本を見渡した所、真にお国のためにユダヤ人に接している人は貴君しかいない。とにかく貴君の今後の活動のために尽力します。松岡外相の尽力で、安江大佐は満洲国政府顧問、および満鉄総裁室付嘱託となり、安江機関が昭和16年1月に大連に誕生して、満洲・支那在住のユダヤ人保護の活動を続けた。

 昭和16年11月1日、安江大佐に対し、ハルピン市のホテル・モデルンで数百人のユダヤ人列席のもと、世界ユダヤ人会議代表M・ウスイシキン博士署名の「ゴールデン・ブック」への登録証書授与が挙行された。ゴールデン・ブックは、ユダヤ人の保護・救出で功労のあった人を顕彰するためのものである。この時、吹雪の中で2万人とも言われるユダヤ難民を救出した樋口季一郎少将、および、樋口・安江と力をあわせてきた満洲ユダヤ人社会のリーダー、カウフマン博士も、ともに記録された。

犬塚惟重(これしげ)大佐
 犬塚大佐のユダヤ研究は海軍内でも着目され、首脳部から命ぜられて、1928(昭和3)年からは大使館付き武官補佐官としてパリに駐在、ユダヤ社会での見聞を深めた。1930(昭和5)年12月に帰国してからは、軍令部で防諜、思想戦、ユダヤ問題の統括を任され、言論界の指導層に対して、「ユダヤ民族には共産主義者や米国での反日主義者もいるが、八紘一宇の精神で人道主義的、平和主義的に転向させるべき」と説いた。昭和13(1938)年には、安江大佐とも協力して、関係方面に精力的に働きかけ、世界中で排斥されつつあるユダヤ難民に対しても、他国人と同様の公正な取り扱いを行うという五相(首相、陸・海・外・蔵相)会議決定を実現した。満洲・北支(シナ)方面のユダヤ工作は安江大佐が担当していたが、上海の海軍警備地区内での難民対応、ユダヤ財閥の反日運動対策、そしてユダヤ人が実権を握る米国マスコミへの工作を考えると、犬塚大佐は上海に腰を据えて、ユダヤ問題に専念しようと決心した。ちょうど、人事局の方から「少将への昇進の過程として、一時、海上勤務にまわるように」という内意がもたらされたが、自分がユダヤ問題を担当することが日本にとってもユダヤ人にとってもよい、との判断から、栄達の道を投げ打ち、予備役編入とともに、上海勤務を願い出た。

 上海に最初のユダヤ人難民が流入したのは、1938年秋、ナチスが当時ヨーロッパで最大のユダヤ人口を持つオーストリアを併合してからである。その後、チェコ、ポーランドとドイツの支配圏が広がるにつれて数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるをえなくなったが、彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは入国ビザの発給を制限していた。ユダヤ難民がビザなしに上陸できたのは、世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備地になっていた虹口(ホンキュ ー)地区だけだった。ここにユダヤ難民がどっと押し寄せ、現地ユダヤ人らが、もとの小学校や中学校などの無人の建物に収容、給食や生活保護を行った。船が着くたびに上陸するユダヤ難民はたちまち1万8千人に膨れあがった。1939(昭和14)年夏、犬塚大佐は東洋一と言われた17階建てのブロードウェイ・マンション・ホテルの16階に事務所兼住居を定めた。25畳ほどのリビング・ルームにベッド・ルーム、クローク・ルームなどを備えたスイート・ルームだった。謀略嫌いの海軍の工作機密費はわずかだったので、犬塚は自分の退職金をすべてユダヤ工作につぎ込むつもりだった。海軍武官府からは贅沢だと非難する向きもあったが、兵士の立つ武官府では、ユダヤ人達が気安く出入りしにくく、また極東のユダヤ財閥の首脳部に応対するためには、こうした見栄も大切と考えたからだ。

上海に居を構えて数ヶ月後、1939(昭和14)年12月21日、犬塚大佐は上海ユダヤ首脳部から午餐の招待を受けた。ユダヤ避難民委員会副会長M・スピールマンが、ヨーロッパ各国を歴訪した結果を聞く集まりであった。報告は非常に悲観的なもので、9月の第2次大戦の勃発により、パリやロンドンのユダヤ人団体からの上海への送金も途絶えてしまった。またアメリカのユダヤ人団体もヨーロッパでの大量難民救済に追われて、上海への送金もいつ停止するか分からない状態だった。万策尽きた段階で、犬塚大佐は「一つ私からの提案がある」と切り出した。アメリカに日本の必要物資を供給させることができれば、私はユダヤ難民に満洲国か支那の一部をユダヤ人居住区として開放し、まず試験的に2,3年にわたり、毎年約1万5千人ぐらいの避難民を移住させる案を考えているが、皆さんはこれを支持できるだろうか?一同は即座に賛成したが、アメリカのユダヤ勢力が国務省を動かして、日本への重要物資禁輸政策を転換させるだけの力があるかどうかは分からなかった。犬塚大佐は「国務省に対し、全力を尽くして運動します」と約束すれば、日本政府はユダヤ居住区の案を好意的に考慮するだろうと答えた。

 その翌々日、満洲ハルピンにて第3回極東ユダヤ人大会が開かれ、日本、および満洲帝国が人種的、宗教的差別をせず、各民族に平等に権利を認めている点を感謝する決議を行った。その間に秘密代表会議が開かれ、犬塚大佐の案に基づいて、日本政府にユダヤ人居住区設定の請願をし、アメリカのユダヤ人社会に協力を求める決議を行った。

 大日本帝国は、・・・極東在住ユダヤ人に対して、八紘一宇の国是に基づき、人種平等の主張を堅持し、何らの圧迫偏見なく、大なる同情をもって保護を与え居らることは、我ら同族の感謝に堪えざるところなり。・・・帰るに国なき我ら同族に対し、大日本帝国の尽力により極東いずれかの方面にユダヤ民族のため、一部の地域を設定し、安居楽業の地を与えられなば、我ら全世界ユダヤ民族の幸福にして永遠に感謝するところなり。・・・ 1939年12月25日極東ユダヤ人代表会議議長カウフマン

大日本帝国 内閣総理大臣 阿部信行閣下

 ステファン・ワイズ・ユダヤ教神学博士は、米国のユダヤ指導者階級の中心人物のみならず、全世界ユダヤ民族の指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、必ず影のようにワイズ博士がついていたと評され、その政策を左右する実力を持っていた。このワイズ博士が頑迷な反日主義者だった。1938(昭和13)年10月、米国ユダヤ人代表会議での対日態度決定の討議でも、ワイズ博士がただ一人、対日強硬姿勢を主張したため、遂に未決定に終わったことがあった。1938年と言えば、その前年12月にハルピンで第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、この年3月には約2万人(一説には数千人)のユダヤ難民がシベリア鉄道経由で満洲に押し寄せ、吹雪の中で立ち往生している所を、樋口季一郎少将が中心となって、特別列車を出して救出していた。こうした事実にも関わらず、ワイズ博士が反日強攻姿勢を貫いたのは、ナチス・ドイツ敵視からその友好国日本も同様の反ユダヤ国家と見なしていたためであろう。しかし、上海のユダヤ人指導者から犬塚提案がもたらされると、ワイズ博士の態度は大きく変わった。東京在住のユダヤ人を通じて、次のような回答がもたらされた。ユダヤ避難民問題を日本において解決せんとの案なれば、それがいかなる提案にせよ、もし日本の権威ある筋よりのものとせば、我らユダヤ機関は深甚の考慮を以て受理すべきものなり。またワイズ博士はその友人に、もし真に日本政府が満洲国においてユダヤ避難民問題の解決に興味を有するならば、「公然と日本の友たるべき決心」である旨を伝えたという。

居住区設定に対しては、陸軍側から、これ以上の難民収容は物理的に困難だとか、ナチスの反ユダヤ思想に影響されての反対があったが、犬塚大佐は粘り強く反論していった。犬塚大佐の根回しが奏効しつつあった1940年9月、大佐の意を受けた日本人ビジネスマンが、ニューヨークでユダヤ首脳と会談し、次 のような合意に達した。日本側は上海虹口側に住むユダヤ難民1万8千人を含めて3万人を上海浦東に居住地区と定め、米国ユダヤはこれに対して2億円の対日クレジット(貸付け枠)を設定し、うち1200万円で避難ユダヤ人の失業救済として皮革会社を設立し、残余の1億8千8百万円は日本の希望する物資、屑鉄、工作機械などを無制限に供給する。これの公式請願と具体案協議のため、米国ユダヤ数名を日本に派遣する。米国の戦略物資の対日禁輸を打ち破るかもしれない画期的な合意だった。ワイズ博士の親日への転向が大きな原動力となったのであろう。米国の禁輸政策が、日本の軍事力を時々刻々と弱め、座して死を待つよりは、と開戦に立ち上がった経緯を考えれば、この合意が成立していれば、日米開戦は避けられたかもしれない。しかし、それからわずか1週間後の日独伊三国同盟締結のニュースが、この合意を吹き飛ばした。ユダヤ首脳は次のように言って、肩を落とした。実は日本当局が上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種偏見を持たず、公平に扱ってくださる事実はいろいろな情報でよく知っていました。その好意に深く感謝し、今回の借款でその恩に報い、われわれの同胞も救われると期待していましたが、今日の米国政府首脳や一般米人の反日感情の大勢に逆行する工作を行う力はありません。政府は対日クレジットや戦略物資輸出は許可しないでしょう。残念ながらわれわれの敵ナチス・ドイツと軍事同盟した日本を頼ることはできなくなりました。

このような大きな工作の傍らで、犬塚は地道なユダヤ人保護の活動も続けていた。この年の7月26日、上海ユダヤ中でも最高の宗教一家アブラハム家の長男ルビーから、「宗教上の大問題でぜひ会っていただきたい」と電話があった。ポーランドがドイツとソ連に分割され、ミール神学校のラビ (ユダヤ教の教師)と神学生ら約5百人がシベリア鉄道経由でアメリカに渡るために、リトアニアに逃げ込んだという。そしてアメリカへの便船を待つ間、日本の神戸に滞在できるように取りはからっていただきたい、というのが、ルビーの依頼であった。宗教上の指導者ラビと神学生を護ることはユダヤ人にとって大切なことであり、将来これらの人々が世界各地のユダヤ人宗教上の指導者として多大の影響を及ぼすことは、犬塚大佐はよく分かっていた。よろしい。ユダヤ教の将来のために、さっそく関係当局を説得しよう。期待して待っていてください。大佐が胸を叩くと、ルビーは涙ぐんで「アーメン」と指を組み、感謝した。犬塚大佐は外務当局に働きかけ、公式には規則を逸脱したビザ発給は認められないが、黙認はすることとなった。この情報が上海のユダヤ首脳部を通じて現地にもたらされ、神学生たちは8月中旬、リトアニアの領事代理杉原千畝からビザを受けることができた。ただし杉原はこの「黙認」の工作を知らされず、発給規則逸脱で職を賭して「命のビザ」を書き続けたのである。

この件で、感謝の印としてシガレット・ケースを贈られた。それまでユダヤ人から何一つ受け取っていなかった犬塚大佐だが、自分のイニシャルと感謝の辞が刻まれてあったので、快く受け取った。また犬塚大佐のユダヤ人保護工作への感謝から、ユダヤ人の恩人としてゴールデン・ブックに記載したいという申し出があったが、犬塚大佐は次のように述べて、申し出を辞退したという。

「私のユダヤ難民を助け東亜のユダヤ民族の平和と安全を守る工作は、犬塚個人の工作ではなく、天皇陛下の万民へのご仁慈にしたがって働いているだけである。私はかつて、東京の軍令部にいた時、広田外相からこんな話を伺ったことがある。広田外相が恒例の国際情勢を陛下に奏上申しあげたうちでナチスのユダヤ虐待にふれたところ、陛下は身を乗り出されて憂い深げにいろいろご下問なさるので、外相は失礼ながら陛下はユダヤ人を日本人と思い間違いあそばしているのではないかと不審に存じ上げたが、陛下は「いやユダヤとわかっているが、哀れなもの」と仰せられて、そのご仁愛のほどに恐懼したというのだ。私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の名を書くように」と固持した。

 日米開戦後も犬塚大佐のユダヤ人保護工作は続いた。日本占領下の上海で犬塚機関が保護したユダヤ難民は2万5千人を超えた。1942(昭和17)年1月、ナチスがユダヤ人絶滅の決定をした頃、上海ユダヤ人絶滅のためにドイツで開発したガス室を提供するという申し出があった。それを阻止したのが犬塚大佐だった、というユダヤ人の証言もある。

大戦中でも「上海は楽園でした」。そこで暮らした経験を持つヒルダ・ラバウという女性が次のような詩を残している。

ちかごろ上海のことを見聞きするにつれわたしは神にいのる。しかるべき人々に称賛が与えられますように!かれらがあらたに誇りが持てますように。その人たちは、上海のナチが振るおうとしていたおそろしい暴力から、わたしたちを守ってくれました。救助者がだれだったか、あばくのは簡単なはず、いまではだれもが知っている、その正体は日本人「憎しみ」ばかりが広まっていたとき、かれらは、ユダヤ人に親切だった。みなさん! あの悲劇で6百万人が消えた道を、わたしたちは逃れたのです。異国にあって、わたしたちは「自由」だった。・・・収容所のことで不満をいう人はいますが、皆殺しになった人びとを思えば、「上海は楽園でした」。

 1982年3月12日付けエルサレム・ポスト誌にタブロイド判1頁を費やして次のような記事が掲載された。1941年3月、このシガレット・ケースは1939年以来、上海でユダヤ関係機関長であった犬塚惟重海軍大佐が、3百名のユダヤ神学生を日本占領区域に収容してくれたこと、1万8千名のドイツ、オーストリー、ポーランドからの避難ユダヤ人を救ったことへの感謝の印に贈られたものである。このシガレット・ケースはレプリカと交換され、犬塚未亡人から米国のラビ・トケイヤーの手を経て今、エルサレムのヤッド・バシェムに贈られ、大虐殺追悼記念館の収集品に加えられた。寄贈式はアラド総裁事務室で地味に挙行され犬塚大佐がこの贈り物を受け取るまでの経緯を総裁が述べ、ユ バル副総裁が1948~49年に上海で見聞した犬塚大佐は学者肌で人道主義の寛大な日本士官で、特にユダヤ民族の更生に力を尽くした非凡な人物との評価を披露した。また、彼の指揮によって、日本人学校校舎が避難ユダヤ人たちの宿舎になり、病院建設に協力したり、シナゴーグ(ユダヤ教教会堂)建設工事にセメントを融通するなどの助力を惜しまなかった。・・・

杉原千畝の命のビザも八紘一宇天道に基づく国是

杉原千畝領事代理
 ユダヤ人を救出して、「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受けた。ポーランドの独ソ分割によって追われたユダヤ難民6千人(推定)に、日本へのビザを発行して命を救ったカウナス(バルト3国の一つ、リトアニアの臨時首都)領事代理。外務省訓令を逸脱した大量のビザ発行に関しては、国策に反した個人的善行と報道されてきたが、国際連盟規約に「人種平等の原則」、ハルピン特務機関長・樋口季一郎少将、五相会議決定、安江機関、犬塚機関というように、法を超越した日本人の根源的なもの、いわば日本精神という観点で見なければならない。

 杉原自身はユダヤ人救出の動機を後年、こう述べている。それは私が、外務省に仕える役人であっただけではなく、天皇陛下に仕える一臣民であったからです。悲鳴をあげるユダヤ難民の前で私が考えたことは、もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか、ということでした。陛下は目の前のユダヤ人を見殺しになさるだろうか。それとも温情をかけられるだろうか。そう考えると、結果ははっきりしていました。私のすべきことは、陛下がなさったであろうことをするだけでした。もし外務省に(ビザ発給に関する)訓令違反を咎められたら、私が破ったのは訓令であって、日本の道徳律ではないと思えば良いと腹を決めました。 3につづく⇒

真実史観3八紘一宇世界同胞主義団結の結晶が煌き人種平等の新しい平和を生んだ

3八紘一宇世界同胞主義団結の結晶が煌き人種平等の新しい平和を生んだ
 1940年(昭和15年)7月27日朝、バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に勤務していた杉原千畝(ちうね)領事は、いつもとは違って、外がやけに騒がしいのに気がついた。窓の外を見ると、建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしている。

ボーイのバリスラフは、すでに群衆に会って、その理由を尋ねてきていた。ポーランドからナチスの手を逃れてここまで歩いてやってきたユダヤ人達で、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとして、通過ビザを求めている、今は200人ほどだが、数日中に何千人にも増えるだろう、と言う。

 前年9月、ナチス・ドイツとソ連の密約により、両軍がポーランドに同時に攻め込み、東西に二分割していた。そのドイツ軍占領地から、ユダヤ人狩りを逃れて、三々五々、このバルト海に面したリトアニアまで避難してきた人々であった。すでにオランダもフランスもドイツに破れ、ナチスから逃れる道は、シベリア日本経由の道しか残されていなかった。

これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできない事だった。外務省に暗号電報で許可を求めたが、回答は「否」。日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかった。

しかし、ビザを出さなければ、外のユダヤ人達の命はない。杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打つ。8月3日には、ソ連がドイツとの密約通り、リトアニアを正式に併合し、日本領事館にも8月中の退去命令を出した。日本の外務省からも、「早く撤収せよ」との指示が来る。

ビザ交付の決断に迷い眠れざる夫のベッドの軋むを、聞けり。ついに意を決して、杉原は夫人に言った。「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」 「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください」 私の心も夫とひとつでした。大勢の命が私たちにかかっているのですから。夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」とつぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不安が感じられました。「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」それだけの覚悟がなければ、できないことでした。

前述のように犬塚大佐は外務当局に働きかけ、公式には規則を逸脱したビザ発給は認められないが、黙認はすることとなっていた。ただし杉原は、この「黙認」の工作を知らされず、発給規則逸脱で職を懸けて「命のビザ」を書き続けたのである。

夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。

それから約1ヶ月間、退去期限ぎりぎりまで、杉原は朝から晩まで一日300枚を目標にビザを書き続けた。すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書く。途中で万年筆も折れ、ペンにインクをつけて書く。効率を上げるために、番号付けや手数料徴収もやめた。一日が終わると、ベッドに倒れ込み、夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込む。外には大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っている。やっと順番が巡ってきて、ひざまづいて杉原の足もとにキスをする女性もいた。夜はもう寒いのに、近くの公園で野宿して順番を待つ人もいる。ソ連から退去命令が何度も来て、杉原はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移った。領事館に張り紙をしておいたので、ここにもユダヤ人がやってきた。ありあわせの紙でビザを書き続ける。

9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ。ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。ついに汽車が走り出す。走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。「バンザイ、ニッポン」誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれる事を期待していたのでしょう。「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。

ビザを受け取ったユダヤ人達は、数百人毎の集団となって、身動きができないほど詰め込まれた列車で、数週間をかけて、シベリアを横断した。ウラジオストックの日本総領事は、杉原をよく知っていて、杉原の発行した正式なビザを持つ人を通さないと海外に対する信用を失うことになると外務省を説得した。日本郵船のハルピン丸が、ウラジオストックと敦賀の間を週一回往復してユダヤ人達を運んだ。船は小さく、日本海の荒波で激しく揺れ、ユダヤ人達は雑魚寝の状態で船酔いと寒さに耐えながら日本に向かった。それでもソ連の領海を出た時は、ユダヤ人の間で歌声が起こった。シベリア鉄道では歌を歌うことさえ許されなかったのだ。昭和15年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されている。敦賀から神戸に向かい、神戸のユダヤ人協会、キリスト教団、赤十字などの援助を受けた。「日本人はやさしかった」と、あるユダヤ人は後に杉原夫人に語っている。神戸と横浜からユダヤ人達はイスラエルやアメリカに渡っていった。

 昭和19年(戦中)、杉原はカウナス領事館閉鎖のあとも順調に昇進し、昭和19年には、日本政府から勲章(勲五等瑞宝章)を授与されている。後年捏造されたような、
杉原のビザの発給が国策違反なら、叙勲などない。
昭和20(1945)年8月15日(終戦)

 昭和22年(戦後)に杉原が外務省を退職した理由も、米軍占領下となり、外交事務激減による人員整理が理由で、退職金もその後の年金も支払われており、後年捏造のような、ビザ発給を理由にした懲罰的な解雇などではなかった

 昭和43年8月、その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、昭和43年8月の事だった。杉原に救われた一人、ニシュリという人が参事官として在日大使館に勤務していた。ユダヤ人達は28年間も杉原を探していて、ようやく見つけたのであった。ニシュリは、杉原に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せた。杉原からもらったビザである。そして杉原の手をかたく握って、涙を流した。
 翌昭和44年、杉原は招待されてイスラエルを訪問した。出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。領事館でユダヤ人代表として杉原に交渉した人物である。バルハフティック大臣は、杉原をエルサレム郊外にあるヤド・バシェムという記念館に案内した。ホロ・コーストの犠牲者を追悼するとともに、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館である。杉原はそこに記念樹を植え、勲章を受け取った。その記念館には「記憶せよ、忘るるなかれ」という言葉が刻まれている。
 昭和60年1月、杉原はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられた。日本人としては初めての受賞である。すでに病床にあった杉原の代わりに、夫人と長男がイスラエル大使館での授賞式に参加した。杉原は病床のまま、翌昭和61(1986)年7月31日に亡くなった。

「千畝」 
ヒレル・レビン著(ボストン大学の教授、ユダヤ人、現代のアメリカを代表する歴史家)

 1993年2月、教授はリトアニアの首都ビリニュスに設立されたユダヤ研究所の講義に招待されたおり、教授は、杉原がユダヤ人難民にビザを発行したカウナスの領事館の建物を訪れた。

 「私はその場に立ちすくみ、零下20度の寒さの中で、あるユダヤ教の導師の言葉を繰り返していた」

 『私たちの祖先に奇跡が起きたところに立ったなら---人は祝福を送らなければならない』

 「では、日本人の官吏・千畝に、私はどんな祝福を贈ればよかったのだろうか」

 「あなたはなぜユダヤ人を助けたのか?」、レビン教授 はこれを明らかにすることが、杉原への「祝福」だと考えた。杉原の遺族、友人、同僚、救われたユダヤ人たちなどを尋ねて、教授は世界中を旅した。

 1939年9月、独ソがポーランドを分割し、大量のユダヤ人難民が発生した。ソ連の国境警備兵は、越境しようとする者を片端から射った。他方、ナチスの国境警備兵は、もどってこようとする者を片端から射った。二つの火線にはさまれた不運な難民は、国境沿いの無人地帯にとどまるしかなかった。そうこうしているうちに、厳冬になり凍死者が続出した。ユダヤ人難民たちは、「東欧のスイス」と呼ばれたリトアニアに逃げ込んだが、そこも40年8月にはソ連に強制的に併合され、「屠殺」が始まった。「カウナスの樹という樹には、誰かが吊されていた」

 逃げ場を失ったユダヤ人たちに国際社会は冷たかった。39年6月、ユダヤ難民1128人を乗せたセントルイス号がハンブルクを出港してアメリカに向かったが、アメリカは入港を拒否。ほとんどの乗客が正規の書類を持ち、アメリカの親戚が経済的責任を負うと保障したが、一人として上陸できず、船はホロコーストの待つヨーロッパに戻る事になった。この呪われた航海は「ユダヤ人お断り」の象徴となり、後に映画にもなった。

 「世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと文明国だということを知らせましょう」杉原はこう語った。

 ユダヤ教の導師E・ポートノイはミラー神学校の生徒300人分のビザを手に入れようと、アメリカ領事館にかけあったが、「割り当てビザなど一枚もない」と突き放されたばかりだった。ポートノイの長い話を聞き、ビザの発行を約束して、握手した時、ポートノイは信じられない思いがした。

 ミラー神学校の生徒ズブニックが300枚文のビザを貰いにやってきた時には、日本領事館の前にはユダヤ人の長蛇の列ができていた。杉原のドイツ人秘書が、こんなに大勢は処理しきれないと音をあげると、ズブニックが手伝いを申し出た。杉原の横でビザ発給を手伝いながら、ズブニックは1分ごとに生命が救われているのを見た。それは「生涯最良の2週間だった」。

 当時16歳の娘だったL・カムシは、レビン教授にこんな思い出話を語った。日本領事館の前は延々長蛇の列だった。皆、それぞれに不幸な物語をかかえていたが、決まった行き先国も、お金も持ってはいなかった。杉原は、私たちの両親のことを聞いた。父は亡くなり、母は書類を持っていないと答えると、非常に気の毒そうな顔をしてくれたので、この人は親切だと思った。彼は頷き、旅券にスタンプを押してくれた。私たちにとって、政府関係者とは恐い存在だったので、領事館にいた間中、神経質になり、怯えていた。私たちはただ、ポーランド語で「有り難う、有り難う」というだけだったが、彼は手を挙げ、大丈夫と微笑んだ。事務所を出るとき、私たちは感極まって泣いてしまった。外にいた人々は、そんな私たちを珍しそうに見ていたが、背中を軽く叩き、幸運を祈ってくれた人もいた。

7年前に他界していた杉原に宛てた教授の手紙
 ・・・あの時代、突然に、ユダヤ人は西欧文化から放り出されようとしていました。その文化を創り出すのに、ユダヤ人が力になっていたというのに---。そして同時に、お前たちは余所者だ、と非難されました。ユダヤ人は破壊的な余所者で、強欲で、好色で、社会から一番いいところをもらうばかりで、何の貢献もしないといわれました。しかし、あなたは違っていました。彼らを迎え入れてくださった。あなたは、ユダヤ人を母として、父として、子供として、思い出を大切にし、希望を抱く人間として見てくださった。あなたは、彼らがどこで眠るのか、どうやって暖をとるのか、気にかけてくださった。彼らの運命を心配してくださった。そう、心配されたのです。憎悪で対立していた世界で、それは希有のことでした・・・

ドイツやソ連に追い立てられ、アメリカ、イギリス、スウェーデンにさえも、門前払いを食わされているユダヤ人。「誰もが閉ざした扉を、どうしてあなただけが開いたのか?」レビン教授の届かなかった手紙は問いかける。この疑問に駆られて、レビン教授は、杉原の子供時代からの一生をたどり、さらに当時の日本の外交政策まで、丹念に調べていく。そして発見したのは、扉を開けていたのは杉原だけではなかった、という事だった。40年から41年にかけて、12以上のヨーロッパの都市の日本領事館で、ユダヤ人へのビザが発行されていた。特に目立つのは、カウナスの他では、ウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなどだ。その前提となったのが、39年12月の5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要 綱」だった。ここでは、ユダヤ人差別は、日本が多年主張してきた人種平等の精神に反するので、あくまでも他国人と同様、公正に扱うべきことを方針としていた。当時の外相、杉原の直接の上司だった松岡洋右はこう言っていた。「いかにも私はヒットラーと条約を締結した。しかし、私は反ユダヤ主義になるとは約束しなかった。これは私一人の考えではない。日本帝国全体の原則である」。先人愚弄の旗印1940年の日独伊三国同盟は、1936年11月日独防共協定(翌年伊も参加した反ソ反共協定)が原点。

 いわば、ヨーロッパ各地の日本領事館の扉は、人種・国籍に関わらず、ユダヤ人に対しても公平に開けられていたのである。そして杉原は、たまたま多数のユダヤ人難民が追いつめられていたカウナスで、職権上許されるギリギリまでその扉を広く開けて、彼らを迎え入れたのである。杉原はソ連の命令でカウナスの領事館を閉ざしてからも、プラハの領事代理となり、そこでさらに多くのビザを出した。この頃、松岡外相は各国派遣大使の大量馘首に着手していたが、杉原はそれを免れている。外務省は杉原の行為を問題視していなかったのである。

 松岡洋右の言う「日本帝国全体の原則」は、ビザ発給だけではなかった。難民たちはシベリア横断鉄道の終点、ウラジオストックから、船で敦賀港に渡り、神戸に出る。日本の警察官、通関担当者はみな親切だった。前節のL・カムシ姉妹は、杉原ビザの滞在期間が10日間なのに、2ヶ月神戸にとどまった。神戸ではユダヤ人協会や、多くの神戸市民が援助してくれた。その後、アメリカにいた親戚から届けられたビザでサンフランシスコに渡った。今はニューヨークの郊外で暮らしている。ビザのとれないユダヤ人には、上海に渡る道があった。この国際都市は日本軍占領下で、2万7千人を超すユダヤ難民が比較的安全に暮らしていた。

杉原は「日本のシンドラー」と呼ばれるが、両者の行為は本質的に異なる。私財をなげうって、ユダヤ人たちを助けたというシンドラーの行為は、あくまで個人的な善行である。それに対して、杉原の行為は、「日本帝国の原則」に基づいた国策である。それは、人道と国際正義にかなうものであると同時に、我が国の国益にもつながるものであった。日本がロシアからの侵略から独立を守るべく日露戦争に立ち上がった時、ロシアのユダヤ人同胞を救おうと日本に協力したのがアメリカのユダヤ人指導者、銀行家のジェイコブ・シフで あった。日露戦争の総戦費19億円のうち、12億円がシフを通じて引き受けられた外債によるものだった。日本人はシフの助力に深く感謝し、ユダヤ人への好意を抱いた。

そしてレビン教授は次のように語った。
 私の著書「千畝」は、そう遠くない将来、ハリウッドで 映画化されることになっている。この映画が公開されれば、世界中の人が「スギハラ」という日本人を知ることになる。世界中の人々が、彼の精神や行動を育んだ日本の風土と文化に強い関心を持つことになるだろう。そして、これまで以上に日本人に対してさらに深い尊敬の念を抱くだろうことを私は期待している。

アメリカの原爆開発に協力したユダヤ人科学者
 アメリカの原爆開発にユダヤ人科学者たちが、重大な貢献をしている。しかし、彼らはナチス・ドイツを倒すために原爆開発に取り組んだのであって、それが日本に対して使われることには最後まで反対した。そもそもアメリカが原爆開発に着手した契機は、アインシュタインが1939年8月にルーズベルト大統領に書簡を送って、原子力兵器の開発計画を立てるよう進言したことである。その前月、ナチから逃れてきた2人のハンガリー系ユダヤ人、レオ・シラードとユージン・ウィグナーが、すでにアメリカ亡命していたアインシュタインに、「最近になってドイツは原子力エネルギーの制御に成功した、このままではナチが原子爆弾を作ってしまう、ドイツより先に原子爆弾を開発するようアメリカ政府に訴えてくれ」と頼んだ。アインシュタインはそれに応えたのである。

ルーズベルト大統領はアインシュタインの進言を受け入れ、原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始された。マンハッタン計画には多くのユダヤ人科学者が加わった。最も有名なのはリーダーに選ばれたロスアラモス研究所長のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーだが、それ以外にもレオ・シラード、ニールス・ボーア、オットー・フリッシュ、ユージン・ラビノヴィッチ、ジェームズ・フランク、フェリス・ブロック、エドワード・テラー(後に水爆を開発)などがいた。ユダヤ人にとって、ナチ・ドイツが原爆を開発して、英米に勝利するこは、ユダヤ人弾圧・虐殺が世界中に広がることであり、まさに悪夢だった。アメリカが先に原爆を開発し、ヒトラーの意気の根を止めることが、ユダヤ人の生き残りの鍵と考えられた。

ドイツの降伏が目の前に迫り、米政府が原爆を日本に対して使おうと考えられていることを知ると、ユダヤ人科学者たちはショックを受けた。日本は人種差別的なイデオロギーを広めることも、大量虐殺もしていなかった。それどころか、ヒトラーから逃れてきた多くのユダヤ人たちを助けてさえいた。1945年3月25日、アインシュタインはルーズベルト大統領に手紙を書いて、日本に対して原爆を使わないよう要請した。しかし、ルーズベルトはその手紙を読まないまま、4月12日に病没した。5月にドイツが降伏すると、レオ・シラードはトルーマン大統領宛の請願書を書いた。「日本に対する原爆使用は正当性がない、日本への原爆投下は国際犯罪となり、全世界が大量破壊兵器の脅威にさらされる時代を招来する」、という内容だった。この請願書は強い言葉で書かれていて、十分な署名を集められなかったため、シラードは、原爆を投下する前には日本に十分な警告を与えるよう求める内容に修正した。この第2の請願書は67人の科学者が署名し、大統領宛に送付された。

しかし、この訴えも無駄に終わり、8月6日、人類最初の原爆が広島に投下された。日本人はユダヤ人を助けたのに、ユダヤ人は原爆を開発して恩を仇で返したともいえよう。しかし、ユダヤ人科学者が原爆開発に協力したのは、あくまで同胞救命が目的、志は道義的で理解できる。すでに誰の目にも敗北が明らかな日本に、一般市民が多数居住する都市に、原爆を投下。責任は、老若男女皆殺しのアメリカにある。復讐戦争を捏造した、ルーズベルトにある。ユダヤ人ではない。

溺れる者は藁をもつかむ戦国時代、敵の敵は味方、日独伊三国同盟は戦いの常道、ましてや戦国時代、当然である。米英は、共産ソ連とさえ連合したではないか、そして後の冷戦。物事には全て禍福あり。善人面で選り食いつまみ食いし、子孫がとやかく批判すべきではない。

日本は、弱肉強食八方が敵、未曾有の国難を乗り切るため団結、日本国という抽象を、分かりやすく具象化した。日本は、天皇=「公」=日本とし、究極の団結をしたのだ。明治、大正、昭和天皇の個人崇拝、「私」と捉えると、見誤る。樋口季一郎、安江仙江、犬塚惟重、杉原千畝、すべて「公」に基づいての行動である。そして天皇と臣、古今東西の世の習い、敗戦逃亡もせず粛々と敗戦の責を負った。史上類が無い。究極の団結、団結の結晶を物語って余りある。この結晶が敗れてもきらめき、日本分国を破壊、食民治主義を破壊、ブロック経済を破壊し、人種平等が基幹の、新しい平和を生んだ(1960年植民地独立付与宣言)

参考

ユダヤ難民救出

「千畝」ヒレル・レビン、清水書院、H10.82.

上杉千年、「猶太難民と八紘一宇」、展転社、H14

「流氷の海」、相良俊輔、光文社NF文庫、H6.1

流氷の海」、相良俊輔、光文社NF文庫、H6.12.

「ユダヤ人排斥、日本政府拒む」、産経新聞、H10.3.30

「人種平等を貫いた日本のユダヤ人政策」、宮澤正典、日本の息吹、H10.9

犬塚きよ子、「ユダヤ問題と日本の工作」日本工業新聞社、S57

「六千人の命のビザ-一人の日本人外交官がユダヤ人を救った」杉原幸子、朝日ソノラマ、1990、

 「杉原千畝物語」、杉原幸子、杉原広樹、金の星社、1995

 

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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