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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観東條英機真実解明こそが大和日本隆盛起点戦後60年間誰もが忌避


1~18東條英機真実解明こそが大和日本隆盛起点60年間誰もが忌避

まえがき予備知識

 TPP論争に欠けているもの。生命体はおしなべて衣食住ではなく、食衣住。世界が食糧危機に陥った場合、自国優先は当然で、輸出せずは当たり前、余してもいいから、食料確保自給自足は国の根幹。

 日清日露大東亜戦争は、露西亜、凶産ソ連中国、列強食民治主義の、ブロック経済を破壊、食糧確保し生存するための、適者生存戦争であった。

 時代対処のため戦国の世に開国し、自給自足(江戸初期1600年1227万人で、121年後の1721年3128万人に倍増したが、以後は、125年間江戸末まで横ばい間引きと推察されるで、1846年3230万人。つまり、これが、当時の日本の、自給自足限界人口。棚田は、日本民族自給自足苦闘の証し!)から輸入加工輸出国に転換、85年で人口倍増(昭和6年1931年6500万人なので、自給自足に後戻りは、二人の内一人が餓死者)。迫る清国とその属国朝鮮、南下する露西亜、そして凶産ソ連と食民治主義連合、そして更に巨大化した黄禍論白人連合との対峙と、まさに未曾有の時代であった。先人はこの死活(負ければ二人の内一人が餓死者)の時代を、一丸で命を懸け、子孫に禍根を残さずと、日清日露大東亜、すべて先憂後楽で対処した。資源無き小国、援軍のあて無き籠城や後手は確実な餓死。全て先手、外地戦は、古今東西小国戦法の、定法である!

 マッカーサー証言「1951年5月3日・彼らが戦争を始めた目的は、大部分が護国(by security)のためだったのです」は、このことを看破した、証言なのだ。ベンブルース等、弁護人の弁護も同類である。

 

侵略が合法の戦国時代、日本を侵略者と罵倒するのであれば、その前にまず、侵略先駆者連合軍面罵が先である。

 

開闢以来延々と続いた侵略征服合法非合法化した日本レジスタンス史唯物から唯心へ

 命ある者を物体と認識、物体を破壊するごとくに命ある人間を破壊する、唯物主義(食民治主義、凶産主義、ナチス、ファシスト)。

 戦後15年後の昭和35(1960)年までの世界は、他国を侵略し征服することは合法だった唯物時代。合法であるが故に、アフリカ、アジア、豪州、南北アメリカ、ハワイ、太平洋諸島弱小国は、侵略者に皆征服された。そんな世界の国盗り合戦(弱肉強食適者生存)の時代に、弱小国日本は開国した。日本レジスタンス史の始まりである。以後の戦争はすべて侵略者(食民治主義凶産主義)との、戦い不可避の戦争、レジスタンス戦争となった。

 資源無き小国日本が、大国侵略者と戦う唯一の手段、天皇の基、共生共死軍民団結一丸化、適者生存子孫のため、時代の衣、レジスタンスのを纏った(軍国主義)。唯物主義(食民治主義、凶産主義、白人)に全世界(小国白人国家や有色人国家)が征服されかけたが、結果、世界で唯一の内政干渉皆無有色人独立国家として日本だけが残った。

 連合軍と美称した侵略者連合軍唯物主義食民治主義、凶産主義、白人)が、世界で唯一残った内政干渉皆無有色人独立国家を襲った。連合軍と美称した侵略者連合軍が世界征服寸前、道理の旗を掲げ(東亜団結)日本蜂起。たった一カ国で戦い、比類なき戦いざま(軍民一丸共生共死)、凄まじきレジスタンス、唯心主義を残した。比類なき戦いざま唯心(凄まじきレジスタンス)を見た侵略者に虐げられし世界の同胞は、皆蜂起し侵略者を追放し独立した。

 第一次大戦後、1919年ヴェルサイユ条約の民族自決の原則、「一国家における少数民族の自決」は、アメリカのT.Wウイルソン大統領が初めて唱えたが、これはドイツとソ連の影響が拡大しつつあった東欧諸国やバルト三国の独立を支援する目的と、ドイツ食民治の割譲が目的であったため、戦国時代は更に加勢し継続、後のWW2、大東亜戦争の世界大戦となった。

 開闢以来の、他国を侵略し征服する食民治政策は、戦後わずか5年後1950年「各民族が他の民族や国家によって干渉されること無く、自らの意思によってその運命を選択し、決定するという政治原則、民族自決」が、国連総会で、基本的人権として認められた。さらに10年後の昭和35年(1960)に、第15回国連総会で、アジア、アフリカ43カ国による共同提案が採択され、植民地を保有することを不法行為であると宣言。賛成89、反対0、棄権が9カ国(主要宗主国のアメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、スペインと、南アフリカ、オーストラリア、ドミニカ)。後の総会で、植民地保有は犯罪と規定。人種差別撤廃条約は、1963年人種差別撤廃宣言、1965年12月21日に国連総会で採択。開闢以来延々と続いた最適者生存の、弱肉強食本能の食民治主義、独占貿易は破壊され、先人の旗印、自由貿易共存共栄平等に基づく新秩序(唯心主義)が創造された。

 かくして開闢以来延々と続いた戦国時代(国盗り合戦)唯物主義は大東亜戦争で破壊され、昭和35年(1960)以後消滅。凶産を共産と美化する唯物凶産主義だけが残った。そして1990年8月からの湾岸戦争では、凶産主義イラクのクウェート侵略に対して各国が抗議し多国籍軍と化し、侵略者イラクをクウェートから撤退させた。これが日本開国以後の、世界の経緯である。比類なき戦いざま(軍民一丸共生共死、凄まじきレジスタンス唯心)が、侵略征服合法の旧秩序(唯物主義)を破壊し不法行為とし、共存共栄平等に基づく新秩序(唯心主義)平和を、創造したといえる。日本、台湾、朝鮮、満州、南京国民政府、インドなどの虐げられし世界の同胞先人が、子孫のために蜂起し流した赤心の血、唯心の血が「植民地独立付与宣言」を成した。これが正に世界の平和を創造したのだ。

 唯物の残党凶産主義の手先「愚条の害」、日本洗脳犯日凶会、諜匪新聞、売日新聞、嘘売新聞、凶惨党、邪民党が捏造し情報操作、おこがましくも「平和憲法」と叫ぶ、「憲法九条」などではけして無い。洗脳されし「愚条の害」会員や子孫よ、覚醒せよ。

 開戦の詔書、高村光太郎「危急の日に」終戦の詔勅東条英機証言は、真実を語って余りある。

「植民地独立付与宣言」(マイペディア百科事典)

 1960年の第15国連総会で、アジア・アフリカ43カ国による共同提案が採択されたもので、前文及び7項からなる宣言。〈いかなる形式・表現を問わず植民地主義を急速かつ無条件に終結せしめる必要がある〉との認識に立って、第2項においては民族自決権をうたい、第5項においては〈信託統治地域および非自治地域またはまだ独立を達成していない地のすべての地域において、これらの地域の住民が完全な独立と自由〉を無条件に達成するために、早急な措置を講じなければならない、と宣言した。これを受けて信託統治地域または非自治地域の独立を、実際に推進するため〈植民地独立付与宣言履行特別委員会〉が翌1961年に発足し、非植民地化の推進力となってきた。信託統治は1994年10月のベラウ(パラオ)の独立で、すべて終結。残る非自治地域でこの宣言の対象となっているのはニューカレドニアなど、南太平洋地域を中心に17地域。国連は1990年ー2000年を〈国際植民地主義撤廃の10年〉と定め、非自治地域の非植民地化に取り組んでいる。

H・G・ウェルズ(イギリスの作家、文明批評家、歴史家)終戦直後にもかかわらず、いち早く大東亜戦争の真実を喝破。

「大東亜戦争は、植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界秩序の基礎を築いた」。

インドのラダ・クリシュナン大統領

「インドが独立できたのは、日本のおかげである。インドのみでなく、ベトナムもビルマもインドネシアも西欧の植民地はすべて、日本人が払った大きな犠牲によって独立することができたのだ」

タイのククリット・プラモード首相

「我々が白人と肩を並べて語れるようになったのは、誰のおかげか。大東亜戦争があったからではないのか」

インドネシアのモハメッド・ナチ―ル首相

「アジアの希望は植民地体制の粉砕だった。大東亜戦争は、我々アジア人の戦争を日本が代表したものだ」

シンガポールのゴー・チョクトン首相

「日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は打破され、アジア人は自分達も西欧人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内アジアの植民地全て解放された」。「日本人の知らない『二つのアメリカ』の世界戦略」。深田匠著高木書房

NHK朝日毎日等に巣くう、工作員のお馴染みの手法「極悪日本軍対、虐げられたかわいそうな兵士や国民」など無かった。

 「あゝモンテンルパの夜は更けて」同胞(はらから)を思う歌。この歌は、5百万人の署名となって、BC項目戦犯百数十名を救い出した。

 戦後、戦犯追及を恐れたマスコミや、鵜呑み識者が米軍に迎合し、「虜囚の辱=降伏禁止」と捏造、先人冒涜をし続けた捏造報道の嵐の中での、日本人成人のとった行動が下記。

 「終戦から7年後の昭和27(1952)年に日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの四千万人もの署名が集り、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議された」。渡辺はま子加賀尾秀忍戦犯救出署名5百万人と4千万人先人与野党議員
 

間違った戦争・反省・分祀を叫ぶ責任転嫁の方々へ

 開国以来日本軍に国民は騙されていたというのですか。それとも日露戦争以後、騙されたのですか。戦国時代(国盗り合戦)、他にいかような手段があったでしょうか。選択肢は数多選択は一つが現実界の現実。他に選択があったならば教えてください。生命体の本能適者生存を捨て、子孫も護らず、降参し征服されれば良かったというなら話は別ですが。日清日露WW1大東亜戦争は、敵味方アヘン虐殺何でも有りの、開闢以来延々と続いた食民治主義(征服主義)世界の戦国時代(弱肉強食、適者生存)なので、食民治主義(征服主義)が破壊された法治下の現代の尺度での善悪判断は、間違い。慰安婦問題も当時から売春婦という商売であった。先人は、工作員が叫ぶ皇民化ロボットなどではない。軍民自らの意思で団結し子孫死守のため命を懸け戦った。遺書を読めば、行動(集団自決)を見れば判明する。民も兵士と化し兵士として果てた。それを日本軍に騙された皇民化ロボットで、犬死無駄死にした愚民とは、国民を騙した戦争指導者だから分祀とは、いやはやなんとも情けない。遺族会は、「日本軍に騙され殺されたかわいそうなご遺族」と同情を演じる工作員におだてられ、踊らされ、本質を見失っている。遺族会殿、あの世でご先祖様を、軍に騙され犬死無駄死にした愚民と、愚弄するのですか。NHK朝日毎日工作員や工作員識者政治家の知識など鵜呑みせず、立派なご先祖から授かった、自分の頭脳で考えることだ。

 遺族会様売国奴工作員政治家にそそのかされ分祀などと、どうして戦死者の心を逆なでするのですか。だからNHKなどに巣くう工作員が付け上るのです。誰でも打てる自筆署名無きタイプの文を、東条英機の文と独断で断定し、「戦争の責任を国民に転嫁している」と8月15日にあわせるように、捏造見え見えの報道をNHKがした。2008年7月17日21時NHKスペシャル調査報告「日本軍と阿片」では、「アヘンによって行われた戦争」とNHK工作員デレクター中村 直文 制作統括 藤木達弘が中国凶産党と、米国反日勢力の全面支援を背景に、捏造を随所に折込、針小棒大報道した。NHK朝日毎日などの工作員は、アヘン、虐殺何でも有りの、世界の戦国時代を隠蔽し、傀儡国家満州太平洋戦争と捏造し連呼、日本軍だけの悪行のように報道、極悪日本軍捏造工作員は、極悪日本軍に虐げられ犬死に無駄死にさせられた国民と愚弄、有りもしなかったことを捏造し連呼する。傀儡国家満州太平洋戦争呼称者は、語るに落ち、自ら工作員である事を自白している。遺族と称し戦死者(日本、台湾、朝鮮、集団自決した国民)を犬死無駄死と愚弄し工作員を助長させているのは、他ならぬ分祀派の遺族だ。

 63年間も戦犯に騙された犬死無駄死WGIP愚者と、戦死者は愚弄されているのだ。工作員を助長した責任は遺族会戦友会にもある。どうしてNHKに抗議しない。戦死者は、侵略者と戦い、日本の臣として果てた。残された遺族会戦友会は臣の務めを果たせ。

 ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(1926年生まれ、82歳)。侵略者ナチスドイツ、凶産主義とのレジスタンス。生き残った者の使命として、祖国の真実追求し伝え続けている監督である。日本の現実。侵略者食民治主義凶産主義とのレジスタンス。生き残った者の使命祖国の真実を追求もせず、祖国の虚像を伝え続けている。兵士も、遺族も、子孫もNHK朝日毎日も、映画監督も。

 軍罵倒の元兵士や分祀を叫ぶご遺族様。これでもあの世で、戦犯に騙された犬死無駄死WGIP愚者と、ご先祖や戦友を面罵するのですか、軍民一丸本能革命の英霊を・・・。

最新情報NHKの極悪判明

 NHKが日本軍罵倒を中止すれば、63年間にわたる捏造があからさまになり、受信料不払い、弾劾裁判でNHK消滅につながるため、日本軍罵倒は、NHK幹部絶対命令との最新情報。だからたやすく凶産や李承晩主義と結びつき、両工作員の巣窟と化した。護国軍罵倒の局など世界には皆無、唯一日本だけ。納得である。こんな自浄無き私利私欲NHKなど不要。受信料不払いで即、幹部総追放しなければ、日本が滅ぶ。

元兵士の方々へ

 WGIPNHK朝日赤旗凶産工作員や毎日侮日工作員に63年間真実を封印された元兵士の方々、レジスタンス生き残りの使命として、祖国の真実を子孫に残してください。皆さんは先人と共に一丸と化し、開闢以来延々と続いた戦国時代を破壊し、本能革命を成し遂げた、日本のみならず世界平和の礎を成した、革命戦士です。これからの評価は、上がることはあっても下がることはけして無い。

凶産主義WGIP李承晩主義に虐げられし人々へ

 連合軍と美称し世界征服を目指した侵略者食民治主義の傀儡、李承晩、凶産主義の傀儡、金日成、凶産主義の傀儡、毛沢東に洗脳され愚民と化した同胞よ、歴史の真実を直視し、静かな革命を成し遂げた台湾同胞、蒋経国、李登輝に学べ。彼らは孫文汪兆銘に回帰し、革命を成し遂げた。中国は孫文汪兆銘に帰れ。朝鮮は、世界の戦国時代朝鮮存亡の危機に対処した、閔妃(明成皇后)一進会を検証し、愛国者とはいずれかを学べ。

 孫文汪兆銘日本台湾朝鮮亜細亜が目指した平和。侵略征服主義食民治主義を破壊し50%の平和を成した。しかし凶産を共産と美化する侵略征服主義凶産主義が残り、50%の恐怖は未だに存在する。孫文汪兆銘の祖国中国、革命未だ成らず。鵜呑みせず、立派な親から授かった自らの頭脳で考えれば真実が現出する。

 平和とは捏造凶産工作員に扇動され愚民と化し叫ぶ、叫ぶ平和などではなく、まず歴史の真実にひれ伏すことが真の平和への第一歩である。軍民一丸の日本軍は、開闢以来延々と続いた世界の戦国時代弱肉強食時代を破壊し、世界平和の礎石となった。現代の世界の平和は、軍民一丸先人の賜物である。

 

誤解されているが天皇も東條も独裁者ではない

 天皇は、政府の会議決定事項の上奏に対して、裁可を下す存在で、天皇自ら命令する存在ではない。その裁可については、責任は政府が負うと定められ、天皇は無答責、つまり責任を負わない立場。つまり天皇が政治軍事などさまざまな権限行使することは天皇自ら命令する存在ではないので不可能。なのに、「権限行使する」と、あたかも独裁者のようにこれまで情報操作されてきたので、信じている人も多いが事実ではない。

 

押し寄せた時代の激流、生命体の本能、最適者生存弱肉強食。資源なき小国日本、子孫死守のため自然権「私」を捨て「公」に殉じ、時代の衣を纏い、軍民一丸共生共死適者生存軍と化し、子孫の生存を懸けて戦い、開闢以来延々と続いた侵略と差別の弱肉強食の本能の歴史を破壊、共産は凶産と暴露、貿易独占を破壊、共存共栄と平等に基づく新たな人類の歴史を世界に創造、前史とし、本能革命を成し遂げた先人に、捧ぐ。 真実史観

 

 「臣」東條英機

             真実史観

芳名録が証明した東条英機の真実
 「東條家では仏壇に参った人は芳名録に署名することにしていて、私も拝んで署名した。そしてその芳名録を最初から見せてもらったのである。署名された意外な面々を見て私は仰天した。政界、財界、官界、あらゆる分野の名を知られた人達の署名が次々と目に入ってきた。アジア諸国の著名な人達の名前もあった。私が驚いた理由は、侵略された国とされている国々の代表者がわざわざ東條家を訪れていることもさることながら、記帳している有名人のほとんどが、世間並みに東條とはまったく無関係という顔をしていた人達だったからである」 佐藤早苗著『東條英機封印された真実』(13頁) 講談社 1995年刊 

 

物事全てに禍福あり 

物事全てに禍福あり、全て禍、全て福など現実社会では絶無。現実界生産は物の吟味選択から始まる、物には全て長短有。現実界生産においての物の選択は、妥協の産物だ。事においてもしかりだ。全て禍、全て福など仮想現実夢世界の世迷い言なり。

しかるに戦後63年を経ても仮想現実夢世界の住人は下記の如しだ。

 

・・・日本人は原爆を投下させるような戦争を起こした国の人間としての反省を、このように文明的に大きい規模で行ってきたでしょうか。

・・・広島、長崎のあの大きい犠牲を償うのは私たちなのだ。

・・・日本の侵略によってアジア全域にわたって大きい死者が出たのは、日本の帝国主義の「膨張」という「病気」がもたらした「悲惨な経験」だ。 川端康成の「美しい日本の私」を“あいまいな日本の私”と愚弄、大江が世界各地で行った9つの講演の記録。大江健三郎岩波新書(1996)

 

「僕は日本の戦争犯罪を認める」「『あまりにも巨きい罪の巨塊』の犯人は日本軍」「広島・長崎の原爆投下は天罰のようなもの」「広島・長崎の原爆投下は日本人の責任」「中国などにとっては原爆は救世主だった」「広島・長崎の原爆投下は天罰だ。日本の悪魔の所業に対する当然の報い」「原爆投下は日本の戦争に究極の責任があり、日本人が人類に対する罪を犯した報いだ」「防衛大学生は恥辱」ノーベル贋賞作家大江九条の会

 

「東条英機だけは絶対に許せないんだ、『戦陣訓』を作って捕虜になるなという教えを徹底したのは国際法にも違反していたからだ。戦前の日本は天皇を神格化して、いまの北朝鮮よりもファナティック(狂信的)だった」。「あの戦争は軍部の責任。東條英機は絶対に許せない。当時の日本は強権的で今の北朝鮮より酷かった」。「A級戦犯の象徴的存在、かつ開戦時の首相東条英機は、戦犯として収容にきたMPに隠れて拳銃で自殺を図ったが果たさずに法廷にさらされた。彼を運び出したアメリカ兵は、彼が手にしていた拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径なのを見て失笑したそうな」芥川賞作家石原都知事

 

「東条はヒットラーと同じ、小泉靖国参拝は戦犯が居るからだめ、戦陣訓がだめ、戦陣訓で皆玉砕した、散々殴られたのであの軍隊はだめだったと批判。更にニューヨーク・タイムズ(侮日東京支局長ノリミツ・オオニシ)との週末ワイドインタビューの中で、"I think I can change all of Japan,"「私は、私が日本の全てを変えることができると思う」とこれまでのこの売国奴の本音を、対談の中で臆面も無く吐露している」渡辺 恒雄(読売新聞主筆)

注・九条の会WGIP点史観作家澤地久枝なども、散々殴られたを例に挙げ極悪軍隊と罵倒する。同士討ちも茶飯事の戦争では、緊張感無き者たった一人のミスで、全体の死となる。平和な庶民から殺し合いの世界へ、新兵教育には最適であったろう。戦時下以外(法治下)の殴るは犯罪である。しかし戦時下(先に殺さなければ殺される無法下)の殴るは緊張感を持続し、本人及び全体生存のための唯一の手段なので犯罪ではない。戦時下(無法下))の行為を、平和時(法治下)で思考し、点史観でつまみ食い、極悪日本軍と罵倒し、極悪日本軍に虐げられた国民の味方を演じ工作員活動しているのが、偽善者団体九条の会である。

 

「日本を戦争に導いた戦犯。傀儡国家満州。傀儡政権南京政府。太平洋戦争」と臆面も無く捏造報道するNHK、朝日、毎日など、先人冒涜の世迷い言がまかり通っている。皆、知識鵜呑み無検証を装った、売国奴工作員だ。金で釣られた凶産売国奴が巣くう朝日新聞、TV朝日。金で釣られた反日売国奴(李承晩主義)が巣くう毎日新聞、TBS。朝鮮衰退の元凶李氏朝鮮史を捏造し賞賛する韓国捏造ドラマを放送するNHK、金で釣られた凶産売国奴に加え、更に金で釣られた反日売国奴(李承晩主義)が巣くったようだ。今や金で釣られた売国奴工作員の巣窟と化したマスコミ、嘆かわしいことだ。

 

 今「ヒットラー」総統の行動の是非を云為「うんい(言行をいちいち非難すること)」するを慎「つつし(ひかえる)」むも、彼の第二次欧州大戦開戦の原因が第一次大戦集結に際し、その開戦の責任の一切を敗戦国独逸(ドイツ)に帰し、その正当なる存在を極度に圧迫せんとしたる卿等(けいら)先輩の処置に対する反発に他ならざりしを観過「かんか(見落とす)」せざるを要す。と硫黄島戦死の直前「ルーズベルトニ与ウル書」の中で、市丸利之助海軍少将がWW2欧州大戦の起因を喝破している。ヒットラーという怪物を生じさせた起因は、WW1後、ドイツを窮鼠した戦勝国列強に責任有と喝破している。なぜ誰もが戦いたくない殺し合いの悲惨な戦いに至ったか、過程を述べた線史観である。前述の工作員先人冒涜者や工作員NHKの、点史観(悲惨な戦争をした極悪軍隊)仮想現実夢世界の住人との対比が際立つ。

 

 非生産者仮想現実界の鑑(かがみ)曽野綾子は、「・・・1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為『罪の巨塊(大きなかたまり)と書いていることもますます私の関心を引きつけた。注・【正論】集団自決と検定作家・曽野綾子それでも「命令」の実証なし 2007.10.2303:42(大江健三郎自作自演の捏造誤読指摘は2007.11.9.なので、この文は誤読指摘以前の文である)〕

 

作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし、憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである」このようにして曽野綾子は「罪の巨塊」を犯した「罪の巨魁」検証の旅に出た 2につづく⇒

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真実史観2東条英機真実列強と凶産が食民治化国盗り合戦戦国時代突然の首相拝命

 広辞苑「太平洋戦争を起こし」。百科事典「太平洋戦争を開始。独裁権力を振るい」。日本史事典「独裁政治を行う」。注・戦時下に独裁は当然のこと、事典すら、斯くの如しだ。

 かく言う私真実史観も、開戦わずか57日前に首相に就任し、開戦の責任者として戦勝国からも祖国日本国からも「悪の巨魁東條英機」と罵倒され続ける四面楚歌の指導者に引かれ、検証者の鑑(かがみ)曽野綾子に習い2006年検証の旅に出た。2008年、「臣」東條英機としてこの度発表。

 

食民治主義(植民地)凶産国(共産国)民主主義

食民治(植民地)・武力により国を占領し、愚民化して宗主国搾取。

凶産国(共産国)・武力と捏造洗脳により国を占領し、愚民化、一党独裁か個人独裁、捏造侵略が国是の独裁国家。愚民化して独裁者搾取。唯心(宗教)否定、唯物(賄賂)格差階級社会。国是(捏造、侵略)を神とする一信凶教)カルト(狂信)凶団、オウムと同類。一信凶のためほとんどが整合不可。整合しないものは全て捏造。凶産主義は捏造が物事の基準。

民主主義・各人各様の唯心共産主義(家族、会社)の集合体で、民意の総意が国是。真実が物事の基準

時代背景・欧米とソ連の植民地争奪の歴史(最適者生存の戦いの歴史
 弱肉強食は最適者生存の生命体の戦いで、開闢以来不適者は滅び適者が生存して、現在に至っている。善悪、正邪を超え、生命体の宿命である。したがって善悪、正邪にとらわれず、俯瞰して歴史は検証しなければならない。とらわれると、冒頭の方々のように歴史を見誤る。日清、日露、WW1、大東亜戦争は、最適者生存戦争で、軍民一丸の日本軍は適者生存軍だ。

 欧米とロシアの植民地争奪時代(弱肉強食時代。適者生存時代。大航海時代)は、1942年のコロンブスのアメリカ新大陸の発見スペイン、1948年のバスコ・ダ・ガマのインド航路発見ポルトガルから始まった。

世界の戦国時代(国盗り合戦、弱肉強食、最適者生存)迫る超大国の侵略者(食民治主義者)

1840年アヘン戦争英国のアヘン密貿易を阻止し、通貨の銀の流失を防ごうとした清国と、英国の侵略戦争。清国からの茶、絹、陶器などの輸入超過のため、通貨の銀が不足した英国は、食民治インドにアヘンを栽培させ、清国とアヘンの密貿易をし、不足の銀を回収していた。

1842年8月敗れた清国は英国と屈辱的な南京条約を締結。これが中国食民治化の始まりとなった。この事件に驚いた日本徳川幕府は、異国船打ち払令を、天保の薪水供与令に改めた。

1842年8月英国虎門寨(こもんさい)追加条約で治外法権を獲得。

1844年フランス、アメリカも条約を締結、治外法権を獲得。食民治主義中国食民治化に拍車がかかった。

(注・このように当時は、弱肉強食適者生存のため、敵味方アヘン虐殺何でも有りの、世界の戦国時代なので、法治下の現代の尺度での善悪判断は、間違い。慰安婦問題も当時から売春婦という商売であった。NHK朝日毎日などの工作員は、アヘン、虐殺何でも有りの、世界の戦国時代を隠蔽し、日本軍だけの悪行のように報道、極悪日本軍と捏造

1858年 王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年の北京条約、1860年 アロー戦争 英仏連合軍北京入城し、北京条約締結。イギリスへの九竜割譲。植民地主義の、中国植民地化加速

1860年のアイグン条約の2つの不平等条約によって、満州地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満州地域(ウラジオストックを含む)は、ロシアに割譲されることとなった。ロシア征服更に南下。

 

 明治維新(1868年)当時、有色人非干渉独立国家は、世界で唯一日本だけであった。他はタイ(独立国ではあったが英仏の干渉下)、中国(独立国ではあったが欧列強露の干渉下)、リベリア(1820年アメリカの解放奴隷が移住建国、1847年独立)の、たった3カ国。正に欧米露、大国が支配する世界、これが当時の世界の現実だった。

1988年 「紫禁城の黄昏」ジョンストン著(入江曜子・春名徹訳)岩波文庫が原文から削除した部分「1898年当時英国の商人たち・・・英国の宣教師の指導者も、・・・満州とは名前だけで、ことごとくロシアのものと思われる。・・・シナの人々は、満州の領土から、ロシア勢力を駆逐するために、いかなる種類の行動をも、まったくとろうとしなかった。もし日本が・・・これを打ち破らなかったならば、・・・満州全土も、今日のロシアの一部となっていたことは、まったく疑う余地の無い事実である。さらにジョンストンは、英独仏の中国侵略の事実も記している」捏造が党是の凶産とまったく同じ手口の岩波書店は、工作員出版社。

日清戦争と日露戦争。弱肉強食の時代に対応して子孫のため自然権「私」を捨て「公」に徹し、人づくり物づくりに励み、富国強兵に先人は努力した。日清戦争(清国の兵力108万に対して、日本はたったの7万8千の兵力。日本軍艦52隻に対して清国軍艦107隻)。日露戦争(ロシアの兵力300万に対して、日本はたったの20万の兵力。軍艦の総排水量ロシア約51万トン、日本約26万トン)。世界の誰もが日本の敗戦を信じた。がしかし、「公」に徹し一丸と化した徹底的な人づくり物づくりがこの二大国を凌駕し、天も味方し勝者となった。弱肉強食の時代に対応した時代の衣を天皇と共に纏い軍民団結、この困難な弱肉強食最適者生存時代を通過したのだ。以下は如何にしての通過か、その記録である。

 

植民地争奪戦争と凶産化戦争。大航海時代(実体は植民地争奪時代、適者生存時代、弱肉強食時代)はスペイン、ポルトガルから始まり、イギリス、フランス、オランダ、アメリカが追随し、アフリカ、アジア、オーストラリア、南北アメリカの先住民族有色人種は、次々と征服され植民地と化しアジアの大国インドもイギリスに屈した。残る唯一の植民地候補中国満州朝鮮台湾日本を、これら宗主国は虎視眈々と狙っていた。

 一方共産国ソ連の独裁者スターリンは下記のように、ソビエト社会主義共和国という美名の下に次々と各国を侵略し凶産化していた。

1922年 ウクライナ・白ロシア・ザカフカス・ロシアの4ヶ国凶産化。

1924年 大正13(1924)年にはモンゴルを侵略し征服赤化。「蒙古人民共和国」と凶産化。

1924年 ウズベク・トルクメンの2ヶ国凶産化。

1929年 タジクの1ヶ国凶産化。

1936年 アゼルバイジャン・アルメニア・グルジア・カザフ・キルギスの5ヶ国凶産化。

1940年 カレロ=フイン・エストニア・モルダビア・ラトピア・リトアニアの5ヶ国凶産化。わずか18年間で合計18ヶ国が侵略され凶産化されていた。

1035(昭和10年)中国共産党日本に宣戦布告 1935年のソ連コミンテルン第七回大会で、反ファシスト人民統一戦線方式が打ち出された。その結果、抗日救国のため全国同胞に告ぐるの書」が発せられた。

1937年7月7日 ソ連も欧米と同様に侵略の歴史を重ねていた。残る唯一の植民地候補中国満州朝鮮台湾日本を、ソ連の独裁者スターリンも虎視眈々と狙っていた。

大東亜戦争はローマ法王のピオ11世が喝破したようにアジアと、侵略者凶産党との反共戦争でもあった。北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれた。凶産主義食民治主義中国、植民地化作戦「八・一宣言」の開始であり、日本軍の反共戦争の開始である。シナ事変の始まりである。

 ローマ法王のピオ11世は反共戦争(支那事変、日華事変、日中戦争)(1937年7月7日)が始まった年の10月に、全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、次のようなメッセージを出している。

「日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。凶産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよと」

1938年12月 1937(昭和12年)年7月に勃発した支那事変の推移は、1938年12月までには、首都南京はじめ、主要貿易都市、工業都市を日本が押さえたことにより、中国独自では継戦は不可能な状態となっていた。従って、日中関係の和平が回復してもおかしくないのだが、それがそうならなかった、米・ソが「対日戦継続を条件」に武器・資金援助を行ったからである。

対中国への食民治主義と凶産党の支援

 米国1927~1941.4億2000万ドルの援助。1941開戦後に17億3000万ドル援助。英国1939~1940.2000万ポンドの借款。ソ連1億5000万ドルの援助。その他数回援助。フランス1938年1億5000万フランの借款。1939年96000万フランの援助(蒋介石支援ルートへの援助)。日本は反共戦争。食民治主義と凶産党は中国に隠れ、寄ってたかっての日本(有色人種)潰し、食民治化が真相なのだ。

 

19381220日  汪兆銘、重慶を脱出しハノイへ。汪兆銘とその夫人や 汪兆銘、陳公博、周仏海ら「汪兆銘」派同志たちを、日本と交戦中である蒋介石の重慶から飛行機に乗せ、仏印のハノイへ脱出させた。(影佐禎昭大佐工作成功)汪兆銘政権樹立の立役者・影佐禎昭大佐(かげささだあき)。

 汪兆銘、字は精衛。1938年国民党副総裁。副総裁の座を捨て近衛三原則に呼応し、反共親日を唱え重慶を脱出しハノイ経由で南京入りした。法政大学卒で孫文の側近汪兆銘は、共産党ではなく実体は、孫文が忌み嫌う西洋覇道の鷹犬、覇道文化凶産党に、孫文主義から逸脱した覇道文化蒋介石に気付いたのだ。孫文の筆頭後継者が、凶産覇道蒋介石の正体に気付いたのだ。孫文が早死にしなければ歴史は確実に変わっていた。重慶脱出の際、汪兆銘は蒋介石に、「君は安易な道を行け、吾は苦難の道を行く」と書き残したという。中国の国民の幸せのために、売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。孫文の誤謬「容共』を訂正し、孫文主義完成のため「反共親日」に賭けた。孫文の筆頭後継者としての使命完遂に賭けたのだ。 

 中日戦争の見通しは明るくない。中国を救うには日本との和平しかないと自分は考えており、近く重慶を出て、別の地から和平工作を手がけるつもりだ。どこに抜け出そうと、戦争している相手国と和平ルートをつくる役割は、周囲から非難中傷を受けるのみならず、危険も伴うに違いな い。しかし、自分が身を捨てる覚悟でやり遂げるつもり だ。はじめ非占領地区(四川か雲南)に支持勢力を結集して反蒋政権を樹立し、日本との和平交渉をまとめようとした。

1939年9月1日 ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦開始。

194030日  汪兆銘(南京)政府成立。「和平反共救国」を唱える汪兆銘を首班とした「中華民国国民政府」。日中戦争の後半は、明らかに日本が支援する南京政府(反共で孫文の正当な後継者汪兆銘)、食民治主義凶産主義米英仏蘭ソが支援する重慶政府(宗主国とソ連の傀儡蒋介石)、凶産主義ソ連が支援する延安政府(凶産党毛沢東)の三つ巴の内戦となった。その中で日本は重慶(蒋介石)に対しても、内戦の早期終結と、「日中共同防共」の希望を捨てなかった。
極東共栄圏樹立に尽力「アメリカ人の鑑・日本」ヘレン・ミアーズ著
第三章の1「蒋介石のオーストラリア人顧問W・H・ドナルドが、ルソンの日本の抑留所から解放された後の記者会見によれば、日本軍は938年から1940年に至までの時期に、『十二回講和提案1937年7月からの船津工作、1939年末からの桐工作等である)』を行ったとのことである。ドナルド氏の略述したところによれば、日本側の条件は、中国に有利だった。日本軍はただ、満州国の独立承認、北支におけるある種の経済的及び開発権益、及び「外蒙からのソ連勢力の拡張防止のため、内蒙の政治的調整」を要求したに過ぎなかった。ドナルド氏の言によれば日本は『これらの提案の中で、何ら領土的要求はしなかった』」

1940年6月22日 フランスがナチス・ドイツに降伏。

1940 蒋介石の指令でシェンノートはアメリカに帰国し、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、募集した。アメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で集められた。(American Volunteer Group,)略してAVGと呼ばれた。中国名「飛虎」。「フライングタイガーズ」は、日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった、と六日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。(1991年7月8日, 読売新聞)。

1940年9月 蒋介石軍への米英の援助ルート封鎖するため仏領印度シナ進駐。ドイツに降伏したフランスのビーシー政府に交渉し、日本軍北部占領。英国に迫ってビルマルートを閉鎖させることに成功した。これに対して、日中間の和平をのぞまない米国のルーズベルトは、英国の対日妥協を10月に撤回させて援蒋ルートを再開させ、また日本に対して鉄・くず鉄に関する実質的輸出禁止措置をとった。

1940月 日独伊三国同盟。1936年11月25日の日独防共協定(正式には共産インターナショナルに対する日独協定。対コミンテルンの対抗措置を定め、秘密付属協定でソ連を仮想敵国とした反ソ反共協定)、翌年1937年11月イタリヤも参加の日独伊防共協定が原点。付け焼刃などではなく、敵の敵は味方の同盟。

『臣』東條英機就任開戦1年前からの年表

1940年日本の主要物資の輸入先

○・鉄類  ①アメリカ69,9% ②中国15,6%(注・米、中、合計で85,5%) ③インド7,5% ④その他7,0%

○・石油  ①アメリカ76,7% ②オランダ領インドネシア14,5%(注・米蘭合計で91,2%) ③その他8,8%

○・機械類 ①アメリカ66,2% ②ドイツ24,9% ③その他8,9%

主要な輸入国を相手に戦争をするのは自殺と同じだ。

 

 凶産主義の傀儡毛沢東、食民治主義の傀儡蒋介石との反共戦争(日中戦争)を日本が支援する南京政府(反共で孫文の正当な後継者汪兆銘)と共に継続中で、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていた。その状況下で更に英米蘭などの大国を相手に、新たな戦争を始めなければならない動機など、日本には皆無。日本が戦争を仕掛けたのではなく、仕掛けられたのは明白な事実だ。明らかに米(侵略植民地化)(侵略植民地化)(侵略植民地化)(侵略狂惨化)(侵略狂惨化)側に戦争の意図や動機があった。

 

1941年昭和16年1月には銅、亜鉛、ニッケル、1月にはラジウム、ウラニウムの禁輸に踏み切るなどアメリカは、対日禁輸を真綿で首を締めるようにじわじわと進めたのである。

1941年3月14日 ルーズベルトの歴史認識よりも、野村駐米大使の歴史認識が正しかったことを示す、ルーズベルト大統領との会談。

 野村は、ルーズベルト大統領に対して、日米の戦争がいかに米国にとって不利かを話した。曰く、「太平洋の戦いで、米国が勝利しても、日本という極東の安定勢力を失い、ソ連の脅威が増すことになる。その結果、満州国を含む、支那及び極東全体が社会主義化してしまう。従って、米国にとって、太平洋における日本との戦争は、非常に不幸になる」というのである。

ルーズベルト大統領の反論。

 「日本が中国を永久に統治できるとは信じていない。ヒトラーは、明らかに世界制覇をしようとしている。日本政府が示している新秩序政策とあわせると、米国は決して容認できない」

 ルーズベルト大統領の共産主義に対する、あきれた認識。

 「中国は統一に向かっており、八路軍に従事している米国武官の報告では、この軍隊は、共産的ではない、それ故、中国が共産化することはない」

1941年月4月13日 日ソ中立条約。有効期間は5年であった。

1941年月6月 ドイツ、ソ連侵略開始。

1941年7月昭和16年 日本米英の(蒋介石政権)援助ルート封鎖するため、サイゴンなどに基地設定。仏領印度シナ南部占領。

1941年7月25日~8月1日 アジアにおける植民地支配体制の維持に障害となる日本の叩き潰しを図り、日米開戦の四ヶ月前の昭和十六年七月二十五日から八月一日にかけて、産業必需品である石油、錫、ゴム、鉄材などの対日禁輸をおこなうと共に、日本の在外資産一億三千万ドルを凍結した。英国、オランダも追随して共謀、経済封鎖を実施。

1941年8月1日 米国の大統領ルーズベルトは八月一日に英国、オランダと協力して石油など戦略物資の対日輸出禁止の追い打ちを掛け、しかも南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。当時の日本の石油自給率は5パーセント、95パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、存亡の危機に見舞われた。開戦前年の昭和十五年の石油製品の需要は年間五百六万キロリットルなので、当時の石油備蓄量からは一年前後で在庫がゼロになる事態が予想された。ABCDライン。

1941年昭和16年9月6日 御前会議の席上、政府(近衛内閣)と大本営が対米英戦争決意の下に戦争準備を進めるという内容の「帝國國策遂行要領」を決定した。

 「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。戦って死中に活を見いだし護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう」。

戦わざれば亡国、
 戦国時代である。中国、南京、満州、朝鮮は、英米仏蘭ソの争奪戦場となり分割。日本も、再度の資源封鎖で壊滅し、分割資源なき小国日本は、再び包囲されて餓死か、降伏して奴隷ドイツは英仏のWW1停戦約束不履行で、80万人以上の餓死者(ほとんどが老人女子供)となった(WW2起因)。弱肉強食時代の戦わずは、無条件降伏で、奪われても犯されても殺されても従うこと。(終戦時の韓国、ソ連の侵略を想起せよ・・・あれが現実の世界だ)。ハルノートによる戦わずの降伏は、台湾朝鮮満州南京汪兆銘への裏切り、未来永劫子孫の汚名となり、選択は不可。ソ中凶産合体阻止防共戦争日本が、敗戦で撤退するや否や即座にソ中凶産合体し、南京満州朝鮮と攻め入ったのが、厳然たる証拠である!戦わざれば、ソ中凶産や英米仏蘭餌食で、日本国は消滅していた!

戦うもまた亡国
 世界の超大国米英仏蘭中ソが相手では、必滅。

であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。
 不屈の抵抗の歴史を子孫に残し、国名が消滅してもポーランドは復活した。抵抗もせず降伏すれば、屈辱、屈伏の歴史は隠蔽され、抵抗の歴史は無きものと成る。さらに、征服者に洗脳され愚民化された抵抗の歴史無き子孫は、二度と立ち上がることなどなく、日本は消え、食民治と化し、正に、日本民族永遠の亡国となる。(南北アメリカの先住民族、・・・あれが現実の世界だ)

戦って死中に活を見いだし
 戦うもまた亡国かもしれないが、戦って一縷の望みに挑戦し、資源封鎖で絶えず迫る、独占貿易の宗主国を、アジアから永遠に排除しなければ、資源無き小国日本の、未来は無い。独占貿易の食民治主義共産主義と戦い、アジアから追放すれば、一縷の望み(自由貿易を旗印に団結、大東亜共栄圏を成し、対峙)が生まれる。たとえ敗れても、大東亜共栄圏が覚醒し独立すれば、独占貿易は破壊され、自由貿易の世となり、資源無き小国日本に、一縷の望み生まれる。敗れても、同胞が覚醒し追随するような、

護国の精神に徹するならば、
 勝者に隠蔽されないような、子孫を守るための必死な姿、生きざま、戦いざま、死にざまさえ残せば

たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう。
 たとえ占領され食民治にされ征服者に愚民化されても、残した挑戦の心や生きざま、戦いざま、死にざまを想起し、必ずや子孫は覚醒し、再び独立し、日本は復活する。我々はただの戦いではなく、子孫が必ずや想起し、覚醒復活するような、勝者に隠蔽されない、史上比類なき戦いを、残す。子孫のために。

 永野修身個人の発言だけではなく、出席者全員のほとばしる総意が集まり成したのだろう、大同小異の資料が物語っている。子孫へのほとばしるおもい「最適者生存」は深く重い。当事の指導者、苦渋の決断が滲んだ言葉だ。・・・ここには侵略者の影など微塵もない。あるのは、子孫への思い、適者生存、唯一つ

 日本開国当時、独立国は日本タイ(英仏の緩衝独立国)のみ!これで一般常識人完全氷解し、職責者文系授の「善悪史観」など、論外となる。
 
太平洋(白色対有色)戦争
 前門の敵(ソ中凶産主義傀儡毛沢東と欧米列強食民治主義傀儡蒋介石)と交戦(反共戦争)中に、後門の敵(食民治主義の欧米列強)が宣戦布告(ABCD通牒)し、日本(最後の有色人独立国)壊滅を謀った、白人による有色人国家殲滅戦争!

大東亜(有色人自存自衛蜂起)戦争
日本の自存自衛戦争!


1941年昭和16年9月27日 日、独、伊の三国同盟が成立し三国との戦争が予想される事態になると、米国の戦略は国ごとの戦争計画を一色で表すのを止めにし(オレンジ計画)、新たな戦争計画を「レインボー5」と名付けた。「レインボー5」とは、日米開戦の場合に取るべき米国の作戦はアメリカ艦隊により日本周辺の海上封鎖をおこない、海外からの物資の輸入を絶ち、沖縄を占領し、空襲により日本国内の生産設備を破壊して継戦能力を失わせ、本土を孤立させて降伏させるという、島国日本攻略の常套作戦、兵糧攻めであった。そのための布石として米国はハワイとフィリピンのマニラ(スービック湾)に海軍基地を建設し、海軍力の増強を図った。

1941年昭和16年10月17日

東條中将が内閣総理大臣兼陸軍大臣兼内務大臣に任ぜられるのは、昭和16年10月18日だが、本人はその直前まで自分が首相となることなど予想もしていなかった。東條英機はなりたくて首相になったのではないのだ。

昭和16年10月17日、東條中将は皇居に参内する前、かつ子夫人に対して、「今日、首を言い渡されるだろう」と告げて家を出た。しかし、参内した東條中将は組閣の大命を受けたのだ。降って湧いたような組閣の大命を拝して、ことの意外さにその場でしばし茫然となり立ち尽くし、絶句していると、天皇は「暫く余裕を与える。及川(海軍大臣)ともよく相談するように…」と言われたため、東条は辞退できない宿命を感じたと言う。

参内を終えて陸相官邸に戻ってからも東條中将の顔は緊張でこわばり、蒼白となっていたという。佐藤賢了大佐(陸軍省軍務局軍事課長)は証言している。(「東條英機と太平洋戦争」文藝春秋昭和35年)

 近衛前首相は内閣の後継首班として、東久邇宮殿下を推したい考えであり、東條陸軍大臣もその意向に賛成していた。しかし、天皇の側近木戸幸一内大臣は、天皇の意向もあり、皇族が戦争の決定を下さなければならなくなることを恐れ、皇族による組閣に反対した。結果、木戸内大臣が東條中将を総理大臣に推した。木戸内大臣から東條中将による組閣の案を聞いた天皇陛下は、「虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということだね」と答えられたという。

このとき天皇陛下は、東條中将に対し、木戸内大臣を介していわゆる「白紙還元の御諚」を命じた。この「白紙還元」とは何のことかと言うと、昭和16年9月6日の御前会議の席上、政府(近衛内閣)と大本営が対米英戦争決意の下に戦争準備を進めるという内容の「帝國國策遂行要領」を決定したことについて、これを無かったことにして戦争回避に努めよという意味である。皇居からの帰途、陸軍省に立ち寄った東條中将は、その旨をふれて廻った。

1941年昭和16年10月18日白紙還元の御諚。

1941年昭和16年10月18日39代首相近衞文麿退陣。

1941年昭和16年10月18日40代首相東條英機就任。

東條中将は陸軍大将に昇進し、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼内務大臣となり、東條首相は陸相時代の強硬な「主戦派」から一転して「交渉派」に変わり、「日米不戦」の天皇の御意志を尊重し努力を重ねた。

ところが、参謀本部戦争指導班の「大本営機密戦争日誌」には「東條陸相が総理となるや、お上をうんぬんして決心を変更し、近衛と同様の態度をとるとはそもそも如何、東條陸相に節操ありや否や」等の記述があり、天皇陛下やその意を受けた東條首相の意志や努力に反して陸軍も海軍も開戦に躍起になっていた。

また、開戦に向かって突き進んでいたのは軍だけでは無かった。朝日毎日などのマスコミは、毎日威勢のいい記事を書き続け、国民の好戦意識を煽っていた。更に、帝國議会でさえ、ある代議士が「政府は何をはばかりおそれているのか?一日も早く開戦せよ」と主張するなど、天皇陛下や東條首相の意図に反して、全体的に国を挙げて戦争へ突き進んでいく風潮であった。3につづく ⇒

真実史観3東條英機真実現代平和の基因食民治独立付与宣言の起因大東亜会議

1941年昭和16年11月5日 東條首相は天皇陛下のご真意を反映して再度交渉のため、来栖三郎特使をアメリカに派遣し開戦回避に努力した。

1941年昭和16年11月7日 開戦を回避すべくぎりぎりの条件を提示して、日米交渉の妥結を願って出した条件甲案は拒絶された。

1、日支に和平が成立した暁には支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。

2、支那事変が解決した暁には「仏印」に駐留している兵を撤兵させる。

3、通商無差別待遇が全世界に適用されるなら太平洋全域とシナに対してもこれを認める。

4、日独伊三国同盟への干渉は認めない。

1941年昭和16年11月20日 日米交渉の妥結を願って出した条件、経済封鎖を解き、石油等の物資が安定供給されれば、日本は南方に進出する必要性は無くなる、それに伴い、日本は南方からの全面撤退に応じるという内容の、乙案も拒絶された。

1、蘭印での物資獲得が保障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する。

2、更にシナ事変が解決した暁には仏印全土から撤兵する。

1941年昭和16年11月26日 妥協案をすべて拒絶し服従を要求して、ハル国務長官は、最後通牒である「ハル・ノート」を日本に手渡した。

「ハル・ノート」(概要)

1・日本軍の支那・仏印からの無条件撤兵、

2・支那における重慶政権(蒋介石)以外の政府・政権の否定(日本と南京国民政府=汪兆銘政権の対反共戦争を停止し、汪兆銘政権を裏切り見殺しにする)ハルノートによる戦わずの降伏は、台湾朝鮮満州南京汪兆銘への裏切りで、未来永劫の子孫の汚名となり、選択は不可能。

3・日独伊三国同盟破棄(伊独両国との同盟を一方的に解消)。

 日本に対して、開国(明治維新1868年)以来、先人が弱肉強食の時代を乗り切るため、血を流して護国のため戦い、営々と築いてきた、大陸における日本護国の生命線を全て放棄しろと、言ってきたのだ。これは、アメリカに対して、侵略し王国を滅ぼして併合したハワイや、ロシアから買ったアラスカ、更にメキシコを侵略して奪ったカリフォルニア、ニューメキシコ、テキサス等の諸州を全て放棄し、建国当初の東部十三州に戻れ、と言っている様なものなのだ。弱肉強食の時代を乗り切るための日本護国の生命線を放棄。こんな亡国服従要求は、到底受け入れられるものではない。応ずれば、確実に弱体化、戦うことなく資源経済封鎖されて確実に亡国である。

 これだけのことを一方的に要求だけして、一言も、「資源封鎖の解除」には触れていない。「ハル・ノート」に従えば、ただ話し合いに応ずると言うことだけなのだ。ハル・ノートには日本が回答すべき期限は定められていないので、最後通牒とみなす必要はなかったという愚論がある。資源封鎖下でなにもせず坐すれば坐するほど、確実に亡国なのは、誰の目にも明白だ。こんなものを受諾する国家など、どこにもない。表で中立を装い、裏で中国を支援し、経済封鎖し、挙句の果てに亡国服従要求のハルノートをつきつけておきながらルーズベルトは、真珠湾を宣戦布告なしの不意打ち攻撃、リメンバー・パールハーバーだという。開戦を予知していなかったと言う?本当なら、なんと暗愚な大統領だ。経済封鎖し、「このハル・ノート(最後通諜)のような苛酷な要求を突きつけられたならば、モナコ公国やルクセンブルグ大公国といった、極小国でさえも、アメリカに銃を執って立ち上がるだろう。」インドのパール判事やアメリカのベンブルース・ブレークニー弁護人の証言。経済封鎖し、かつハルノートは、誰が見ても宣戦布告書なのだ。

東條内閣の海軍大臣嶋田繁大郎。東京裁判の被告として証言。

 ・・・十一月二十六日、ハル・ノートを突きつけられるまで、政府、統帥部中、誰一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった。日本が四年間にわたって継続し、しかも有利に終結する見込みのない日支事変で、手一杯なことを政府を軍部も知りすぎるほど知っていた。天皇は会議のたびに、交渉の成り行きを心から憂いていた。そして、第二次近衛内閣も東條内閣も平和交渉に努力せよという天皇の聖旨を体して任命され、政府の使命は日米交渉を調整することにかかっていた・・・

 ・・・それはまさに青天の霹靂であった。アメリカにおいて日本の譲歩がいかなるものにせよ、私はそれを戦争回避のための真剣な努力と解し、かつアメリカもこれに対し歩み寄りを示し、もって全局が収拾されんことを祈っていた。しかるにこのアメリカの回答は、頑強不届にして、冷酷的なものであった。それは、われわれの示した交渉への真剣な努力は少しも認めていなかった。ハル・ノートの受諾を主張した者は、政府内にも統帥部内部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、その通告はわが国の存立をおぴやかす一種の最後通牒であると解せられた。この通牒を受諾することは、日本の敗退に等しいというのが全般的意見だった・・・(富士信夫『日本はこうして侵略国にされた』)ハル国務長官は昭和20(1945)年ノーベル平和賞受賞。大江のーベル文学賞も同類。

1941年昭和16年12月1日 昭和16年12月1日の御前会議でやむをえず開戦を決定。

1941年昭和16年12月6日 開戦前々日にあたる昭和16年12月6日の深夜、夫人が首相官邸で垣間見た東條英機は、布団の上に正座し、皇居に向かい泣いていたという。

1941年昭和16年12月8日(ハワイ現地日時12月7日)1941年12月7日真珠湾入り口で雑役補給艦アンタレスが国籍不明の小型潜航艇を発見し、米海軍駆逐艦ウォード(1200トン)に連絡、午前6時3分には哨戒機が発煙弾を投下して、潜水艦の所在を教えている。4インチ砲で砲撃し、航空機が爆雷攻撃して午前6時45分撃沈。大東亜戦争最初の交戦である。

1941年12月8日(ハワイ現地日時12月7日)真珠湾空襲開始現地時間1941年12月7日午前7時55分(日本時間1941年12月8日午前2時55分)最初の交戦から約2時間後である。なぜか迎撃皆無の奇襲攻撃となった。

日本軍の空襲2時間以上も前に発見され、撃沈報告された記録も証言も存在するのに、真珠湾アメリカ艦隊にルーズベルトはシークレット事項とし、報告も、警戒警報も発しなかった。小型潜航艇と確認されているので、当然母艦の存在を調査し警戒にあたるのが常道なのに何もしていない。結果日本の奇襲攻撃となった。真珠湾犠牲者2300名、負傷者1200名、真珠湾アメリカ艦隊はルーズベルトによって、対独戦、対日戦参戦のための生け贄にされた。

 大東亜戦争開戦。当時日本は石油備蓄量がたったの2年分しかなかった。日本は石油の枯渇、外貨の支払い不能となり、座して死を待つよりも、国家生存の可能性に賭け戦争に打って出た。独占貿易で日本を追い詰めた宗主国を追放し、アジアを解放し、貿易を自由化して資源得るために、服従を拒絶し自由を求めて立ち上がった。

 侵略戦争だったと、のたまう愚者がいる。アジア侵略戦争であれば、対米英蘭中ソ、プラス対全アジア戦争となり、まさしく勝者の術の無い完全な自殺戦争となる。こんな選択をする愚者は古今東西絶無。食民治主義凶産主義対日本では必滅なので、大東亜各国の助力を得て、独占貿易の宗主国を追放し、自由貿易で互いに資源確保。独立国家自由貿易圏として団結し、食民治主義凶産主義と対峙すれば、一縷の望みが生まれる。食民治主義凶産主義追放目的の、大東亜団結戦争にしたかったのだ。常識で考えれば誰でも理解できることなのだ。

 

〇大東亜戦争開戦の詔書(宣戦布告書・相手国への宣戦通告書ではなく、第三国や国民に向けた布告の書)真実史観意訳。 昭和16(1941)年12月8日※相手国へ告げ知らせることが宣戦通告で、第三国国民一般に知らせることが宣戦布告。一般的には両方の概念を合わせて『宣戦布告』と記述している。

詔書 

天のご加護を有し、万世一系の皇位を継承する大日本帝国天皇は、忠誠勇武なる汝国民に明示す。

私はここに、米国及び英国に対して戦いを宣言する。陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、すべての政府関係者は務めに励んで職務に奉行し、国民は各々その本分を尽くし、万民の心をひとつにして国家の総力を挙げて、敵地で戦うこの戦争の目的を達成するために、手違いのないように期せよ。

そもそも、東亜の安定を確保し、もって世界の平和に寄与するは、偉大なる明治天皇、偉大さを受け継がれた大正天皇が述べられたことで、遠大な構想として、私がいつも心がけている事である。

そうして各国との親交を深め、万国の共栄の楽しみを共にするは、これまた帝国が常に国交の要点と成すところなり。今や、不幸にして米英両国と交戦の扉を開くに至る。まことに止むを得ざるものあり。なんで交戦が私の本意であろうか。

中華民国政府は以前より我が帝国の真意を解せず、思慮も無く事を構えて東亜の平和をかく乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、ここに四年有余を経たり。さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣のよしみを結び、あい提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の助けを当てにし、兄弟の南京政府と、尚いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。

米英両国は、残存する蒋介石政権を支援して、東亜の乱れを助長し、平和の美名に隠れて、東洋制覇の野望を遂げようとしている。そのうえさらに、帝国の同盟国を誘い、帝国の周辺において、戦備を増強して我が国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、遂に経済断交をあえてし、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。(筆者注・1941年月4月13日有効期間5年の日ソ中立条約締結しているので、ソ連狂惨党の名指しはないが、合作した中国国民党と共産党、支援国家米英仏ソとは、1937年9月国共合作②以後日本の反共戦争となり、交戦していた。

私は、政府をして事態を平和の内に回復せしめんとし、忍耐久しきにわたりたるも、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、いたずらに時局の解決を引き伸ばし、この間、かえって益々経済上軍事上の脅威を増大し、それによって我が国を屈従せしめんとす。

かくの如くにして、このまま続けば、東亜安定に関する帝国積年の努力は、ことごとく水泡に帰し、帝国の存立、また正に危機にひんせり。事すでにここに至る帝国は、今や自存自衛の為、蹶然「けつぜん(地を蹴って立ち上がる)」と起(た)って、一切の障礙「しょうげ(障害)」を破砕する以外に道はない。

天皇歴代の祖先のたましい上に在り、私は汝国民の忠誠勇武を信頼し頼りとなし、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根を刈り取り、東亜永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄を保全せんことを期す。

 

御 名 御 璽〔筆者注・御名「ぎょめい(天皇の名)」御璽「ぎょじ(天皇の印)〕 

   平成十六年十二月八日

                      各国務大臣副書

 

日本蜂起大東亜戦争開戦真実の詩「危急の日に」高村光太郎

 WGIPが形容する戦争讃歌詩などではない、開戦の真実を明白に語る昭和16年12月8日読売新聞夕刊1面高村光太郎59歳の悲愴詩。どうしてこれが戦争讃歌詩なのだ、64年間の仮想現実界の無検証無道理には驚くばかりだ。経済封鎖での降伏要求、日本蜂起で宗主国を追放し大東亜諸民族の独立、日本と諸民族団結、そして宗主国との対峙。軍民一丸蜂起の思いを語って、余りある。真実史観訳

 

危急「ききゅう(危険が迫る)」の日に

高村光太郎

「此日天気晴朗なれども波高し」とあの小さな三笠艦が曾て「かつて(以前に)」報じた。

波大いに高からんとするはいづくぞ。(日本を侵略せんとするは、どこぞ)

いま神明「しんめい(神のように明らかな徳)」の気(生命の活力の源)はわれら(日本)の天と海とに満ちる。

われ(日本)は義(道理)と生命(軍民一丸共生共死)とに立ち、かれ(侵略者)は利(利益)に立つ。

われ(日本)は義(道理)を護るといひ、かれ(侵略者)は利(利益)の侵略といふ。

出る杭を打たんとするは彼「ひ(侵略者)」にして、東亜の大家族(大東亜共栄圏)をつくらんとするは我(日本)なり。

有色の者何するものぞ(何も出来まい)と彼「ひ(侵略者)」の内心は叫ぶ。

有色(有色人種)の者いまだ悉く「ことごとく(皆)」目さめず(未だに食民治のままである)、憫む「あわれむ(気の毒に思う)」べし。

「ひ(侵略者)」の願(利益の侵略)使に甘んじて(行使に満足して)共に(英米蘭)(日本)を窮地に追はんとす。

力を用いるはわれの悲しみなり。

悲愴「ひそう(悲しくいたましい)」堪へがたくして(耐える事ができず)、いま神明の気はわれらの天と海とに満ちる。

 

「終戦から7年後の昭和27(1952)年に日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時のほとんどの成人四千万人が署名。翌28年に戦犯の赦免に関する決議が国会でなされ、社会党や共産党まで含めて、一人の反対もなく決議された」

軍民一丸の心情は戦前も戦後も一貫して揺るぎが無い。虐げられし世界の同胞も、揺ぎ無く遺志を継ぎ、戦後15(1960)年植民地独立付与宣言。開闢以来の戦国時代弱肉強食を破壊し、現代の平和を築いた。日本の仮想現実界だけが戦後真逆に変化し、64年経ても未だに亡国工作活動である。

 

1942年8月6日 「フランクリン・ルーズベルトの陰謀」 

1942年八月六日、ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した駐米公使のロナルド・キャンベルがルーズベルトから「劣等アジア人種」の「品種改良」というとんでもない提案を受けたと、書き残している。イギリスの外務次官アレキサンダー・カドガンに送った1942年8月6日付けの報告書。

 「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人(白人より二千年も遅れた頭がい骨をもつ)は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる。・・・日本人の頭蓋骨を劣等性の根拠として大統領がスミソニアン博物館の教授に研究させている・・・」 「ルーズベルト秘録」扶桑社文庫下巻

1943年7月タイへ旧領地返還 昭和18年7月に東条首相はバンコックを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタイに戻した。タイ国民は躍り上がって喜んだ。

1943年8月1日 ビルマ独立。

1943年9月3日 イタリア降伏。

1943年10月14日 フィリッピン独立。

1943年10月30日 中国との不平等条約を撤廃し、対等の関係にした。

NHKや工作員が、傀儡国家南京政府、「漢奸」汪兆銘と罵り隠蔽した真実。

汪兆銘大東亜会議にての発言

「本年1月以来日本は中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、殊に最近に至り日華同盟条約をもって日華基本条約に代え、同時に各種付属文書を一切破棄されたのであります。国父孫先生が提唱せられました大東亜主義はすでに光明を発見したのであります。国父孫先生が日本に対し切望しましたところの中国を扶け不平等条約を破棄するということも、既に実現せられたのであります」

1943年11月5日 大東亜会議。

 1943年11月6日、占領地域の協力体制強化のための会議が東京で開催。日本(東條英機首相)、満州(国務総理帳恵景)、中国(南京政府代表汪兆銘)、タイ(ワンワイタヤコン首相代行)、自由インド仮政府代表(チャンドラー・ボース主席)、フィリピン(ラウレル大統領)、ビルマ(バモー大統領)が出席。共存共栄・自主独立を尊重・伝統を尊重・互恵提携・人種差別を撤廃・資源の開放(貿易の自由化)などを定めた「大東亜共同宣言」を採択した。AU(Asia Union)(アジア連合)を目指したのだ。

大東亜共同宣言

「抑(そもそ)も世界各国が各(おのおの)其の所を得相倚(あいよ)り相扶(あひたす)けて万邦「ばんぽう(万国)」共栄の楽を偕(とも)にするは世界平和確立の根本要義なり。

 然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞(たくま)しうし遂には大東亜の安定を根底より覆(くつがへ)さんとせり。

 大東亜戦争の原因茲(ここ)に存す。

 大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏「しっこく(手かせ足かせ)」より解放して其の自存自衛を全(まっと)うし左の綱領に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。

 

一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す

一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す

一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚「こうよう(高める)」す

一、大東亜各国は互恵「ごけい(相互に図りあうこと)」の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す

一、大東亜各国は万邦との交誼「こうぎ(親しい交わりを)」篤(あつ)うし人種差別を撤廃し普(あまね)く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運「しんうん(進歩)」に貢献す」

 

 大東亜共同宣言は、東條大将が手帳「修養録」に記載し、常に軍服の上衣の物入れ(ポケット)に入れて、肌身離さず持ち歩いていた。

 米英は飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化。日本は大東亜の解放・人種差別を撤廃・進んで資源を開放(貿易の自由化)しと、戦争目的を明確に明記している。戦後の戦勝国迎合識者の教育は売国し、ここを抹殺し、極悪日本軍、極悪軍隊として執拗に洗脳した。原爆投下したアメリカや戦勝国に罪は無く、原爆を落とされるような悪いことを日本軍がしたから、原爆を落とされたと、捏造の歴史を日本に刷り込ませるために、執拗に洗脳したのだ。

 侵略戦争だったと、のたまう愚者がいる。侵略であれば、米英蘭中プラス全アジア戦争となり、まさしく勝者のすべの無い完全な自殺戦争となる。こんな選択をする愚者は古今東西絶無。日本勝利の唯一の作戦、宗主国対日本では必滅なので、植民地を解放し、大東亜各国の助力得て、宗主国対大東亜共同体独立戦争にすることであった。武運つたなく日本は敗れたが、大東亜各国は皆立ち上がり、独立した。日本軍や、東條英機が、大東亜解放の殉難者として祭られ、宗主国対旧植民地の対立へ拡大し、WW3になることを、宗主国やアメリカは極度に恐れた。結果、侵略者宗主国やアメリカを払拭し隠蔽するため、日本軍や、東條英機を侵略者に仕立て上げ、自らを解放者に捏造した。自身を解放者に捏造したいじょう、独立を認めざるを得なかった。こうして資源封鎖する宗主国は撤退した。大東亜共同宣言が宗主国を畏怖させ、独立をすみやかにうながしたのだ。常識で考えれば誰でも理解できることなのだ。

 

1944(昭和19)年3~9月 インパール作戦(インドの独立戦争)

 この作戦は色々批判もあるが、日本の本意を世界に示した戦いであった。この作戦が無ければインドの独立もなかったし、アジアの独立も無かった。先人が流した赤心の血適者生存の心(大東亜団結戦争、大東亜の適者生存、ひいては日本のために戦った)が、インドの独立アジアの独立をうながしたのだ。さらにこの流した赤心の血(適者生存の心)は現代の世界の史家や、かっての敵将の覚醒をもうながし宗主国撤退の起因となった。皆この作戦より、日本の本意にたどり着いている。

 

 ネルーもガンジーもラダ・ビノード・パールも、インパール作戦以後翻意している。NHKや朝日などの工作員は、インパール作戦以前のこの方々の反日証言を針小棒大に報道している。なぜ翻意したか、インド独立のため、ひいては日本のための比類なき適者生存護国の戦いざまを、目の当たりにしたからである。

  昭和19(1944)年3月、日本陸軍(牟田口廉也第十五軍司令官)とインド国民軍の合わせて十万の将兵が、アラカン山脈を越えて進撃を開始し、一時はコヒマを占領しインパールの周辺まで突入したが、弾薬、食糧の補給が途絶し、飢餓と悪疫が重なって撤退を余儀なくされた。

 

 インパールの山野は「白骨街道」と化し、日本軍の死者は三万、戦病者は七万。インド国民軍は数千人の犠牲者を出した。

 

 元クルガ兵(ネパール人)の証言。我々は世界最強の傭兵だ。第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。インド軍は1日で降参させた。だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。

 

○英軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将

 「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追いつめられたとき、前途に横たわるものは生地獄だった。日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくして敗れた。兵理である。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れた。しかし、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。『すなわちもし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』

日本軍に関する報告書

①日本軍はアアジア諸民族の眼前で、彼らがとてもかなわぬと思っていた 欧米軍を 一挙に爆破した。

②とても独立の意思も能力もないと思っていた植民地民族を戦時中の短期間の組織し訓練し、強烈な愛国心をかきたて、軍事力も行政力も見違えるばかりに変貌させた。いわゆる《metamorphosis(魔術的変化)》を遂げさせた。このことは、当時の連合軍の誰も予想できないことであった。

③日本軍は敗戦すると、連合軍との間に交わされた停戦協定に基づいて、武器は全部連合軍に引き渡すことになっていた。ところが、日本軍はインドネシア軍に『武器が奪われた』と称して巧妙に裏で武器を渡していた。それによって、これまで『猫』のようにおとなしかったインドネシア人が『虎』に変身し、ついに独立を達成したのである。回想記「ビルマ戦線の大逆襲」ルイス・マウントバッテン。4につづく⇒

真実史観4東條英機真実昭和天皇下賜勅語と墓参りと修養録記載告日本国

マウントバッテン司令官ネパール国王の戴冠式パーティの席での皇太子殿下への言葉
 インド独立のための工作をした藤原岩市中佐がインパールへの遺骨収集実現のためインド側と交渉し、昭和50年(1975年)に無事それを実現させ、現地の人々の予想外の協力を得て帰国した。その模様を東宮御所に参上し、皇太子殿下(今上天皇陛下)に報告されたときに皇太子殿下が、マウントバッテン元帥の言葉を仰せになられた。

 「藤原さんの報告を伺って、事の次第が分明いたしました。先月、ネパールの戴冠式に参列した節、パーティの席で、英国首席随員・マウントバッテン元帥が私を捉えて、いとも懇ろに『過ぐる戦争中、私が東亜連合軍総司令官として、印緬戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう』と激賞してくれた」(藤原岩市「進めデリーへ」の反響に想う)

 かっての敵将も、インド独立のため、ひいては日本のために流した日本の赤心の血に、日本の本意を見たのだ。そしてイギリスは宗主国からいち早く撤退した。

 

○アーノルド・トインビー(英国歴史学者)

 「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の汎神でないことを明らかにしたことである。」(1956年10月28日、英紙「オブザーバー」)

 

○ロンドン大学教授のエリック、ホプスバウ

 日本では殆ど知られていないが、インド独立のきっかけも大東亜戦争にあった。英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授のエリック、ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著「過激な世紀」の中で、「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく、日本軍とチャンドラ、ボース率いるインド国民軍(I N A )が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた」と述べている。

1944年7月9日約一ヶ月戦闘後サイパン陥落。米軍日本本土空襲の基地を得た。

1944年7月22日東條英機内閣総辞職。終戦約1年前の昭和19年7月18日東條大将は依頼により参謀総長を免じられ辞職、4日後の昭和19年7月22日には、サイパン陥落等の責任と、重臣工作により内閣総辞職。同日附で免本官並びに免兼官となり辞職、即日予備役編入。予備役で、終戦昭和20年8月15日を迎えた。

 

東條内閣総辞職の際昭和天皇が東條に下賜した異例とも言える勅語

真実史観補筆

 

 卿(東條)参謀總長として至難なる戰局の下、朕「ちん(私)」が帷握「いあく(作戦本部)」の枢機「すうき(かなめ)」に参劃「さんかく(計画の立案に加わる)」し、克「こ(良くできること)」く其任に膺(あた)れり、今其職を解くに臨(のぞ)み、茲(ここ)に卿(東條)の勲績「くんせき(てがら)」と勤勞とを惟(おも)い、朕「ちん(私は)」深く之を嘉「よみ(良いと認める)」す。

 時局は愈ゝ(いよいよ)重大なり、卿(東條)益ゝ(ますます)軍務に精勵「せいれい(つとめはげむ)」し、以「もっ(そして)」て朕「ちん(私)」が倚信「いしん(信用して頼りにする)」に副はむ「そはむ(側にいて助ける)」ことを期「き(約束)」せよ。

昭和十九年七月二十日午前十時二十分 御下賜

東條大将の手帳「修養録」にも記載している。

 

 明治憲法 

「第11条・天皇は陸海軍を統帥す」

「第13条・天皇は戦を宣し和を講じ及び諸般の条約を締結す」

14条・天皇は戒厳を宣告す」 総理大臣に、開戦の権限なし。

 

 東條逮捕時に米軍に接収され、日の目を見なかったが、『毎日新聞』が発見し、1995年3月19日付けの毎日新聞に掲載された。天皇が御前会議で諮問する事はあっても、最終的に戦争を決断し、宣戦を布告するのは天皇の絶対的権限。朕「ちん(私)」が帷握「いあく(作戦本部)」の枢機「すうき(かなめ)」と自分が戦争指導をされた事を認めている。この勅語は東条逮捕の折、GHQ に押収されており、天皇に戦争責任があった事はGHQも熟知していた。東條大将が常に軍服の上衣の物入れ(ポケット)に入れて持ち歩いていた手帳「修養録」にも大東亜共同宣言と共に、記載されている。覚悟の自殺であれば、戦争責任天皇に有りの証拠の品、手帳と共に処分していたはずだ。

 

「昭和天皇のご信認」 昭和天皇の東條観が、木下道雄氏の「側近日誌」にある。

 『東條はそんな(悪い)人間とは思わぬ。彼程朕「ちん(天子の自称)」の意見を直ちに実行に移したものはいない。』

 これに勝る頌詞は無いだろう。

『 木戸幸一日記』

「米国から見れば犯罪人ならんも、我国にとりては功労者なり」

 昭和20年12月10日に記された昭和天皇の言葉。この4日前、天皇から夕食会に招かれた木戸は、戦犯容疑者指定を理由に辞退しようとしたところ、冒頭のように言われたという。また昭和天皇は木戸幸一の葬儀に、勅使を送ろうとしたが、側近に制止されて断念していることも知られている。

2009/07/02 動画 昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言
「昭和天皇独白録」について

1988年、米国ワイオミング州キャスパーでマリコ・テラサキ・ミラーによって発見された、昭和天皇の口述書類。

 同書は、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成・御用掛が昭和天皇の記憶を聞き語りしたもので、その参考書類として「近衛公日記」と迫水久常の手記が添付されている。聞き語りが始まったのは昭和21(1946)年6月1日から、まず張作霖爆殺事件から起稿されている。四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである。この記録を残したのは、当時、昭和天皇の御用掛をつとめていた寺崎英成である。昭和天皇はここできわめてざっくばらんにその時々に感じたこと、また人物月旦評を語っており、きわめて興味深い。

 時の御用掛 寺崎英成は日米開戦まではワシントン日本大使館詰の一等書記官だったが、開戦後夫人(アメリカ人女性グエンドレン・ハロルド)と娘とともに、日本に送還された。終戦後は終戦連絡中央事務局に配属、日本政府と占領軍総司令部との間の連絡業務を担当したが、昭和21年2月に宮内省御用掛となった。寺崎が脳溢血でなくなられて、一家は夫人の故郷アメリカテネシーに帰国した。

 娘のマリコ・テラサキ・ミラーの息子のコール(娘の子供、寺崎氏の孫)が祖父の生涯について興味を抱き遺品を整理しているうちに、この記録を発見したものの、息子も日本語はダメなので、息子の知り合いの大学教授にみてもらい、さらに教授から東京在住の日本現代史研究の権威に転送された。そしてはじめて、この記録が 「歴史資料として稀有なものである」との回答を得た。これを機会に、娘は、この記録が持つ公共性に鑑み、これは我が家が独り占めにしておいてはいけない、公開されるべきものであると考え、1990年12月号「文藝春秋」に全文掲載され公開された。

 しかし、本書を読む上で注意すべき事は、「独白録」が東京裁判で天皇が訴追されないための弁明書であった点である。

 これは本書の英訳版が見つかったことで明かである。そのため、どうしても所々にその意図が現れていることに注意すべきであろう。昭和天皇が自分の戦争責任について『独白録』のような弁解と保身の文書をGHQに提出していたと、揶揄する者もいるが、天皇や護国指導者は逃亡していないのだ。逃亡もせず、敗戦の責任をとっている。揶揄する前にこの人としての重い事実を受けとめるのが先だ。敗戦、逃亡は世の習いなのだ。昭和天皇独白録 

「昭和天皇独白録」
昭和21(1946)年6月1日から、四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである」昭和21年は、日本中が東条叩き真最中で、東条の味方など皆無、しかも昭和天皇自身の処遇未だ定まらず、ましてやGHQ提出文書である。そして5人立会いの聞き書きでもあるこれまでの富田元長官の出自不明のメモや、侍従一人の感想文とは、訳が違う。そして犯日団が無視した事は、語るに落ちている。まさに昭和天皇東条を語る第一級の資料である。

「昭和天皇独白録」東条という人物

 元来東条という人物は、話せばよくわかる、それが圧制家のような評版が立ったのは、本人が忙しすぎる為に、その気持ちが下に伝わらなかった事と憲兵を使いすぎた。東条は一生懸命仕事をやるし、平素云っている事も思慮周密で良い所があつた。「マリアナ」の防備も彼が参謀総長を兼ねてから後に、督促しやっと出来たが、時既に遅かったあの時、非戦闘員の玉砕には極力反対していたが、世間では東条が玉砕させた様に至っている。

・・・田中内閣の苦い経験である。東条を退けても、彼より力のある人物がいないこと、東条が大東亜の各地の人々と接触しているので、之を無視して内閣を更迭すれば、大東亜の人心収拾が出来なくなると考えたからである。

 東条は平沼から云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れ「こんりょうのそでにかくれる(天子の威徳に隠れて勝手なことをする)」るのはいけないと云つて立派に提出したのである。

 私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。「昭和天皇独白録」マリコ・テラサキ・ミラー著文芸春秋

昭和天皇もう一つの「英語版独白録」

 1997年6月に放送されたNHKスペシャル『昭和天皇二つの「独白録」』の内容を中心に書き下ろされた本。「英語版」の原文と翻訳に加えて、元侍従長、稲田周一の「備忘録」が収録されている。フェラーズの日記や書簡など(「フェラーズ文書」)を発見し、その中に「独白録」の英語版とでもいうべきものを探し当てたという功績がある。この本では、その他にもフェラーズの細かな動きを再構成していて、太平洋戦争の後期から占領期にかけての事情がわかりやすく記されている。昭和天皇 二つの「独白録」東野真 / NHK出版 /1998年7月25日

 

殉国七士追悼式に参加して 若狭 和朋氏より抜粋http://www.k3.dion.ne.jp/~sangane/sangane20.htm

昭和天皇の墓参り

 ・・・三ヶ根山の七士の墓の極く近く(700メートルくらい)の山腹に一軒のホテルがある。昭和(1979)五十四年五月二十六日、天皇皇后両陛下はこのホテルに宿泊された。翌日の植樹祭に御出席のためである。植樹祭の行なわれる場所は当時の愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)西山中地内の県有林(現・昭和の森)であった。開会は午前十時であった。三河の首邑は岡崎であり、現地には最も近い。名古屋からも現地は近い。最も遠いのが三ヶ根のホテルである。にもかかわらず、このホテルに御宿泊されたのは陛下の強い御内意によるという。

 当日の朝、お部屋で七士の墓の方角に対して両陛下は不動のままに佇立「ちょりつ(しばらくの間立ち止まる)」されていたという。御内意といい、御佇立といい、ともに責任のある地位にあった元政府高官の証言である。ホテルにその日の御様子を確かめても「私どものレベルでは:」と笑う。それはそうだ。「なぜおたくのホテルに:」と尋ねると、「JR系のホテルだからかと:」と困惑を隠さない。気の毒である。「両陛下にお泊りいただいたホテル」というのは本来なら金看板のはずだ。言葉の端々に「警戒」の気配りが見える。サヨクやその仲間のマスコミを警戒しているのだろうか。

 A級戦犯の靖国神社への合祀はこの「墓参り」の前年の昭和五十三(1978)年十月十七日である。・・・

 

 日本精神の根源には、必ず主従を一体とするこの呼応がある。「公」があって「私」が無い、この呼応が日本人の本質なのだ。天皇の赤心・・・以「もっ(そして)」て朕「ちん(私)」が倚信「いしん(信用して頼りにする)」に副はむ「そはむ(側にいて助ける)」ことを期「き(約束)」せよ。・・・を、臣英機は大恩に思い、肌身離さず身につけていた。天皇の赤心に報いること無き自殺など、ありえない。
http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_6/shouzou.html  http://diarynote.jp/d/67247/_6.html

日本は神の国(多神の国)宗教の国(多宗教の国)

 日本は神の国である。日の神、山の神、田の神、海の神、火の神、水神、雷神、風神、荒神(かまどの神)、産土神、道祖神等々と森羅万象の自然を、生命体をつかさどる絶対神(造物主)として崇め、採り尽くさず共生してきた、唯心が日本の歴史である。戦いの敵将も弔うのは、敵将(人間)としてではなく、生きとし生けるもの、生命体としての観点からである。トルコ(イスラム教)、ポーランド(キリスト教)との、激動の中の100年に渡る友好は、付け焼刃に非ずを物語って余りある。宗教は人間界の神で、生命体の神ではない。人間は多種多様なので、宗教も多種多様となり、日本では信教の自由が保障され、仏教、イスラム教、キリスト教等々、よろずの宗教が存在する。日本は神国、宗教国といえる。

 戦前の神国とは多神教、八百万の神々がおわす国の意である。戦後63年経た現在も八百万の神々がおわす国で、日本は神国である。神国と発言すると、犯日団が即座に異常に反応し非難するが、騒ぐほうがおかしい。八百万の神々の社が今も現存し、国民は神として崇めている。八百万の神々が今もおわす日本を、神国呼称、何の奇異があろう。神国呼称しないほうが、不自然だ。神国日本は厳然たる日本の歴史で真実だ。日本の歴史や真実を否定する犯日団の正体は、唯心(神や宗教)否定、唯物捏造が教是の唯一神教であるカルト教、凶産と、便乗した朝鮮愚民政策侮日団である事を、明白に自白している。

 ヨーロッパは、宗教戦争の歴史であるといっても過言ではない。そのヨーロッパフランス人の詩である、上記歴史を踏まえれば、以下の理解は容易である。この詩を素直に読めれば、覚醒した先覚者である。(注・天皇は石原都知事やWGIPや犯日団捏造の絶対君主、独裁者、権力者ではない、使者である。日本国森羅万象八百万の神々の使者として、日本の歴史は天皇を、崇めてきたのは史実である)

詩『告日本国』

 東條英機が常に軍服の上衣の物入れ(ポケット)に入れて、肌身離さず持ち歩いていた手帳「修養録」に、これも記載されている。

ポール・アントワーヌ・リシャール 

フランスの詩人、弁護士、キリスト教の牧師。大正5年来日(1916~1920年滞在)大正6年、1917年『告日本国』発表。彼は、東西の精神文化の融合と人種差別撤廃の生涯であった。1919年大正8年、パリ講和会議。日本が人種差別撤廃案を提案。日本の提案は16カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソン(民主党,アメリカ大統領二人目のノーベル平和賞受賞)の「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。

 

『告日本国』

ポール・アントワーヌ・リシャール(野口薔薇・大川周明 真実史観訳)

 

 曙の子ら海原の子らよ、華と焔「ほむら(炎)」の国、力と美の国の子らよ聞け。

 涯(はて)しなき海の渚の波が、日出づる国の島々を褒めたたうる栄誉の歌を。

 汝(なんじ)の国に七つの栄誉あり。ゆえにまた七つの大業あり。さらば聞け、

 その七つの栄誉と七つの使命とを。

 一、独り自由を失はざりし亜細亜唯一の民よ、

   汝こそ亜細亜に自由を与うるべきものなれ。

 

 二、かねてより他国に隷属せざりし世界唯一の民よ、

   この世のすべての隷属の民のために、立つは汝の使命なり。

 

 三、かねてより滅びざりし唯一の民よ、

   すべての人類幸福の敵を滅ぼすのは汝の使命なり。

 

 四、新しき科学と古き知恵と、欧羅巴(ヨーロッパ)の思想と亜細亜の思想とを、

   内なる心に統一する唯一の民よ、これ等二つの世界、

   来(きた)るべきこの世のこれらの二つを統合するは、汝の使命なり。

 

 五、流血の跡なき八百万(やおよろず)の神をもてる唯一の民よ、

   すべての神々を統一して、

   更に神聖なる真理を発揮するは汝なるべし。

 

 六、建国以来一系のすめらぎ(天皇)、永遠に亘る一人のすめらぎ(天皇)を奏戴

   「ほうたい(謹んでいただく)」する唯一の民よ、

   汝は地上の万邦「ばんぽう(あらゆる国)」に向かって、

   人は皆一天(造物主)の子にして天を永遠の君主とする一つの国を、

   建設すべきことを教えんがために生まれたり。

 

 七、万邦に優れて統一ある民よ、

   汝は来たるべきすべての統一に貢献せんがために生まれ、

   また汝は、戦士として人類の平和を促(うなが)さんために生まれたり。

 

 曙の子ら海原の子らよ、かくの如きは華と焔(ほむら)の国なる汝の、七つの栄誉、七つの大業なり。  

 

完  ポール・リシャル、大川周明訳『告日本国』山海堂出版部, 大正6 

 孤独な護国指導者を、どれだけこのフランス人の詩が、勇気づけ、励ましたことか、計り知れない。

 

「修養録」主な内容

「力行不惑是豪雄 方寸唯存一字忠 群議紛々何足數 江湖満地應聲蟲」という、昭17年12月の日付入りの徳富蘇峰の漢詩。

藤田東湖や木戸孝允等の漢詩。

頼山陽の楠公詩。

楠正成の言葉。

昭和11年3月11日陸軍大臣を召され賜りたる天皇陛下の御言葉(2・26事件に関して)。

元田永孚が明治11年に明治天皇に言上した内容。

北部仏印進駐第五師団葛尾少尉辞世歌。

沖縄最高指揮官牛島中将訣別の歌。

神風特攻隊第二御楯隊長村川弘怠大尉の辞世。

松尾芭蕉・細川幽斎・一休の歌。

仏詩人ポール・リシアールの「日本に告ぐ」。

「大東亜共同宣言」(昭和18年11月6日)。

昭19年3月21日毎日記事「道は近し」。

参謀総長退任に当り賜りたる勅語(昭和19年7月20日)。

薫空挺隊ヲ送ル富永軍司令官作の歌。

薫空挺隊長中重男中尉の辞世(昭19年11月26日決行)。

戦局要言(昭和19年)。

沖縄最高指揮官牛島中将訣別の歌

昭和20年6月9日第87回帝国議会における陸軍大臣演説の抜粋。

特別戦功者名。

楠公遺訓。

若林中尉の最后の言葉。

前線将士総攻撃を控えての戦場訓。

五省。

高井戸第四国民学校朝言葉(栗原先生)。

勝ちぬく誓。

などであり、広範多岐にわたっています。東條英機陸軍大将について 修養録より 

1944年11月24日無差別・都市爆撃は、この日から敢行され、1945年8月の終戦まで連日連夜のように9ヶ月間続き、延べ30回、B29・4900機、投下焼夷弾の数は実に39万9,000発、通常弾1万1,000発余が日本市民の頭上に、無差別に落とされた。

1945年3月26日約一ヶ月戦闘後硫黄島陥落。

1945年4月米軍沖縄に上陸戦。

1945年4月日ソ中立条約(1941年4月~1946までの5年間)の不延長通告。1945年4月7日小磯邦明内閣総辞職。鈴木貫太郎内閣。ソ連を仲介とする終戦工作を試みたが、協力を得られず失敗。

1945年4月12日 ルーズベルト大統領昼食中脳卒中で死去。

1945年月5月8日 ドイツ降伏。

1945年6月23日沖縄戦終戦。ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会において、聖書に誓い、証言)

 ・・・米海軍がフィリピンと沖縄を奪う頃には、海上封鎖も可能となった。そのために、日本陸軍を維持する供給は、次第に届かなくなった。封鎖したとたん、日本の敗北は決定的となった・・・

 (注・包囲し封鎖した米国軍人は、日本の敗北は決定的となったので、敗者なぶり殺しの原爆投下に、猛反対した。アメリカの主張「原爆投下で連合軍兵士数十万人と日本人数百万人を救命。子供への教育はこうなされている」は負い目払拭用の詭弁だ。本土決戦などせずとも、米国は攻めず、封鎖し、兵糧攻めで勝てたのだ。換言すれば沖縄戦以後のアメリカは、日本を封鎖し、昼寝しているだけで勝てたのだ

1945年7月26日無条件降伏(日本の軍だけが無条件降伏。他は有条件降伏)を要求する、米英中3カ国によるポツダム宣言。(注・日本の敗北は決定的となったので降伏要求したのだ)

1945年8月6日広島原爆投下(ルーズベルトとトルーマンが敗者をなぶり殺し、もてあそんだ戦争だ)

1945年8月8日日ソ中立条約有効期間内にもかかわらず破棄し、ソ連終戦1週間前に参戦。共産ではなく、侵略者の実体、凶産を、自ら暴露したのだ。百七十万人のソ連軍が満州に攻め入った。凶産党は世界の元凶なのだ。(スターリンが敗者をなぶり殺し、もてあそんだ戦争だ)

1945年8月9日長崎原爆投下(ルーズベルトとトルーマンが敗者をなぶり殺し、もてあそんだ戦争だ)

1945年8月14日スイスを通じてポツダム宣言受諾を通知。満州葛根廟に向かって避難中の無辜の市民、老人、女、子供千数百人がソ連軍に惨殺された。葛根廟(かっこんびょう)事件

日本は「ポツダム宣言」の8項目の条件を受諾し条件降伏をした。軍隊だけが無条件降伏。

 日本の降伏に最大の障害となっていたのは、ルーズベルト前大統領が言い出した己の陰謀や捏造を隠蔽するための、「無条件降伏」であった。無条件降伏ともなれば、占領、賠償金、領土割譲、戦争指導者の処刑など、戦勝国に何をされても文句は言えないわけで、国政に対して護国護持という責任を持つ政府が決して受諾できるものではない。無条件降伏を求める事は、「全滅するまで戦うしかない」と相手を追い詰めることに他ならない。日本民族の殲滅を宣言した事になる。マッカサー証言のように日本攻略は、空爆原爆で老若男女を殺戮せずとも、兵糧攻めすれば勝てるのだ。ルーズベルトは日本人種の絶滅を画策していた。ホロコースト、都市空爆作戦がその証拠だ。ルーズベルがもし生きていたら、無条件降伏を突きつけられ、空爆ですべての都市は破壊され、原爆も2個ではすまず、国は分断され、殲滅状態にされていたはずだ。想像するだけでも恐ろしい。終戦前の1945年4月12日、昼食中脳卒中で死去は、天の裁きを受けたのだ。我々はルーズベルトに天罰を下した天に、平伏して深謝する。

 グアム、サイパン、硫黄島、沖縄などの玉砕地で米軍が投降を呼びかけたとき応じればよいという意見がある。ほとんどの米軍は、皆殺し作戦であった。投降を呼びかけたのはわずかな個人の人に過ぎない。ルーズベルトの要求は「無条件降伏」である、極限状況下の兵士が、矛盾する要求に応じられるものだろうか。市民の自決は、米軍の皆殺し作戦、マスコミが煽った鬼畜米英の恐怖、それが市民の自決に拍車をかけた。マスコミは戦陣訓のせいにするが、前述のように兵士や、ましてや市民は知らなかった。

ルーズベルトの死亡などにより、無条件から有条件に変わり護国護持が保障されたから有条件「ポツダム宣言」を受諾した。

 「ポツダム宣言」13項目のうちの第5項には、「吾等ノ条件ハ左ノ如シ」と、記載され、6から13項目まで8項目の条件が明示されている。「ポツダム宣言」は、降伏条件を明示したものである事は明々白々な事実なのだ。5につづく⇒

真実史観5東條英機真実ポツダム宣言は有条件降伏自殺捏造直前の写真と偽遺書

 「ポツダム宣言」は「日本国」の無条件降伏を規定していると思っている人がいるが、そうではない。宣言13項による「日本国軍隊」の無条件降伏であって、「日本国」の無条件降伏ではない。「ポツダム宣言」が要求しているのは『日本国軍隊』の無条件降伏で、日本の政府でも国民でもない。日本は「ポツダム宣言」の諸条件のもとに降伏したのであって、日本の「主権」まで占領軍に差し出したわけではない。ちなみにドイツは、日本(政府は存在し、責任者は皆逃亡せず)とは異なり、責任者は皆逃亡し、無政府と成ったため無条件降伏をした。結果、東西に分断された。

 有条件降伏であったが、占領後、アメリカは、日本人に対し、日本の降伏を「無条件降伏」であるかのように振舞った。占領政策は、一切条件交渉をすることのできない命令であり、連合軍最高司令官マッカーサーは全能の権力を持つかのようにマスコミを使い洗脳教育をした。日本が無条件降伏したと同然の状態に置かれ憲法改正を迫られ、改正案を拒否され結局日本は、GHQが1週間ほどでつくった憲法を押し付けられた。教科書、辞書、事典は洗脳され捏造され、戦後63年を経てもいまだに、無条件降伏と記載されている。咀嚼せず知識鵜呑みのマスコミが、今年も無条件降伏を叫び続けている。未だ日本に、戦後は訪れていない。

1945年8月15日国内にポツダム宣言受諾を公表、終戦。玉音放送 (終戦の詔勅)(注・敗戦の詔勅ではない)

 

終戦の詔勅(玉音放送)(1945.8.15正午)原文は815文字 真実史観意訳

 

私は深く世界の大勢と帝国の現状とをかんがみ、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝国民に告ぐ。

私は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する宗を通知せしめたり。

そもそも帝国国民の安泰をはかり万国共榮の楽を共にするは、天皇歴代の祖先の遺訓にして私もいつも心がけている事である。

先に米英二国に宣戦せる理由もまた実に、帝国の自存と東亜の安定とを願ってのことで、他国の主権を排し領土を侵すが如きは、もとより私の志にあらず。

しかるに交戦すでに四年を経て、陸海將兵の勇戦、政府関係者の務めに励んでの奉行、一億庶民の奉公、各々最善を尽せるにもかかわらず戦局必ずしも好転せず、世界の大勢、また我に利あらず。

それだけではなく敵はあらたに残虐なる爆弾を使用して、むやみに罪無き人を殺傷し、無残な被害の及ぶところ真に計り知れない。

それでも尚交戦を継続すれば、しまいには、我が民族の滅亡を招きかねず、そして人類の文明をも破壊することになってしまうだろう。

そのような事態を招いたら、いかようにして億兆の人民を守り、天皇歴代の祖先のたましいに謝せんや。これが帝国政府をして共同宣言に応じるに至った私の理由なり。

私は帝国と共に終始東亜の解放に協力した各同盟国に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。  

帝国国民にして戦陣に死し、職に殉じ災難に斃(たお)れたる者、及其の遺族に想を致せば、五臓が裂かれる。

更に戦傷を負ひ災禍を蒙(こうむ)り、家業を失いたる者の厚生に至りては、私の深く軫念「しんねん(心配)」するところなり。  

おもうに、今後帝国の受くべき苦難は、いうまでもなく尋常にあらず。

汝国民の断固決戦の本心も、私は善く之を知る。しかれども朕(ちん)は、時運「じうん(時の運命)」の趨「おもむ(速やかに進む)」くところ、堪(た)え難(がた)きを堪(た)え、忍び難(がた)きを忍び、以(もっ)て万世「ばんせい(限りなく続く世)」のために太平「たいへい(平和な世の中)」を開かんと欲す。

私はここに国体を護持し得て忠良なる汝国民の真心を頼りにし、信じ、常に汝国民と共に在り。(注・日本国は無条件降伏ではなく、共同宣言を受諾し、有条件降伏。軍隊だけが無条件降伏

もし、訳も無く感情の赴くままに行動し災いの元を多く作ったり、あるいは同胞を排斥したり、たがいに時局を混乱させ、結果大道を誤り、信義を世界に失うようになったら、私は最もこれを忌み嫌う。

日本国民はすべからく、一つの家族のように日本が団結し子孫に相伝え、硬く日本の不滅を信じ、責任重くして道遠きを思い、総力を將來の建設に傾け、道義心を厚くし、志操「しそう(不変の志)」を硬くし、誓って日本の精華「せいか(すぐれて華やかなこと)」を発揚「はつよう(奮い起こし)」し世界の進運「しんうん(進歩)」に遅れざらんことを期すべし。

汝国民は、私の本意をよく理解し、そのように行動するように。

 

御名「ぎょめい(天皇の名)」御璽「ぎょじ(天皇の印)」

 

昭和二十年八月十四日

1945年8月17日鈴木貫太郎内閣総辞職。東久邇宮 稔彦王内閣。

1945年8月20日ソ連樺太南端の真岡市に上陸。九人の電話交換手殉職。

1945年8月28日連合軍先遣隊、厚木到着 (GHQ設置)

1945年8月30日マッカーサー厚木到着

1945年9月2日降伏文書調印 (全権:重光葵、梅津美治郎/第二次世界大戦終結)

1945年9月3日重光・マッカーサー会談 (軍政中止)

1945年9月10日C CD(民間検閲支隊)放送事前検閲開始

1945年9月11日GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令① (東條・東郷ら39人)

1945年9月11日東條英機撃たれる。東條を急襲し日本軍人極悪化作戦開始。東條英機自殺未遂と報道される。

1945年9月19日GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令② (小磯・松岡ら11人)

1945年9月19日朝10時15分 天皇とマッカーサーの第一次会談。会談は米国大使館で行われた。天皇が切望した会談であった。

1945年10月9日東久邇宮 稔彦王内閣総辞職。幣原 喜重郎内閣

1945年12月2日GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令③ (平沼・広田ら59人)

1945年12月6日GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令④ (近衛・木戸ら9人)

1945年12月16日近衛文麿、服毒自殺

1946年1月19日 東京裁判開始

1946年4月29日A級戦犯容疑者28人の起訴状発表

戦犯

項目(級)「平和に対する罪」「() Crimes against Peace」

極東国際軍事裁判所条例の第五条のの以下の定義

 「平和ニ対スル罪即チ、宣戦布告ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加」を犯したとして、極東国際軍事裁判によって)の罪で有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指す。

項目(級)「通例の戦争犯罪」「() Conventional War Crimes」

項目(級)「人道に対する罪」(老若男女無差別殺人)「() Crimes against Humanity」。

 誤解しないでほしいのは、、は単なる分類であり、罪の軽重を指しているわけではない。級ではなく項目で、項目、B項目、C項目、と訳すのが正解迎合識者やマスコミがランク付け訳、に捏造し、加害者極悪日本軍、被害者か弱い国民の対立に捏造した。なんと醜悪な迎合者の輩なのだ。今後は級ではなく項目と呼称しよう。

 

 侵略戦争植民地政策の米英仏蘭ソ中国は、()の罪を犯しているのでA項目(級)戦犯。米英仏蘭ソ中国の()の罪は、隠蔽されて不明。米は、原子爆弾大空襲60万人殺戮で、()の罪を犯しているのでC項目(級)戦犯。同じくソ連もC項目(級)戦犯。これは史上の事実だ。 

 ちなみにBC項目戦犯が主役の「私は貝になりたい」は、自ら戦犯として死刑宣告を受けた加藤哲太郎元陸軍中尉の創作、真実の話ではない。「私は貝になりたい」では、上官の命令に従った2等兵が死刑になるわけですが、実際にはこうした事例は現在の所見つかっていない。2等兵でも、命令に従っただけで死刑宣告を受けた人はいても、後に減刑されている。加藤哲太郎
 

1946年5月3日東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷

1948年11月12日東京裁判、A級戦犯25被告に有罪判決。満州事変から大東亜戦争にいたる日本の軍事行動を「侵略戦争」と断定し、被告の多くに「侵略戦争の共同謀議」を認定した。

1948年12月23日(東条英機元首相、板垣征四郎陸軍大将、土肥原賢二陸軍大将、松井石根陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅元首相)7人、絞首刑執行。東條英機享年64歳。昭和23年12月23日、皇太子殿下(現在の今上天皇)の誕生日に死刑が執行された。米軍の作業衣のまま処刑され、遺骨は遺族に渡されなかった。遺骨は廃棄されたと言われている。「死刑」が執行されたその場所は、現在、東池袋中央公園となっており慰霊碑が建立されている。

 

開戦前から戦後の総理在職期間 (注・東條 英機総理就任は、開戦までわずか51日前である)

32広田弘毅   昭11. 3. 9~昭12. 2. 2(331日)  外務官僚・文官・A戦犯死刑

33林 銑十郎  昭12. 2. 2~ 昭12. 6. 4(123日)  陸軍軍人

34近衞 文麿  昭12. 6. 4~昭14. 1. 5(581日)支那事変(1937年昭12.7.7.)

35平沼 騏一郎昭14. 1. 5~昭14. 8.30(238日)司法官僚・A戦犯終身刑

36阿部 信行  昭14. 8.30~昭15. 1.116(140日)陸軍軍人

37米内 光政  昭15. 1.16~昭15. 7.22(189日 海軍軍人                                                   

38近衞 文麿  昭15.7.22~昭16.7.18(362日)

39近衞 文麿  昭16.7.18~昭16.10.18(93日)公家華族・貴族院議員・A戦犯自殺・10月ゾルゲ事件が発覚。近衛内閣のブレーン朝日新聞記者(1926~1938)尾崎秀実(ほつみ)がスパイとして逮捕。

40東條 英機       昭16.10.18~昭19(1944年). 7.22(昭16.11.26.ハル・ノート)(1941年昭16.12.8.真珠湾)1944年 サイパン失陥の責任を問われて東條英内閣が総辞職 (1,009日)陸軍軍人・A戦犯死刑

41小磯 國昭       昭19. 7.22~昭20. 4. 7(260日)陸軍軍人・A戦犯終身刑病死軍人

42鈴木 貫太郎     昭20. 4. 7~昭20. 8.17(133日)海軍軍人・(1945年20. 8.15.終戦)

43東久邇宮 稔彦王昭20. 8.17~昭20.10.9 (54日)陸軍軍人・皇族

44幣原 喜重郎   昭20.10. 9~昭21. 5.22 (226日)・貴族院議員

吉田 茂 外務官僚

45第1次 昭21. 5.22~昭22. 5.24(368日)

46芦田 均昭和23(3~10月1948)年   

47第2次 昭23.10.15~昭24. 2. (125日)東條英機(昭23.11.12.死刑判決)(昭23.12.23.で死刑執行)

48第3次 昭24. 2.16~昭27.10.30 (1,353日)(昭25.1950年6.25.朝鮮戦争)(昭25.米国共産党員弾劾)(1951昭和26年4月11日にマッカーサー解任)(1951.53.マッカーサー日本自衛戦争証言)

49第4次 昭27.10.30~昭28. 5.21(204日)

50第5次 昭28.5.21~昭29.12.10(569日)(昭28.1953年7.27.朝鮮戦争休戦)

東条英機自殺について報道や証言からの検証

1945年9月11日、CIC(対敵諜報部)隊員やMP(アメリカ軍憲兵)約20名が戦犯として東条を逮捕するために予告無く到着すると、東条は家の中に閉じこもり、自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗。銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが米軍による手術と手厚い看護を受けて奇跡的に九死に一生を得、助かる。開戦時総大将東條が敵国アメリカに屈し、自殺を図り、敵国アメリカが総大将東條の命を救う。療養中感謝した東條が「米司令官に陣太刀送る」と、占領下で一方的に報道されアメリカが一番喜ぶことを、東條英機がやったというのだ。63年後の現在も、ほとんどの日本人が信じている。検証するまで私も、そう信じていた。果たして事実だったのか報道や証言から検証してみよう。

 

1945〔昭和20〕年9月11日東條大将自決圖る

自殺未遂の前日の10日外人記者の記者会見に応じて東條は、次のような会話をしている。

 ・・・自分は、現在、政治、軍事と完全に無関係である。「敗軍の将、兵を語らず」であるから、そうした問題を語ることはできない、また自分は、今は作物の世話をしている一介の農夫にすぎない、などと語った。

 しかし「あなたは日本の目的が正しかったと思っているのか」と一人の記者に問われて、東条は即座に「私は日本の戦いは正義に立脚していたと固く信じている。アメリカはこうした見解に同意しないと思うが、しかしアメリカの戦いが正義の戦いであったか、それとも日本の戦いが正義であったか、という最後の決断を下すには、時の経過と、公正な第三者を待たねばならないと信じている。私は今度の戦争に責任があった。私は全面的にその責任を負う。しかし、だからといって、そのことから私が戦犯であるということにはならないと信じる。自国が正しいと信じている国家の戦争指導を行うことと、戦犯であることとは別問題である。しかしこれまた、戦勝国の決定することである」と力強くはっきりと答えた。

 ・・・「現在わしは百姓」との心境を述べたのち、「戦争犯罪者については」の質問に、「戦争犯罪者?それは勝者が決定するものだ、日本的解釈だが私は、戦争犯罪者ではない、戦争責任者なのだ」と語っていた。

 

自殺未遂の前日の10日、米国通の前衆議院議員笠井重治と米軍将校二人との会見

・・・ブラインズは、庭の一隅にあるトマト畑に眼をとめ、大将自身が手入れしている畑と聞くと、ほどよく熟したトマト一個を所望してから、第一問をこころみた。笠井が通訳した。

「閣下、マッカーサー将軍をどう思いますか?」

「マッカーサーは、フィリピンで部下を置き去りにして豪州に逃げた。指揮官としてあるまじき行為だ。良い点数はあげられない」

笠井はあわてた。大将の言葉に、率直な感想ではあろうが、占領軍司令官を批判したとあっては、どのような後難がおよばぬとも限らない。笠井は、閣下、まずいですよ、敵将ながらなかなかの人物だぐらいにしておきましょう、と進言した。適当にやれ、と大将はいった。

笠井の通訳にブラインズたちはうなずき、質問を重ねたのち、帰っていった。こうして、ブラインズの「東条会見記」は特ダネとしてAPの通信網をかけめぐり、ソープ准将に東条大将逮捕を準備させた。・・・

自殺未遂の前日の10日。「・・・この日、末の金沢の弟と甥っ子が来て久しぶりに語り合っています・・・」。東条大将身内の方のメール。

『東條英機とその時代』矢次一夫(やつぎ かずお。1899~1983年。浪人政治家。大宅壮一に、昭和最大の怪物と評された)

 二十年九月十一日夜、私は帝国ホテルで重光外相と会っていた。実を言うと、重光と私とは、八月十五日、天皇の終戦に関する勅語放送を聞いたあと、熱海の大観荘で一夜を共にし、彼が東久邇内閣に外相として入閣することが決まったあと、おくれて東京に帰った。重光からは、帰京したら訪ねてくるように、言われていたのだが、帰って見ると、海軍中将大西滝次郎が自決しており、私あての遺言が残されていたので、葬式や何やかやで、重光との約束を果すのがおくれたのである。彼を帝国ホテルの訪ねたのは、外務省大臣官邸が焼けたので、ホテルの一室を執務室にしていたからだが、二人で話しているとき、次官の沢田廉三が慌しく飛び込んで来て、大変だ、東條が自殺した、と言う。私が、自殺は成功したのか、と聞いたのに、いや、まだ詳しいことはわからぬ。しかし、米軍が東條逮捕に向ったので、それがきっかけとなったようだ、とのことであった。

 重光は、それは怪しからぬ、と言い、言語道断のことだ、とも言った。今後戦犯者を逮捕するときは、必ず日本政府を通じて行うよう、話し合いが出来ているにも拘わらず、直接手を下すとは協定違反だ、と怒り、そして重光は立ち上がって、これからマッカーサーを訪ね、抗議をしよう、そして今後二度とこのようなことの起らように、厳重に釘を打っておかねばならぬ、と言い、急いで沢田と共に出て行った。

 

重光葵(しげみつ まもる。1887~1957年)

 外交官。政治家。40代東条、41代小磯、43代東久邇宮(昭20. 8.17~昭20.10.9)内閣の外相。終戦の際、政府代表として降伏文書に調印。A項戦犯として服役、1950(昭和25)年仮釈放。第1~3次鳩山内閣外相として、日ソ国交回復、日本の国連加盟を実現した。

 

『重光手記』重光葵

 ・・・記者は直に之に抗議せしむると共に、自ら横浜に出かけて、サザランド参謀長に会見した。

 戦犯のリストに重臣や現閣員を指定することの不穏当を強く指摘して、其の撤回を求めて、先方は之を納得した。記者は更に、占領軍は直接に行動せず、総て日本政府を通じてやると云ふ約束に拘らず、東条大将を自ら逮捕したのは約束違反である、以後は万事約束通りにして貰ひ度い、日本政府は決して約束に相違することはしない、と申込んだ処、サザランド参謀長は簡単に「あーそうだった。今後は必ず左様する。然し嶋田(繁太郎・元海軍大臣)は間に合わぬ」と応ふ。聞けば嶋田海軍大将は今朝已に逮捕発令になつたとの事であつた。・・・

 ・・・東条大将は前閣僚大麻唯男(元国務大臣)氏を介して、記者に対して「東条は政治上の戦争責任は全部引き受ける。陛下に御迷惑を及し度くなし」と伝言して来た。

 日本は皇室も結局国民と共に浮沈する、又其の覚悟によつて日本は救はるるのであると思つた。

 

『続・重光手記』重光葵

 東条は大麻[唯男]君を通して(八月廿ニ日)記者に伝言して来たことは、(1)戦災者を軍人と均しく靖国神社に合祀すること。(2)自分(東条)は戦争犯罪者となることは飽く迄拒否するも、戦争責任者としては如何なる裁判をも辞せず堂々と所信を披瀝し其の全責任を背負ふべきの二点であった。

 九月十一日彼れは先づ米国新聞記者の訪問を受け、後に米国憲兵に踏み込まれた。暫くとて応接間に閉ぢ籠った後、ピストルの音がした。一発射つたが生命はとりとめた。

 記者は其の報を得て直に横浜鈴木公使をして米側に対して、何故に日本政府を通ぜず直接逮捕に向はしめたりや、而して重態のものを連れ行くは不当なり、と抗議を申入れしめた。マ元帥は重態なれば自宅療養可なりと答へ米軍医を派遣したが、東条は病院車で搬ばれて横浜の病院で敵側の看護を受けて全快して、十月中旬には他の「戦争犯罪人」と共に大森の収容所に移された。

 九月十七日の鈴木公使の報告に依れば、東条は見舞に行つた公使に対し米軍の親切なる看護及マッカーサー及アイヘルベルガー第八軍司令官の病床見舞を感謝し米国の武士道を賞賛して、サラに戦争責任に付いては飽く迄外務大臣の承知して居る通りに処置する旨を述べたとのことである。

 

直前の東條英機

 自宅を包囲した米兵を、笑顔で見物している東條英機。石原都知事が臨場していたかのように貶めて言う、あわてた顔ではない。とても自殺を決意した顔には見えない。たった一人を捕まえるのに、大げさなことだと、微笑んでいるように見える。待ちに待った敵への日本の所信表明チャンス到来「如何なる裁判をも辞せず堂々と所信を披瀝し其の全責任背を負ふべき」に、喜んでいるようにも見える。blog_import_52747cf5e735a.jpg


「一切語るなかれ」岩浪由布子著(東條由布子)読売新聞社

 「ちなみに東條宅にいたのは勝子夫人とお手伝いの一ノ瀬さや、畠山秘書の4人。午前中に二人の友人を送り出した後に米国憲兵がきたので、勝子夫人とお手伝いの一ノ瀬さやは裏口から脱出し、勝子夫人は向かいの鈴木医師宅の軒下にひそみ垣間見ていた」。東条大将身内の方のメール。「・・・祖父と畠山(秘書)玉川警察巡査しか家の中には居なかった・・・」。
 

共同通信社が発見し自殺未遂前日9月10日付の東條英機の遺書と報道した文が語る数多の不備と真実

 

 ・・・9月10日付けで東條は遺書を書いている。・・・最後に、・・・花押、捺印している。・・・ワシントンのアメリカ国立公文書館で、この遺書の原文コピーと英語の訳文があることが、共同通信の編集委員によって発見された。原文の所在は、いまだに不明である。升本喜年「軍人の最期」 光人社 P.32

自殺未遂前日9月10日付けの東條の遺書と呼ばれるものが存在し、ワシントンのアメリカ国立公文書館で、この遺書の原文コピーと英語の訳文があることが、共同通信の編集委員によって発見された。原文の所在は、いまだに不明である。

  この原文コピーを、共同通信が配信、1998年11月30日(平成10年)に中国新聞社(広島県)、熊本日日新聞が報道した。両社に問い合わせたところ、中国新聞社より、「東条元首相の遺書」という特集で98年11月30日に報道したと、即刻回答があり、本日購入した「東条元首相の遺書」コピーが届きました。2007.5.31(この調査は、練馬図書館職員の方にご協力いただきました。ありがとうございました)(更なる検証筆跡確認のため、この報道原文、原文コピー文、英語の訳文を探しています、ご協力願えれば幸いです)。原文コピーは縦書きカタカナ混じり文全文五頁、英文翻訳一頁付きで発見された。中国新聞社の記事には4枚の遺書と英文1枚(判読不明)写真掲載されている。(注・この新聞は中国新聞社(広島県)《読者広報センターのご案内》へメール: dokusha@chugoku-np.co.jpで申し込めば送ってくれます。A3コピー260円、送料80円(東京)、郵便振込み手数料100円、計440円。更に詳しくの方は申し込んでください。また、国立国会図書館で、閲覧やコピーもできます)6につづく⇒ 

真実史観6東條英機真実を語る臣英機遺書と署名写真と朝日報道文死体と遺族発言

 逮捕当日、ポール・クラウス少佐らCIA隊員は東條邸玄関外で銃声を聞いて、邸内に駆け込み、東條元首相が自分の胸を撃った32口径コルトと25口径の短銃2丁、白布に包まれた「ハラキリ・ナイフ」と「最後声明」(遺書)を発見、押収した、と1945.9.21.付けCIC秘密文書は述べている。

 遺書の行方について、同(1945年)11月29日付GHQ文書は「歴史的価値があるので、陸軍省に引き渡したい」と記述している。

 ロバート・ビュートーワシントン大名誉教授は著書「東條英機」でこの遺書の英訳文の内容を紹介、日本語の原文は「行方不明」と指摘していた。1998.11.30.4面中国新聞

 

〔〕外原文。原文、日本語表現疑問黒太字印は判読不能個所。

〔〕内検証文。原文、疑問黒太字赤太字訂正。読み()内黒字。意味「」内黒字。()内赤字は加筆。以下検証してみよう。

   遺書            

              臣 英機 〔臣(しん「けらい」)(東條) 英機〕  

一、宏大無辺なる 

〔宏大無辺(広く果てのないこと)なる〕

 

天恩に対し伏してし奉り

〔天恩を賜わり平伏して感謝し奉(たてまつ)(、)

 

皇室の御安泰と国家の隆昌ならんことを謹て祈念し奉る

〔皇室の御安泰と国家の隆昌(りゅうしょう「勢いの盛んなこと」)を謹(つつし)(み)て祈念し奉る(。)

 

二、大東亜戦争も遂に今日の如き不祥結果に陥り

〔二、大東亜戦争も遂に今日のような不祥(ふしょう「不運」)結果となり(、)

 

上辱(宸)襟悩し奉り下一億忠誠の屍を積み尚ほ戦争の目的を達し得ず光輝ある歴史を汚すに至りたる事眞に恐懼に堪へる處にして開戦当時の責任者として深く其の責任を痛感する處にして茲に自決し其の責を痛感する處なり。

〔上(、)(はずかしめ)(、)宸襟(しんきん「天子の心」)乱し奉り(、)(、)一億忠誠の屍を重ね尚戦争の目的を達し得ず光輝ある歴史を汚し、眞に恐懼(きょうく「恐れかしこまること」)に堪へる處にして開戦当時の責任者として深く其の責任を痛感し、(ここ)に自決し(、)其の責を果たすなり。〕

 

之れ亦幾多の大戦に殉る将士及其の遺族に報ゆる途なりと信

(、)幾多の大戦に殉(じゅん)る将士及其の(御)遺族に報ゆる途(みち)なりと信(。)

 

三、御殊遇をりし身を以て敵国の裁断の辱めを受けるは国威を傷け皇恩に報ゆる所以にもあらすと信

〔三、御殊遇(ごしゅぐう「手厚い待遇」)賜わりし身(、)敵国の裁判の辱(はずかし)めを受けるは(、)国威を傷(つ)け皇恩も傷つけることになると信。〕

 

亦帝国国民の精神上にも悪影響を及すものなり。帝国の正しき行為は将来の歴史に依り決するものなりと信ず。勝者の裁判に依り決するものにあらずと信ず。

〔亦帝国国民の心情にも悪影響を及すものなり。帝国の正しき行いは将来の歴史に依り実証されるものなりと信ず。勝者の裁判に依り実証されるものにあらずと信ず。〕

 

敵側引渡の要求に対しては他に自ら途あるべし

〔敵側引渡の要求に対しては(、)他に自ら(の、)途(みち)あるべし(。)

 

四、大東亜戦争戦いは破れたりと雖も其の意義は萬世に照し正しきを信するものにして又神州の精気奪ふこと能わ

〔四、大東亜戦争戦いは破れたりと雖(いえど)(、)其の真義は萬世(ばんせい「長い年月」)に照し(あわせると正義にして又(、)神州(しんしゅう「日本の美称」)の精気(せいき「精神と気力」)奪ふこと能わ。〕

 

皇室巌として輝き在す限り必や民草の忠誠の下に萌皇国興隆期あらん事を信ず

〔皇室(いわお「高く突き出た大きな岩」)として輝き在(おわしま)す限り必や民草(たみくさ「人民」)の忠誠の下に萌皇国興隆期あらん事を信ず(。)

 

五、帝国の前途は今後眞に多難なる○○此の一億国民の努力の下眞に名実共に備はれる國體護持を確保し以て悠久なる帝国の光栄を至らせんことを願て止ま

〔五、帝国の前途は今後眞に多難なる○○べし(、)此の一億国民の努力の下(、)眞に名実共に備はつた國體護持を確保し(、)以て悠久なる帝国の光栄(、)至られんことを願(つ)て止ま(。)

 

茲に遥かに

〔茲(ここ)(て)遥かに〕

 

皇居を拝し天寿の萬歳を祈願し奉る處七生報国以て国運の隆昌を守奉らんことを期す

〔皇居を拝し(、)天寿の萬歳(ばんざい「いつまでも生きること」)を祈願し(、)奉る處也、七生報国(を)(しちしょうほうこく「七たび生まれかわり、国に報いる」)以て(、)国運の隆昌(りゅうしょう「勢いのさかんなこと」)を守奉らんことを期す(。)

 

昭和二十年九月十日

(注・遺書日付が事前通達なく不意に訪問した前日の日付とは、余りにも出来過ぎではないのか)

 

内閣総理大臣前官礼遇〔内閣総理大臣前官礼遇「ぜんかんれいぐう(退官後も在官当時の待遇を与えること)」〕

 

 陸軍大将従二位勲一等功二級   東條英機

               追記 

大東亜諸民族諸君の大東亜解放の為尽されたる協力に対し深く感謝すると共に大東亜戦争も遂に目的を達し得さりし諸君の御多幸を祈念して止まず

〔大東亜各国の大東亜解放の為(、)尽くされた御協力を深く感謝すると共に(、)大東亜戦争目的を達し得ざる深謝(、)大東亜各国の御多幸を祈念して止まず(。)

 

東條英機陸軍大将について はじめに 1998年11月30日4面(平成10年)中国新聞社(広島県)

 

疑問点検証

 

 英文和訳調の文章だ、英語の訳文といわれているのが原文で、自決捏造の台本原本ではないのか。英語の訳文原文を検証すれば、さらに真実が判明する。

 

 遺書のあて先は天皇である。あの時代いくら敗戦とはいえ、臣(家来)の天皇宛の遺書など有り得るのだろうか。また天皇宛の遺書に、臣東條英機ではなく、臣英機と書くものだろうか。

 

 天恩に対しではなく、天恩を賜りではないのか。

 上辱(宸)襟は原文のまま。辱(じょく「恥・屈辱の意味」)辱(はずかしめ)か。(宸)(天子に関する事柄につける語)宸襟(しんきん)が正解。上辱、辱宸、辱襟などの単語は無い。宸(天子に関する事柄につける語)天皇宛の遺書にかっこは不自然。遺書も清書せず下書きのまま残し、臣(しん「けらい」)英機は自殺するものだろうか。

 昭和二十年九月十日は国や天皇の処遇がまだ未決なのだ。「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ」と、戦後は大義の成就だけに生きている東條英機にとって、裁判の場は、日本の所信表明には最高の舞台であった。裁判忌避は有り得ない。全世界に向かっての所信表明、これ以上の舞台は無いのだ。大義を果たしていない東條には、自殺の用意はあったが、決行は、近々のことではなかった。開戦責任が自決の理由とは、いかにも不自然。大東亜戦争 開戦の詔勅、を否定しており、回避不可の自衛戦争の開戦が理由とは、矛盾し過ぎであり得ない。

 遺書日付が、事前通達なく不意に訪問した前日の日付とは、余りにも出来過ぎではないのか。

 天皇宛の遺書に、〔内閣総理大臣前官礼遇「ぜんかんれいぐう(退官後も在官当時の待遇を与えること)」 陸軍大将従二位勲一等功二級   東條英機〕と肩書きを、長々と書くものだろうか。

 天皇宛の遺書に、「追記」などと書くものだろうか。また大東亜共同宣言は、東條英機が手帳「修養録」に記載し、常に軍服の上衣の物入れ(ポケット)に入れて、肌身離さず持ち歩いていた。大東亜共同宣言には、大東亜各国と記載されている。諸君は対等かそれ以下の人々に対して使う。諸民族諸君はLadies and Gentlemenの直訳ではないのか。

 天皇宛の遺書で、判読不能個所、句読点、濁点、送り仮名、かっこ等に不備な点が多々有るのはおかしい。東條英機がこんな不敬をするものだろうか。送り仮名等の不備が際だつ、日本人ならけして間違えない単純なミスが多い。後述の朝日新聞記事のミスと酷似するのだ。内容もミスだらけの報道記事の口頭の遺言と呼応している。共通するのは英文を和文に訳す時の単語の選択ミスと、送り仮名のミスだ。末代までの恥辱となるこんな不敬な遺書を、臣東條英機が書くものだろうか。

 東條英機が自殺を認め無い時の証拠として用いるために、米国が前日日付を記載し、偽造したのではないのか。新聞報道の台本にもし、駄目を押すために東條英機には、見せたかもしれない。その時そんな不敬は誰もしないと反論され、報道せず封印したのではないのか。余りにも不備が多い。こんな不敬文を臣東條英機は書かないだろう。私の簡易的筆跡鑑定では直筆ではなかった。下記で簡易的筆跡鑑定可能。

東條英機の遺書といわれるコピーと、下記の真筆と比べると、署名と一部の右肩上がりが似ているだけで、異なる。署名だけが似ている事が味噌だ。仮説が的中した、まさしく偽書だ。がしかし筆跡鑑定が真実の扉を開く鍵だ。筆跡鑑定が待たれる。http://cb1100f.b10.coreserver.jp/collection_1u.html真筆署名はこちら

 

 blog_import_52747cefae4d2.jpg東條英機の遺書といわれるコピー末尾。筆跡は、太く、重く、不明瞭、判読難儀。署名の下部は花押。 

 修養録(御令息宛東條大将遺書)真筆はこちら。細字で、漢字大きく、カタカナ小さく、明瞭に書かれ、抵抗無く読める。文字にメリハリがあり躍動感がある。

 

 目下の家族への遺言には確かに花押があるが、遺書に花押、捺印するものだろうか。中国新聞社記事では捺印確認できず。しかもこれは、天皇陛下宛の遺書なのだ。捺印の印鑑の真贋は。真実の扉の鍵は筆跡鑑定だ。ただし、「責任は全部自分で負ひ悪者となつて畢(おえ)る考へなりき」と覚悟していたので、米軍と取引後、後日の署名は有り得る。その際は、文意検証が優先。

 

 「敵側引渡の要求に対しては他に自ら途(みち)あるべし」は意味不明で、この文だけ浮いており、遺書には不適切。遺書作成時点では、米軍予告無しの東條抑留は知りえないことだ。呼応した後述の朝日新聞の口頭の遺言でも同様の内容が語られるが、なぜか浮いている。「戦犯者を逮捕するときは、必ず日本政府を通じて行うよう、話し合いが出来ているにも拘わらず、直接手を下すとは協定違反だ」、前述の重光葵証言。直接逮捕の協定違反を知り得たのは、米軍と当日の東条英機の二者。東条英機が当日、逮捕直前に書いたのだろうか、書き足したのだろうか。なぜ米軍が逃亡不可の監視下の東條を、協定違反をしてまで、貶めるように直接逮捕したのだろうか。違反などしなくとも、米軍は楽に逮捕できた。自決の動機、駄目押しのためではないのか。以後この事が、自決の主因となっている。筆跡鑑定が解決する。

 

 ほとんどが英文和訳調の文章だ、英語の訳文といわれているのが原文で、自決捏造の台本原本ではないのか。英語の訳文原文を検証すれば、さらに真実が判明するだろう。

 

私見を述べると、この遺書は自殺捏造の台本だ。新聞報道もこれにより捏造されている。なぜ捏造か。報道しなかったからだ。本物であれば自殺直後に躊躇なく報道していたはずだ。米国が隠蔽する理由は皆無。検証のように天皇陛下宛の遺書等、不備な偽造が多すぎるし、東條も撃たれたと反論しなかったので、封印された。

 

朝日新聞長谷川記者が書いたと言われている東條大将自決報道全文検証

 東條大将の遺言を聞き取り朝日に掲載した長谷川記者は、「科学朝日」の記者で、当日、外国新聞社の東條関連の取材に道案内としてたまたま同行、東條宅を訪問しようとしたとき、この事件に出くわし、特ダネ取材することになったと、言っているのだが、合点がいかない点、余りにも多すぎるのだ。語るに落ちているのだ。(注・事件直後の日本人の証言者はNO1畠山重人秘書、NO2長谷川記者、NO3荏原為明医師だけである。NO1とNO3の立会いは理解できる。生死の境にいる東條大将のあわただしい現場に、無関係なNO2長谷川記者が立会い、重症者にしゃべらせ、聞き書きし報道しているのだ。米軍が立会いを許可したというのか。生死の境にいる現場に、普通は、無関係な長谷川記者は入れるはずなど無いのだ、不自然だ。そして拳銃発射の瞬間を、東條大将以外の日本人は、誰が撃ったか、誰も目撃していない

 

 「は判読不能なので、どなたか縮刷版ではなく、原版でご教示下されば幸いです。赤細字筆者訂正」 1945〔昭和20〕年9月12日付縮刷版『朝日新聞』下半期147頁・練馬区図書館蔵書

日本語表現疑問黒太字。赤字訂正。印(判読不明)。加筆は赤太字。読み()内黒字。句点無し、読点有。以下検証してみよう。

 

一九四五〔昭和二十年〕年九月十二日朝日新聞報道

東條大将自決圖(はか)

きのふ抑留に先立ちを拒否し自邸で

元首相東条英機大将は11日午後4時、東京都世田谷區玉川用賀町の自宅へ同大将連行抑留のため来邸来邸は辞書には無い)来宅した聯合軍側官憲との應接を待たず同20分ピストルにて自決を圖り重体である

勝者の裁判忌避

歴史の批判に裁判を待つ

拳銃で重傷苦痛を忍びに耐え遺言

東条大将が自決をはかつたときたまたま(原文は繰返し記号)本社記者は東条邸を訪れたが訪れていた以下は同記者の目記である

 

東条大将に対してマツクアーサー元帥から捕縛抑留命令が出た十一日の午後二時世田谷區玉川用賀町の東条邸……既に米官憲が到着し窓越しに東条大将を拘引抑留にきた旨(むね)述べてゐた、東条大将は笑つて「只今行きますから暫く(しばらく)待つて下さい」と通訳を通じて挨拶し答へ、窓に錠を下してソファーに腰を下したが、その時、ピストルの(響)内部に室内でえた、米官憲は外から鍵の下りた扉を叩き破り「窓をこはして入れ」などと怒鳴り威赫的に威嚇するように銃を撃ちつつながら室内に入つた、東条大将は(かね)より覚悟していた自決をはかつてゐたのである、椅子にもたれたまま、白の開襟シヤツを着た上から左腹部に拳銃を射ち込みを拳銃で撃ち、すでに息も絶え絶えであつた、午後四時十五分であつた、二十分程の後してから、大将何か言はんとするしたので記者は大将の傍に寄り「何か言ふことがありますか」と問へば聞くと苦し(ここはなぜか一字分空欄となっている。手交された米軍の原文のまま、空欄としたのだろう。記者の独自原稿であれば単純ミスなので、是正されていたはずだ)息の下から次のやうな遺言を洩らした話したのである

 

遺言を終つてから米官憲は附近近所の荏原醫院より醫師を招き呼び手當を施したが、その時の(模)(様)様子では生命はとりとめるやうに見うけられた、米官憲は直ちに東条邸の門を閉し閉じて日本の巡査に警戒をせしめたさせた

 

軍事的抑留を命令

マックアーサー司令部発表=聯合国最高司令官は元首相東條英機大将を即時アメリカ軍の軍事的抑留に附するやう命令した。

 

東條大将の遺言

一発で死に度(た)かつた、時間を要したことをがかかったこと遺憾に思ふが残念だ大東亞戰爭は正しき正義の戰ひであつた、國民と大東亞諸民族各国には寔(まこと)に氣の毒であるなことをした十分自重して大局の處置を誤らぬことを希望する望む戦争責任者の引渡しは日本が全部責任を負ふべきである、日本が復興することは更に眞に困難である……法廷に立ち戰勝者の前裁判を受けるのは希望する望む所でない、(むし)戰勝者の裁判などではなく歴史の正當な批判に裁判を(ま)つ――切腹は考へたが兎(と)もすれば間違ひがある、一思ひに死にたかつた、あとから手を盡手當して生きかへるやうなことをしないでくれ

 

陛下の御多幸を行く末までおりしてどこいつまでも國家の健全な発達を遂げる事ができれば幸ひである、責任者としてるべきことは多々あると思ふが勝者の裁判にかゝりを受けたくない、勝者勝手な裁判を受けて國民處置対処を誤つたら國辱だ――家のことは廣橋(伯爵)にまかせてある、その通りやればよい、家のことは心配ない

 

天皇陛下萬歳、たとえ身は死して滅びても護國の鬼となつて最後を遂げたいのが願念念願である…畠山(秘書)水をくれ…腹を切つて死ぬこと切腹は知つてゐるが、間違つて生き度くない生き返り度くない、責任は果たした、死体からだ引渡したら渡せばよい、俺の死体からだどうなつてどうでもよい、遺族家族には言い渡して言ってある、死体からだ遺族家族引渡さなくともよい、しかし見せ物ではないとマツクアーサーに言つてくれ――

 

 「自決直後苦痛に耐えながら所信を語る東條大将」の見出しでソファーに座り横向きの東條大将らしき判別不能写真掲載。

(注・この写真の見出しは朝日が書いたのだろう。苦痛を忍びのような変な言い回しではなく、苦痛に耐えとなっている。又、上記の内容は遺言とは呼べないので所信を語るとしている。本音の出た見出しとなっている。良心有る者が検閲に抵抗し、真実の扉の鍵として残したのか、ならば、立派だ)

 検証疑問点

一発の言い訳2回。裁判忌避2回。切腹でない言い訳2回。語るに落ちている。これは遺言ではなく内容は、辻褄あわせの弁解だ。

前述の遺書コピー文にも大東亜諸民族と記載され、朝日報道文にも大東亜諸民族と同様の記載だ。また前述の遺書コピー文敵側引渡の要求に対しては他に自ら途(みち)あるべし」。朝日新聞報道「責任者の引渡しは全部責任を負ふべきである」。ここでもこの文だけが同様に浮いており、遺書コピー文と朝日報道文はリンクしていることは明白である。自殺捏造の台本、前述の遺書コピー文とリンクする朝日報道文は、自殺捏造の助長文と考えて間違いはないだろう。

日本人記者の記事であれば検閲があるので、すべて上記の抑留を用いるはずである。ところが自由奔放に、抑留intern)、連行bring in)、捕縛(arrest)、拘引(takein)と、類語を用いている、これはまさしく日本人記者の記事では無い。

死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬと、大義に殉じ命を投げ出すと公言している東條英機には、裁判は、日本の正義を世界に向けて明確にする、絶好の舞台ではないのか。裁判以上の舞台は無い。その裁判を受けたくないとは、矛盾している。

 

朝日新聞記事荏原醫院よりの醫師診断の様子では「生命はとりとめるやうに見うけられた」。荏原醫院よりの醫師診断は「大將は死ぬだらう」真相箱、荏原醫師証言。記者と醫師が真反対の証言。そして東條家の向かいの鈴木医師ではなく、なぜ荏原醫院なのか。東條英機の主治医鈴木医師を避けた。台本は「生命はとりとめる」で、朝日記者は見ていないと考えれば辻褄が合う。

 

英文和訳の文章だ、ぎごちない、遺言は、話し言葉になっていない。遺言は、息も絶え絶えなのに長文が多すぎる。決定的なのは東條の「死体corpse)」「遺族(survivor)」発言である。東條自身の言葉なら「死体」は「からだ(body)、又は、(body)、我が身」。「遺族」は「家族(family)」が正解。原文corpse、survivoを訳したからこうなった。死体(corpse)」「遺族(survivor)」は東條自身の言葉ではなく、第三者表現を語って、語るに落ちている。こんな間違いだらけの日本文は無い。これは正しく占領軍作成の記事だ。ここでも朝日だ、朝日は根が深い。

 東條自殺捏造駄目押しは、「白の開襟シヤツを着た上から左腹部に拳銃を射ち込み」と記載されていることである。事実は左胸である、左腹部ではない。なぜ間違えたか。台本には心臓に間近な左腹部を撃つまたは刺すとなっていたが、仕損じ、左胸を撃って(刺して)しまったからだ。日本文読解力無き米軍は、捏造報道文を訂正せず、台本のまま朝日新聞長谷川記者に手交した。朝日新聞長谷川記者は、検閲があるので一切触れず、そのまま記事にした。

 東條自殺完遂では、東亜解放の殉教者となってしまうため、心臓に間近な左腹部(stomach) が台本であった。「心臓に間近」を読み違えたか仕損じたか、いずれかで左胸(chest ) を撃った(刺した)。

 

東条将軍逮捕に関する報告米合衆国陸軍中佐P・クラウス

当日二個分隊を率いて東條邸に踏み込んだクラウス中佐の報告。

 東条将軍邸に到着したとき、将軍は窓越しに新聞記者と話していた。本官は、玄関前に部下を配置して、将軍に窓を開けるよう要求した。

 将軍は、逮捕状を持っているか、と質問した。逮捕状ではないが、正式の拘引命令書を持参したと答えると、将軍はその確認を希望した。本官は、邸内で見せるゆえ、ドアを開けるよう重ねて命令した。

 東条将軍は白いシャツ姿であったが、本官の発言が終わると、うなずいて窓をしめた。窓にかぎをかける音が聞えたが、そのあと邸内は静まり、玄関にまわった本官の耳には、近づく足音は聞えなかった。

 午後4時19分、突然、一発の銃声が響いた。本官の横にいた新聞記者が「貴官の獲物は自殺した」と、いった。本官は、直ちに玄関のドアを強制的に開き、邸内に入った。

 東条将軍の居室のドアにもカギがかかっていたが、同様に強制的に開いた。東条将軍は、椅子に腰かけていた。左胸部を撃ったらしく、多量の出血でシャツは赤くぬれていた。本官を認めると、将軍は右手に握った拳銃を向けようとしたが、「撃つな」と本官が制止すると、拳銃を床に落した。

 本官にとって、東条将軍を生きたまま連行することが自分に与えられた使命である。本官は、直ちに東条邸護衛の日本人警官に医師をつれてくることを命じた。現れた日本人医師は、明かに大将がサムライらしく死ぬことを望んでいるらしく、傷口を洗浄する以上の手当に熱意を示さなかった。

 東条大将は、書斎の寝室に移され、午後6時25分、本官の要請でわが軍の軍医が到着した。軍医は、弾丸は左肺を貫通して心臓をかすめているが、生命はとりとめると思う、と述べた。

 午後6時48分、モルヒネ注射で応急の治療は完了した。午後7時、東条大将は、横浜の第98陸軍野戦病院に運ばれた。『東京裁判上・下』児島襄著中央公論新社 (1971年3月) 7につづく⇒

真実史観7東條英機真実輸血治療皆無で三時間カメラや記者の晒し者にした米軍

 午後4時19分左胸部を撃った~午後5時19分傷口を洗浄するのみ~午後6時25分米軍医師縫合か~午後7時出発~第98陸軍野戦病院到着(早くても8時30分以降治療輸血だろう)。左肺を貫通一時間後消毒、二時間後縫合モルヒネ注射、四時間以降に治療輸血。左肺を貫通で二時間後に縫合である、出血多量で死なないものだろうか、四時間も輸血なしで、もつものだろうか?そして、なんと緊急搬送もせず、三時間も新聞記者の晒し者にし、カメラマンまで呼び寄せ撮影している(下記参照)。作意無しと思うほうが、異常で、語るに落ちている!

東條が治療を受けている間踏み込んだ多数の記者の報道合戦

・・・一人の記者が電話で送稿している間に、他の一人が東條が横たわっている部屋のドアから大声で知らせ・・・最新の状態を報道・・・

・・・いつ東條の小さな胸が動かなくなってしまうかについて、賭けがなされた。

・・・冗談が交わされていた。(東條は自分で名誉負傷章を手に入れた)

・・・「土産物さがし屋」が忙しく活動していた。・・・東條の血まみれの乗馬ズボンから見事な三角形を切り取った。同様に残忍な他の連中は、血のりの中に自分たちのハンカチを浸していた。

・・・部屋はいまや、記者や、将校、兵士でいっぱいになった。誰もかれもが、東條の死を待っていた。

・・・カメラマンが到着した。・・・「東條の頭をもう少し右に動かしてくれ・そこで止めて・素晴らしい・僕は東條が連発ピストルを手にしている場面を撮りたい・すまないが君、そのピストルを彼の頭のところにあてておいてくれないか」・・・彼らは東條の足を組ませたり、開かせたりした。彼らは、家や秘書や召使を撮影した。

・・・軍のカメラマンが部屋に入ってきた。火の消えた葉巻を口の一端にくわえていた。・・・「ところでこれは誰なんだ」・・・記者が「東條だ」と無造作に答えた。・・・「この東條というのはどういう男かね」と聞いた。「東條、東條大将は日本の独裁者で、真珠湾の時の首相さ」と彼は答えた。カメラマンはびっくりして、口を大きく開け、それから葉巻を窓から投げ捨てた。「この男がすべての原因だったんですね。こいつがいなけりゃ、おれはいまごろ故郷でのうのうと暮らしているところだろうよ。この老いぼれめ、おれはこのカメラで、なぐってやりたいよ」(ケリー・アンド・ライアン)

・・・部屋の空気は煙草の煙でますます汚れていった。・・・再開したアメリカ人記者とオーストラリヤ人記者とが、東條の頭ごしに、抱擁し、ガダルカナル当時の思い出を語り合った。・・・(ロバート・ビユートー著「東條英機」)

 

眞相箱報道 聯合國總司令部民間情報敎育局編

『眞相箱 太平洋戰爭の政治・外交・陸海空戰の眞相』

東條大將の自殺は狂言か

東條大將は狂言自殺を圖つたのですか? 

・・・バーンズ伍長が飛ぶやうにして、東京郊外にある東條大將の家へかけつけたことは申すまでもありません。そして彼はそこで、元首相が自殺を圖つた瞬間の、何枚かの貴重な寫眞を撮影したのであります。この寫眞はその後目撃者の記事と共に、雜誌ヤンクに掲載され、東條大將の自殺が絶對に狂言でなかつたことを充分明らかにしてをります。大將は本當に死ぬ積りでゐたのです。たゞそれがうまく行かなかつたといふに過ぎません。

・・・約一時間して、一人の日本人の醫者が來ます。第六番目の寫眞では、その醫者が大將を診察してをります。大將は醫者の手當を拒み、死なせてくれといひますが、アメリカ軍中尉は、その醫者に對し全力を盡くして大將の命をとりとめるやう命令を下します。醫者は沈痛な面持で、自分には手を施す術がない、大將は死ぬだらうと語ります。

・・・第七番目の寫眞では、一人のアメリカ軍の軍曹が來て、大將の輸血に取りかゝるところが見られます。軍曹の言により、傷は大して重いものではなく、少なくとも始め考へられたほど重いものではないと判ります。大將は自分が死んだとき、一見して東條英機の死體であると判るやう、頭を射たずに心臟を射つた譯ですが、的が外れて心臟を射つことが出來なかつたのであります。

・・・次の寫眞には、別の室に設けられた淸淨な祭壇が撮つてゐます。大將はその前で自決するつもりだつたのです。後に大將が語つたところによると、時間がなくて古式に則つてそれを行ふことが出來なかつたといふことであります。自刄のために用意した一本の短刀が、大將が三十ニ粍拳銃で自決を圖つた室の眞白い布地の上に置かれてゐます。GHQ民間情報教育局『真相箱』(1946年8月発行)

 

アメリカ側の証言検証

 『真相箱』は、写真を紙芝居のように使い自殺の模様を説明している。

東條英機に意識が有り、朝日新聞記者の質問に応答したとは記載無し。軍のカメラマンの言いなりに従う様は東條英機に意識無し、明らかに無意識のようだ。日本人医師の治療記載有。日本人医師との会話記載無し(捏造宣伝が目的の『真相箱』だけの報道である)。作意無しと思うほうが、異常で、語るに落ちている!

 

朝日新聞長谷川記者『証言 私の昭和史 6』東条大将自決ならず

長谷川記者「そばへ行きましてよく見ました。赤いものが出てるんです。左の腹部から、赤い綿のようなものが出てるんですね。これは肺臓の一部だと思ったんです。それで数えてみまして、あばら骨の四番目と五番目の間かな、という感じですね。常日ごろ、心臓を撃とうとしていて、やりそこなったのですね。心臓をかすめて肺臓の一部を貫通したといった感じでした」

・・・MPとしては、これで自決をはかったということはわかりましたから、手当てをしようとするわけでしょうね。どんな手配をしたんでしょうか。

長谷川記者「すぐ、軍人の一人が寄って来て、止血をしようとするわけですね。しかし、大将はそれを払いのけるから、かえって血は余計出ますしね、それを押えてるということもできないし、急いで近くの医者を呼ぶわけですが来ない」

 ・・・それには何かわけがあるんですか。

長谷川記者「それは近くの医者で、東条さんの所へいつも出入りして、自殺の相談にものってた人なんですねえ」

・・・それでは、まさかの時にはこういうふうにお撃ちなさいという指示をあたえていたわけですか。

長谷川記者「そうなんです。広橋伯爵夫人から伺ったんですけれども、広橋伯爵というのは、当時東条さんの秘書官だったんです。それで東条さんはお医者さんから、左の心臓の辺にをつけてもらって、指を当てがって撃つ練習をしたといいます」

 ・・・そこはどうなんでしょうかねえ。こめかみを撃つとか、口の中に突っ込んで撃つとかいう方が、確実のような気がいたしますが、心臓をねらったというのはわけがあるのでしょうか。

 長谷川記者「それも広橋伯爵夫人から聞いたんですが、こめかみを撃つと顔色が変わるというんです。顔色が変わって自分であるということが識別できなくなるというのです」(注・近親者は後述の東条証言をソースにして、このように狂言自殺払拭に皆努めた)

http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-46.html


畠山重人
(東条英機秘書)と荏原医院荏原為明医師の話

畠山清行『東京兵団』 畠山清行ハタケヤマ・セイコウ (1905-1991)北海道石狩町生れ。本名きよつら「せいこう」は筆名。

 

 「・・・私が行った時はピストルもなにもなく、出窓の棚に軍刀が置いてあって、MPが三、四人、丸卓子を囲んで椅子に腰かけていた。東条さんは、その向側のソファに、ワイシャツの胸をはだけて寝ていたが、傷は左乳の斜め下に一センチぐらいの丸い穴があり、周囲は煙硝でくすぶっている。弾丸は背に抜けたとみえて、背には切傷のように縦に長い血線がついていた。弾丸は背から椅子の背を突き抜け、壁に突きささっていた。その傷からみて、非常に小型の拳銃で撃ったものだと判断した。

・・・その後私は、そのまま隣の部屋へ連れて行かれたのでこのことは知りませんが、部屋を出る時、東条さんは新聞記者らしい男に『この戦争は、正義の戦いだったのだ』というようなことを、話していました。畠山重人秘書の話」。(注・朝日新聞報道の東條大将の遺言では「・・・畠山水をくれ・・・」と記載され遺言の間同席しているような内容になっている。がしかしここでは「部屋を出る時」聞いたになっている)

荏原病院、院長荏原為明氏が迎えられたのは、それから約一時間後であった。

・・・私が診察していると、東条さんは「お前はなんだ?」ときく、「医者だ」と答えると「オレをなおすと、国のためにならんぞ」と言った。私は、気の短い方だから、とたんにむっとした。(今になって死ぬ奴があるか。堂々と裁判に出て、日本の正義を主張してやるべきだ)という考えだったから、顔色が変ったにちがいない。米兵はそれをみて「いま、東条はなにを言ったか?」と私にきく。私が知らん顔をしていると「お前、英語を話せるか」ときいた。私が首をふると、こんどは二世らしい男を連れて来て、その男が「東条はなにを言ったのか」ときいた。・・・

傷は心臓すれすれで、深さも薬指の第二節くらいまであったから、私はとうてい助かるまいと診断して帰った。(略)」(世田谷区玉川用賀町荏原為明氏談)

 

「東条首相は、窓の外から米軍に撃たれたのだという噂は、私も一週間ぐらい後にきいた。しかし、もし撃たれたものとすると、傷の位置からみて、横向きにでもなっていたところを非常に近くから撃たれたということになる。だが、私が行った時はソファの上に横たわっていて、どの辺の場所で撃たれたかもわからないのだから、なんとも言えないが、やはり自殺説が正しいのではないだろうか」(世田谷区玉川用賀町荏原為明氏談)(注・上記の話と話のトーンが異なる。上記の話には聞き手の作為を感じる

 

当時の陸軍人事局長額田担は「十一日午後、何の連絡もなくMP若干名が東條邸に来たのを、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、逃げたと勘違いしたらしいMPは窓から飛び込み、イキナリ拳銃を発射して大将は倒れた。MPの指揮官は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運びこんだ」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言している。最後の陸軍省人事局長額田担回想録

 

・・・さあそれからが、天井裏までさぐる徹底的な家宅捜索で、私のふところの遺書はもちろん、神棚にかくした色紙もとりあげられた。彼らがただ一ヵ所みのがしたのは台所の縁の下で、おかげで革鞄だけは没収をまぬがれたが、中身は保険証書などで大したものはなかった。家宅捜索が済むと、後は兵隊たちが箪笥の裏までかき回し、娘さんの赤い帯や草履まで持ち去った。彼らにしては珍しいものであったろうし『日本の東条の家から分捕って来た』ということが、国へ帰ってからの手柄話になるせいもあったろう。(畠山重人秘書談)『東京兵団』畠山清行

ロバート・ビュートー『東条英機(下)』にも同様の記載あり。米軍は東條家を接収しもぬけの殻にしていた。

 

朝日新聞長谷川記者畠山重人(東条英機秘書)秘書院長荏原為明の証言検証

 

 一見藪の中の証言のように思えるが整理してみよう。

 

長谷川記者 朝日新聞長谷川記者は、直接接触していない。証言「あばら骨の四番目と五番目」は新聞記事の左腹ではない。証言「それは近くの医者で、東条さんの所へいつも出入りして、自殺の相談にものってた人なんですねえ」。診察したのは荏原為明医師。相談していたのは別の医師、かかりつけの鈴木医師である。朝日新聞長谷川記者、アメリカ側の証言皆無。長谷川記者証言は、辻褄あわせの偽証である。

 

 朝日新聞記事荏原醫院よりの醫師診断の様子では「生命はとりとめるやうに見うけられた」。荏原醫院よりの醫師診断は「とうてい助かるまい」荏原醫師証言と米合衆国陸軍中佐P・クラウス報告。真相箱、「大將は死ぬだらう」。記者と醫師が真反対の証言。P・クラウス報告「午後6時25分、本官の要請でわが軍の軍医が到着した。軍医は、弾丸は左肺を貫通して心臓をかすめているが、生命はとりとめると思う」。「生命はとりとめると思う」は荏原醫師が帰った後の、午後6時25分以後の米軍軍医の診断。東條自殺捏造作戦の台本は「生命はとりとめる」で、朝日記者は見ていないと考えれば辻褄が合う。そして東條家の向かいの鈴木医師ではなく、なぜ荏原醫院なのか。東條英機と親しく、東條の身体を熟知した主治医鈴木医師なので、あえて避けた。自殺捏造作戦のため避けたと考えるのが、常識だろう。

 

 朝日新聞長谷川記者証言は、朝日新聞記事と辻褄あわせのための偽証である。直接接触したのは畠山重人秘書(介抱写真下記)院長荏原為明(アメリカ側の証言有り)だけである。

下記は自決直後の写真。バーンズ伍長撮影か?
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↑東條と畠山秘書。

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↑治療中の東條。明らかに腹ではなく胸だ。出典 東亜の葉っぱ  東條英機

 

畠山重人(東条英機秘書)の証言 
 「部屋を出る時、東条さんは新聞記者らしい男に『この戦争は、正義の戦いだったのだ』というようなことを、話していました」は狂言自殺払拭のため、朝日新聞報道に追随し証言した。証拠は同席の写真だ。東条英機は話せる状態ではない。上記写真参照。常識で考えよう。上司の死の間際の遺言を、秘書が聞かないわけは無い、必ず同席し聞くはずだし、アメリカ側も真の自殺なら、朝日新聞記者などではなく、親類縁者同席させ聞かせるはずだ。真の自殺でないから、離されたが、正論だろう。朝日新聞報道の東條大将の遺言では「・・・畠山水をくれ・・・」と記載され、遺言の間同席しているような内容になっており、秘書証言とは異なる。詳細な秘書証言は逆に、朝日新聞報道の捏造を物語っている。畠山重人秘書は撃たれたことを知っていたが、当時の時代背景では、火に油を注ぐことになるので沈黙した。上司の死の間際の遺言を、秘書が同席もせず聞かなかった疑問や、秘書が一見した現場なのに、詳細な証言の謎もこれで消える。畠山重人秘書はこの真実を、必ず誰かに託しているはずである。畠山重人秘書の証言は畠山コードといえる。

 

院長荏原為明の証言 
 「私が診察していると、東条さんは『お前はなんだ?』ときく、『医者だ』と答えると『オレをなおすと、国のためにならんぞ』と言った。私は、気の短い方だから、とたんにむっとした。(今になって死ぬ奴があるか。堂々と裁判に出て、日本の正義を主張してやるべきだ)という考えだったから」は、上記のように東条英機は話せる状態ではない、偽証。東条英機が話したのではなく、この医師が後日心に思ったことを、話したのだろう。(今になって死ぬ奴があるか。堂々と裁判に出て、日本の正義を主張してやるべきだ)は、後日のマスコミの報道。報道の応答の言葉として東條の言葉が、逆に捏造された。前述の院長荏原為明の「米軍に撃たれたのだという噂」発言から察するに、捏造者は聞き取り側だろう。東條バッシング真っ盛りの後日の証言なので、こうなった。この医師は「傷は心臓すれすれで、深さも薬指の第二節くらいまであったから、私はとうてい助かるまいと診断して帰った。」とし、帰っている。「・・・現れた日本人医師は、明かに大将がサムライらしく死ぬことを望んでいるらしく、傷口を洗浄する以上の手当に熱意を示さなかった。・・・午後6時25分、本官の要請でわが軍の軍医が到着した。軍医は、弾丸は左肺を貫通して心臓をかすめているが、生命はとりとめると思う、と述べた」と前述のアメリカ側の証言有り。

 

偽証なら占領軍が去った後に訂正すればよい、いまだに訂正が無いのは真実だったからだという愚論がある。独立後もなぜ偽証者が名乗り出ないか。理由は簡単だ、歴史に名を残す売国奴となるので、真実は墓場まで持っていくしかないのだ。当時占領軍は何でも出来た、白も黒に出来た。証言よりも状況証拠が正しい。東条英機の言葉や遺言は、だれも聞いていない。アメリカ側の証言も皆無。

 

東條英機抑留後の東條家

 光枝(東條家長女)が久しぶりに帰ってみると、家のなかはがらんどうでなにも残っていなかった。米兵たちが次から次とトージョーの家を見学に来て、記念品として家財を持ち帰ってしまったのである。めぼしいものは、東條が自決した時、現場に入り込んだ新聞記者ら関係者が、持ち帰ったようだが、その後もみやげ物あさりは続いていた。東條が自決した時、確かに応接間にかかっていた大きな200号くらいの風景画は、額と木枠だけ残して絵を刃物で切り抜き持ち去られていた。

・・・応接間においてあった東條の長剣も短剣ももちろん無くなっている。また神棚の飾り具、さらには台所の什器、たとえば「東條」と焼印を入れたしゃもじやおひつ、箸の類いに至るまで一切合財が消え失せていた。しかも、彼らは土足で家中をあさり回ったため汚れ放題の廃屋に様変わりしていた。佐藤早苗著『東條勝子の生涯』

 

「米司令官に陣太刀送る」と米国捏造

 東條英機療養中「米司令官に陣太刀送る」など、米司令官の軍門に降ったかのような報道をされ、国民のひんしゅくを買った。作家の山田風太郎も「死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか」と日記に記している。しかしこれは、米軍の陰湿な捏造だ。東條家は米軍に接収され、贈る物など皆無なのは、前述のように、明らかなのだ。接収したものを、東條英機を貶めるため贈られたと報道したに過ぎない。 

 拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の朝日、読売、毎日の新聞でも阿南陸軍大臣ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった。

 なんと用意周到に、自殺直後の写真まで撮影され、GHQのプロパガンダ『真相箱』が、執拗に狂言自殺ではない本当の自殺だと、宣伝しているのだ。常識で考えれば『真相箱』は捏造宣伝なので、貶めるため狂言自殺だと宣伝しそうなのだが、東條を弁護し辻褄を合わせ本当の自殺だと、宣伝しているのだ。

 プロパガンダ『真相箱』は捏造宣伝のための『捏造箱』なのだ。捏造宣伝すればするほど逆が真実なのだ。

 

戦後の卑屈な迎合者が競って媚を売りねじ曲げた戦後史

 「・・・昨日迄軍閥の機関であった新聞は、挙げて過去を清算し、掌を翻すが如く占領軍を謳歌し、軍部及び過去の指導者を攻撃し始めた。他人を攻撃し又は誣「し(事実をねじ曲げる)」ゆることは自分を擁護し、自分の責任を軽くするものと早合点した。終戦直後の昨今の状況ほど情けない日本の姿は又とあるまい」昭和61年に発見された重光葵の手記

 

 近衛文麿の女婿で、その秘書官をつとめた細川護貞は、東條の自殺未遂の報を知ると「傷つきたる後の談話といひ、今日に至りたる態度といひ、人間の出来損なひなること明瞭なり。かゝる馬鹿者に指導されたる日本は不幸なり」と翌日の日記に記した。…『細川日記』(9月12日の記述)『「文明の裁き」をこえて』牛村圭著・中公叢書・2000年発行(前掲書103~104頁

当時日本国民は、醜いことだが、敗戦責任転嫁用の標的を必要としていたことも事実だった。マスコミは占領軍に迎合し、東條叩きを開始した。

戦勝国の侮日宣伝に協力した当時の読売新聞や朝日新聞は、「大将が自殺に使用した拳銃は口径3.2ミリの玩具同然」との批判記事を検証もせず、戦勝国の言うがままに広く流布させた。自殺に用いるには確実性の低い銃であることから狂言自殺説の根拠になっている。「注・口径32(口径32=32/100インチ・ 1インチは25.4mm・径8.128mm)の銃はあるが口径3.2ミリの銃などない。新聞社の捏造報道。拳銃の口径は、45=45/100インチ=径11.43mm。口径38=38/100インチ=径9.652mm。口径25=25/100インチ=径6.35mm。口径22=22/100インチ=径5.588mm。

総大将が刀ではなく玩具同然の口径3.2ミリのピストルで、頭ではなく胸を撃ち、心臓から外れたため生き残ったと言うのだ。東條英機は、明治維新時に政府軍に蹂躙された東北出身ゆえか、「忠臣」と呼ばれるほど天皇を敬愛していた陸軍大学校出の生っ粋の軍人である。「忠臣」が天皇の弁護もせず、護国責任者が戦争開始の理由も弁明せず、自殺未遂とは、あまりにも出来すぎではないか。あまりにも米国の筋書きどおりではないか。

「東条元首相の自決並戦争犯罪人氏名発表に対する反響」京都府警察部特高課の報告

 ・・・東条元首相の自殺を図りたることに付ては、「死に遅れた現在に於ては戦争の最高責任者として男らしく裁判にかかり大東亜戦争を開始せざるを得なかった理由を堂々と闡明『せんめい(明確にする)』したる上、其責任を負うべきであった」となし、又、米兵に連行を求められて初めて自殺を図りたるは生を盗みおりたるものと見るの外なく、然も死に切れなかった事等詢「はかる(みんなに尋ねる)」に醜態なりとし同情的言動認められず・・・とすべての世論が東條に冷たい視線を送り、正に米国の筋書きどおりとなった。(注・前述の院長荏原為明の証言 「私が診察していると、東条さんは『お前はなんだ?』ときく、『医者だ』と答えると『オレをなおすと、国のためにならんぞ』と言った」東条捏造発言のソースがこれである)

 対敵諜報部隊(CIC)は政、財界、報道陣、更に各警察本部を通じて自殺未遂の反響を調査。同情は少なく「ことごとく非難」する声が強かった(CIC秘密文書)。占領軍が自殺捏造の効果を、調査したのだ。(中国新聞1998.11.30.付け4面)。

 東條英機は獄中で「助けてくれたアメリカ人に感謝している」と岩淵清巳に語り、迎合発言が多くなる。

『戦中派不戦日記』山田風太郎(1922~2001年。伝奇的時代小説を書いた小説家。風太郎忍法を創出)(20年9月)十二日(水) 曇

    ・・連合軍司令部より逮捕状を発せられた東条大将それを待つことなくピストルを以て自決を計ったが死に至らず、敵幕舎に拘留せられ、アメリカ軍軍医の手当を受けつつありと報ぜらる。8につづく⇒

真実史観8東條英機真実誤認の起因狂言自殺報道で家族近親者覚悟の自殺と反論

 「東条大将はピストルを以て……」ここまできいたとき、全日本人は、「とうとうやったか!」と叫んだであろう。来るべきものが来た、という感動と悲哀とともに、安堵の吐息を吐いたであろう。

 しかし、そのあとがいけない。

 なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。

 逮捕状の出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない。

 逮捕状は続々と発せられるであろう。それにあたるべき人人はみな自決してもらいたい。今、百の理屈よりも一の死は、後世に於て千の言葉を以て国民に語りかけるにちがいないのだ。

 ただ、出来るならこれらの人々は余命の炎をかりたてて、愚かな自己弁護のない本戦争の真相を書き残し、信頼し得る側近の日本人に秘密裡に託しておいて欲しい

 

(20年9月)十三日(木) 曇

 杉山元本土防衛総司令官自決。夫人殉死。杉山夫人、戦争中東条夫人のごとく人の目に立つことなし。しかし東条夫人は恬然として生き、ひそやかなる杉山夫人ひそやかに死す。されどその婦道燦たり。

 されど死にし幾十万の兵の母、妻を思わば、軍の責任者の妻として是非もなし。

 

(20年9月)十七日(月) 雨

 米国新聞が、日本の指導者にだまされるなとさけんで、こんなことをいっている。

 

 「米国人は東条こそ戦争の元凶であり、侵略政策の張本人であると思っているが、日本人はそうは考えてはいない。東条は日本の歯車の一つに過ぎない。真の指導者は依然として日本の指導権を握っている。」

 

 アメリカ人は、東条大将をヒトラーに匹敵する怪物に考えているらしいが、これは滑稽である。日本人は東条大将を、戦争中も現在も、唯一最大の指導者であったとは考えていない。一陸軍大将だと思っているに過ぎない。

 ただわれわれが東条大将にいさぎよく死んで欲しかったのは、彼に対する恨みでも責任転嫁でもなく、アメリカがそう見ているから、そういう代表的日本人に敵の裁きを受けるような恥辱を見せたくないし、またこちらも見たくないからそう念願したのである。が、とにかく東条大将はこれからも敵から怪物的悪漢と誹謗され、また日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書きたてるであろう。

 東条大将は敗戦日本の犠牲者である。日本人はそれを知りつつ、日本人同士のよしみとして、彼が犠牲者の地に立つことを、敵と口を合わせて罵りつつ、心中方斛の涙をのんで彼に強いるのである。

 しかし彼の人間と存在意義は、遠い後に歴史が決定するであろう。

 

(20年9月)十九日(水) 快晴

 ・・・東條でもそうである。「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ」と彼はいっているそうである。それならばそれでよい。卑怯といわれようが奸臣といわれようが国を誤ったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。ならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。

 「生きて虜囚の辱めを受ける事なかれ」と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。今の百の理屈より、一つの死の方が永遠の言葉になることを知らないのか。

 東條大将や鈴木大将の価値は後世の史家に待つとしても、この死に対する踏み切りの悪さだけはどうにもいただきかねる。

 

『夢声戦争日記』徳川夢声1894~1971年。漫談家。司会者)(20年)9月12日

 国定少佐の立派な死に対して、今朝の新聞に出ている東条大将の自決ぶりは何たることであるか。

一、死ぬならもつと早く死ぬべきであつた。生きていたからには、堂々と戦争犯罪人審判の法廷に立つて、所信を披瀝し、極力責を負い、陛下に御迷惑の及ばぬよう陳弁して、それから自決するなり、刑の執行を受くるなりすべきであつた。

一、A兵が捕縛に来てから、さて自決などはなつていない。一日延ばしにドタン場まで生き永らえていたのか?一、ピストルで腹を射つなんて、凡そこれは前代未聞であろう。腹を打つて即死出来ぬくらい百も承知の筈だ。それでいて、駆けつけた新聞記者に、切腹よりもピストルの方が遣り損じない、一思いに死ねるから、そうしたと述べている。

一、一思いに死ぬことを望んだくせに、新聞記者に向つて長々と、愚にもつかない遺言を述べているのは、甚だ矛盾を極めている。例の自己宣伝癖が死ぬまで発揮されたのであるか。

一、自分の事は歴史の審判に待つだの、俺の死骸は見せ物じやないとマッカーサーに言つてくれだの、大見得を切つているが、歴史の審判も凄まじい、見世物じやないも幼稚なタンカである。

 以上一寸考えただけでも、この大将の自決は大醜態である。なんだか吉良上野之介の最期を想わせられる。

 

『敗戦日記』高見順(1907~1965年。小説家)

 志賀さんは情報局へ行かれるとのことで、渋谷からみんなはまた同じ地下鉄のホームへ行った。

 人が東京新聞の夕刊を読んでいた。のぞくと、東条大将重態とある。私はここではじめて東条大将の自殺を知らされたのである。その話を私はした。そしてそういう話になって「やっぱりどうも同情は持てないね」と志賀さんは言った。穏やかな、いい言葉であった。もし私が東条大将の自殺を朝刊で前もって知っていたら、きっと激した、飛び出た、浅間しいことを言ったに違いないと思った。

 

 虎ノ門で志賀さんと別れた。

 新橋で川端さんが切符を買うため、長い行列のうしろに立つと、私は夕刊を買おうと思って、駅の外に出てみたが、いつも売っているところに売り手がいなかった。どこにも売り手が見えなかった。

 歩廊で他人の新聞をのぞくと、東条首相の時の閣僚が戦争犯罪人として逮捕されたという記事が見えた。ビルマ大使その他の名も見えた。

 家へ帰って大急ぎで新聞を見た。東条大将の記事が出ている。

(読売新聞)

東条大将自決 

 聯合軍側からの抑留命令直後

 昨午後自邸で拳銃で危篤

 

 期するところあって今まで自決しなかったのならば、なぜ忍び難きを忍んで連行されなかったのだろう。なぜ今になってあわてて取り乱して自殺したりするのだろう。そのくらいなら、御詔勅のあった日に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に立って所信を述べるべきだ。 醜態この上なし。しかも取り乱して死にそこなっている。恥の上塗り。

 

東條叩きがエスカレートし、自殺狂言説がはびこるようになったため、狂言自殺説を翻すための証言が東條英機や身内近親者によってなされた。

 

片倉衷の証言(202師団長) 

1945(昭和20)年8月22日・・・東條邸を訪ね・・・東條は私に次のように語った。「俺は裁判にでも何でも行って堂々と所信を述べるつもりである。天皇陛下には絶対ご迷惑をかけたくない。戦争に対する全責任は自分がとるためにも敢えてこの道(大義を果たすまでは自殺せずに生きる『公』)を選んだ。しかし、連合軍がなすべき道を履まず、不当な処置(例えば捕虜の取扱いをするが如き)をとる時は俺は自ら処する(『私』)覚悟である」と。沈痛な表情の中にも毅然たるものがあった」と証言。「東京裁判と東條英機」

 

片倉衷の証言(202師団長))証言検証

後半の赤字の証言は狂言自殺説を翻すために後から付け加えた偽証だ。狂言自殺説を翻すための、過剰で詳細な近親者の見てきたような証言が多いのだ。

 前半で東條の大義公」を話し、生き恥を曝した理由を話し、その目的も完遂せずに最後に捕虜の取扱いを受けたら死ぬ。「私心で死ぬ」は無いだろう。明らかに不自然な文だ。大義完遂のため生き恥を曝し、死を覚悟した東條の大義「公」のまえに、捕虜の取扱い「私」など一介の塵に過ぎないはずだ。

 死を覚悟した東條の大義「公」と、捕虜の取扱い「私」を同次元で話すはずが無い、辻褄が合わない。明らかに「公」「私」混同捏造証言。赤太字証言は東條の名誉を思い、狂言自殺説を翻すための偽証。他は真実。

 

下村陸相証言

・・・私は、その以前にかなり確かな筋から東條氏が自殺を決意していることを聞いたので、これを諌止するため1945(昭和20)年9月10日(片倉衷氏との面談から19日後東條自決決行前日)、同氏を陸軍省に招き他人を交えずに一時間半ほど懇談した。

 同氏は最初の間、「自分は皇室および国民に対し深く責任を感じているので、自決するのは当然である。しかし外国人から裁判を受ける必要はない」と主張した。これに対して私から、「国際裁判の第一の目的は、戦争責任の所在を追及するにあると察している。これに対して日本の立場や政府の責任などを最も明白公正に答えうるものは、あなた以外に、これを求めることは不可能と思う。もし、あなたが裁判以前に自殺されたら、審理上日本側が不利不公平な破目に陥ることがあり得るし、ことに万一累を陛下に及ぼし奉るような事態でも起きたら、それこそ申訳ないではないか」と力説したところ東條氏は「生きて法廷に立たずとも、すでに詳細な供述書を用意しているから迷惑はかけない」といって中々応じなかったが、ただ累が皇室に及ぶかも知れないという点では、同氏の性格上大いに苦悩したらしく、しばらく黙考の末、「君のいうことはよく解る。しかし自分の決意には今一つの理由がある。自分は、かつて公布した戦陣訓の中に、俘虜の辱めを受けるよりも潔ぎよく死をえらべと訓えた。連合国側がもし容疑者に対して侮辱的な取扱をする場合、自分はこれを甘受することはできない」といって譲らない。

 ・・・私の知る限り、同氏の自殺未遂は同情すべき点こそあれ、一部で噂されたような芝居でも何でもない。また当日まで決行しなかったのは裁判に提出するための供述書の浄書を腹心の者に頼み、その出来上りを待っていた故であったとのことであった。 下村定 『終戦処理の回顧』

 

下村陸相証言検証

 「外国人から裁判を受ける必要はない」は、片倉衷証言と真反対証言。

 「詳細な供述書を用意している」は、未だに発見されておらず、腹心の者証言皆無。

 明治天皇「大元帥(だいげんすい=全軍を統率する総大将で、旧陸海軍を統帥した天皇の称」が全軍人に下した勅諭、軍人勅諭(降伏禁止の記載など、一切無し。軍法にも記載無し)を無視し、当時の陸軍大臣である臣(家来)東条英機が示達した陸軍だけの戦陣訓に「義」(公)の為ではなく、私心(捕虜になるのは辱だから、捕虜になるなら自決せよ)で死ねと、おしえたというのだ。軍人勅諭を無視し、軍法を無視し、天皇を冒涜するこんな不敬は無い。「戦陣訓」起案責任者・今村均将軍も、今報道されている「戦陣訓」の内容は、本意「ほんい(真の意味)」で無い、「誤解された」と発言している。東條自決決行前日の下村陸相との会談も、狂言自殺説を翻すための「公」「私」混同捏造証言と、なっている。虜囚の辱=敵の捕虜では無く、日本軍兵士が軍紀を犯し、日本軍に捕まるが本意。生きて虜囚の辱を降伏禁止と解釈は、戦後の捏造。戦後の捏造戦陣訓(降伏禁止)を理由にしている(赤太字証言)。

 「当日まで決行しなかったのは裁判に提出するための供述書の浄書を腹心の者に頼み、その出来上りを待っていた故であったは、片倉衷証言と明白に異なる。「外国人から裁判を受ける必要はない」と発言し、裁判に提出するための供述書作成では、整合しない。また、浄書を頼まれた腹心の者証言も、皆無。

 下村陸相証言狂言自殺説を翻すための偽証。

 

たったの26日間で治癒、10月7日に退院し大森拘禁所に入所「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」東條英機のコード全て含まれた覚悟の決まった証言

元参謀本部総務課長榊原主計大佐が大森拘禁所にて東條大将との会談メモ 

 「責任は全部自分で負ひ悪者となつて畢(おえ)る考へなりき。死を以て責任を明(あきらかに)にする所存なりき。勝者は敗者に対し全能の神なり。敗者の声は狼の前の小羊の声に過ぎず、大東亜戦争の正邪は後世史家の批判に俟つべきものにして勝者の批判により決せられるべきものにあらず。

 『予は臣節を全うする為死を以てお詫びせんとせる』も、此に関して下村大将と意見を異にし、同大将は最後迄生を有し堂々裁判に臨み正義の主張を述ぶべしと奨められたり。

 自決の方法に就いても諸種考へたるも(刀、其他)心臓を射つを確実と考へ、それとなく医者にも訊ね研究の上実施せるものなり。只アメリカの医術の進歩につき考へ違ひをなしあり。アメリカの医術は日本より十年は進みあり、心臓の穴を血の粉にて塞ぎ(注・心臓に穴などは開いていない。心臓に穴が開いて血の粉にて塞ぎ助かるとは、いかにも漫画的である。これも東條コード)日本の医術にては到底絶望と思惟せざらるゝを救出せり。拳銃は玩具の拳銃と謂ひあるも誤にして陸軍の正式拳銃なり」『東條英機大将大森拘禁所に於ける感慨』(東條英機 / 東條英機刊行会 上法快男編 所収) 

 

東條英機証言検証

前記の片倉衷202師団長東條英機自決の理由証言

 「連合軍がなすべき道を履まず、不当な処置(例えば捕虜の取扱いをするが如き)をとる時は俺は自ら処する覚悟である」 (私利私欲)

前述の下村(陸相)大将東條英機自決の理由証言

 「戦陣訓が東條英機自決の理由」(公)

 しかし東條英機が語る自決の理由は、「予は臣節を全うする為死を以てお詫びせんとせる」(日本国天皇の処遇未定の時点での臣(家来)の自決は、日本国天皇を見棄てたことになり、臣節を全うせず、私利私欲)で三者三様で異なる。

 「同大将は最後迄生を有し堂々裁判に臨み正義の主張を述ぶべしと奨められたり」は、榊原主計大佐から下村陸相証言を聞き、話を合わせた。と東條英機自身自決の理由をどれにするか、まだこの時点では定まっていない。

 「心臓の穴を血の粉にて塞ぎ」は、偽証。心臓に穴などは開いていない。心臓に穴が開いて血の粉にて塞ぎ助かるとは、いかにも漫画的である。これも東條コードだ。

 「日本の医術にては到底絶望と思惟せざらるゝを救出せり」と米軍に迎合し、「悪者となつて畢(おえ)る」を実践している。

 「拳銃は玩具の拳銃」は、傷は浅かった。9月11日東條大将自決圖り、10月7日に退院し大森拘禁所に入所、たったの26日間で治癒しているのが証拠。

塩原時三郎弁護人が日本記者団に語った東条の述懐(狂言自殺払拭のため、身内近親者に呼応した証言(この時点での自決理由は私利私欲)以後身内近親者証言のソースとなった

 後日、法廷で塩原時三郎弁護人(元逓信院総裁)が日本記者団に語った東条の述懐は、つぎのようである。

 「世間のヒンシュクを買った当時の行為も事前になんらかの通知があり、時間的に余裕を持てばあんな失敗は演じなかったと思う。終戦後の閑居中自分のとるべき態度につき二つの立場を考えていた。第一は自由に発言する機会を与えられたならば堂々と所信を披瀝して戦争勃発の真相を明らかにし、すべての責任をとるつもりで考えをまとめ、書き物もしていた。反対にもし身柄を外国に連行され、サラシものになるような場合を想像して自殺の準備にも万全を期した。まずピストルを肌身はなさず持ち、医師に心臓の上に墨で丸印をつけてもらっていた。風呂のあとでは書きなおしていた。

 軍刀ももちろん身近に置き、さらに愛用のパイプには青酸カリをつめて万一にそなえた。十一日の当日まで、戦犯の予告を受けなかったので、まだ余裕があると思っていた。ジープの音がさわがしいので、窓をあけてきくと正式逮捕だという。それで初めて米軍に抑留されると知ったわけだ。風呂場に入り、水をかぶって体を清め、新しい軍服を着書斎の錠をかけた。ピストルでかねてのマークを射った。倒れた。ほとんど間髪をいれず応接間のベニヤ板をけって米兵が入って来たように思う

 撃ちそこなった。年をとっているのでマークのところの皮が少し下方に垂れさがっているためか、ピストルを逆に撃ったので手もとが狂ったらしい。こめかみがいいと思ったのだが、悲惨な死に顔の姿を外国にもっていかれては恥だと考えた。(注・朝日新聞記事に迎合)・・・今日では初めの意思にもどって一切のことを腹蔵なく話す覚悟である。『東京裁判 (上)』 朝日新聞法廷記者団

 

上記証言検証

 米国自殺捏造に対して、「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」と、対処方法(覚悟)決定後の証言である。

 第一は自由に発言する機会を与えられたならば堂々と所信を披瀝は、逮捕されての裁判以外皆無。当時の常識。

 「反対にもし身柄を外国に連行され、サラシものになるような場合を想像して自殺」サラシものにされても天皇を護るのが臣の勤めは、当時の常識。現在の常識で考えても、こんな不敬不忠発言は無い。当時の国民が怒るのも当然である。終戦後、自殺も逃亡もせず生き恥を曝しながら臣等が生き長らえた理由は唯一つ、サラシものにされても臣(家来)の勤めを果たすためだ。東條内閣総辞職の際、昭和天皇が東條に下賜した異例とも言える勅語を修養録に転載し、肌身離さず身に着けていた忠臣東條の選択肢には、日本や天皇の行く末定まらぬ時点で、臣(家来)の勤めも果たさず、「私欲」の自殺は無かった。

 東条は男である、乳首を基準にすれば心臓の位置は確認できる。しかも心臓は、人の拳(こぶし)大の大きさで、大きいのである。それを「医師に心臓の上に墨で丸印をつけてもらっていた。風呂のあとでは書きなおしていた。マークのところの皮が少し下方に垂れさがっている」と実に漫画的な証言をしている。しかも汗をかく夏場である。墨で印を付けても下着が汚れて消えることは、誰でも想像出来る。どちらが現実的か、考えれば分かることだ。狂言自殺払拭のためと、被害者(撃たれた)証明用の偽証だ。ただし「風呂場に入り、水をかぶって体を清め、新しい軍服を着。(時間を費やした)」は事実だろう。心臓は、拳(こぶし)大である、皮が垂れ下がろうが、逆に撃とうが、左利きであろうが自らの自決であれば、外すことなどない。非現実な漫画的手法「心臓の上に墨で丸印」を用いたと証言することで、東条コードとしたのだ。

 「米兵が入って来たように思う意識が無くなったと語っている。意識が無い者は語れない。つまり朝日新聞報道は捏造。胸中を吐露している

 以下の証言は、この証言をソースにし、皆辻褄を合わせている。

 

以下は「塩原時三郎弁護人が日本記者団に語った東条の述懐」がソースの、追随証言である。

 

東條秘書畠山重人証言

 「その緊迫した空気は、いま話しても想像もできないほどで、私なんかも当然殺されるものと思ったが、どうせ殺されるなら、一人でも二人でも斬って死のうというつもりだった。東条さんは、万一にそなえて毒薬も持っていたし、また拳銃で自決する時の用意に、心臓のあたりに墨で印をつけていた。はじめは裁判に出て日本の正義を訴えるつもりでいたらしいが、裁判もなしに、ここで殺されるものならば、敵の手にかかって恥をさらすより、自ら生命を絶とうと決心したのです。米軍は、この時の失敗にこりて、その後の戦犯逮捕は、日本の警察に命じてやらせるようにしたのだが・・・」(畠山清行著『東京兵団』)

 

佐藤賢了中将証言

「東条は、進駐軍が逮捕に来ようなどとは考えてもいなかった。敗戦になって、戦争裁判が云々されだすと、東条は日本政府に、自分を戦争の全責任者として逮捕し、敵に渡してくれと申し出た。東条のつもりとしてはBC級の戦争責任までも、全部一身に背負って行こうと考えていたのだ。そして、生きた自分を敵に引渡せば日本政府の責任はすむ。だから、その引渡されたとたんに、自殺しようという肚だった。まあ、これは非常にむずかしいことではあるが、彼は真剣にそう考え、そのために心臓の上あたりへ、墨で弾丸をうち込む目印もつけていたし、特に小型のピストルも用意していた。(畠山清行著『東京兵団』)

 

『父・東條英機に渡した青酸カリ』東條輝雄(次男)手記 文藝春秋2005年2月号

 ・・・私は、当時もいまも父のことを心から尊敬してやみません。これまで私は、父、東條英機について何を言われようが、何を書かれようが気にしてはまいりませんでした。あえて弁解する必要もありませんし、反論する気もないのです。

 父、東條英機は常に信念の人、無私の人だった。私はそう思っています。

 ・・・昭和二十年八月十五日、あの終戦の日の前後のことは、忘れようと思っても忘れられるものではありません。

 私が、父と母が暮らす、当時用賀にあった実家にいったん帰ったのは、八月二十日前後だったと記憶しています。

 この時、私は自分が勤めていた工場にあった青酸カリを密かに持ち帰りました。家族全員の自決用に、青酸カリの結晶が詰められた茶色の瓶を鞄に潜ませていたのです。父や母が自決を覚悟しているのならば、私も一緒に死のう。そういう気持ちだったのです。

 実家に戻り、父にこの青酸カリのことを告げると、父は『役に立つ。いいものを持ってきたな』とだけ呟き、深く頷いておりました。その後、父は私が渡したこの青酸カリを持って、近くに住むかかりつけの鈴木医師のところへ出かけました。

 実は、青酸カリは、純粋の結晶の状態では毒性が強過ぎて扱いにくいのだそうです。そのことを知っていたのでしょうか、父は鈴木医師のところで、私が持ち帰った青酸カリにうどん粉を混ぜてもらい、それを小分けにしたものを手に戻ってまいりました。

 

 父は必要があればいつでも自決する覚悟をしていたのだと思います。しかし一方で、父は「開戦の時の総理は俺だからうっかり死ぬことは出来ないんだよ。責任者なんだから」とも言っていました。米軍には逮捕されない。もし米軍に逮捕されるようならば自決する。しかし逮捕されずに、話す機会が得られるのならば、日本の立場をはっきりと述べたい。そうした思いが強かったようです。

 

・・・後になって知人を介し、父が私に宛てた遺言が送られてきました。・・・9につづく⇒ 

真実史観9東條英機真実からは乖離の展開に『一切語るなかれ』と真贋遺書二通

上記証言検証
 東條逮捕は当時の常識。逮捕されずの弁明など不可能なことは東條英機、百も承知なことだ。有名な抑留直前の窓辺の写真は、弁明のチャンス到来(大義)に微笑んでいるではないか。「しかし逮捕されずに、話す機会」などは皆無。「もし米軍に逮捕されるようならば自決する」は、塩原時三郎弁護人が日本記者団に語った東条の述懐から、狂言自殺説払拭のため、東條輝雄(次男)は、引用したに過ぎない。他は事実だろう。特に開戦の時の総理は俺だからうっかり死ぬことは出来ないんだよ。責任者なんだからは、息子(次男)に東條英機の本心をなにげなく語っており、身内の息子なればこその証言である。

 後述するが、狂言自殺払拭目的の遺言は、自決以前の日付で内容は素っ気無い。「・・・後になって知人を介し、父が私に宛てた遺言が送られてきました。・・・」は、どうだろうか、公開がまたれる。

 

東條英機妻勝子証言『戦後の道は遠かった』

・・・遺書もそんな折に書かれたようです。日付は九月九日となっています。この遺書を私は苦しかったあの月日、肌身はなさずにもちつづけました。他に巣鴨に入ってから書かれた二通の遺書とともに、何物にも代えがたい大切なもの。どなたにもお目にかけたことがございません。

「葬儀は東京にては行なわず、安真木(註=九州の私の実家)へ帰りて子供たちのみにてなすべし。

また遺骸は政府にて、あるいは敵に渡すことあるべし、快くこれに応ずべし、葬儀は頭髪や爪にて結構なり、霊はその日のうちに安真木に先着しあり。

自分に従って自決する如きは自分の名誉を汚すものなり、堅く禁ず、よく子供たちの行く末を見届けたる後来たるべし」

またこうも書かれてあります。

「魂は公的には国家とともに、私的には御身と子供の上にあって守るべし、安心せよ」

主人はとうに死の覚悟をしていた。それは八月十五日以来ずっとそばにいた私には、ひしひしと感ぜられることでした。私も覚悟をしていました。それだからこそ、最後の最後までは、と思い、ずっと離れずにいたのですが・・・そしてあの日が来ました。

 

妻東條勝子証言検証

九月九日の日付だけ異なり、後は事実だろう。狂言自殺説払拭のためだ。

 

東條由布子(東条英機孫)著「祖父東条英機『一切語るなかれ』

 (進駐軍が身柄拘束に来た事を知ると)応接間にこもった祖父は、すでに書いておいた遺言状をテーブルの上に置き、二挺の拳銃と短刀を並べた。

 ・・・正式な逮捕状ではないことを確認した祖父は、以前から用意していた古賀の叔父が自決した時のピストルの銃口を、かねてから隣の鈴木医師に印をつけてもらっていた心臓の部分に当てて引き金を引いた。

 祖父が普段、護身用として身につけていたブローニング社製の小型のピストルとは違い、古賀の叔父のピストルはアメリカ製のコルト三二口径の大きなものだった。左ききの祖父が射ったピストルの弾はわずかに急所を外れ、自決は未遂に終わり、生涯、無念の思いを残す結果になった。

 

東條由布子著「祖父東条英機『一切語るなかれ』」検証

 

「東条将軍逮捕に関する報告米合衆国陸軍中佐P・クラウス

当日二個分隊を率いて東條邸に踏み込んだクラウス中佐の報告。

 東条将軍邸に到着したとき、将軍は窓越しに新聞記者と話していた。本官は、玄関前に部下を配置して、将軍に窓を開けるよう要求した。

 将軍は、逮捕状を持っているか、と質問した。逮捕状ではないが、正式の拘引命令書を持参したと答えると、将軍はその確認を希望した。本官は、邸内で見せるゆえ、ドアを開けるよう重ねて命令した。

 東条将軍は白いシャツ姿であったが、本官の発言が終わると、うなずいて窓をしめた。窓にかぎをかける音が聞えたが、そのあと邸内は静まり、玄関にまわった本官の耳には、近づく足音は聞えなかった」

 

 祖父(東條)は逮捕状を確認していない。

 「すでに書いておいた遺言状」とは、前述の東条英機遺言とされたコピー文書である。「古賀の叔父のピストルはアメリカ製のコルト三二口径の大きなものだった」と記載しているが東条英機は「拳銃は玩具の拳銃と謂いあるも誤にして陸軍の制式拳銃(南部14年式自動拳銃)なり」と証言している。(元参謀本部総務課課長 榊原主計大佐 昭和20(1945)年11月、大森拘禁所に入所にて東條英機と面会・対談しこれを記録『感慨』東條英機 / 東條英機刊行会 上法快男編 所収)

 前述の塩原時三郎弁護人が日本記者団に語った東条の述懐(狂言自殺払拭のため、身内近親者に呼応した証言。以後身内近親者証言のソースとなった)」を基に書かれているようだ。『一切語るなかれ』と制限された中では、これが限界だろう。

 

東條英機自決狂言説で矢面に立たされた家族を思い長男英隆への月日偽造直筆の遺書

 これは1945年9月3日(9月11日が自決とされた日)、日本側代表団がミズーリ号で降伏文書に調印した翌日に書かれていると言われている。公開されている東條の直筆の遺書はこれのみであるという。長男英隆の長女東條由布子の著書「祖父東條英機『一切語るなかれ』」で、その現物の写真が公開されている。

 本題長男英隆への遺書に入る前に、下記の三男敏夫への遺言「修養録」を掲載し、比較検証とした。

 「修養(精神を練磨し、優れた人格を形成するように努めること)録」とは、三男敏夫が東京から長崎に赴任することになったことを聞き、東條が、贈った遺言。修養録(御令息宛東條英機陸軍大将遺言)←出典原文写真掲載

 

東条英機三男敏夫への遺言「修養録」1946年10月16日(原文カタカナ交じり文)

父英機書

修養録

終世坐右に備へ修養上のこととも記する便にでもせば良からん

 

遺 言 (花押)

忘れじな我が皇國「スメラギ(天皇)と振り仮名」は昔より 永久(とわ)に續かん神の國なり

兄弟と心合せて挙(こぞって)よかし 家の譽(ほまれ)を永世(とこしえ)へ迄も

父なくも皆手を取りて生きよかし 常に守らむ魂(こん)となりても

母を助け力合せて行けよかし 地下にて父も共に合さむ

於巣鴨(巣鴨において)

昭和二十一年十月十六日 敏夫不日「ふじつ(まもなく)」長崎に赴(おもむ)くに当り

英機(注・皇國は、すめらみくに、の意。スメラギと振り仮名は、皇國=天皇=神の國=日本の意を語っている。)

(花押)(かおう)←署名の下に書く判

一、此の日本に生れたる光栄と皇恩の深きを忘るるな、敗戦の現情は永き歴史の一頁に過ぎず、再ひ光輝ある歴史を飾るは御身等に待つ

一、仕事は始めは小なりと雖(いえども)小流集て大河をなす如く、小は大に進むの道程なるを知れ。又其の仕事を通じ日本の再建に成果を挙ぐることを心掛けよ。 日本の再建は青年の双肩に在ることを夢忘る可らず又小成「しょうせい(少しの成功)」に安ずる「やすんずる(満足)」なきことを忘るるな。

一、萬事終世を以て一貫すへし 誠は最後の勝利者なり

一、仕事に当ては不断の研究努力とを忘るるな。父は常に「努力即権威」を以て終世の仕事上の基本とせることは御身の知る如し。参考として心掛けよ

(花押)

一、世の中は意の儘(まま)にならぬものなり。之れ世は独りの世にあらず衆生「しゅうじょう(多くの人々)」の社会なるを以(もって)なり。 何事にも腹を立てず、心中には堅く正義を深く包み、笑て円満に暮すことを修養せよ

一、人格の修養を怠るな。人間最後の光りは人格の修養に俟つ「まつ(期待する)」。 人格の修養は 其の根底を宗教に求むるを良しとす。

一、世の中は誘悪多し。殊に酒色に於(おい)て然り。身を誤る基なり。親より受けたる清浄なる身心を損(そこな)はず慎(つつしむ)むへし。良友を選ひ、悪友を遠ざけよ

(花押)

一、遠隔の地に在ること故長き間には淋さを感することも多かるへし 其の際には母の健在にして二六時中御身を案じあることを偲び、兄弟姉妹亦御身の健在を祈りあることを思び、父も地下に在りとは謂へ其の魂は常に御身の身辺に在りて 護りあることを想起せよ

一、同じ地方に住む満喜枝とは互に特に助け合ふべし

一、輝雄の助力者として母の在世間孝養を頼む 又養母たる処置採れる父の配慮を察し光枝の老境に入るにつれ其の扶養を願ふ

一、遺産として與ふべき何物もなきも、親より譲り受けたる健全なる身心が唯一の遺産なり。物に頼らず、己に頼れ

昭和二十一年十月十六日

不日任地に赴かんとす敏夫に対し、予め遺言す

昭和二十一年十月十六日

於巣鴨

父 英機 (花押)

 

海山を遠く隔てて暮らすとも我れは夢にも忘れやはせじ

月見なば思い出せよ父母の 身を案じてし其の姿をば

昭和二十一年十月十六日 

英機

 

(付箋紙1)

父の記念として輝雄より左記勲章を貰ひ行くへし

勲一等瑞宝章(副章共)

功二級金鵄勲章

(付箋紙2)

一、父の事に就ては決して心配せぬ様にせよ。輝雄一家、光枝、次枝か東京に在り殊に近く母も上京すべく、萬事安神なり。

二、何れ死の判決あるは明瞭なり。父は判決の如きは念頭になし。唯帝國の主張をとの程度に認めしめ得るや丈か問題なり、之れかために全力を尽すへし 故に死の判決ありと雖決して驚くへからず、父は最后の御奉公を盡し喜で逝けりと思ひ居ることなり

三、長崎に到着后も時折り光枝を経て手紙に依り近況を知らされたし

 

東条英機長男英隆への遺書(東條コード)

 

昭和二十年九月三日予め「あらかじめ(まえもって)」認む

一、父は茲(ここ)に大義のため自決す

二、既に申聞け「もうしきけ(言い聞かせる)」あるを以て特に申し残すことなきも

 1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可らず

 2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ

 3、何なりとも働を立派に御奉公を全うすべし

 4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ

三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし

 

 昭和二十年九月三日づけ遺書が、いかに紋切り型で素っ気無く、東条英機の遺書の型を成していないか、お分かりいただけただろうか。正に同人異文だ。

 

上記遺書検証

 自決狂言説で矢面にたたされた家族を思い、後日、少なくとも退院後書かれたものである。昭和二十年九月三日予め認むは変だ。昭和二十年九月三日だけで事足りる。予め認むと特に強調する理由は無い、余計だ。文頭に年月日、次に自決記載は強調のためだ。語るに落ちている。父は茲に大義のため自決すだけが浮いており、他は駄文で、遺書とは呼べない。二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも(この文より以下の事は、既に長男英隆へ言い聞かせてあり、特に申し残すこともないのだが)なのになぜ又書いたか。昭和二十年九月三日予め認む一、父は茲に大義のため自決すは、二度目の遺書と書くことで狂言ではなく覚悟の自決を強調し、言外ににおわせた。「狂言自殺払拭目的で」又書いたと白状していることにもなる。月日捏造を言外に含んだ文意ともなっている。

 

 臣東條の大義(公)とは敵に堂々と日本の所信を明らかにすることであり、忠義(主君や国家にまごころを尽くして仕えること)を尽くすことである。自決(私)することなどではない。ましてや日本国や天皇の処遇定まらぬ時点での自死は、主君や国家を見捨てての自殺となり、不忠不臣この上ない。忠臣東條として主君や国家への愚弄は、さすがに抵抗があったのだろう、「予め認む」「茲に」「既に申聞け」「特に申し残すことなきも」など、遺書に不似合いな語句が並び、苦渋をおびた自嘲文となっている。1945年9月3日に書かれたという証拠は、皆無。しかしながら、正真正銘の、狂言自殺払拭目的の、東條直筆の遺書であろう。揺れ動く東條の心中が、実ににじみ出た遺書だ。一見自決強調文なので、米軍も認めた。これも東條コードである。

 

東條英機自殺では、後述26の矛盾点を一切払拭出来ない。

 真相は、米軍が自殺未遂を捏造したのではないのか。そうであればアメリカはなんと、たった一発の銃弾で日本軍人の総大将東條英機を、醜く貶める事に成功したのだ。これほど効果の有るプロパガンダは皆無だ。日本人は一発の銃弾で皆信じたではないか。まさにプロパガンダの恐ろしさだ。自殺未遂と言う日本軍人最大の屈辱をのまされた総大将東條英機は、自殺と公表され、しかも敵国アメリカに助けられ一命をとりとめた以上、撃ったのではなく、撃たれたのだと真実を語っても、占領下では、信じてもらえず恥の上塗りになるので、「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」だったのではないのか。東條英機の子孫への遺言、「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」はこのことを指しているのではないのか。真相は、わたし(東條)でさえも「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」だった、ましてや子孫は、「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」だ。子孫がいくら弁解しても恥の上塗りになるだけだ、他人が矛盾に気付き、「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」をキーワードに真実を究明するだろう、ではないのか。

 

 東條を米軍は始終監視しており、通告なしに取り決め違反の訪問をし、人払いの後、殺傷能力の低いピストルで急所を外して東條英機を撃ち(一発)、自殺を捏造した。話せないような工作も、したに違いない。CIC(対敵諜報部)が、あらかじめ捏造し用意していた口頭遺言の走り書きを、呼んでいた記者に渡し、東條が左腹部に拳銃を撃ち込み自殺を試みたと説明した。(朝日新聞長谷川記者は東條を直接見ていない、見ていれば、左胸と書いたはずだ。「左腹部に拳銃を撃ち込み」と、米軍の原稿のままに記載している。CIC(対敵諜報部)の予行演習では、左腹部だったのだ。)現場を自殺現場に捏造し、呼んでいたカメラマンに撮影させ、あたかも自殺をはかったようにみせかけた。3時間20分は現場捏造撮影時間だ。朝日新聞長谷川記者、荏原医師、畠山重人秘書の証言があるが、当時米軍はどんなことでもできた、米軍の報道をまともに信じることなどできないのだ。戦後、戦犯として処罰されることを極度に恐れていたマスコミは、迎合し、米軍操縦の完璧なロボットだった。戦陣訓報道で判明したように、喧伝報道の逆が真実なのだ。証言や報道よりも状況証拠検証が正しい。独立後もなぜ偽証者が名乗り出ないか。歴史に名を残す売国奴となるので、名乗れない。真相究明を恐れるあまり、62年後の今も不可思議な先人冒涜をつづけるNHKと朝日。なんとここでも朝日なのだ、朝日は根が深い。

 

 愚かでない東條は謀られたことに気付き「沈黙」。反論する愚かさに気付き、「弁解せず」。そして世論の狂言自殺説を翻すため、身内や側近までが覚悟の自殺を詳細に捏造し、証言しだし「一切語るなかれ」となり、自殺を肯定した。これが真相だろう。これで全ての疑問が氷解し、辻褄がすべて合う。まさしく「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」はキーワードなのだ。米国の謀略を喝破した東條が、決心するまでの心の軌跡を表現した言葉だ。

 米国は、前述のコピーの遺書(偽造遺書だ)や自殺捏造証拠を準備し、「自殺ではない、撃たれたのだ、米国に」と言う、東條の逆襲を期待していた。東條が逆襲すればさらに女々しく、醜く貶めることができたからだ。米国は東條の「沈黙」「弁解せず」がまったくの想定外だった。米国の最後の大罠は不発に終わった。前述の未完のコピーの遺書は公開されること無く1998年まで眠り続けた(遺書の不備の多さに、気付いたのだろう。今この遺書は、真実の扉を開き語ろうとしている)かくして東條は米国の誘いに乗らず「一切語るなかれ」となった。

 アメリカは撃って殺さず命を助け、総大将東條を貶めアメリカの正義を演出した。だから殺傷能力の低いピストルで必殺の頭や、心臓を外して一発だけ撃ったのだ。だから口頭の遺言は辻褄を合わせる弁解(一発の理由。切腹でない理由)となった。「一見して東條英機の死體であると判るやう、頭を射たずに心臟を射つた」と、捏造宣伝プロパガンダ『真相箱』ではご丁寧にも補足し、頭を撃たない理由を弁解している。ピストルに顔面を破壊するほどの威力は無い、貫通するだけだから、判別不可能になることは無い。常識だ。正にプロパガンダは逆が真実だ。

 戦争責任転嫁先を探していた検証せず知識鵜呑の鵜人のような、日本の愚かな人々は、いっせいに狂言自殺を唱えだし、非難した。身内や近親者や側近は狂言自殺を払拭するため、狂言ではなく覚悟の自殺だとあらゆる状況証拠を過剰に詳細に開示し、狂言ではない、まさしく覚悟の自殺だと総反論し、自殺するに際しての東條の覚悟を東條を慕う人ほど過剰に詳細に捏造し証言した。民間人でも公表して自殺する人は2割だと言われている。死ぬ死ぬと言う人ほど死なないのが常識だ。軍人東條が、証言のように詳細に、家族や近親者に死ぬ死ぬと、自殺を公言するものだろうか。狂言自殺説を翻すための、家族や近親者の必死の捏造証言がほとんどではないのか。各々が余りにも詳細に自殺の覚悟を語りすぎている。

 当時6歳のお孫さんの著書にも、臨場したかのように覚悟の自殺が書かれている。このように親族、近親者が、こぞって狂言自殺説を翻すために捏造し、過剰に覚悟の自殺を証言をしたため、捏造の覚悟の自殺が信じられてしまった。なんと東條は、米国のみならず、愛する親族、愛する近親者に、あろうことか、自殺者に仕立て上げられてしまったのだ。みんな、東條の名誉を思ってのことなので、・・・東條は、弁解の愚を悟り、このことに関しては「私」なので、「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」東條コードを残し心を閉じた。そして、「公」の大義のために全力を傾注した。「読者の皆さんも、東條の置かれた立場になって、どう行動するか、一度は考えて見てほしい。」

 整理しよう。お孫さんも、当時の証言者も、狂言自殺を翻すため、覚悟の自殺を裏付けるための、見て来たような捏造証言となった。がしかし、東條には自殺の覚悟はあったが、この日、大義(公)を果たしていない東條は、自殺しようなどとは、さらさら思っていなかった。結果26の矛盾が生じた。東條自殺説では26の矛盾が生じ、米国自殺捏造説では、26の矛盾が氷解する。

 東條は天皇擁護と「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」という、大義を果たした後の自殺を想定して、周到に準備し家族や側近にはうろたえぬよう心がけを話し、軍人東條は証言のように詳細には話してはいないだろう)すでに覚悟を決め、大義のため、生き恥を曝しながら生きていたに過ぎない。終戦時に死ななかった理由はここにある、彼は日本国の総大将なのだ。部下のようには死ねないのだ。死を覚悟し志をたてた人が、志を果たさず自殺する事などあり得ないのだ。裁判の忌避などもあり得ないのだ。この最大の屈辱も、東條のめざした大義の前には、一介の塵に過ぎなかったであろう。現に東條はこの事件以後裁判まで、「アメリカの医術は進歩している、日本は10年遅れておる」「助けてくれたアメリカ人に感謝している」など米軍に迎合する卑屈な発言を頻繁にしている。もちろん、大願成就のためだ。大願成就以後処刑三日前まで、歌詠みに没頭している。 

 自殺の覚悟はあったが、しかし、大義を果たしていない東條には、この日の自殺は有り得ないのだ。結果後述26の矛盾を生じた。しかし、GHQも扇動し、捏造が定説となってしまった。げんに、63年後の現在でも、狂言ではなく覚悟の自殺だったとお孫さんも力説している。「親族への遺言は(沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。)なのでこのように答えるしかないのである。弁解すれば、恥の上塗りになるだけだ」。真実から一度離れてしまった世論は占領下でもあり、もう戻ることは無かった。さいごに「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」だけが残った。

 戦後、これまで大江健三郎の『沖縄ノート』や森村誠一『悪魔の飽食』のように、文筆業や報道業者はプロパガンダを鵜呑みし、取材も検証も思考もせず、貼り付け『プロパガンダ貼り付けノート』にしてきた。日本は、とうの昔に独立したのだ、独立国の、人民の、人民による、人民として思考すべきだ。戦後63年を経た、もうプロパガンダを鵜呑みすべきではない。プロパガンダ(捏造宣伝)を探究すべきだ。パール判事や、赤穂浪士の心を失っては駄目だ。

 

 まず 「米司令官に陣太刀送る」は前述のように、明白な米軍の捏造。陣太刀は接収されたもので、贈ったものではない。『ウィキペディア(Wikipedia)』もこの捏造記事を鵜呑みし、そのまま掲載している。

 

 東條英機自殺では、下記26の矛盾点を一切払拭出来ない。下記の矛盾点はすべて一点を指し示している。「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」が鍵となり、米国、東條英機を撃ち、自殺捏造の一点を導き出した。この一点で、下記の矛盾点すべて一瞬に氷解し、画竜点睛となる。

 

「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」東條英機は、まさしくこの大義(米国がもっとも恐れた言葉)に殉じている。「自殺未遂」が無ければ、東條英機は、米国がもっとも恐れたまさに解放の戦士としてアジアの、いや世界の有色人種の英雄となっていた。

「虜囚の辱=軍人が日本国の囚人となる事」なのに、戦後の捏造(虜囚の辱=敵国の捕虜となる辱=捕虜となるよりは自殺せよ)を、戦陣訓示達者本人が、なぜ認めたか。( 検証の順番は戦陣訓が後でした。)

○「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」と東條英機は大義を公言していた。戦後生き恥を曝していた理由は、まさにこれなのだ。総大将東條には、総大将として語る責任の「公」と、「臣」として天皇死守の二つの「公」があるのだ。その人が責任を果たさず、「辱」で無い「捕虜」(私)ごときで、なぜ自殺なのか。既に死を決意し、覚悟を決め、「公」の実現のため生き恥を曝し、「公」の大義の実現の為だけに生きている「私」など皆無の東條の脳裡には、「捕虜」(私)の「辱」など、ひとかけらもなかったはずだ。

○なぜ「沈黙、弁解せず。一切語るなかれ」なのか。その時の日本人目撃者は皆無。

○なぜMP、CIC(対敵諜報部)が来てから衝動的に自殺なのか。時間はいくらでも今まであった。

なぜMP、CICのいるところで自殺なのだ。失敗の場合は敵国に助けられるのは明明白白なのだ。敵国に生かされて虜囚の辱めを受けることになるのだ。それこそ総大将東條には最大の屈辱ではないのか。こんな単純明快なことすら、総大将カミソリ東條はわからなかったというのか。東條は大臣時代に出した戰陣訓に俘虜となるよりは自殺せよと書いてあるのを實行したのだと後日、証言している。証言が真実なら、必殺の頭を撃つのが正解ではないか。撃ちにくく、失敗しやすい心臓では無いだろう。どちらが撃ちやすいか自分で試して見れば、すぐ分かる。心臓を撃つには両手でピストルを持ち、利き手の親指で引き金を引かねばならず、撃ちにくいのだ。だからピストル自殺者はほとんどが頭だ。10につづく 

真実史観10東條英機真実敗戦の将逃げずに対峙史上比類無き天皇とABC項目戦犯

戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者の氏名を通告し、日本の官憲の手で逮捕するという取り決めになっていた。なぜ取り決め違反の逮捕なのか。事前通告し自殺されるのを恐れたのか?。『東條英機とその時代』矢次一夫
○たまたま本社(朝日新聞)記者は東条邸を訪れたとある。そして記者が口頭の遺言を聞いたというのである。記者が現場に簡単に入れるものだろうか。

○朝日新聞長谷川記者は、なぜ左胸なのに、左腹部と報道したのか。

○朝日新聞長谷川記者が聞いたという口頭の遺言は、不自然な辻褄をあわせるための弁解だ、遺言ではない、内容は遺言になっていない、弁解ばかりだ。

○日本人の醫者の診察は、『眞相箱 』と証言では、自分には手を施す術がない、大將は死ぬだらうなのだ。朝日新聞長谷川記者の記事では、同じ日本人の醫者の診察は生命はとりとめるである。どちらかが偽証しているのだ。

○口頭の遺言は誤りが多々あり、日本人記者の文ではない(赤細字で訂正)。手渡された走り書きを、そのまま書き写したものだ。米軍の検閲が有り、勝手に書き直せないので、直さずそのまま載せた。もしくは記事全文米軍作成。だから上記の真反対の証言となった。CIC(対敵諜報部)台本では「生命はとりとめる」となっていたのだ。

○朝日新聞長谷川記者の「証言 私の昭和史 6」ではなぜ、あばら骨の四番目と五番目の間なのか。あばら骨は腹ではない、新聞報道となぜ違うのか。

○ピストルで心臓を撃ち自殺する人がいるのだろうか、間違つて生き度くない、一発で死に度かつたのなら撃つのは頭だろう。「ザレイプオブ南京」の著者36歳女性アイリス・チャン頭部への銃弾1発で自殺。ましてや東條は男で軍人だ。敵国に生かされて虜囚の辱めを受け無い必殺は、頭だろう。

○書きかけの、コピーされた遺書が前日日付なのも不自然だ。MP、CIC(対敵諜報部)取り決め違反で予告無く逮捕に来ているのだ。また覚悟の自殺であれば、前日日付では無く、当日日付ではないのか。

○遺書は未完成なのになぜ自殺をしたか。天皇陛下宛の遺書も清書せず、日にちだけ記載し、不敬のまま、臣(しん「けらい」)英機の自殺は無いだろう。不自然だ。

○未完成な遺書があるのに、口頭でなぜ遺言を話したのか。

○1発で胸を撃ち抜いた人間が2発目3発目を撃たず、長文の遺言を、しゃべったと言うのだ。治療優先だろう。

○一発で死に度かつたと口頭の遺言の開口一番の言葉だ、一発のいい訳から始まっている、語るに落ちるではないのか。

○遺言を口頭で伝えたといわれた人間が、なぜ生き恥をさらしながら死刑判決まで生き長らえたのか。

軍人東條が、家族や近親者に死ぬ死ぬと、証言のように詳細に、自殺を公言するものだろうか。

○「忠臣」と言われた東條が、天皇を守らず、死ぬわけにはいかないのだ。ましてや遺書に臣英機と記載し内容は天皇宛である。天皇宛でないところが、追記となっている。臣英機と書き、臣「しん(家来)」の勤めも果たさず自殺は無いだろう。

○ご丁寧に自殺直後の写真まで撮影されている。

○口頭の遺言は朝日の長谷川記者が直接聞いたのではなく、記載されたメモとして米軍より手渡されたものを、そのまま転載したものだ。記事も米軍の原稿をそのまま転載している。米軍の検閲が有るので勝手に書き直せない。だから誤字があってもそのままなのだ。遺族ではなく、東條の言葉であれば家族が正解

○東條大将が自決を図ったのが午後4時、午後7時20分頃、家から運び出し、横浜の米軍病院に収容した。(重光葵の手記より)3時間20分もかかっている、何があったのだろうか。報道されたような重傷であったのだろうか。

○9月11日東條大将自決圖り、10月7日に退院し大森拘禁所に入所、たったの26日間で治癒している。報道されたような重傷ではなかったのだ。

 

 ほとんどが東條自殺未遂の証言だが、出来過ぎではないか。たまたまが多すぎないか。当時日本国民は、醜いことだが、責任転嫁用の標的を必要としていたことも事実だ。誰が撃ったか、それが問題なのだ。

 アメリカの戦争目的は侵略、植民地化。日本の戦争目的は護国、アジアの解放、人種差別の撤廃、進んで資源の開放(貿易の自由化)。アメリカの原爆空爆による60万人老若男女無差別殺人C級の罪。この負い目によりアメリカは、総大将東條を、他のりりしい軍人ではなく、女々しく醜い侵略戦争をくわだてた首謀者に仕立て上げ、捕虜の辱めを味わあせ、処刑したかったのだ。連合国は処刑した東條が英雄にまつりあげられるのを極端に恐れていた。東條救命報道とは裏腹に、米軍の作業衣のまま処刑し、遺骨も遺族に渡されず太平洋に廃棄したとされている。事実東京裁判は、日本軍人を侵略戦争をくわだてた醜い軍人にすべて仕立て上げている。 

 対敵諜報部隊(CIC)は政、財界、報道陣、更に各警察本部を通じて自殺未遂の反響を調査。同情は少なく「ことごとく非難」する声が強かった(CIC秘密文書)。自殺捏造の効果を、調査したのだ。またGHQは、遺族からの遺灰返還要求拒否の理由を述べている(1976.11.29.付けの参謀第二部G2情報)。①遺灰返還はこれまでの戦犯政策を覆す。②日本国民の大多数は現在東條を裏切り者とみており、多くの日本人の気持ちと遊離してしまうーなどと明記している(中国新聞1998.11.30.付け4面)。プロパガンダ(捏造宣伝)は真実を覆い隠す仮面だ。叫べば叫ぶほど捏造なのだ。

 史上類のない敗戦後逃亡もせず国民と共にある天皇、信頼の厚い天皇処刑では内乱が生じかねない、米軍は天皇の代わりに東條を選択し、ヒトラー=東條作戦を展開した。手始めが東條を撃ち、助けて自殺未遂とする、東條自殺未遂捏造だ。米軍はマスコミを扇動し徹底的に東條を貶めた。東條はヒトラー=天皇ではなく、ヒトラー=東條にすべく米軍は工作していることに気付いた。天皇安泰を確信した臣東條英機は、以後米軍やマスコミの流言蜚語など全てを背負い「(東條英機は)沈黙。(撃たれた事を)弁解せず。(身内親族は)一切語るなかれ」となった。

 コピーされた遺書、その英訳文、朝日新聞のスクープ記事と回答の遺言。検証の結果、現時点で唯一未検証だが、自殺捏造遺書英訳文とスクープ記事英文が台本で、日本語訳が、コピーされた遺書と、朝日新聞のスクープ記事と、回答の遺言であることに、ほぼ間違いないでしょう。皆さんも、天恩に対しを賜わり遺族家族のように、臣東條大将の立場で文や単語を吟味すれば、本文同様に帰結します。日本人捏造協力者の真実証言は、日本史上に残る売国奴となるため、絶無でしょう。あとはアメリカが開示するかどうか、開示すれば、真の友好国となる。今後は日本の皆さんが、日本の護国責任者東條英機を信ずるか、当時の戦勝国アメリカを信ずるかに、かかっています。

 

「東條夫人・初めて心境を語る」 

最近のマツクアーサー司令部発表では三菱から一千万円そのほか贈られたと報道しましたが、あれについて何か夫人に心当りはありませんか。

夫人 私は全然知りません、しかし私の知る範囲ではかういふことではないかと思ひます、東條は豪放のやうに見える反面事務官とでもいつたやうな周到な注意を払う男です、その点からしても国民の不満を買ふやうなことはできない男だと考へます。

多摩川用賀町の敷地はずつと以前私がある人の世話で買ひ、退役後の余生に備へたものです、家は四年前二万円位で家族の数に合せ四十坪位のものを建築しました、現在その仕事に携つた人達がゐますので調べたらすぐわかります。『朝日新聞』昭和二十年十二月二十日付(注・これも東條貶め作戦だ。処刑前に無実が証明された)

 

古今東西の常識敗戦逃亡せず敗戦後も主従一丸と化し凛としてと敗者の責をはたした比類なき日本護国軍

A項目(平和に対する罪)(法廷が設置される以前には存在しない法)戦犯で28名が1946年4月29日に起訴された。有罪判決を受けて絞首刑7名、終身禁固16名、禁固20年1名、禁固7年1名の判決。28人のうち、大川周明は梅毒による精神障害が認められ、訴追免除。永野修身と松岡洋右は判決前に病死しているため、1948年11月12日に被告として判決をうけた者は25名となっている。

B項目(通常の戦争犯罪)戦犯被告数5,606名。絞首刑または銃殺刑937名。自決及び獄中死131名。終身刑385名。無期懲役1046名。有期懲役3075名。事故死及び死因不明32名。

C項目(人道に対する罪)(法廷が設置される以前には存在しない法)日本国の適用者なし。第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人に対するホロコーストという想像を絶する犯罪を念頭において「人道に対する罪」という概念が誕生した。

ヒトラーは逃亡し自殺。ナチス残党は今も逃亡している。ムッソリーニはパルチザンに捕まり銃殺された。フセイン(イラク)も皆逃亡した。敗戦逃亡は古今東西の常識、世の習いなのだ。

「戦陣訓」起案担当者・今村均陸軍大将・(1886~1968・行年82歳)は戦犯の刑期を終え天寿をまっとうしている。ラバウルでは要塞を築き、兵に自給自足制を確立させ終戦まで持ちこたえている。本土からの補給無しであるにも関わらず、無事に10万の兵を玉砕や自殺などさせず、帰国させた名将である(逃亡もせず日本国戦争指導者は粛々と帰国している。これは世界史上非常に稀有なことなのだ。先人冒涜者はこの事を熟慮すべきだ)。戦犯で戦犯収容所に服役し、出所し、自決などせず天寿をまっとうした。捕虜は恥ずかしいことではなく、虜囚の辱は(捕虜となるよりは自殺せよ)では無いということをみずから証明した。出所後は元部下の就職の世話をしたり、遺族を手助けしたり、まさしく「戦陣訓」ひと筋の生涯だった、「戦陣訓」最終章に殉じている。

『戦陣訓』最終章

『九 万死に一生「ばんしにいっしょう(九死に一生)」を得て帰還「きかん(戦地から故郷に帰る)」の大命「たいめい(天皇の命令)」に浴することあらば、具(つぶさ)に思を護国の英霊に致し、言行を悼(つつし)みて国民の範となり、愈々(いよいよ)奉公の覚悟を固くすべし。

 

敗戦逃亡は古今東西世の習い逃亡せず従と共に「公」に殉じた天皇

天皇とマッカーサーの第一次会談

 昭和20年(1945年)9月27日、朝10時15分、会談は米国大使館で行われた。天皇が切望した会談であった。マッカーサーも天皇との会談直前までは、「命乞いでもするのだろうと、軽蔑していた」。ところが、天皇の口から出た言葉は、マッカーサーをいたく感動させた。

「天皇『私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して、全責任を負う者として、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、あなたに会いに来ました。』この勇気ある態度は私の魂までも震わせた」私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである。マッカーサー回顧録

 ・・・陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている。

 「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の配慮をお願いしたい。」

一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝「ひれき(打ち明ける)」になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ。

「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願いしたい」。藤田尚徳「侍従長の回想」(172-173ページ)

この時マッカーサーは、お迎えはしなかったが、お見送りには出てきてお見送りをした。

ボナー・F・フェラーズ(1896~1973)元米軍陸軍准将(1944から2年間マッカーサーの軍事秘書)家族宛の手紙

 「1945年9月27日10時過ぎ天皇マッカーサーと会見。

 天皇がアメリカ大使館を出発したとき、マッカーサーは感動の面持ちでこういった。『私は自由主義者であり、民主主義国で育った。しかし、惨めな立場に立たされた天皇の姿を見ると、私の心は痛む」

 オフィスに向かう途中でマッカーサーは、天皇は困惑した様子だったが言葉を選んでしっかりと話をした、と語った。「天皇は英語がわかり、私の言ったことはすべて直ちに理解した』

 私は言った『天皇は、あなたから処罰を受けるのではないかと恐れているのですよ』

 マッカーサーは答えた。『そうだな、彼はその覚悟が出来ている。処刑されてもしかたがないと考えている』」

昭和62年(1987)10月3日の中日新聞記事

(注・中日新聞のアメリカ総局長が、皇太子殿下「現天皇陛下」ご夫妻の訪米に際し、バイニング夫人の特別の了解を得て報道する許可を得た夫人の、滞日四年間の日記の記事である。皇太子殿下の家庭教師バイニング夫人は、マッカーサー元帥の信頼が厚く、元帥から直接聞かされた話が、日記には次々と書き残されていた)

「陛下 命投げ出すご覚悟」「バイニング夫人(皇太子殿下家庭教師)日記に生々しく」

1947年(昭和22年)12月7日、昭和天皇とマッカーサー元帥との第一回会談

 元帥は陛下に対して最初、厳しい態度で臨み、「戦争責任をおとりになるか」と質問した。これに対して陛下は「その質問に答える前に、私の方から話をしたい」と切り出され、「私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。絞首刑にされてもかまわない。(YOU MAY HANG ME.)・・・」

 

 1946年1月、昭和天皇は人間宣言して、その年の2月から9年かけて、日本各地を巡幸し、国民と直接言葉を交わした。1977年夏、那須御用邸で、初めて戦後の思い出を語った。しかし、マッカーサーの初会見で、何を話したかについては、言えないと答えた。「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と。

 1989年1月、昭和天皇が亡くなるまで、ついにマッカーサーとの会見の内容について語ることはなかった。

 昭和天皇初のヨーロッパ親善の旅では、ヒトラーと同次元で扱われ、酷評された。しかし昭和天皇のこの「公」に殉じた心や、WW2の本質が真実史観に晒されて、世界中が真実と向かい合うようになった。2007年の皇太子ご一家の、オランダ招待の静養滞在が、すべてを物語っている。

 

〇フランスの詩人、弁護士、キリスト教の牧師ポール・アントワーヌ・リシャール(1916~1920年滞在)は日本人の「公」を喝破し述べている。

世界の救世主

 「世界人類の相愛と協力とを、人生の目的とするならば、いずれの国もことごとく、その武器を捨てる必要がある。それにはまず、世界の中の一つの国が、率先して、その範を示さねばならない。

 祝福されたる日本国民よ!あなたは世界の救い主として、神に選ばれた国家である」

 

○西ドイツのボン大学教授オットー・カロン博士は、同じ敗戦国のドイツと日本を比べて、天皇の存在を賛辞し、日本人の「公」を喝破し述べている。

 ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。

 ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。

 平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。「天皇の真実」 河内正臣(たま出版)

 

○昭和56年(1981)2月23日~26日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はローマ法王として初めて来日した。この時、法王は慣例を破って皇居に天皇陛下を訪ねられた(2月24日11時皇居で天皇と会見。14時法王庁大使館で鈴木善行首相と会見)。法王が外国を訪問してその国の元首や首相に会う時は、その国の方々が法王を訪ねて会いに来るのが慣例となっており、法王の皇居訪問は前例のないことなので、問題となった。その時法王は、一身を捨ててマッカーサー元帥の前に立たれた天皇をたたえての訪問であることを、キリストの精神をたたえての訪問であることを、皆に説いた。皆は、その一言で納得した。

 皆が昭和天皇を最大限に評価するのは、古今東西世界の常識をくつがえし、敗戦なのに逃げずに、天皇の役目護国のために十字架を背負い、命を懸けたことだ。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世も称賛したこの無私の行動が、世界の評価を一変させていることを、日本国民はしっかり認識しなければならない。

これまでの世界の国王は、我先に逃げ、逃げて、つかまり、つかまれば、命乞いし、殺され、亡国、が世界の常識だ。日本護国の要の主、天皇も、従の東條英機をはじめとする臣も、古今東西の常識、敗戦逃亡せず、戦勝国と対峙した。主従一丸と化し戦った日本護国軍は人事を尽くし逃亡せず、天命を待ったのだ。前述のABC項目戦犯は逃亡もせず、天命として国民に敗戦の責を果たした。このことは、史上比類なきことである。特攻、玉砕、集団自決、敗戦後逃亡もせずの殉死や服役。これらの古今東西史上比類無き君民一体の護国の姿がなかったら、アジア同胞の追随もなく、有色人種や小国白色人種の独立もなく、日本も分割され食民治、アジアも未だに食民治のまま、南北アメリカのようになっていただろう。これら護国一体の姿が、虐げられし白人小国やアジア同胞の琴線をかき鳴らしたのだ。

 日本精神の根源には、必ず主従を一体とするこの呼応がある。「公」があって「私」が無い、この呼応が日本人の本質なのだ。「公」には主従というような上下はなく、「公」に殉じた「公」を実行するための主従が存在するだけだ。赤穂浪士は「公」に殉じ、捻じ曲げられた「公」を正すために戦った。

裁判での、全責任を負った天皇の、「臣下無罪発言」を、占領軍は最も恐れた!

東條英機を撃ち自殺と捏造し貶めたアメリカ

 インドのパール判事(ラダ・ビノード・パール)の日本人被告の無罪論も、赤穂浪士のあだ討ちも、根底にあるのは実事求是だ。パール判事は職責をまっとうした結果の結論だ。赤穂浪士は幕府の不正を正した結果の結論だ。

 アメリカの戦争目的は侵略、植民地化。日本の戦争目的は護国、アジアの解放、人種差別の撤廃、進んで資源の開放(貿易の自由化)。アメリカの原爆「二種類の原爆である、人体実験目的(ホロコースト・大虐殺)は明白」空爆による60万人老若男女無差別殺人C級の罪。アメリカはこの負い目を払拭するため戦後、侵略戦争・南京掃討戦など日本軍隊極悪の多くのプロパガンダ(捏造宣伝)を繰り広げ東京裁判などで軍隊にすべて責任転嫁し、こんなに日本軍隊極悪だから60万人老若男女無差別大虐殺されたのだ、責任はすべて日本軍にあると、軍隊に責任をすり替えた。「ハル・ノート」で知られるコーデル・ハルは終戦前年の秋、「日本は敗れても、解放の戦士としてアジアに影響力を残すだろう」(大統領文書44年10月5日)とルーズベルトに警告し恐れ、対アジアに対しても対米非難防御のため、侵略戦争だと宣伝した。アジア解放の殉難者日本軍、天皇、東條英機とたたえられ、アジアの侵略者極悪アメリカと誹謗されるのを、恐れた。白人対有色人の対立を恐れ、日本国の痕跡の排除にはげんだ。彼らは、すべてを消し去ったあとも、積極的に日本の否定的イメージを植え込んだ。「日本は侵略国家」だとか「残虐非道」だとか、「極悪日本」だとかと、WGIP(ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム)(極悪日本軍人にだまされて侵略戦争した、か弱き国民と捏造)で洗脳した。

 古今東西の世界の常識に反する、敗者なのに逃げない天皇と部下、この現実に対した時点でマッカーサーには天皇処刑の選択は消えていたはずだ。逃げず敗戦の責を一身に背負った天皇が処刑されれば、その時点で天皇は十字架を背負った大東亜共栄圏建設の、有色人種解放の殉難者となり、解放の英雄天皇となる。キリスト教国アメリカは十字架を背負った殉難者殺害者となり、白人対有色人の対立に拡大しかねないからだ。

 アメリカが天皇の身代わりとして日本軍隊極悪の槍玉に挙げ、日本国民や米国国民の不満のガスを抜き、生け贄にしようとしていたのが開戦時総大将の東條英機なのだ。その東條が「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ」と、大義に殉ずる(命を投げ出す)と公言している。東條英機は日本の正義を明確にし、戦勝国の不正を暴くと公言しているのだ。軍人勅諭「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」に殉ずると公言しているのだ。もはや命をすてた東條英機の証言は阻止出来ずと判断したアメリカは、当然のように東條英機失墜作戦を展開した。「軍紀を犯し捕まるな」ヒトラーはスターリングラード戦で、直々に「降伏禁止令」という、狂気の極みとも言える命令を出し、凄まじい悲劇となった。東條英機をヒトラーと同罪にするため、ただの単なる教え(戦陣訓)(軍紀を破るような辱しいことをするな)なのに、「降伏禁止令」であるかのように報道させた。抑留前日の記者会見の東條の「日本の戦いは正義の戦い」発言に、反応し、準備万端のアメリカは、東條を急襲、一発の弾丸もしくは弾丸のような刃物で胸を傷つけ、自殺を捏造した。日本人は誰ひとり拳銃発射の瞬間を、見ていない。11につづく 

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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