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真実史観ポーランドシベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれる真実


1シベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれるポーランドの思い

シベリア(ウラジオストックや樺太などの極東も含めて、当時はこう呼んだ)

 

 ショパンやキューリー夫人の国ポーランド。ポーランドは長い伝統をもつ国でありながら、1795年、ポーランド周辺の超大国が占領。ロシア、オーストリア、プロシア(後のドイツ)に三次にわたり分割され、1815年ロシアに編入。ポーランドが滅亡し、国名が一時消えた歴史がある。

 

 18世紀末、ポーランドはロシアに支配されていた。ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂起を繰り返した。そのたびに失敗しては、捕らえられ、シベリアに「流刑囚」として流されて、強制労働をさせられていた。1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では、8万人もの流刑囚がシベリア送りとなり、家族と共に捕らえられ、政治犯としてシベリアに流された。恋人も後を追い、皆飢餓と寒さと伝染病と戦いながら暮らしていた。シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の、流刑の地だった。そのためシベリアには、何十万人ものポーランド人がいたのである。そしてそこで、多くの子供たちが生まれた。

 

 1917年、ロシア革命が勃発すると、シベリアのポーランド人たちは祖国独立の一助になろうと、チューマ司令官のもとに2千名の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立し、ロシア提督・コルチャークを助けて赤軍と戦った。しかし、その試みは失敗し、ポーランド人部隊はウラジオストックに追い込まれた。

 この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、日本であった。日本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、米英仏などと共にシベリアに出兵していたのである。

 

 第一次大戦後の1918年11月、ポーランドは100年以上を経て、ようやく独立を果たした。しかし、まもなくロシアでは革命が起こり、革命軍とロシア皇帝派の戦いはやがてシベリア全土を覆いつくし、その混乱は、当時10万人近くいたシベリアのポーランド人たちをも巻き込んでいった。ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーランド人がおり、多くの人達が殺されていく中で、親とはぐれた子供たちが数多くシベリアに残された。

 

 赤軍(共産党)は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そうとした。ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で後に日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は、当時の状況をこう語っている。

・・・街には、飢えた子どもがあふれていましたね。その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、「ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、せがむのです。日本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、キャラメルをもらったことがあります。孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている子どももいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした。・・・

 

 ウラジオストック在住のポーランド人有志たちは、我々はこのままシベリアで死んでもいいが、せめて子供たちだけでも祖国ポーランドへ帰してやろうと、鉄道技師の夫と共にウラジオストックに住んでいたアンナ・ビエルケビッチさんが、1919年(大正八年)9月に、「ポーランド孤児救済委員会」を組織した。しかし、その後、ポーランドとソ連との戦争が始まり、孤児たちを帰還させることが不可能となった。

 

会長となったアンナ・ビエルケビッチさんは、輸送の援助を大国であるヨーロッパやアメリカに求めた。がしかし、欧米諸国は、その要請に応えてはくれなかった。民族は異なるが、もしやと思い、同じ大国である中国上海の中国赤十字社を訪ね救済要請したが、これも断られ、思い叶わずウラジオストックに戻った。

 

 万策つき傷心のビエルケビッチさんは、再び子供たちを救うにはどうしたら良いかと、委員会で皆の意見を求めた。一人の委員が、小国ではあるが日本に救援を頼んでは、と提案したが、年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(はりつけ)にしたような国が、他の国の子供たちを助けてくれるだろうか、と反対した。そこに副会長の若い医師ヤクブケビッチ副会長が手をあげて発言を求めた。

 

・・・僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいったポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はいませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきたチューマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍じゃありませんか。・・・

 こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、陸軍や外務省にポーランド孤児救済を依頼する決定がなされた。

 

 絶望的な状況の中で、救済委員会会長のビエルキエヴィッチさんは、1920年6月に船を頼み込んで、福井県の敦賀に着き、東京に行って外務省に嘆願した。

彼女の嘆願書抜粋。

・・・「われわれは祖国から離れ離れになり、いまだ何の助けも得られません。このまま冬が来ると、子供達の命が奪われることは明らかです。子供を花のように愛する日本が、彼らの命を戦争の不幸から救ってくださるよう、私は切に願っています」・・・

 

打診された外務省は、直ちに日本赤十字社にかけあった。日赤は、ポーランドへ帰還させる方策を決定した。救済委員会が日本の外務省に打診後わずか17日目のことだった。1920年というと、ベルサイユ条約でポーランドが出来たばかりで、まだお互いに大使館もない状態で、しかもこの救済の要請は、ポーランドの政府からのものではなく、ポーランドの一民間組織からの要請である。要請後、わずか17日後にこの要請を受け入れることに決断したことは、今考えても驚くべき即断といえる。

 

まず、日本赤十字社が現地に向かうことになった。現地には、ソ連赤軍(共産党)がおり、大変に危険な状態だったが、たまたま日本軍がシベリア出兵のために待機中だったので、日本軍にも協力を要請した。そこで、日本の兵士達が「私達がやりましょう」と、どんどん赤軍(共産党)支配のシベリアの原野に入っては、小さな子供達を一人二人と抱えてウラジオストックに戻ってきた。捜索は二年間続けられた。

 

 救済委員会も、一人でも多くのポーランド人孤児を救おうと、あちこちの避難所を探し回った。

ビルケビッチさんは語る。

・・・こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいました。ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のようにして、その家庭をたずねました。父親を亡くした家庭では、「せめて子どもだけでも、助け出してください」と母親たちが、泣いてわたしたちにたのむのでした。

 しかし、こうして「シベリアで子どもたちを集められたのは、日本軍がいる町だけだった。日本軍の助けなしには、なにもできなかった」と、ビルケビッチさんは回想する。

 

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌1921年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに1922年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来日した。

 

 東京には、2歳から16歳までの子供375人、大阪には1歳から15歳までの子供390人が来日した。孤児たちがシベリアから持ってきた荷物の中に、食パンの頭と耳がいっぱい詰まった袋があった。シベリアでのひもじい体験から、万一日本で食べるものがなかったときのために、多くの孤児がこっそり持ち込んでいたのである。

 

765名の孤児たちが日本に招き入れられ、二年間にわたって治療、療育が施された。習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけるのがよいと考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招いて配慮した。

 

 孤児たちのことが一般に知られるようになると、国内では治療や理髪、慰安会、救援金、慰問品の寄贈などのボランティアの申し入れが殺到した。

 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を絶たなかった。

 

 ・・・ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれたが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったこと。と孤児たちは、特に印象に残っていることとして述懐している。

 

 「体中皮膚病にかかり白い布に包まれてベッドに横たわる私に、看護婦さんがキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました」とかつての孤児アントニーナ・リーローさんも、語っている。

わが国のポーランド孤児たちへの治療と療育は、手厚く行われ、中には、腸チフスの子供を看護し、自らも感染して殉職した看護婦もいた。

 

 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児たちを親しく接見され、3歳の女の子、ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチをいだき、その頭を幾度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。

うちひしがれた三歳の女の子を抱きしめられた時、孤児たちは一斉に号泣したという。

その感激の涙が立ち戻る力となったと当時の子供たちは今に伝えている。

 このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。

 

 日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

 

 保護した765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドに、一人も不幸にせずに、保護した765名全員を送り届けた。

 

 「2年を過ごした日本は天国のような場所」であった、と孤児たちは後に述懐している。

 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がった。見送る医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしなかった。別れを惜しみながらも、孤児たちは精一杯の感謝の気持ちをこめて波止場に並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた、「君が代」を歌った。

 

 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、船が見えなくなるまで手を振っていたと伝えられている。

 

 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

 

 日本船に乗せられ祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちは、養護施設に保護され、それを祝うために首相や大統領までが駆けつけた。この施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国旗を掲げ「君が代」を合唱したと言われている。

 

 シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が日本に届けられている。そのひとつ、救済以来を日本にするように提案した、当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べている。

 ・・・日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。

 

 ・・・われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。

 

 ・・・ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。

 

 ・・・ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい。

 

 こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。「極東青年会」はポーランドと日本の親睦を主な目的とし、組織の活動を通して日本文化のすばらしさをポーランドに紹介していった。

 

 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。

 

 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

 

 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。

 

 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。

 この後も日本大使館は、イエジキ部隊を幾度となく庇護した。2につづく⇒

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真実史観日本国民よ!唯心ポーランドが一世紀にわたり語り継いだ歴史に学べ

2日本国民よ!唯心ポーランドが一世紀にわたり語り継いだ歴史に学べ

 1939年ソ連とドイツに分割占領される。

 1945年ソ連軍によって解放され、独立を回復。ポーランド統一労働者党が掌握。

 1952年ポーランド人民共和国(共産主義)となる。

 1989年国名より「人民」を排除、ポーランド共和国(民主主義)となる。首都ワルシャワ。カトリック教徒が圧倒的に多い(95%)。

 1995年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりついた。

 私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。

 しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません。と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今まで肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。

 

 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せあった。

 

「このお札のお陰で長生きできた」というこの聖母マリアの像が描かれたトランプの大きさのお守り札は、時を経てもうボロボロになっていたが、裏面に印刷されたお祈りの日本語が、かすかに残っていた。

 

 前述のように後にポーランド大使となる兵藤長雄は、外務省入省の後、1961年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、その時の先生がグラドコフスキという元ポーランド陸軍将校であった。グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も自宅に呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。

 

 なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと不思議に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。父親はロシアに徴集されて日露戦争に従軍したが、捕虜となって数ヶ月を日本で過ごしたのだった。そこで周囲の見知らぬ日本人から親切にもてなされ、深い感銘を受けた。

 

 父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、息子にその時の話を詳しく聞かせては「お前も日本人に出会ったらできるだけ親切にして恩返しをして欲しい」と口癖のように話していたという。「父親が受けた日本人からの親切を、今、貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と先生は若き兵藤に語った。

 

時は流れて1993年ポーランド大使となった兵藤長雄は、ポーランド永住の日本人松本昭男から初めてこの話を聞き、長い月日が流れてはいるが、まだ生きている方がおられるのではないか、そして何とかしてその孤児の方々とお会いできないかと、松本さんと相談し探した結果、存命者が判明し、前述の招待となった。

 

 あれから75年の歳月が流れ、平成七年(1995)、わが国の阪神地域を大地震が襲った。このとき、いち早く救援活動をしてくれた国が、ポーランドだった。さらには、震災で孤児になった日本の子供たち30人ずつ2回に分けて、今度はポーランドへ招待した。

 

 被災孤児の一人の男の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、世話をした一人のポーランド婦人が理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになってしまったので、焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、片時も手放さないのだという。この婦人は不憫で涙が止まらなかった、と伝えている。

第2回目の被災児がポーランドヘ招待されたのは1996年の夏であった。3週間招待されていろいろなところを案内され歓待された。

 

 震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」と無理をおして、やって来たのだ。日本の被災孤児たちに、自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流してこれで恩返しができたと語った。終わりに4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。

 

 阪神淡路大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた中心人物は、東京のポーランド大使館に勤務していた物理学者で外交官、スタニスワフ・フィリペック氏である。フィリペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授だったが、ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に留学した経験もあった。

 

 フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下のポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、氏が3歳の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。その後、氏はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。

 

 お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)をやりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこうにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつけたんだもの。ジジュツのせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカはサムライの国でね、サムライ魂を持っているんだ。

 

 小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、私たちポーランド人の希望になったんだ。わたしたちもヤポンスカのように、ロシアや、ドイツや、オーストリアを負かして追い払い、自由をとり返して、独立できると信ずることができた。そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーランドは独立できたんだよ。

 

 おばあさんは幼いフィリペック氏に、ヤポンスカがポーランド人捕虜を親切に扱ったことや、大勢のポーランド孤児をシベリアから救出したことを語って聞かせたという。これが機縁となって、氏は日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意したという。

 

平成11(1999)年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団は孤児だったヘンリク・サドスキさん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。

 ・・・20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてくれたことを忘れません。・・・(合唱団は)私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう。・・・

 

 サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡して」と救出当時の写真を託した。「孤児収容所を慰問した皇后陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」と話したという。

 

 平成14(2002)年七月、天皇、皇后両陛下は初めて中・東欧四カ国を訪問された。
 ・・・クワシニエフスキ大統領が、日本とポーランドの交流の歴史に触れ、ロシア革命当時、シベリアに残された孤児の救出について改めて感謝した。・・・平成14(2002)年7月10日毎日新聞報道  

 

 ・・・第一次世界大戦(1914~18年)やロシア革命(17年)の時に、ロシア支配に抵抗してポーランドからシベリアに追放され、日本によって救出されたポーランド人の元孤児3人が12日、ワルシャワの日本大使公邸であったレセプションで天皇、皇后両陛下と初めて面会した。元孤児の一人は面会後の会見で「私が今あるのは日本の援助のおかげ。両陛下に会えて感激している」と心情を話した。・・・平成14(2002)年7月13日毎日新聞報道

 

 皇后陛下の誕生日・平成14(2002)年10月20日に放映「スーパー・テレビ」では、両陛下とその老齢になった孤児達が対面する感動的な場面が映し出されていた。
 病院に大正天皇の后、貞明皇后がお見舞いに来られ、小さかった彼女を抱いて励ましてくれた記憶のある元孤児の一人、86歳のアントニナ・リーロさんは、美智子皇后の手をずっと握りしめていた・・・。80余年の時空を超えて、かすかに覚えている貞明皇后の手の感触、胸のぬくもりを確かめているかのようで、時間が止まったかのように感じられた。・・・時が流れ、年老いた元孤児は静かに「君が代」の一節をくちずさんだ。

 

ピオ11世、パウロ六世、パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世と、一貫するローマ法王

 戦前、共産の正体を狂惨と喝破したローマ法王ピオ11世は、反共戦争(日中戦争・支那事変・日華事変。1937年7月7日)が始まった年の10月に、全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、次のようなメッセージを出している。「日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよ」と。当時、共産ではなく狂惨(凶産)と喝破していたのは、全世界のカトリック信徒と日本だけであった。

 昭和五十(1975)年にヴァチカンを訪れた仏教徒の仲田順和は、時のローマ法王・パウロ六世に、先代座主の遺志をつぎ、「戦犯とされた人々」の鎮魂と慰霊のために宗教の違いを超えて日本人殉難者のためのミサを、と願い出た。パウロ六世の快諾を得て帰国したが、法王の訃報に接した。後継のパウロ一世も急逝、異教徒の願いは空しく閉ざされたと思われた。

 がしかし、五年後の昭和五十五(1980)年四月ヨハネ・パウロ二世から「五年前の約束を果たしたい」との親書が届けられた。ローマ法王庁は、ピオ11世のメッセージと異教徒の願いを忘れてはいなかったのである。

 同年の五月二十一日、法王パウロ二世のもと昭和殉難者のための荘厳なミサがヴァチカンでとり行われ、連合国の手で「戦犯」として裁かれた、ABC級すべての日本人昭和の殉難者1068柱の霊が祀られた。ピオ11世のメッセージを、貫いたのである。

 

昭和56年(1981)2月23日~26日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はローマ法王として初めて来日した。この時、法王は慣例を破って皇居に天皇陛下を訪ねられた(2月24日11時皇居で天皇と会見。14時法王庁大使館で鈴木善行首相と会見)。法王が外国を訪問してその国の元首や首相に会う時は、その国の方々が法王を訪ねて会いに来るのが慣例となっており、法王の皇居訪問は前例のないことなので、問題となった。その時法王は、一身を捨ててマッカーサー元帥の前に立たれた天皇をたたえての訪問であることを、そのキリスト精神をたたえての訪問であることを、皆に説いた。皆は、その一言で納得した。

 

ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、ポーランド人カロル・ヴォイティワ(本名)である。

 

ドイツとソ連に国は分割され、半世紀にわたる共産党支配。そして1989年ポーランド民主化。苦難の一世紀ポーランドは、祖父母、親、子と語り継いだ。日本は語り継いだか!・・・

 

資源無き、無い無い尽くしの小国日本、物づくりを国の基幹産業としなければ成り立たない国家なのだ。弱肉強食の時代、子孫のために団結し、開国以来、物づくり人づくりを、国是としてはげんだ。

 

戦後、貿易は自由化され、資源を輸入し、物づくりにいそしみ海外に販売した。諸外国にどんどん売れ、抵抗無く復興の一歩を踏み出し、驚異の経済発展を遂げ現在に至っている。

 

どうして抵抗無くすぐ売れたのだろうか。物を売ってみれば誰でも分かることだが、安くても、どんなに良いものでも、すぐには売れない、時間がかかるのだ。買う人は物を使っていないので、良し悪しが分からないからだ。これは買う人の道理である。何で買うか、物が分からないので、売り手を信用して買うのだ。売り手が信用を得るまでには時間を要する。売り始めのきっかけ、売り手の信頼づくりに皆苦労するのだ。

 

史上初のノーベル文学贋賞受賞者大江などが罵倒するように、日本が世界の侵略者日本、日本人が世界の極悪人日本人だったら買っただろうか、言わずもがなである。

抵抗無く売れたと言うことは、先人が開国以来築いて来た信頼が、敗戦で文無しの弱者となっても、残ったことを物語っているのだ。大江などが罵倒するような極悪人であれば、反動しか生まれず、意地でも買わない。これが、世の習いだ。

 

安いから技術が良いから、物が売れたのだけではない、先人が他国に成した諸々の思いを、時代の波風を越え、一世紀にも渡り語り継いでくれた他国の深い思いがあればこそであることを、忘れては成らない。先人は他国に行動を、日本人の心を伝えていたのだ。この心を、国敗れて文無しの弱者になっても、皆信頼した。この創りあげた信頼があるからこそ、敗戦となった弱者、文無し日本からでも、物を買ったのだ。先人が子孫に残したもの、それが戦後復興の礎石となり奇跡を果たしたのだ。

 

海外で先人の恩恵を受け繁栄しているトヨタ、ホンダ、SONY、東芝、シャープ、ニコン、キャノンなどの世界企業は特に、先人の成した真実の歴史を学ぶ義務がある。そして先人の成したものを受け継ぎ、子孫のため新しい歴史を成す責任がある。これは資源なき小国日本の国是だ。

 

 言わば世界企業のオコボレで、国内業界トップとなった読売新聞、己の実力と過信し、得意の絶頂で先人冒涜の雄たけびを上げているナベツネ。所詮オコボレ成金虚業家、さらけ出した姿は、醜く浅ましい。先人後藤新平は、元部下の正力松太郎が読売新聞の経営を創めた時、自宅を担保に資金を調達、何も言わずに貸した。この資金は、生前には返せず、12年後の1941年郷里に寄付され、日本初の公民館が建設された。この先人や、物造りで外貨を稼ぎ、日本隆盛を成した人々のおかげで今の読売が在るのだ。どの国の基幹も製造業だ。食べれれば生きていけるからだ。非製造業の報道屋が居なくても、別に困ることは無い。似非報道屋は百害あって一利なし。

 

 先人の遺産を忘れ、先人冒涜の巣窟と化したNHK(後藤新平は、東京放送局、のちのNHK、初代総裁である)。先人の遺産を忘れ己ひとりの実力と過信し、奢った結果、公務員の堕落やバブルの崩壊やSONYの凋落や三菱の淪落となった。今がなぜあるか忘れたからだ。結果は点ではない、線だ。ヤマハのピアノ製作所買収にしても、その国の歴史を学び配慮すべきだ。償いを子孫に残してはいけない。

 

 後藤新平は、昭和4(1929)年、岡山に向かう列車内で脳溢血で倒れ、4月13日京都の病院で死去、72歳。その日の言葉。「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」・・・唯物のナベツネ中曽根には、死ぬまで解るまい。

 

無い無い尽くしの島国日本、人づくり、物づくりを怠れば、いつの世でも即刻存亡の危機であるのは明白である。ポーランド一世紀に渡る思いが語るように、先人に学び、我々も歴史をなし、ノーベル鴈賞大江やナベツネのように歴史を点で語るのではなく線で、子孫に語り継ぐ責任がある。

 

戦には物量の差で負けた。しかし、世界の大国に虐げられし同胞は皆、インパール作戦や特攻玉砕という史上比類なき戦いを、たった一国で繰り広げた小国日本の心を見た。支配者も凄まじき戦いの心を見た。虐げられし世界の同胞は皆立ち上がり、支配者は、これまでのように簡単に安易に征服は不可能と知り去った。

 

戦わざれば、大国の侵略者(米英蘭中ソ豪)に征服され、分割され、日本の国名も日の丸も失い虐げられ、極貧生活に喘いでいるか、はたまた今頃は、独立のための更に過酷な戦いを国内で繰り広げ、全土が焦土と化していたかもしれない。戦争をしていなければ、バラ色の日本になったとは言えず、更に地獄だったかもしれない。最悪はWW3原爆戦争で、人類が消滅していたかもしれない。人類は、WW2の多大な犠牲者により、原爆、平等、共存共栄を学んだ。学んだから今がある。物事には全て禍福がある。

 

日本は西洋諸国の植民地を解放した罪によって罰せられたが、わずか15年後の昭和35年(1960年)に国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。南北アメリカにはならなかったのだ。

 

子孫のために命をかけ、開闢以来の本能、弱肉強食を破壊し、新秩序、大東亜戦争目的の、平等と共存共栄、互恵を創造したのが先人である。

 

ポーランド(キリスト教、白人)トルコ(イスラム教、有色人・トルコと日本の友好エルトゥールル号遭難者救助語り継いだ一世紀の思い)日本(仏教、有色人)、人種も宗教も歴史も異なる国家が、弱肉強食の波浪の後にも互恵を成している。これは、人種も宗教も仮装に過ぎず、命あるものの命の共振さえ有れば、平和を成すことが出来得ることを物語っている。先人は成した。子孫は資源無き小国日本、先人の成したこと、命の共振を忘れてはならない。そしてこれは子孫の道標である。

恨みとパンのみに生きる、唯物凶産中朝韓罪日とは、根源的に異なる。真逆の極が、日本人唯心である!

 津軽三味線や能、歌舞伎等、今に残る数多の芸は、おしなべて苦界に落ち、苦界より生じた芸である。がしかしそこには、恨みつらみなど、微塵も無い!まさに禍福昇華、唯心の極みがあるのみである。だから、時代を越えても、人種宗教言葉を超えて、共振するのだ。

 

今の平和を築いた先人を語ろう。歴史の点と点を線でたどり、原点に帰り、子孫に真実の先人の歴史を語り継ごう。歴史のつまみ食い不可。歴史は点では語れない。

 

袖すり合うも他生の縁。   完

 

 (注・唯心国家の国民だから以心伝心となった、凶産党や癌半島や罪日では有り得ない。凶産党は唯心否定で唯物のみ。民主党鳩山の友愛なんぞ、唯物捏造の凶産韓国在日には、他意無しなら、鴨ネギでしかない。輩は唯心無き唯物、生命体を物扱いし、物欲のみでしか動かない、ソ連中国北朝鮮、韓国や在日が見本であり、歴史が証拠だ。恥も外聞もなくひたすら自己中で、相手なんぞ無視は当たり前の折伏一辺倒、唯我独尊カルト教が輩の正体である)

 

ポーランド不撓不屈の歴史

上極悪NHK洗脳捏造子孫ポーランド歴史ワルシャワ不屈復興世界遺産子孫へ 

 

資料「善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心」兵藤長雄文芸春秋H10

「日本のみなさん やさしさをありがとう」手島悠介講談社H14

「ポーランドを知るための60章」渡辺克義・編著明石書店H13


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真実史観インパール作戦以前のインド対日批判を報道するNHKやマスコミに巣くう売国奴の輩


インパール作戦以前のインド対日批判を報道するNHKやマスコミに巣くう売国奴の輩

○インドの独立の英雄、「NETAJI SUBHAS CHANDRA BOSE」「ネタジ(指導者)」スバス・チャンドラ・ボースが
インド人民に向けて訴えた演説。  

 ・・・「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。われわれの任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式をおこなう日までは終わらないのである。・・・われわれはこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」

 「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」は、後の自由希求独立への、合言葉となった。(1943昭和18年7月5日1万5千名のインド国民軍兵士への演説)

 
 ・・・「大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府は
インド独立闘争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定している。自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。・・・1944年3月20日ラングーンで自由インド放送を通じて「インド国内の同志への呼びかけ」「ネタジと日本人」スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー著

 

 ・・・インドに関するかぎり、われわれの運命は日本及びその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や生き残って自由インドを見られるかは問題ではない。ただ一つの感心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドから駆逐されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章となることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを。・・・「大東亜会議」演説1943(昭和18)年11月5日

 

 インド独立運動の指導者(NETAJI)スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)(1897~1945)は日本と協力してシンガポールに「自由インド仮政府」を樹立し(1943)、インド国民軍を組織し米英に宣戦し、インパール作戦を日本軍と共に戦った。日本の敗戦後も、最後まで、インドの独立に命を懸けたチャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の取り計らいで、ソ連に亡命する途中、1945年8月18日台北で日本軍機墜落、事故死、火葬後、遺骨は日本に運ばれ東京都杉並区の蓮光寺に手厚く葬られた。享年48歳。毎年8月18日に慰霊祭がおこなわれている。

 

 スバス・チャンドラ・ボースのこの世で最後の言葉 1945年(昭和20)8月18日 享年48歳
 「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」

インド国会議事堂の正面にはスバス・ チャンドラボース。右にはガンジー。左にはジャワハラル・ネール(初代首相)の全身像が建てられている。Chandra Bose 亜細亜独立インド

○インパール作戦(インドの独立戦争) 
 この作戦は色々批判もあるが、日本の本意を世界に示した戦いであった。この作戦が無ければインドの独立もなかったし、アジアの独立も無かった。先人がした赤心の血がインドの独立、アジアの独立をうながしたのだ。さらにこのした赤心の血は現代の世界の史家や、かっての敵将の覚醒をもうながしたのだ。皆この作戦より、日本の本意にたどり着いている。

 

 ネルーもガンジーもラダ・ビノード・パールも、インパール作戦以後翻意している。NHKや朝日などの反日は、インパール作戦以前のこの方々の反日証言を針小棒大に報道している。

 昭和19(1944)年3月、日本陸軍(牟田口廉也第十五軍司令官)とインド国民軍の合わせて十万の将兵が、アラカン山脈を越えて進撃を開始し、一時はコヒマを占領しインパールの周辺まで突入したが、弾薬、食糧の補給が途絶し、飢餓と悪疫が重なって撤退を余儀なくされた。

 インパールの山野は「白骨街道」と化し、日本軍の死者は三万、戦病者は七万。
インド
国民軍は数千人の犠牲者を出した。

 
○英軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン
大将
「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。」日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわちもし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ」回想記「ビルマ戦線の大逆襲」ルイス・マウントバッテン。

 かっての敵将も、インド独立のためにした日本の赤心の血に、日本の本意を見たのだ。

アーノルド・トインビー
英国歴史学者)
 「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の汎神でないことを明らかにしたことである。」(1956年10月28日、英紙「オブザーバー」)

○ロンドン大学教授のエリック、ホプスバウ
 日本では殆ど知られていないが、
インド独立のきっかけも太平洋戦争にあった。英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授のエリック、ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著「過激な世紀」の中で、「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく、日本軍とチャンドラ、ボース率いるインド国民軍(I N A )が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた。」と述べている。

○元クルガ兵(ネパール人)の証言 
我々は世界最強の傭兵だ。第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。
インド軍は1日で降参させた。だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。

○卒塔婆を建てた村長 
インパール作戦で日本軍は惨敗した。シンハ村の村長は次のように語った。「レッド・ヒルの争奪戦で、戦死した日本軍の将兵の骨を集める為、村民を総動員した。村民は丘の激戦を見ていました。日本軍は全滅し、丘は真紅に染まりました」
イギリス
軍がレッド・ヒル(真紅な丘)と名づけた理由がよく分かった。

 村長はその丘の麓(ロッパチン村)にレンガを積んで、卒塔婆(高さ約4㍍)を建て、毎年、日本軍が玉砕した5月20日には、村を挙げて法要していると言う。我々は、ロッパチン村の卒塔婆に参拝し、あつく礼を申し述べた。卒塔婆の中心に貼られた白い大理石に、雄渾な日本の文字で立派な追悼の詩が書いてあるので、尋ねたら、村長は「我等の尊敬してやまない牧野財士先生が書いたものです」とほほえんだ。シンハ元村長は、「この頃私は呆けましたが、死ぬまで日本兵の墓を守ります。私が死んだら、息子(現在の村長)が引き受けます。その後は孫が守ります」とまことに実直である。

 この優しい老人の家(村長の家)は、余りにも質素(貧乏)なので心が痛んだ。竹の家に、竹の寝台、竹のテーブル、鍋釜と槍だけである。牧野先生は「農地が無かったら老村長はカルカッタに行って出稼ぎ人夫になっていた」と教えてくれた。家の前に3百坪ほどの水田と養鶏場と養鯉池もある。畑には豆類と薬草が植えられ、やせた小菊や菜の花が咲いていた。完全な自給自足である。我々がレッド・ヒルを見上げている時、シンハ元村長は「生き残った兵隊はいなかった」と涙を浮かべてつぶやいた。(平成9年6月25日号)アジアの曙光 -6-
アセアンセンター代表 中島慎三郎
○ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー 
激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。 この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。 このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、
ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、 そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。 コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。  「自由アジアの栄光」副題「インドミャンマー独立史」

インド 日本に対する賠償を放棄している。

○グラバイ・デサイ
インドインド弁護士会会長・法学博士)
 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。
インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシアベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)

○ランボ・ラル・グプタ 
インド独立運動指導者
 東京裁判は21世紀になれば必ず見直される。そして第二回東京裁判が実現する。その頃にはアジアも良識を取り戻し、東京裁判で重罪を被った日本人、7人の
A級戦犯は、一転して全アジアの救世主となり、神として奉られる日が来るであろう。また、そのようになるべきだ。

○S.S.ヤダフ、
インド国民軍全国委員会事務局長、インド国民軍大尉
 戦時中、インパール作戦を戦った
インド国民軍の戦友会(I N A 委員会)も日本に感謝を示すために、平成九年(1997年)インド独立五十周年に、靖国神社に感謝状を奉納しました。

 
インドが日本のお陰を蒙っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。偉大な貴国はインドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何十万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗と涙を流してくれました。

 
インド国民軍は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します。


○マンモハン・シン・
インド首相演説
2006年12月14日

河野洋平衆議院議長閣下
扇千景参議院議長閣下
安倍晋三内閣総理大臣閣下

衆議院議員ならびに参議院議員の皆様
著名な指導者の皆様ならびにご列席の皆様
 この威厳のある議会において演説の機会を得ましたことは栄誉なことと認識しております。我々二カ国の国民が互いに寄せる善意と友情の表れです。
 ご列席の皆様
 日本と
インドは文明的にも近い国であります。我々の最も古い絆を形成するのが、共通する遺産でもある仏教です。二つの文化は歴史を通して交流し、豊かさを増してきました。1000年余り前、インドの僧侶ボディセナ(菩提僊那)は、東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れました。近代においては、タゴールと岡倉天心が、アジアの偉大なる両国の間に理解の新しい架け橋を築きました。
 科学技術の発展に基づく明治維新以降の日本の近代化と、戦後に日本再建の基となった活力と気概は、インドの初代首相であるジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は、
インドが日本と緊密な絆を結び、その経験から学ぶことを望みました。
 
インドが日本からのODA(政府開発援助)の最初の受益国になるよう尽力されたのは、当時の岸信介総理大臣でした。今日、インドは日本のODAの最大の受益国であり、こうした援助に我々は深く感謝しております。
 日本の工業は、自動車や石油化学など
インド産業の発展のために貴重な役割を果してきました。90年代の初頭、インドが深刻な経済危機に陥った時期、日本は迷うことなく支援し続けてくださいました。
 1952年、
インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦争賠償要求を放棄しました。戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。
 こうした出来事は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです。
 日本を訪れるたびに、お国の発展を見て真に鼓舞され、寛大さに心を打たれます。私は、1992年の訪日を決して忘れることがないでしょう。それは、インドの財務相として初の両国間の訪問でした。
 1991年に前例のない経済危機に対処した際、日本から送られた支援に謝意を述べるための訪日でした。古い型を打破し、グローバル化しつつある世界での競争に備えるべく経済を開放し、新たな前進への道を乗り出す機会を、あの危機は我々に与えたのでした。当時、弾力性や献身といった長所、あるいは逆境にあって如何に機会を創造するかといったことを日本から学ぼうとして、我々は日本に目を向けたのでした。・・・

 赤心には赤心、歴史には歴史で語りかけたこの演説は、片隅での報道であった。報道を操作し、亡国を企む、NHKや朝日などのマスコミや、団体に巣くう売国奴、教授、評論家、物書き屋、捏人。先人冒涜を裏の家業とし、表裏で金を得、反日侮日で分不相応な生活、誰の目にもよく目立つ。冒頭のように翻意前の話や、小さな欠点や落ち度だけを、全体であるかのように棒大に報道するのですぐ分かる。ブログに散見する異様な先人冒涜の輩も、糧は同じで同類だ。単なる鵜呑みの素人には、長期に渡って、あれほどしつこく、欠点探しは出来ない。心ある同胞からの内部国発は、ネチズンに数多届いている。狂惨、侮日に日本を売った売国奴は、相当数居る。単なる左翼、侮日ではない、金が動いている、輩は、金で日本を売った売国奴だ。余りにも目に余る冒涜に子孫が覚醒し、自浄回路が作動し始めたのだ。ネチズンも心ある同胞も、赤心の血を流し、同胞の琴線を鳴らし、覚醒を促した先人の、真の子孫だ、愚かではない。捏造主義「独裁国家、共産(狂惨)国家、捏造報道屋、捏造扇動家」は、必滅する。国づくりや物づくりは
、事実のみが成せる業、人間の小細工、捏造ごときで成せるものではない、古今の世の習いだ。
スクープ! マスコミがひた隠す、マンモハン・シン・インド首相の親日マル秘?演説原稿

 

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真実史観原爆碑広島錯誤大江健三郎ノーベル贋賞売国奴の館NHK似非平和団体


1大江健三郎史上初のノーベル犯日贋賞錯誤原爆慰霊碑売国NHK似非平和団体 

 「日本九九年戦争・資源無き島国日本、適者生存戦国時代唯一の術は、先手あるのみ。後手の本土戦は、兵糧攻めで必滅。露西亜、清国(属国朝鮮)南下阻止が第一義、後手は必滅、先手で打って出た。

 結果が台湾朝鮮(自立不能で)統治(極東共栄圏樹立着手)、満州建国尽力(凶産の砦)、日中戦争(中国凶産化での中ソ凶産連合阻止)、南京政府樹立尽力(中国凶産化阻止)で極東共栄圏構築。

 日中(反共)戦争で疲労困憊の日本は、戦国の定法弱肉強食、恰好の餌食となった。米英中蘭(ABCD)が兵糧攻め、ハル・ノートで降伏を迫った。出稼ぎ戦争対、日本は死活戦争。極東から大東亜に共栄圏樹立を拡大し、あらん限りに戦ったが、大東亜同胞の、完全覚醒追随まで戦いきれず、矢尽き刀折れ、敗れた。

 がしかし、戦いざまに共振した同胞が、一気に蜂起、独立。1960年の植民地独立付与宣言(互恵)が根幹となり、自由貿易64年開放経済)、平等65年人種差別撤廃)を成し、凶産は残ったが、戦争目的は完遂した。弱肉強食の世に、戦後67年間のごとき無能無策の後手日本なら、何もかもが消滅していた。それでも戦後消滅しなかったのは、『身体を筆にし、流れる血と汗と涙でえがいた先人の、人類への遺書』以外、あろうか!

 “戦かわざれば”の平和論があるが、防共の砦日本が去るやいなやすぐさま凶産化、朝鮮戦争惹起したもう一方の真の敵、中ソ凶産連合軍隠蔽スパイの、工作論である。ABCDと“戦かわざれば”の降伏は、防共の砦無き丸裸日本で、中ソ凶産の、恰好の餌食となった。この戦いは、目的も無きただの防御戦。多勢に無勢で、瞬時に最後の独立国日本は潰え、日本族の名を残すのみの、まさに、犬死に無駄死にの戦争となっていた。同胞の、支配者からの独立も無い!新秩序など、当然無い!支配者と、被支配者の地球に成っていた!」

 NHKや「言葉と文字界」は、反戦者のみを選り盗りし、反戦非戦はまるで、バラ色の世界のように洗脳するが、弱肉強食の戦国時代戦わずは、強者の餌!先人は「強者の餌」を拒否し、戦ったに過ぎない!

 「清濁併せ呑み、禍福を糾い、決断」が、現実世界。現実世界は、「実技(現実)無き非現実界NHKや言葉と文字界)」のような、好いとこ盗り選択は、完全不可世界

 負けたからと大東亜戦争非難も、愚者の浅慮!大東亜戦争後、弱肉強食から互恵へ、人種差別から平等へ、ブロック貿易から自由貿易へ、明確に世界は変わった。「互恵・人種平等・自由貿易」は、先人の旗印である!

 

 もし日本戦わざれば、有色人、未だに食民治のままと、マハティール首相は1992年喝破した。二年後の1994年真実の伝播を恐れた白人戦勝国は、文学三流犯日一流比類無き犯日の大江に急きょ白羽の矢、ノーベル犯日(有色人差別)賞を与えた。世界に語る文学など元々無い三流大江は、一流の犯日を世界で語り、おのれのノーベル賞正体、白状してもくろみに応えた。丸暗記記憶機大江は、見事に期待に応え、贋賞(犯日)を掲げ、得意の絶頂で犯日を世界に発信し続けている。まさに、何とかに付ける薬は無い。半面生臭坊主ここに極まれり。負けたからではない、戦ったから勝ち得た平和である。『もし日本なかりせば』暗に大東亜戦争の本質を喝破したマレーシア・マハティール首相の演説 


朝鮮人や台湾人を矢面に立たせなかった日本軍!
 大東亜戦争の朝鮮人戦死者は皆志願兵で、日本人のような強制兵役ではない!南北で2万2182人。台湾も皆志願兵で、3万304人で、強制兵役徴兵ではない(矢面にしなかった)。日本は強制兵役、徴兵で、234万2341人が戦死。さらに米軍に80万人の市民が原爆空爆で、大虐殺された。
 大虐殺を不問に付しているのを誤解している人がいるが、人類の英知である条約(復習の連鎖の切断)を締結したからであって、日本人が悪かったからでは、断じてない!条約締結後も無法国家中韓や戦勝国の一部は、「条約破りのし放題」だが、条約尊崇法治国家日本だからなのである。
 

無検証丸鵜呑みコピペ屋元祖大江健三郎 

 ・・・日本人は原爆を投下させるような戦争を起こした国の人間としての反省を、このように文明的に大きい規模で行ってきたでしょうか・・・
 ・・・広島、長崎のあの大きい犠牲を償うのは私たちなのだ・・・
 ・・・日本の侵略によってアジア全域にわたって大きい死者が出たのは、日本の帝国主義の「膨張」という「病気」がもたらした「悲惨な経験」だ・・・ 『あいまいな日本の私』(大江が世界各地で行った9つの講演の記録)大江健三郎大岩波新書(1996)注・『あいまいな日本の私』は、川端康成ノーベル賞受賞記念講演『美しい日本の私』を、川端と違う犯日講演なので、大江がおちょくった。反面しか見えない神経の持ち主だ。まともではない。

「僕は日本の戦争犯罪を認める」「『あまりにも巨きい罪の巨塊』の犯人は日本軍」「広島・長崎の原爆投下は天罰のようなもの」「広島・長崎の原爆投下は日本人の責任」「中国などにとっては原爆は救世主だった」「広島・長崎の原爆投下は天罰だ。日本の悪魔の所業に対する当然の報い」「原爆投下は日本の戦争に究極の責任があり、日本人が人類に対する罪を犯した報いだ」「防衛大学生は恥辱」・・・史上初のノーベル文学贋賞作家大江の発言。

ノーベル賞と言う名前にだまされてはいけない。平和賞や文学賞には、業績を成した人に授与される真の、ノーベル真賞と、政治的意図で傀儡に授与される贋の、ノーベル贋賞、真贋二種の賞がある(もちろん、川端康成はノーベル文学真賞受賞者である)。日本人の覚醒を良しとせず、WW2の非を認めない戦勝国の妖怪がまだ世界にはいる。妖怪が後顧を憂え、傀儡にふさわしい素質の持ち主、侮日で独善軽薄短小な大江健三郎に、最後の白羽の矢を放った。韓国金大中と同類、政治目的利用のための授与。こうして大江は、ノーベル贋(犯日)賞を受賞した。これが、史上初のノーベル文学犯日(贋)賞、大江受賞の顛末である。この贋賞は、日本文学の更なる衰退と閉塞を、加速した。『あまりにも巨きい罪の巨塊』である。
 ノーベル賞受賞本当の理由「WGIP広告塔」も知らず、ノーベル贋(犯日)賞を勲章に、WGIP活動を成す大江健三郎を筆頭に、先人である祖父や親への冒涜の輩で溢れている。とても文学者と呼べる代物ではない物書きが、ノーベル文学犯日(贋)賞という衣を与えられ、踊っているのだ。妖怪のほくそ笑みも知らずノーベル贋賞を身に纏い、先人の子孫大江が、嬉々として祖父母や親を罵倒し踊り狂う様は、誰が見ても異様だ。白羽の矢を放った妖怪も、まさかここまで羽目をはずすとは思わず、見込み違いを悔やんでいるに違いない。踊りすぎて化けの皮が剥がれ、常人に異様に見られる傀儡は、もはや傀儡の用を成さない。知らぬのは、本人とノーベル贋章の威を借りたい迎合者だけだ。馬鹿息子を通り越し、大江の踊りは異様だ。

大江は点から点へ跳び線が無く、整合が無い独り善がりの思考回路の持ち主である。ノーベル贋賞受賞で、文章同様意味不明な独善にさらに拍車がかかり、度を越したのだ。纏ったノーベル贋賞が拍車をかけ過ぎ、化けの皮を剥いだと言える。心ある世界の人々が眉をひそめ、発言するのはうなずけるが、これほど踊りすぎて重症になると、つける薬はない。ノーベル賞受賞者と思うから、意味不明が痛々しく感じるのだ。実体はノーベル贋(犯日)賞受賞者、正体が判明すれば、さもありなんと得心がいく。「大江健三郎は史上初のノーベル文学犯日賞(贋)受賞者でWGIP広告塔です」として、そっとして置けばよい。間も無く天定まる。天定まれば、異様な輩は消滅する。

それにしても大江と麻原、九条の会とオウム真理教、反面のみで其の上摘み食い、実によく似ている。現実界からの極限の乖離、いずれも分業病半端者の成れの果てだ。ここまでくると、無人島生活でも治癒は無理、餌も捕れず飢え死にだろう。仮想現実界は正体、ノーベル犯日賞、浅原と同類、凶産カルトを喝破出来得ず、祀りに祀り上げている。正体見たり文学音痴、仮想現実界の白状である。日本文学衰退、さもありなん。元凶は、思考力皆無の丸暗記教育。

 

産経新聞2012/09/21正論】比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘

■「世界市民」がはまりやすい陥穽

 日本国民であるより世界市民であれ、と鳩山由紀夫氏は唱えた。偏狭な国家主義を奉じるより世界公民の方がいい。国際的見地から自国を批判する人は大切だ。だが愛国より無国籍の方が恰好(かっこう)がいいという知的ファッションは困る。

 石原氏と比較しての大江氏

 世界市民を名乗る人は多いが、その割にはその人に外国の友人は多くない。外に向かって外国語で自己主張はしないが、国内では良心派を自負する。そんなインターナショナリストの一人が大江健三郎氏の呼びかけに応じ護憲・反核デモに参加し、帰りしなに私に会って「平川先生の愛国主義に反対します」と言った。そんな抽象的平和論に私は具体論で応じる。

 「尖閣で中国船に体当たりされたビデオを流出させて職を辞した海上保安官は立派でした。尖閣は東京都が買う、と都知事がワシントンという場所を選んで発表したのは政治センスがありました」。相手は「石原慎太郎はファシストだ。都立の大学の仏文科を廃止した者を良しとするのですか」と声を荒らげた。私がフランス語教師だったことを知っていたからであろう。そこで別れたが、こんな大江、石原両氏の比較論を考えた。

記事本文の続き 仏語教師の間の石原評は確かに悪かった。対する大江氏は仏文出身でもあり人気があった。学会に現れるやスター並みの歓迎で嬌声(きょうせい)が飛ぶ。ファンがサインを求める。大喝采の聴衆を味方に磯田光一の反論を強引にねじ伏せる。大江氏が西洋作家に言及すると、それに和して評論を書くことを名誉と心得た東大英文の同僚もいた。

 が、大江氏がダンテに言及しても『神曲』は平川訳がいいと言っても、私に言うことはない。ダンテ論で感心した日本の作家は正宗白鳥だけだ。初期を除き大江文学も感心しない。ある時期から読む気が起らない。文体がよくない。翻訳調の無機質な日本語は好きになれない。察するに実生活体験に乏しく観念で書くからだろう。

 文学界の「土井たか子」か

 さらに好きでないのが政治的立ち回りだ。安保に反対、紅衛兵を支持、大学のバリケード闘争も支持、女子学生に自衛隊員には嫁に行くなと差別的檄(げき)も飛ばした。文学界のヒーローは、政界での土井たか子氏の並行現象だ。戦後平和主義のヒロインは護憲を唱え、北朝鮮の肩も持ち、衆院議長に上り詰めた。片や、サルトルばりの反体制を唱え(日本文壇では反体制が主流だった)頂点に上り詰めてノーベル文学賞も受賞したが、我が国の文化勲章は拒絶した。

 だが、土井氏と同じ運命を直(じき)にたどるだろう。シュリ=プリュドムは第1回のノーベル文学賞作家だが、そんな仏人作家がいたとは仏文関係の誰も知るまい。「昨日盛名今無声」とはこのことだ。

 愛国派と世界派の対立をロシアの場合と比べてみる。

 プーシキン(1799~1837)はナポレオンがロシアに侵攻した二百年前の精神状況を小説『ロスラーヴレフ』に記した。帝政ロシアの大貴族の家には仏人マドモアゼルが家庭教師として住み込んでいた。上流家庭の子女はフランス語が達者でフランス語の本しか読まない。そんなロシアの貴族令嬢が言った。

 「わたしたちは祖国の文物を蔑視して一向にかえりみない。それでロシア至上主義の三文文士が苦情をいうが、その歎きようはわたしたちがフランス舶来の婦人帽子ばかり買ってロシア製の帽子はかぶらない。それでロシアの女商人が愚痴をこぼすのとそっくりだ」

 国産粗悪品を買う必要はない。いい物は国籍を問わずいい。インテリは愛国心など旧弊だ、とせせら笑った。自分たちはスラブ軍国主義の野蛮の影は引きずらない。「ぼくたちは人類思想を追求する」「そうよ。わたしたちはロシア人であるより先に世界市民よ」

 戦争で目覚めた露の媚仏派

 インテリゲンチアとはロシア語で、先進文明を理解し後進の自国民へ伝える知識層をさす。1812年、モスクワは近づく戦争の話でもちきりだ。しかし祖国愛は何か衒気(てらい)のようにみなされた。ロシアのインテリはフランス贔屓(ひいき)でナポレオンを褒めそやしロシア自衛軍の相続く敗戦を嘲けり笑った

 プーシキンは言う。「不幸なことに、祖国を弁護する連中はいささか頭が単純だった。したがってそういう連中の正論は、相手のいい慰みものにされるのが関の山で、勢力といったらてんで無かった。彼らの愛国心とは、フランス語を社交界で使うことや外来語の輸入を咎(とが)めたり、舶来の品を売る高級商店街に対して威嚇的な振舞に及んだり、まあそういった類いのことに過ぎなかった」

 しかし不意に敵軍が自国領土へ侵入した。その報に世論は一変し、左翼の才子も愛国に目覚め、祖国防衛軍に志願し、戦死する者も出る。そんなプーシキンを愛読した廣瀬武夫は日露戦争前夜、軍艦上で彼の詩を漢詩に訳した。

 詩人ハ真詩人タルヲ要ス、

 管(かん)スルナカレ

 喧囂(けんごう)タル世間ノ評ニ、

 世評翻覆(ほんふく)ス雲マタ雨

 昨日ノ盛名イマ声ナシ

 (ひらかわ すけひろ)2につづく

真実史観大江健三郎ノーベル贋賞と売国奴の館NHKと似非平和団体の原爆碑

2大江健三郎ノーベル贋賞と売国奴の館NHKと似非平和団体の原爆

NHKその時歴史が動いた。軍服を脱いだジャーナリスト」
 日露戦争でバルチック艦隊撃破した日本海軍高官の生き様を追った話だ。国民を守るには軍国主義が必要と考えていた海軍高官は第一次世界大戦後のヨーロッパに派遣され、そこの国土人民の惨状をみ、考えを変えた。軍隊では国民を守れない、「平和を守る外交こそが大切」と痛感、軍人をやめジャーナリストの道を選び、軍縮を訴え、軍の暴走を批判し続け、「戦争は日本を焦土と化す」と予言したと賞賛し報道した。

 また、NHKの戦争反対者賛美の、半人前つまみ食い売国奴報道だ。弱肉強食の時代は食うか食われるか(逃亡の選択肢もあるが、追いつかれれば同じなので、机上の空論)、服従するか、戦うか、の選択肢しかないのだ。NHKは、米南北、豪の先住民のようになればよかったということか。選択肢は複数だが、選択は一つしかない。世の道理だ。つまみ食い選択不可が現実だ。当時は弱ければ皆侵略された、歴史の事実だ。

 大国でもない小国が、自らも傷つく戦争など、好き好んでやるものなど誰もいない。野生での同属の争いは、傷つくと即刻死亡なので、互いに威嚇するだけでなかなか戦いには至らない。3時間威嚇だけに終始した猫を目撃している。小国は止むに止まれず戦争となるのだ。大国ならばいざ知らず、小国の戦争は全てそうだ。大国に小国が仕掛けた戦争など史上無い。平和を守る外交が通用していれば、皆平和を守る外交に励み、侵略されなかったはずだ。通用しないから征服された。戦争で焦土と化さない戦争など無い。当たり前のことを予言とは賛美過剰だ。空論を食って人は生きれない、即刻死亡だ。森を見れず木だけしか見えない半人前の空論など、報道に値しない。

 また、金で買われた売国奴が空論を針小棒大にし、先人冒涜愚民化報道しているのだ。服従もせず、戦わずの不可能ねだりの空論報道は、愚民を生み国を滅ぼす。NHKは、日本国民から金を集金し日本を滅ぼす魂胆か。日本が滅べば当然NHKも消滅だ。巣くう売国奴を至急一掃しないと、NHK自身が消える事は常人であれば分かること。

キューバ危機(1962年)

 ロバート・ケネディが兄である大統領に手渡したメモ、「わたしは真珠湾攻撃を決意したときの、あの東条英機の気持ちがわかる」。

 広島長崎の原爆投下17年後のキューバ危機(1962年)でWW3を防ぎ世界を救ったのは、フルシチョフでもケネデイでもない、広島長崎の原爆犠牲者だ。フルシチョフもケネデイも脳裏に広島長崎が浮かび踏みとどまったのだ。「こういうときのために怖さを知るため二種類(ウラン235広島投下・プルトニュウム239長崎投下)の人体実験をした」と、詭弁を吐く愚者もいるだろうが、少なくとも米ソの国民は広島長崎で救われたことは事実だ。新たなWW3を防ぎ平和をもたらしているのも、平和の守護神となった広島長崎の原爆犠牲者のおかげだ。すくなくとも全ての国の指導者は、広島長崎を訪れ、今は平和の守護神となった原爆犠牲者に、救われた感謝の意を表し、惨状を目の当たりにする責任がある。人類も救われた感謝の意を表する責任がある。

 全ての国の指導者を呼び、原爆の現実を脳裏に刻ませること、各国全てに原爆資料館を作り、人類に原爆の現実を刻ませること、風化させず発信し続け語り続けること、これが新たな世界平和を生む。そしてこれが、人類史上初めての被爆国日本に与えられた重大な使命でもあり、原爆犠牲者の総意でもある。人類の平和は日本の双肩にかかっていると言ってもけして過言ではない。キューバ危機を回避させたのは、日本の原爆犠牲者だ。

 使命も果たさず「戦争反対」などと常識(戦争賛成など誰もいない)の愚かな連呼を繰り返し、WW3を防ぎ人類の平和の守護神となった原爆犠牲者を政争の具にし、冒涜する、平和とは名ばかりの似非団体など不要である。似非団体などは至急解散し、被爆国日本に与えられた使命を果たす、原爆犠牲者の総意に基ずく、真の平和団体を立ち上げるべきだ。空論者の集まり似非団体ではなく、政治団体を排除し実利に基づき活動する真の平和団体にすべきだ。原爆犠牲者が嘆くような反日政治団体の隠れ家は不要。反日政治団体だから、下記のような侮辱屈辱国辱となるのだ。

原爆虐殺正当化碑文

 広島原爆慰霊碑碑文『安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから』には謝罪がない。

 
原爆で虐殺された人災犠牲者の「慰霊(死者の霊魂を慰める)」の「碑文」で、天災犠牲者の「碑文」ではない。虐殺(人災)した「当事者」が慰霊の場合、「犠牲者」に謝罪し、死者の霊魂を慰めるのが慰霊」で、人災で加害者の「謝罪」の無い「慰霊」など無い。

 「過ち」の主語(加害者)が人類やアメリカなら、無辜の老若男女の市民を虐殺し尽くし、さらに生存者をも、阿鼻叫喚に叩き落しておきながら一言も、謝罪もせず、殺した本人が殺した相手に「安らかに眠って下さい」は原爆慰霊碑碑文ではなく、原爆犠牲者嘲笑「ちょうしょう(あざけって笑いものにする)」碑文となる。

 
殺した加害者が被害者に、一言の謝罪も無く墓前で、「安らかに眠って下さい」といっているのだ。殺しておきながら更にこの暴言、誰も赦す人などいない。

 
たとえ謝罪しても「安らかに眠って下さい」は、殺した本人が殺した相手に使う言葉ではない。使った場合は「嘲笑」の意味しかない。なぜなら「安らかに眠る」ことが出来るのは、殺した本人を霊が赦して、初めて霊は眠れるのだ。霊が赦すかどうかも分からないのに、霊が赦したと、かってに決め付けて「眠れ」は、死者への「冒涜」、ただそれだけである。

 加害者が被害者に対する慰霊の言葉は、ひたすらの謝罪しかない。ひたすらの謝罪の後に赦すか赦さないかを決めるのは霊で、加害者ではない。加害者に決定権など無いのだ。主語(加害者)が人類やアメリカ慰霊碑文なら、さも許しを得たかのような「安らかに眠って下さい」は、使えない。どんなにこじつけても、加害者の慰霊碑文として使えないこの言葉が、すべてを否定している。

 「安らかに眠って下さい」は、加害者の慰霊碑文として使えない言葉なのだ。原爆犠牲者に一言の謝罪も無く、ひたすら今後の誓いだけの碑文、「過ち」の主語は、「日本」だけしかない。

 したがって「過ち」とは原子爆弾投下ではなく、「過ち」とは大東亜戦争となる。


 犠牲者の身内
「日本」が、「過ち」を犯し、皆様を巻き添えにし、死に至らしめましたが、「過ち」を「繰り返しませぬから」と誓います。誓いましたのでどうか子孫のことは心配せず「安らかに眠って下さい」となり、慰霊の碑文となる。

 コードを解くと「日本は大東亜戦争という過ちを犯したため、原子爆弾を投下され、皆さんが犠牲になった。大東亜戦争という過ちを繰り返さないことを誓いましたので、どうか子孫のことは心配せず原爆犠牲者の皆さん安らかに眠って下さい」となる。

 文意は、「過ちを犯した(原因は日本)から原子爆弾を投下され、
原爆犠牲者(結果)となった」となり、全ての責任は大東亜戦争開戦の日本に在るとした、原爆使用責任回避の強調文である。

 すなわちこの碑文は、原爆慰霊碑碑文などと言う立派なものではない。
責任者回避のための言い逃れ、言い訳碑文である。

 さらにこの碑文には、原子爆弾投下否定など、どこにも書いていない、皆無である。

 この内容は「過ちを犯せば原子爆弾を投下する」。なんと原爆虐殺正当化、原子爆弾攻撃肯定碑文なのだ。核廃絶」ではなく「原子爆弾恐喝」碑文「核恐喝」碑文なのだ。

 原爆慰霊碑碑文などではない、
原爆使用詭弁碑文だ。

 こんな碑文の前でこれまで仰々しく核廃絶」「戦争反対」を唱えてきたのだ。正に似非平和団体と言える。心があるなら謝罪し解散せよ、原爆犠牲者冒涜もはなはだしい限りだ。こんな碑文で原爆犠牲が浮かばれるはずなどない。

 これまでご丁寧に、「核」は「恐喝」に使えることを毎年世界に発信してきたのだ。「核」が「拡散」するのも道理だ。

 『安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから』は、全世界の戦争犠牲者に対しての人類の平和祈願の碑文なら、「全世界の戦争犠牲者の皆さん、人類はこの過ちを二度と繰り返さないことを誓いますので、安らかに眠って下さい」となり、何も問題は無い。

 しかし原爆慰霊碑碑文となった場合は、前述の解釈となり、原爆虐殺正当化碑文と化す。対象が、全世界の戦争犠牲者なのか、原爆犠牲者なのかで意味が変貌するのだ。全世界の戦争犠牲者慰霊碑文なのか、原爆犠牲者慰霊碑文なのかで、本意が豹変する。

 

「原爆犠牲者慰霊碑文見極めての1952年11月5日、ラダ・ビノード・パール博士の解釈

 「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話)著田中正明

 

原爆犠牲者慰霊碑文全世界の戦争犠牲者慰霊碑文混同した1952年11月10日雑賀忠義(碑文の撰文揮毫者広島大学教授)のパール判事への抗議文

 「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」」『ヒロシマの記録ー年表・資料編』/『アメリカの影』p323)

 

原爆犠牲者慰霊碑文見極めての解釈

 東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成し、アジアの平和確立に寄与した功績で国連ハマーショルド賞を受賞したマレーシアのタンスリー・ガザリー・シャフェー元外務大臣も平成5年(1993)11月に来日した際、この原爆慰霊碑について次のように語っている。

 「以前、広島を訪れた時、小学校の先生が原爆慰霊碑の前で子供達に『日本は昔悪い事をした。これはその記念碑だ』と教えていたのを見ました。それで広島市長に『原爆慰霊碑と原爆資料館は日本人が見るべきではありません。ワシントンに持っていき、アメリカ人に見せて、アメリカ人に反省させるべきではないでしょうか。原爆資料館がここにあるのは不適切だと思います』と言った所、広島市長達は真っ青になってしまったが、やがて彼らも私の意見に賛同してくれました。
 それにしても日本人はなぜアメリカに対して異様なほど怯えているのか。敗戦国心理から早く脱却するべきではないだろうか」(『祖国と青年』平成6年1月号)

 

 この場所は、原爆犠牲者に対しての原爆犠牲者慰霊の場で、全世界の戦争犠牲者慰霊の場ではない。混同した撰文者、雑賀忠義の間違いは、明々白々である。雑賀忠義は、被爆者だという。怨讐を無理に超えようとして対象を錯誤したのだ。被爆者ゆえの錯誤だ。波風立てず、すみやかにふさわしい場所(全世界の戦争犠牲者慰霊の場)に移動すれば、それでよい。

 碑文変更反対派は皆、考えず鵜呑みし混同解釈しているのだ。どうしてもこの碑文を置きたいのであれば、前記のようなふさわしい場所に置けばよい。ここは「原爆死没者名簿」が納められた原爆犠牲者慰霊の場所だ。
原爆犠牲者嘲笑碑と化す碑文は、不要。慰霊の対象が誰なのか考えれば氷解し、論争などに値しないことなのに、政治団体に扇動され、騒ぐのだ。鵜呑みは、愚人化するのだ。

 

正式名称は広島平和都市記念碑。しかし、原爆死没者慰霊碑原爆慰霊碑、と呼称し、市民や県民や国民は、当初より錯誤を指摘していた。広島は、本意の慰霊(死者の霊魂を慰める)を、記念碑(世界市民としての誓い、宣言記念碑)と錯誤し、混同したのだ。犠牲者に謝罪し慰霊する場所で、謝罪も慰霊もせず、突然、宣言をしているのだ。宣言だから、記念碑と名付けたのだ。慰霊の場に慰霊碑も置かず突然の、宣言記念碑。主眼の慰霊を粗雑にし、宣言を優先し、犠牲者を冒涜したのだ。主眼を見ずに錯誤を重ねた記念碑、正に広島錯誤記念碑と言える。原爆死没者に謝罪し、慰霊の場にそぐわない広島錯誤記念碑を移動し、至急国辱(広島の錯誤)を雪ぐ責任が、広島には在る。広島の錯誤がこれ以上世界に蔓延るのは、国辱以外の何物でもない。
 
 数多の職責者は誰も気付かなかったのか、嘆かわしいことだ。占領者はとうの昔に去ったのだ。哀れを通り越して職責放棄に怒りをおぼえる。心あるなら、職責者は即時
原爆虐殺正当化碑文を移動し、原爆犠牲者に謝罪せよ。そして職責者全員(故人は遺族)で浄財を出し、真の原爆慰霊碑と碑文を成し、職責者の責任を果たせ。碑文は国民から募ればよい。心あるなら、成せ。人は皆錯誤する、錯誤を自ら正せば、人は皆不問に付し、その勇気をたたえるだろう。自ら正さざれば、愚かな錯誤者として歴史に汚名を残す。自ら是正の勇気か、汚名か、どちらを子孫に残すかの選択は、あなた方だ。

 

ノーベル犯日(贋)賞作家、NHK、平和団体、識者は、検証回路皆無の、単なるWGIP録音機だ。鵜呑みせず、知識を一度リセットし検証すれば、誰でも簡単に真実が現出する。立派な親から授かった己の頭を、似非の輩と同じ録音機にせず、検証機にし、似非を一掃し浄化しよう、子孫のために。護国の戦争は「過ち」などに非ず、生きとし生ける物の、自己保存の本能だ。

 

今年は愚民化碑文を詫び、「繰り返しませぬから」と誓おう。あの地獄をみれば、たとえ子孫でも「安らかに眠って下さい」などとなど、軽々しく言えるものではない。子孫でさえも、慰霊の言葉がみつからない、無いのだ。しかし人類は今も、救われ続けていることだけは確かだ。慰霊の言葉はみつからないが、この報告を慰霊の言葉とし、子孫は語りかけよう、たとえば下記のように。
 

原爆慰霊碑碑文

 

人類の過誤赦(ゆる)してください 

人類は終わりを見ました

人類は永久(とわ)を誓いました

人類は救われました

人類は忘れません

人類に御加護を


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

真実史観トルコと日本の友好エルトゥールル号遭難者救助語り継いだ一世紀の思い


トルコと日本の違い。エルトゥールル号遭難者救助を語り継いだトルコ一世紀の思い。

  遭難 当時、トルコと日本の頭上には、帝政ロシアの南下政策があり、ともに脅かされていた。1887(明治20)年、後に陸軍元帥となる小松宮彰仁親王夫妻は、トルコ(オスマン・トルコ帝国)を訪問し、国王のアブドゥル・ハミト二世に会見した。その返礼として、国王はオスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする609人の使節団を、新生日本に派遣した。

 木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1889(明治22)年7月、イスタンブールを出港。航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で熱烈な歓迎を受け、11ヶ月をかけて翌1890年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として日本帝国の国賓として扱われ、歓迎を受け、3ヵ月後に帰国の途につくことになった。日本海軍が日本に近づく台風があることを理由に出航の延期を勧めたが、エルトゥールル号は予定通り1890年9月15日に横浜港より出航した。

 1890年(明治23年)9月16日夜半、台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎(かしのざき)に連なる岩礁船甲羅(ふねこうら)に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、船体が二つに割れ沈没した。司令官オスマン・パシャをはじめとする540名が死亡または行方不明となる大惨事になった。この船甲羅は「魔の船甲羅」と呼ばれ、古来より海の難所として恐れられていた。

 この事件の詳細な消息は、陣頭指揮をとった沖村長がみずからまとめた「土耳其軍艦アルトグラー號難事取扱二係ル日記」に克明に記されている。

 大島は名のとおり島である。海が荒れれば即孤島となり本土に船は出せず、即刻食糧危機に陥る。非常時のために島民はみんな、にわとりを飼っていた。

 この遭難に50戸、400人の大島村の村民が総出で救援にあたった。しかし、どんどん死体があがり、息がある人たちも身体が冷え切り虫の息だった。そこで村民たちは「死ぬな」と叫びながら、自分たちが裸になってその体温を乗組員に伝えたのだ。しかしながら生き残ったのはわずか69人であった。

 この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は、樫野の寺、学校、灯台に収容し、浴衣などの衣類、卵やサツマイモなどを供出し、献身的に生存者たちの回復に努めた。避難の将卒69名中健全なもの6名、軽傷63名であった。

 400人しかいない村で、69人の食料を提供することは大変な事だった。村では漁をしてとれた魚を隣の町で米に換える貧しい生活で、台風で漁ができないため、食料はすぐに底をついた。食べさせたくとも自分たちの食料すらなかったのだ。そこで村人たちは、自分たちの非常食として飼っていた鶏を料理し始め、彼らはこれで命を長らえることができた。

 幸いなことに村民のうち堅田文右衛門が、洋食調理の心得があり、コック役を務めた。しかし、乏しい大島の食料は、遭難者のために一夜にして底をついてしまった。それにもかかわらず村民はこれら遭難者のため、蓄えている食料すべてを喜んで提供したのである。

 食料の次に困ったのは衣類で、村民はありたけの浴衣を出し合い急場をしのいだ。6尺(185センチ)豊かな大男がちんちくりんの浴衣を着ている様は、悲壮感いっぱい漂う中でただ一つの笑いであった。

 遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おきしゅう)に伝えられ、沖村長は神戸港の外国領事館に援助を求め、生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、県を通じて日本政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、直ちに医者と看護婦を派遣し、遭難者に対する支援が政府をあげて行われた。

 その後一週間にわたり人夫百数十名により、他の遭難者の捜索につとめ、アリーベ艦長ほか219名の遺体を収容した。オスマン・パジャ以下残り362名はついに遺体すら発見されず、遠く故国を離れた異国の大島樫野の海底深く眠り続けている。発見された遺体は、ハイダール士官立ち会いのもとに、遭難した船甲羅が真下に見える樫野崎の丘に埋葬された。

 翌明治24年(1891年)、県知事ほか、有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。同年3月7日に追悼祭を行い、遭難した人々の霊を弔った。

 10月5日に生存者69名は軍艦「比叡」と「金剛」に乗せ、翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられた。

 エルトゥールル号の遭難はオスマン帝国の国内に大きな衝撃を呼び、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。またこのとき、新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられた。

 エルトゥールル号遭難4年前の明治19(1886)年同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号事件が起こっている。難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下イギリス人船員全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客全員25名は、全員船中に取り残されて溺死するという事件である。

 日本政府は船長を殺人罪で告訴したが、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪判決を下した。告訴により再審されたが、3ヵ月の禁鍋で賠償は一切却下された。この事件により領事裁判権撤廃要求が高揚した。

 そしてこのエルトゥールル号の遭難事件は起こった。大島村の村民皆が、この事件のことを当然皆知っていた。

・・・遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。エルトゥールル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。・・・1997(平成9)年一月の産経新聞駐日トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏の言葉。

 町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。

 日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシアから圧力を受け続けて、同じくロシアの南下圧力にさらされる日本に対する親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。このとき日本海軍の英雄東郷平八郎提督にちなんでトーゴーという名を子供につけることが流行したという。
 しかし、とうとうオスマン帝国が滅びるまで正式の国交が結ばれることはなかった。

 1914年、第一次世界大戦が勃発するとドイツ同盟国側にオスマン帝国はつき、イギリス連合国の側についた日本とトルコオスマン帝国は敵同士となった。戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、1924年発効のローザンヌ条約締結、1925年の大使館開設により、ようやく日本とトルコは正式の国交を結ぶことになる。
 イスタンブールの海軍博物館には、今もエルトゥールル号の遺品や日本で作られた追悼歌の楽譜などが展示されている。

外伝 山田寅次郎伝(トルコで一番有名な日本人である)

 民間人山田寅次郎(茶道宗徧流の跡取り)もこの事件に衝撃を受け、彼は日本の民間からエルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金を集めるキャンペーンを行い、1年間に5000円が集まったという。寅次郎は外務大臣、青木周蔵を訪ねトルコの遺族へ送るよう依頼した。「それは君が集めた天下の浄財だ。君自身に届けてもらいたい。訪欧する海軍士官と外航船に便乗したまえ」。青木は渡航の手配をしてくれた。事件の翌々年に集まった義捐金を自ら携えてオスマン帝国の首都イスタンブールに渡った。

 山田が民間人ながら義捐金をもってやってきたことが知られるや彼は熱烈な歓迎を受けた。トルコ側から意外な申し出があった。陸軍と海軍の士官学校で日本語を教えるよう依頼され、20年の間、寅次郎はイスタンブールで教えた。

 日露戦争が始まり。バルチック艦隊が動いた。日本海軍はロシアの黒海艦隊がバルチック艦隊に合流するかどうかに重大な関心を寄せていた。イスタンブールの中心地に高さ67mの元灯台のガラタ塔が立っている。寅次郎は20人のトルコ人を雇い、塔の最上階からボスフォラス海峡を航行する船舶を四六時中監視させた。

 商船に偽装したロシア軍艦3隻が海峡を通過したのを見逃さなかった。ウイーン大使館経由で報告。これら3隻はアフリカ沖でバルチック艦隊と合流していた。オスマントルコ政府は寅次郎の派手な諜報活動をあえて黙認し協力した。

 トルコは不倶戴天の敵ロシアの敗北に驚喜し、戦況を決定づけた「東郷ターン(敵前回頭)」はトルコ人の勝利の常識となった。
 1914年に第一次世界大戦が勃発。日本とトルコは別々の道を歩むことになる。寅次郎は帰国した。

 第一次大戦でオスマン帝国が敗退すると、戦勝国は早い者勝ちで植民地獲得に乗り出した。亡国の危機、「固有の領土を守る」、ケマル・パシャは断固反対して立ち上がった。1923年7月である。ケマル・パシャの主張がすべて認められたトルコは、独立を確保。本来のトルコ民族の土地はすべてトルコに返還された。条約を締結したあとの10月、トルコ国民議会はトルコ共和国の成立を正式に宣言した。イスラム世界で初の共和国の誕生である。首都はアンカラ。初代大統領にはもちろんケマル・パシャが選ばれた。ケマル・パシャはトルコの英雄である。

 1931年(昭和6年)、寅次郎は日本トルコ貿易協会の理事長として再びトルコの地を17年ぶりに踏んだ。トルコの国家体制はがらりと変わっていたが、寅次郎は、トルコ共和国の初代大統領ケマル・パシャに招かれ、新首都アンカラで会見した。なんとケマルは士官学校時代に寅次郎から日本語を教わった思い出を語ったのだ。感激の対面だった。

 

ケマル・パシャ(1881~1938大統領在任は1923~38)

 ケマル・パシャは革命当時の呼び名で、ムスタファ・ケマル、尊称でケマル・アタチュルク(近代トルコの父)

アヤソフィア(聖なる叡智)

 現在アヤソフィア(聖なる叡智)は、トルコのイスタンブールにある博物館。元来はキリスト教の大聖堂である。最初の聖堂は360年、首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に、コンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世の手によって建立された。何度も崩落したがその都度再建された。東ローマ帝国以後は、正教会の総本山となる。

 1453年5月29日、 コンスタンティノポリスを占拠したオスマン帝国のメフメト2世は、イスラム教のモスクへ転用した。オスマン帝国は、モザイク壁画まで破壊することはせず、漆喰で塗りつぶしていた。しかし、1847~1849年のフォッサーティの改修作業の過程で、壁面の調査が行われ、モザイクに感銘を受けたアブデュルメジト1世の命で、漆喰が剥がされ、本格的な調査が行われた。調査記録後、堂内壁面は再び漆喰が塗られ保存された。

 東ローマ帝国の代表的な遺構で、ビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。

 トルコ革命後、1931年にアメリカのトーマス・ウィットモア主宰のビザンティン研究所がモザイクの調査を行い、1935年に、トルコ共和国政府の手でアヤソフィアは無宗教の文化財として公開された。その後、ビザンティン研究所は1950年代までモザイクの調査と漆喰の除去を行った。

 1935年ケマル・パシャによって正式にトルコ共和国の博物館に改められ、以後、イスラム美術とキリスト美術が共存した博物館として一般に公開されている。

 国教を廃し信教の自由を認めることが、近代国家となる条件。イスラムを国教から削除し、信教の自由へと政教分離国家へ舵をきったトルコ建国の父ケマル・アタチュルク、尊称に恥じない、未来を喝破した慧眼で宗教共存の魁を成した。

 宗教も全く異なる異国日本の救難、慧眼ケマル・アタチュルクに、何らかの「啓示」があったのだろうか?

 いずれにせよこの英断は、宗教が争乱起因国家への、範で、宗教の、未来への指針を示していることは間違いない。

海底にトルコ軍艦遺品

 和歌山県串本町沖で1890年に沈没したトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品引き揚げに向け、トルコの民間研究機関「トルコ海底考古学研究所」などが12日、潜水調査を始め、海底で多数の遺品を見つけた。
 この日は沈没地点付近にトルコの研究者と日本人ダイバー計6人が潜水。海底で、鉄砲の先に取り付ける刀の柄やボルト、金属片、鍋などを見つけ、刀の柄を回収した。同研究所のトゥファン・トゥランル所長(54)は「遺品は思ったより多く、今後が期待できる」と話した。・・・2007年1月13日産経新聞


一世紀に渡り語り継がれたトルコの思い

 時は流れてイラン・イラク戦争(1980-1988)のさなか、1985年3月17日イラクのサダム・フセインは、「3月20日午後2時以降、イラン上空を飛ぶ航空機は軍用機、民間機を問わず撃墜する」。と発表した。期限は48時間後日本時間の3月20日午後2時、無差別攻撃が始まれば、もうイランから脱出不可能であった。

 イラン在在の日本人は約300人。航空会社のカウンターに人が殺到したが。各国の航空会社はギリギリの運行便で自国民を乗せ飛び立っていく。やっとの思いで航空券を手に入れた日本人もいたが、自国民を優先して搭乗させる航空会社の取り扱いに航空券はただの紙切れと化していた。日本の航空会社はイランへの定期便がなく、外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが、「帰りの安全が保障されない」としてイラン乗り入れを断られた。チャーター便を飛ばすにはイランとイラクの航行安全の確約を取らなければならない。日本政府はイランの確約を取ったが、イラクからの返事がなかったのだ。

 テへラン在留邦人脱出希望者215人は、テヘラン市内のホテルに身を寄せ、日本大使館からの救援情報を待っていた。あと数時間でイラクの無差別攻撃が始まる。救援機飛ばずの一報は、邦人を奈落の底に突き落とした。正に万事休すであった。

 そんな打ちひしがれた邦人になんと「トルコ航空が救援にくる」との一報が入ったのだ。日本機ではなかったので到着まで信じられなかったと言う。

 無差別攻撃のタイムリミットが迫る中、空襲警報が鳴りつづけるテヘランのメヘラバード空港にトルコ航空のDC10が2機着陸した。定期便と救援機である。歓声が上がった。第一便には搭乗を待つ日本人198人に、全座席が与えられた。第二便には第一便に乗り切れなかった日本人17人と同じく本国からの救援を待っていたトルコ人が搭乗した。無差別攻撃が刻々と迫るなか、第二便が離陸したのはタイムリミットの1時間15分前であった。2機のトルコ航空機は無事フライトし、一路トルコへ。日本人全員が救出された瞬間である。

 日本が救出断念した危険なフライトを、なぜ遠く離れた国トルコの飛行機が、フライトしたか。こうして実現したトルコによる日本人救出劇に、どうしての疑問が日本国内で持ち上がった。この時、日本政府も日本のマスコミも、どうしてトルコ航空が飛行機を出してくれたのかまったく不明であった。

 トルコへの救援依頼がふたつのルートでされていたことが、後日判明した。ひとつは伊藤忠商事のイスタンブール(トルコ)支店長だった森永氏がトルコのオザル首相に依頼したルート。森永氏は駐在16年で、首相とはパジャマで行きかう仲と言われるほど、昼夜を問わずなんでも相談し合っていた仲だったという。もうひとつは、イランの野村大使が駐イラントルコ大使のビルセル氏に依頼したルート。二人も同じ日に大使としてイランに着任し、双子の兄弟といわれるほどの親交を深めた仲だったという。即快諾され、トルコ航空に依頼された。

  トルコ航空では、すぐさまミーティングが開かれ、命がけの仕事なので特別機への志願者を募った。これに、辣腕の機長はじめ多数のスタッフが名乗りを上げたという。戦火に救援機を飛ばすのは命がけの仕事、いくらトルコ政府がトルコ航空に依頼しても断る理由はいくらでもあったはず。それが、トルコ航空では、クルーが志願して救出機に乗り込み助けてくれたのだ。

  イランにいたトルコ人は6千人といわれ、救出を望んでいたはずなのだが、救援機が日本人を優先的に乗せた事にはなんの非難も出ていなかった。多くのトルコ人が当り前だと思っていたのだ。6千人のトルコ人は陸路を数日かけて脱出したという。

  そして疑問は残った。なぜトルコ人が志願してまでこんな危険を冒し、邦人を助けたのか、そしてまた救援機が日本人を優先的に乗せた事にはなんの非難も出なかったのか、ということである。実技無き言葉と文字の仮想界住人は、ここを著しく軽んじる(ブログに散見)が、命がけである、深い思いがなければ何人も出来得ない行動である。

朝日新聞の無検証記事

 朝日新聞の記事はこうである。1985年3月18日の朝日新聞朝刊「イラン上空飛行すれば攻撃・イラクが民間機に警告」。19日朝刊「邦人に動揺広がる・脱出路探しに必死」。19日夕刊「テヘラン、邦人300人以上待機」。20日朝刊「テヘラン邦人、希望者全員出国・トルコ航空で215人」。どういう経緯でトルコ航空機が出動したのか、在京のトルコ大使館の談話もなく、記事は下記のように記者の推測で終了している。この新聞もこの記者も、命がけの行動を金銭でしか判断できないようだ。
「・・・日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していること、などが影響したものと、みている」。

 日本国内では「エルトゥールル号遭難事件の恩返し」との趣旨の発言があるが、トルコ政府当局者や、トルコ航空の関係者からのこの件に関しての発言は「当然のことを、したまでですよ」の発言しかない。大島の島民も、海に生きる人として「当然のことを、したまでである」。トルコ国民と日本には「エルトゥールル号」により生まれた、阿吽の呼吸がある。だから、日本の救援要請に一発で快諾したのだ。「感謝」の一言で事足りる。金銭の貸し借りではない、まるで「恩を貸した」ような「恩返し」発言は不適切で、トルコに対して失礼だ。ましてや誰も発言していない、捏造は止め、至急是正すべきだ。正にマスコミ無検証オウム返しの証拠だ

 トルコの「当然のことを、したまでですよ」発言と、金目当ての行為であったかのように書いた朝日新聞記事との対比が、あまりにも際立つ。ひとりの日本人としてトルコの皆様に、朝日新聞の愚行を深謝いたします。

トルコの思いと日本の対応

 1999年11月12日に発生したトルコ、イズミット地方のM7.1の地震のときにも日本政府、赤十字社、伊藤忠商事、マツダなど民間企業からも大きな支援を行ったことはご承知の通りだ。現実界の対応は、「当然のことを、したまでですよ」これで良い。

 平成18(2006)年、1月12日、トルコを訪問した小泉首相は日本人を救出したトルコ航空の元機長、オズデミル氏に面会して謝意を表した。資料にはオズデミル氏しか記載がないが、単独面会謝意なら国辱で、所詮小泉も、お坊ちゃん世襲議員だったと言うことだ。命がけのフライト志願である、命の重さは皆同じ。謝意を表すなら、クルー全員招待が常識。もしも単独面会謝意なら、小泉も外務省役人も、前述の朝日記者と同類、あまりにも心が無い。著しく現実界道理から乖離した輩だ。

 残虐悲惨でない戦争など皆無。敵味方残虐悲惨なのを戦争というのだ。先人がなぜ史上比類なき玉砕、特攻までして、残虐悲惨な戦争をしなければならなかったかを教えず、戦後の教育は戦争の残虐悲惨だけを教えた。子孫のため護国に徹した先人を、残虐悲惨な戦争をした極悪人と教えた。

 一世紀にわたるトルコの思いが語るように、歴史は点ではない、すべて線で理由有りなのだ。戦後教育はすべて「点」だ。理由(なぜ戦ったか)を教えず、結果(残虐悲惨な戦争をした先人極悪人)だけを教えた。線を教えず、点だけ教えた。戦後教育の誤謬の原点はここにある。戦後の「点」教育の成れの果て、半人前新聞朝日と半人前記者、そして小泉と官僚は、戦後教育の誤謬の見本である。道理思考回路皆無、知識鵜呑みオウム返しの、皆仮想現実会の輩である。

 唯心国家の国民だから以心伝心となった、凶産党や韓国や在日では有り得ない。凶産党は唯心否定で唯物のみ。民主党鳩山の友愛なんぞ、凶産や捏造が国是の韓国や罪日には、他意無しなら、鴨ネギでしかない。輩は唯物、生命体を物扱いし、物欲のみでしか動かない、ソ連中国北朝鮮、韓国や在日が見本であり、歴史が証拠だ。恥も外聞もなくひたすら自己中で、相手なんぞ無視は当たり前の折伏一辺倒、唯我独尊カルト教が輩の正体である。

 

 敵味方になった時もあり、日本に対して途中波風もあったことだろう。しかしこの「当然の事」を教科書に載せて、一世紀にわたりトルコは、語り継いだ。感動以外の他の言葉はみつからない。救援に奔走した二人の日本人も、同胞を思い良くやった。しかし一世紀にわたり語り継がれたトルコのこの深い「思い」がなかったら、救出出来たかどうかは、はなはだ疑問である。

 戦後、「先人悪、戦前悪、戦後善」の戦勝国負い目払拭のためのWGIPで、日本国民は洗脳され、愚民と化した。トルコは一世紀を経てもなお、先人善を愚民化した子孫に伝え、愚民化を踏みとどまらせ、WGIPからの覚醒をうながした。・・・

 

 恨みとパンのみに生きる、唯物凶産中朝韓罪日とは、根源的に異なる。真逆の極が、日本人唯心である!

 津軽三味線や能、歌舞伎等、今に残る数多の芸は、おしなべて苦界に落ち、苦界より生じた芸である。がしかしそこには、恨みつらみなど、微塵も無い!まさに禍福昇華、唯心の極みがあるのみである。だから、時代を越えても、人種宗教言葉を超えて、共振するのだ。

 

 この逸話は、先人の過去の真実の歴史を子孫にしっかりと語り継ぐこと、これも現世に生きる我々の大事な役目なのだと言うことを語ってくれた。語り継いでおれば、朝日新聞記者のような愚人には育たなかった。いまからでも遅くはない、覚醒し、トルコに学び、子供に語り継ごう! 完

 

ポーランドとの友好一世紀

1シベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれるポーランドの思い

 

資料

『東の太陽、西の新月―日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』山田邦紀・坂本俊夫現代書館 2007年。

串本町資料および観光パンフレット

紫垣喜紀兄・旅で学んだトルコの歴史
軍艦エルトゥールル号(在日本トルコ大使館ホームページ、日本語)

トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難(串本町観光協会ホームページ)

『イスタンブールを愛した人々』松谷浩尚中央公論社(中公新書)1998年。
『オスマン帝国の近代と海軍』小松香織山川出版社世界史リブレット、2004年。


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

>本日のアップを予定しておりますが、不都合がございましたら、ご一報お願いいたします。
真実史観  転載可、要出自記載(URL)ですので、不都合はありません、どうぞ。

iza3580-hanaubaさんへ
>幾度かコメント記入させていただいたのですが、なぜか書き込みできず、今になってしまいました。
真実史観  中国・北朝鮮・韓国・罪日の“泣き売”、3回以外削除していませんので、他の理由でしょう。

真実史観特攻で護国このままでは三途の川を渡れない『特攻最後の証言』真実を語る


1特攻で護国 このままでは三途の川を渡れない     

 本当のことを伝えたい。8人の元特攻隊員インタビュー。『特攻 最後の証言特攻・最後の証言制作委員会 (著)アスペクト2006年11月8日より抜粋

吉武登志夫陸軍少尉八紘第六隊石腸隊

あの時代にいれば理解できること

 吉武「私たちは、かわいそうな人でもなんでもありません。今の時代から見れば、そう考えるのかも知れませんが、当時は国のために命を捧げることに大いなる価値があった。やはり物事を正しく見るには、当時の状況を前提に考えないと当事者の気持ちまで理解するのは難しい。要するに、その時代の雰囲気、戦況、そういうものの中にあって初めて生まれる心境です。平和な時代とは前提が違う。我々のような者でも、今のように平和な時代が続いているとわからなくなることがありますから。恐らく今の若い世代の皆さんも、もしあの時代(戦国時代)に生きていれば、我々と同じ心境になったと私は思います」 

小灘利春海軍大尉第二回天隊

「人間魚雷」の一言で己の運命を悟った

 小灘「・・・ソロモンを獲られ、マリアナを獲られ、日本はもう防波堤のない状態になっていました。アメリカはいつでも日本本土に上陸できる。もし本土で陸上戦闘になれば、日本の国民も国土も文化も全てが失われると思いました。しかし何とかアメリカの上陸を止めたいと思っても、その方法がない。船や飛行機はどんどん消耗している。

 ・・・日本を守るためには非常の手段を使っても、アメリカの上陸を阻止しなければと思っていましたから、『人間魚雷』の一言で、これこそアメリカの上陸を止める非常の手段だと思いました。聞いて喜んだんです。潜水学校からは私を含めて7人行きましたが、7人が一様に喜びました。我々は命を失わなければならないが、その代わりに千倍、何千倍の日本人が生き残る。日本民族をこの地上に残すためには我々が死ぬしかない。それができるなら命は惜しくないと、その瞬間に悟りました。その夜、遅くまで将来の期待を語り合ったものです。その時の気持ちは今でも変わりません」

――訓練中の事故といえば、黒木博司、樋口考両大尉の殉死が有名です。艇内の酸素がなくなる中、事故の詳細なレポートを書き上げていますお二人と小灘さんとの間に接点があったかと思いますが。

 小灘「立派な最後でした。その精神力はただものではありません・・・。お二人は回天の中で12時間近く生きておられたようです」

歪曲されてきた人間魚雷(回天)

 小灘「・・・特攻隊員は悲惨で残酷な境遇にあったという話ばかりまかり通っていて、私はそれを打ち消しているのですが、世間は悪口(特攻隊=非人間的)の方が納得できるのか、なかなか耳を貸してくれない。回天関係の本を書く人も異常な人物が多く、歪曲して悪く書く人ばかりが戦後の出版の対象になりました。我々がいくら言っても、まともな証言は相手にしてもらえない。地元のTVでさえも同様です。回天の特集番組を何度か作りましたが、どの番組も、回天は一度搭乗すると外からボルトのようなものでハッチを固定され、搭乗員は泣いても叫んでも外に出してもらえない非人間的な兵器だ、そんな説明で全国放送されました。回天一型の図面(内部図解)を見ればわかりますが、ハッチは頭上と床の2ヶ所にあり、開閉のためのハンドルは内側にしかついていません。だいたい外側に突起物があると水の抵抗が大きくなるので、そんな馬鹿なことはしません。

 我々も搭乗訓練に入るとき、仁科さん(仁科関夫少佐=人間魚雷計画の発案者の一人)から『ハッチは自分で開けて自分で閉めるものだぞ』と言われてました。私はそれを聞いて武士とはそういうものだとも思っていました。なのに世間では全く逆のことをいう。海軍にいた人でさえそう思い込んでいる人がいるようです。(さらに別の写真を見て)これは大津島の予備士官で一番後から入った組で、昭和20年3月に来た連中です。この中の一人が本の中で(部隊を)大変悪く書いています。恨み言は覚えていても、他の記憶は一切無いようです。だから本(「回天特攻学徒隊員の記録」――止むに止まれず破った50年の沈黙)を書いたけれども、中身はいろんなものからの引き写しです。この本のどの部分が嘘であるかを指摘したリストもあります。ま、人には普通見せませんが。真実であろうと悪口になりますから。回天に関する本はたとえ隊員が書いたものでも、そんなものがあり、ほとんどの本は意図的に歪曲されている。それをまた人が引用してどんどん間違って伝わってしまう。比較的まともなのは上原と言う人が書いた本(「回天その青春群像」)で、130人ほどに取材して」書かれており信頼できます」

注・直接ある著者に何故こんな事実でないことを載せるのか尋ねた時には、「そのほうがうける」が答えだった・・・、「やはり守るべきは、かけがえのない民族でないだろうか。・・・特攻でも、愛するものの生命を救うため、自分の命を捨てることが必要だと思った時、初めて死ねる」「父、小灘 利春」 伊藤伸子

本当は人道的な兵器だった人間魚雷「回天」

 小灘「・・・戦後の世の中は本当に便利になりましたね。しかし同時に昔の日本の良さがどんどん消えてしまったように思います。たとえば警察官にしても消防士にしても、人のために尽くす仕事が軽蔑される世の中になってしまった。極端な例は自衛隊。税金泥棒なんて言われて。自身のためでなく、多くの人に尽くす職業がなぜ評価されないのか。戦後は教育が誤っている気がします。それが占領軍の方針だったのでしょうが、彼らにしてみれば予想以上の効果があったのではないですか。私は日本人は優秀な民族だと思ってましたが、あまり自分でものを考えなくなってしまったと言うか、お百姓的な発想になってしまいましたね。自分で考えて自分で行動するのではなく、人がやっていることに自分が合わせりゃいいという考えに」

――若い人達に、これだけは伝えたいということがあればお聞かせ下さい。

 小灘「・・・多くの人に尽くすのが尊いと考えず、自分さえ良ければと思っている。そういう国は滅ぶと私は思っています。私は回天は非人道的どころか、人道的な兵器だと思っているんですね。一人の身を捨て、その代わりたくさんの人を助ける本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。戦後の新聞はやれ、愚かな戦争とか愚かな特攻隊員などと書きたがりますが、回天に限らず特攻隊員は皆、とにかく日本人をこの地上に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと納得した上での捨て身だった。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか

回天特別攻撃隊 海軍大尉 小灘利春(故・小灘利春全国回天会々長が「人間魚雷・回天特別攻撃隊の歴史を、搭乗員の思いを正しく後世に伝えたい」というご主旨のもとに、ご生前に会報・雑誌・新聞等に発表されたものです)。

黒木豊海軍一等飛行兵曹第一二三震洋隊
 黒木「・・・日本の国というものに対する考え方というものは、今でも(有事があれば)お前行くかと言われれば、行きますよ。そんな体で何が勤まるかと、笑う人もいるだろうけど。でもね、お国のためならね」

海老澤喜佐雄海軍上等兵曹第七一嵐突撃隊
 海老澤「・・・24時間勤務ですから、寝る時間も無い。そもそも軍人だから死ぬことは当たり前です。・・・」

皆本義博陸軍中尉海上挺進隊第三戦隊

村民も知事も校長も心を一つに戦う同志だった

――戦時下の(渡嘉敷島)島民の意識はどのようなものだったのでしょうか?

 皆本「軍官民、実に統率が取れていました。日本の領土を守るということで心は一つだったのです。思い出すのは昭和20年1月、県知事として島田叡さんが沖縄に赴任したこと。この方はもとは兵庫の人です。沖縄はこれから大変なことになると、水筒を肩にかけ国民服に巻き脚絆を巻いて着任しました。沖縄は20年2月に戦時行政に切り替えられましたが、知事は住人とともに死ぬ覚悟だったのでしょう。命を張っていた。この人は軍司令部の用意した立派な壕を断り、いつも住民の側にいました。住民からも大変慕われました。もう一人は沖縄師範学校長の野田貞男さん。この方は20年2月、文部省の会議に出席しましたが、すでに帰任する船も無く、文部省の担当官から文部省に残っておれば他の役職に就けると言われたのを断り『生徒が待っている。私は万難を排して学校に帰る』と宣言して、その足で市谷の陸軍省に行き、懇請して陸軍の爆撃機で沖縄に戻りました。野田校長は寮生と生活を共にし、将官待遇で軍令司令部に迎えるという誘いも断った。常に生徒の先頭に立ち、生徒で組織された鉄血勤皇隊が首里から摩文仁へ転進するのを見送った後、校舎の焼け跡でじ自害されました。当時は軍人も行政官も学校の先生も皆立派でした」

――遺骨はご家族のもとへ届いたのでしょうか?

 皆本「復員後、私は部下の墓参を続けました。その中で非常に感銘したのは・・・私は部下の遺骨をガーゼに包んで持ち帰りましたが、ただ一人、中島少尉だけは遺骨も遺品もありませんでした。大町団長を敵中突破護送した中島一郎少尉。彼は埼玉県の農学校の出身で、よく戦場で花の苗を植えていました。そこで珊瑚の欠片を洗いまして、それを遺骨代わりにもって帰りました。ご両親にこれこれしかじかでと報告したところ、それをぜひいただきたいとおっしゃった。遺骨を入れる箱を作り、その中に珊瑚の欠片を入れ、私の弟と二人でお宅まで向かうことにしました。あの頃、埼玉まで行くのは大変でした。門司からの列車は広島止まりでした。乗り換えを繰り返して広島まで行き、原爆の落ちた後の広島の駅で、その惨状を嫌というほど目の当たりにしながら、弟と『とにかく届けに行かなければ』と話していました。それを耳にした車掌さんが我々に敬礼してくれ、こちらへどうぞと案内してくれました。まだ明かりのついていない列車まで連れて行ってくれました。当時の二等車、今のグリーン車です。『車掌さん、私は自分のわずかな手持ちの金で全国の遺族を回っています。とてもではないが、二等の料金は払えません』と話しますと、『いや、どうぞ』と。そのまま座っておりましたが、東京まで行くのに4回か5回検札があり、そのたびに車掌さんは私と弟だけ見過ごしてくれたんです。ああ、わが国鉄は健在なり!しばらくして、(国鉄の)偉い人に礼状をかいたものです。確かに規則からすれば違反かもしれないが、あの車掌さんの行為はすばらしいと」

 皆本「・・・梅沢(裕・少佐)さんが隊長だった海上挺進第一戦隊に関わったある女性から『梅沢さんには申し訳ないことをした』という言葉をいただきました。集団自決者に対する国の補償を願い出た際、『そんなことを言うなら広島や長崎の原爆の被害者はどうなる。そんな金は出せない』と追い返されたと言います。3回目に願い出た時に、役所の課長が『軍の命令で自決したということであればなあ・・・』と漏らしたそうです。それで梅沢さんが命令を下したことにして補償を申請したとその女性が語ってくれました。それが真相です。裁判が始まる前、梅沢さんに電話でそのことを伝えましたら、『軍が命令を下したということで遺族の方々が補償、年金をもらっておられるなら、それはそれで良かった』と。当時、集団自決のあった座間味島は、鰹漁と鰹節の加工で生計を立てている貧しい島でした。今はその産業もありません。その意味で島民の生活補償に貢献したと思うと。ただし、貫かなければならないのは軍の名誉である。これだけははっきりさせなければ俺はしに切れない。そうおっしゃいました。皆本も全く同感でした。・・・」

 皆本「渡嘉敷の村民の方々と今でも会えば、親戚以上のおつきあいです。最後の慰霊祭として昨年(平成16年)、女房を連れて現地へ行きましたら、当時を知るおじいちゃん、おばあちゃんから、戦後生まれの若者、子供まで、皆さんが飲んで歌って踊って我々を歓待してくれました」

江名武彦海軍少尉神風特別攻撃隊第三正気隊
 江名「・・・当時の社会はゲマインシャフト(独語。伝統的社会形態)、運命共同体でした。共同体の中に個があり、個の幸せを願うのは当然ですが、共同体の中に生きる若者として、愛する親兄弟、郷土、祖国のため、危急存亡の時は自己犠牲の覚悟が要請されました。“海行かば”の万葉集、大伴家持の時代に先祖帰りするような使命感です。それは悲痛なことでしたが、当時の若者は受け入れました。現代の個主体のゲゼルシャフト(独語。人為的社会形態)の世の中とは違っていました。戦前が全て良い時代だったとは言えません。今より悪い面も多々ありましたが、戦後のアメリカ軍の占領政策で、以前の国の有様が全否定されました。教育でいえば、歴史、地理、道徳の授業はまかりならぬと徹底したものです。私たち古い人間には、先祖伝来の日本特有の美風が、すっかり失われてしまい、口惜しい限りです」

 江名「太平洋戦争について、公正で客観的な目で学んで頂きたいと願っています。列強の帝国主義の時代が、太平洋戦争と共に終わったという事実を客観的に検証してもらいたい。太平洋戦争を学ぶには帝国主義の研究が肝要です。・・・」 

土方敏夫海軍大尉第二〇三空戦闘三〇三飛行隊
 土方「私たちの時代は、(戦国時代なので)”公”が主で”私”が後ろに隠れていた。今の時代は逆で、”私”が前面に出て、”公”が後ろに隠れてしまっている。常に世の中というものは、論語の言葉を借りるなら、中庸は徳の至れるものなりで、やはりバランスの取れた感覚を大切にして欲しいと思います。えてして若者は極端に走りがちですが、右でも左でもなく常にそういう感覚を持ってもらいたい。それにはやはり、歴史をよく学んでもらいたいですね。”公”があって”私”がある。そのどちらだけでもいけません」

木名瀬信也海軍大尉神風特別攻撃隊第九筑波隊
 木名「私は、この世の中のことは、男と女、白と黒…デュアリズム(二つの原理で世界を説明する言説)で処理されていることを、世の中を考える上で必要であると思います。絶対主義というのは想念の中でしかあり得ないと。あらゆるもの、現実世界、地球上にあるものは、デュアリズム、表があれば裏があるこれを知っておいてもらいたい。だから絶対平和なるものは一つの目標としては素晴らしい。目標として掲げることによって、我々の理性が活躍し、世界を平和にしていこうという動きをもたらすことはあるかもしれない。しかし、それによって世の中の争いごとが無くなると考えるのは、これはいかがなものかと。世の中には善と悪がある、一人の人間にも悪と善が混在する。一人の人間を絶対善の人間とするのでは大きな誤りを犯すと。絶対平和を目標にしていくことはよい。絶対平和が世の中に存在できると考えると、これは危ない。現実社会には表もあれば裏もある、ということを是非考えて頂きたいというのが私の考えです」  

抜粋終了

神風特別攻撃隊最初のパイロット関行男大尉の遺書 
満里子殿 何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対しては誠にすまぬと思って居る 。何も言はずとも、武人の妻の覚悟は十分できている事と思ふ。御両親様に孝養を専一と心掛け生活をしていく様、色々と思出をたどりながら出発前に記す。恵美ちゃん(妻の妹)坊主も元気でやれ
。  行男

特攻に志願して戦死した植村大尉の愛児に遺した手紙
昭和19年10月26日にフィリッピンのセブ島の基地から特攻に志願して戦死した植村大尉の愛児に遺した手紙です。

 素子 素子は私の顔を能く見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代叔母様に私のことをよくお聞きなさい。私の写真帳もお前のために家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。
 私はお前が大きくなって、立派なお嫁さんになって、幸せになったのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会いたいときは九段にいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。
 父はお前が幸福者と思います。生まれながらにして父に生き写しだし、他の人々も素子ちゃんをみると真久さんにあっている様な気がするとよく申されていた。またお前の伯父様、叔母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親無し児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護っております。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。
 お前が大きくなって私のことを考え始めたときに、この便りを読んで貰いなさい。
昭和十九年○月某日              父
植村素子へ
追伸 素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教えて上げます。

 九段とは靖国神社のある地名です。この遺書に書かれた素子さんは昭和42年に靖国神社の拝殿で舞いを奉納して父の霊を慰めています。

菊水隊 妻への手紙
佐藤章 菊水隊 イ36潜、イ37潜、イ47潜 昭和19年11月8日出撃
妻への手紙
まりゑ殿
 かねて覚悟し念願していた「海い征かば」の名誉の出発の日が来た。日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが然しこれで「俺も日本男子」だぞと、自覚の念を強うして非常にうれしい。
 短い間ではあったが、心からのお世話になった。俺にとっては日本一の妻であった。
 小生は何処に居らうとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。
 子供も、唯堂々と育て上げてくれ。所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ、小生も立派に死んでくる。
 充分体に気をつけて栄へ行く日本の姿を小生の姿と思いつつ強く正しく生き抜いてくれ。
大東亜戦争に出陣するに際して
昭和十八年九月二十一日           章
まりゑ殿

  
神風特別攻撃隊振天隊の特攻隊員遺書
22年の人生すべて個人の力にあらず。母の恩偉大なり、母の恩の中に亡き父の魂魄は宿せり。我平安の22年、祖国の無形の力による。国家の危機に殉ぜざれば、我愛する平和は来ることなし。我はこの上なく平和を愛するなり、平和を愛するが故に戦いの切実を知る。戦争を憎むが故に戦争に参加せんとする。我ら若き者の純真なる気持ちを知る人の多きを祈る。22年の生、唯感謝の一言に尽きる。すべては自然のままに動く、すべては必然なり。

さらさらと吹きくる春の風なれば、花の散るのも懐かしきかな。
さらさらと吹きくる春の風なれば、花の散るのも懐かしきかな。
朝風にはためくをみたしかの地より平和日本の日の丸の旗
戦没学徒兵 古川正崇中尉

特攻隊員の思い 特攻隊員の思い 英霊の言乃葉 

特別攻撃隊の戦死者 特殊奇襲兵器

   軍 戦死者数4,148。
陸   軍 戦死者数1,674。
特別攻撃隊 総戦死者数5,822。

米国映画「インデペンデンス・デイ」 総攻撃の前の大統領の演説。「さあ、諸君、勝とうが負けようが、ともに叫ぼうではないか。我々は決して粛然と闇に消えたりはしない!抵抗もせずに滅びてたまるものか!」

 おんぼろ機にミサイルをくくりつけた呑んだくれの老パイロットは、「いかにゃならんのだ、息子よ! おまえはいつも、おれよりうんと立派に家族の面倒を見てくれた。あとはたのんだぞ。」と別れを告げ、巨大円盤の開いた底部にミサイルもろともつっこみ、見事、誘爆させ特攻で世界を救った。

フランスの文人アンドレ・マルロー
「・・・フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである」
2につづく⇒

真実史観戦わざればソ中凶産や英米仏蘭の餌食で日本国は消滅していた!

2戦わざればソ中凶産英米仏蘭餌食日本国は消滅していた
「特攻隊生みの親」大西瀧治郎中将
 特攻は大西がマニラに着任する前から、海軍内で検討されてきており、様々な特攻兵器も開発され、大西が発案者ではない。しかし、武人・大西瀧治郎中将は、一切の責任を一身に負い、1945年8月16日未明、渋谷区南平台の軍令部次長官舎において、日本の敗戦を見とどけると、「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して腹を十字にかき切り、割腹自決。自決に際しては敢えて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな。おれはできるだけ長く苦しんで死ぬんだ」と医者の手当てを受ける事すら拒み「自分が送り出した部下たちへの責任を取り詫びる」と言って、夜半から未明にかけて約20時間、詫びながら苦しみ続けて、この世を去った。行年(54歳)。
遺書 

八月十六日0245 自刃ス
特攻隊の英霊に曰「のたまわ(申し上げる)」す。善く戦いたり、深謝「しんしゃ(深く感謝する)」す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れ共「しかれども(しかしながら)」其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして軽挙「けいきょ(軽々しい行動)」は利敵行為(敵の利益)なるを思い、聖旨「せいし(天子のおぼしめし)」に副(そ)い奉(たてまつ)り、自重忍苦「じちょうにんく(苦しみを忍び軽々しい行動はしない)」するの戒(いましめ)とならば幸なり。隠忍「いんにん(がまん)」するとも日本人たるの矜持「きょうじ(誇り)」を失うなかれ。諸子「しょし(諸君)」は国の宝なり。平時「へいじ(平和な時)」に処し、猶「ゆう(ためらう事)」を克「よ(克服し)」く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽(つく)せよ。

瀧治郎より淑恵殿へ
一、家系其の他家事一切は、淑恵の所信に一任す。淑恵を全幅信頼するものなるを以て、近親者は同人の意志を尊重するを要す。
二、安逸「あんいつ(何もしないで遊び暮す)」を貪(むさぼ)ることなく世の為人の為につくし天寿を全うせよ。
三、大西本家との親睦を持続せよ。但し必ずしも大西の家系より後継者を入るるの要なし。

之でよし百万年の仮寝かな                     大西瀧治郎(1945/08/16)

大西瀧治郎のことば
  特攻は統率「とうそつ(多くの人をまとめて率いること)」の外道である
  わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己「ちき(自分の心をよく知っている人)」なからんとす
  「すがすがし 爆風のあとの 月清し」(辞世句)

 出撃命令を発した時点より、大西瀧治郎に、生の選択はなかった。

 古今東西他国に、このような人々はいたか。否である。日本にも他国同様の、確かに非難される人々は存在する。しかし、微微たる人だ。微微たる人を針小棒大に取り上げ先人罵倒する、森を見ず木だけを見ての輩がいる。半人前の輩だ。すべてを背負い自刃した人も、罵られながら生きて、戦後の復興に貢献した人も、どちらも戦後の礎となったことは間違いの無い事実だ。このような人々のおかげで日本は奇跡ともいえる復興を成し遂げられた。感謝以外の言葉など有るはずが無い。

氷雪の門・九人の電話交換手  ポツダム宣言を受諾して戦争は終結したにも関わらず、終戦の5日後ソ連軍は樺太の国境線を越えて南下を続けていました。8月20日には、樺太南端の真岡市に上陸して街を蹂躙しました。回線が切断される直前の悲痛な電話、「これが最後です。さようなら、さようなら」を最後に、9人の乙女達は青酸カリを飲んで自決したのです。最期の通信は、責任者であった可香谷(よしがだに)シゲからの無線でした。「ワレニンムヲオエリ。サヨウナラ。サヨウナラ。サヨウナ・・ラ」彼女は服毒後、最後の力を振り絞ってキーを叩いたようです。この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています。殉職された方々は、次の9名ですがいずれも独身であったそうです。

可香谷シゲ 23才(主事補、現在の主任)

  高石ミキ 24才    吉田八重子21才

  渡辺照 17才    高城淑子19才

  松崎みどり 17才  伊藤千枝22才

  沢田きみ 18才    志賀晴代22才

ソ連軍の侵略は、「ポツダム宣言」を受諾する旨を天皇が全軍、全国民に対して通告した5日後のことです。

勝者なら何をしてもよいのでしょうか?   氷雪の門より

 サイパン沖縄と同じ自裁で、明日無き戦国時代の人生観、平和の御世の傍観論は愚論!

 TPP論争に欠けているもの。生命体はおしなべて衣食住ではなく、食衣住。世界が食糧危機に陥った場合、自国優先は当然で、輸出せずは当たり前、余してもいいから、食料確保自給自足は国の根幹。

 日清日露大東亜戦争は、露西亜、凶産ソ連中国、列強食民治主義の、ブロック経済を破壊、食糧確保し生存するのための、適者生存戦争であった。

 時代対処のため戦国の世に開国し、自給自足(江戸初期1600年1227万人で、121年後の1721年3128万人に倍増したが、以後は、125年間江戸末まで横ばいで、1846年3230万人。つまり、これが、当時の日本の、自給自足限界人口)から輸入加工輸出国に転換、85年で人口倍増(昭和6年1931年6500万人なので、自給自足に後戻りは、二人の内一人が餓死者)。迫る清国とその属国朝鮮、南下する露西亜、そして凶産ソ連と食民治主義連合、そして更に巨大化した黄禍論白人連合との対峙と、まさに未曾有の時代であった。先人はこの死活(負ければ二人の内一人が餓死者)の時代を、一丸で命を懸け、子孫に禍根を残さずと、日清日露大東亜、すべて先憂後楽で対処した。資源無き小国、援軍のあて無き籠城や後手は確実な餓死。全て先手、外地戦は、古今東西小国戦法の、定法である!

 マッカーサー証言「1951年5月3日・彼らが戦争を始めた目的は、大部分が護国(by security)のためだったのです」は、このことを看破した、証言なのだ。ベンブルース等、弁護人の弁護も同類である。

前掲 『特攻 最後の証言』より抜粋

鈴木英男海軍大尉「桜花」第七二一空桜花隊

このままでは三途の川を渡れない

強制ではない、志願だった。

――志願された時の心境をお聞かせください。

 鈴木「敵がそこまで攻めてきている。ここで防がなければいけない。防ぐと言ったって、戦局を一挙に覆すことは出来ないわけですから、我々の考えとしては、敵に打撃を与えようと。こんな打撃を受けるのなら、いいかげんもう戦争を止めたいと、敵をしてそういう心境に持っていかせれば大成功と言う気持ちがありました。要は早く講和をしてもらいたい。自分の命に代えて、(壊滅的な)被害を受ける前にできるだけ有利な形で講和を持ち込めたらと言う思いでした。

引き裂かれた日本人

 鈴木「今の時代、とても残念に思うのはアメリカが占領して進駐してきたと。アメリカとしては、日本という国が怖かったから、2度と戦争させちゃいけないということで、日本を骨抜きにしようというのが彼らの占領政策だったわけですよ。我々が復員してラジオ聞いても『真相はこうだ』とか『真相箱』とかいう放送を毎日やってました。これで洗脳する。大本営が嘘八百の発表をしたのと同じように、アメリカも嘘で固めた作り話で日本人を洗脳し始めたんです。この野朗!と思ったけど、世の中にはいろいろな人間がいて、アメリカの宣伝部が来ても、いろいろと彼らに迎合していけばいい格好になると考える人もいたわけです。阿片戦争にしてもイギリス軍が上陸して来たとき、人民は競って荷役をして金を貰い、それでイギリス軍はどんどん奥地に入って行った実績がある。自分の欲望のために隷属していく人間がいたことを今になって考えると、戦争が終わって骨のある人たちが虚脱状態になったということですね。今まで頑張ってきただけに反動で落ち込んだ。もう何をするのも嫌だと。そこにつけ込む形で尻尾を振る連中が、『俺は戦争に反対していた』とか『俺は戦争が嫌だった』とか、『やるべきじゃなかった』などと言い出して。戦争に協力したヤツはけしからんと。我々は反対したんだと。吊し上げを始めた。例えば、画家の藤田嗣治なんて、従軍画家だったことを吊し上げられて、もう日本には帰らないと宣言してパリに行ってしまった。この一つをとってもわかるように、あのとき(終戦)に日本人が引き裂かれたんだな。戦争に負けて一切が嫌になった人たちと、戦争に負けたんだから、ここぞとばかりに占領軍に迎合して、いい思いをしようとするオポチュニスト(日和見主義者)たちとに」

――最後に若い人たちに伝えたいメッセージをお願いします。

 鈴木「いろいろありますが・・・とにかく教育が骨抜きにされていますね。おまけに付和雷同したおかしな政治家が、国を愛するなんていうのはとんでもないなどと平気で発言する。普通そんなことは通らないことです。愛国心をしっかり持って欲しい。愛国心がどこから出てくるのかといえば、自分の家族を大事にし、郷土を大事にし、日本の文化を大事にする、その先に象徴である日の丸の旗も大事にすると。その愛国心を持たなければいけないのに、その教育ができていない。むしろ愛国心を持つと戦争を起こすなんて馬鹿なことを言ってる。中国にあんなこと言われても、中国の言う通りにしようだって。土下座外交、媚中外交していることに気がつかないのかと言いたい。そういう世の中において、やはり若い人たちに良く見てもらって、これじゃいかんぜと、一人一人が国を愛することから始めて欲しいな。そして何でもいいから社会に奉仕しようと心がけて欲しい」

――若い人も、中国の反日が政治的であると気づき始めた人もいるようですが。

 鈴木「そうですね。まあ、でも、あなたたちのような人が、俺なんかの話を聞きに来てくれるのも、少しは世の中が変わりつつあるのかもしれない。そうだとありがたいけどね。この間、TVのインタビューでこう答えたんだよ。『今のような世の中だったらね、俺が死んで三途の川渡ったときに、戦友になんと言ったらいいか言葉がない』と。先に逝った連中に『お前、娑婆で何やっとったか』と言われるよ。まあ、でも、ひょっとしたら、もう少し時間がたったらね、反動で少しは(世の中が)良くなってくれるんじゃないかとね、期待はしているよ。それには、俺は長生きしなきゃな。長生きしてね、もう少し(戦友に)報告できるとっかかりができた後に三途の川を渡りたいもんだよ。そんなところだな」

抜粋終了

 子孫のため先人は時代に対応した衣を纏い、私を捨て公に殉じ一丸と化し、数十倍の侵略者と三度戦い、三度目に全世界の征服主義者とたった1ヵ国の戦い、自由希求の戦いを挑んだ。特攻隊は敗色濃厚のなか、己の生死と護国の精神を昇華し、悟り、軍艦に突撃し果て、護国に徹した日本精神を最後に残したのだ。精神を鎮め、そして昇華し、悟ったその精神が、静かで穏やかだ。そこには自分の運命に対する恨み辛みも、また敵国に対する憎しみもない。ただひたすらに祖国を憂える貴い熱情と、愛する者の幸せを願うという純粋無比な気持ちだけが、そこにはある。静かなだけに、感動だけが残る。

 
先人が残した死しても護国の日本精神は、アジアの人々の琴線をかき鳴らし覚醒させ、独立に拍車をかけ、アジアは皆独立し、戦後の日本の復興に多大な協力を惜しまなかった。鵜人の撒き散らす自虐史観の嵐の中で、日本人探究者は、日本精神を真正面から受け止めて再び一丸と化し、より良い国作りに励みアジア同胞と共に復興した。日本精神は、戦いに敗れても、再び日本の礎となった。戦後、アジアやアフリカや世界の同胞は、南北アメリカの轍を踏まなかった。侵略者に虐げられし世界の同胞は、護国の真髄を見た。侵略者も同様に護国の真髄を見た。人類が、護国の真髄を見たのだ。轍を踏まなかった起因は正に、ここにある。
 かくして、日本精神護国の真髄は、開闢以来延々と続いた侵略と差別の弱肉強食の本能の歴史を破壊し、共存共栄と平等に基づく新たな人類の歴史「植民地独立付与宣言(1960年)」を、世界に創造した。戦後の平和の起因も、正しくここにある。

特攻隊員と呼応する昭和16(1941)年9月6日御前会議での首脳の言葉

○永野修身NAGANO Osami)・開戦時の軍令部総長 昭和16(1941)年9月6日。下記の言葉は、国の存亡に対し、護国の日本精神を吐露して、あり余るものがある。善悪史観者が唱える、侵略などという余裕のある思いは、微塵も無く、そこにはただ子孫へのあふれる思いだけがある。玉砕部隊や神風特攻隊や特攻隊の壮絶な心根が、読むだけで伝わる。この日本精神が、今の日本の礎となった。これからもそうあり続けるだろう。けだし名言だ。日清日露大東亜、戦国時代の小国日本、適者生存唯一の術、先人すべてのほとばしる総意が、この言葉を残したのだろう。

 「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。戦って死中に活を見いだし護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう」

真実史観意訳

 太平洋戦争の道 角田順・これだけは伝えたい武士道の心 名越二荒之助・人物抄伝太平洋の群像2永野修身 亀井弘等、大同小異資料なので、大意を踏まえ簡略に意訳し、解説を加えた。資料は、出席者の聞き書き寄せ集めではないか?

戦わざれば亡国、
 戦国時代である。中国、南京、満州、朝鮮は、英米仏蘭ソの争奪戦場となり分割。日本も、再度の資源封鎖で壊滅し、分割資源なき小国日本は、再び包囲されて餓死か、降伏して奴隷ドイツは英仏のWW1停戦約束不履行で、80万人以上の餓死者(ほとんどが老人女子供)となった(WW2起因)。弱肉強食時代の戦わずは、無条件降伏で、奪われても犯されても殺されても従うこと。(終戦時の韓国、ソ連の侵略を想起せよ・・・あれが現実の世界だ)。ハルノートによる戦わずの降伏は、台湾朝鮮満州南京汪兆銘への裏切り、未来永劫子孫の汚名となり、選択は不可。ソ中凶産合体阻止防共戦争日本が、敗戦で撤退するや否や即座にソ中凶産合体し、南京満州朝鮮と攻め入ったのが、厳然たる証拠である!戦わざれば、ソ中凶産や英米仏蘭餌食で、日本国は消滅していた!

戦うもまた亡国
 世界の超大国米英仏蘭中ソが相手では、必滅

であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。
 不屈の抵抗の歴史を子孫に残し、国名が消滅してもポーランドは復活した。抵抗もせず降伏すれば、屈辱、屈伏の歴史は隠蔽され、抵抗の歴史は無きものと成る。さらに、征服者に洗脳され愚民化された抵抗の歴史無き子孫は、二度と立ち上がることなどなく、日本は消え、食民治と化し、正に、日本民族永遠の亡国となる。(南北アメリカの先住民族、・・・あれが現実の世界だ)

戦って死中に活を見いだし
 戦うもまた亡国かもしれないが、戦って一縷の望みに挑戦し、資源封鎖で絶えず迫る、独占貿易の宗主国を、アジアから永遠に排除しなければ、資源無き小国日本の、未来は無い。独占貿易の食民治主義共産主義と戦い、アジアから追放すれば、一縷の望み(自由貿易を旗印に団結、大東亜共栄圏を成し、対峙)が生まれる。たとえ敗れても、大東亜共栄圏が覚醒し独立すれば、独占貿易は破壊され、自由貿易の世となり、資源無き小国日本に、一縷の望み生まれる。敗れても、同胞が覚醒し追随するような、

護国の精神に徹するならば、
 勝者に隠蔽されないような、子孫を守るための必死な姿、生きざま、戦いざま、死にざまさえ残せば

たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう。
 たとえ占領され食民治にされ征服者に愚民化されても、残した挑戦の心や生きざま、戦いざま、死にざまを想起し、必ずや子孫は覚醒し、再び独立し、日本は復活する。我々はただの戦いではなく、子孫が必ずや想起し、覚醒復活するような、勝者に隠蔽されない、史上比類なき戦いを、残す。子孫のために。

 永野修身個人の発言だけではなく、出席者全員のほとばしる総意が集まり成したのだろう、大同小異の資料が物語っている。子孫へのほとばしるおもい「最適者生存」は深く重い。当事の指導者、苦渋の決断が滲んだ言葉だ。・・・ここには侵略者の影など微塵もない。あるのは、子孫への思い、適者生存、唯一つ

 日本開国当時、独立国は日本タイ(英仏の緩衝独立国)のみ!これで一般常識人完全氷解し、職責者文系授の「善悪史観」など、論外となる。

太平洋(白色対有色)戦争
 前門の敵(ソ中凶産主義傀儡毛沢東と欧米列強食民治主義傀儡蒋介石)と交戦(反共戦争)中に、後門の敵(食民治主義の欧米列強)が宣戦布告(ABCD通牒)し、日本(最後の有色人独立国)壊滅を謀った、白人による有色人国家殲滅戦争!

大東亜(有色人自存自衛蜂起)戦争
日本の自存自衛戦争!

フィリピンで神風特別攻撃隊の編成された翌日、戦闘機の整備兵の友人に語った言葉。 真実はどこに・・・
 ・・・『もう戦争は続けるべきではない』しかし、敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。歴史に見るインディアンやハワイ民族のように闘魂のある者は次々個々撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。このために特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。しかしこれは、九分九厘成功の見込みはない、では何故見込みのないのにこのような強行をするのか。

 ここに信じてよいことがある。いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に必ずや、日本民族は再興するであろう

大空に雲は行き雲は流れり、すべての人よさらば、後を頼む、征って参ります。
人は一度は死するもの、微笑んで往きます、出撃の日もそして永遠に。
イッテマイリマス ノチノニホンニ エイコウアレ

 古来からの日本は分断もされず、かつ、日本の障害(有色人差別・ブロック経済・戦国時代=開闢以来の人類の悪弊弱肉強食)は、覚醒継承した同胞により破壊され、新秩序、植民地独立付与宣言は1960年成し遂げられ、日本の戦争目的(互恵・平等・ブロック経済破壊は完遂した。特攻は、連合国をも英断へいざない、人類の遺書へと昇華した!これは、厳然たる事実だ!

 自己犠牲特攻なかりせば、覚醒追随する同胞、連合国の英断、有りや無しや!

 身体を筆にし、血潮と汗と涙で描いた人類への遺書!特攻!

 日本は人事を尽くして人類後継に天命を迫った。人類は覚醒し、応えた

 敗戦記念日などではない!8月15日は、人類の終戦記念日である!


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

真実史観について


真実史観=史学史観
 立体(三次元)史観(検証史観) 戦争は次元一つの夢世界では語れない、現実は三次元なのだ。多面の要素が起因で戦争となる。軍隊は人も殺すし、護国もする。定説を一度白紙に戻し、時代背景、敵味方の事情、目的はなんで、なぜ戦争となったか、表裏、長短、清濁、禍福合わせ飲み、多面からの事実を積み重ね、真実(単なる人殺しか、護国の交戦か)を導きだす検証方法、それが真実史観である。右とか左とかではなく、捏造から真実を暴き、現代の常識ではなく当時の常識で、戦争と時代を俯瞰して判断する、検証方法。敵味方すべてを悲惨で残虐にする、それが戦争なのだから、既存史観のように日本軍隊だけの極悪報道は無意味。唯物史観、皇国史観、司馬史観、自虐史観、自由主義史観、靖国史観、東京裁判史観などの既存史観は既に結論ありきで、結論のフィルターから観た歴史であり、結論のフィルター無しの事実か否かの真実史観とは異なる。

 侵略戦争と護国戦争、戦争は二種類あるのだ。戦争放棄のため自衛の軍も武器も持たず、攻められたら無抵抗で殺されろと言う、そんな憲法は平和憲法などではない。自己保存は生命体の本能だ。自己保存を否定とは、そんなものは憲法などでは無い、護国自衛戦争も否定し、憲法にする国家など皆無。だから史上初めてなのだ。九条は平和憲法などではない、戦勝国への、報復禁止憲法なのだ。

 作家の司馬遼太郎は、日露戦争に勝利した1905年から大東亜戦争に敗北した1945年までの40年間を「ばかな国を持った国」(司馬遼太郎『この国のかたち 一』文藝春秋社(文庫)、1993年、46頁)とのたもうた。城山三郎と言う戦争体験者だと称する作家がいる、戦争体験をネタに軍人罵倒小説、戦前罵倒小説を書いて業としてきた作家だ。真珠湾攻撃をだまし討ちと、のたもうた。罵倒するのは戦争で、軍人や戦前の体制では無いだろう、相手を間違えている。軍人や戦前の体制は、護国のため弱肉強食の時世に対応し、時代の衣を纏っただけに過ぎない。当時の体制でなければ、日本という国名も消滅し、間違いなく植民地になっていた。非現実世界に住む愚かな物書き家よ、史実と創作を混同するな。石原、森村、大江など暗愚な物書き家が多すぎる。

 体験者と称する証言は目前の証言(二次元)なので視野が極度に狭く(三次元、俯瞰していない)、一方的な証言となる。NHKや朝日は、これをネタ素にして針小棒大報道する。護国の兵を無駄死に犬死と罵倒の輩よ、侵略者に対して、護国もせず服従し侵略されたほうがよかったというのか。非難するのであれば対案を出し非難せよ、対案無き者は非難するな。選択肢が一つしか無いときもあるのだ。物事すべてに禍福あり、「週刊金曜日」のようなつまみ食い報道不可。

 包丁は人も殺すし、料理もする。原子力は人も殺すし、発電もする。軍隊は人も殺すし、護国もする。このように使用方法で、評価が真反対になるのだ。論ずるのは、包丁、原子力、軍隊悪ではなく、使用方法なのだ。物事には必ず禍福が有る、つまみ食い不可。

真実史観の検証結果
 侵略戦争、護国自衛戦争、同盟戦争、反共戦争、解放戦争、歴史の癌手術戦争、など戦争に至るには多くの原因が存在する。日清、日露戦争は護国自衛戦争。第一次世界大戦は同盟戦争。日中戦争は反共戦争。第二次世界大戦(大東亜戦争)は護国のため、貿易自由化をめざした解放戦争、宗主国という歴史上の癌を手術した歴史の癌手術戦争、服従拒否の自由希求戦争と言える。先人は国家や自然権の存亡の非常時に対処するため、自然権を犠牲にし、一丸となった自由希求魁の志士である。自由希求の志士が眠る社が靖国神社なのだ。靖国神社は、宗主国を追放し世界に魁、反共の戦いに殉じた、自由希求の志士の聖地である。

 真実の報道に命を賭け、真実史観に殉死した長井健司。ミャンマーで死してなお高く掲げた実事求是のカメラ。無検証史観の輩よ、報道とは斯あるべきだ。命も賭けず、無検証で鵜呑みし受け売りの撒き散らしは、報道とは 呼べない。耳を澄ませば、高く掲げたカメラが語る言葉が、心有る者には聞こえる筈だ。報道は真実に殉ぜよと。ミャンマーはビルマに、オッタマに帰れと。


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Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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