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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1百人斬り真実は機関銃対日本刀嘘の巨魁朝日毎日記者そして戦意高揚記事これが紐解く鍵だ


①百人斬り競争機関銃日本刀嘘の巨魁朝日毎日記者そして戦意高揚記事これが紐解く鍵だ  

 撃墜王(げきついおう)、多数の敵機(現在は5機以上)を撃墜したものに与えられる称号。世界では、米英はエース・パイロット (Flying Ace pilot、エース 、仏、アス (As)  独、エクスペルテ (Experte) 、と呼ばれ、賞賛されている。

 しかし撃墜王(げきついおう)=殺害王ではないか、併記すると明解なので併記してみよう。 

日本の撃墜王(げきついおう)殺害王

 岩本徹三海軍94機撃墜(94人殺し)。西沢広義海軍87機撃墜(87人殺し)。杉田庄一海軍70機撃墜(70人殺し)。坂井三郎海軍64機撃墜(64人殺し)

 

 百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)敵兵掃討戦とは、反共戦争初期、南京へ進撃中に、日本軍の向井敏明少尉(26歳、歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(25歳、歩兵第9連隊-第3大隊副官)の2人が日本刀でどちらが早く100人を斬る100人の敵兵を掃討するか競った争ったとされる競争戦いである。この様子は、当時の大阪毎日新聞と1937年11月30日付けと12月13日付けの東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって、日本軍が南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の向井敏明少尉と野田毅少尉のどちらが早く100人を斬る100人の敵兵を掃討するか競争戦いを行っていると報道された。東京日日新聞の浅海一男が書き同年、4回にわたり掲載。掲載日は、昭和12年11月30日、12月4日、12月6日、12月13日の4回。

 

 1937年11月30日付けの東京日日新聞(毎日新聞)記事では、無錫-常州間で向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬った(敵兵掃討と報じている。また、1937年12月13日付けの記事では、12月10日に記者と会った時のインタビューとして、すでに向井少尉は106人、野田少尉は105人の中国兵を殺害(敵兵を掃討しており100人斬り競争敵兵掃討戦の勝敗が決定できず、改めて150人を目標とする殺害競争敵兵掃討戦を始めると写真入りで報じている。

 

 単語選定で文意が豹変するのがお分かりいただけたでしょうか。

 

東京日日新聞(現在の毎日新聞)浅海一男、鈴木二郎両記者百人斬り競争の記事

大阪毎日新聞東京日日新聞(現在の毎日新聞)に掲載

第1報1937.11.30日百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人

 (本文)[常州にて29日浅海、光本、安田特派員発] 常熟、無錫間の40キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は56人斬り、一人は25人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(26)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(25)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

 

 無錫進発後向井少尉は鉄道路線26、7キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る8キロの無名部落で敵トーチカに突進し4名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み55名を斬り伏せた

 

 その後野田少尉は横林鎮で9名、威関鎮で6名、29日常州駅で六名、合計25名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で4名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。

 

 向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は56人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉  
僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらない丹陽までには大記録にしてみせるぞ
(注・野田少尉は副官という職である。これは上官に24時間つきっきりでその補佐をする職で軍隊で最も自由時間がなかった。当時はみな副官と言うのが自由がないと知っていたので、記事で副官だと記述するとすぐウソがばれる状況にあった。そこで浅海記者は副官を○官と伏字にして記事にした。)

 

第2報1937.12.4日急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過
 (本文)[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 
既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、2日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は86人斬、野田少尉65人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。 

 常州から丹陽までの十里の間に前者は30名、後者は40名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

 

 中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

 

 野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。

 

第3報1937.12.6日) 89-78/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉

 (本文) [句容にて5日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は89名、野田少尉は78名といふ接戦となつた。


第4報193
7.12.13日百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦

 (本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに106対105といふレコードを作つて、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した


 野田「おいおれは105だが貴様は?」 
向井「おれは106だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて158人はどうぢや」と忽ち意見一致して11日からいよいよ150人斬りがはじまつた、11日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち

 

 知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ11日の午前3時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ

 

 と飛来する敵弾の中で106の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。(注・向井、野田両少尉が軍刀を前にした姿を写真入りで大きく紹介している。この写真は第1報の常州で佐藤振壽カメラマンが撮影したものだが、百人斬り〝超記録〟を達成したかのように大きく掲載されている)

 

大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版の記事

第5報1938年1月25日 253人を斬り 今度千人斬り發願

さすがの“波平”も無茶苦茶 野田部隊長から朗信 
 (
野田毅顔写真)
 (本文) 南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立つて、壮烈無比、阿修羅のごとく奪戦快絶〝百人斬り競争〟に血しぶきとばして鎬を削つた向井敏明、
野田毅部隊長は晴れの南京入りをしたがその血染の秋水に刻んだスコアは 106― 105、いづれが先きに百人斬つたか判らずドロンゲームとなつたが、その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙〝千人斬〟をめざし野田部隊長は□□の敗残兵掃蕩に253人を斬つた、かくして熱血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく〝血刃行〟はどこまで続く?……
 このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島県枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまヽの痛快さがあふれてをり、〝猛勇野田〟の面目躍如たるものがある――

  
(以下手紙本文)目下中支にゐます……約五十里の敵、金城鉄壁を木ッ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまつた、極楽に行きかヽつたのは五回や十回ぢやないです、敵も頑強でなか~逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで105斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて253人叩き斬つたです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました

百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)
一、今宵別れて故郷の月に
 冴えて輝くわが剣
二、軍刀枕に露営の夢に、
 飢ゑて血に泣く声がする
三、嵐吹け/\江南の地に、
 斬つて見せたや百人斬(以下7番まで歌詞紹介)

 まだ極楽や靖國神社にもゆけず、253人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、武運長久(われ/\は戦死することをかく呼んでゐます)を毎日念じてゐます、小生戦死の暁は何とぞ路傍の石塊を捨ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、最後に大元帥陛下万々歳。

 

 (注・戦友と呼ぶのは同位か下位の者を呼ぶのが常識だろう。戦友呼称の間違いは、明白だ。向井敏明少尉は歩兵砲小隊長。野田少尉は第3大隊副官で戦友は同じ第9連隊の第1大隊副官同期の六車政次郎少尉部隊長ではない。階級も間違いが明白である。戦友の六車政次郎少尉百人斬り競争を知らなかったと証言。知らないのに歌などつくれるわけがない。下記の証言参照。戦意高揚の捏造記事第5報なのは明々白々である

 

六車政次郎少尉の証言「野田少尉と同期で、同じ第9連隊の第1大隊副官(野田少尉は第3大隊副官)であった六車政次郎少尉の手記」

 

1 「惜春賦-わが青春の思い出-」(1990年)より。

 軍刀や銃剣を振りかざしてあたかも忠臣蔵の討ち入りのように、『居るか!』『居らんぞ!』などと声を掛けながら村内を進む。出会い頭に銃剣を構えた敵兵にぶつかる。中には軍服を脱ぎ捨てて逃げようとする敵兵や、降伏のそぶりをしながら隙をみて反撃してくる敵兵もある。そんな時には頭で考える前に軍刀を振り下ろしていた。(P.358)
立ち上がって刃向かう者もあり、慌てて逃げ出す者もあり、逃げ遅れて死んだ振りをする者もあったが、武器を捨てて哀れみを乞う者はいなかった。さすが
蒋介石ひざ元である。私は向かって来る者は袈裟斬りに、伏せているものは刺突しながら山頂を走り回った。大隊は午前九時頃この高地を占領した。(P.380)
三人の部下が無言で私の顔を見ている。躊躇する私を、もう一人の私が『やれ!やれ!』とそそのかす。後は無我夢中で飛び出した。何人斬ったのか、何がどうなったのか夢中で分からない。(P.387)(注・武勇伝と証言は異なる。武勇伝は釣り逃がした魚の大きさと同じ)

 

 「鎮魂 第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)「野田大凱の思い出」(1967年)より。

 北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、出征以来三ヶ月振りに会った。この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。・・・(注・大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版1938年1月25日付の記事。「戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました」は六車政次郎少尉の証言、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった」なので、歌などつくれない。正しく捏造なのだ

 

 野田少尉は大尉となりビルマ独立運動を支援した南機関の参謀長として、アウンサンとともにビルマ進攻作戦に加わり、ビルマ国軍の新設にともない指導官をつとめた。終戦後、鹿児島市内のマーケットに店を出していると聞き、安田尚義(県立鹿児島第一中学校の恩師)が訪ねた時はもういなかったという。「友人たちが逃亡をすすめたが応じなかったと聞くが、すでに妻女と離別しているところを見れば覚悟が定まっていたのであろう」と安田尚義の著書に書かれている。浅海一男、鈴木二郎両記者との対比があまりにも際立つ。

 

 向井・野田両氏はGHQに呼び出され取調べを受け、更に東京裁判でも「百人斬り競争事件」が虐殺の象徴的事例として注目され、「二将校を拘留し、尋問」とある。結局、新聞記事では証拠にならないということで2兵士は放免されたと伝えられている。「東京裁判では二将校を拘留し、尋問しながらも解放した」とある。

 

 浅海、鈴木両記者が検察側の喚問を受けているようである。鈴木記者は次のように書いている。概要「どの特派員もこの二将校が実際に斬り殺した現場をみたわけではなく、 ただ二人がこの“競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、 “二人とも逃げるのは斬らない” といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別々にとられた)わけではなかったが、期せずして、 『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』 と強調した」とある。(注・戦意高揚記事なので、一般民衆には手をだしていないと力説している)

 戦後の昭和22年、戦地から引き上げてきた2人のもとに、突然、日本の警察官が訪れ、市民を斬り殺したという理由で逮捕され、2人は
中国に送られた。 


 南京法廷は、この第四報の記事を有罪の決め手としていたから、アリバイが立証されれば裁判は崩壊しかねなかった。向井少尉が1037年12月10日か11日に二人の記者に会ったことを前提とする第四報(12月13日の東京日日)と、負傷入院していたため会う機会はなかったとする向井本人のアリバイ主張の矛盾をどう見るかである。
 直轄の隊長である富山武雄の証言で、概要「この砲兵大隊は12月12日に南京東方で停止し湯水東方に駐屯したので、紫金山に二人がいるのはおかしい。向井少尉は12月2日迫撃砲弾により脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため当時は救護班に収容されていた。原隊に復帰したのは15日だから、12日に紫金山上で新聞記者と両少尉が会うはずもない。浅海記者と向井少尉は無錫でしか会っておらず、その後記者達は自動車で南京へと移動したのでその間二人と会ってはいない筈である」と、冤罪説をしたためていた。しかし、浅海一男鈴木二郎両記者の真実が語られず有罪。この時点で二人は嘘の巨魁、浅海鈴木二郎となった。(注・証明書が届く前の答弁書(十一月六日付)で向井は「十一月末頃」に負傷十二月中旬に復帰と陳述していた。富山武雄の証言と向井の証言は、事前の打ち合わせが無いのに符合しているので偽証ではない。負傷していなかったとの向井の部下の証言があるが、たった2週間の入院なので、皆気付かなかったのか、士気に影響するので部下には知らせなかったか、どちらかだ) 

  

 ・・・紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは……。そこで、あの記事(第四報)の次第を話してくれたんです。・・・ 

 ・・・ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなものを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で“見たまま”“聞いたまま”を記事にして送ったんです・・・『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.36(注・会ったは浅海一男鈴木二郎両記者。会わずは両少尉と、直属の隊長。創作された戦意高揚記事なのは、いまや明白、両記者はここで事実を述べるべきだった。戦後27年経てもまだ両記者は嘘をつき続けている。捏造が記者の仕事なのか。 

  

 この時の向井少尉の裁判中の様子の記録と遺書が残されており、それによると、「裁判中、家族が浅海記者に、あの記事がでたらめだったことを証言してくれ、と必死に頼んだようである」。が、浅海記者が書いてくれたのは、「同記事に記載されている事実は、向井、野田両氏より聞きとって、記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」という「消極的証言」だった。

 これを、「浅海、鈴木両記者は南京の軍事法廷にも嘆願書を送っており、嘘にならない範囲内で精いっぱいの弁護をしています」と「積極的証言」と見る向きもあるが、この解釈はおかしい。「積極的証言」するのであれば、まさに真実「百人斬り競争は戦意高揚のための創作で、両少尉の名前を借りただけで、両少尉の証言に非ず」と証言すべきだ。 

  

 二人は「溺れるものワラをもつかむ」の思いで浅海一男記者の「あれは、私のフィクションでした」という言葉を待った。しかし、浅海一男鈴木二郎両記者からの言葉は実に賢い言い方で、「私が見たことではありません・・・」だった。昭和22年11月の南京軍事法廷で、この「百人斬り競争」記事と、二人が並んだ写真(有名な2人の写真は常州で撮影された)が唯一の証拠となり、俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件で死刑判決が言い渡された。 

  

 二人は命の綱と頼んだ浅海一男鈴木二郎両記者の言葉に、こういう形で裏切られ、軽視されたまま1948年1月28日、南京市雨花台の地上には雪が見られる寒さの中、沢山の中国兵に囲まれ、幌もないトラックで拘置所から刑場まで運ばれた事実は、今日も写真に残り、中国の人々の目にさらされ続けている。浅海一男記者は、戦後も記者として、毎日新聞にとどまり(1909年生れ、1932年入社、当時は社会部所属)戦後、毎日新聞を代表する「大記者」として活躍し、定年退職後は「日中友好推進派」として、毛沢東文化大革命を礼賛した数冊の著書を残しているという。1988年に死去。 

毎日新聞浅海一男、鈴木二郎両記者は、正に悪の巨魁死刑宣告者だ。 

事件の概要と推移  

  

特集南京大虐殺の真実「百人斬り」野田元少尉銃殺までの獄中日記 

 月刊WiLL 2006年8月号。南京戦犯所の獄中に於いて10日前に銃殺死刑を宣告を受けた後の手記。12月28日の該当個所を引用。 

一。日本国民に告ぐ  

 私は曽って新聞紙上に向井利明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申し上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。「馬鹿野郎」と罵倒嘲笑されても甘受致します。  

 只、今般中国の裁判に於て俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定させられましたことに就ては私は断乎無実を叫ぶものであります。

 再言します。私は南京に於て百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。

 たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以て今後中日間の怨みや讐(あだ)や仇(かたき)を絶対にやめて頂きたいのです。

 東洋の隣国がお互いに血を以て血を洗うが様な馬鹿げたことのいけないことは常識を以てしても解ります。

 今後は恩讐を越えて誠心を以て中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいです。

 中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以てするなら中国人にも解らない筈はありません。

 至誠神に通じると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。

 西郷さんは「敬天愛人」と申しました。何卒中国を愛して頂きます。

 愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中日提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に到達し得た事を以て日本国民も之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。

 猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以て神が教示されたのです。

 日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は「愛」と「至誠」です。

 此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈り致しまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。

 桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け

野田毅(少尉)死刑に臨みて 

何卒犬死たらしめない様に 
此の度
中国
法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事は厚く御礼申し上げます。
 只俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。
 死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なり諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、而目を以て感惰的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても、貴国を怨むものではありません。我々の死が
中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。
 何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。

 中 国 万 歳 日 本 万 歳 天皇陛下万歳  
 
百人斬りのウソと本多勝一、朝日、毎日の厚顔さ 
 

2につづく

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②百人斬り競争機関銃日本刀嘘の巨魁朝日毎日記者そして戦意高揚記事これが紐解く鍵だ

向井敏明(少尉)辞世

我は天地神明に誓ひ捕虜住民を殺害せることは全然なし。
南京虐殺等の罪は全然ありません。
死は天命なりと思ひ、日本男子として立派に中国の土になります。然れども魂は大八州(おおやしま、日本)に帰ります。
我が死をもつて中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです。中国の奮闘を祈る日本の敢闘を祈る。
 天皇陛下万歳 日本万歳 
中国万歳 死して護国の鬼となります。

 野田少尉南京で死刑前の獄中手記発見戦意高揚記事「記者が創作」。昭和22年、南京軍事裁判で拘留され、翌年23年、銃殺刑になるまでの約1年間のうちに書いた手記が発見された。

 野田マサさん(少尉の妹)が、平成13年3月、野田少尉の遺品の中から少尉の手記を発見。百人斬りの記事は、東京日日新聞(毎日新聞)浅海記者に持ちかけられたものであったことが記されており、「野田回想メモ」と言われるものである。この「野田回想メモ」によれば、野田少尉は、無錫での浅海記者との冗談話で、この4回の連載がなされたとされ、その後は、南京の麒麟門東方まで記者との会話はなかったと記されている。

 

 平成13年に発見された野田毅少尉の百人斬りに関する獄中手記の全文は、以下の通りです。

 

 十年以前のことなれば記憶確実ならざるも無錫に於ける朝食後の冗談笑話の一説次の如きものありたり。
 記者「貴殿等の剣の名は何ですか」
 向井「関の孫六です」
 野田「無名です」
 記者「斬れますかね」
 向井「さあ未だ斬った経験はありませんが日本には昔から百人斬とか千人斬とか云う武勇伝があります。真実に昔は百人も斬ったものかなあ。上海方面では鉄兜を、切ったとか云ふが」
 記者「一体無錫から南京までの間に白兵戦で何人位斬れるものでせうかね」
 向井「常に第一線に立ち戦死さへしなければねー」
 記者「どうです無錫から南京まで何人斬れるものか競争してみたら記事の特種を探しているんですが」
 向井「そうですね無錫附近の戦斗で向井20人野田10人とするか。無錫から常州までの間の戦斗では向井40人野田30人、無錫から丹陽まで60対50、無錫から句容まで90対80、無錫から南京までの間の戦斗では向井野田共200人以上と云ふことにしたら、おい野田どう考へるか、小説だが」
 野田そんなことは実行不可能だ、武人として虚名を売ることは乗気になれないね」
 記者「百人斬競争の武勇伝が記事に出たら花嫁さんが殺到しますぞハハハ、写真をとりませう」

 向井「ちょっと恥ずかしいが記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を貸してあげませうか」  
 記者「記事は一切記者に任せて下さい」


 其の後被告等は職務上絶対にかかる百人斬り競争の如きは為さざりき。又其の後新聞記者とは
麒麟門東方までの間会合する機会無かりき。したがって常州、丹陽、句容の記事は記者が無錫の対談を基礎として虚構創作して発表せるものなり。尚数字は端数をつけて(例へば句容に於て向井89野田78)、事実らしく見せかけたるものなり。
 野田は
麒麟
門東方に於て、記者の戦車に添乗して来るに再会せり。


 記者「やあよく会ひましたね」
 野田「記者さんも御健在でお目出度う」
 記者「今まで幾回も打電しましたが百人斬り競争は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに(一行不明)」    
 野田「そうですか」
 記者「まあ其の中新聞記事を楽みにして下さい、さよなら」


 瞬時にして記者は戦車に搭乗せるまま去れり。
 当時記者は向井が丹陽に於て入院中にして不在なるを知らざりし為、無錫の対話を基礎として紫金山に於いて向井野田両人が談笑せる記事及向井一人が壮語したる記事を創作して発表せるものなり。上述の如く被告等の冗談笑話により事実無根の虚報の出でたるは全く被告等の責任なるも又記者が目撃せざるにもかかわらず筆の走るがままに興味的に記事を創作せるは一体の責任あり貴国法廷を煩はし世人を騒がしたる罪を此処に衷心よりお詫びす。

 

 百人斬り競争の記事について、当事者の浅海記者は、2つの証言をしている。
(1)同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはない。
(2)両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではない。


 また、常州で2人を撮影した佐藤振壽カメラマンの証言も重要だ。
(1)両少尉はこれから(つまり常州から)百人斬り競走を始めると話していた。
(2)翌年の昭和13年上海で「百人斬り」の記事を見たが「嘘っぱちを上手く書いたな」
メディア・改めて問う、「百人斬り」は真実か

 

 百人斬り裁判は、東京地方裁判所にて、第5回の裁判は7月に行われた。その時には、東京日々新聞(当時)のカメラマンで、浅海一男記者に頼まれて向井・野田両少尉の写真を撮影した佐藤振壽(91)が、車椅子に座り看護士2人と佐藤の長男に付き添われ、約2時間明瞭な証言をした。

 

 ・・・証言により、常州発の浅海記事の第一報から捏造だったことが明らかになった。記事には、既に二少尉は56人と25人を斬ったとあるが、撮影の際「これから始めると聞いた」と証言した。
 また本多勝一が『中国の旅』を著すに際して、同氏に一切接触がなかったことも明らかにした。・・・ 

 

 事後の弁護士会館における稲田朋美弁護士の報告で、佐藤振壽(91)の家族は病身・高齢を理由に証人としての出廷に反対されたという。しかし佐藤氏は「記事は嘘でも写真は本物、自分が撮影した写真が中国の大虐殺記念館に展示されているので責任がある」と、敢然と証人になることを承知した。東京日々新聞(現毎日新聞)浅海一男鈴木二郎両記者の偽証と対比が際立つ。捏造不可(写真)と捏造可(記事)の違いか。

 

 平成13年。カナダ・トロントのヨーク大学ボブ教授が百人斬りは、作り話だという説を発表した。

1,当初の記事の浅海記者は、2人の将校が実際に中国人を殺すところなど、みていない。
2,東京裁判では、2人の将校を拘留し、尋問したが、その後解放している。(注・東京裁判では、無罪なのだ)
3,当時の日本軍は、日本刀で敵を殺すことは、一般的でなかった。
4,将校の日本刀は、それほど頑強ではなかった。

 以上のようなことを根拠にし、「百人斬り事件は作られた話であり、2人の将校は不当に処刑された」と、主張した。

 

 圧倒的な威力の機関銃日本刀そして戦意高揚記事、これが紐解く鍵だ。
 東京日日新聞(毎日新聞)浅海一男記者は、日本刀一本で立ち向かい、圧倒的な威力の機関銃撃つ
中国を斬り倒す英雄日本兵として、戦意高揚記事を書きたい願望があり、二人に話を持ちかけた。戦意高揚のため護国のために二人は名前を貸し話にのった。二人は単に名前を貸したにすぎず、内容はすべて浅海一男記者が創作した。創作したので、下記の矛盾が生じた。

 

両少尉の証言ではなく、浅海一男鈴木二郎両記者が創作の理由


・・・1 
軍隊内の組織的役割から不可能、例えて言えば、炊事番が戦闘することは
 出来ない。大砲の副官は前線で戦闘をしない。当然だ。

日本刀の性能から科学的に不可能。すぐに曲がってしまう。

近代の戦闘は銃を使う。戦国時代ではないから機関銃を持つ相手に刀
で勝てるわけがない。戦闘技術的に不可能。

4 記事の成り立ちから、戦闘記録ではない。新聞記事である。これは、戦意高揚用の宣伝記事だった。日本が
台湾沖航空戦で、敵空母を撃沈したと発表したが、実態は無かった。戦時宣伝である。これに対して、戦後米国
が賠償を求めたらどうであろうか。100人斬りは、同じことである。・・・「私の中の日本軍」山本七平著。


5 相手はか弱い老人や婦女子や無抵抗の捕虜では、弱いものいじめの極悪人となり戦意高揚記事とならず不可。だから、前述の浅海一男記者証言、「その現場を目撃したことはない。両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではない」との矛盾証言となる。

 

6 向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官) 隊長(指揮官) 副官 (指揮官)が部下も指揮せず銃弾の飛び交う最前線に出て、銃ではなく日本刀を振り回し百人斬り競争をしたという。日本刀を振り回すまえに銃殺されて競争など不可能なことは明白だ。これはまぎれも無く戦時下は常識の戦意高揚記事である。 

 野田少尉の父親 野田伊勢熊氏が1967年6月、陸軍士官学校49期生会が発行した「鎮魂 第二集」に寄稿した文より

「愚息毅は支那事変当時少尉時代京都師団から出征し、南京城入城前に百人斬り競争を同連隊の向井少尉となし、其の活動状況を毎日新聞に盛んに書きたて中央の雑誌等にも書いて国民銃後の志気を鼓舞しました

 両少尉は創作された記事が余りにも現実離れしているのに気付いたが、戦時中は護国のため戦意高揚のために、話を合わせ辻褄が合うように演じた据え物斬りの話も百人斬り報道に合わせただけだ。据え物斬り(すえものぎり)=死体(生きている人ではない)の試し切り

 

 戦後は常識で考えれば余りにも荒唐無稽な武勇伝なので、辻褄を合わせるため相手は機関銃撃つ中国から弱い者へ、日本刀一本で立ち向かった英雄から弱い者いじめの極悪人へと、反日や軍人への戦争責任転嫁目的で捏造された。結果下記のような話が生まれた。

1、野田少尉と同郷である志々目彰は小学生の頃、学校で野田少尉が講演を行い、百人斬りの実行の話を聞いたことを月刊誌『中国1971年12月号において証言している。(注・戦時下1939年7月24日母校にて講演。戦意高揚のために、話を合わせた。据え物斬りの話を、生きている捕虜を試し切りしたと勘違いしている。1971年朝日新聞記者本多勝一が朝日新聞に「中国の旅」を連載。「中国の旅」の内容殺人ゲームの影響は受けているはずだ 

2、野田・向井両少尉と同じ大隊に所属していた望月五三郎の手記『私の支那事変(私家版)1985年』では、百人斬りの一環として、向井少尉が無辜の農民を日本刀で惨殺したことを証言している。(注・惨殺を見たは、望月五三郎の証言しかない。事実ならもっと証言者が居てしかるべきだ。据え物斬りを、生きている捕虜を試し切りしたと勘違いしている。1985年の手記なので「中国の旅」の内容殺人ゲームの影響は受けているはずだ

3、当時の南京の状況や日本軍の状況を考えると、「百人斬り」の様な残虐行為があっても不自然ではない。(注・殺さなければ殺されるのが戦争だ、残虐なのが戦争だ

4、戦闘中の行為としてはおよそ不可能な行為だが、ほとんどは戦闘終了後の捕虜「処分」時に行われたと考えられる(当時小学生志々目手記、望月手記にも示されている)(注・現実離れして不可能なので、可能なように二人とも摩り替えた。二人とも語るに落ちている据え物斬りを、生きている捕虜を試し切りしたと勘違いしている。間違いなく「中国の旅」の内容、殺人ゲームの影響は受けている

5、少なくとも、戦時中は、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語っていた。 野田・向井両名とも事件を否定するような証言はしておらずまた、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版1938年1月25日付の記事では、故郷の友人に宛てた手紙が掲載されており、百人斬りの実行を記している。(注・両少尉は創作された記事が上記のように余りにも現実離れしているので、戦時中は話をあわせた。故郷の友人に宛てた手紙の原本無し。戦時下の戦意高揚記事である。もちろん、前述のように大阪毎日新聞の創作で、百人斬り競争第4報1937.12.13日の続報第5報である

6、戦時中の証言には、無抵抗の中国兵を投降させて殺害したとの本人証言があった。(当時小学生志々目手記に記載)(注・両少尉は創作された記事が上記のように余りにも現実離れしているので、戦時中は話をあわせた。投降させて殺害証言は、当時小学生の志々目だけ。据え物斬りを、生きている捕虜を試し切りしたと勘違いしている
百人斬り競争・ウィキペディア 百人斬り資料集 その2

 
大山鳴動して証言者たった二人だ。それも当時小学生が公然と聞いた話と、当時の部下と称する人が公然と見た話だけだ。公然なので証言者は何十人いや何百人いても不思議ではないはずだ。それが見たという証言者たった一人とは。信じられる話ではない。

 

 戦時下の戦意高揚行為は当然のことである。両少尉も東京日々新聞(現毎日新聞)浅海一男、鈴木二郎両記者も一丸となって護国のために成したことなので、責められるべきではない。
 がしかし、戦後は戦意高揚の記事だったと紙上で、両少尉と共に一番に謝罪すべきであった。
 浅海一男、鈴木二郎両記者は戦後も両少尉を貶め
たままであるが、両少尉は戦後も貶め続けているこの両記者に、恨み言も言わず一体の責任ありとして、日本国民へ「虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。」と謝罪し国に殉じた。
 国民銃後の志気を鼓舞し、護国のための戦意高揚行動を、『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑などする日本人は皆無。
 戦後浅海一男、鈴木二郎両記者の裁判の偽証のため、両少尉は銃殺された。戦意高揚のための記事で、事実ではなく創作だと真実を証言すれば二人は助かったのだ。
 戦後の東京日々新聞(現毎日新聞)と、浅海一男、鈴木二郎両記者が犯したこの罪、ペンの殺人、ペンの名誉毀損は永久に消えることはない。

 

ネタ元無検証の伝聞にさらに嘘の上塗りし記事とする戦後捏造の巨魁朝日新聞記者聞いたことを書いただけと開き直る本多勝一

  朝日新聞記者本多勝一が朝日新聞に「中国の旅」を連載したのは、昭和46年(1971年)。この中で本多勝一は、2人は上官にけしかけられ、百人斬り競争を行ったと紹介。百人斬り競争事件を大々的に取り上げ、南京で捕虜・市民30万人が日本軍に虐殺されたとする南京大虐殺の証拠として、盛んに喧伝した。その後、『南京への道』『南京大虐殺否定論 13のウソ』でも同様の記事を掲載する。

 本多勝一の「中国の旅」の文庫本では、実名表記がイニシャルに改められているが、「周りのほとんどの人は誰のことか知っており、注釈では『捕虜を据えもの斬りする虐殺競争をした』と、ますます残虐な人間に描かれている。本多勝一の「南京大虐殺13のウソ」では、「据え物斬り(試し切り)」と表現。据え物斬りを、捕虜を据えもの斬りと、生きている捕虜を試し切りしたかのように書いている。据え物斬り(すえものぎり)=死体(生きている人ではない)の試し切り


「中国の旅」

・・・『これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが』と姜さんは言って、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。『M』と『N』の二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。
 南京郊外の句容から湯山までの約10キロの間に、百人の中国人を先に殺 
した方に賞を出そう。二人はゲームを開始した。結果は『M』が89人、『N』が78人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで15キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。 結果は『M』が106人、『N』が105人だった。こんどは二人とも目標に達したが、上官はいった、″どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで8キロで、こんどは150人が目標だ″この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている。・・・(注・東京日日新聞(毎日新聞)浅海一男記者の創作、戦意高揚記事100人斬り競争がネタ元の話であるが、更に拡大した話にしている)

 

 姜根福氏の伝聞証言として断り書き為されている「中国の旅」は、東京日日新聞(毎日新聞)の記事と様変わりしている。敵兵、中国兵に対する「百人斬り」が一般市民の「殺人ゲーム」に置き換えられ、上官が命じたものとされ、さらにその競争が1ラウンド増やされ、意図的な作り替えが成された。作り替えを指摘され弁明を求められた本多勝一記者は捏造常習犯本多勝一の決めゼリフ「姜さんがそう言ったのは事実」として責任を回避した。本多勝一の記事は鵜呑み貼り付けというが、そうではなく、聞き書きを装ったすべて捏造記事なのだ。

 「中国の旅」出版の翌年、論争が起った。それは、百人切り競争は、全くのでっち上げだという人がたくさん出てきたからです。そのうちの一人、山本七平は次のように言っている。

1,日本刀で、3人も斬れば、どんな名刀でも刃こぼれし、刀身は折れ曲がり、柄がガタガタになる。
2,鉄兜もろとも唐竹割りなどは、不可能。
3,鉄兜という言葉は軍隊にない。鉄帽という。
4,また、「『貴様』は兵隊用語であり、名誉や威厳にうるさい将校は絶対に使わない 
。『向井少尉、貴公は』と言うはずである。 向井少尉は砲車小隊長であり、野田少尉は部下を持たない大隊副官である。勝手に砲車や大隊長のそばを離れて、敵陣を襲ったり、『飛来する敵弾の中で』新聞記者と話をしていたら、『違命罪』で軍法会議にかけられる」。

 

護国反日目的の異なる三つの「百人斬り」報道

 一は、昭和12年、東京日日新聞(毎日新聞)浅海一男記者の、日本刀一本で立ち向かい、圧倒的な威力の機関銃を撃つ中国斬り倒す英雄日本兵として、戦意高揚記事、「戦闘行為」として書かれた。護国

 

 二は、昭和46年、朝日新聞記者本多勝一の『中国の旅』で書かれた内容だ。この中で書かれている「百人斬り」は日日新聞の記事、中国斬り倒すとは違っていて、百人斬りの相手については中国兵なのか人民なのかは明らかにしていない。「上官命令による殺人ゲーム」であり、「勝った方に賞が与えられる」などと、ネタ元無検証で嘘の上塗している。弱者殺戮ゲームをする極悪日本兵として書かれた。反日。

 

 三は、『中国の旅』の追記『南京への道』『南京大虐殺否定論13の嘘』における百人斬だ。ここでは『捕虜を据えもの斬りする虐殺競争をした』と、残虐な人間に描かれている。捕虜据えもの斬り、百人斬り競争」が主題になっている。捕虜を据えもの斬りするなどとますます嘘の上塗し、残虐な極悪日本兵として書かれているのだ。反日。据え物斬りを、捕虜据えもの斬りと、生きている捕虜を試し切りしたかのように書いている。意図的である。据え物斬り(すえものぎり)=死体(生きている人ではない)の試し切り

 

 『中国の旅』以降、山本七平や鈴木明の『南京大虐殺のまぼろし』などが出て、どうも日日新聞の記事は非現実的なことに気付き、本多勝一は途中から「確かに戦闘行為で百人斬るのは無理だが、あれは捕虜据えもの斬りだったのだ」と内容をすり替え始めたのだ。
 つまり「捕虜据えもの斬り、百人斬り競争」とすり替えた三で本多勝一は語るに落ちたのだ。
 二での「姜さんがそう言ったのは事実」なら嘘がばれても、姜さんが嘘をついたわけだから姜さんのせいにすれば良い、補足などせずそのままで良いではないか。なぜ補足しすり替え始めたか姜さん証言ではなく、本多勝一が捏造した、本多勝一証言だからである
 姜さん証言の嘘が暴露されれば一連の捏造記事は将棋倒しとなる。本多勝一歯止めに動いたのだ。まさに語るに落ちた瞬間である。

 

 戦後国民も、常識で考えれば余りにも荒唐無稽な非現実な内容に気付いたが、戦意高揚のための創作だとは考えなかった。結果、アメリカによる愚民化洗脳や朝日や毎日や本多勝一の反日により、相手は機関銃を撃つ中国から弱者や捕虜へ、日本刀一本で立ち向かった英雄から弱者捕虜いじめの極悪人へと摩り替えた。

 

 本多勝一の捏造本がネタ元となり、当時小学生志々目彰手記、元部下と称する望月五三郎の手記『私の支那事変』でも戦闘中の行為としてはおよそ不可能な行為なので、戦闘終了後の捕虜「処分」時に行われたと、可能なように二人とも摩り替えた。
 戦時下
東京日々新聞(現毎日新聞)浅海一男記者は、戦意高揚のため日本刀一本で、機関銃を撃つ
中国兵を倒す英雄として、書いたのだ。二人とも本多勝一同様、語るに落ちている

 戦時下の戦意高揚報道がネタ元なのを知りながら直接書かず、他国人が語ったかのようによそおい責任逃れし、さらに嘘の上塗りをして冒涜を続ける、嘘の巨魁元朝日新聞記者本多勝一と朝日新聞と柏書房は、ペンの名誉毀損に値する。  

  

 東京地裁は2005年8月23日、「『百人斬り』報道訴訟」で、遺族側が、毎日、朝日両新聞社と本多勝一朝日新聞元編集委員らに謝罪広告の掲載や出版の差し止め、計3600万円の損害賠償を求めたことに対し、「当時の記事内容が一見して、明白に虚偽であるとまでは認められない」として、遺族側の請求を棄却した。

 
毎日新聞の報道姿勢を「百人切り」裁判で証言。毎日新聞社発行の昭和史全記録のなかに「百人切りは事実無根」と記述していることを原告稲田弁護士から指摘され、「それは、毎日新聞社の公式見解ではない」と答弁。さらに「新聞に真実を報道する義務はない」と断言した。 百人斬り裁判から南京へ・稲田 
朋美・文藝春秋 2007-04

 8月24日の人民網日文版は「日本軍遺族の名誉回復請求棄却 殺人競争訴訟
」で掲載。朝日新聞元編集委員本多の、「私のすべての報道は事実に基づいて書かれている。原告側が提訴した意図は、これを突破口として南京大虐殺を全面的に否認し、さらには日本による中国侵略をも否認しようとするものだ」「本判決は日本が中国を侵略した歴史が確固たる事実であることを証明した。日本人はドイツ人のように戦争の罪に真剣に向き合い、歴史を徹底的に反省しなければならない」というコメントを紹介している。

 先に殺さなければ殺されるのが戦争である。彼らは戦士なので敵兵を殺すのは当然である。朝日新聞記者本多勝一は、先に殺さなければ殺される戦時下の戦士の戦いとしてではなく、平時下に無辜の市民を殺す、狂った殺戮者のように針小棒大表現している。相手が無辜の市民か敵の兵士か捕虜かをぼかし、煽っている。撃墜王掃討王も戦場では同じ人殺しだ。表現の仕方で殺戮王になるのだ。この表現では両少尉はまさに殺戮王だ。 

  

 ペンの殺人、ペンの名誉毀損、東京日々新聞(現毎日新聞)と浅海一男鈴木二郎両記者ペンの名誉毀損、売国奴で捏造の巨魁元朝日新聞記者本多勝一と朝日新聞と柏書房。この事件はこの三人の新聞記者と、三報道機関が捏造して仕掛けた、護国の兵へのペンの暴力だ

 

 1937年(昭和12年)の日本軍の南京占領の現地最高責任者は、あの松井石根(いわね)だ。

 向井、野田少尉の遺書。・・・只俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。・・・ 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。・・・

 
人の将(まさに)に死なんとするや、その言や善し。

 嘘でも通用することに胡坐を掻く嘘の巨魁、朝日新聞毎日新聞。追随したペンの殺人三人と、十字架を背負った先人あなたは、どちらを信じますか!


 責任仮想現実(言葉と文字)界と、責任現実界(一般社会なら塀の中)。余りにも対比が際立!

「百人斬り」を道徳で授業する! 「百人斬り」関連資料集 


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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