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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1佐賀邪馬台国卑弥呼陳寿魏志倭人伝旅程歴訪日加算方角距離のみが正確


1佐賀邪馬台国卑弥呼陳寿魏志倭人伝旅程は歴訪日加算方角距離のみが正確

 やっと追試を始めたマスコミ。「日韓がタブーにする半島の歴史」室谷克美著10.4.新潮新書。田母神諫言も、ネット常識の追試である。

2009年の旅、常識を羅針盤にイザ邪馬壹へ!

 従来の歴史学者の間違いは、無意味の歴訪見聞録日数、水行十日陸行一月を、距離計算したことと、海洋民の命、方角距離の改竄である。訪倭日数は何度も往来があると記載されているので、双方の常識、水行二十日だろう。三国志魏志倭人伝目的は、位置(方角距離)と見聞録である。水行十日陸行一月には、三国志韓伝と三国志倭人伝両方の見聞歴訪日数が含まれているので、従来の距離計算は愚論。

 倭人在帯方(黄海北道の南浦・『後漢書倭人伝』「隋書俀国伝」から想定)東南女王國萬二千餘里(720km余)は、佐賀県庁。道行全てが、この一直線上に在る。郡(南浦)七千餘里(420k余)→北岸狗邪韓國千五百里(始度 一海。北岸から一歩一歩進み90k巨済島で、やっと一海。ここまで三国志韓の条記載)→巨済島千餘里(60k余。ここから三国志倭人の条記載)→對海國千餘里(60k余)→一大國千餘里(60k余)→末盧國東南陸行五百里(30k)→伊都國南→投馬國南→邪馬壹國女王之所(佐賀)。一里=60kmは、一大國方可三百里=壱岐長辺18kと、對海國方可四百餘里=下県郡長辺24kから算出。「方」は一方向、二方向の場合は「地合 方四千餘里・同時代の『後漢書韓伝』記載」となる。「參問倭地・・・周旋可五千餘里」も、倭地は女王國基点周300k餘内の地となる。このように三国志の方角距離は見事に正確で、正に適者生存した子孫なのである。

 ものの道理に基づけば、誰でもがピタリとたどり着けます。常識説なので、無道理飛び石思考の歴史学者は無理でしょうが、道理が基の考古学者や皆さんは、諸手を挙げると確信します。イザ邪馬壹へ!

日本人のルーツ

 20代の半ば、仕事で三重県尾鷲市の幼稚園を訪問、園長先生に面会、名刺を差し出した。名刺をじっと見つめた初老の女園長先生は、「宮城県でしょう、出身は」。「そうです、どうして分かりましたか」おどろき問い返すと、「私の亡くなった主人も同じよ」と言いつつ、同姓の名刺を取り出した。三重県尾鷲市と宮城県、陸では遠隔の地であるが、古くから漁船の交流があり、隣町のようなものと、話に花が咲き、懐かしげに語っておられた。数十年前のことであるが、今でもこの事が鮮やかに思い出される。点から点への移動、陸はジンギスハーンの馬、海は船。地中海の船、バイキングの船、大航海時代の帆船、卑近な例ではドラクエの船の入手、文明の加速は全て船が起点である。島国日本、船の発明、船を語らずして古代は語れない。

 7万年~1万年前の氷河時代最後の氷期に、大陸からナウマン象を追い氷河を渡り、後期旧石器人、モンゴロイドが渡来し海や山の民として定着。後に船が発明され、山の民から別れ、あま(海)の民として日本海海洋文化圏を築く。一方船を発明した南方のモンゴロイドも、陸伝い島伝いに北上し渡来、揚子江河畔の船を発明したモンゴロイドも渡来し、在来のモンゴロイド(山の民、海の民)と融合した。モンゴロイド海洋文明圏を築いたあま(海)人、そして水稲文明圏を築いたあま(天)人。かれらが日本人の先祖と言える。耽羅(済州島)や半島南の祖先でもある。

 日本最古の黒曜石は.、3万5千年前頃の武蔵野台台地の旧石器時代遺跡から出土。和田峠、箱根が主体で、神津島産が少量混在している。神津島は下田から南南東60キロにある黒曜石産地の島、現在の水深200mで、当時以来、本土とは繋がってはいない。5千年前頃の縄文中期には、能登半島伊勢湾等2百キロ圏まで、分布を拡大した。北海道白滝産黒曜石は、アムール川下流マラヤガニ遺跡、サハリン州サバトナヤ遺跡、新潟県で出土。佐賀県腰岳産は5千年前頃の水佳里や東三洞貝塚で出土。ちなみにヨーロッパでは、南ギリシャ、フランキティ洞窟、1万2千年前頃の中石器の層から発掘された黒曜石が、2千キロ離れたエーゲ海のミロス島産とされ、世界最古の「海上交通」の始まりとされていた。「遥かなる海上の道」2002小田静夫著青春出版

 古くから黒曜石日本を中心とした海洋文化圏として中国揚子江、朝鮮半島南(百済、新羅、任那)、耽羅(たんら、済州島)、南西諸島、五島列島、対馬、壱岐、九州(南方文化)、島根(出雲)、隠岐、能登、佐渡、新潟(越)、瀬戸内海、黒潮ルートの尾鷲が存在し、文化を共有する地中海文明と同様の海洋人がいた。

 黒曜石の伝播が、海洋文化圏の隆盛を促進し、あま(海)の道が、米の伝播を促進した。古代日本、あま(海)の民は日本海を制し自由に航海、大陸や半島沿岸に黒曜石文明を伝播、居住した。九州の黒曜石が沖縄本島(佐賀県の腰岳や、朝鮮半島南部釜山広域市影島区(ヨンドグ)にある東三洞(トンサンドン)貝塚(佐賀県の腰岳、大分県姫島で、隠岐と脇本(秋田県)産の黒曜石が、ロシアの沿海州で、確認されている。黒曜石研究の動向
 

あま(海)の民日本海洋民が支配していた海

三国史記巻第二新羅本紀第二

 12(西暦295)年春に、王が臣下に向かって「倭人が、しばしば我が領土を侵して来るので、・・・一時海を渡って行って、その国(倭国)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」

 これに対して、弘権が「我々は海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。――」

 王はこれを聞いて「それもそうだ」といいました。

 韓半島住人は、海洋民を倭寇と呼称し、自らは海洋民でないことを自白している。日本海呼称は、海洋文化圏を築いたあま(海)の民日本の、由緒ある名称である。由緒なき東海朝鮮海などではない。

 

文明の伝播は地中海文明や、大航海が示すように、海路がはるかに速い。北方民族が陸路最南端の地に辿り着き、文明を開いたので無いことは、南下途中の継続文明皆無や、同時期発祥の共通文明で証明済み。古代の朝鮮半島南部人は、中国と日本の海洋民族が祖先であることは明白である。

完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同時に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島は火山島なので畑作中心だが、海洋人の寄港地として栄えた)国が生まれた。朝鮮北方には皆無の半島南に限定された日本と同様の文化は、日本と百済、新羅、任那が同一文化圏を物語り、日本の支配下にあったことを証明している。百済人、新羅人、任那人は、現代の東北人、名古屋人、大阪人のような地域呼称で、三韓と耽羅の基礎民族は朝鮮人ではなく海洋民の倭人。したがって桓武天皇(737~806)の母(母は土師真妹)の父(百済系氏族の和之継)は、百済出身の日本人で、北方民族と日本人が混血した、現代の朝鮮人ではない。

 三韓(馬韓弁韓辰韓)も三国(百済伽耶新羅)も、祖先は、海洋民の日本で、当時は日本海洋文化圏の一部であった。北方民族と混血した現代韓国人とは異なるのに、愚考を繰り返す韓国人(2012/11/24古墳・寺院の随所に韓民族の息吹「日本の中の韓民族史探訪」)。(2012/12/15真逆に捏造する妄想韓国人)。
 古墳・寺院の随所の息吹は日本海洋文化圏日本民族の息吹で、北方民族と混血した現代韓民族の息吹では無い!

 

檀君朝鮮
 後の高麗時代に編まれた「三国遺事」で、朝鮮全土の始祖神とされた。今の平壌に都し、治世1500年、1908歳の長寿と記されている。

箕子朝鮮
 箕子は殷の王族で、殷の滅亡で逃れ、朝鮮半島北西部の王険城(現、平壌)に建国し、衛氏朝鮮に滅ぼされたという、伝説の国。

BC195108年衛氏朝鮮。華北の燕(北京に都した)から朝鮮に逃れた衛満が、王険城(現、平壌)に建てた王朝。

BC108年 中国漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、玄菟(遼東に移転)・臨屯(楽浪東から北東、ほどなく廃。後に濊貊)・楽浪・真蕃(楽浪以南、ほどなく廃。後に三韓)の4郡を置く。史記(中国正史の第一。前97年頃成立)(注・ここまでは皆、平壌界隈以北中国絡みのみの歴史である)。

AD204年頃 朝鮮楽浪郡南半分に、帯方郡が設けられる。

BC108 ~4世紀中葉朝鮮原三国時代・楽浪郡馬韓辰韓弁韓

濊貊(わいはく) 後の不余高句麗の祖先、狩猟牧畜が主で農耕は従。半島北部から中部の日本海側に住んでいたツングース系民族。

楽浪郡 B.C.108年 中国漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし置いた4郡の一つ。韓半島中部の西で、東はわい貊(はく)、中心は現在の平壌界隈。北部朝鮮楽浪は、中国植民地として長く栄えた。

帯方郡 204年頃遼東の公孫氏が南半に帯方郡新設、東で接する「わい貊(はく)」南の三韓に備えた。今の黄海南道からソウル界隈が南限。313年高句麗「わい貊(はく)」に滅ぼされ、後に百済領。

三韓と倭 三世紀中国の文献に書かれた三韓

『三国志魏書』馬韓伝。中国の文献『三国志』魏志の東夷伝韓の条

 は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、方(南北)は四千里(1里60km×四千里=240km)ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない」。

『後漢書』馬韓伝

「韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡南に倭と接している。辰韓は東に在り、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。(地合方四千里)土地は方四千余里を合わせる東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である」。

馬韓 楽浪郡の南、辰韓の西、南は倭。250年頃54国に分立、住民は稲作養蚕織布を知り、国々に臣智・邑借という首長を有し、3世紀には祭・政が分かれていた(注・邪馬台国と酷似する)。この中の伯済国が350年頃百済建国。

辰韓 北は貊(わいはく)と接し、西は馬韓、南は弁韓。漢江以南で洛東江の東、今の慶尚北道界隈。250年頃12国に分立、この中の斯慮が統一し、356年新羅と改称。

弁韓(弁辰) 辰韓の南馬韓の東、250年頃12国に分立、南は倭。洛東江の中下流域。後に加羅(伽耶)諸国(任那)として倭と密接な関係有り。562年新羅に併合。

 上記三韓南、全てが海洋民倭の支配地。

 三韓はいずれも川と平野が数多で、水稲好適平野は馬韓が最多、結果が54国の分立。南部海洋民子孫が水稲で隆盛を成し、水稲民と成り北上、三韓となり、北部中国人や狩猟遊牧民ツングース系民族との対立が窺い知れる。狩猟、答えは明白、米が凌駕した。南部海洋民→水稲民→三韓(水稲)→新羅(水稲)→高麗(水稲)→李氏朝鮮(水稲)。仏教も南部が起源で北上。この事は、海洋民を始祖とする水稲民文明が半島を北上、狩猟遊牧民南下文明と融合し、韓半島文明の基盤と成った事を、明解に語っている。韓半島基礎民族は水稲民。したがって、朝鮮人の真似中華、済州島(耽羅)や南部差別は、ご先祖冒涜の愚行で無知の自白となる。

 

稲の伝播が語る歴史

日本、旧石器時代、約3万5千年前からで、終りは約1万3千年前。

1万6千5百年前から約2700年前、日本、縄文時代。縄文式土器。稲の陸稲栽培開始の時代

 稲の陸稲栽培・焼畑稲作。水田を使わない稲作。

 稲の水耕栽培・田に水を張り(水田)、その水の中に苗を植えて育てる。種から収穫まで、陸ですべて終えるよりも、水耕の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどの場合、水田を使っている。

 イネの品種には、ジャポニカ「日本型・温帯ジャポニカ(水稲)と熱帯ジャポニカ(陸稲)」・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)がある。

 稲の陸稲栽培 熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なり、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついている。 

 稲の水稲栽培 温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に分布している。弥生時代以降の水稲は温帯ジャポニカである。

 ・・・揚子江沿いに在った「長江文明」を発見したのは国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏らでした(1996年)。この中国南方長江文明は、畑作中心の中国北方黄河文明に対し、稲作中心で、ジャポニカ種が栽培されていた。

 

 安田喜憲教授によれば、『今のところ、稲作の起源は、少なくとも8,600年前までは、確実に遡れる。もし、土器にある圧痕が稲作の証拠とすれば、少なくとも11,000年位前までは確実に遡れます。玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡や仙人洞遺跡では14,000年前まで遡れる可能性が指摘されているという段階まできている』。「長江文明の探求」 監修・稲盛著者・梅原・安田 新思索社刊 2004,8,30発行)

 1万2000年前 中国陸稲栽培 長江中流域にある江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が続々と発見。焼畑による陸稲栽培と考えられている。

 7000年前 中国水稲栽培 長江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村から約7000年前の水田耕作遺物が発見されており、稲の水田耕作は長江下流に起源。

 稲の陸稲栽培の伝来 日本へは、まず、江南から熱帯ジャポニカが南西諸島を通って伝播南九州へ(黒潮ルート)。

 

 稲の水稲栽培の伝来 長江下流域から直接北九州に伝来(対馬暖流ルート)。江南から西南諸島を経て南九州へ(黒潮ルート)。温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、南方経由の可能性が高いとされる。佐藤洋一郎「DNAが語る稲作文明」

 

捏造ルート 遼東半島から朝鮮半島南部を経て北九州に伝来(朝鮮ルート)。かつてはこの捏造された朝鮮ルートが有力視されていたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米、紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れない点、極東アジアにおける温帯ジャポニカ種/熱帯ジャポニカ種の遺伝分析において、一部遺伝子が朝鮮半島を含む中国東北部から確認されない点などの複数の証拠から、対馬暖流ルートや黒潮ルートによる日本への伝来が、2000年近く早かったという学説が有力視され、朝鮮ルート否定。

 

 ・・・中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これらには小文字のaからhまでの字があてられる。aからhまでの変形版がどこに位置するかを調べると下記のようになる。

 

SSRの多型からみた温帯ジャポニカ(水稲の渡来。

日本の品種 abcの3種類(が少ない)

中国の品種 abcdefghの8種類全品種あり (aが少ない)

朝鮮の品種 acdefgh の7種類 (aが60%)

 唐古鍵遺跡(奈良)と池上曽根遺跡(大阪)の炭化米からもこの遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥生時代中期(約2100~2200年前) の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた事がわかる。すなわち、2000年前明らかに中国大陸から遺伝子を含む水稲が渡来してきたことが実証できるのである。見えてきた稲の道1
(注・上記では。単純に「中国大陸から遺伝子を含む水稲が渡来」としているが、中国渡来説では、朝鮮に遺伝子欠落の説明がつかない)

仮説をたててみよう。温帯ジャポニカ(水稲の伝播。

1・4、200年前に訪れた寒冷化によって、中国北部の稲作牧畜民(漢民族、品種の稲所持)が南下し、稲作漁労民(a品種の稲所持)である長江文明を、攻め滅ぼした。中国の長江文明は崩壊したが、稲作漁労民(a品種の稲所持)はさらに南下して定住、aを栽培。

2・最古の品種aは、対馬暖流ルートで紀元前7世紀(2600年前)日本伝来。日本aを国内や朝鮮南に伝え、国が誕生する。

3・日本、新たな品種bcを得てabcとなる。(cは極少)

4・中国は更にdefghの新たな品種を得る。acdefgh

5・朝鮮中国の属国となり、cdefghを得、紀元前日本から伝来のaを加えacdefghとなる。

6・日本、品種bを中国に伝える。

7・中国、日本から伝来したbを加え、abcdefghとなる。

 

 陸稲熱帯ジャポニカや、南方長江下流原産水稲温帯ジャポニカ(緯度は日本の屋久島)が、中国北方の遼東半島や朝鮮北部(緯度は青森)に北上し、南下して伝播(北九州)は誰が考えても不可能で、痕跡も皆無。長江下流から北九州は、船のほうがはるかに近く、対馬暖流に乗れば、寝てても北九州に到着する、地図を見ればすぐわかる素人の常識問題だ。捏造は迂回するが、文明は迂回せず。

 

日本の稲の起源

 「プラント・オパール」とは、植物の葉の細胞に含まれている珪酸体というガラス質の小さな結晶(40~60μm)のことで、葉っぱに触れて手や足を切ることがあるのはこのためだ。このプラント・オパールは、葉が腐っても土の中でずっと残ることが知られており、これを分析することにより、稲作の起源を調べる試みが続けられている。

 

 この手法を開発したのは宮崎大学名誉教授の萩原宏志氏で、現在までに確認できた稲作の痕跡は全国9カ所の遺跡にあり、約6,000年前から見られる。(ただし現時点では、プラント・オパールの発見だけでは、それが野生種か栽培種かを区別できないことから、稲作の確実な証拠とはされていない)

 

 ,000年前陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6,000前の地層から稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例めだが、今回は化石が多量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。縄文時代前期にまで遡れる。高橋護・元ノートルダム清心女子大教授ら研究グループは、プラント・オパールが大量だったことや他の食物も有ったことを「縄文前期の本格的農耕生活」を裏付ける根拠とし、水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。読売新聞,2005,2,19 2につづく

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真実史観2海洋民と黒曜石と丹と水稲が語る邪馬台国と卑弥呼

 ,600年前(紀元前600年)水稲(温帯ジャポニカ)栽培わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。

 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県の上ノ原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールに至っては、後期後半の西日本各地の遺跡から30例発見されている(外山秀一さん、皇學館大学)。縄文時代の前期以降、西日本の各地で稲作が行われていたことを示す証拠である。このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

 石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも分かってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教観があったことも確認されている。

紀元前8百年~3百年(炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた)日本、弥生時代。弥生式土器。稲の水稲栽培開始の時代。

 紀元前9世紀に、大陸や南西諸島から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。 弥生時代早期に完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、弥生時代前期中葉には東北へと伝播し、青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村垂柳(たれやなぎ)遺跡などからも見つかっている。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及した。また海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同様に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島)国を生んだ。

 これまでの自給自足狩猟採取移動の生活を、稲の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水田作り、水路作りは集団が協力しないと出来ない。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力して作業に当たった。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進んだ。中国から農耕具の青銅器や鉄器も輸入し使用した。さらなる開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされ、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生した。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。稲の水稲栽培が国を造ったといえる。

 水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。

 

 このようにして、狩猟採取定着の、あま(海)海洋文明集合体から、農耕定着の、あま(天)水稲文明集合体に権力が移動した。あま(海)の衰退ではない。あま(天)のほうが大きく勃興し、はるかに巨大化したため、権力は禅譲されただけである。あま(海)は以後も隆盛を成し、島国日本の礎となった。水稲栽培は天候が命、集合体の命の要、あま(天)を神とし、太陽を最高神として崇めた。卑弥呼(日水子、日巫女の当て字であろう)、天照大神となり、現代に至る。日海子、日水子(卑弥呼、日巫女)、天照大神となり、現代に至る。

 佐賀県の腰岳、大分県姫島、島根県隠岐、秋田県脇本、瀬戸内海や黒潮ルートあま(海)の子孫は、競合しながら同様に進化し、一つとなった。

 

黒曜石が語る邪馬壹国と卑弥呼

 前述のように島根県隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州で発見され、島根県出雲神話は、あま(海)の民、古代海洋国家を物語っている。

一方、九州佐賀県伊万里腰岳産の黒曜石も、沖縄本島や朝鮮南部で発見され、大分県国崎半島東端の姫島産も朝鮮南部で発見され古代朝鮮南部は、日本同様のあま(海)の民海洋文明圏で、3世紀末の魏志倭人伝にも、倭人の北岸狗邪韓国と明記され、中国も公認の、黒曜石海洋文明圏の継続を物語っている。

 黒曜石、稲、
青銅器鉄も、あま(海)の民が最初に入手し隆盛、伝播した。隆盛した国家(稲を最初に入手)魏志倭人伝中の邪馬壹国は、九州佐賀県伊万里腰岳黒曜石や、大分県国崎半島東端の姫島黒曜石を生業とした海洋文明国家あま(海)の民、子孫を物語って余りある。

 
魏志倭人伝中「其山有丹」と記載された丹(丹砂、辰砂)は、いずれにも産地有り。青銅器、鉄の伝来で黒曜石はすたれたが、あま(海)の道で得た稲と、あま(海)の道の交易(丹や稲の伝播と、青銅器鉄の入手伝播)で隆盛を築いた。祭神も、あま(海)とあま(天)になり、卑弥呼(日水子、日巫女)があま(天)に使えるようになった。当然、あま(海)の道の交易で、太陽神信仰や諸々のものも、同時に各地に伝播され、また、入手もした。

 

真実史観で検証魏志倭人伝邪馬台国と卑弥呼

 あま(海)の民の世界は、板子一枚下はまさに地獄、方角距離の間違いは死である。正確だから生きて海洋文化圏を築けた。

 これまでの実技無き仮想現実界の歴史家は、この現実界の道理を簡単に無視、魏志倭人伝記載の距離方角を間違いとし、勝手に書き換え解釈、日本を混乱の坩堝にした。

 歴史には流れがあり、理由もなく突然邪馬壹國
や卑弥呼が生まれる訳など無い。戦後の迎合識者と同じである。現代文明などワット以後の化石燃料文明、たかだか250年である。鳥も渡り鮭も回帰する。古代人には現代人が失った鋭敏な、確かな五感があった、矮小判断すべきではない。

 前述のように、あま(海)の民により山の民に水稲がもたらされ、あま(海)の民と山の民とが融合し定着、大集団となり、国が生まれ、やがて国家が連合した。卑弥呼の時代は正にその時代といえよう。

 

中国の文献に書かれた倭と韓

『三国志』(魏志・呉志・蜀志)。三国(魏呉蜀・184~265)時代に関する史書(280~289年完成)。

『三国志』(魏志東夷伝)。夫余、高句麗、東沃沮、わい、韓、倭などの史書。

『三国志』(魏志東夷伝韓の条)。通称『三国志韓伝』。韓・馬韓・辰韓・弁辰(弁韓)の史書。

『三国志』(魏志東夷伝倭人の条)。通称『魏志倭人伝』。倭人の史書。

『後漢書(じょ)』(東夷伝)。通称『後漢書馬韓伝』。南朝宋の范曄の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その東夷伝。「続漢書」には『三国志』未記載文もあり、『三国志』と同じ資料を基にしている可能性もある。「続漢書」は『三国志』と同時代だが、完成は後である。

『三国志韓伝』韓國 乍南乍東」の見聞録

 は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し(狗邪韓國)「方可四千里」方(南北)は四千里(1里60km×四千里=240km)ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない」

 ・・・又有洲胡 在馬韓西海中 大島上 其人差短小 言語不與韓同 皆コン頭如鮮卑 但衣韋 好養牛及豬 其衣有上無下略如裸勢 市買韓中。

『後漢書韓伝』

「韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡南に倭と接している。辰韓は東に在り、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。「地合方四千里」土地は方四千余里を合わせる、東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である」

『後漢書倭人伝

 其大倭王居邪馬臺国 楽浪郡徼去其国万二千里 其西北界狗邪韓國七千余里 其地大較在曾稽東冶(原文は治)之東 

『後漢書弁辰(弁韓)伝』

 馬韓之西ゝ海上有洲胡国 其人短小 コン頭 衣韋衣 有上無下 好養牛豕 乗船往来 貨市韓中。

「隋書俀(タイ)国伝」隋代(581~619年)去楽浪郡 境及帯方郡 並一万二千里。

『魏志倭人伝』倭国の見聞録

 中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)の東夷伝倭人の条をいう。「三国志」全65巻は280年~289年に完成している。全文で2008文字。「三国志」はその後、歴代王朝が木版本を刊行し現存は6種類。12世紀中葉に作られた南宋の紹興本が有名。日本で最も入手しやすい魏志倭人伝資料は、石原道博編「新訂 中国正史日本伝1」。百納本(張元済が20世紀に刊行)の「倭人伝」写真版が掲載されている。

陳寿について

  魏志倭人伝は魏の後継の晋、著作朗という官職にあった西晋(216~316年。317~420年を東晋)の陳寿(蜀の国で誕生233~297年)が著者。3世紀末(280~290年)に書かれた同時代の見聞録である。著者陳寿の死後、正史となる。陳寿は蜀の皇帝に仕えた後、浪人となり魏が晋に滅ぼされた後で晋に仕えた人。魏には恩顧はない。つまり魏に都合のよい話ばかりを魏書に書く必然性は低い。三国志の編纂に取り掛かったのは西暦280年とみられる。同じ歴史家の夏侯湛(かこうたん)は陳寿の三国志を読んで、その内容に感銘、自著である魏書を自ら焼き捨てたと言わている。陳寿の三国志は、文章が簡潔で感情に左右されることなく冷静、公平に書かれている。

「魏志倭人伝」

「魏志倭人伝」と『後漢書倭伝』

 范曄が著した『後漢書』東夷伝は『魏志倭人伝』より後に書かれている。しかしその内容は「魏志倭人伝」にない「桓霊間倭國大亂」などの記事がある。司馬彪の『後漢書倭伝』は、「魏志倭人伝」の原史料を見ているのではないか。

「邪馬壹国」と「邪馬臺国」と「祁馬臺国」

 現存の『三国志魏志倭人伝』の版本は、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。

 同時代だが後に書かれた「後漢書倭伝」では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書倭伝』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」。原文は「邪馬壹国」

『魏志倭人伝』の「景初2年」と「景初3年」

 『魏志倭人伝』は景初(238)年。

 『梁書』や『太平御覧』引用の『魏志』では、景初3年(239年)が遣使の年。

 景初2年8月23日(238年)公孫淵が司馬懿に殺された(『三国志』魏志公孫淵伝)。魏が帯方郡を治めたのは、それ以後と言うのが理由。原文は景初2(238)年

魚豢の魏略(逸文)や司馬彪の「続漢書」等も参照した大まかな原本を、さらに検証し距離方角等詳細を極めたと、陳寿「魏志倭人伝」は語っている。があるが、魏志倭人伝をありのままに読む。水行陸行は通過では無く見聞歴訪。距離方角のみが正確。
 

 国名、方角、距離、国の特徴だけを抜書き。全文は後述。原文はスペースなし。国名は表音記載なので、限定せず、辞典の字音を記載。

「對馬國」と「對海國」

 「對海國」(中国側呼称)は宋紹熙本。「對馬國」(日本側呼称)は宋紹興本。一大國(中国側呼称)。壱岐(日本側呼称)。

(ワ・吾。我。和。イ)人居住地

倭人在 帯方(出発地点南浦)東南 大海之中 依山島爲國邑

 倭人の住んでいるところは帯方の東南、大海の中。山や島に依りそって、国や村を為している。

 注・「依山」がヤマトの語源か起点南浦は、隋書隋書俀(タイ。(大))国伝、「古云 去 楽浪郡境及 帯方郡並 一万二千里」からの仮説。

国北岸(ガン・行き詰まりのがけ)(ク、コウ)(ジャ、シャ、ヤ)(カン、ガン)

郡 至 倭 循海岸水行 韓國 乍南乍東  其北岸狗邪韓國 七千餘里

 郡より倭に至るには、海岸に循(沿)って、水上を行き、陸行韓國は、乍(たちまち)南乍(たちまち)東と東南に歴訪(韓の条、倭の北岸(行き詰まりのがけ)、狗邪韓國に到る。郡より七千餘里の距離である。注・帯方郡ソウル説は、循海岸水行が否定した。ソウルなら水行の必要は無い。歴韓國 乍南乍東は、『三国志』魏志の東夷伝韓の条の、韓國歴訪でもあった。韓國の領域は、郡から北岸狗邪韓國間で、方(南北)は、四千里(後述・1里60km×四千里=240km)、東西は海で尽きる。旅程は以下も歴訪、旅程の距離論争は愚論

(ツイ、タイ)(カイ)國・(ツイ、タイ)(マ、バ、メ)

度 一海 千餘里 至對海(對馬)國 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

 倭の北岸より一歩一歩進み、やっと倭の北岸よりここ渡航地までが千五百里)一海、千餘里、對海(對馬)國に至る。居住地は絶島で、島の方(⇔領域)は四百餘里可(ばか)り。土地は、山險しく深林多く、道路は、禽(鳥)や鹿の徑(こみち)の如し。千餘戸有るが、良田無く、海物を食し自活、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

(イツ、イチ)(タ、ダイ、タイ、ダ)國・壱岐

又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 方可三百里 多竹木叢林 有三千許 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴

 又南一海を渡る。千餘里、名を瀚海(かんかい)と曰い、一大國に至る。島の方(⇔領域)は三百里可(ばか)り。竹木叢林多く、三千許(ばか)り家有り。差(やや)田地有るも、収穫少なく食不足。ここも同様に、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。と記載は、何らかの集団(兵士?)と観た!

末盧國

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之

 又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・末盧國だけが、官記載無し。

伊都國

東南陸行五百里  伊都國 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐

 東南に陸行五百里、伊都國に到る。千餘戸有り。世(よよ)(代々)王有り。皆女王國に統屬。郡使往來の時、常に駐(とどま)る所。

奴國

東南至奴國百里 有二萬餘戸

不彌國

至不彌國百里 有千餘

投馬國

南至投馬國 水行二十日 五萬餘戸

邪馬壹國

南至邪馬壹國 女王之所 水行十日陸行一月 七萬餘戸

狗奴國

其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王

其の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。

郡至女王國

郡至女王國 萬二千餘里

自り女王國に至る、一萬二千餘里。

注・ここまでが、自り女王國に至るための方角と距離。そして、自り歴訪日数

2009年邪馬壹國へ真実史観一直線上の旅

 方角と距離が正確だったから海を制し、戦国時代(三国志)を制し適者生存した。直線距離と方角は正確とみなすのが道理。

出発地点帯方?

 郡は、循海岸水行(海岸に循(沿)って、水上を行き)とあるように、現在の南浦(黄海北道の南浦・『後漢書倭人伝』「隋書俀国伝」から想定)から黄海南道西岸、南岸が自然だ。ソウルなら水行の必要は無い、帯方郡ソウル説は、誤謬。狗邪韓國も、(歴韓國乍南乍東 北岸狗邪韓國) とあるように、東三洞(トンサンドン)貝塚もあり、現在の釜山界隈が自然ではないか。

魏志倭人伝の一里?道行全てが一直線上!

 魏志倭人伝中で現代と間違いなく一致する所が、一大国=壱岐である。しかも方可三百里(島の方⇔領域は、三百里ばかり)とある。壱岐長辺南北18kmを、三百里で割ると、一里は60mとなる。次に該当する下県郡(南対馬)長辺南北24kmを、四百里(倭人伝は四百餘里)で割ると、一里は60mとなった。「方」は一方向、二方向の場合は「地 方四千餘里・同時代の『後漢書韓伝』」となる。魏志倭人伝の一里は、里ではなく方可三百里と記載の60mを用いる。倭人在帯方(南浦)東南女王國萬二千餘里(720km余)は、佐賀城址。道行全てが、この一直線上に在る郡(南浦)七千餘里(420km余)北岸狗邪韓國千五百里( 一海。北岸から一歩一歩進み90km巨済島で、やっと一海。三国志韓の条記載→巨済島千餘里(60km余三国志倭人の条記載)→對海國千餘里(60km余)→一大國千餘里(60km余)→末盧國東南陸行五百里(30km)→伊都國南→投馬國南→邪馬壹國女王之所(佐賀)。 3につづく⇒

真実史観3郡~東南一直線女王国佐賀常用水行二十日を水行十日陸行一月ああ!

末盧國?末(バツ・伐。マツ・松。末。待。俟。バチ・撥。鉢)盧(ロ・路。ル・留。縷。流)國

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之

 又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・末盧國だけが、官記載無し。

 これだけの航海をしている、疑いも無く倭人はあま(海)の民でもある。邪馬壹國はあま(海)の民からはずしては語れないのは明白である。對馬國、乗船南北(九州や韓半島)市糴、一大國、亦南北(九州や韓半島)市糴とある。海洋民あま(海)の民である、船で行ける所までは行って、陸行が自然。末盧國から「東南陸行五百里  伊都國」である。陸行は川沿いが自然だ。福岡、唐津、伊万里が候補地となる。福岡は当時も大平野で港、数万は想定できる。「有四千餘戸」ではいかにも物足りない。「南北市糴」の常用ルートからは、遠い。「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛」とある。あま(海)の民の黒曜石産地佐賀県腰岳、ふもとの伊万里も、記載条件を満たしてはいるが、「亦南北市糴」の常用ルート最短は唐津、そして官記載無し。末盧國は、松浦川がある唐津界隈が妥当。

 6,000年前陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培縄文前期の本格的農耕生活。水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

 ,600年前(紀元前600年)水稲(温帯ジャポニカ)栽培わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。

 これまでの自給自足狩猟採取焼畑農業の生活を、米の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水稲は水が不可欠、川沿いに移動し水田作り、水路作りに集団であたった。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力は必須の要素。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進み国が生まれた。

 川沿いに国が生まれたのである。初めは高低管理し易い上流、進歩に従い下流へ。下流は平地が多いので開田し易いが、高低差がないので水管理が難しいのと、氾濫で壊滅し易い。両刃の剣ではあるが、大量の収穫を得られる。水田管理が進化し、下流を制した集団が大国を築いたであろうことは、うかがい知れる。水は上流から下流へ流れる、下流を制した集団は、当然上流も支配は必須なので支配した。いわば一つ一つの川が一つ一つの集団国家と言える。
 倭国大乱は、上下流支配で統一するまでの過渡期の水利権争い、であったろう。
倭国水稲栽培発祥の地は皆山裾、山ト「土(土地の神、田畑、国)、処、門」である。古称ヤマトは、正にふさわしい。

 黒曜石を半島日本に伝播した海洋民あま(海)の民は、陸稲(熱帯ジャポニカ)入手も先駆け栽培伝播した。「里」は区画した「田」、「畑」が本来の意である。中里、二里、伊万里、有(あ里)田、佐里、伊万里界隈は多い。

 当然水稲(温帯ジャポニカ)栽培も先駆け伝播した。食料を安定確保した栽培の民の人口増加は、必然。不可欠の水、川の新天地を求め集団で移動、各河川に定住した。当然、近隣の松浦川流域にも定住した。

 そして、伊万里南東30キロ、唐津南東30キロは、佐賀県、数多の河川と伴う平野、水稲栽培絶好の新天地伊都(いつ)である。有明海に注ぐ河川平野部上流伊都(いつ)は、どんなに輝いていたか、それは、国名伊都(いつ)国が証しだ。注・「厳・稜威」(いつ)は、食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑

 伊万里から松浦、多久、小城、川上、鶴、鳥栖、基山。伊万里から有田、北方、江北、牛津。山間部は川沿いに、平野部は山裾沿い、西から東に移動定着し、灌漑や栽培技術の進歩に伴ない、南の下流にも定住した。古道は、渡河頻度最少の河川分基部、山裾沿いが常道。末盧國(唐津松浦川河口)から東南直線30キロ(五百里)は川上である。川上界隈の古道沿いが、伊都國中心部と推察できる。

 推察による意訳文。「末盧國(唐津松浦川河口)から南下し、多久、小城と、古道を西から東に行き、玄関伊都国到着。さらに東へ続く道路を行けば百里で不彌國。東南百里には奴國がある。郡からの常用旅程は水行二十日、伊都国南投馬國到着。郡から水行十日陸行一月、投馬國南邪馬壹國に到着。ああついに、女王の居る都に着いた」。陳寿は、玄関伊都国からの東西南北を簡明に記した。

 

伊都國?伊都(ツ・ト)國=イツ・厳・稜・斎・稜威)國。伊(イ・斎)都(ト・所。門。渡。人。杜。都。ツ・津。通。都(とりしまること)國。斎(けがれのない、神聖な意)。開拓当初はいつ(厳・稜威)の地だが、この水稲栽培下流隆盛の時代には、変化の可能性はある。表意は(斎)(所。門。渡。杜。都。処)。

 倭=ヤマト(山土)→大倭・大和(元明天皇期二字表記)。大(和、倭)は、倭(和)が融合しての、大きな和(倭)の意か。該当地界隈の大和は、1954年、三村合併後だが、無意識での命名か

 

東南陸行五百里  伊都國 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐

 東南に陸行五百里、伊都國に到る。千餘戸有り。世(よよ)(代々)王有り。皆、統(おさめ)て、女王國に屬す。郡使往來の時、常に駐(とどまる)る所である。

 は曲がりくねって到着(其北岸狗邪韓國、伊都國)。はほぼ直線で到着、および方向。

 「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」(女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ)と詳細が後述されている。川の管理、諸国検察、邪馬壹國玄関が、主な任務と推察される。

 常識に基づき検証しよう。「魏志倭人伝」は国王への、同時代の見聞録説明紹介文だ、旅程記載は概略から詳細へが常道。

 伊都國は邪馬壹國の玄関。まず玄関の近隣を述べ、そして邪馬壹國へ行き、邪馬壹國の近隣や状況を述べるのが自然。現代でも案内図記載の常道である。

 「魏志倭人伝」は国王が読者。玄関からさらに水行二十日、水行十日陸行一月などは、打ち首もので、そんな不敬な記載は、不可能。記述不備不敬の疑問も呈されず、正史『三国志』「魏志倭人伝」として残ったことは、当時も歴代誰一人、邪道な解釈をしなかったことの、証明である。ましてや同時代の見聞録、当時の常識を元に書くのは当然である。

 帯方郡から「水行二十日」は、頻繁に往来する当時の常用ルートの旅程で、誰が読んでも分かる、常識であったことを物語って余りある。400年後の「梁書・北史」のみが「又・・・」と、粗雑解釈。

 玄関伊都國、南北接する投馬國は、邪馬壹國と同一とみなし、投馬國に従来の常識、常用ルート日数、邪馬壹國に今回の韓国倭国歴訪日数と、混乱を避け分割記載、明解にした。最後に帯方郡からの全距離(自郡至女王國 萬二千餘里)を記載し、まとめている。中国帯方郡からの「倭」への常用ルート日数、今回の歴訪ルート日数、全距離、皆おさまっている。

注・有明海経由、帯方郡までの「水行二十日」の常用ルート、河岸の港が、投馬國に在る可能性は大である。北九州海岸からのルートは、陸行し水行なので誰の目にも不便、不見前人」とある、すたれたのではないか。

 また、後の倭の五王の隆盛、末盧國
の官名記載無しから推察すると、従来の北九州海岸からのルートは、倭の五王の先祖に支配され始めていることが窺える。結果、有明海を常用ルートとしていた。今回は中国帯方郡からの使者なので、倭の五王の先祖も不問に付したが、真相ではないか。

 

奴國?奴「光輝く玉、連ねて首飾りにする)野。沼。・土(土盛りして土地の神を祭ったもの。社の原字で後に土地の神)」國。表意は『國』か「國」。

東南至奴國百里 有二萬

 伊都國から東南百里(6キロ)で奴國に至る。二萬餘有り。

 

不彌國?不(ブ・部。武。奉。フ・夫。フウ・奉。附。府。フツ・。ホチ・)彌(ミ・臣。民。美。水。神。霊。ビ・美。弥。備)國。部(ぶ。渡来物製造集団)。表意は、部民(ぶみん)、部臣(ぶみ。部の家来)。後に変化→武→物部。

至不彌國百里 有

 伊都國から東の百里(6キロ)で不彌國に至る。千餘有り。と記載は、訪れて、何らかの集団(部民?)と観た!

伊都國から不彌國は、行=道路がある。吉野ヶ里遺跡界隈を指示して余りある。吉野ヶ里の歴史は、倭国誕生と邪馬壹國消滅を明白に、語っている。

 

投馬國?投「トウ・統(系統・伝統・血統)。当。陶。等(なかま)。倒。討。闘。祷。稲。踏。ズ・」馬(・間。身。魔。真。磨。摩。澗。バ・メ・)國。表意は、統(系統・伝統・血統)間→伴間(ともま)。伴(とも。職業集団)→伴造→大伴。

南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸。

 伊都國の南投馬國に到着。帯方郡からの常用旅程は水行のみの水行二十日五萬餘戸ばかり。

 「自女王國以北 其戸敷道里可得略載」と後述され、投馬國は「自女王國以北」なのは明白。帯方郡からの常用旅程水行二十日が、最速。

伊都國・郡使往來 常所駐郡使の往来では、常にここにとどまる)と有り。また往来は、度々後述もされており、頻繁にあった。

 「其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰」 渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す)と航海の詳細が後述されているように、「對馬國・・・乗船南北市糴」、「一大國・・・亦南北市糴」と、島民が日常の交通に用いている今回の安全水行ルートだけでなく、厳しいが速い、水行(後述の、皆臨津捜露)の常用ルートがあることを明解に語っている。「水行二十日」の港は、嘉瀬川か、筑後川の流域河畔であろう。

 「南至投馬國 水行二十日」だけを抜書きし、中国人は誰一人「帯方郡から」とは解さないと書いた、分厚い本があった。もちろん日本人でも誰一人解さない。なんと情けないことに、文系作家史家の類は、こんなに常識が無いのだ。摘み食いは解釈ではない、捏造だ。

 ここで常用ルートの旅程を記載し、次の倭国歴訪旅程と対比、理解を明快にした。

 

邪馬壹國?邪(、ジャ、シャ、)馬(、バ、メ)壹(イツ)國

南至邪馬壹國 女王之所 都(越)水行十日陸行一月 可七萬餘戸。

 投馬國南、邪馬壹國に到着。女王居住地に着いた、 (帯方郡からの常用旅程は水行のみの水行二十日なのに、今回は韓国倭国歴訪見聞のため)ああ水行十日陸行一月、長かったなー(今回は韓国倭国歴訪見聞なので、水行十日陸行一月もかかった 七萬餘戸ばかり。

注・は、・・・に至る。は、場所、住所。は、みやこ、ああ、感嘆を表す言葉。陳寿原文草書体「都」と「越」は酷似し、楷書体で写本の際に間違えやすいので、「越」の可能性も有り(草書体で解く「邪馬台国の謎」書道家が読む魏志倭人伝・井上悦文

 常用ルートなら水行二十日の旅程。「魏志倭人伝」に採録なので、韓国倭国歴訪特別ルート、合計水行十日陸行一月(歴訪なので、見聞日も加算)の、韓国倭国東南一直線歴訪旅程記載となった。「從東京至与賀神社・水行一日・至与賀神社 水行三日(四国下船歴訪一日)陸行三日(歴訪二日)」と同じ。事足りた「女王之都」とせず、「女王所 都」にしたかの無検証、 」、「」、「」の、読み違いが混乱の原因。初心に帰り辞書を繰れば判明すること、原点回帰がいかに大事か、物語って余りある。と到着の感動を掛詞にしたともとれる。

 後述された「參問倭地 絶在海中洲 島之上或絶或連 周旋可五千餘里」も、同類。

 倭の地に参り訪ねてみると、中心の洲は絶海に在り。島は、連結あるいは隔絶し、辺りに至り、辺りのは、中心から五千(300k)余里ばかりでめぐる洲・大陸、国。島・小島。之・に至る。上・ほとり、辺り。旋・めぐる。

東大と京大の邪馬台国論争は、原典無検証、検証回路皆無、空論の証明でもある。

 「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、倭國最南端は女王國を指示している。

 七萬餘戸は、あま(海)(漁業)とあま(天)(農業)の民。人口に対応した食料は十分である。

其餘旁國遠絶?

自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

 女王国より北は、その戸数、道を簡に記載しえた。そのほかの国は遠く険しく、詳細は得られない。

次有・ 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌 好古都 不呼 姐 對蘇 蘇(ス・栖ソ) 呼邑 華(ケ・カ) 鬼(キ・クイ) 爲吾 鬼(キ・クイ) 邪馬 躬臣 巴(ヘ・ハ)利(リ) 支(シ)惟(イ・ユイ) 鳥(ウ・鵜。烏。オ) (注・次有と国は、略記) 次有奴國(・・・つぎに奴國有り)。

此女王境界所盡

これが、女王の勢力の及ぶ範囲。

 

 女王国の位置から推察すれば、奴國は、女王国の北で接していることになり、伊都國から「東南至奴國」と合致。また、上記「其餘旁國遠絶」とあるが、南は「其南有狗奴國」、西も「其山有丹」と記載されている。自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、最南端は女王國と語っている。上記其餘旁國」は、女王国北(略載以外の北)、北東、東河川流域各国となる。

注・1784年、博多の志賀島で発見された「漢委国王」金印(57年後漢光武帝)にも、後述の「」にも、上記にも、「」は数多である。「奴(ヌ・ド)」=「瓊(ヌ)光輝く玉、連ねて首飾りにする。土(ド)土盛りして土地の神を祭ったもの。社の原字で後に土地の神は、中国語「國」伝来以前の、「集団、族、国」を表す、日本原語の一つ、南方系原語の可能性が高い。「魏志倭人伝」は中国風に翻訳し、皆「國」を付しているが、当時のは、「瓊・土」から「國」への過渡期で、「國」呼称は未定着ではなかったのではないか。

 

狗奴國?狗(ク)奴(ヌ。ド)國。ク(ヌ、ド)(美しい黒色の石、九の大字)ヌ・光輝く玉、連ねて首飾りにする)。。土盛りして土地の神を祭ったもの。社の原字で後に土地の神)が、正当。意訳すると、(九つの川の国々から成り立つ国)となる。

其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王

 邪馬壹國の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。

郡至女王國?

郡至女王國 萬二千餘里

 郡より女王国までの里程は、一万二千余里である。

一萬二千餘里(12000×0.06キロ+餘=720餘キロ)。

 「郡至倭・・・ 其北岸狗邪韓國 七千餘里」ではなく、「郡至女王國」である。郡自り女王國に至る(佐賀県庁)からの直線距離は、12000里×0.06キロ=720キロ載寧、12500里×0.06キロ=750キロ南浦、12670里×0.06キロ=760キロ平壌、13000里×0.06キロ=780キロ平城。「隋書俀(タイ)国伝」隋代(581~619年)「去楽浪郡 境及帯方郡 並一万二千里」とある。旅立ちは南浦界隈、郡は沙里院・載寧界隈か。南浦から東南420キロが狗邪韓國の北岸道行は、ただひたすら東南へ「魏志倭人伝」は、一直線上見聞録といえる!見聞歴訪日程の距離計算は、愚論!

 後述の「參問倭地 絶在海中洲 島之上或絶或連 周旋可五千餘里」もピタリ符合。

 倭の地に参り訪ねてみると、中心の洲は絶海に在り。島は、連結あるいは隔絶し辺りに至り、辺りのは、中心から五千(300k)余里ばかりでめぐる。720k(佐賀県庁)-420k(郡→韓国)=300k(倭地)。倭地は女王國基点300k餘内の地。銅剣・銅戈・銅鉾圏が現出した。

方角距離のみ抜書き

倭人在 帯方東南 大海之中 

郡至倭 循海岸水行 韓國乍(見聞韓の条) 岸狗邪韓國 七千餘里

始度「其北岸狗邪韓國(見聞韓伝)からやっと大海」岸から大海出港地点までが千五百里

以下(見聞倭人の条)

一海千餘里至對海國

渡一海千餘里至一大國

又渡一海千餘里 至末盧國

東南陸行五百里  伊都國

東南至奴國百里(玄関伊都國起点)

至不彌國百里(玄関伊都國起点)

至投馬國 水行二十日(玄関伊都國起点方角。郡の常用日数)

至邪馬壹國 女王之所 水行十日陸行一月(投馬國起点方角。郡の今回の日数)

有 狗奴國

郡至女王國 萬二千餘里

後述の「參問倭地 絶在海中洲 島之上或絶或連 周旋可五千餘里」

 「郡 至 倭 循海岸水行 韓國 乍南乍東  其北岸狗邪韓國七千餘里 」までが三国志韓の条』、以後が三国志倭人の条』の歴訪で、水行十日陸行一月はその全合計日数。誤解回避と比較のため、常識の旅程水行二十日を記した。しかも日数はこの2ヶ所のみで、浮いており、重要視していない。克明なのは距離と方角。訪倭目的は既知の日数に非ず、位置(方角と距離)と歴訪見聞録に有りを、明確に指示している。

注・佐賀県吉野ヶ里遺跡は長期間にわたって繁栄した集落であり、末期が邪馬台国の時代と重なる。

 現実界の道理が日本を変える。オウム返しのオウムはオウム信者と同類、思考力皆無仮想現実界に自浄力は皆無。4につづく

真実史観4吉野ヶ里不彌魏志倭人伝対訳佐賀卑弥呼墓は径20数m台与壹与イツヨ

 三国志の時代(208年・赤壁の戦いは地理を制した者が勝った)は領土侵略、戦いの時代、方角距離の方向音痴は滅亡。方角距離に長けた者だけが適者生存した。

 海洋民も同様である。皆現実体験無き仮想現実温室界、肝心要なここを否定し迷走した。戦後の日本も同様である。八方が敵の戦国時代、現実界の現実体験者軍の方策として、軍国は当たり前。戦後、現実体験者軍の言い分「現実界の道理」を封印し、仮想現実界の空論侵略戦争(戦国時代を隠蔽した摘み食い。実体は適者生存戦争)だけがはびこった。

 空論ではなく現実に置き換え、戦国時代に自分だったらどうするか考えれば氷解、皆覚醒する。仮想現実界は間違いの繰り返しである。現実体験が無いからだ。現実体験が無い者を仮想現実界住人にすれば、現実界の道理無視の選り食い空論を、又繰り返すのは明白。

 凶産とWGIP妖怪が、贋賞授与までして仕立てた傀儡大江健三郎は、現実界の道理無き選り食い空論の、仮想現実界典型的なサンプルである。こんな輩は無人島に追放がお似合いだ。

 靖国問題、東京裁判、沖縄問題等「戦ったのが悪い」云々は末端論争、仮想現実界右派左派も、末端愚論の繰り返しである。現実界の検証は「戦ったのが悪い」の無検証オウム返しの善悪史観ではなく、「なぜ戦ったか」と検証した真実史観である。

 現実界の検証は、「弱肉強食適者生存戦国時代、蟻でも蜂でも生存を懸け、侵略者に陣地に攻め込まれれば負けなので、一丸と化し陣地から出て戦う。資源無き小国唯一の戦法は、先手必勝」と、瞬時に片付き、論争不要。

邪馬壹國などの表音と表意?方言考慮があるが、指針として試行。

○邪馬壹國表音に該当する読み

邪(ジャ・闍。邪。社。シャ・闍。邪。社。・輻)馬(マ・真。魔)壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)(イン・)國。

意味・(よこしま。有害なこと)。(うてな。二階になった城門。城の外ぐるわの内側にあるまち)。(神社。土地の守護神)。(多くのものが集まる)。(真実)。(まもの)。 

邪馬ヤマ・山(古く、神が降下し領する所として、信仰の対象とされた場所。最も肝要な場所)

イツ・「厳・稜威」尊厳な威光。斎(い)み浄(きよ)められていること。食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑。イツ・稜(おごそか)。イツ・斎(ものいみ)。イツ・稜威(いつ。りょうい。いつえ。みいず。みいつ)きわだった神霊の威光のこと。天子の威光。

表意

邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、闍真イツ・厳・稜・斎・稜威)國

邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、社真イツ・厳・稜・斎・稜威)國

邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、邪魔イツ・厳・稜・斎・稜威)國。

邪馬壹國(やまいつ)國は、輻真イツ・厳・稜・斎・稜威)國。

邪馬壹國(やまいつ)國は、輻魔イツ・厳・稜・斎・稜威)國。

邪馬壹國(やまいつ)國は、イツ・厳・稜・斎・稜威)國。

邪馬壹國(シャマイツ)國は、シャーマンイツ・厳・稜・斎・稜威)國。

○卑彌呼表音に該当する読み

卑(ヒ・日。霊)彌(ミ・水。海。神。霊。ビ・)呼(コ・子。ク・)。

彌呼(ミコ・巫女。神子)。

表意

卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日。霊)(ミ・水。海。神。霊)(コ・女)。

卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日・霊)(ミコ・巫女・神子)。

○壹與表音に該当する読み

壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)與(ヨ・与。予。世)。

表意

壹與(いつよ)は、(イツ・稜威・稜・斎・厳)(ヨ・与・予・世)。

「漢委奴国王」金印。1784年、博多の志賀島で発見された。表音に該当する読み。

漢(カン)委(意味・まかせる)(イ・五。五十。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。ド・(土盛りして土地の神を祭ったもの。社の原字で後に土地の神」国王。

表意

漢(カン) 委(イ・五。五十。。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・。ド・」国王。『漢・(五。五十)』国王。

漢(カン)委(イ・まかせる。ゆだねる) 奴「ヌ・。ド・」国王。『漢委・』国王。

 

丹(丹砂、辰砂)

 丹(丹砂、辰砂)は硫化水銀鉱。水銀と硫黄からなる。倭の水銀鉱は中央構造線沿い、九州西部鉱床群・佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市、九州鉱床群・大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附、に産出する。

 血の色でもある朱、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。・・・施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった」。

 朱丹を身体に塗るというのは元来、中国の風習にもあった。丹沙は、殷代において、朱の顔料としてト骨、王戈、壁画に記されたもの、清め、防腐、邪よけとして遺体にふりかけられたものがあり、秦漢時代においては道家により、精神安定あるいは長生の薬として用いられていたとされる。

 中国の水銀鉱は、砂金に混じって辰砂が存在した漂砂鉱床で、山海経の丹粟に相当し、産出地が10ヶ所挙げられていた。先秦時代の水銀鉱は、湖北省荊州、陝西省南山、四川省水立口陵、甘粛省槐江山が代表とされ、史記、貨殖列伝によれば「巴・蜀で丹沙を産する」とあり、また、「丹沙を重さにして千斤を一年間に取引する人々は年に二十万銭の収益をうる」とされた。どうやら秦漢時代に戦費調達や道家の錬丹術ブームにより、大量に消費され、随の時代には日本から輸入される事態となっていた。

 辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。中国で枯渇した水銀鉱を求めて呉、越あたりの技術集団が渡来し、丹生氏がとりこみ開発した。後に秦氏がこの役割を担う。丹生氏は水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。

 また、丹沙は船舶用塗料として海人族の必需品ともされている。丹には塩と同じく防腐作用がある。(地質ニュース351号)(丹生の民俗丹生都比売伝承)(海人の藻塩海人の國)。

◎丹生(現地呼称は、タンジョウ)神社。佐賀県嬉野市塩田町大野草。◎丹生(現地呼称は、タンジョウ)神社。佐賀県嬉野市塩田町馬場下。

特定してみよう。当事の筑後嘉瀬等の河川流域や海岸線、佐賀県史上巻「嘉瀬川河道変遷図」詳細化と、等高線図遺跡図を駆使すれば、ピンポイントで迫れるが、無い。助力を請う。

 2~3世紀の遺跡は、筑紫平野が圧倒的に多く(日本史再点検・森浩一考古学者の発言)、絹出土は長崎福岡佐賀(海洋民伝播)に集中、機内は4世紀以降(絹の東伝・布目順朗著)。食料が増産されての人口増加、海洋民伝播、桃源郷佐賀を指示して余りある。2009.11.23.

狗奴國は、熊本長崎両県の有明海、島原湾に注ぐ河川流域の国で、有明海島原湾海洋民でもある。北限は筑肥山地。

邪馬壹國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川下流域の国で、北は投馬國、奴國と接している。(其山有丹)山があり丹がある。有明海海洋民でもある。当時は平野が尽きたであろう熊本の山、福岡県境界隈が南限。

投馬國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國、北は伊都國と接し、東は奴國と川で接しか?遠浅の有明海、干満差現代では6m、日本最大である。干満は一日二回約12時間交互である。海岸が船着場であれば、一日一回の満潮時以外、海に出入りは不可能。ましてや外洋も航海可能な大型船は、常時出入り可能な河岸に船着場は、当然である。当時溯上できたところが、投馬國「水行二十日」の港でもあったであろう。投馬は、(到間。到澗)でもある。三日月の古称は、甕調(みかつき)。土生の技術集団は、投馬(統間。伴間)でもある。

奴國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、北は不彌國と接し、南は邪馬壹國と接している。西は投馬国と川で接しか?

伊都國不彌國は、佐賀県の、有明海に注ぐ河川、平野部の上流域。吉野ヶ里から「西行」は、道路があり、嘉瀬川平野流入基部に至る。基部は末盧國(唐津松浦川河口)から東南五百里(直線距離30キロ)である。基部から吉野ヶ里「東至不彌國百里(6キロ)」は、この界隈を指示して余りある。

「其餘旁國」は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国。ただし、「全国古墳編年集成・石野博信編・雄山閣出版」の甘木・宝満グループ、この当時には、属さずか

女王国以外の倭国(玄界灘に注ぐ河川流域等)も、「全国古墳編年集成」は明解であるが、稿を改めるので、略。

 邪まいつ國と狗奴(玖瓊・玖土)の争いは、有明海、水稲、海洋文化圏の、覇権争いと言えよう。

発見実証へ(佐賀県未訪問なので、地図文献からだけの検証となった)

 水稲栽培は水が命。国の起因水稲文明は、川と平野を無視しては語れない(文系実技無き記憶機械の学者は、皆これを無視し、狂奔した)。古代の河口は現代よりも上流、つまり現代の河口に発展した都市部よりは上流に、水稲文明は開かれた(吉野ヶ里遺跡)。古今、河口に氾濫は付きもの、初期水稲栽培は、水を高低管理し易い上流と考えるのが常識。水の高低管理が進化し下流に拡大したが河川氾濫で再び上流へ、上流下流行きつ、戻りつし、水稲文明を拡大した。

 つまり、河口の遺跡より、上流の遺跡が古い。陸稲(個人)から水稲(集団)へ、稲作は山から麓へ下りてきた。奴國二萬餘戸、投馬國五萬餘戸、邪馬壹國七萬餘戸は
、食料確保の田畑や海があり、まかなえる食料を所有していることを意味する。食料確保が人工増加となり、人工増加が、さらなる食料をもとめる南下開拓に、拍車をかけた。前記戸数は、この事を物語っている。

 遺跡は、都市化が進み開発されてはじめて発見される。未開発地の遺跡いまだに未発見は当然のなりゆき、遺跡多少で断定する従来の学問は間違い。都市化が進み開発され発見された、現代の河口部の遺跡は、氷山の一角、上流には、更に古い膨大な遺跡が眠っている。長崎自動車道は山、南の平野であったならと惜しまれる。

 国は忽然とは生まれない。起因過程を経て誕生する。論理回路欠落の仮想現実界は、この現実界の常識を無視し暴走、空論がはびこった。

 弱肉強食の戦国時代を隠蔽し、日清日露大東亜戦争起因過程を、論理的に検証せず、平和な時代を侵略し、破壊した極悪日本と、なんと64年間も条件反射で、オウムがえし。まさしく仮想現実界は論理回路欠落、人間性喪失の、虚実無検証で記憶する、単なる記憶装置である。火の無いところに煙は立たない。誰も戦争などしたくない。調べれば直ぐ分かることなのだ。そして、辞書を繰れば即時解明の、壹(いつ)と臺(たい)女王之所都、これすらも調べなかった。まさに無検証そのもの、単なる記憶装置だ。

 仮想現実界の教授、作家、歴史学者は、間違いだ改竄だと称し著者陳寿を冒涜、言葉と文字のあいまいさ無責任をフル活用、傍若無人の愚行を未だに続けている。著者陳寿冒涜は、おのれの学問も、そんな類のものであることを自白していることに他ならない。

 「三国志魏書東夷伝倭人条」は、滅びた蜀の国の人陳寿が、後世に遺す正史として書いたものである。正史は末代まで遺る、間違いは、己のみにとどまらず、末代の己の子孫の汚名ともなる。正に諸刃の剣。自らの名誉と自らの子孫の名誉を懸け、乾坤一擲の思いで同時代の見聞録を陳寿は書いた。私はそのようにしか思えない。肩書で、もてあそぶ金儲けの輩と、乾坤一擲の陳寿。迫力、次元が異なる。(注・聞き書きの戸数や国名や国の数は、誇大捏造の可能性はある。陳寿の罪ではない)

 真実史観は東大と京大の原典無視の邪馬台国論争と、仮想現実界の先人愚弄をあらわにし、文系高学歴の正体、条件反射でオウム返し、単なる記憶装置と暴露した。正に、検証回路皆無を証明して余りある。

 日本の文系仮想現実界は、肩書が墓標の墓場である。原典を批判し無視の前に、原典の徹底検証が学問の初歩で常道。
学徒なら丸暗記などせず、シュリーマンを鑑とすべき。真実史観はこれに基づいただけである。ネチズンの皆さんも常道に基づけば、間違いなく続々と新発見可能である。そして、東大と京大の学問は、初めに結論有りで、学問ではないことに皆気付くはずだ。

 学問は仮想現実界だけの、慰み物ではない。肩書(墓標)作成の道具ではない。実事求是で役立てるものだ。手弁当での、ネチズンの学究姿勢こそが、学問の原点である。文系心ある志学の徒は、原点回帰し、学問に帰れ。

邪馬壹國のその後・空白の時代を語る第一級の資料神社縁起・真実史観の検証

 征服者はたたりを恐れて、神社の旧祭神は、排除しない。そして氏子は、たたりを恐れると同時に崇敬しているので、祭神を記す神社縁起等は、正確に記載した。無比この上ない、第一級の資料である。

 古代史空白の時代が神社創成期なので重なり、神社縁起などの資料は、まさに空白の時代を埋めているといえる。現に、神社資料解析は鍵となって、下記のように空白の扉を次々と開いている。職責者や識者のこれまでの神社縁起等の資料無視は、戦後の歴史検証と同じ、穴掘り過ぎて唯我独尊、蛙となった証だ。

 捨て置かれた資料を第一級の資料とする真実史観検証は、正に払拭の風、定説の打出の小槌である。謎の霧は完全に消え、古代は眼前に真の姿で現れ、空論の古代史は今年、定説となった。他の現出した古代史は、稿を改めるので、ここでは割愛。

 以後水稲耕作の基幹をなす神社信仰は、海洋民によって瞬く間に伝播され、それまでの銅矛銅鐸信仰を一掃、取って代わったと推察できる。

 検証は、佐賀市大和町川上の、與止日女神社(河上神社)から始まった。河上神社は6世紀創建で旧県社。祭神は、与止日女命(よどひめのみこと)。旧社号は河上神社で、與止日女神社と社号変更は最近のこと。地元では、「よどひめ」さんと呼称されており、肥前国一宮(古代末期から、中世初頭にかけて発生した社格)。一宮呼称は、千栗神社(祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)と争った、とある。旧社号河上神社は、川神(かわかみ)神社で、與止日女(よどひめ)は、「與(壹與)と卑弥(卑弥呼)」「与と日水」で、はないかと推定し、よどひめ神社を、1:3万の地図と神社事典、神社名鑒等で検証し、年表で変遷を追った。(注・「壹與」の「壹」は、旧国名でもある。後の政変で排除され、「與」だけが残った。政変の証しである)

BC270年ごろ。北九州弥生文化始まる。「山海経・せんがいきょう」、中国最古(BC5~3)の地理書18巻に、「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」記載有り。倭=日本かは、不明。

紀元前2世紀ごろの福岡・春日の遺跡で、国内最古の青銅鏡鋳型見つかる。
2015年5月27日
「朝鮮でなく国内製造?」国内最古の青銅鏡鋳型見つかる 福岡・春日の遺跡
 福岡県春日市教育委員会は27日、市内の須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型の破片が見つかったと発表した。これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされ、それをさかのぼる青銅鏡鋳型の出土例はなかった。専門家は「鏡の製作史を見直す貴重な発見」としている。
 遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する奴国の中心部にあり、青銅器生産の一大拠点として知られる。青銅器の中でも鏡は所有者の権威を象徴する希少品で、市教委によると、古い鏡はこれまで朝鮮半島や中国からの渡来品に限られるとみられていた。しかし鋳型が発見されたことで、国内で作られた可能性も出てきた。
 市教委によると、見つかった鋳型の破片は石製で、長さ5.1センチ、幅2.5センチ、厚さ2.3センチ。ひもを通すつまみ「鈕」が鏡の裏面に複数付いた「多鈕鏡」を製作する、国内で初めて見つかったタイプ。


BC91年「漢書地理志」に、「夫楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云」と記載。

57年「後漢書東夷列伝」に、「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」と記載。この印は、志賀の島で発見された「漢委奴国王」金印とされている。

107年「後漢書東夷列伝」に、「永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見」と記載。

147~188年「後漢書東夷列伝」に、「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更〃相攻伐し、歴年王無し」と記載。水稲に不可欠な、水利権争乱と推察できる。

238年呉の赤鳥元年(238年)銘の鏡、山梨県で出土。

238年(景初二年)卑弥呼、大夫難升米等を魏に派遣。親魏倭王となる。水稲の母なる川、嘉瀬川を上(神)に遡り、上(神)雷山に至り、上(神)=天(日)八百万の神(創造主)とつきとめ、灌漑用水権争乱を、祭司(卑弥呼=上の使者)に委ねることで解決したと、推察できる。当然このことは海洋民によって、韓半島南部はもとより、日本列島くまなく、タイムラグ無く伝播された。

239年(景初三年。景初は三年までである)魏の景初三年銘の鏡、大阪で出土。日本書記に、神功皇后中国と交渉の記載あり。三角縁神獣鏡は魏鏡が手本。国分(河内国南河内郡)出土の銘文。「・・・銅出徐州、師出洛陽・・・」が証拠。

240年帯方郡太守弓遵、使者を倭に送り、魏の詔書、印綬などを届ける。

240年魏の正始元年(240年)銘の鏡、兵庫森尾古墳や群馬柴崎古墳で出土。第一字欠落で□始元年なので同じ鋳型と推敲される。三角縁神獣鏡の年号鏡は五面で、景初(景□)、正始(□始)のみである。

銅鏡「僕の考古古代学」森浩一

 北部九州では弥生中期ごろから、全国的には古墳時代になってから、お墓の副葬品として数千枚が出土している。弥生時代の近畿には、出土無し。銘文銅鏡が約半数で、四世紀に特に多い。三角縁神獣鏡は種類では第一位だが、中国ではまれな鏡。大きくて、三角の縁の鏡なら中国江南の紹興にはあるが、さらに神獣を主要な文様にした日本出土と同様の鏡は無い。

 神獣鏡の神は不老長寿の仙人で、獣は不老長寿の世界(神仙世界)の守り神で、神仙世界へ誘う乗り物(青龍や白虎)。神獣鏡は、中国人が不老長寿の理想郷と考えた神仙世界を具現化したもの。三角縁神獣鏡はコピー鏡がほとんどで、出土は日本のみである。鏡には内行花文鏡や位至三公鏡などたくさんの種類があるが、最多出土が三角縁神獣鏡(500面)である。大古墳のみならず、当時の村長程度の古墳にも出土する、ポピュラーな鏡である。平安初期、呉越国が高さ30センチの銅製の塔(銭弘俶塔)500個ほど日本に贈った記録があるが、出土数は6個(1%)、500面出土は大変な数で、実際数は100倍の5万ぐらいか?500面の約三分の二に銘文が有り、他種の銘文より長文。

 三角縁神獣鏡が生まれる一段階前の平原(福岡県前原市)の古墓(弥生末3世紀の墳丘無き墓)で、大半が中型の方格規矩鏡35面と、径46.5cmの鏡5面出土。中国紹興江南鏡の研究者王士倫は、いずれも日本製と断定。

三角縁神獣鏡出土状態

 奈良県の黒塚古墳(前方後円墳)桑の木製のお棺の中に中型の鏡1面、お棺の外に、お棺を囲むようにコの字型に三角神獣鏡33面出土。

 紫金山前方後円墳(大阪府茨木市)お棺の中に中型の方格規矩四神鏡1面、三角神獣鏡はお棺の外に囲むように置かれていた。

銅鏡銘文の減筆 5につづく

真実史観5銅矛銅鐸から神社へ雷山・神水川と河上・本庄・与賀神社と邪馬台国卑弥呼

 後漢時代の終わり頃から中国で漢字の省略、つまり減筆が流行する。仙人→山人、知→夫、玉→王、王→三、銅→同等々。

 三角縁神獣鏡の裏面真ん中の鈕「ちゅう(紐を通す部分)」の孔が鋳物土で塞がった、鏡としては未完成品が時折出土する。用途は、鏡としてではなく、葬具ではないか。

 和泉黄金塚古墳景初三年銘の神獣鏡は、平縁だが文様は景初や正始銘の三角縁神獣鏡と同型。

 福知山広峰15号古墳1面出土の鏡は、三角縁としては縁の角度が少し鈍い鏡で、景初四年となっているが、中国の景初は三年までで、四年は無い。この銘文には男が持てば「位至三公」立身出世、女が持てば「保子宣孫」たくさんの子供に恵まれると、男女の効能書きが記されている。同様の銘文は、島根県の神原神社古墳出土景初三年銘の三角縁神獣鏡にも在る。前述の和泉黄金塚古墳鏡は、男性の効能は省略されている。中国鏡は男性本位で、男の効能書きは有るが女は皆無。三角縁神獣鏡は男女同権か女性上位である。

243年倭王、掖邪狗ら魏に派遣、印綬を受ける。

244年呉の赤鳥七年(244年)銘の鏡、大阪で出土。

245年魏王帯方郡を通じて、倭の大夫難升米に黄幢(軍旗)を与える。

247年倭狗奴国との争いを帯方郡太守に報告、太守王頎、張政らを派遣。

247年3月24日日没時部分食。

246~247年この頃卑弥呼死す。墓を作る。

247年3月24日日没時部分食。

247年(正始8年)卑弥呼宗女(卑弥呼と同じ血筋)壹與(いつよ)13歳を、王とする。

248年9月5日日の出時部分食。

265年(泰始2年)『晋書』起居註に倭の女王の使者が朝貢したとの記述。この女王は壹與(いつよ)と考えられる。

280~290年(3世紀末)に、「三国志魏書東夷伝倭人条」は書かれた。正に同時代の書である。

297年著者陳寿死す。陳寿は同時代に生きた人である。「今使譯所通三十國」と記され、邪馬壹國以外も「使譯」していた。鏡等の渡来物は、使譯三十國にも有って当然で、邪馬壹國の独占物ではない。

三世紀末と推定される吉野ヶ里、赤坂、両古墳群は、肥前における最古の古墳群である。

壹與(いつよ)死す。墓を作る。

 以後起こった争乱と天変地異を鎮めるため、平和な時代を作った壹與と日水子を邪馬壹國の守り神とし、壹與と日水子の社を、信奉する子孫が重要な川沿いに祀り、與と日水(よとひみ)社とした。


與と日水(よとひみ)祭神神社

嘉瀬川流域

◎淀姫神社。佐賀市富士町上無津呂「上無津呂川河畔(嘉瀬川最上流)」。淀姫「與(壹與)と日水(卑弥呼)」神社は、本流、支流合流部に鎮座している。文久2年(1863の棟札に1350年祭をとりおこなったと、記録にあるので、513年創建と考えられる。旧郷社

 上無津呂川は、雷山(953.3)が水源。上無津呂川は、支流五つが合流し神水川ともいう。上流の、本流と支流はあわせて六つ。「雷山」「上無津呂川」表意は、「来山」「神六つ路川」と推測できる。神水川は、嘉瀬川(古場川)と合流し嘉瀬川となる。嘉瀬川と今はなっているが、表意は川神川、ではなかったか。上流下流にかかわらず、ダム、発電所名は川上で、下流景勝地名は川上峡である。

◎淀姫神社。佐賀市富士町古湯(貝野川合流河口部河畔)。旧村社。資料無し。

◎河上神社(前出の與止日女神社)「よどひめ」さん。佐賀市大和町河上。欽明天皇25(564)年創立とある。最後の支流が合流し終えて、分流する直前の嘉瀬川河畔「景勝地河上峡」に鎮座している。

◎淀姫神社。佐賀市三日月町堀江(祇園川河畔で、嘉瀬川合流河口。嘉瀬川下流)資料無し。

◎淀姫神社。佐賀市川副町福富。旧村社。資料無し。

◎与賀(よか)神社(與止日女神奉斎)。佐賀市与賀町。

 「神社名鑒」欽明天皇25(564)年創建し、與止日女神大明神と称したとある。旧県社。

 「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」欽明天皇26(565)年に、佐嘉郡小津西郷の塚原大明神を遷して祀ったと伝えられるもので、初めは塚原大明神と称したが、朝廷より、與止日女大明神の神号を賜り、勅願所となったと伝えられる古社。祭神は豊玉姫命のほか、七柱の神を祀っている。

◎本庄神社(與止日女神奉斎)。佐賀市本庄町。本荘大明神とも称す。昭和38(1963)年、鎮座1400年祭がとりおこなわれた(563年創建)。佐嘉郡本荘妙見山淀姫大明神が、大塚妙見社において、示現したともいう。旧郷社。

 嘉瀬川は川上峡下流から放射状(人工か?)に分流し、佐賀平野を潤している。そして分流基部から真東に、ほぼ直線の道路があり、吉野ヶ里遺跡がある。そして、今に残る「上無津呂」「與止日女」の上代仮名。日と水が頼りの水稲栽培、「川神」呼称、分流基部河畔の祭神「よどひめ(與と卑弥)(與と日水)」さんは、得心できる。

 

その他の與止日女神奉斎神社

◎野波神社。佐賀県神崎郡三瀬村。旧村社。

◎淀姫神社。佐賀県武雄市朝日町。旧村社。

◎淀姫神社。佐賀県武雄市岩本町桃ノ川。

◎河上大明神(淀姫神社)。佐賀県伊万里市大川町大川野。河上大明神だったが、明治に淀姫神社に改号。「松浦記」に欽明天皇25(564)年創立とある。旧郷社。

◎豊姫神社。佐賀県伊万里市松浦町桃ノ川。旧村社。

◎淀姫大明神。佐賀県伊万里市松浦町境川。

◎淀姫神社。佐賀県伊万里市黒川町黒塩。

◎淀姫神社。佐賀県西松浦郡有田町広瀬。

◎豊玉姫神社。佐賀県嬉野市下宿。旧郷社。

◎河上神社。佐賀県藤津郡平町。旧村社。

◎淀姫神社。長崎県松浦市示佐町。欽明天皇25(564)年鎮座式。旧郷社。

◎淀姫神社。福岡県三池郡高田町江浦。旧村社。

◎伏見神社。福岡県筑紫郡那珂川町。旧村社。

◎平川淀姫神社。熊本県菊池大津町。旧村社。

 長崎県松浦市、佐賀県伊万里市、有田町、武雄市、嬉野市、小城市、佐賀市大和町、佐賀市、神崎市、福岡県三池郡高田町と地図に記載。邪馬国が現出した。まさに、邪馬国のルーツと勢力範囲が、征服と社号変更の嵐の中、残ったのだ。

◎与杼神社。京都市伏見区淀本町。旧郷社

350年頃。「全国古墳編年集成・石野博信編・雄山閣出版」は、卑弥呼の領域、栄枯盛衰が一目瞭然である。卑弥呼の領域だけが、一様に前方後円墳文明が遅い。

372年 369(泰和4)年百済王七支刀をつくり、372年に倭王「旨」に贈った。国王名一字の時代始まる。壹(いつ・国名)與(よ・名前)が魁。

391年広開土王(好太王)碑文。「倭、辛卯の年(391年)を以って来り、海を渡り百残、○○、新羅を破り、以って臣民と為す」

4世紀海神(わだつみ)神社対馬に鎮座とある。豊玉姫が祭神。国王名一字の王の先祖が創建したのだろう。対馬伊呂波は50音の異称。対馬の国人がこれによって梵音を伝えたという。

413年(義熙9年)の倭王讃の中国への朝貢開始。以後、珍・済・興・武(502年)まで12回の朝貢(倭の五王の時代)。朝貢の目的は、倭と、征服した半島(百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓)の勢力維持のため。讃→珍(讃の弟)→済→興(世子)→武(興の弟)。

400~460年頃。久留米市の高良(こうら)大社は、履中天皇(記紀に記された、五世紀前期から中頃の天皇)の時、鎮祭とある。祭神は、高良玉垂(たまたれ)命。「高良記」には、「稚日女命」から「天白神命」まで44代の名前があり、25代目の「五櫛彦命」から分岐して、近畿天皇家の祖先「ウガヤフキアエズ命」へと続いている。

502年倭王武朝貢で終わり。

 「與(壹與)と卑弥(卑弥呼)」(よとひみ)から淀姫、河上、河上大明神、与賀、本庄、野波への痕跡無き社号変更は、国王名一字の王に征服され成されたものだろう。旧号は、「壹與(與)と卑弥呼(卑弥)」(いつよとひみこ)を暗示して余りある。

 「
壹與」から国名でもある「」が消え、社号変更しているので、国王名一字の王は、佐賀県の腰岳黒曜石の海洋民がルーツではなく、大分県姫島黒曜石の海洋民がルーツか、隠岐と脇本(秋田県)産黒曜石の海洋民がルーツで、北部九州河川の水稲栽培地を背景に有した、湾岸海洋民主体の国の王であろう。

 「魏志倭人伝」對海國(對馬國)の北島記載無し、末盧國官記載無しの理由は、他国ではあるが(狗邪韓國を有しているので、全盛時は領土の可能性が高い)、当時は友好国であったと、合点がいく。

 以後の変遷から推察すると、武力統一か、平和統一かの選択、試行錯誤、過渡期の時代で、「魏志倭人伝」記載の邪馬壹國は末期であった。だから助けを国外中国に求め、内乱を経て神を敬った。

 シャングリラ(桃源郷)佐嘉で農耕民と化し、水稲一大共栄圏を築いたが、同時に、武力台頭の適者生存の時代適応に遅れた。時代の先端騒乱の地北部九州で、ひたすら武力をみがいていた海洋民主体の王に敗れたが、真相であろう。水稲伝播で産まれた他の国々は、皆同じ歴史をたどって、すでに武力台頭の時代となっていた(武力権力の象徴前方後円墳、纒向石塚、箸墓)。

507~531年継体天皇。応神天皇5世の孫。武烈天皇没後、越前(福井県)から大友金村らに擁立されて即位。記紀。

継体二十一(528)年八月、「社稷(しゃしょく。土地の神、社と、五穀の神、稷。国家・朝廷)の存亡、之に有り」と継体天皇詔。継体二十一年頃の末尾には、磐井(斎・いわい)攻略を託した物部大連麁鹿火に、「天皇親(みずか)ら斧釿(まさかり)を操りて、大連に授けて曰く『長門より東をば朕制(と)らむ。筑紫より西をば汝制れ・・・」とある。日本書紀・継体紀。

527~534年磐井(斎・いわい)の乱。日本書紀には、528年大和朝廷に磐井(斎・いわい)は切られたとある斎(磐井・いわい)王朝は、以後の推移から推察すると、亡び、一族は衰退した。倭の五王、武の後継が斎(磐井・いわい)は常識の帰結である。

 
日本書紀に継体25年(531)、或本に云く、28(534)年天皇崩御。「百済本記」出自には、「継体25年(531)日本の天皇及び太子・皇子、そろって皆死ぬ」と記されている。注・日本書紀(720年成立)には「百済本記」出自18個所(継体3~欽明17年)、百済記、百済新選から8個所、計26個所の出自があるが、どの「百済本記」も現存していない。百済滅亡(664)後の帰国者聞き書きか、持ち出した書か、又は創作も有り得る。いずれにせよ「三国史記1145年」 私書「三国遺事1289」と異なり、同時代の書であることは間違いない。

 ※2011年新発見。678年の祢軍(でいぐん)という百済人軍人の墓誌に「日本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」「白村江後、生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と記述され、「百済本記」は実在の書であることが証明された。後述詳細。

531年?539年?~571年欽明天皇。継体天皇の第四王子。

538年(元興寺縁起)仏教伝来。

552年(日本書紀)仏教伝来。

 豊姫、豊玉姫、伏見、平川への社号変更、豊姫、豊玉姫、応神天皇、神功皇后などの祭神追加は、次代政権征服以後のことだろう。◎淀姫神社(佐賀市)513年創建。◎河上神社欽明天皇25(564)年創立。◎与賀(よか)神社欽明天皇25(564)年創建。◎本庄神社欽明天皇24(563年創建)。◎河上大明神欽明天皇25(564)年創立。◎淀姫神社(長崎県欽明天皇25(564)年鎮座式。宇佐神宮も欽明天皇32年(571)鎮座とある、社号変更と考えるのが自然。奥宮に三つの石体を有する宇佐神宮、祭神は比売神(ひめがみ)(地主神)と応神天皇、神功皇后である。

562年任那新羅に滅ぼされる。

585~587年用命天皇。欽明天皇の第四子。崇仏政策。

「百済本記」に、「亥の年(531年)日本天皇及太子・皇子倶崩薨(日本の天皇や皇太子や皇子、そろって皆死ぬ」。「天皇」と国名「日本」初出

581~618年随国公の楊堅(ようけん。高祖文帝)が北周の国を581年に奪って隋とし、589年南朝の陳を滅ぼして統一、長安(現在の西安)を都とした。次の煬帝(ようだい)は大運河を開いたが、618年孫の代で滅亡。

「隋書俀(タイ。大)国伝」隋代(581~618年)を扱った史書。唐代(656年)成る。「注・俀(タイ。ツイ。テ)。弱い」。どうして卑字か、「大」なので、同音「俀(タイ)」の卑字を、当てた(中華思想)?。

600年俀(タイ)王、遣隋使派遣。「開皇二十年(600年)俀(タイ)王あり。姓は阿毎。字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。・・・王の妻は雞弥と号す。後宮に女六、七百人有り。太子を名づけて利歌、弥多、弗利と為す。・・・新羅・百済、皆俀(タイ)を以て大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恒に通使、往来す。・・・阿蘇山有り」。

607年俀(タイ)王、隋に国書を送る。「日出づる所の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや。・・・聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶと」。

608年(大業四年)(三月)壬戌、百済・・赤土・迦羅舎国並遣使貢万物「隋書帝紀三・煬帝上」

608年「明年、上、文林郎裴清を遣わして俀(タイ)国に渡らし使いせしむ。百済を行きて竹島に至り、南望(身冉)羅国を経、都(と・つ)斯麻国(集まった島。五島列島)は、迥(はるか)な大海の中に在る。又東して一支国(一つの国)に至り、又竹斯国に至り、又東して王国の秦(シン・ジン中央)に至る。其の人華夏(中国の夏国)に同じ。よって夷州(台湾)と為す、といわれても信じてしまう。又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な俀(タイ)に附庸(ふよう。従属)す。・・・其の王(俀王)、清(裴世清)と相見え、大いに悦んで曰く、我れ聞く、海西に大隋礼儀の国有りと」。俀(タイ)国伝の文末「復た使者をして、清(裴世清)に随い来って万物を貢せしむ。此の後、遂に絶つ」。

610年(大業六年)(春正月)己丑、倭国遣使貢万物。「隋書帝紀三・煬帝上」

「隋書俀(タイ。大))国伝」俀  列傳四十六隋書八十一  十三(真実史観訳)
俀国在 百済新羅東南水陸三千里 於大海之中依山島而居 魏時譯通中国 三十餘国 皆自稱(ショウ。となえる)王

大国は、百済新羅東南水陸三千里大海之中に在り。山島に依りて居まう。魏の時代に譯通中の国、三十餘国、皆王と自称した。

夷人不知里数 但計以日 其国境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢 東高西下

夷人(倭人)は里数を知らず、但日数で計る。其国境には、東西は五月行で、南北は三月行で各々の海に至る。其の地勢、東に高く、西に下がる。

都於邪麻堆 則魏志所 邪馬臺者也 古云 去楽浪郡境 及帯方郡並 一万二千里 在会稽之東 與(と)儋耳「たんじ(海南島の郡名)」 相近(風俗は似ている) ・・・(以下三国史・後漢書手本の転載)・・・

邪麻堆に都し、則、魏志記載の邪馬臺の者也。古より云う、楽浪郡と帯方郡の境を去ること一万二千里、会稽の東に在り。儋耳「たんじ(海南島の郡名)」 と風俗は似ている。

開皇二十年(600年)俀王 姓 阿(ア)毎(マ) 字 多(タ)利(リ)思(シ)北(ホ)孤(コ) 号 阿輩雞弥(あはきみ=大王=おおきみ) 遣使詣(詣でる)闕(けつ。宮殿) 上令(天子の命)所司(長官)訪(問う)其風俗 使者言 俀王以天為兄 以日為弟 天未明時出 聴政 跏趺座(静座) 日出便(すぐに)停理務(政務) 云委我弟 高祖曰 此太(はなはだ)無義理(意味) 於是訓令攺之

開皇二十年(600年)俀(大)王、姓は天(阿毎)、字は降りし鉾(多利思北孤)、号は大きみ(阿輩雞弥)の遣使、闕(宮殿)に詣でる。上令(天子の命)で所司(長官)訪(問う)其の風俗。使者言う。「俀王は天を以て兄と為し、 日を以て弟と為す。天未だ明けぬ時に出で 跏趺座(静座)して政を聴く。日出れば便(すぐに)停理務(政務)停め、云う我弟に委ねる」と。高祖(初代文帝)曰 「此れ太(はなはだ)無義理(意味)」と。是に於いて之を訓えて攺め令(しむ)。

 天皇“君臨すれど統治せず”の原形、祭政分離である。

王妻號「ごう(呼び名)」雞弥(けみ) 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌(び、み)多弗(ふつ、ほち)利 無城郭

王の妻の呼び名は君(けみ=雞弥)。後宮に女六七百人有り。太子の名は、利歌、彌(び、み)多、弗(ふつ、ほち)利となす。城郭無し。

内官有十二等 一曰大徳 次小徳 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 定数無 有軍尼(ニ。国守の官名) 一百二十人 猶中国牧宰(隋朝の官名。国守) 八十戸一伊尼冀(イニキ。里長) 如今里長 也十伊尼冀属一軍尼

内官十二等有り。一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信。員に定数無し。軍尼(じ、に)(官名)に一百二十人有り。猶中国の牧宰(隋朝の官名)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如もの。十伊尼冀は一軍尼に属す也。

其服飾 男子衣裙襦「くんじゅ(肌着)」 其袖微小 履如屨形「くけい(靴の形)」漆其上 繫之於脚 人庶多跣「せん(裸足)」足 不得用金銀為飾 故事依横幅結束相連而無縫 頭亦無冠 但垂髪於両耳上
其の服飾、男子は裙襦「くんじゅ(肌着)」を衣、其の袖は微小。履は屨形「くけい(靴の形)」の如く、其の上に漆をぬり、之を脚に繫ぐ。庶人の多くは跣「せん(裸足)」足。金銀を用いて飾と為すことはせず。故事依り(ならわしで)、横幅は結束し相連ね而縫うこと無し。頭にも亦、冠無く、但、髪を両耳の上に垂らす。6につづく⇒

真実史観6隋書俀国伝と日本書紀と隋書巻三煬帝紀が語る真実

至隋其王始 制冠以錦綵「さい(綾絹)」為之 以金銀縷「ろう(糸)」花為飾 婦人束髪於後 亦衣裙襦 裳(したばかま)皆有(衤巽) (扌韯) 「せん(細くけずる)」竹為梳(髪をとく) 編草為薦「せん(敷物)」 雑皮為表 縁以文皮
隋に至り其王始めた。錦の綾絹で冠を為り、金糸銀糸の花飾を為り、婦人は髪を束ねた。婦人は髪を後に束ね、また裙襦(肌着)を衣、裳(したばかま)には、皆、衤巽(縁)有り。竹を扌韯 「せん(細くけずる)」して梳(くし)と為す。草を編み薦「せん(敷物)」と為す。雑皮は表と為し、縁は文皮を以てす。

有弓矢刀矟「さく(鉾)」弩「ど(石弓)」(矛賛)「さん(小型の鉾)」斧 漆皮為甲 骨為矢鏑 雖有兵無征戦 其王朝会必陳「じん(陣をはる)」設儀仗(儀式用の武器) 奏其国楽 戸可十万
弓、矢、刀、矟「さく(鉾)」、弩「ど(石弓)」、(矛賛)「さん(小型の鉾)」、斧、有り。皮を漆(うるしぬり)して甲(よろい)と為し、骨は矢鏑(やじり)と為す。兵有りと雖(いえど)も、征戦無し。其の王朝会に必ず儀仗(儀式用の武器)を陳「じん(陣をはる)」設し、其の国楽を奏す。戸は十万可(ばかり)。

其俗 殺人強盗及姦皆死 盗者計臟「ぞう(盗品)」酬「しゅう(報いる)」物 無財者没身為奴 自餘(そのほか)軽重 或流(流刑)或杖(むち打ち刑) 毎訊究獄訟 不承引者 以木壓「あつ(圧する)」膝 或張強弓 以弦鋸其頂 或置小石於沸湯中 令所競者探之 云理曲者即手爛 或置蛇瓮「おう(大きなかめ)」中令取之 云曲者即螫「せき(刺す)」手矣「(断定)」 人頗「は(すこぶる)」恬「てん(やすらか)」静 罕「かん(まれ)」争訟少盗賊
其の風俗は、殺人強盗及姦するものは皆死す。盗んだ者は盗品で計り、物で報いる。財無き者は身を奴に没す。そのほかの軽重は、流刑、刑杖。つねに獄(いがみ合い)や訟(あらそい)を究(きわ)め訊(たず)ね、承知しない者は、木を壓以って膝を圧したり、或いは弓を強く張り、弦で以って首を鋸く。或いは小石を沸湯の中に置き、争うものに小石を取るように命じ、云う、理の曲る者は即ち手爛れると。 或は、大きなかめの中に蛇を置き、之を取るように令し、云う、曲る者は即ち、手を刺されると。人はすこぶるやすらかで静。争訟はまれで、盗賊少ない

楽有五弦琴笛 男女多黥「げい(いれずみ)」臂「ひ(肩から手首)」 點「てん(部分)」面文身 没水捕魚 無文字 唯刻木結縄 敬仏法 於百済求得仏経 始有文字 知卜「ぼく(物のきざしでうらなう)」「」筮「ぜい(筮竹でうらなう)」 尤信巫「ふ(みこ)」覡「げき(みこ)」 毎至正月一日 必射戯飲酒 其餘節略与華同 好棊博握槊「さく(ほこ)」樗「ちょ(おうち)」蒲之戯
楽に五弦、琴、笛有り。男女は臂「ひ(肩から手首)」に黥「げい(いれずみ)」多し。 面に點「てん(部分)」、身に文、水に没して魚を捕う。文字無し、唯、木を刻み縄を結ぶ。仏法を敬い、百済に於いて仏経を求得し、始めて文字有り。卜「ぼく(物のきざしでうらなう)」「」筮「ぜい(筮竹でうらなう)」を知り、尤も(特に)信巫「ふ(みこ)」覡「げき(みこ)」信ず。毎(いつ)も正月一日に至れば、必ず射戯、飲酒し、其の餘の節は、略(ほぼ)華と同じ。 棊博(賭け碁)握槊「さく(ほこ)」(双六の一種)樗「ちょ(おうち)」蒲(ばくち)の戯を好む。

気候温暖 草木冬青 土地膏「こう(油)」腴「ゆ(油、肥える)」 水多陸少 以小環挂「けい(かける)」鸕(ろ)(茲鳥)頂 令入水捕魚 日得百餘頭 俗無盤俎 籍以檞「かい(かしわ)」 食用手餔「ほ(食う)」 之性質直 有雅風
気候は温暖で草木は冬も青い。土地は膏「こう(油)」腴「ゆ(油、肥える)」で、水多く陸は少なし。小環を以て鸕(ろ)(茲鳥)の頂(うなじ)に挂「けい(かける)」け、入水させ魚を捕えしめ、日に百餘頭を得る。俗(庶民)に盤(大皿)や俎(まな板)無く、籍(下に敷く)は檞「かい(かしわ)」を以てす。食は手を用いて餔「ほ(食う)」う。性質は直く雅風有り。

女多男少 婚嫁不取同姓 男女相恱「えつ(喜ぶ)」者即為婚 婦入夫家 必先跨「こ(またぐ)」犬 乃(そこではじめて)與「よ(一緒)」夫相見 婦人不婬「いん(みだら)」妬「と(ねたむ)」
女多く男少なし。婚嫁(縁組)には、同姓を取らず。男女相恱「えつ(喜ぶ)」ぶ者は即ち婚す。婦が夫の家に入るに、必ず先に犬を跨「こ(またぐ)」ぎ、乃(そこではじめて)夫と相見え、與「よ(一緒)」になる。婦人は、婬「いん(みだら)」妬「と(ねたむ)」ならず。

死者歛「かん(納める)」以棺「かん(ひつぎ)」槨「かく(外ひつぎ)」 親賓「しんぴん(親しい賓客)」就屍歌舞 妻子兄弟以白布制服 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞「えい(うずめる)」 及葬 置屍船上 陸地牽之 或以小轝「こし(車やかご)」
死者を歛「かん(納める)」に棺「かん(ひつぎ)」槨「かく(外ひつぎ)」を以てし、親賓「しんぴん(親しい賓客)」は屍に就きて、歌舞。妻子兄弟は白布を以て服を制す(慣わし)。貴人は三年、外に於いて殯(仮安置)し、庶人は日を卜して而て瘞「えい(うずめる)」。葬に及んでは、屍を船上に置き、陸地に之を牽く。或は小轝「こし(車やかご)」を以てす。

有阿蘇山 其石無故火起 接天者俗以為異 因行禱「とう(祈る)」祭 有如意寳珠 其色青 大如雞卵 夜則有光 云魚眼精也
阿蘇山有り。其の石は故無く火を起こす。天と接(交わる)する者は、俗(一般の常識)で以ては異りと為す。因りて禱「とう(祈る)」祭を行う。如意寳珠(祈れば願いがかなう珠)有り。其の色青く、大よそ雞卵の如く、夜は則ち光有り。魚の眼精(眼の光)と云う也。

新羅百済皆以俀為大国 多珎「ちん(珍しい)」物 並(みな一様)敬仰之 恒通使往来
新羅や百済は、皆俀を以て大国と為し、珎(珍しい)物多く、並(みな一様)に俀を敬仰。恒に使を通じ往来。

大業三年(607年) 其王 多(タ)利(リ)思(シ)北(ホ)孤(コ)遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼(いっしょに)沙門数十人来学佛法 其国書曰 日出處天子致書無日没處天子無恙「よう(つつが虫。漢・六朝以後相手の安否を尋ねる常用後)」云云(うんぬん)。帝覧之不恱、謂鴻臚卿(賓客応接の官名)曰 蛮夷書有無礼者 勿(なかれ)複(かさねる)以聞
大業三年(607年) 其の王 多利思北孤(降りし鉾)遣使し朝貢。使者曰、「聞く、海西の菩薩天子、佛法を重んじ興こすと。故に朝拜を遣わし、兼(いっしょに)て沙門(僧侶)数十人佛法を学びに来たり」と。其の国書曰「日出ずる處の天子無恙「よう(つつが無し)」 云云 帝之を覧て恱ばず。 鴻臚卿に謂いて曰、「蛮夷の書有る無礼者は、複以て聞かす勿れ」。

明年(大業四年、608年) 上遣 文林郎 裴清 使於俀国 渡百済行至竹島 南望(身冉)(原文身冉は、耼の俗字)羅(たんら)国 経 都斯麻(集まった島、十島か?五島列島)国迥「ケイ(はるか)」在大海中 又東至一支(孤島か一国か?)国 又至竹斯国 又東至秦(心・シン)王国 其人同於華(中国)夏 以為夷洲(台湾)疑不能明也 又経 十餘国達 於海岸 自竹斯国 以東 皆附庸 於俀
明くる年(大業四年、608年)上(王)は、文林郎(中国の官名)の裴清を俀国に遣わし使いす。百済を行き渡り竹島に至る。南に耼羅国を望み、経て、都斯麻国(五島列島)は迥(はるか)大海の中に在り。又東して一支(一国か?)国に至り、又(さらに)竹斯国に至る。又(さらに)東し、王国の秦(心・シン)に至る。其人は華(中国)の夏に同じなので、以て夷洲(台湾)と為すと云われても、疑がわないのは明らか也。又(さらに)十餘国を経て海岸に達っする。 竹斯国自り以東は、皆、俀に附庸(従属)す。

 隋国の認識は、俀国(部分)は倭国(全体)の一部で、その証しが、「自竹斯国 以東 皆附庸 於俀」で、俀を倭の篆書とするのは、捏造。篆書にも倭→俀は皆無。
 俀国は(大国・タイコク)か?都斯麻國は對海國、一支國は一大國ではない。南望耼羅国経とあり南下した。望の亡は原文では篆書の「シ」。「日本書紀」では裴清では無く、裴清。

俀王遣小徳阿軰臺 従数百人 設儀仗 鳴鼓角(太鼓と角笛)来迎 後十日 又遣大禮竒(き)多(田比)従二百餘騎郊労(里外れまで客を見送る)
俀王は小徳の阿軰臺を遣わし、数百人を従がえ儀仗を設け 鼓と角を鳴し迎に来たる。十日後、又、大禮竒(き)多(田比)と二百餘騎を従い遣わし、郊労(里外れまで客を見送る)。

既至彼都 其王與清相見 大恱曰 我聞海西有大隋禮義之国 故遣朝貢 我夷人僻在海隅 不聞禮義 是以稽留境内 不即相見 今故清道飾舘 以待大使 冀聞大国惟「ゆい(おもう)」新之化
既に彼の都に至る。其の王裴清と相見え、大いに恱(よろこ)びて曰く「我聞く海西に大隋有り、禮義之国と。故に遣わし朝貢。我は僻在海隅の夷人、禮義を聞かず。是れで以て境内(境界の内)に稽留(留まる)し、即ち相見えず。今、故に道を清め舘を飾り、以て大使を待つ。冀(こいねが)わくは大国の惟新之化(改まった変化)を聞かんことを」

清荅曰 皇帝徳並二儀 澤流四海 以王慕化 故遣行人来此宣諭 既而引清就館 其後清遣人謂 其王曰 朝命既達 請即戒塗 於是設宴享「きょう(もてなす)」 以遣清複(帰る) 令使者隨清 来貢方物 此後遂絶
清荅えて曰く、「皇帝の徳は二儀(天と地、陰と陽)に並び、澤(徳)は四海(四方の海、天下)に流る。王の化(感化)を慕うを以て、故に行人(使者)を遣わし、来たりて此のように宣諭(諭し述べる)す」と。既にして清を引きて館に就く。其後清は人を遣わして謂う。其の王に曰「朝命は既に達す、請う即ち塗(道)を戒められんことを」と。於是(ここにおいて)宴を設け享(もてなす)。清複(帰国)に際し、令使者清に随従させ、遣わす。来たりて方物を貢ぎ、此後遂に絶つ。

相違する「隋書巻三煬帝紀・  列傳四十六隋書八十一・十三(以下隋書俀国伝と記載)」と「日本書紀」

600年(開皇二十年)

隋書俀国伝

開皇二十年(600年)俀(大)王、姓は天(阿毎)、字は降りし鉾(多利思北孤)、号は大きみ(阿輩雞弥)の遣使、闕(宮殿)に詣でる。上令(天子の命)で所司(長官)訪(問う)其の風俗。使者言う。「俀王は天を以て兄と為し、 日を以て弟と為す。天未だ明けぬ時に出で 跏趺座(静座)して政を聴く。日出れば便(すぐに)停理務(政務)停め、云う我弟に委ねる」と。高祖(初代文帝)曰 「此れ太(はなはだ)無義理(意味)」と。是に於いて之を訓えて攺め令(しむ)。

 

607年(大業三年)

「日本書紀」

推古朝十五(607)年)秋7月戊申の朔(ついたち)にして庚戊(こうしゅつ)(三日)に、大礼小野臣(おみ)妹子を大唐(もろこし)に遣わす。鞍作(くらつくり)副利を以て通事とす」。

隋書俀国伝 

大業三年(607年) 其の王 多利思北孤(降りし鉾)遣使し朝貢。使者曰、「聞く、海西の菩薩天子、佛法を重んじ興こすと。故に朝拜を遣わし、兼(いっしょに)て沙門(僧侶)数十人佛法を学びに来たり」と。其の国書曰「日出ずる處の天子無恙「よう(つつが)」 云云 帝之を覧て恱ばず。 鴻臚卿に謂いて曰、「蛮夷の書有る無礼者は、複以て聞かす勿れ」。

 

608年(大業四年)

「隋書巻三煬帝紀」

大業4年(608)三月戌 百済・倭・赤土・加羅舎国 並(みな)遣使貢方物

「隋書俀国伝」

明くる年(大業四年、608年)上(王)は、文林郎(中国の官名)の裴清を俀国に遣わし使いす。百済を行き渡り竹島に至る。南に耼羅国を望み、経て、都斯麻国(五島列島)は迥(はるか)大海の中に在り。又東して一支(一国か?)国に至り、又(さらに)竹斯国に至る。又(さらに)東し、王国の秦(心・シン)に至る。其人は華(中国)の夏に同じなので、以て夷洲(台湾)と為すと云われても、疑がわないのは明らか也。又(さらに)十餘国を経て海岸に達っする。 竹斯国自り以東は、皆、俀に附庸(従属)す。

「日本書紀」

 推古朝十六(608)年の夏四月に、小野臣(おみ)妹子を大唐(もろこし)より至る。唐国(もろこしのくに)、妹子の臣を号(な)づけて蘇因高と曰う。即ち大唐使人裴世清下僕十二人、妹子臣に従いて筑紫に至る。難波吉士雄成を遣わして、大唐裴世清等を召す。客の為に、更(また)新しき館を難波の高麗館の上に造る。

 六月の壬寅の朔にして丙辰に、客等難波津に泊。是の日に、飾り舟三十艘を以て、客等を江口に迎えて新しき館に安置らしむ。(略)爰(ここ)に妹子臣、奏して曰(もう)さく、「臣の参(まい)来る時に、唐の帝、書を以って臣に授く。然るに百済国を経過ぎし日に、百済人、探りて掠め取る。是を以って上(たてまつ)ることを得ず」と。是に於いて群臣議(はか)りていわく、「夫れ使人は死(みまか)ると雖(いえど)も旨(むね)を失わず。この使い、何ぞ怠(おこた)りて大国の書を失うや」と。則わち流刑に坐(かかわりあいで刑罰に処す)す。時に天皇勅(みことのり)して「妹子の書を失う罪ありと雖(いえど)も、輒(たやすく)、罪すべからず。其の大国の客等聞かんこと、亦良からじ」と曰(のたまわ)。乃(すなわち)赥(ゆる)して坐したまわず。

 秋八月の辛丑の朔にして癸卯に、客、京に入る。(略)

 壬子に、客を朝庭に召して、後の旨を奏さしむ。時に阿倍鳥臣・物部依網連抱、二人を客の導き者とす。是に大唐の国信物を庭中に置く。時に使主裴世清、親(みずか)ら書を持ちて、両度再拝(ふたたびおが)みて、使いの旨を言上して立つ。其の書に曰く「皇帝倭王を問う。使人ちょうり(漢の官制で比較的高い俸禄の官吏・人を不快にさせる恐れのある表現が含まれています”との制限で、漢字が使えない!逆に強調しているようなもので、愚考である。Ⅰ毛皮が語るペクチョン・えた白丁在日差別自白朝鮮ルーツは水稲を精読し、愚かな言葉狩りなど、即刻解除し、前進すべきだ!大礼蘇因高等、至りて懐(おもい)を具(つぶさ)にす。朕、宝命を欽承して、区宇を臨仰す。徳化を弘めて、含霊に覃(およぼ)し被らしめむことを思う。愛育の情、」

 

609年(大業五年)

「日本書紀」

推古朝十七(609)年(大業5年)妹子がより帰朝時に、随行した裴世清等歓迎の模様を記す「日本書紀」八月三日。

 「餝騎(かざりうま)七十五疋を遣わして唐の客を海石榴市の衢(ちまた)に迎う」。八月十二日「唐の客を朝廷に召して、使いの旨を奏さしむ。時に阿部鳥臣物部依網連抱の二人を客の導き者となす」。

 妹子帰朝時に、隋の返答国書無き理由を記載。

 

610年(大業六年)

「隋書巻三煬帝紀」

大業6年(610)春正月己丑 倭国使貢方物

 

 隋書では、「日本書紀」のではなく、裴清。「日本書紀」には「」皆無で、「」「大唐」以外記載無し。隋書」を改ざんする理由は、には無い!

 

614年(大業10年)隋軍30万、高句麗征伐遠征。

618年隋滅亡。隋末の乱に、李淵(高祖)・李世民(太宗)父子が挙兵して、煬帝の孫恭帝の禅譲を受け618年建国。李李世民は兄弟を殺して即位し、628年天下を統一。則天武后は690~707年周朝を立て、唐朝は中断。907年朱全忠が、禅譲の形で国を奪い、20代約300年続いた唐は滅んだ。

631年「使を遣わして方物を献ず」。「旧唐書倭国伝」

645年「又新州刺史の高表仁に節(羽や旄牛の尾などで編んだ、大将や使者にさずける割り符)を持ちて遣わし往きて撫んじる。表仁は綏遠(すいえん。遠い地方を鎮めやすんじる)の才無く、王子と令を争い、朝命を宣べずして還る」「旧唐書倭国伝」

648年「貞観二十二年に至り、又、新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず」。「旧唐書倭国伝」文末。

654年12月「倭国琥珀・碼碯(めのお)を献ず。琥珀大なること豆斗の如し。碼碯、大いなること五豆斗器のごとし」(旧唐書・本紀巻四・高宋上)。倭国最後の朝貢

663年白村江の戦い百済救援の求めに応じた、倭(九州)と、日本海海洋民共栄圏新羅国と、唐の連合軍との戦い。唐水軍の挟撃で大打撃を受け敗戦。日本海海洋民共栄圏百済国は滅亡し、百済地方人は日本に避難した。倭(九州)は、以後半島から撤退した。

 白村江での九州倭国(日本)敗戦が日本列島存亡の危機で、水稲圏共通の神社(祭)が基幹となり、国家(政)が連合、倭国は団結(九州、出雲、大和)し、一気に統一国家となった。侵略者唐の恐怖がきっかけである。大和は海路瀬戸内海の最深部で、唐軍水軍挟撃には最適の地である。防衛本部最深地大和は、道理にかなっている。

 唐・新羅連合軍防御のため、対馬(667年)、大宰府水城(664年)、大宰府大野城(665年)、佐賀県基山、香川県屋島(667年)、大阪府八尾(667年)に山城を築いた。挟撃体制を成し、一気に統一国家となった証拠である。

 

2011年10月23日http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html

記事「『日本』呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見」より

墓誌http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg 

上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から 7につづく⇒

真実史観7日本初出百済本記は実存語る西安墓誌白村江戦後海洋民離脱の韓半島

 「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、『日本』との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。

 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。

 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する」。

 「百済本記」に、「亥の年(531年)日本天皇及太子・皇子倶崩薨(日本の天皇や皇太子や皇子、そろって皆死ぬ」。「天皇」と国名「日本」初出「百済本記」は、実在した書であることが証明された。

665年 8月、耽羅(済州島)の使、来朝する。唐・新羅と組せず、日本海海洋民としての参加の意思表示目的であろう。

666年 1月、高句麗の使、来る。耽羅王子始如ら、来朝する。

667年 7月、耽羅、佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した。

668年 唐と連合して百済・高句麗を滅ぼした新羅が半島の単独政権となったのは668年、大同江以南の地は唐を宗主国とした属国新羅が支配し、唐から儒教仏教律令制などを取り入れ、独自に発展させた。白村江までの朝鮮半島南部(三韓等)は、日本海海洋民が祖の、船が基幹の日本海文化圏であったが、白村江以後、日本海海洋民(海路)から離脱し、朝鮮半島は中国庇護の属国となり、中国文化圏最末端の地(伝播が海路から陸路)となった。唐風模倣で、以前(海洋民)の痕跡はことごとく破壊された。(注・新羅の大和朝廷への度重なる反抗は、出雲系の子孫の可能性が高い)

 日本史(神社基幹の連合国家)も朝鮮半島史(唐風で属国)も、白村江が全ての分岐点である!

 

669年 3月、耽羅、王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を授けた。

「冊府元亀」。北宋朝(1013年)完成の百科事典。北宋朝時代の公的認識を記した。

670年三月、罽賓国、万物を献ず。倭国王、使いを遣わし、高麗を平ぐるを賀す。

670年「三国史記・新羅本紀」。「倭国更えて日本と号す。自ら言う『日出づる所に近し』と。以って名と為す」。以後「三国史記」は、以前を「倭国」、以後を「日本国」と記している。

673年 6月、耽羅、王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した。

この度重なる耽羅の朝貢は、白村江の倭王没落し、近畿倭王の統一を証明している。

701年十月日本国、使いを遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、万物を貢す。「冊府元亀」(外臣部、朝賀三)。

「旧唐書・日本伝」

 「旧唐書・日本伝」冒頭文「日本国は倭国の別種なり。其の国(倭国)、日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは日う、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す、と。或いは日う、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。・・・又云う、其の国の界、東西南北各々数千里あり。西海南海は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山有りて限りを為し、山外は即ち毛人の国なりと」。

702年「冬十月、日本国、使いを遣わして万物を貢す」(旧唐書・本紀巻六・則天皇后)旧唐書で「日本」国名初出

703年「其の大臣朝臣真人、来たりて万物を貢す」。

717年「開元の初、又、使いを遣わして来朝す。因って儒士に経を授けられんことを請う」。

 630年からの遣唐使派遣合計18回。使節団一行は500人以上にも及び、普通4隻に分乗した。多くは2~3年で帰国。派遣中止3回、迎入唐使1回、894年で中止と、日本の史書は、伝えている。

 

618~907年「旧唐書・くとうじょ」唐代(618~907年)を扱った史書。宋代(941~945年)成る。「唐書・新唐書」は旧唐書の欠を補い補修。宋代(1060年)成る。

旧唐書(巻199)列伝・東夷・倭国・日本国

「倭国伝」

倭国者 古倭奴国也 去京師(天子の都)一万四千里 新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世与中国通

倭国の者は古の倭の奴国也。京師(天子の都)を去ること一万四千里、新羅の東南の大海の中にあり。山島に依りて而て居み、東西は五月行、南北は三月行、世々中国と通ず。

 中国史書初出倭国は、後漢の初代光武帝建武中元二(57)年の倭奴国が。一万四千里は唐の都長安(現在の西安)からの距離。

其国 居無城郭 以木為柵 以草為屋 四面小島五十餘国 皆附属焉 其王姓阿海氏 置一大率 検察諸国 皆畏附之 設官有十二等 其訴訟者 匍(ホ、ブ。はう)匐(フク、ブク。はらばう、ふす)而前

其の国は、居むに城郭無く、木を以て柵を為し、草を以て屋と為す。四面の小島の五十餘国は、皆焉(これ)に附属。其の王の姓は阿海氏。一大率を置き、諸国を検察し、皆之を畏附。官を十二等設て有り。其(なんと)訴訟者は、匍(ホ、ブ。はう)匐(フク、ブク。はらばう、ふす)而て前(うったえる)。

 ここまでは、「三国志」・「隋書」等からの転載。

地多女少男 頗有文字 俗敬仏法 並皆跌足 以幅布蔽其前後 貴人戴錦帽 百姓皆椎髻「けい(もとどり)」無冠帯 婦人衣純色裾「きょ(すそ)」 長腰襦 束髪於後 佩「はい(おびる)」銀花 長八寸 左右各数枝 以明貴賎等級 衣服之制 頗類新羅

地(くに)に女多く男少なし。頗(かなり)文字有り。俗(世間では)仏法を敬う。並(とも)に皆跌足(はだし)。幅布を以て其の前後を蔽う。貴人は錦の帽を戴り、百姓(人民)は皆、椎「つい(つち)」のかたちの髻「けい(もとどり)」で、冠帯無し。婦人の衣は純色の裾「きょ(すそ)」で、長い腰襦(襦袢)。髪は後に束ね、銀花を佩「はい(身に着ける)」 び、長さ八寸、左右に各数枝。以て貴賎の等級を明らかにす。衣服の制は、頗る新羅に類「に(似る)」る。

 隋書の俀国風俗がかなり異なる。

貞観五年(631年) 遣使献方物 太宗矜其道遠 勅所司無令歳貢 

又遣新州刺史高表仁持節往撫之 表仁無綏遠之才 与王子争令 不宣朝命而還 至二十二年 又附新羅奉表 以通起居

貞観五年(631年)、使を遣わして方物(その地方の産物)を献んず。太宗(唐の二代皇帝)は其の道の遠きを矜(あわれ)み、所司(長官)に勅(つ)(みことのり)げ、歳貢(毎年の貢物)を令じること無し。

又新州刺史の高表仁に節(羽や旄牛の尾などで編んだ、大将や使者にさずける割り符)を持ちて遣わし往きて撫んじる。表仁は綏遠(すいえん。遠い地方を鎮めやすんじる)の才無く、王子と令を争い、朝命を宣べずして還る。二十二(648)年に至り、又新羅に附けて表(君に陳情する書面)を奉り、以て起居(暮らし、安否)を通える。

 唐の貞観五年(631年)は日本書紀舒明天皇の三年で、舒明天皇二年の八月5日の条には、「大仁の犬上君の三田耜(すき)、大仁の薬師の恵日を以って大唐に遣わす」とある。このことを指しているのか?

 「又」以後の「高表仁」は日本書紀舒明天皇の四年(貞観六年。631年)の条か?

 「四年(貞観六年。631年)の秋八月に、大唐、高表仁を遣わして、三田耜を送らしむ。

 冬十月の辛亥の朔(ついたち)甲寅に、唐国使人高表仁等、難波津に到る。即ち大伴連(むらじ)馬養(かい)を遣わして、江口に迎えしむ。船三十二艘及び鼓吹(ふえ)旗幟(のぼり)皆具に整餝(ショクかざる)。便(すなわち)ち高表仁等に告げていわく、「天子の命のたまえる使い、天皇の朝(みかど)に到れりと聞きて迎えしむ」と。時に高表仁答えていわく、「風寒き日に船艘(ソウふね)を餝(ショクかざる)整して迎え賜ること、歓び愧(キ気が引けて心が縮まる)る」と。是において、難波の吉士の小槻大河内直の矢伏に令して、導者として館の前に到らしむ。乃ち伊岐史の乙等難波の吉士の八牛を遣わして、客等を引きいて館に入らしむ。即日に、神五年(貞観七年。633年)春正月の己卯の朔甲辰(26日)に、大唐の客高表仁等、国に帰る。

 送り使い吉士雄麻呂黒麻呂等、対馬に到りて還る」。

 末尾の貞観二十二(648)年は孝徳朝の大化四年だが、日本書紀には記載無し。

日本国者 倭国之別種也 以其国在日辺 故以日本為名 或曰 倭国自悪其名不雅 改為日本 或云 日本旧小国 併倭国之地 其人入朝者 多自矜大 不以実対 故中国疑焉(これにより) 又云 其国界東西南北各数千里 西界南海咸至大海 東海北海有大山為限 山外即毛人之国
日本国は倭国の別種なり。其の国は日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或曰、倭国は自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す。或云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併わすと。其の人の入朝は多く自ら矜大にして、実を以て対せず。故に中国はこれにより疑う。又云う、其の国の界は、東西南北各数千里、西界南海咸(みな)大海に至り、東海北海は大山有りて限を為し、山の外は即ち毛人の国。

 中国文献に、国名「日本」初出である。日本文献初出は、推古朝13(605)年四月朔。「高麗国の大興王、日本国の天皇、仏像を造りますと聞きて、黄金三百両貢を上(たてまつる)る」

長安三年 其大臣 朝臣真人 来貢方物 朝臣真人者 猶中国戸部尚書 冠進徳冠 其頂為花 分而四散 身服紫袍 以帛(ハク絹)為腰帯 真人好読経史 解属文 容止温雅 則天宴之 於麟徳殿授司膳卿 放還本国

長安三(703)年、其の大臣(おおおみ)の朝臣(あそん)真人(まひと)、来たりて方物を貢。朝臣真人は、猶中国の戸部尚書(財政をつかさどる官名)のごとく、冠は徳冠(最上官名)に進み、其の頂は花を為し、分れて四散し、身の服は紫袍(紫の服)、帛(ハク絹)を以て腰帯と為す。真人は経史(経書と史書)を読むを好み、文を属(つづる)を解し、容止(身のこなし、振る舞い)は温雅なり。 則天(則天武后)は宴して、麟徳殿(宮殿)に於いて司膳卿(食物及びお膳をつかさどる)を授け、本国に還るを放(や)める。

 長安三(703)年は文武天皇の大宝三年。朝臣真人は粟田朝臣真人か?

 「続日本紀」大宝元年正月23日に「守民部尚書直大弐、粟田朝臣真人を以って遣唐執節使となす」とあり、同行7人も任命され、五月七日に、「入唐使粟田朝臣真人に節刀(遣唐使の印の刀)を授く」とある。大宝2年正月23日の条「遣唐使等は去年、筑紫よりして海に入る。風浪暴険にして、渡海することを得ず。是に至りてすなわちは発す」。本文には帰国を断念とあるが、しかし、「続日本紀」には翌年の慶雲元(704)年七月一日の条「粟田朝臣真人、唐国より至る」とあり、八月十一日の条には「遣唐使粟田朝臣真人に、従三位を授く。その使いの下の人等に位を進め物を賜うこと各々差あり」とある。

 そして同じ「続日本紀」慶雲元(704)年七月の文には、

 「秋7月甲申の遡、正四位下栗田朝臣真人、唐国より至る。初めて唐国に至りし時、人有り、来たりて問いていわく、『何処の使人ぞ』といふ。答えていわく、『日本国の使いなり』という。我が使い、反りて問いていわく『此は是れ何の州の界ぞ』と、問う。答えていわく『是は大周楚州塩城県の界なり』という。更に『先に是大唐、今は大周と称(なず)く国の号何に縁りて改め称くる』ととふ。答えていわく、

 『皇太后登位 称号聖神皇帝 国号大周』 問答略了 唐人謂我使曰 『亟聞海東有大倭国 謂之君子国 人民豊楽 礼義敦行 今看使人 儀容大浄 豈不信乎 』語畢而去」。

 『(永淳二年、天皇大帝崩じたまいき)皇太后位に登り、号を聖神皇帝、国を大周と称す』という問答(則天(則天武后)は690年~704年を「周」朝とし、この間「唐」朝は中断した)略了(おおむねおわり)て、唐の人、我が使いにいいていわく、『海の東に大倭国有り、これ君子国という。人民豊楽にして、礼敦く行わると、亟(度々)聞いた。今使人を看るに、儀容(すがた)(はなはだ)だ浄(きよ)し入れ墨無し)(あに)信ならずや』と、語り畢(おわ)って去る」とある

 隋から唐は禅譲である。俀国の風俗(入れ墨等)を知る、隋の旧臣の言葉であろう。

開元初 又遣使来朝 因請儒士授経 詔四門助教趙(ちょう)玄黙就鴻臚寺教之 乃遣玄黙闊(カツ広い)幅布以為束修之礼 題云「白亀元年調布」 人亦疑其偽 此題所得錫賚(ライたまう、たまもの) 尽市文籍 泛(ハン、ホウ。浮かぶ、浮かべる)海而還

開元(713~741)の初め、又使を遣わして来朝し、儒士(儒者)を請うるに因り経(聖人の著書)を授く。四門(学校名)の助教の趙(ちょう)玄黙に鴻臚寺(外交の官名)に就きて教えることを詔し、乃(すなわち)、玄黙を遣わし幅布を闊(カツ広い)げ、以て束修之礼(干し肉を用いて師弟となる儀礼)を為し、題して云う、「白亀元年調布」(目出度い言葉として用いる)と。人亦其の偽を疑う。此の題得る所の錫(せき)賚(ライたまう、たまもの)(たまもの)は、尽(ことごとく)く文籍(文書書籍)に市(か)(あきなう、とりひきする)え、海に泛(ハン、ホウ。浮かぶ、浮かべる)びて而て還る。

「続日本紀」唐の開元五年(717)にあたる元正朝養老元年二月朔の条「遣唐使、神祗(かみ)を盖(みかさ)山の南に祠る」とあるが、同二月二十三日の条「大宰府言す、遣唐使従四位下多治比真人県守、来朝」とあるので、八ヶ月での帰国となる。


其偏使朝臣仲満 慕中国之風 因留不去 改姓名為朝衡 仕歴左補闕(ケツかける)儀王友 衝留京師五十年 好書籍 放帰郷 逗留不去 天宝十二年 又遣使貢 上元中 擢(テキぬきんでる)衝為左散騎常侍鎮南都護

其の偏使(ともがら)の朝臣仲満(阿部仲麻呂)、中国之風(ならわし)を慕い、因りて留まりて去らず。姓名を改め、朝衡と為し、仕えて左補闕(ケツかける)(官名)、儀王友(官名)を歴(けみ)す。衝は京師に留ること五十年、書籍を好み、帰郷を放(や)め、逗留して去らず。天宝十二年(753)、又使を遣わして貢。上元(760~761)中、衝を擢(テキぬきんでる)(ひきあ)げて、左散騎常侍(散騎者の長官で左右有り)、鎮南(関の名。広東省羅定県の西。安南の地ともいう)都護(官名)と為す。

 冒頭の偏使(ともがら)は、粟田朝臣真人と入唐したから。

 朝臣仲満(阿部仲麻呂)は、光仁朝宝亀元年(770)5月26日、行年73歳。「続日本紀」には、「前学生、阿部朝臣仲麻呂、唐に在りて亡す。家口偏に乏しくして、葬礼闙(か)けることあり、勅して東絁一百疋白綿三百屯を賜う」

貞元二十年 遣使来朝留学生橘免勢学問僧空海 元話元年 日本国使 判官高階真人上言 前件学生 藝業稍(ショウようやく、やや)成 願帰本国 便請与臣同帰 従之 開成四年 又遣使朝貢 
貞元二十(804)年、使いを遣し留学生来橘免勢(橘のはやなり)、学問僧空海、来朝す。元話元(806)年、日本国使、判官(大宝令の第三等の官)の高階真人(たかしなのまひと)上言す。「前件の学生は、藝業稍(ショウようやく、やや)成り、本国に帰ることを願う。便(すなわち)臣と同じく帰えることを請う」と。之に従う。開成四(839)年。又使いを遣し朝貢。

 貞元二十(804)年は、桓武朝末23年で、この年橘免勢と空海が入唐とはあるが、「日本後紀」欠本の箇所で、詳細は不明。

 嵯峨天皇、橘免勢、空海は書道に優れ、三筆。橘免勢は、帰国後政争で、伊豆国流罪途中で死亡。空海は大同元年(824)に帰朝、真言宗開祖となり承和二年(835)3月21日高野山金剛峰寺で62歳で死去。

 末尾の開成四年(839)は、「続日本後期」には、前年の承和五年(838)4月5日の条に「遣唐使の進発の日より、帰朝の日に至り、五機内七道諸国をして海竜王経をよましむ」遣唐使は海難が多かった。4月28日の条には「遣唐大使、藤原朝臣常嗣。副使、小野朝臣篁」とある。

 

九州の地を古事記(673~686年に企画)では、「(ひ)・佐賀、長崎、熊本」、「筑紫(つくし)・福岡から南西部まで」、「(とよ)・九州北東部」、「熊襲(くまそ)・九州南部(宮崎・鹿児島)」の4国としている。

713年から作成の肥前国風土記は、肥君らの祖、健緒組が土ぐも(大和朝廷に従わない、土着の民の蔑称)を討ったとき、火が天から山に降って燃えたため、火の国としたと伝えている。もと、肥の国卑弥呼の国がつまった。7世紀後半肥前肥後2国に分け、「延喜式」に11郡。国府は現在の大和町付近。

 「筑後の風土記(713年以後の伝聞、聞き書き)」磐井(斎・いわい)滅亡時(531年)の記録として、「古老伝えて云う。・・・筑紫の君磐井・・・豊前国上膳県に遁れて南山俊嶺の曲に終わる。是に於て官軍追ひ尋ねて蹤(あと)を失う。士の怒り未だ泄(や)まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕す・・・上妻県、多く篤疾(とくしつ。身体障害者)有りき、蓋し(けだし。まさしく)玆(これ)に由る歟(か」とある。磐井(斎・いわい)滅亡は531年、約200年前の話ではないことを、明白に語っている。

720年日本書紀完成。

720年「隼人」は、大友旅人に平定され、以後完全に服属した。これまで大和政権の九州征伐に反抗し、たびたび反乱を起こしていた。

710年~784(奈良時代)に神仏習合(神仏混淆)思想に基づき、「神宮寺、神願寺、別当時、神供寺、宮寺」として、神社に寺が併設された。福井県敦賀市の気比神宮寺が初見。明治維新の際、廃止または分離された。

927年施工の延喜式の社格が、名神→明神→大明神8につづく⇒

真実史観8伊都佐賀淀姫与止日女は与と卑弥農業神の墓質素素朴本庄・与賀神社

967年河上神社(與止日女神社)は「延喜式」内の比定社。肥前国一宮。

1028年能勢頼国が守護仏として妙見菩薩を祀ったのが始まり。妙見山(能勢妙見)は仏教。神仏習合(神仏混淆)

 江上波夫の騎馬民族征服論は、無検証摘み食いの愚論。捏造愚論者に文化勲章とは、仮想界ただの記憶器の証明だ。判決受諾を、裁判受諾と誤訳し信じた輩もこれで理解可能。輩には、丸暗記能力以外は、皆無なのだ。

「君臨すれども統治せず」卑弥呼の時代よりのこれが、日本の比類なき歴史だ。

 年表が語りかけた真実の歴史。稿を改めるので詳細は略記。

 神話と神社の大和朝廷文明は、腰岳、姫島隠岐の黒曜石産地が始まりで、三韓と銅矛圏と銅鐸圏を成した海洋民が、起源。

 倭の五王「最後が斎(いわい・磐井)」王朝を、俀(タイ。大)王が征服し、倭王として君臨、地名等模倣。後に白村江の戦いで敗れ没落。

 以後、近畿天皇が覇権を握り、歴史を改竄した(唐と戦った倭=近畿天皇なら、遣唐使などなかった)。

 基は同じ海洋民なので、水稲栽培伝播、国形成も同じ、かつ船での頻繁な往来が有るので、神話神社等も共通する。

 国産み神話で祖を明確にしたので、従属や国譲りに抵抗は少なかったのではないか。国産み神話は、大乱無き統一のために、必要不可欠なものであった。大乱にしての食料や田畑破壊は敵味方皆消滅する、倭国大乱で学習しているので、避けたはずだ。

 侵略者唐の恐怖が、根源での比類なき団結(大和)となり、日本を成し、連合の新たな根拠地の地名を、「大和」と名づけた。神社団結といえる。

 
黒曜石も陸稲水稲も神社も、海洋民がタイムラグ無く伝播した。その海洋民の信仰の長が出雲だったが、海岸なので唐新羅連合軍に攻められやすい。白村江敗戦以後の唐侵攻に備え、懐の深い土地にに移動し連合。その土地を、連合の証し、「大和(大いなる和)」と命名したと、推察される。

 「旨」、広開土王碑文の「倭」、倭の五王と斎(いわい・磐井)、俀(タイ。)王の出自と中心部は、古墳群の年代測定(全国古墳編年集成・石野博信編・雄山閣出版)で特定され現出。

 岩戸山古墳は、
斎(いわい・磐井)の墓に非ず、八女古墳群は俀(タイ)王一族の墓等々、2009年明解に全貌を現した。そして全国古墳編年集成」は、明確に語った。海洋民は現代同様に、まさにタイムラグ無く、文明を伝播し、同時に、各地に国が産まれたことを。

 
韓半島南から東北までの古墳群の推移に、タイムラグが無い。共同作業水稲で国が生まれ、500年までは群雄割拠し、韓半島南・九州・近畿が残り(人口相応大平野有り)、600年以降に近畿が、一目瞭然である。いずれも食料地(米・魚)を制した者である。P182

 あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒ひ(肥)⇒ひ(火)。あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒天照大神と継承された。紆余曲折はあったが、卑弥呼に回帰した。

 

壹與(いつよ)と卑弥呼(日水子)の墓

 邪馬壹國は武力台頭以前の倭最後の国家「花より団子」で、農業主体、華美な墓想定はしょせん無理。神社創成期でもある、わび、さび、幽玄、素朴が、墓の妥当な形容詞。
 財宝に目がくらみシュリーマンの心を喪失した探究者は皆、この壁に突き当たり方向転換、邪道に走り華美な墓探しを最優先、卑弥呼墓と比定。次に、「魏志倭人伝」を、墓比定地に辿りつく様に邪道解釈した。

 近畿説「箸墓」、九州説「卑弥呼墓平原遺跡、伊都国は糸島郡前原市一帯で、1500里南(
辻褄合せが目的の捏造解釈)の佐賀平野筑後川北岸一帯が邪馬台国(現在は佐賀を都とする筑後川流域と拡大)は、その適例だ。

 箸墓荒唐無稽は、一目瞭然。九州説で吉野ヶ里が発見されたが、この九州説は近畿説同様脈絡皆無、仕掛けた大網に偶然掛かった棚牡丹で、荒唐無稽は箸墓と同じ、解釈は邪道と、「
全国古墳編年集成」は語っている

 シュリーマンは痕跡無き地を、ただひたすら伝説を信じ、私財を投げ打って発掘した。一方は財宝に目がくらんだのか、あろうことか「魏志倭人伝」を無視し華美な墓探しに没頭、見つかると「魏志倭人伝」を遡及可能に改竄解釈。「信ずる」と「改竄」、なんと対比が際立つことか。

 初代「新しい教科書をつくる会」西尾幹二は、「魏志倭人伝」をろくに検証もせず、当てにならないと一笑に付し、己の検証程度を自白した。現在の「つくる会」のていたらくは当然なのである。仮想界の堕落、まさに極まれり。

追記09.5.29。

 箸墓近くの周濠から発掘した土器に付着した炭化物が、卑弥呼の時代と一致するから、卑弥呼の墓だと大騒ぎ。盛り土に混じった土器の破片とは考えないのか。新規の墓に煮炊きの土器はいかにも不自然、まさに、常識皆無の仮想界である。

 

 佐賀県の弥生時代の墓は、甕棺や箱式石棺などを埋めた上に数個の支石を置き、その上に巨石を載せた特徴的な形式である。神崎郡脊振村や唐津の支石墓(ドルメン)は名高い。古墳は、佐賀平野一帯や、伊万里唐津湾沿岸で800余り発見されたが、ほとんどが破壊され、残っているのは少ない。「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」とある。「壹與(與)と卑弥呼(卑弥)」(いつよとひみこ)を「與止日女」として奉斎した子孫なら、破壊されるような墓には決してしていないはずだ。まず、神社の起源を辿ってみよう。

百科事典マイペディア・広辞苑・古語辞典

山の神

 神社は山の民の山の神が起源。始めは特殊な形の祠や石、三股などを祀った。日本神話イザナギ・イザナミの子大山祇(つみの)神は、山を支配する神、後に海と山両方の神となる。娘が木花開耶姫。注・山から海(船)への足跡である。

石神

 神霊が降臨する石。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)や、超自然力をもつという石の信仰は古く自然石を神体とする神社は多い。また陽物に類する石を(しゃくじん)、(さごし)などと呼び、安産性病の治癒、雨乞いなどを祈願する例も各地にみられる。依代(よりしろ)が人間である場合を尸童(よりまし)という。

尸童(よりまし)。

 神霊の依代(よりしろ)としての人間。依座とも。清浄な生活をする童男・童女の場合が多く、祭礼の場合などは着飾って行列の中心となる。また、人間を馬に乗せて尸童とすることもある。いずれも神に魅せられた姿とされる。古くは託宣が尸童の口から語られた。また、童児に限らず、成年男女が立てられたこともあった。

依代(よりしろ)

 神の依りつく物をいう。神霊が降臨して、その意志を伝えるためには憑依(ひょうい)体を必要とするとの信仰に基づく。山、岩石、樹木、御幣、動物、人間などがあてられる。神社では普通、依代を霊代(みたましろ)と呼び、神像、鏡、御幣、石などをあてる。

磐座(いわくら)・磐境(いわさか)

 神社の原始的斎場。自然の岩石、またそれに多少の人工を加えたもので、そこに神を招いてまつった。高天原のそれが天津磐境であり、その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。一説には死者を葬った場所に置いた石が起源であるとされ、降臨石・陽向(ようご)石なども磐座の一種という。今もこの形の神社があり、本殿のないものを普通とする。「日本書紀」によれば、天孫の座を磐座とし、磐境は結界(けっかい)・神境の意となっている。

神籬(ひもろぎ)。

 そこに神霊を招き、祭祀の対象とするために設けられたもの。清浄な地にある常緑樹や清浄な地にサカキ(榊)を立てたものと推察される。

榊・賢木(さかき)

 境(さか)木の意か。ときわ木(常緑樹)の総称。特に神事に用いる木をいう。ツバキ科の常緑小高木。葉は厚い革質、深緑色で光沢がある。古来神木として枝葉は神に供した。ヒサカキも同様に用いる。古くはシキミなども含めてサカキといったらしい。(注・佐賀の神社にはクスノキ(クスノキ科の常緑高木)の巨木が実に数多だ。最初の榊は、ときわ木(常緑樹)の、クスノキではなかったか)

祠・叢祠(ほこら)

 ホクラ(神庫)の転。神をまつる小やしろ。

社(やしろ)。

 百科事典:天神地祇を鎮祭する殿舎。語源的には屋代であり、斎場をもって殿舎に代える意。

 古語辞典:神が来臨する所。古代では、地を清め臨時に小屋などを設けて、神を迎えたという。

 広辞苑:屋代(やしろ)の意。神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。神の降下する所。神をいわい祭った斎場。後世、神社。

神社

 磐座(いわくら)・磐境(いわさか)のような神聖な場所に、神籬(ひもろぎ)を設けて神をまつったものと考えられる。春の豊年祈念と、秋の収穫感謝の祭りが中心であった。

八百万の神々の降臨の場が、神社といえる。

古墳時代

 弥生時代についで、ほぼ三世紀末(卑弥呼、壹與の時代に該当)から七世紀に至る。ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。


神社建築

 神を祭るための建築で、本殿、拝殿、舞殿、祝詞舎(のりとや)、鳥居などからなる。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)を前身とし、おそくとも古墳時代(三世紀末)には存在したと考えられる。


卑彌呼の墓の大きさ

 「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」 この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」。径(直径)は20数mである。


卑彌呼と壹與(いつよ)の墓は?

「全国神社名鑑」記載、佐賀県の総神社数と与止日女神社の推移。

日本書紀完成(720年)まで。総神社数45社の内、6社が与止日女神社。

奈良時代(784年)まで。50社の内、6社。

平安時代(1183年)まで。63社の内、7社。


 墓の該当地は古社だが、まずは現資料からの仮説、その1。

前記のように、与賀(よか)神社本庄神社は社号も淀姫と異なり、縁起も特異な二社である。鎮座場所も他社(河岸)と異なり本流からは離れ、この二社は特異。しかも直線で1350メートルと非常に近い。ここは都の立地条件が揃っていた、故に後継も皆牙城にした。

 与賀(よか)神社は壹與(いつよ)の墓でやしろ(社)。元の呼称は、壹與神、與神、與ミヤ、與社、與神社。「壹與」の「壹」は、旧国名でもあるので、隠蔽。本庄神社は日水子の墓でやしろ(社)。元の呼称は、本神、本ミヤ、本社、本神社、または卑弥呼神、卑弥神、比売神(ひめがみ)、日水ミヤ、日水社、日水神社。「卑弥呼」の「呼」は、隠蔽のため、省略。

 神水川と呼称が今に残る嘉瀬川平野部流入の基部、佐賀市大和町川上の、與止日女神社(河上神社)は、最初の合祀で、與と日水社、與と日水神社となり、以後、主要な川の河岸に分社された。

 
二人の墓や伝承の痕跡皆無の原因は、このこと以外に有るだろうか。河上(与止日女神社が二人の墓、合社して分社も有る。上流淀姫神社、これも捨てがたい。

 結論は古社年代測定と発掘以外に無いが、原資料では上記を仮説とする。
本庄神社、与賀神社、佐賀城址、この界隈が、邪馬壹國の中心であったといえる。日の巫女の墓は、日が没する邪馬壹國やしろの西、本庄神社で、やしろの北が、壹與の墓、与賀神社と推察する。

 王は交代したが食料破壊の愚行は犯さず、邪馬壹國の子孫は「肥の国」として代々厚遇され、子孫も代々「肥の国」の神として崇めた

 呼子の田島神社境内「佐与姫社」は、「佐嘉の與と日水」、風土記「世田姫」は、「與と日水」が語源であろう。

 「神宮寺。神仏習合(神仏混淆)710年~」、「大明神。(延喜式の社格)927年~」、「妙見社。(神仏混淆)1028年~」や、政変等で、度重なる改号を余儀無くされたが、隠れ「與と日水」として現代に至った。「壹与と卑弥呼」は三世紀の古代から、子孫に崇敬され続けて、なんと目前に鎮座していたのだ。

 現資料ではここまでが限界。仮説から真理へ。残るは、発見による実証のみである。更に詳しくはネチズンの力をお借りしたい。また下記に対訳してあるので、論理的に果敢に挑戦してほしい。

 シュリーマン(ドイツの商人、後に考古学者。1822~1890)貧しい牧師の家に生まれ、大商人として財を成した後、トロイヤ、ミュケナイなどの遺跡を発見した。著書自伝「古代への情熱」は著名。

 ホメロスの叙事詩トロイヤの物語を、単なる創作物語として一笑に付し、当時の学会学者は誰一人顧みなかった。シュリーマンただ一人、少年時代に愛読したホメロスの世界を信じ、「イーリアス」「オデュッセイア」を疑わず、ダーダネルス海峡のほとりのトロイヤの遺跡を、1870年(48歳)に自費で発掘開始し、発見した。

 末盧國は伊万里か唐津か伊都國不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か地勢図等を参考にすれば、川と地形が鍵なので、机上でかなりの想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんの実証に期待。第一発見者シュリーマンに挑戦してみてください。鍵は水稲栽培、伊都國不彌國。そうとうな確立で特定、発見可能。

 1800年に及ぶ日本文系学者の空論は、現実界の道理で破壊され、2009年真実史観で、陳寿邪まいつ國は眼前に姿を現した陳寿は明解、実証は目前だ。保身至上で肩書にしがみつき、職責放棄のピーマン学者給料泥棒が牛耳る史学界に、敢然と烽火をあげた在野の先人に捧ぐ。 2009.1.23.

陳寿著「三国志魏書東夷伝倭人条」。通称、「魏志倭人伝」原文と対訳。原文にスペース付加。真実史観訳

 

倭人在帯方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
 倭人は郡の東南、大海中に在り。山や島に寄り添って国や村を造っている。昔は百余国。漢の時代には朝見する者もいた。今は使節をつなぐ所30の国である。

 

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

 郡より倭に至るには、海岸に循(沿)って、水上を行き、韓國は、乍(たちまち)南乍(たちまち)東と東南に歴訪、倭の北岸、狗邪韓國に到る。郡より七千餘里。

 

始度 一海 千餘里 至對海(對馬)國 其大官曰卑狗 福曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

 一歩一歩進みやっと、一海、千余里、對海(對馬)國に至る。そこの大官は卑狗という、副は卑奴母離という。ここは離れ島である。領域の距離は四百余里ほど。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の小道のようだ。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗り、南や北の倭国の市に出かけ、米や穀物を求めている。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

 

又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴

 また、南に一海を千余里渡る。名を瀚海という。一大國(壱岐)に至る。ここも官を卑狗という、副も卑奴母離という。領域の距離は三百里ほど。竹や木が群生している林が多い。三千ばかりの家がある。田畑らしきものはある。田を耕してもなお、食べるのには不足。ここもまた、南や北の倭国の市に出かけ、米や穀物を求めている。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

 

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之

 また、一千余里を渡る。末盧国に至る。四千余戸あり。浜、山、海に暮らしている。草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。上手に魚やアワビを捕り、水の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。注・末盧國だけが、官記載無し。

 

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐

 東南に陸行五百里。伊都国に到る。官は爾支という。副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸り。代々の王は、皆、女王国の統治下に属している。郡使の往来では、常にここにとどまる。

 

東南至奴國百里 官曰兕(じ)馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

 伊都国東南、百里で奴国に至。官は馬觚という。副官は卑奴母離という。二万余戸り。

 

東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘

 伊都国東の道、百里不彌国に至る。官を多模という。副官を卑奴母離という。千余家り。

 

南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

 伊都国南、投馬國到着。帯方郡からの常用旅程は、水行二十日。官を彌彌という。副を彌彌那利という。五万余戸ばかり。

 

南至邪馬壹國 女王之所 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮  可七萬餘戸

 投馬國南、邪馬壹國到着。女王の居る都に着いたああ帯方郡より水行十日陸行一月の歴訪だった 官は伊支馬有り。次は彌馬升という。次は彌馬獲支という。次は奴佳鞮という。万余戸ばかり。

 

自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

 女王国より北は、その戸数、道を簡に記載しえた。そのほかの国は遠く険しく、詳細は得られない。

 

次有斯馬國 次有己百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌國 次有好古都國 次有不呼國

次有姐國 次有對蘇國 次有蘇國 次有呼邑國 次有華國 次有鬼國 次有爲吾國

9終章につづく

真実史観9終章歴史学は丸暗記文系から剥奪邪馬台国と卑弥呼魏志倭人伝訳文

次有鬼國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有鳥國 次有奴國 
 次有・ 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌奴 好古都 不呼 姐奴 對蘇 蘇奴 呼邑 華奴蘇奴 鬼 爲吾 鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 鳥奴 次有奴(・・・つぎに奴有り)

此女王境界所盡
 これが、女王の勢力の及ぶ範囲。

其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王 
 女王国の南、狗奴国り。男を王と為す。其の官、狗古智卑狗有り。女王に従属せず。

自郡至女王國 萬二千餘里

 帯方郡より女王国までの里程は、一万二千余里である。

男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於曾稽 斷髪文身 以避蛟龍之害

 は大人も子供も、皆顔と身体に刺青をしている。古より、その使者中国を詣でると、皆、大(ダイ、タイ、タ)夫(フ、フウ、フ、ブ)と自称した。夏后(夏王朝)の少康(第六代皇帝)の子が、会稽の領主にされたとき、短髪にして身体に刺青をし、蛟龍(伝説上の怪物)の被害を避けた。

 

今倭水人好沈沒捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差

 今の倭の水人は、水に潜って上手に魚や蛤を採取する。身体の刺青は大魚や水鳥が厭うからである。後世この刺青は、飾りとなる。諸国の文身は各々異なる。左右、大小、身分の尊卑で差がある。

 

計其道里 當在曾稽東治(冶と改定、原文は治)之東 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫

 その道から推測すれば、まさに会稽の東(冶と改定、原文は治)の東にる。その風俗、淫らではない。男子は皆頭に何も被らない。木綿で招頭。その衣は横にひろく、ただ互いに連ね結束しただけで、細かな縫製はない。

 

婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之

 婦人は垂れた髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のように作り、その中央に穴を開け、この衣に頭を突き出す(貫頭衣)。

種禾稻紵麻 蠶桑緝績 出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐡鏃或骨鏃 所有無與耳朱崖同

 粟、稲、紵麻(麻の一種)養蚕して絹織物を紡ぎ、細い麻、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)がいない。兵は矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い。竹製の矢は鉄、あるいは骨の鏃で、有無する所は海南島の儋耳や朱崖と同じ。

注・倭の風俗は呉のはるか南からも伝播していることを記載している。擔耳・朱崖は、中国の南海に浮かぶ島、海南島、西はトンキン湾を隔ててベトナムに至る。「武帝の元封元年(BC110年)に略し以って人詹耳(たんじ)、珠厓(しゅがい)郡と爲す。民は皆布を服(き)るに單被の如く、中央を穿ち貫頭と爲す。男子は耕農し、禾稻・紵麻を種え、女子は桑蠶織績す。馬と虎亡く、民に五畜有り。山に麈・鹿京(けい・鹿の一種)多し。兵は則ち矛、盾、刀、木弓、弩、竹矢、或は骨を鏃と爲す」(漢書 卷二十八下地理志第八下)。 

 2~3世紀の遺跡は、筑紫平野が圧倒的に多く(日本史再点検・森浩一考古学者の発言)、絹出土は長崎福岡佐賀(海洋民伝播)に集中、機内は4世紀以降(絹の東伝・布目順朗著)。食料が増産されての人口増加、海洋民伝播、桃源郷佐賀を指示して余りある。2009.11.23.

 

倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用邊豆 手食

 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みんな裸足である。家には部屋があり、父母、兄弟、別々の寝室。朱丹を体に塗るのは、中国の白粉を用いるが如きである。食飲には竹の器や木の器を用い、手で食べる。

 

其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 己葬擧家詣水中澡浴 以如練沐

 死者の棺は、槨(ひつぎを入れる外箱)がなく、盛り土をし墓を作る。死去から十余日で喪は終わる。服喪の間は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆、水中で不潔を洗い清める。中国の練り絹を着て沐浴する練沐のようである。

注・北九州地方には甕棺が多数出土している。練沐・中国古代では父母の一周忌に小祥祭を行い、練衣(ねりぎぬの衣)を着て沐浴した。

 

其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 

 渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す。

注・持衰の習俗はインドネシアやマルタ諸島にも多くみられる。

 

若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹

 もし、行者の航海が吉善なら、その生口財物を顧み、共す(生口財物に相当する物をさしあげる)。もし、疾病や暴風の災害などに遭ったりすれば、ただちにこれを殺さんと欲す。いわゆる、その持衰の不謹慎が、災いを招いたということである。

 

出眞珠靑玉 其山有丹 其木有 (木冉) 杼 豫 樟 楺 櫪 投 橿 鳥 號 楓 香 其竹 篠簳 桃支有 薑 橘 椒 蘘荷 不知以爲滋味 有獮(獼?)猿 黑雉

 真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(赤い結晶、丹砂。水銀の原料、顔料、薬の材料)がある。木は(木冉)、杼(どんぐり)、豫(とち、くぬぎ)、樟(くすのき)、楺(弾力のある木)、櫪(くぬぎ)、 投橿(もちの木)、 鳥號(うごう。中国黄帝の弓の名、クワ科のやまぐわ)、楓香(ふうか。かえでの一種)。 竹は、篠(しの竹)簳(矢竹)桃支有り。薑(ショウガ)、 橘(タチバナ)、 椒(サンショ)、 蘘荷(ミョウガ)の滋味なることを知らず。かり(獮?)をする猿や、黒い雉がいる。

 

其俗擧事行來 有所云爲 輒灼骨而ト似占吉凶先告所ト 其辭如令龜法火拆占兆

 行來の事を起こすとき、することあり、その風習は、まずうらなう所を告げ、そのたびごとに骨を焼いて、吉凶を占う。そのは、割れ目を見て兆しをうらなう、令龜法のようだ。

 

其曾同坐起父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬 但搏手以當跪拜

 倭人の会合、坐起には、父子、男女の区別がない。人性は酒を嗜む。大人に敬意をあらわすときは、ただ手を打って膝を着き、身を屈めて拝むだけである。

其人壽考 或百年 或八九十年 其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫 不妒忌 不盗竊 少諍訟其犯法 輕者沒其妻子 重者減其門戸及宗族 卑各有差序 足相臣服收租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之

 そこの人々は長命。あるいは百年(50年)、あるいは八、九十年(40、45年)この国の風習は大人は皆、四、五人の婦人、下戸(庶民)は二、三人の婦人である。婦人は淫乱ではなく、嫉妬もしない。窃盗をせず、訴訟は少ない。その法を犯せば、軽いは妻子の没収、重いはその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は、各々に差別や序列があり、互いに臣服し争いはなく、租賦を収めている米倉がある。國國には市があり、双方の有無とする物を交易する。大倭を使い、交易を監視している。

注・真冬と真夏は農閑期。現在の1年を2年としたのではないか。または、二期作か二毛作だったのではないか。

 

自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 

 女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ。

 

王遣使詣京都 帯方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傅送文書賜遣之物詣女王 不得差錯

 王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣したり、帯方郡からの使が倭に来たばあい、皆船着場に臨み露にし、漏れがないか捜してから、文書や賜遣の物を、伝え送りし、女王に詣るので、間違いがない。

 

下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傅辭説事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾

 下戸大人道路で会えば、退いて草群に入る。言葉で伝える説明事は、うずくまるか、膝まづき、兩手を地に着けて敬意を表す。応答する声は噫(い、あい、え)と言い、これが承諾の意味のようだ。

 

其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐暦年及共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 自爲王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傅辭出入 居處宮室樓觀城柵嚴設 常有人持平守衞

 その国、本は男性を王としたが、とどまること七、八十年で倭国はれ、互いの攻伐が何年も続いたため、一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼という。鬼道を生業とし、上手に国民をあやつり統率する。年齢は既に高齢で夫はなく、弟が国の政治を助けた。王に就いて以来、まみえたものは少ない。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞の時出入する。居住する宮殿や楼観城柵は、厳重に設けられ、常に武器を持った守衛有り。

注・「鬼道」当時の中国は儒教。反儒教の意味か。神託をうかがい、告げる者(巫女。神子)か。

 

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其有東南 船行一年可至

 女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り。皆倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺。女王国から去ること四千余里、また、裸国、黑歯国、在り。また在り、その東南、船行一年(半年)で至る可し。

注・真冬と真夏は農閑期。現在の1年を2年としたのではないか。

 

參問倭地 絶在海中洲 島之上或絶或連 周旋可五千餘里

 倭の地に参り訪ねてみると、中心の洲は絶海に在り。島は、連結あるいは隔絶し、辺りに至り、辺りのは、中心から五千(300k)余里ばかりでめぐる。倭の地は女王国基点の周の内。倭の地は佐賀県庁基点、300余kの地。洲・大陸、国。島・小島。之・に至る。上・ほとり、辺り。

 

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣都 求詣天子朝獻 太守劉夏遣使將送詣京都

 景初二年(西暦二三八年)六月、倭女王大夫難升米等を都に派遣する。郡に来て、中国の皇帝に貢物をしたいと申し出た。そこで、太守の劉夏は、役人に命じて彼を都(洛陽)に送らせた。

 

其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼 帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝

 その年の十二月、魏の帝、倭の女王に詔書して報じて曰。

「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方太守劉夏が使いを遣わし、汝の大夫難升米と次官都市牛利を送り、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を献上しに到った。汝の国は遥か遠くにも関わらず、使いを遣わし朝貢したのは、汝のわれに対する忠孝の現れで、我、甚だ汝をいとおしむ」

 

今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 装封付帯方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲考順 汝來使難升米 牛利渉遠 道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 

 今、汝を親魏倭王と爲し、金印・紫綬を与える。装封して帯方太守に託して、汝に授ける。それを証拠とし、国のを安心させ、努めて孝順をなせ。汝の使者の難升米と都市牛利は遠きを渡り、旅に苦労した。難升米には率善(そつぜん)中郎将を、牛利には率善校尉という位を与え、銀印靑綬(青い組みひも)も与える。二人を引見し、慰労してから、記念品を与え帰国させる。

 

今以地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺靑五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文綿三匹細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 眞珠 鉛丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

 そこで、赤いつむぎの布、二頭の竜を配した絹織物を五匹、赤いちぢみ毛の織物を十張、茜色のつむぎを五十匹、紺青の織物を五十匹を与えて、汝がもたらした貢ぎ物の返礼とする。また特に汝には、紺地の模様のついた綿を三匹、斑模様の毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹それぞれ五十斤を与える。みな封緘をして、難升米、牛利に託す。帰国したら、録を受けよ。すべての録を国中の人に展示し、国家(魏国)が汝を大事にしていることを知らせよ。そのために、汝に鄭重に、好物を与えたのだ」

注・魏王の法外な喜びと法外な下賜の品である。原文、景初二年は間違いではない。

 

正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 井齎詔賜金 帛 綿罽 刀 鏡 采物倭王因使上表答謝恩詔 

 正始(せいし)元年(二四〇年)、太守の弓遵は、建中校尉の梯儁らを派遣。詔書、印綬を奉じて倭国を。そこで倭王に位を授け、あわせて皇帝の詔書をもたらし、金、しろぎぬ、絹織物や毛織物、刀、鏡などの贈り物を与えた。倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼をした。

 

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭綿 絳靑縑 緜衣 帛布 丹 木(犭付) 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

 その四年(二四三年)倭王は、また大夫の伊声耆、掖邪狗など八人をつかわし、奴隷、絹織物、深紅と青の色調の薄絹、綿いれ、しろぎぬ、丹、弓の柄、短弓の矢などを献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。

 

其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授

 その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、郡に託して、これを授けさせた。

 

其八年 太守王到官 

 同八年(247年)、郡の太守王頎(おうき)があらたに任官された。

 

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斬 越等詣郡説相攻撃(爿犬) 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢 拜假難升米爲檄告喩之

 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は、もともと不和。倭は載斯、烏越らを派遣して郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。郡は、砦の曹幢史(そうとうし)の張政らを倭へ派遣、皇帝の詔書と黄幢を与え、このかりた力を難升米がおふれにし、告げさとし、これを拝んだ。

 

卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 靑大狗珠二枚 異文雜綿二十匹

この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」、殉葬する奴婢は百余人。あらためて男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人殺した。再び卑彌呼の宗女(卑弥呼と同じ血筋)十三歳の「壹與」を立てる。国中が遂に定まった。張政らは前の回状を使って、壹與を励ました。イツ、イチ、イシ)與(ヨ)は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を派遣し、張政らを送り届けながら、ダイ、タイ、イ。皇帝の居場所)に詣でて、男女生口三十人、白珠五千、大玉の青メノウ二枚、異国の模様のある絹織物二十匹を獻上した。

あとがき

 この項は検証中派生した外伝である。少なくとも、確実にバイアスがかかった古事記(712年)日本書紀(720年)続日本紀(797年)等は、正体鵜呑み丸暗記作家の東大京大等の文系教授任せにせず、剥奪し、三次元思考可能な理系が検証すべきである!二次元思考で検証能力皆無の文系任せにした結果、騎馬民族説(東大教授江上波夫1991年文化勲章受賞)なる空想物語騙りで、日本が混乱した。歴史は想像物語ではなく実証学で、祖先が生き、躍動した証なのだ!


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真実史観1八紘一宇世界同胞主義樋口季一郎安江仙江犬塚惟重杉原千畝とユダヤ人


1八紘一宇世界同胞主義樋口季一郎安江仙江犬塚惟重杉原千畝とユダヤ人
 大戦になると「迫害」されてきたのがユダヤ人の歴史で、世界平和が民族安泰の第一原則。「大戦防止の火消しには即行動(アメリカの軍事介入)」するが、「大戦の付け火(自殺)」は断じて、無い!ブログ散見の「ユダヤ金融資本が平和破壊」は、浅学無検証隠蔽目的扇動屋の、こじつけ集金道具に過ぎない!「気違いのゴミブログ」に騙されてのユダヤ人非難は、日本人に非ずの愚民である!ユダヤ人は団結している。団結は唯心(公)でないと出来得ない崇高な行動(シオニズム・ユダヤ人の祖国回復運動)!

 韓国や北朝鮮や罪日の犯日行動起因は、「仮想敵国日本として非難」で「自国民を懐柔」し、「李朝差別・同族殺し」を隠蔽しての洗脳「ニセ愛国団結」目的。これを知らない無検証偽愛国団か、ユダヤ人へ責任転嫁し責任逃れを図る朝鮮工作員が、無理にこじつけたのが「ユダヤ金融資本が平和破壊論」と言う、根も葉もないこじつけ論(無思索かスパイ自白)である。   

 朝鮮も罪日も、ユダヤ人や日本人のような、真の団結(唯心)であったなら、愚かな同族殺し(李朝差別、四・三・虐殺、保導連盟事件、朝鮮戦争等)など無く、当の昔に統一されていた。中国やその属国朝鮮は、唯物民族で異なる。

 真実史観と思索回路が有れば(正常なら)、こんなことは常識だ。「検証無き扇動ブログ」には、騙されるな

人種平等への旗手
 1919年、パリ講和会議。第一次世界大戦の惨禍を再び引き起こさぬよう、国際連盟創設の会議が進められていた。全米1200万の黒人は会議の成り行きを、固唾を飲んで見守っていた。黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。しかし、日本の提案は16カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソン(民主党)の「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。大東亜戦争は人種平等を勝ち取る戦いでもあった。

樋口季一郎少将、安江仙江大佐、犬塚惟重大佐、杉原千畝領事の行動は、「日本帝国の原則」「人種平等の原則」・「八紘一宇」の精神UniversalBrotherhood(世界同胞主義)、国策に基づいたものであった。

・・・我国は、八紘一宇を国是(こくぜ・国の方針)としておりユダヤ民族に対してもこれを例外とすべきではない。彼らは世界中に行先無く、保護を求めているのである。窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずという。況(いわ)んや彼らは人間ではないか。安江仙江大佐の講演。脱北者いじめの中国凶産党とは、対比が際立つ。

注・ 「八紘一宇」八紘(はっこう)は、八つの方角で全世界の意。宇(う)は家のこと。全世界を一軒の家のように睦まじくすること。日本書紀の「兼六合以開都、掩八絋而為宇』に基づく。田中智学(たなか ちがく)(1861~1939)は、日蓮宗系の在家仏教運動家。国柱会の創設者、戦前の日本国体思想に多大の影響を与えた思想家である。「八紘一宇」という言葉は、彼が日本書紀の「八紘為宇」という語句を使って造語したものである。中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)http://www.yorozubp.com/0511/051109.htm

日露戦争
 日本がロシアからの侵略から独立を守るべく日露戦争に立ち上がった時、ロシアのユダヤ人同胞を救おうと日本に協力したのがアメリカのユダヤ人指導者、銀行家のジェイコブ・シフで あった。日露戦争の総戦費19億円のうち、12億円がシフを通じて引き受けられた外債によるものだった。日本人はシフの助力に深く感謝し、ユダヤ人に感謝した。

日本「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定
 昭和8(1933)年1月、ヒトラーは首相に就任すると、4月1日にユダヤ人排斥運動声明を行い、ユダヤ人商店のボイコット、ユダヤ人の公職追放、教師・芸術家・音楽家の締め出し、ニュルンベルク法(1935)によるドイツ市民資格剥奪、と矢継ぎ早にユダヤ人排斥政策を打ち出した。急増するドイツ、オーストリアからのユダヤ人難民を救うために、米国のハル国務長官が1938(昭和13)年3月に国際委員会を組織する提案を行い、その第1回委員会がフランスで開かれた。しかし国際社会はユダヤ人に対して冷たかった。米国の議会は自国の政府提案を拒否。ベルギー、オランダ、アルゼンチン、ブラジル等は、移民受け入れの余地なしと回答。カナダは協力の意向あるも、収容能力に限度あり。イギリスは、農業移民ならギニア植民地に収容できるかもしれない、と事実上の拒否。

日本は大恐慌以来、英連邦、アメリカ、オランダなどの輸出市場から閉め出され、さらには中国での日貨排斥によって、経済的な苦境に立たされていた。国際社会での人種差別に苦しめられ、人種平等を唱えていた日本人にとって、ユダヤ人に対する迫害は、他人事ではなかったのだ。

昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人約2万人が、シベリアを列車で横断し、満洲国への入国を求めてきた。ハルピン特務機関長樋口季一郎少将はこれを許可。難民の大半は大連、上海を経由してアメリカに脱出、残り約4千人は開拓農民としてハルピン奥地に入植した。ドイツは同盟国として強硬な抗議をしてきたが、樋口少将は、ユダヤ人迫害は「人倫の道にそむくもの」としてはねつけた。

 昭和13(1938)年11月7日、ユダヤ系ポーランド少年がパリのドイツ大使館書記官を暗殺。報復として、ドイツ全土のユダヤ教会堂ほとんどと、7千5百のユダヤ商店が破壊され、2万6千人のユダヤ人が収容所に送られた。打ち壊されたガラスの破片で街路が埋め尽くされ、きらめいたので「水晶の夜」と呼ばれた。この事件を機に、ヒトラーはユダヤ人の大規模な国外追放を始めた。

 昭和13(1938)年12月6日、日本では5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定した。これはユダヤ人を「獨国(ドイツ)と同様極端に排斥するが如き態度に出づるは啻(ただ)に帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神に合致せざる」として、以下の3つの方針を定めた。

○現在日本、満洲、支那に居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。

○新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。

○ユダヤ人を日本、満洲、支那に積極的に招致はしないが、資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。(全否定ではなく招致も可)

5相会議決定の根回しをしたのが、陸軍の安江仙弘(やすえ のりひろ)大佐であった。安江大佐は陸軍内随一のユダヤ問題の専門家として、ユダヤ難民保護を訴えていた。後には満洲国政府顧問、および満鉄総裁室付嘱託として、満洲・支那在住のユダヤ人保護の活動を続けた。

 有色人種国家として、ただ一国近代化に成功、世界5大国の一角を占めるようになった日本は、人種差別と長年戦ってきた。虐げられし同胞、ユダヤ民族の苦境を、看過は出来なかった。

 昭和14(1939)年夏から、上海に赴任した海軍のユダヤ問題専門家犬塚惟重(これしげ)大佐は、日本海軍が警備する虹口地区において、世界でただ一カ所ビザなしでユダヤ難民を受け入れた。

 ここには、1万8千人の難民が押し寄せ、以前から居住していた住人と含めて、3万人のユダヤ人が自由な生活を送っていた。ドイツからは度々上海のユダヤ人を排除するよう働きかけがあったが、日本はそれを拒絶。

 昭和15(1940)年7月、ドイツ占領下のポーランドから脱出したユダヤ難民の一部が、バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に押し寄せた。リトアニアもソ連に併合され、ユダヤ人迫害が始まったので、日本経由でアメリカやイスラエルに逃れようとして、ビザを求めに来たのである。 杉原千畝(ちうね)領事は、6千人ものユダヤ難民にビザを発給し、その生命を救った。

誰もが閉ざした扉を開いた
 ドイツやソ連に追い立てられ、アメリカ、イギリス、スウェーデンにさえも、門前払いのユダヤ人。扉を開けていたのは杉原だけではなかった。特に目立つのは、カウナスの他では、ウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなどだが、1940年から41年にかけて、12以上のヨーロッパの都市の日本領事館で、ユダヤ人へのビザが発行されていた。1940 (昭和15)年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間だけで、1万5千人のユダヤ人が日本に渡った。

 その規範となったのが、39年12月の5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要綱」だった。ここでは、ユダヤ人差別は、日本が多年主張してきた人種平等の精神に反するので、あくまでも他国人と同様、公正に扱うべきことを方針としていた。当時の外相松岡洋右はこう言っていた。「いかにも私はヒットラーと条約を締結した。しかし、私は反ユダヤ主義になるとは約束しなかった。これは私一人の考えではない。日本帝国全体の原則である」と。

 日独伊三国同盟(1940年9月)は、1936年11月25日の日独防共協定(正式には共産インターナショナルに対する日独協定。対コミンテルンの対抗措置を定め、秘密付属協定でソ連を仮想敵国とした反ソ反共協定)、翌年1937年11月イタリヤも参加の日独伊防共協定が原点。付け焼刃などではなく、敵の敵は味方の同盟。

「ゴールデン・ブック(献金記帳簿)
 新資料ハルビン極東ユダヤ人協会が、1941年7月14日献金し、樋口(東京)・カウフマン(ハルビン)・安江(大連)と記帳している」指揮官の決断・早坂隆著2010文春文庫

 旧資料「イスラエルには世界的に傑出したユダヤ人の名を登録し、その功績を永遠に顕彰する「ゴールデン・ブック」という本がある。その中に、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達にまじって、「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている」

樋口季一郎少将
 ユダヤ人排斥は日本の人種平等主義に反する。当時の日本軍占領下の上海は、ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の上陸可能な都市だった。ユダヤ難民は、シベリア鉄道で満洲のハルピンを経由し、陸路、上海に向かうか、日本の通過ビザを取得して、ウラジオストックから、敦賀、神戸を経由して、海路、上海を目指すルートをとった。

 杉原千畝が命がけで日本の通過ビザを発行した6千人のユダヤ人難民は、後者のルート。そして、前者のルートで3万人のユダヤ人を救ったのが、樋口季一郎少将である。

 当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していた。1942年には、東京のドイツ大使館からゲシュタポ(秘密治安警察)要員が3度にわたって、上海を訪問し、ドイツと同様のユダヤ人強制収容所を建設する事を働きかけている。しかし日本側は居住区を監視下に置きはしたが、身分証明書提示で自由に出入りできた。大半のユダヤ人は戦争を生き延び、無事にイスラエルや米国に移住した。

 猶太(ユダヤ)人対策要綱は、日米開戦後に破棄され、新たに難民受け入れの禁止などを定めた対策が設けられたが、「全面的にユダヤ人を排斥するのは、(諸民族の融和を説く)八紘一宇の国是にそぐわない」とした。

 昭和12(1937)年12月、満洲ハルピンの夜は零下30度近くまで下がり、吹雪が続いていた。カウフマン博士は、8月にハルピンに赴任してきたばかりのハルピン特務機関長・樋口季一郎少将を訪問し、流暢な日本語で、「夜分、とつぜんにお伺いしまして、恐縮しております」と言った。博士は、50を超えたばかりの紳士で、ハルピン市内で総合病院を経営し、日本人の間でもたいへん評判のよい内科医であった。大の親日家であると同時に、ハルピンユダヤ人協会の会長として、反ナチ派の闘士でもあった。

 樋口少将は、着任早々、満洲国は日本の属国ではない。だから満洲国、および、満洲国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、満人の庇護に極力努めるようにしてほしい。と部下に訓示し、「悪徳な日本人は、びしびし摘発しろ」と命じていた。カウフマン博士は、その樋口に重大な頼み事を持ってきたのである。それは、ハルピンで極東ユダヤ人大会を開催するのを許可して欲しいということだった。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の暴挙を世界の良識に訴えたいというのである。樋口はハルピン赴任以前ドイツに駐在し、ロシアを旅行、ユダヤ人達の悲惨な運命をよく知っていた。樋口は即座に快諾し、博士を励ました。

 翌13年1月15日、ハルピン商工倶楽部で、第一回の極東ユダヤ人大会が開催された。東京・上海・香港から、約2千人のユダヤ人が集まった。樋口も来賓として招待されたが、部下は身の危険を心配して辞退するよう奨めた。当時のハルピンでは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化しており、治安の元締めである機関長がユダヤ人大会に出席しては、ロシア人過激分子を刺激して、不祥事を引き起こす恐れがあったからだ。しかし、樋口は構わず出席し、カウフマン博士から求められる来賓としての挨拶をした。

「曰く、ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。とうぜんとるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺にひとしい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ! そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ」

 演説が終わると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、つぎつぎに握手を求めてきた。

 大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員や新聞記者達が、いっせいに樋口を囲んだ。イギリス系の記者が、核心をついた質問をしてきた。ゼネラルの演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに水をさすような内容である。そこから波及する結果を承知のうえで、あのようなことを口にしたのか。

樋口はまわりを取り囲んだ十数人の新聞記者やカメラマンに言った。

日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。・・・今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。・・・世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、この問題は解決しないだろう

 樋口の談話は、各国の新聞に掲載された。関東軍司令部内部からは、特務機関長の権限から逸脱した言動だとの批判があがったが、懲罰までには至らなかった。ユダヤ人迫害は人種平等の国是に反するという国家方針に沿ったものであったからだ。

 昭和13(1938)年3月8日、ハルピン特務機関長・樋口少将のもとに重大事件のニュースがもたらされた。満洲国と国境を接したソ連領のオトポールに、ナチスのユダヤ人狩りからのがれてきた約数千(「回想録」は何千人)~二万人(オトポール経由の総数か)のユダヤ難民が、吹雪の中で立往生している。これらのユダヤ人は、満洲国に助けを求めるために、シべリア鉄道を貨車できたのであるが、満洲国が入国を拒否したため、難民は前へ進むこともできず、そうかといって退くこともできない。食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために、凍死者が続出し、危険な状態にさらされている、これらのユダヤ難民は、フランクフルトからポーランドに流れ込んだのだが、すでに数百万のユダヤ人を抱えていた同国は、対応できず、ソ連に依頼した。

 ソ連は、開発を放棄した酷寒の地シベリアに難民達を入植させた。都市生活者ばかりの難民達に、開拓などできるはずなどない。彼らは満洲国を経由、上海へ脱出を試みて、オトポールまでやっとのおもいでたどりついたのである。

 ハルピンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士も飛んできて、樋口に同胞の窮状を訴えた。しかし、満洲国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱である。なぜ外務部は動かないのか。ユダヤ人問題で下手に動いて、ヒットラーから横やりでも入ったら、関東軍からにらまれるからだろう。樋口は腹立たしさを覚えた。彼らは満洲国の独立国家としての自主性をまったく失っている。満洲建国の理想として世界に掲げた旗印は「五族協和」であり、「万民安居楽業」ではないのか。博士!難民の件は承知した。だれがなんといおうと、私がひきうけました。博士は難民の受け入れ準備にかかってほしい。

力強い樋口のことばに、カウフマン博士は感きわまり、声をあげて泣いた。「博士、さあはやく、泣いている場合ではありませんぞ」樋口はすぐに満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車の交渉を始めた

それから2日後の3月12日。ハルピン駅では列車の到着を待つカウフマン博士をはじめ、十数人のユダヤ人協会の幹部が、救護班を指図しながら、温かい飲み物や、衣類などの点検に忙しそうに動きまわっていた。やがて、轟然たる地ひびきをたてて、列車がホームにすべりこんできた。痩せたひげだらけの顔が、窓に鈴なりになって並んでいる。期せずして、はげしいどよめきの声が、ホームいっぱいにひろがった。列車が停止すると、救護班がまっさきに車内にとびこんだ。病人や凍傷で歩けない人たちが、つぎつぎにタンカで運びだされてくる。ホームのあちこちで、だれかれのくべつなく肩にとびつき、相擁して泣き崩れる難民たち。やつれはて、目ばかりギョロつかせていた子供たちは、ミルクの入った瓶をみると、狂ったように吠え、わめき、オイオイと泣きだした。

「よかった。ほんとによかった!」カウフマン博士は、涙で濡れた顔をぬぐおうともせず、ホームを走りまわって、傷ついた難民にいたわりの声をかけている。数刻後、樋ロは、オトポールの難民ぜんぶが、ハルピンに収谷されたという報告をうけた。凍死者は十数人、病人と凍傷患者二十数名をのぞいた全員が、商工クラブや学校に収容され、炊きだしをうけているという。救援列車の手配がもう一日おくれたら、これだけの犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言っていた。

難民の8割は大連、上海を経由してアメリカへ渡っていったが、あとの4千人は開拓農民として、ハルピン奥地に入植することになった。樋口は部下に指示し、それらの農民のために、土地と住居をあっせんするなど、最後まで面倒を見た。

 樋口のユダヤ難民保護に対して、案の定、ドイツから強硬な抗議が来た。リッべントロップ独外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議書を送ってきた。「満洲国にある貴国のある重要任務にあたる某ゼネラルは、わがドイツの国策を批判するのみか、ドイツ国家および、ヒトラー総統の計画と理想を、妨害する行為におよんだのである。かかる要人の行為は、盟邦の誓いもあらたな、日独共同の目的を侵害するばかりか、今後の友好関係に影響をおよぼすこと甚大である。この要人についてすみやかに、貴国における善処を希望している」。

 樋口は、関東軍司令部からの出頭命令を受け、参謀長・東條英機(後の首相)に対して次のように述べた。

「もし、ドイツの国策なるものが、オトポールにおいて、追放したユダヤ民族を進退両難におとしいれることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策ではないか。そしてまた、日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであるといわねばならないでしょう。私は、日独間の国交親善と友好は希望するが、日本はドイツの属国ではないし、満洲国もまた、日本の属国ではないと信じている」

樋口は、東條の顔を正面から見据えて言った。「東條参謀長!ヒトラーのおさき棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」東条は、ぐっと返事につまり、天井を仰ぐしぐさをしてから、言った。

 「樋口君、よく分かった。あなたの話はもっともである。ちゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう」

樋口を待っていたのは、「不問」どころか、参謀本部第2部長への栄転だった。

出発の当日、駅頭は、二千人ちかい見送りの群集で、埋めつくされていた。その人波の中には、数十キロの奥地から、わざわざ馬車をとばして駆けつけてきた開拓農夫の家族たちなどもまじっていた。樋口が土地や住居の世話をしたユダヤ難民たちであった。

樋口が駅頭に立つと、いっせいに万歳の声がわきおこった。日の丸と満洲国旗とをうちふり、「ゼネラル、ヒグチ!」と、ロ々に連呼しあう。孫に手をひかれた白髪のユダヤの老婆は、路面にひざまずいて樋口を拝み、涙をながしつつけていた。待合室に入ると、カウフマン博士が、白系ロシア人の代表者ロザノフとともにやってきた。ユダヤ人と白系ロシア人は、血なまぐさい暗闘を繰り返していたのだが、樋口が親睦のクラブまで作って、仲介に努力していたのである。ロザノフは、カウフマン博士の頬に長い接吻をし、巧みな日本語で言った。これが閣下に対する餞別です。閣下の言葉を忘れず、これから仲良くやっていきます。

 樋口が「あじあ」号の最後尾の展望台に立つと、列車は高らかに警笛を響かせて、ゆっくりと動き出した。「ヒグチ!」「ヒグチ!」。群衆は堰を切ったように改札口を乗り越え、ホームにあふれ出した。あどけない顔をした少年達は銀髪を振り乱し、両手を振り上げながら、あじあ号を追って走り続けた。

終戦後、ソ連極東軍は、札幌にいた樋口を「戦犯」に指名し、連合軍総司令部に引き渡しを要求してきた。停戦後の8月19日まで、北千島を攻撃してきたソ連軍は、北方防衛の責任者であった樋口に大損害を与えられ、北海道上陸を阻止された事を恨んでいたのである。樋口の危機を聞いて、ニューヨークに総本部を持つ世界ユダヤ協会が動き出した。その幹部の中には、オトポールで救われた人々もいた。

「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない」世界各地に散らばっているユダヤ人に檄がとび、樋口救出運動が始まった。世界ユダヤ協会は、アメリカの国防総省を通じて働きかけ、マッカーサー総司令部はソ連からの引き渡し要求を拒否し、逆に擁護することを通告、樋口は救われた。2につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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