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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観沖縄戦は県民と日本軍の戦いではない侵略者米軍を隠蔽し教科書を捏造する日本国と沖縄県


 沖縄戦は県民と日本軍の戦いではない侵略者米軍を隠蔽し教科書を捏造する日本国と沖縄県

最終的に決まった記述(2007年12月27日読売新聞朝刊)

○日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいる。三省堂(日本史A)

○日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり(中略)手榴弾を住民に配るなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自害と殺しあいに追い込まれた。実教出版(日本史B)

○日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた。清水書院(日本史B)

 

 沖縄戦は県民と日本軍の戦いではない、護国のため共生共死で侵略者アメリカと戦ったのだ。侵略者米軍を隠蔽せず下記のように教育すべきだ。悲劇の起因は侵略者アメリカで護国の日本軍ではない。

 

護国のため軍民一丸となり共生共死で侵略者アメリカと戦ったが敗れ、侵略者アメリカに追いつめられ、投降を拒否し集団自決に追い込まれた人もいる。侵略者が侵略し追い詰めなければ、集団自決など起きなかった。三省堂(日本史A)日本軍の関与によって)←削除

 

護国のため軍民一丸となり沖縄青壮年が防衛隊として参加、手榴弾が武器として配られ共生共死で侵略者アメリカと戦ったが敗れ、侵略者アメリカに追いつめられ、投降を拒否した住民は、集団自害と殺しあいに追い込まれ手榴弾が使われた。侵略者が侵略し追い詰めなければ、集団自決など起きなかった。実教出版(日本史B)日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり(中略)手榴弾を住民に配るなどした。このような強制的な状況のもとで、)←削除

 

護国のため軍民一丸となり沖縄青壮年が防衛隊として参加、手榴弾が武器として配られ共生共死で侵略者アメリカと戦ったが敗れ、侵略者アメリカに追いつめられ、投降を拒否し、日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた。侵略者が侵略し追い詰めなければ、集団自決など起きなかった。清水書院(日本史B)

 
 先人冒涜者や反日は、見当違いをくりかえす。殺したのは、加害者戦勝国なのに、護国指導者に赤紙を押しつけられて戦場に行き、戦場で戦死、護国指導者を罵倒する。赤紙を出した側、護国指導者が戦場に無理矢理連れて行き殺したと

 

 戦勝国が戦争を仕掛け、日本兵や日本人を、戦勝国加害者が殺した戦争なのに、日本国護国指導者が引き起こした戦争と、戦争責任をすり替え、無謀な戦争を始めた戦争指導者と、護国指導者を罵倒する。戦争指導者が無謀な戦争をして大勢の日本人を殺したと。

 

 攻められ、補給路を絶たれ、戦勝国加害者に大勢餓死させられた責任を、護国指導者にすり替え、護国指導者を罵倒する。戦争指導者に殺されたと。

 

 攻められ、補給路を絶たれ、戦勝国加害者に玉砕させられた責任を、護国指導者にすり替え、護国指導者を罵倒する。戦争指導者の戦陣訓で、降伏を許さず膨大な兵士を犬死させたと。

 

 マスコミが流した鬼畜米英の恐怖と、戦勝国加害者の恐怖や、滅びの美学による民間人の自決を、戦陣訓の生きて虜囚の辱を受けずで皆自決したと、戦陣訓の責任にすり替え、護国指導者を罵倒する。戦陣訓と戦争指導者に殺されたと。

     

 戦勝国に攻められ、原始爆弾や空襲で民間人60万人が虐殺されたのは日本軍人が悪かったからではない。戦勝国加害者が勝ちたかったから殺したのだ。負けたのは日本軍人が悪かったからではなく、物量が尽きたからだ。持てる物すべてを使い戦った護国の兵は、何も悪くは無い。物量が尽きて負けただけだ。

 

 虐殺したのは戦勝国加害者なのに、護国指導者を罵倒する。戦争指導者が終戦を遅らせ、戦争指導者が多くの日本人を殺したと。

 

 すべて戦勝国加害者、戦争、により虐殺され、餓死し、玉砕し、自決したのに、責任を、護国指導者にすり替え責任転嫁し、護国指導者を罵倒する。戦争指導者に殺されたと。

 

 批判罵倒しなければいけない相手は「戦争」加害者だ。「降伏禁止の記載無し」の戦陣訓では無い。護国の兵ではない、護国責任者ではない。日本国、沖縄県、先人冒涜者や反日は、何と愚かな見当違いを繰り返すのだ。つまみ食い、主客転倒もはなはだしい。

 「フランダースの犬」英国女性作家ウィーダ1872年刊。画家を志す少年ネロが、放火の濡れ衣を着せられて村を追われ、吹雪の中をさまよった挙句、一度見たかったルーベンスの絵を見る。そして誰も恨むことなく忠犬パトラッシュと共に天に召される。という日本では誰でも知っている悲運の物語だ。ところが欧州では「負け犬の死」としか映らず評価されることは無く、米国の過去5回の映画化も結末をハッピーエンドに書き換えられているという。悲しい結末の原作がなぜ日本でのみ共感を集めたのか、長く謎とされてきた。

 ベルギー人映画監督ディディエ・ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。浮かび上がったのは日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。プロデュサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は「日本人は信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見出す。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。この検証過程を「パトラッシュ」の題名で映画化、27日に大聖堂で上映される。制作のきっかけはアントワープの大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。「フランダースの犬 日本人だけが共感」の見出しで2007年12月25日読売新聞朝刊2面で報じている。

 訓や命令に従わなくとも、罰するものはもういない死語と化した訓や命令で、読者のみなさん、自決しますか。自決は自らの強い意志が無ければけして出来るものではないでしょう。常識があれば分かることだ。

 

 いつの世も一家心中に子供を巻き添えにするのは、親だけ死ぬと残された子供が不憫だと親が一方的に考えるからだ。殺される子供にとっては不可解なことだ。集団自決の被害者と称する人の証言(当時子供)がある。自分を殺そうとした親を全く理解できず、本当は優しい親だが極悪軍の命令により仕方なく親は殺そうとした、そうさせたのは日本軍と証言する。無理からぬことだ。がしかし、その証言は真実ではない。

 先人沖縄県民は軍の愚かな操り人形で、愚かな皇民化ロボットで、日本軍に戦陣訓に、死ねと命令され死んだのか、それとも沖縄県民斯ク戦ヘリで語られたような護国に殉じた沖縄県民だったのか、子孫の沖縄県民が県民投票で決めればよい。そして教科書の記述は、悲劇の起因は侵略者アメリカで、護国の日本軍ではないことを明記し、 
子孫の沖縄県民の解釈として記載し、同時に賛否の比率も載せればよい。
真実史観沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


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真実史観敗戦逃亡は古今東西世の習い逃亡せず従と共に「公」に殉じた天皇


天皇も臣も世の習い逃亡せず「公」に殉じた敗戦逃亡は古今東西世の習い

天皇とマッカーサーの第一次会談 

 昭和20年(1945年)9月27日、朝10時15分、会談は米国大使館で行われた。天皇が切望した会談であった。マッカーサーも天皇との会談直前までは、「命乞いでもするのだろうと、軽蔑していた」。ところが、天皇の口から出た言葉は、マッカーサーをいたく感動させた。

天皇「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して、全責任を負う者として、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、あなたに会いに来ました」。この勇気ある態度は私の魂までも震わせた。私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである。マッカーサー回顧録

 ・・・陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている。

 「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任はない。

 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の配慮をお願いしたい」。

 一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝「ひれき(打ち明ける)」になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ。

 「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願いしたい」。藤田尚徳「侍従長の回想」(172-173ページ)

 この時マッカーサーは、お迎えはしなかったが、お見送りには出てきてお見送りをした。

ボナー・F・フェラーズ(1896~1973)元米軍陸軍准将(1944から2年間マッカーサーの軍事秘書)家族宛の手紙

 「1945年9月27日10時過ぎ天皇マッカーサーと会見。

 天皇がアメリカ大使館を出発したとき、マッカーサーは感動の面持ちでこういった。『私は自由主義者であり、民主主義国で育った。しかし、惨めな立場に立たされた天皇の姿を見ると、私の心は痛む」

 オフィスに向かう途中でマッカーサーは、天皇は困惑した様子だったが言葉を選んでしっかりと話をした、と語った。「天皇は英語がわかり、私の言ったことはすべて直ちに理解した』

 私は言った『天皇は、あなたから処罰を受けるのではないかと恐れているのですよ』

 マッカーサーは答えた。『そうだな、彼はその覚悟が出来ている。処刑されてもしかたがないと考えている』」

 

昭和62年(11987)10月3日の中日新聞記事

(注・中日新聞のアメリカ総局長が、皇太子殿下「現天皇陛下」ご夫妻の訪米に際し、バイニング夫人の特別の了解を得て報道する許可を得た夫人の、滞日四年間の日記の記事である。皇太子殿下の家庭教師バイニング夫人は、マッカーサー元帥の信頼が厚く、元帥から直接聞かされた話が、日記には次々と書き残されていた)

「陛下 命投げ出すご覚悟」「バイニング夫人(皇太子殿下家庭教師)日記に生々しく」

1947年(昭和22年)12月7日、昭和天皇とマッカーサー元帥との第一回会談

 元帥は陛下に対して最初、厳しい態度で臨み、「戦争責任をおとりになるか」と質問した。これに対して陛下は「その質問に答える前に、私の方から話をしたい」と切り出され、「私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。絞首刑にされてもかまわない。(YOU MAY HANG ME.)・・・」

2009/07/02 動画 昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言

 1946年1月、昭和天皇は人間宣言して、その年の2月から9年かけて、日本各地を巡幸し、国民と直接言葉を交わした。1977年夏、那須御用邸で、初めて戦後の思い出を語った。しかし、マッカーサーの初会見で、何を話したかについては、言えないと答えた。「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と。

 1989年1月、昭和天皇が亡くなるまで、ついにマッカーサーとの会見の内容について語ることはなかった。

 昭和天皇初のヨーロッパ親善の旅では、ヒトラーと同次元で扱われ、酷評された。しかし昭和天皇のこの「公」に殉じた心や、WW2の本質が真実史観に晒されて、世界中が真実と向かい合うようになった。今年の皇太子ご一家の、オランダ招待の静養滞在が、すべてを物語っている。

 日本精神の根源には、必ず主従を一体とするこの呼応がある。「公」があって「私」が無い、この呼応が日本人の本質なのだ。「公」には主従というような上下はなく、「公」に殉じた「公」を実行するための主従が存在するだけだ。赤穂浪士は「公」に殉じ、捻じ曲げられた「公」を正すために戦った。

○フランスの詩人、弁護士、キリスト教の牧師ポール・アントワーヌ・リシャール(1916~1920年滞在)は日本人の「公」を喝破し述べている。

世界の救世主

 「世界人類の相愛と協力とを、人生の目的とするならば、いずれの国もことごとく、その武器を捨てる必要がある。それにはまず、世界の中の一つの国が、率先して、その範を示さねばならない。
 祝福されたる日本国民よ!あなたは世界の救い主として、神に選ばれた国家である。」

○西ドイツのボン大学教授オットー・カロン博士は、同じ敗戦国のドイツと日本を比べて、天皇の存在を賛辞し、日本人の「公」を喝破し述べている。

 ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。

 ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。

 平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。「天皇の真実」 河内正臣(たま出版) 

「公」とは何ぞや。摂理だ。真実史観

 

○昭和55(1980)年5月21日カトリックの総本山ヴァチカンに、ABC項目すべての戦犯が祀られた。「世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第3巻〉大東亜戦争の秘話 (歴史パノラマ写真集) 」名越二荒之助著展転社 (1999/11)より抜粋。

 ――ローマ法王庁・ヴァチカンには、昭和の殉難者1068柱の霊が祀られている。連合国の手で「戦犯」として裁かれたABC級すべての日本人「法務死」者の霊が、世界のキリスト教カトリックの総本山ヴァチカンに、他ならぬローマ法王によって祀られたのである。

 その多くはキリスト教信者であった連合国側にとって、これほどの皮肉はない。皮肉というよりは、勝者の驕りに対する「神の戒め」であるとも言えよう。

 時のローマ法王・パウロ六世に、日本人殉難者のためにミサを、と訴えたのは仏教徒の仲田順和師であった。

 昭和五十(1975)年にヴァチカンを訪れた折に、かねてより心を痛めていた「戦犯とされた人々」の鎮魂と慰霊のために、宗教の違いを超えて願い出たのである。

 順和師の父であり先代座主でもあった順海大僧正は、学徒兵や殉難者の法要を欠かさず、「七戦犯の鐘」など慰霊の鐘も護持している。

 先代座主の遺志をついだ真言宗醍醐寺派別格本山品川寺(ほんせんじ)の仲田順和師の願いを、パウロ六世は快く承諾した。しかし、喜んで帰国した順和師にその後届けられたのは、法王の訃報であった。その後を襲ったパウロ一世も急逝し、異教徒の願いは空しく閉ざされたと思われた。

 その順和師のもとに、ヨハネ・パウロ二世から親書が届けられたのは五年後の昭和五十五年四月、内容は「五年前の約束を果たしたい」との思いもかけぬものであった。

 ローマ法王庁は、異教徒の願いを忘れてはいなかったのである。

 パウロ六世の真心に応えようと、帰国直後から作製を依頼していた五重塔に殉難者千六十八柱の位牌を納め、ヴァチカンに奉納されたのは、同年五月のことである。醍醐寺五重塔を精巧に模した塔は、「戦犯」慰霊に共鳴した栃木県大田原市の木工芸家星野皓穂氏が、三年の歳月をかけ無料奉仕で完成させたもの。

 五月二十一日には仲田・星野両氏も参列し、法王パウロ二世のもと昭和殉難者のための荘厳なミサがヴァチカンでとり行われた。――

 

ピオ11世、パウロ六世、パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世と、一貫するローマ法王

○昭和56年(1981)2月23日~26日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はローマ法王として初めて来日した。この時、法王は慣例を破って皇居に天皇陛下を訪ねられた(2月24日11時皇居で天皇と会見。14時法王庁大使館で鈴木善行首相と会見)。法王が外国を訪問してその国の元首や首相に会う時は、その国の方々が法王を訪ねて会いに来るのが慣例となっており、法王の皇居訪問は前例のないことなので、問題となった。その時法王は、一身を捨ててマッカーサー元帥の前に立たれた天皇をたたえての訪問であることを、キリストの精神をたたえての訪問であることを、皆に説いた。皆は、その一言で納得した。

 戦前狂惨の正体を喝破したローマ法王のピオ11世は、(反共戦争)(日中戦争・支那事変・日華事変)(1937年7月7日)が始まった年の10月に、全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、次のようなメッセージを出している。「日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよ」と。当時、共産ではなく狂惨(凶産)と喝破していたのは、全世界のカトリック信徒と日本だけだ。

 右も左も、既に結論ありきで、事実を捏造するか、事実を針小棒大にして、既決の結論に帰着させようとする。森を見ず木だけ見て、既決の結論に合致する部分だけつまみ食いしている。私は右でも左でもない、私にあるのは真実、史実、禍福史観(木ではなく森を見る)、真実史観、実事求是だ。私が昭和天皇を最大限に評価するのは、古今東西世界の常識をくつがえし、敗戦なのに逃げずに、天皇の役目護国のために十字架を背負い、命を懸けたことだ。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世も称賛したこの無私の行動が、世界の評価を一変させていることを、日本国民はしっかり認識しなければならない。

※上記の部分だけのコピペが、2ch等で一人歩きしているが、会見は、天皇と臣(国民)に対してである。戦犯合祀反対分祀等々と、よまい事を叫ぶ似て卑なる者よ、真の日本人となれ!参照→ポーランドシベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれる真実
 

 これまでの世界の国王は、我先に逃げ、逃げて、つかまり、つかまれば、命乞いし、殺され、亡国、が世界の常識だ。敗残の将は誇りを失わず、敢然と立ち、勝者と対峙し「公」に基づき真実を述べた。昭和天皇は古今東西の世界の常識をくつがえしたのだ。「公」に殉じた心、真実には感動がある。古今東西の世界の常識に反する、敗者なのに逃げない天皇と部下、この現実に対した時点でマッカーサーには天皇処刑の選択は消えていたはずだ。逃げず敗戦の責を一身に背負った天皇が処刑されれば、その時点で天皇は十字架を背負った大東亜共栄圏建設の、有色人種解放の殉難者となり、キリスト教国アメリカは十字架を背負った殉難者殺害者となるからだ。自殺と捏造し殉難者とならぬように東條英機を徹底的に貶め、処刑した理由は正にここにあるのだ。東條英機はアメリカの意図を読み阿吽の呼吸で呼応し天皇の身代わりとなり、部下と敗者の責任を果たした。家族に残した遺言「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」身内は語るなは、評価は他人がすることで身内が評価することではない、身内以外の誰かがかならず己が生涯を正しく評価するはずだと戒めているのだ。赤心の東條はこうして「公」に殉じ、有色人種解放の殉難者となった。敗戦を引責し、天皇退位論など天皇非難論があるが、天皇の責任はすべて東條英機が受けて殉難者となった。退位などして天皇も責任を負えば、東條英機の死は即刻無駄死に犬死となる。天皇の身代わりとなった臣東條英機が願ったように、天皇は以後も「公」に殉じ、臣の願いに呼応し、日本の柱となり国民と共に復興を成し遂げた。これはまぎれもない戦後の事実だ。

 

『木戸幸一日記』昭和20年12月10日に記された昭和天皇の言葉。

「米国から見れば犯罪人ならんも、我国にとりては功労者なり」

 

「昭和天皇独白録」について

1988年、米国ワイオミング州キャスパーでマリコ・テラサキ・ミラーによって発見された、昭和天皇の口述書類。

 同書は、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成・御用掛が昭和天皇の記憶を聞き語りしたもので、その参考書類として「近衛公日記」と迫水久常の手記が添付されている。聞き語りが始まったのは昭和21(1946)年6月1日から、まず張作霖爆殺事件から起稿されている。四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである。この記録を残したのは、当時、昭和天皇の御用掛をつとめていた寺崎英成である。昭和天皇はここできわめてざっくばらんにその時々に感じたこと、また人物月旦評を語っており、きわめて興味深い。

 時の御用掛 寺崎英成は日米開戦まではワシントン日本大使館詰の一等書記官だったが、開戦後夫人(アメリカ人女性グエンドレン・ハロルド)と娘とともに、日本に送還された。終戦後は終戦連絡中央事務局に配属、日本政府と占領軍総司令部との間の連絡業務を担当したが、昭和21年2月に宮内省御用掛となった。寺崎が脳溢血でなくなられて、一家は夫人の故郷アメリカテネシーに帰国した。

 娘のマリコ・テラサキ・ミラーの息子のコール(娘の子供、寺崎氏の孫)が祖父の生涯について興味を抱き遺品を整理しているうちに、この記録を発見したものの、息子も日本語はダメなので、息子の知り合いの大学教授にみてもらい、さらに教授から東京在住の日本現代史研究の権威に転送された。そしてはじめて、この記録が 「歴史資料として稀有なものである」との回答を得た。これを機会に、娘は、この記録が持つ公共性に鑑み、これは我が家が独り占めにしておいてはいけない、公開されるべきものであると考え、1990年12月号「文藝春秋」に全文掲載され公開された。

 しかし、本書を読む上で注意すべき事は、「独白録」が東京裁判で天皇が訴追されないための弁明書であった点である。

 これは本書の英訳版が見つかったことで明かである。そのため、どうしても所々にその意図が現れていることに注意すべきであろう。昭和天皇が自分の戦争責任について『独白録』のような弁解と保身の文書をGHQに提出していたと、揶揄する者もいるが、天皇や護国指導者は逃亡していないのだ。逃亡もせず、敗戦の責任をとっている。揶揄する前にこの人としての重い事実を受けとめるのが先だ。敗戦、逃亡は世の習いだ。昭和天皇独白録
 「昭和天皇独白録」「昭和21(1946)年6月1日から、まず張作霖爆殺事件から起稿されている。四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである」昭和21年は、日本中が東条叩き真最中で、東条の味方など皆無、しかも昭和天皇自身の処遇未だ定まらず、ましてやGHQ提出文書である。そして5人立会いの聞き書きでもある。これまでの富田元長官の出自不明のメモや、侍従一人の感想文とは、訳が違う。そして犯日団が無視した事は、語るに落ちている。まさに昭和天皇東条を語る、第一級の資料である。

「昭和天皇独白録」東条という人物

 元来東条という人物は、話せばよくわかる、それが圧制家のような評版が立ったのは、本人が忙しすぎる為に、その気持ちが下に伝わらなかった事と憲兵を使いすぎた。東条は一生懸命仕事をやるし、平素云っている事も思慮周密で良い所があつた。「マリアナ」の防備も彼が参謀総長を兼ねてから後に、督促しやっと出来たが、時既に遅かったあの時、非戦闘員の玉砕には極力反対していたが、世間では東条が玉砕させた様に至っている。

・・・田中内閣の苦い経験である。東条を退けても、彼より力のある人物がいないこと、東条が大東亜の各地の人々と接触しているので、之を無視して内閣を更迭すれば、大東亜の人心収拾が出来なくなると考えたからである。

 東条は平沼から云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れ「こんりょうのそでにかくれる(天子の威徳に隠れて勝手なことをする)」るのはいけないと云つて立派に提出したのである。

 私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。「昭和天皇独白録」マリコ・テラサキ・ミラー著文芸春秋

 

昭和天皇もう一つの「英語版独白録」

 1997年6月に放送されたNHKスペシャル『昭和天皇二つの「独白録」』の内容を中心に書き下ろされた本。「英語版」の原文と翻訳に加えて、元侍従長、稲田周一の「備忘録」が収録されている。フェラーズの日記や書簡など(「フェラーズ文書」)を発見し、その中に「独白録」の英語版とでもいうべきものを探し当てたという功績がある。この本では、その他にもフェラーズの細かな動きを再構成していて、太平洋戦争の後期から占領期にかけての事情がわかりやすく記されている。昭和天皇 二つの「独白録」東野真 / NHK出版 /1998年7月25日

全責任を負い「濁」併せ呑み、「公」に殉じた天皇。1006.12.9.

 東京裁判の判決が下され東條ほか7人に死刑判決が下された。死刑は皇太子(現天皇)誕生日12月23日執行された。侍従の村井長正によれば、この日、天皇は終日書斎にこもり、「泣きはらして真っ赤なお顔をされていた」という。(高橋絋「象徴天皇の誕生」金原左門編「戦後史の焦点」)

殉国七士追悼式に参加して 若狭 和朋氏より抜粋

http://www.k3.dion.ne.jp/~sangane/sangane20.htm

昭和天皇の墓参り

 ・・・三ヶ根山の七士の墓の極く近く(700メートルくらい)の山腹に一軒のホテルがある。昭和(1979)五十四年五月二十六日、天皇皇后両陛下はこのホテルに宿泊された。翌日の植樹祭に御出席のためである。植樹祭の行なわれる場所は当時の愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)西山中地内の県有林(現・昭和の森)であった。開会は午前十時であった。三河の首邑は岡崎であり、現地には最も近い。名古屋からも現地は近い。最も遠いのが三ヶ根のホテルである。にもかかわらず、このホテルに御宿泊されたのは陛下の強い御内意によるという。

 当日の朝、お部屋で七士の墓の方角に対して両陛下は不動のままに佇立「ちょりつ(しばらくの間立ち止まる)」されていたという。御内意といい、御佇立といい、ともに責任のある地位にあった元政府高官の証言である。ホテルにその日の御様子を確かめても「私どものレベルでは:」と笑う。それはそうだ。「なぜおたくのホテルに:」と尋ねると、「JR系のホテルだからかと:」と困惑を隠さない。気の毒である。「両陛下にお泊りいただいたホテル」というのは本来なら金看板のはずだ。言葉の端々に「警戒」の気配りが見える。サヨクやその仲間のマスコミを警戒しているのだろうか。

 A級戦犯の靖国神社への合祀はこの「墓参り」の前年の昭和五十三(1978)年十月十七日である。・・・
頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏大アジア主義に殉じた人々犯日隠蔽の歴史


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真実史観ルーズベルトは宣戦布告を隠蔽し真珠湾を生贄に復讐戦争を捏造


  国民を餌食にし、生贄にしてまで戦争がしたかったルーズベルト。犠牲者2395(民間人54)名負傷者1178(民間人35)名アメリカ艦隊は、生け贄にされた。

 アメリカ国民は「Tora!Tora!Tora!」1970年製作米映画で、既に認知済み。公知を知らぬは、日本仮想界と歩く記憶機のみ。

http://my.execpc.com/~dschaaf/pearl2.html#december

ハルノート原案に記されたルーズベルトメモ

日本がこれを受け入れる可能性はほとんど無いだろう、すぐにでも起きるだろう災いに、皆備えなければならない。

ハルノート提出前日の会話を記したスチムソン陸軍長官の日記

 大統領は、「日本という国は無警告で攻撃を始めることで悪名高い。アメリカは、来週の月曜にも攻撃を受ける可能性がある」と注意を促した。「問題は大きすぎる危険を避けながら、日本をどう誘導していくかだ。最初の一発を撃たせるように」

スチムソン後日の証言「日本の先制攻撃がアメリカ世論をまとめるために望ましかった」

アメリカ暗号解読の父、暗号の天才ウィリアム・フリードマンは、真珠湾攻撃のニュースを聞き、妻にぼやいた。「『分かっていたのに・・・』と、父は母にだけ言ったのです」息子ジョン(83)の証言。

 昭和16年12月2日、ルーズベルト大統領は、日本が一向に対米攻撃を始めないことに業を煮やし、海軍軍令部長スターク提督に私信で発令した。それは、「アジア艦隊司令長官ハート大将に命じ、2日以内に3隻の小船を軍艦に儀装して、海軍士官に指揮させ仏印海域に派遣し、通りかかる日本艦隊を挑発せよ。」という内容だった。この事実は、海軍少将ケンプ・トーリーが公表している(「ラニカイ号の異様なる任務」、米海軍学会紀要、1962年9月号)。

 1941年12月7日真珠湾入り口で雑役補給艦アンタレスが国籍不明の小型潜航艇を発見し、米海軍駆逐艦ウォード(1200トン)に連絡、午前6時3分には哨戒機が発煙弾を投下して、潜水艦の所在を教えている。4インチ砲で砲撃し、航空機が爆雷攻撃して午前6時45分撃沈。大東亜戦争最初の交戦である。発見して直ぐの攻撃轟沈は、臨戦態勢で待ち受けていたことを、語っている。

http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/1941.html

 真珠湾空襲開始現地時間1941年12月7日午前7時55分(日本時間1941年12月8日午前2時55分)最初の交戦から約2時間後である。

 2002年8月28日、ハワイ真珠湾沖の水深406メートルの海底で、ハワイ大学海洋調査研究所のチームが長さ24メールの小型潜水艦を発見した。旧日本海軍の二人乗りの特殊潜航艇「甲標的」である。敵艦近くまで潜航し、搭載した二本の魚雷を発射する目的で、海軍が極秘に開発してきた秘密兵器。

 この「甲標的」が、1941年12月7日(現地時間)の真珠湾攻撃において、日本軍の攻撃2時間前に、アメリカの砲弾を受けて沈没した小型潜航艇である。大東亜戦争最初の戦死者となったのは、古野繁實海軍中尉(享年24。死後、少佐に特進)と横山薫範海軍一等兵曹(享年25。同、少尉に特進)の二人と推測されている。

 撃沈報告された記録も証言も存在するのに、真珠湾アメリカ艦隊にルーズベルトはシークレット事項とし、報告も、警戒警報も発しなかった。小型潜航艇と確認されているので、当然母艦の存在を調査し警戒にあたるのが常道なのに何もしていない。結果日本の奇襲攻撃となった。「それまでたびたびを間違えて報告していたので、同様とみなした」が、調査委員会の結論。戦国時代でのことである、誰が信じるだろうか。アメリカの詭弁でしかない。即座に轟沈(戦時下警戒の証明)が証拠、子供騙しの愚論である。犠牲者2395(民間人54)名、負傷者1178(民間人35)、真珠湾アメリカ艦隊はルーズベルトによって、対独戦、対日戦参戦のための生け贄にされた。対独戦、対日戦の生け贄の証拠が、この発見された「甲標的」なのだ。真珠湾攻撃は、騙まし討ちのテロの典型リメンバーパールハーバーではない。屈服、亡国要求のハルノートを突きつけられ、リメンバーハルノートを掲げ、護国、自由希求のため立ち上がった証し、それが日本国の真珠湾攻撃だ。対独戦、対日戦参戦のため、兵糧攻めで資源無き日本を攻め、宣戦布告、日本に亡国要求のハルノートを突きつけ参戦に追い込み、ルーズベルトは真珠湾で米国民を生け贄にした。真珠湾犠牲者2395(民間人54)名、負傷者1178(民間人35)名は、ルーズベルトの米国民騙まし討ちの証しなのだ。米国民において真珠湾は、リメンバーパールハーバーではなく、正にリメンバールーズベルトなのだ。日本軍の空襲2時間以上も前に発見され撃沈された「甲標的」発見は、ルーズベルトの陰謀を明々白々にし、不動なものにした。

 真珠湾攻撃を受けた翌12月8日、ルーズベルトが「真珠湾攻撃を国民に告げる・・・屈辱の日」の演説で、真珠湾が突然、何の前触れもなく攻撃されたことに加えて、ワシントンにいる日本の大使が、攻撃1時間後にやってきて、a recent American message(ハル・ノート。後述のように内容は極秘で、米国議会でさえ知らなかった)の回答書を手渡してきたと演説している。そして、日本は攻撃を仕掛けながら、恥知らずにも、攻撃後に交渉打ち切りの文書を手交し、宣戦布告もなく、和平交渉を続けるそぶりをして騙まし、攻撃を仕掛けてきた、騙まし討ちの卑怯な攻撃であると煽りに煽って、米国民を愚民化洗脳した。このように騙まし討ちの先制攻撃と煽られれば、対日宣戦布告に反対するものはもはや誰もいない。国会では、反対1票(あくまで反対できるという証明票)で日本へ宣戦布告が議決され、こうしてルーズベルトの陰謀の幕は切って落とされた。りメンバー・パールハーバーは、米国民愚民化洗脳のためのルーズベルト大統領の捏造で、真実はまさしく、宣戦布告「経済封鎖」、宣戦布告書リメンバー・ハル・ノート、りメンバールーズベルトなのだ。

国民を餌食にし、生贄にしてまで戦争がしたかったルーズベルト。

1935(昭和10)年8中国共産党は日本に宣戦布告「八・一宣言、抗日救国のため全国同胞に告ぐるの書」。宣戦布告は中国凶産党が先、日本は宣戦布告に応じた自衛戦争。1936年12月12日西安事件まで蒋介石は、1934年5月31日「塘沽」タンクー停戦協定で日本と協調し、反共戦争を展開中で、日本と交戦中ではなかった。西安事件以後、侵略者産主義毛沢東侵略者植民地主義蒋介石傀儡にし、新たな植民地獲得のため、日中戦争に引きずり込んだ、が真相

1937/9/ 盧溝橋事件を契機に、凶産党抗日を推し進める。日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。(中国国民党と中国産党との協力体制)国共合作②成立。米英ソ連(宗主国)の援助を受けながら戦った(蒋介石が凶産党と宗主国の甘言に乗ったのだ)。対凶産党との戦争となったので戦争回避不可となる。日本戦争(日中戦争)開始。

1939年昭和14年12月には、日本に対して航空機用のガソリンを禁輸するモーラル・エンパーゴが発動された。

1940年(昭和15年)3月30日 米国は、蒋政権に対する2千万ドルの資金援助を発表。

1940年昭和15年8月には、より低品質のハイオクタン航空ガソリン、9月にはくず鉄の対日前面禁輸、12月には鉄鉱や一定の鉄鉱製品の前面禁輸。

1940(昭和15年)9月25日 米国、中国への追加の資金援助として2千500万ドル供与を発表。

1940年(昭和15年)11月30日 ルーズベルト大統領は、蒋介石に1億ドルの資金援助と50機の新式戦闘機を送ることを約束。1億ドルのうち2500万ドルは、中国の航空計画及び地上兵器部品の購入のために使用された。

1941年(昭和16年)2月 米、P-40B戦闘機、100機の対蒋介石支援助を決定。その不足する装備武器と弾薬150万発については、大統領命令で米陸軍基地から直接補給された。

1941年3月11日昭和十六年 アメリカが施行した武器貸与法により、日中戦争の交戦相手であった中国(蒋介石政権)に航空機、武器弾薬、軍需物資などを供給。

 米国の軍事援助に関する昭和十六年(1941年)六月二十日付けの日本軍の調査資料。中国の蒋介石政権を支援する三本の補給ルートがあり、仏印(ベトナム)ルートが、ガソリン、鉄材、トラックおよび弾薬その他で毎月1万1千トン。ビルマルート経由が武器弾薬、火薬、工作機械など毎月4千トン、南支那(中国南部)ルートが同様な物資を、毎月9千トンで、補給物資の合計は毎月2万4千トン

1941年(昭和16年)4月15日 パウリー米インターコンチネント社社長が中国との間で航空機パイロットの米国義勇団に関する条約を結び、259名のパイロットを中国に派遣することとなった。

1941年(昭和16年)4月22日 米国陸軍省、中国に引渡し得る軍需品リスト(4千510万ドル相当)を提示。

1941年(昭和16年)5月6日 ルーズベルト大統領、中国向けのトラック300台の2週間以内のビルマ・ラングーン向け出荷を承認。また4934万ドル相当の軍需物資の中国供与を決定。

1941年春 「フライングタイガーズ」は、日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった、と六日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。(1991/07/08, 読売新聞)。このフライングタイガースは、中国国民党(蒋介石率いる現台湾政府)に協力して日本軍機を撃墜した部隊だが、これまで民間義勇軍であり米国陸軍省や米国大統領とは無関係であると米国防総省は主張してきた。ところが、同部隊の生存者たちが、実は米国防総省の承認下に全米各基地から集められた正規のエリート空軍部隊であった史実を認めるよう国防総省に請願し、このほど国防総省もこれを認めたのである。

 フライングタイガースが米国を出発してビルマに到着したのは昭和16(1941)年春のことであった。日本が日米開戦回避の可能性を必死で模索して日米交渉をワシントンで行っていた時、既に米国側は対日参戦にひそかに踏み切っていたのだ。

1941年(昭和16年)7月23日 米国統合委員会、軍事使節団派遣と米志願兵による中国からの日本軍爆撃を目的としてB-17、500機の対中国派遣を決定。この統合委員会での確認事項は次のようなものであった。

イ、中国及びその周辺地域又は海域で作戦中の日本軍に有効な反撃を加えるため、第一陣として269機の戦闘機と66機の爆撃機を装備すること。

ロ、米国は中国人の飛行及び航空機整備の訓練のための手段を提供すること。

ハ、米国によって与えられた大量の兵器の適切な使用について助言を与えるため、米国は、軍事使節団を中国に派遣すべきこと。

JB355」米国先制攻撃に、ルーズベルトサイン。米国爆撃機をイギリス優先にしたため、不足し、日本無差別爆撃計画は未遂となった。「幻の日本爆撃計画」アラン・アームストロング著日本経済新聞出版社

1941年7月25日~8月1日 アジアにおける食民治支配体制の維持に障害となる日本の叩き潰しを図り、日米開戦の四ヶ月前の昭和十六年七月二十五日から八月一日にかけて、産業必需品である石油、錫、ゴム、鉄材などの対日禁輸をおこなうと共に、日本の在外資産一億三千万ドルを凍結した。英国、オランダも追随して共謀、経済封鎖を実施。

 日本は、必要な輸入物資の八割を、米英蘭からの輸入品(石油・ゴム・錫・工業製品など)に頼っていた。したがって、米英蘭による「日本資産凍結」が日本経済を破綻させることは、火を見るよりも明らかなことであった(ヘレン・ミアーズ、『アメリカの鏡・日本』、八七頁)。

1941年8月1日 米国の大統領ルーズベルトは八月一日に英国、オランダと協力して石油など戦略物資の対日輸出禁止の追い打ちを掛け、しかも南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。当時の日本の石油自給率は5パーセント、95パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、存亡の危機に見舞われた。開戦前年の昭和十五年の石油製品の需要は年間五百六万キロリットルなので、当時の石油備蓄量からは一年前後で在庫がゼロになる事態が予想された。ABCDライン

1941年(昭和16年)11月26日 妥協案をすべて拒絶し服従を要求して、ハル国務長官は、最後通牒ハルノート(議会議員米国民に、内容は極秘)を日本に手渡した。

開戦後には、17億2330万ドルという莫大な援助を行い、日米戦争と日中戦争の両方を戦わざるを得ない局面にルーズベルトは日本を追い込んだ。

開戦1年前1940年(昭和15年)当時の貿易統計によると、日本は主要物資の輸入のほとんどを米国に依存。

○日本の主要物資の輸入先(開戦1年前昭和15年<1940>) 「アジア・太平洋戦争」

・鉄類  ①アメリカ69,9% ②中国15,6%(注・米、中、合計で85,5% ③インド7,5% ④その他7,0% 

・石油  ①アメリカ76,7% ②オランダ領インドネシア14,5%(注・米蘭合計で91,2%) ③その他8,8%

・機械類 ①アメリカ66,2% ②ドイツ24,9% ③その他8,9%

主要な輸入国を相手に戦争をするのは自殺と同じだ。

 反共戦争(日中戦争を継続中で、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていた。その状況下で更に英米蘭などの大国を相手に、新たな戦争を始めなければならない動機など、日本には皆無。衰えた者を啄ばむ、正に弱肉強食適者生存の戦国時代である。日本が戦争を仕掛けたのではなく、仕掛けられたのは明白な事実だ。明らかに(侵略食民治化)(侵略食民治化)(侵略食民治化)(侵略凶産化)(侵略凶産化)に戦争の意図や動機があった。

 2008年12月24日TBS、「あの戦争は何だったのか」で「先に手を出したのは日本・・・誰があの戦争を起こしたのか。東條か、統帥部か、官僚達か、国民か」と前述の真実を隠蔽し、捏造報道した。「あの戦争は何だったのか」と問うなら、国民を生贄にしてまで戦争を仕掛けたルーズベルトに問え、犯日の巣窟TBSよ!

大江、石原、司馬、TV朝日、TBS、日テレ、NHK、朝日、毎日、読売、文系日教組、議員、文系学者、司法官、行政官、実務無き文系仮想現実界は、非国民の巣だ。

犠牲者2395(民間人54)名、負傷者1178(民間人35)名、真珠湾アメリカ艦隊は、ルーズベルトに生け贄にされた。ハワイオアフ島アリゾナ記念館は、ルーズベルト生け贄記念館である。

国民を生け贄にしてまで戦争をしたかったのがルーズベルトで、日本では無い。嵌められたのは米国民で、日本では無い。日本の選択肢は、亡国か、大東亜団結かの二つ。日本は、大東亜団結一縷の望みに懸け、蜂起した。

仕掛けたのは、共産主義植民地主義の戦勝国である。資源無き小国日本、たった一カ国で世界の支配者(米英仏蘭豪ソ)に、戦争を仕掛けることなど有り得ない、常識があれば分かることだ。

「あの戦争」は、侵略者食民治主義凶産主義に虐げられし者(日本台湾朝鮮満州汪兆銘南京中国)の、蜂起戦争だ。

現代に平和をもたらしたのは、「愚条の害」が叫ぶ憲法9条などでは無く、真の不戦条約「植民地独立付与宣言」昭和35年1960年で、導き出したのは比類なき蜂起戦争、大東亜戦争である。


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

真実史観中国凶産捏造中帰連中国の旅本多勝一731悪魔の飽食森村誠一田中上奏文


中国狂惨党捏造中帰連・中国の旅・朝日新聞・本多勝一731部隊「悪魔の飽食」森村誠一・下里正樹共著

戦前のプロパガンダ田中上奏文
 
全世界征服計画という荒唐無稽な話が日本の野望として、1929年12月、南京で発行されていた月刊誌『時事月報』に、『田中義一上日皇之奏章』と中国文で発表された。1930年代には、米国で英文パンフレットとなり、大量に配付され、田中上奏文は、さらに翻訳され、世界中に「世界征服を目指す日本」というイメージをばらまかれた。

 

戦後第一弾中帰連 1964年最後の戦犯(中帰連)が帰国。中国凶産党が捕虜の日本兵を洗脳し、日本に帰国させ、反日、狂惨化運動させた。

 

中帰連(中国帰還者連絡会)中国抑留者(戦犯)証言
榎本正代(新井正代)証言
 私は二日前から十八歳ぐらいの中国の娘を連行していた。自分の慰みものにしていたが、いずれは何とか処置しなければならぬことは分かっていた。
 このまま殺してはつまらない。私は一つの考えを思いつき、それを実行した。私は娘を裸にして強姦し、その後、庖丁で刺し殺し、手早く肉を全部切り取った。それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配布したのである。兵隊たちは人間の肉とも知らずに、久しぶりの肉の配給を喜び、携行していた油で各小隊ごとに、揚げたり焼いたりして食べた。

 自らの異様な残虐行動を中帰連は猟奇表現し告白しているのだ。あなたは信じますか ―榎本正代証言―  

 これほどの残虐非道の戦犯が死刑にもならず皆帰国し、すぐに、抑留者が「中帰連」を組織し、マスコミに対して臆面も無く、自らの異様な残虐な加害行動を猟奇表現し証言しはじめたのだ。戦争とはこんなに酷いのだではなく、すべての批判者は、日本軍だけがこんなに悪いことをしたと、批判するところに変な作為をかんずるのだ。
 日本軍がこんな悪いことをしたと批判し始めたのだ。
中国狂惨主義の歴史捏造がばればれだ。中国狂惨主義は日本軍人の残虐さを、原爆虐殺に対抗して、世界に宣伝したかったが、残虐戦闘は無く、困り果ててて捏造した。

 

 日本軍は残虐戦闘しないので、日本軍の残虐を見れない。残虐を見れないのに捏造したから、残虐手法の表現が、支那民族の伝統的猟奇的残虐手法と皆同じでワンパターン。中国にはあるが、日本に、人肉食のような伝統的猟奇的残虐手法はない。日本でのプロパガンダ(皇軍の残虐宣伝)を条件に洗脳し釈放帰国させたのが真相だろう。
 皇軍の残虐猟奇表現宣伝は、「中帰連」以外は無い。死体損壊するのは中国兵の伝統的猟奇的残虐手法だ。動物の皮を剥いだり、肉を切ったりすることを日常的に行ってきた狩猟民族に特有の発想である。牛馬を農耕の友として暮らし、食しない、農耕民族の日本兵には、思いつかない手法だ。
 中国兵の伝統的猟奇的残虐手法→支那人が避けて通る恥部-通州事件 こわごわ通州へ(通州虐殺事件) 最初から謀られて通州の悲劇 支那人が絡んだ日本人虐殺事件
 

残虐手法の共通点 売国奴本や朝日新聞、週刊朝日が報じた究極の残虐東部ニューギニア強姦殺害・人肉食事件中国韓国無恥記念館の残虐手法の共通点は、民族自らの伝統的残虐手法を、あたかも日本軍がしたかのように捏造していることだ。
 「池田正之輔『シナ民族性の解明』1971年内外情報研究社」や、「1935年(昭和10)年に発行された(裏から見た支那民族性)日本外事協会・笠井考著」に書かれている支那民族の伝統的残虐手法と同じ。そしてニューギニアにも人肉食習慣はあった。すなわち日本人は残虐行為をしていないので、日本人の残虐手法が分からないため、民族自らの伝統的残虐手法を話した。
 半端者拝金主義者の捏造記事が、今後も後を絶たないだろうが、その民族の伝統的残虐手法を調べれば判明する。長らく肉食忌避した農耕海洋民族仏教国が、日本の歴史。中国朝鮮のように、肉食民族ではなかった。
 歴史を調べても、アンデス飛行機事故のような極限でない限り、日本人は死者を冒涜していない。敵将のお墓まで立てている。
 

1064年改造日本戦犯陳列室 日本人戦犯が戦争中の「日本鬼子」からいかにして人間に生まれ変わったか写真パネルを中心に中帰連洗脳の歴史を中国展示。洗脳の結果の中帰連の謝罪も展示されている。

1965年 チベット自治区占領文化大革命大虐殺開始。大虐殺開始以後中国国民の目をそらせるために、朝日新聞を占領し、歴史を捏造し日本叩きを開始した。

(1970年10月21日)朝日新聞広岡知男社長中国政府の意向に沿った記事を書くことを公言。

第二弾「中国の旅」(1971年)朝日新聞南京虐殺キャンペーン展開「中国の旅」(本多勝一)検証なしに中国の言うがままに報道。(日中国交樹立の主導権を握るため、狂惨党侮日作戦開始)
 誤爆や誤射撃による同士討ちもあるのだ。巻き込まれた市民も当然存在する。その市民や敗残兵を針小棒大に取り上げ捏造したのが南京大虐殺だ。大空襲や原爆投下を大虐殺と呼ばず、南京掃討戦を大虐殺とは呼べない。南京掃討戦を大虐殺と呼ぶのなら、他の戦闘も皆大虐殺と呼ばなければならない。

 

実教出版の「高校日本史」の指導資料「中国の旅」の引用。朝日新聞・本多勝一

 ・・・(通りかかった隊列の日本兵二,三人が)赤ん坊を抱いた母を見つけると引きずり出して、その場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしりとると、その場で地面いっぱいにたたきつけた。半狂乱になった母親が、わが子をを地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母をうしろから撃った。・・・・

 

三省堂「日本史」この教科書には教科書本体に万人坑の記述がある。指導要領「中国の旅」の引用。朝日・新聞本多勝一

 ・・・「ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり高圧線の電線にこうもりのように何人もぶらさげた。電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。

 集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、肉と骨が離れたりしていた。

  「永利亜化学工業」では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜き取られた。日本兵はあとで煮て食ったという」・・・日教組の自虐教育例

万人坑
 日本人経営の炭坑などで酷使されて死んだ中国人労働者の遺体を捨てる穴と中国が主張。一番有名なのが満州最大の炭坑であった撫順炭坑の30ヵ所に30万人の遺体が埋められているというもつまり平均1ヵ所1万人埋められているから万人坑。
 勿論戦後になって初めて出てきた話で今に至るも新たな万人坑発見の話が伝わる。ところが当時各地の炭坑、鉱山、ダム建設に従事していた日本人にインタビューすると誰一人として見た事も聞いた事もないと言う。勿論これが本当であれば噂にならない筈がなく、外国の新聞が必ず日本の蛮行と非難する筈だが報道は一切ない。
 
中国共産党の数ある歴史捏造シリ-ズの一つ。日本側をまったく調べずに中国と朝日の完全なデッチアゲである。中国の主張、万 人 坑は人が働けなくなったら捨てた、ヒト捨て場。
 

(1972年9月)日中共同声明調印 中国共産党の卑劣な外交下での国交回復である。田中角栄首相、周恩来首相と調印。

1976年 カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を中国強力支援。独裁者ポルポト(カンボジア)(政敵同胞殺戮250万人以上、知識層殺戮)

 

第三弾悪魔の飽食(あくまのほうしょく)は、満州国で731部隊が行っていたという人体実験の実態を詳しく書いたとして、話題を呼んだ。森村誠一(作家)が下里正樹(しんぶん赤旗の記者で当時共産党員)の取材で書いた本、彼らはノンフィクションと言っている。
 日本共産党のしんぶん赤旗日曜版で1980年代に連載され、後に光文社より単行本として出版(1982年)され、これが大きな社会的問題となった。
 注射針で体液を吸い出してミイラにする(現代でも不可能)。真空室にほうり込み、内臓が口、肛門、耳、目などからはみ出し破れる様子を記録映画に撮る(現実はこうならない)。など非現実な内容もさることながら、35枚中20枚の写真が偽写真だった事が判明し、結局これらの問題で、光文社は絶版とした(1983年に角川書店から、問題点を削除し加筆され再出版)。
 元隊員と称する匿名証言の情報提供者から、下里正樹(しんぶん赤旗の記者)が取材し、それを基に書いたので、森村誠一(作家)は、情報提供者との直接取材ではないと主張している。なんとこの作家も大江や石原と同類の無検証貼り付け屋なのだ。
 数多の捏造を指摘され、匿名証言のみで信憑性が乏しく、ノンフィクションとは言い難いとする非難もなんのその、この作家は、こりもせず、混声合唱組曲 「悪魔の飽食」(全7章)(原詩:森村誠一 作曲:池辺晋一郎)を作詞し、全国縦断コンサート開催し、捏造侮日活動邁進中である。日本狂惨党と絶縁し、現在は、悪魔の飽食中国公演を開催し、中国狂惨党と蜜月中。下里正樹(しんぶん赤旗の記者)と、この無検証貼り付け屋が捏造してから、中国凶産党が日本国内の反日が騒ぎ出した。


731部隊 

 満州731部隊(ななさんいちぶたい)(3000名)は、 1933年関東軍管轄区域内の各種流行性伝染病予防と、兵員用の飲料水の水質浄化を目的として、旧満州国の平房(ピョンファン)に設置された。初代部隊長の石井四郎(1892年 1959年、陸軍軍医中将)なので石井部隊とも呼ばれる。陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部)が本部である。
 悪魔の飽食捏造後、人体実験細菌兵器部隊にされた。1945年8月、ソ連軍が満州に侵攻すると、撤収作戦が実施され731部隊はその施設のほとんどを破壊して徹底的な証拠隠滅が図られた。と言われているがしかし、“完全破壊”されたはずの建物の大半は残り、修理が加えられた。石井部隊の本部棟は原型はそのままに、最近まで小学校として使用されていた。

 

 侵略戦争原爆空爆大虐殺60万人の負い目を持つアメリカは、払拭に匹敵する日本軍の悪行を、必死になって探していた。731部隊の情報に当然米軍はとびついた。
 人体実験や細菌兵器攻撃が事実なら、わずかな捏造で負い目払拭可能なので、石井四郎をはじめ731部隊の幹部を徹底的に調べた。結果は、捏造不可の真っ白だった。
 
仕方なくアメリカは対アメリカ開戦4年前の南京掃討戦を、大虐殺と捏造した。東京裁判で731部隊の関係者は1人も裁かれていない。

 

 731部隊の情報を欲した米軍は、石井四郎をはじめ731部隊の幹部との間で、731部隊が行った人体実験のデータを提供する代りに、731部隊を法廷で裁くことを免除するよう取引をした。との情報があるが、当時戦勝国は何でもできた。南京掃討戦を、大虐殺と捏造したではないか、東條を自殺と捏造したではないか、取引などしなくても何でもできたのが、戦勝国だ。
 東京裁判で731部隊の関係者は1人も裁かれていないので、これは、捏造者が辻褄合わせのため流した、デマ情報なのだ。つまり731部隊は、汎神の米軍さえも捏造不可な程、真っ白だったと言える。

 

 中国は共産主義を守るため、愚民化教育をし、反日にし、日本を敵国にした。中国人の負い目は、宗主国の手先となり戦った唯一の有色人種であることだ。彼らは、歴史が解明され、有色人種の解放者日本となり、解放を妨げた者中国人種対有色人種と、なることを極端に畏怖している。

 

 この捏造は元隊員と称する、匿名証言の情報提供者個人で出来ることではない。読者の皆さんはもう気付かれたことでしょう。この偽情報(1980年)は、ハバロフスク裁判(ソ連のハバロフスクの士官会館で、1949年12月25日~30日まで行われた日本軍に対する軍事裁判)の荒唐無稽な証言(拷問されての証言なので、非現実な証言をした。後日専門家が検証したら、余りにも荒唐無稽なので、ハバロフスク裁判でも採用しなかった。米国と同様に捏造不可だった)を台本にし、中国凶産党が愚民化教育を隠蔽し、負い目払拭のために放った思想戦第三弾なのだ。
 米国もソ連も捏造をあきらめた話を捏造し、凶産党の手先となった売国奴森村誠一下里正樹は、印税をもらい、ぬくぬくと悪魔の飽食生活だ。製造業ではあり得ない事だ。

 

 弱肉強食の当時、攻撃に使うかは別として、防御のためにも、毒ガスや細菌兵器をどこの国も研究するのは、当然のことである。研究しない方がむしろおかしい。やられたら、やり返せの時代なのだ、報復のためにも用意するのは当然である。それを放送せずに、あたかも日本だけがしたかのように2007.8.12.TV朝日と鳥越が「大日本帝国陸軍731部隊の実相」と題して「捕虜をマルタと呼んで、日本陸軍は細菌兵器の研究をし、生体実験を行った」と捏造放送。故人の証言なるものも、すべてつまみ食いしている。証言者が生きていてこれを見れば、反論するのは間違いない。
 2007.9.24.TV朝日と鳥越が、米国もソ連も捏造をあきらめた程真っ白な731部隊の話を、性懲りも無くまた捏造した。TV朝日と鳥越が、嘘を繰り返し真実にしようとたくらんでいる。TV朝日、朝日、NHK、TBS、毎日、本多勝一、筑紫、田原、鳥越、石原都知事、大江、森村誠一は、あたかも日本だけがしたかのように極悪を捏造する狼少年であることは、今やネチズンの常識だ。捏造作家や捏造報道人、捏造報道社は、滅びるのが世の習いだが、いまだに売国奴がはびこっている。白紙の子孫が染まらぬように真実を伝え、売国奴を一掃しよう。

 

(1982年)(教科書検定で政府が「『侵略』を『進出』と書き変えた」と朝日新聞の誤報事件。

(1984年)昭和59年8月4日付け夕刊(朝日新聞大阪本社版)「南京大虐殺」でっちあげ報道。

(1984年)昭和59年10月31日付け毒ガス戦朝日新聞でっちあげ報道。

(1985年)7月朝日新聞 「反靖国」キャンぺ―ン展開。8月14日初の靖国参拝反対声明発表。朝日新聞と人民日報が連携しながら反対運動展開。 

第四弾1986年)中国は反靖国で中曽根の参拝を中止させた。

(1986年)中国 「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」という名前で昭和61年(1986)に開館。「抗日戦争記念館」 の中身は といえば、日本軍の残虐ぶりをひたすら強調するために、中国兵の伝統的猟奇的残虐手法を色々展示している。(基本条約を締結後、三十年間に総額三兆円の (経済援助 )と、三兆円の有償援助の、合計六兆円もの巨額の経済援助を中国に与えている)

1987年8月15日韓国ソウル市郊外に日本軍の残虐ぶりをひたすら強調した独立記念館開館(日本から1800億円もの経済援助を受けていた)

 国際安全委員会も、日本軍と戦った蒋介石の国民党政府も、中国狂惨党も、当時から終戦までの8年間、南京に大虐殺事件があったなどとは一言も言っていない。また、世界のマスコミも取り上げていない。「南京大虐殺」などという言葉は、南京戦終戦後(8年後)戦勝国が言い出すまでは、存在しなかった。また「中国の旅」(1971年)で朝日新聞が騒ぎ出すまでの26年間も、存在しなかった。
 
朝日新聞が騒ぎ、日本恐喝に使えると判断した狂惨党と韓国
は、(1986年)「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」狂惨党、1987年8月15日「独立記念館」韓国、という日本恐喝用記念館を期せずして開館し、以後は皆さんご承知のごとく、日本恐喝三昧に励んでいる。

(1991年)吉田清治の捏造証言を利用し朝日新聞「従軍慰安婦」キャンペーン展開。

(1996年)吉田清治 著書「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」の捏造を認める。

(1997年)1997年10月17日発行の「週刊朝日」朝日新聞、週刊朝日が報じた究極の残虐東部ニューギニア強姦殺害・人肉食事件捏造報道。

第五弾(1997年)は平成9(1997年)年11月アメリカで発売された「ザ・レイプ・オブ南京」(悪魔の飽食と捏造方法がそっくりだ)だ。この宣伝や販売に総力を投入したのが在米の中国系反日団体の「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)や、「ワシントン慰安婦問題連合Inc」なのだ。アメリカも負い目払拭のため追随した。

『ザ・レイプ・オブ・南京』  

 平成9(1997)年11月アメリカで発売された「ザレイプオブ南京」という本が人気を呼んだ。南京事件を扱ったもので著者のアイリス・チャンは当時30歳の共産主義の中国系の米国人ジャーナリストだ。内容は中国の伝統的猟奇的残虐手法が満ち溢れており、偽書なのだと自白している。戦勝国には負い目が今でもあるから日本叩きは歓迎されるのだが、今では捏造が次々と暴かれ、偽書が定説となっている。
 日本を叩いて有名になったが、次々と捏造を暴かれた。『アメリカにおける中国人(The Chinese in America)(2003年)』でアメリカを叩いたが、これもまた次々と捏造を暴かれ、非難されていた。平成16(2004)年11月9日著者アイリス・チャン、頭部への銃弾1発で自殺、行年36歳。しかし、二歳の息子を持つ若い主婦が拳銃自殺するものだろうか、いくら米国でも不自然である。目に余る捏造が悲劇の引き金を引いたのだろうか。捏造は悲劇を生み、国を滅ぼす。国際プロパガンダの研究
 

(2000年)日本軍の残虐ぶりをひたすら強調する中国人民抗日戦争記念彫刻塑像公園(日本から六兆円もの経済援助を受けているのに、江沢民の指示で、5年と50億かけて完成)

第六弾(2000年)は日本軍の「従軍慰安婦」にさせられたと主張する中国や韓国の女性計15人が日本政府を相手どって米国内で起こした損害賠償請求などの集団訴訟だ。2000年9月に首都ワシントンの連邦地方裁判所で起こされた。支援したのは「ワシントン慰安婦問題連合Inc」という団体だ。アメリカ最高裁は2006年02月21日「慰安婦の訴え」を却下した。
 
 

第七弾は(2007年)「従軍慰安婦」問題だ。2007年7月30日に慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を可決。これも(抗日連合会)がマイク・ホンダ議員(民主党・カリフォルニア州選出)を操り仕掛けた。アメリカは負い目払拭のため追随した。

 

「ワシントン慰安婦問題連合Inc」 在米の韓国人や中国人から成り、中国共産党とも連携する反日政治団体である。2000年12月に東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」にも深く関与した。この「法廷」は模擬裁判で慰安婦問題を主に扱い、日本の天皇らを被告にして、その模擬裁判を行った。報道したNHKの姿勢が問題となった。

 

「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会) 1994年にカリフォルニア州(ホンダ議員の選挙区)で結成。華人(現地国籍)なのだが、2005年中国当局の意向を受け、日本の国連安保理常任理事国入りに反対する署名4200万人分集めたと発表。2002年には中国上海で第二次大戦の賠償に関する国際法会議を開いた。対日講和条約を否定し日本は戦時中の残虐行為について謝罪も賠償をしていない」と日本を糾弾する「宣言」をしている完全な反日団体。2006年クリント・イーストウッド監督が南京大虐殺の映画を作る」とデマを流した。同連合会は今後も南京事件や米人捕虜、731部隊などでなお日本を追及すると公約し、ホンダ議員も日本非難を続けることを公約している。

 

 韓国北朝鮮は、日本統治時代のほうがはるかに良かったため隠蔽し、悪いのはすべて日本と愚民化教育をし、反日にし、日本を敵国にした。この愚かな教育を受けた人々が各国に散らばり、反日運動をしているのだ。各国が侮日では無く、各国在在の愚民化教育の成れの果ての、朝鮮人が叫んでいるだけにすぎない。

 

 僑(中国国籍)や華人(現地国籍)の負い目は、宗主国の手先となり戦った唯一の有色人種であることだ。彼らは、歴史が解明され、有色人種の解放者日本となり、解放を妨げた者、中国人種対有色人種となることを、極端に畏怖している。各国在在の華僑や華人が侮日の理由はここにある。

 

 シンガポールの日本占領の記録であるノエル・バーバーの『不吉な黄昏』(中公文庫)も、その最終ページに次のように書かざるを得なかった。

 「『あらゆる災いの後に福が来る』の喩えの通り、白人至上主義の伝説を打倒して、アジア全域を究極の独立に導く一連の事件の動機となったのは、日本軍の戦勝なのだ。だから、今やシンガポール『中国系77%』を自らの国とするアジア人達は、皮肉な事だが、日本軍へ、ある程度は感謝すべきなのである。」(注・中国人は宗主国の手先となり日本軍と戦い、5000人(日本発表)~10万人(シンガポール発表)の戦死者を出している)

  77%の華人(中国系)シンガポールでのことだけに、より説得力がある。

 中国人や朝鮮人は愚民化教育の成れの果てから覚醒し、真実直視が肝要だ。大東亜戦争は、ソ連と中国狂惨党が主犯で、中国蒋介石日本米国は被害者なのだ。日本の主要交戦国だった米・英・仏・中らは賠償金請求を放棄している。蒋介石は、500億ドルの賠償金を放棄したうえ、日本の軍属と日本人居住者二百十万人を無事に日本に帰国させた。
 中国人や華僑や華人は、中国人種の墓穴を掘る愚行をやめ、蒋介石やシンガポールから至急学ぶことが肝心だ。相手を間違えては駄目だ、主犯は狂惨党なのだ。日本が戦ったのは中国人とではない、WW2の起因凶産主義者だ。
 日中戦争抗日戦争などではない、日本と孫文後継者筆頭汪兆銘が共に戦った相手は人類の敵凶産なのだ、戦いは反共戦争なのだ。
 蒋介石の息子台湾国民党蒋経国は初代党首赤心の孫文に帰り、孫文後継者筆頭汪兆銘の訂正した指針に従い、反共、民主、孫文の主張する仁義道徳、王道の文化を身につけ蒋経国、李登輝は静かな孫文革命をなしとげた
 中国人は台湾を見習い!孫文、汪兆銘(字は精衛)に、帰れ!
 アメリカは毅然として歴史と対峙し、歴史の捏造などせず、ルーズベルトの謀略と、トルーマンの愚行を認めて、負い目を払拭すべきだ。捏造国家や社会は、必滅なのは、歴史が証明している。

 

 中国人や朝鮮人や米国人は62年後の今も、捏造し先人の名誉回復にはげんでいる。日本の愚かな子孫は62年後の今も捏造し、先人を冒涜し続けている。

反共戦争更に詳しくは下記へ。
日中戦争では無い共産党と戦った反共戦争だ
頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏大アジア主義に殉じた人々犯日隠蔽の歴史

亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

真実史観1百人斬り真実は機関銃対日本刀嘘の巨魁朝日毎日記者そして戦意高揚記事これが紐解く鍵だ


①百人斬り競争機関銃日本刀嘘の巨魁朝日毎日記者そして戦意高揚記事これが紐解く鍵だ  

 撃墜王(げきついおう)、多数の敵機(現在は5機以上)を撃墜したものに与えられる称号。世界では、米英はエース・パイロット (Flying Ace pilot、エース 、仏、アス (As)  独、エクスペルテ (Experte) 、と呼ばれ、賞賛されている。

 しかし撃墜王(げきついおう)=殺害王ではないか、併記すると明解なので併記してみよう。 

日本の撃墜王(げきついおう)殺害王

 岩本徹三海軍94機撃墜(94人殺し)。西沢広義海軍87機撃墜(87人殺し)。杉田庄一海軍70機撃墜(70人殺し)。坂井三郎海軍64機撃墜(64人殺し)

 

 百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)敵兵掃討戦とは、反共戦争初期、南京へ進撃中に、日本軍の向井敏明少尉(26歳、歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(25歳、歩兵第9連隊-第3大隊副官)の2人が日本刀でどちらが早く100人を斬る100人の敵兵を掃討するか競った争ったとされる競争戦いである。この様子は、当時の大阪毎日新聞と1937年11月30日付けと12月13日付けの東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって、日本軍が南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の向井敏明少尉と野田毅少尉のどちらが早く100人を斬る100人の敵兵を掃討するか競争戦いを行っていると報道された。東京日日新聞の浅海一男が書き同年、4回にわたり掲載。掲載日は、昭和12年11月30日、12月4日、12月6日、12月13日の4回。

 

 1937年11月30日付けの東京日日新聞(毎日新聞)記事では、無錫-常州間で向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬った(敵兵掃討と報じている。また、1937年12月13日付けの記事では、12月10日に記者と会った時のインタビューとして、すでに向井少尉は106人、野田少尉は105人の中国兵を殺害(敵兵を掃討しており100人斬り競争敵兵掃討戦の勝敗が決定できず、改めて150人を目標とする殺害競争敵兵掃討戦を始めると写真入りで報じている。

 

 単語選定で文意が豹変するのがお分かりいただけたでしょうか。

 

東京日日新聞(現在の毎日新聞)浅海一男、鈴木二郎両記者百人斬り競争の記事

大阪毎日新聞東京日日新聞(現在の毎日新聞)に掲載

第1報1937.11.30日百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人

 (本文)[常州にて29日浅海、光本、安田特派員発] 常熟、無錫間の40キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は56人斬り、一人は25人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(26)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(25)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

 

 無錫進発後向井少尉は鉄道路線26、7キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る8キロの無名部落で敵トーチカに突進し4名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み55名を斬り伏せた

 

 その後野田少尉は横林鎮で9名、威関鎮で6名、29日常州駅で六名、合計25名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で4名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。

 

 向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は56人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉  
僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらない丹陽までには大記録にしてみせるぞ
(注・野田少尉は副官という職である。これは上官に24時間つきっきりでその補佐をする職で軍隊で最も自由時間がなかった。当時はみな副官と言うのが自由がないと知っていたので、記事で副官だと記述するとすぐウソがばれる状況にあった。そこで浅海記者は副官を○官と伏字にして記事にした。)

 

第2報1937.12.4日急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過
 (本文)[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 
既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、2日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は86人斬、野田少尉65人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。 

 常州から丹陽までの十里の間に前者は30名、後者は40名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

 

 中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

 

 野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。

 

第3報1937.12.6日) 89-78/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉

 (本文) [句容にて5日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は89名、野田少尉は78名といふ接戦となつた。


第4報193
7.12.13日百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦

 (本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに106対105といふレコードを作つて、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した


 野田「おいおれは105だが貴様は?」 
向井「おれは106だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて158人はどうぢや」と忽ち意見一致して11日からいよいよ150人斬りがはじまつた、11日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち

 

 知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ11日の午前3時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ

 

 と飛来する敵弾の中で106の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。(注・向井、野田両少尉が軍刀を前にした姿を写真入りで大きく紹介している。この写真は第1報の常州で佐藤振壽カメラマンが撮影したものだが、百人斬り〝超記録〟を達成したかのように大きく掲載されている)

 

大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版の記事

第5報1938年1月25日 253人を斬り 今度千人斬り發願

さすがの“波平”も無茶苦茶 野田部隊長から朗信 
 (
野田毅顔写真)
 (本文) 南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立つて、壮烈無比、阿修羅のごとく奪戦快絶〝百人斬り競争〟に血しぶきとばして鎬を削つた向井敏明、
野田毅部隊長は晴れの南京入りをしたがその血染の秋水に刻んだスコアは 106― 105、いづれが先きに百人斬つたか判らずドロンゲームとなつたが、その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙〝千人斬〟をめざし野田部隊長は□□の敗残兵掃蕩に253人を斬つた、かくして熱血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく〝血刃行〟はどこまで続く?……
 このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島県枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまヽの痛快さがあふれてをり、〝猛勇野田〟の面目躍如たるものがある――

  
(以下手紙本文)目下中支にゐます……約五十里の敵、金城鉄壁を木ッ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまつた、極楽に行きかヽつたのは五回や十回ぢやないです、敵も頑強でなか~逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで105斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて253人叩き斬つたです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました

百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)
一、今宵別れて故郷の月に
 冴えて輝くわが剣
二、軍刀枕に露営の夢に、
 飢ゑて血に泣く声がする
三、嵐吹け/\江南の地に、
 斬つて見せたや百人斬(以下7番まで歌詞紹介)

 まだ極楽や靖國神社にもゆけず、253人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、武運長久(われ/\は戦死することをかく呼んでゐます)を毎日念じてゐます、小生戦死の暁は何とぞ路傍の石塊を捨ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、最後に大元帥陛下万々歳。

 

 (注・戦友と呼ぶのは同位か下位の者を呼ぶのが常識だろう。戦友呼称の間違いは、明白だ。向井敏明少尉は歩兵砲小隊長。野田少尉は第3大隊副官で戦友は同じ第9連隊の第1大隊副官同期の六車政次郎少尉部隊長ではない。階級も間違いが明白である。戦友の六車政次郎少尉百人斬り競争を知らなかったと証言。知らないのに歌などつくれるわけがない。下記の証言参照。戦意高揚の捏造記事第5報なのは明々白々である

 

六車政次郎少尉の証言「野田少尉と同期で、同じ第9連隊の第1大隊副官(野田少尉は第3大隊副官)であった六車政次郎少尉の手記」

 

1 「惜春賦-わが青春の思い出-」(1990年)より。

 軍刀や銃剣を振りかざしてあたかも忠臣蔵の討ち入りのように、『居るか!』『居らんぞ!』などと声を掛けながら村内を進む。出会い頭に銃剣を構えた敵兵にぶつかる。中には軍服を脱ぎ捨てて逃げようとする敵兵や、降伏のそぶりをしながら隙をみて反撃してくる敵兵もある。そんな時には頭で考える前に軍刀を振り下ろしていた。(P.358)
立ち上がって刃向かう者もあり、慌てて逃げ出す者もあり、逃げ遅れて死んだ振りをする者もあったが、武器を捨てて哀れみを乞う者はいなかった。さすが
蒋介石ひざ元である。私は向かって来る者は袈裟斬りに、伏せているものは刺突しながら山頂を走り回った。大隊は午前九時頃この高地を占領した。(P.380)
三人の部下が無言で私の顔を見ている。躊躇する私を、もう一人の私が『やれ!やれ!』とそそのかす。後は無我夢中で飛び出した。何人斬ったのか、何がどうなったのか夢中で分からない。(P.387)(注・武勇伝と証言は異なる。武勇伝は釣り逃がした魚の大きさと同じ)

 

 「鎮魂 第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)「野田大凱の思い出」(1967年)より。

 北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、出征以来三ヶ月振りに会った。この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。・・・(注・大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版1938年1月25日付の記事。「戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました」は六車政次郎少尉の証言、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった」なので、歌などつくれない。正しく捏造なのだ

 

 野田少尉は大尉となりビルマ独立運動を支援した南機関の参謀長として、アウンサンとともにビルマ進攻作戦に加わり、ビルマ国軍の新設にともない指導官をつとめた。終戦後、鹿児島市内のマーケットに店を出していると聞き、安田尚義(県立鹿児島第一中学校の恩師)が訪ねた時はもういなかったという。「友人たちが逃亡をすすめたが応じなかったと聞くが、すでに妻女と離別しているところを見れば覚悟が定まっていたのであろう」と安田尚義の著書に書かれている。浅海一男、鈴木二郎両記者との対比があまりにも際立つ。

 

 向井・野田両氏はGHQに呼び出され取調べを受け、更に東京裁判でも「百人斬り競争事件」が虐殺の象徴的事例として注目され、「二将校を拘留し、尋問」とある。結局、新聞記事では証拠にならないということで2兵士は放免されたと伝えられている。「東京裁判では二将校を拘留し、尋問しながらも解放した」とある。

 

 浅海、鈴木両記者が検察側の喚問を受けているようである。鈴木記者は次のように書いている。概要「どの特派員もこの二将校が実際に斬り殺した現場をみたわけではなく、 ただ二人がこの“競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、 “二人とも逃げるのは斬らない” といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別々にとられた)わけではなかったが、期せずして、 『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』 と強調した」とある。(注・戦意高揚記事なので、一般民衆には手をだしていないと力説している)

 戦後の昭和22年、戦地から引き上げてきた2人のもとに、突然、日本の警察官が訪れ、市民を斬り殺したという理由で逮捕され、2人は
中国に送られた。 


 南京法廷は、この第四報の記事を有罪の決め手としていたから、アリバイが立証されれば裁判は崩壊しかねなかった。向井少尉が1037年12月10日か11日に二人の記者に会ったことを前提とする第四報(12月13日の東京日日)と、負傷入院していたため会う機会はなかったとする向井本人のアリバイ主張の矛盾をどう見るかである。
 直轄の隊長である富山武雄の証言で、概要「この砲兵大隊は12月12日に南京東方で停止し湯水東方に駐屯したので、紫金山に二人がいるのはおかしい。向井少尉は12月2日迫撃砲弾により脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため当時は救護班に収容されていた。原隊に復帰したのは15日だから、12日に紫金山上で新聞記者と両少尉が会うはずもない。浅海記者と向井少尉は無錫でしか会っておらず、その後記者達は自動車で南京へと移動したのでその間二人と会ってはいない筈である」と、冤罪説をしたためていた。しかし、浅海一男鈴木二郎両記者の真実が語られず有罪。この時点で二人は嘘の巨魁、浅海鈴木二郎となった。(注・証明書が届く前の答弁書(十一月六日付)で向井は「十一月末頃」に負傷十二月中旬に復帰と陳述していた。富山武雄の証言と向井の証言は、事前の打ち合わせが無いのに符合しているので偽証ではない。負傷していなかったとの向井の部下の証言があるが、たった2週間の入院なので、皆気付かなかったのか、士気に影響するので部下には知らせなかったか、どちらかだ) 

  

 ・・・紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは……。そこで、あの記事(第四報)の次第を話してくれたんです。・・・ 

 ・・・ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなものを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で“見たまま”“聞いたまま”を記事にして送ったんです・・・『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.36(注・会ったは浅海一男鈴木二郎両記者。会わずは両少尉と、直属の隊長。創作された戦意高揚記事なのは、いまや明白、両記者はここで事実を述べるべきだった。戦後27年経てもまだ両記者は嘘をつき続けている。捏造が記者の仕事なのか。 

  

 この時の向井少尉の裁判中の様子の記録と遺書が残されており、それによると、「裁判中、家族が浅海記者に、あの記事がでたらめだったことを証言してくれ、と必死に頼んだようである」。が、浅海記者が書いてくれたのは、「同記事に記載されている事実は、向井、野田両氏より聞きとって、記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」という「消極的証言」だった。

 これを、「浅海、鈴木両記者は南京の軍事法廷にも嘆願書を送っており、嘘にならない範囲内で精いっぱいの弁護をしています」と「積極的証言」と見る向きもあるが、この解釈はおかしい。「積極的証言」するのであれば、まさに真実「百人斬り競争は戦意高揚のための創作で、両少尉の名前を借りただけで、両少尉の証言に非ず」と証言すべきだ。 

  

 二人は「溺れるものワラをもつかむ」の思いで浅海一男記者の「あれは、私のフィクションでした」という言葉を待った。しかし、浅海一男鈴木二郎両記者からの言葉は実に賢い言い方で、「私が見たことではありません・・・」だった。昭和22年11月の南京軍事法廷で、この「百人斬り競争」記事と、二人が並んだ写真(有名な2人の写真は常州で撮影された)が唯一の証拠となり、俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件で死刑判決が言い渡された。 

  

 二人は命の綱と頼んだ浅海一男鈴木二郎両記者の言葉に、こういう形で裏切られ、軽視されたまま1948年1月28日、南京市雨花台の地上には雪が見られる寒さの中、沢山の中国兵に囲まれ、幌もないトラックで拘置所から刑場まで運ばれた事実は、今日も写真に残り、中国の人々の目にさらされ続けている。浅海一男記者は、戦後も記者として、毎日新聞にとどまり(1909年生れ、1932年入社、当時は社会部所属)戦後、毎日新聞を代表する「大記者」として活躍し、定年退職後は「日中友好推進派」として、毛沢東文化大革命を礼賛した数冊の著書を残しているという。1988年に死去。 

毎日新聞浅海一男、鈴木二郎両記者は、正に悪の巨魁死刑宣告者だ。 

事件の概要と推移  

  

特集南京大虐殺の真実「百人斬り」野田元少尉銃殺までの獄中日記 

 月刊WiLL 2006年8月号。南京戦犯所の獄中に於いて10日前に銃殺死刑を宣告を受けた後の手記。12月28日の該当個所を引用。 

一。日本国民に告ぐ  

 私は曽って新聞紙上に向井利明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申し上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。「馬鹿野郎」と罵倒嘲笑されても甘受致します。  

 只、今般中国の裁判に於て俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定させられましたことに就ては私は断乎無実を叫ぶものであります。

 再言します。私は南京に於て百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。

 たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以て今後中日間の怨みや讐(あだ)や仇(かたき)を絶対にやめて頂きたいのです。

 東洋の隣国がお互いに血を以て血を洗うが様な馬鹿げたことのいけないことは常識を以てしても解ります。

 今後は恩讐を越えて誠心を以て中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいです。

 中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以てするなら中国人にも解らない筈はありません。

 至誠神に通じると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。

 西郷さんは「敬天愛人」と申しました。何卒中国を愛して頂きます。

 愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中日提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に到達し得た事を以て日本国民も之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。

 猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以て神が教示されたのです。

 日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は「愛」と「至誠」です。

 此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈り致しまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。

 桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け

野田毅(少尉)死刑に臨みて 

何卒犬死たらしめない様に 
此の度
中国
法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事は厚く御礼申し上げます。
 只俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。
 死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なり諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、而目を以て感惰的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても、貴国を怨むものではありません。我々の死が
中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。
 何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。

 中 国 万 歳 日 本 万 歳 天皇陛下万歳  
 
百人斬りのウソと本多勝一、朝日、毎日の厚顔さ 
 

2につづく

真実史観百人斬り真実は浅海一男鈴木二郎毎日本多勝一朝日記者の捏造殺人愚弄

②百人斬り競争機関銃日本刀嘘の巨魁朝日毎日記者そして戦意高揚記事これが紐解く鍵だ

向井敏明(少尉)辞世

我は天地神明に誓ひ捕虜住民を殺害せることは全然なし。
南京虐殺等の罪は全然ありません。
死は天命なりと思ひ、日本男子として立派に中国の土になります。然れども魂は大八州(おおやしま、日本)に帰ります。
我が死をもつて中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです。中国の奮闘を祈る日本の敢闘を祈る。
 天皇陛下万歳 日本万歳 
中国万歳 死して護国の鬼となります。

 野田少尉南京で死刑前の獄中手記発見戦意高揚記事「記者が創作」。昭和22年、南京軍事裁判で拘留され、翌年23年、銃殺刑になるまでの約1年間のうちに書いた手記が発見された。

 野田マサさん(少尉の妹)が、平成13年3月、野田少尉の遺品の中から少尉の手記を発見。百人斬りの記事は、東京日日新聞(毎日新聞)浅海記者に持ちかけられたものであったことが記されており、「野田回想メモ」と言われるものである。この「野田回想メモ」によれば、野田少尉は、無錫での浅海記者との冗談話で、この4回の連載がなされたとされ、その後は、南京の麒麟門東方まで記者との会話はなかったと記されている。

 

 平成13年に発見された野田毅少尉の百人斬りに関する獄中手記の全文は、以下の通りです。

 

 十年以前のことなれば記憶確実ならざるも無錫に於ける朝食後の冗談笑話の一説次の如きものありたり。
 記者「貴殿等の剣の名は何ですか」
 向井「関の孫六です」
 野田「無名です」
 記者「斬れますかね」
 向井「さあ未だ斬った経験はありませんが日本には昔から百人斬とか千人斬とか云う武勇伝があります。真実に昔は百人も斬ったものかなあ。上海方面では鉄兜を、切ったとか云ふが」
 記者「一体無錫から南京までの間に白兵戦で何人位斬れるものでせうかね」
 向井「常に第一線に立ち戦死さへしなければねー」
 記者「どうです無錫から南京まで何人斬れるものか競争してみたら記事の特種を探しているんですが」
 向井「そうですね無錫附近の戦斗で向井20人野田10人とするか。無錫から常州までの間の戦斗では向井40人野田30人、無錫から丹陽まで60対50、無錫から句容まで90対80、無錫から南京までの間の戦斗では向井野田共200人以上と云ふことにしたら、おい野田どう考へるか、小説だが」
 野田そんなことは実行不可能だ、武人として虚名を売ることは乗気になれないね」
 記者「百人斬競争の武勇伝が記事に出たら花嫁さんが殺到しますぞハハハ、写真をとりませう」

 向井「ちょっと恥ずかしいが記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を貸してあげませうか」  
 記者「記事は一切記者に任せて下さい」


 其の後被告等は職務上絶対にかかる百人斬り競争の如きは為さざりき。又其の後新聞記者とは
麒麟門東方までの間会合する機会無かりき。したがって常州、丹陽、句容の記事は記者が無錫の対談を基礎として虚構創作して発表せるものなり。尚数字は端数をつけて(例へば句容に於て向井89野田78)、事実らしく見せかけたるものなり。
 野田は
麒麟
門東方に於て、記者の戦車に添乗して来るに再会せり。


 記者「やあよく会ひましたね」
 野田「記者さんも御健在でお目出度う」
 記者「今まで幾回も打電しましたが百人斬り競争は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに(一行不明)」    
 野田「そうですか」
 記者「まあ其の中新聞記事を楽みにして下さい、さよなら」


 瞬時にして記者は戦車に搭乗せるまま去れり。
 当時記者は向井が丹陽に於て入院中にして不在なるを知らざりし為、無錫の対話を基礎として紫金山に於いて向井野田両人が談笑せる記事及向井一人が壮語したる記事を創作して発表せるものなり。上述の如く被告等の冗談笑話により事実無根の虚報の出でたるは全く被告等の責任なるも又記者が目撃せざるにもかかわらず筆の走るがままに興味的に記事を創作せるは一体の責任あり貴国法廷を煩はし世人を騒がしたる罪を此処に衷心よりお詫びす。

 

 百人斬り競争の記事について、当事者の浅海記者は、2つの証言をしている。
(1)同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはない。
(2)両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではない。


 また、常州で2人を撮影した佐藤振壽カメラマンの証言も重要だ。
(1)両少尉はこれから(つまり常州から)百人斬り競走を始めると話していた。
(2)翌年の昭和13年上海で「百人斬り」の記事を見たが「嘘っぱちを上手く書いたな」
メディア・改めて問う、「百人斬り」は真実か

 

 百人斬り裁判は、東京地方裁判所にて、第5回の裁判は7月に行われた。その時には、東京日々新聞(当時)のカメラマンで、浅海一男記者に頼まれて向井・野田両少尉の写真を撮影した佐藤振壽(91)が、車椅子に座り看護士2人と佐藤の長男に付き添われ、約2時間明瞭な証言をした。

 

 ・・・証言により、常州発の浅海記事の第一報から捏造だったことが明らかになった。記事には、既に二少尉は56人と25人を斬ったとあるが、撮影の際「これから始めると聞いた」と証言した。
 また本多勝一が『中国の旅』を著すに際して、同氏に一切接触がなかったことも明らかにした。・・・ 

 

 事後の弁護士会館における稲田朋美弁護士の報告で、佐藤振壽(91)の家族は病身・高齢を理由に証人としての出廷に反対されたという。しかし佐藤氏は「記事は嘘でも写真は本物、自分が撮影した写真が中国の大虐殺記念館に展示されているので責任がある」と、敢然と証人になることを承知した。東京日々新聞(現毎日新聞)浅海一男鈴木二郎両記者の偽証と対比が際立つ。捏造不可(写真)と捏造可(記事)の違いか。

 

 平成13年。カナダ・トロントのヨーク大学ボブ教授が百人斬りは、作り話だという説を発表した。

1,当初の記事の浅海記者は、2人の将校が実際に中国人を殺すところなど、みていない。
2,東京裁判では、2人の将校を拘留し、尋問したが、その後解放している。(注・東京裁判では、無罪なのだ)
3,当時の日本軍は、日本刀で敵を殺すことは、一般的でなかった。
4,将校の日本刀は、それほど頑強ではなかった。

 以上のようなことを根拠にし、「百人斬り事件は作られた話であり、2人の将校は不当に処刑された」と、主張した。

 

 圧倒的な威力の機関銃日本刀そして戦意高揚記事、これが紐解く鍵だ。
 東京日日新聞(毎日新聞)浅海一男記者は、日本刀一本で立ち向かい、圧倒的な威力の機関銃撃つ
中国を斬り倒す英雄日本兵として、戦意高揚記事を書きたい願望があり、二人に話を持ちかけた。戦意高揚のため護国のために二人は名前を貸し話にのった。二人は単に名前を貸したにすぎず、内容はすべて浅海一男記者が創作した。創作したので、下記の矛盾が生じた。

 

両少尉の証言ではなく、浅海一男鈴木二郎両記者が創作の理由


・・・1 
軍隊内の組織的役割から不可能、例えて言えば、炊事番が戦闘することは
 出来ない。大砲の副官は前線で戦闘をしない。当然だ。

日本刀の性能から科学的に不可能。すぐに曲がってしまう。

近代の戦闘は銃を使う。戦国時代ではないから機関銃を持つ相手に刀
で勝てるわけがない。戦闘技術的に不可能。

4 記事の成り立ちから、戦闘記録ではない。新聞記事である。これは、戦意高揚用の宣伝記事だった。日本が
台湾沖航空戦で、敵空母を撃沈したと発表したが、実態は無かった。戦時宣伝である。これに対して、戦後米国
が賠償を求めたらどうであろうか。100人斬りは、同じことである。・・・「私の中の日本軍」山本七平著。


5 相手はか弱い老人や婦女子や無抵抗の捕虜では、弱いものいじめの極悪人となり戦意高揚記事とならず不可。だから、前述の浅海一男記者証言、「その現場を目撃したことはない。両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではない」との矛盾証言となる。

 

6 向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官) 隊長(指揮官) 副官 (指揮官)が部下も指揮せず銃弾の飛び交う最前線に出て、銃ではなく日本刀を振り回し百人斬り競争をしたという。日本刀を振り回すまえに銃殺されて競争など不可能なことは明白だ。これはまぎれも無く戦時下は常識の戦意高揚記事である。 

 野田少尉の父親 野田伊勢熊氏が1967年6月、陸軍士官学校49期生会が発行した「鎮魂 第二集」に寄稿した文より

「愚息毅は支那事変当時少尉時代京都師団から出征し、南京城入城前に百人斬り競争を同連隊の向井少尉となし、其の活動状況を毎日新聞に盛んに書きたて中央の雑誌等にも書いて国民銃後の志気を鼓舞しました

 両少尉は創作された記事が余りにも現実離れしているのに気付いたが、戦時中は護国のため戦意高揚のために、話を合わせ辻褄が合うように演じた据え物斬りの話も百人斬り報道に合わせただけだ。据え物斬り(すえものぎり)=死体(生きている人ではない)の試し切り

 

 戦後は常識で考えれば余りにも荒唐無稽な武勇伝なので、辻褄を合わせるため相手は機関銃撃つ中国から弱い者へ、日本刀一本で立ち向かった英雄から弱い者いじめの極悪人へと、反日や軍人への戦争責任転嫁目的で捏造された。結果下記のような話が生まれた。

1、野田少尉と同郷である志々目彰は小学生の頃、学校で野田少尉が講演を行い、百人斬りの実行の話を聞いたことを月刊誌『中国1971年12月号において証言している。(注・戦時下1939年7月24日母校にて講演。戦意高揚のために、話を合わせた。据え物斬りの話を、生きている捕虜を試し切りしたと勘違いしている。1971年朝日新聞記者本多勝一が朝日新聞に「中国の旅」を連載。「中国の旅」の内容殺人ゲームの影響は受けているはずだ 

2、野田・向井両少尉と同じ大隊に所属していた望月五三郎の手記『私の支那事変(私家版)1985年』では、百人斬りの一環として、向井少尉が無辜の農民を日本刀で惨殺したことを証言している。(注・惨殺を見たは、望月五三郎の証言しかない。事実ならもっと証言者が居てしかるべきだ。据え物斬りを、生きている捕虜を試し切りしたと勘違いしている。1985年の手記なので「中国の旅」の内容殺人ゲームの影響は受けているはずだ

3、当時の南京の状況や日本軍の状況を考えると、「百人斬り」の様な残虐行為があっても不自然ではない。(注・殺さなければ殺されるのが戦争だ、残虐なのが戦争だ

4、戦闘中の行為としてはおよそ不可能な行為だが、ほとんどは戦闘終了後の捕虜「処分」時に行われたと考えられる(当時小学生志々目手記、望月手記にも示されている)(注・現実離れして不可能なので、可能なように二人とも摩り替えた。二人とも語るに落ちている据え物斬りを、生きている捕虜を試し切りしたと勘違いしている。間違いなく「中国の旅」の内容、殺人ゲームの影響は受けている

5、少なくとも、戦時中は、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語っていた。 野田・向井両名とも事件を否定するような証言はしておらずまた、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版1938年1月25日付の記事では、故郷の友人に宛てた手紙が掲載されており、百人斬りの実行を記している。(注・両少尉は創作された記事が上記のように余りにも現実離れしているので、戦時中は話をあわせた。故郷の友人に宛てた手紙の原本無し。戦時下の戦意高揚記事である。もちろん、前述のように大阪毎日新聞の創作で、百人斬り競争第4報1937.12.13日の続報第5報である

6、戦時中の証言には、無抵抗の中国兵を投降させて殺害したとの本人証言があった。(当時小学生志々目手記に記載)(注・両少尉は創作された記事が上記のように余りにも現実離れしているので、戦時中は話をあわせた。投降させて殺害証言は、当時小学生の志々目だけ。据え物斬りを、生きている捕虜を試し切りしたと勘違いしている
百人斬り競争・ウィキペディア 百人斬り資料集 その2

 
大山鳴動して証言者たった二人だ。それも当時小学生が公然と聞いた話と、当時の部下と称する人が公然と見た話だけだ。公然なので証言者は何十人いや何百人いても不思議ではないはずだ。それが見たという証言者たった一人とは。信じられる話ではない。

 

 戦時下の戦意高揚行為は当然のことである。両少尉も東京日々新聞(現毎日新聞)浅海一男、鈴木二郎両記者も一丸となって護国のために成したことなので、責められるべきではない。
 がしかし、戦後は戦意高揚の記事だったと紙上で、両少尉と共に一番に謝罪すべきであった。
 浅海一男、鈴木二郎両記者は戦後も両少尉を貶め
たままであるが、両少尉は戦後も貶め続けているこの両記者に、恨み言も言わず一体の責任ありとして、日本国民へ「虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。」と謝罪し国に殉じた。
 国民銃後の志気を鼓舞し、護国のための戦意高揚行動を、『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑などする日本人は皆無。
 戦後浅海一男、鈴木二郎両記者の裁判の偽証のため、両少尉は銃殺された。戦意高揚のための記事で、事実ではなく創作だと真実を証言すれば二人は助かったのだ。
 戦後の東京日々新聞(現毎日新聞)と、浅海一男、鈴木二郎両記者が犯したこの罪、ペンの殺人、ペンの名誉毀損は永久に消えることはない。

 

ネタ元無検証の伝聞にさらに嘘の上塗りし記事とする戦後捏造の巨魁朝日新聞記者聞いたことを書いただけと開き直る本多勝一

  朝日新聞記者本多勝一が朝日新聞に「中国の旅」を連載したのは、昭和46年(1971年)。この中で本多勝一は、2人は上官にけしかけられ、百人斬り競争を行ったと紹介。百人斬り競争事件を大々的に取り上げ、南京で捕虜・市民30万人が日本軍に虐殺されたとする南京大虐殺の証拠として、盛んに喧伝した。その後、『南京への道』『南京大虐殺否定論 13のウソ』でも同様の記事を掲載する。

 本多勝一の「中国の旅」の文庫本では、実名表記がイニシャルに改められているが、「周りのほとんどの人は誰のことか知っており、注釈では『捕虜を据えもの斬りする虐殺競争をした』と、ますます残虐な人間に描かれている。本多勝一の「南京大虐殺13のウソ」では、「据え物斬り(試し切り)」と表現。据え物斬りを、捕虜を据えもの斬りと、生きている捕虜を試し切りしたかのように書いている。据え物斬り(すえものぎり)=死体(生きている人ではない)の試し切り


「中国の旅」

・・・『これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが』と姜さんは言って、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。『M』と『N』の二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。
 南京郊外の句容から湯山までの約10キロの間に、百人の中国人を先に殺 
した方に賞を出そう。二人はゲームを開始した。結果は『M』が89人、『N』が78人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで15キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。 結果は『M』が106人、『N』が105人だった。こんどは二人とも目標に達したが、上官はいった、″どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで8キロで、こんどは150人が目標だ″この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている。・・・(注・東京日日新聞(毎日新聞)浅海一男記者の創作、戦意高揚記事100人斬り競争がネタ元の話であるが、更に拡大した話にしている)

 

 姜根福氏の伝聞証言として断り書き為されている「中国の旅」は、東京日日新聞(毎日新聞)の記事と様変わりしている。敵兵、中国兵に対する「百人斬り」が一般市民の「殺人ゲーム」に置き換えられ、上官が命じたものとされ、さらにその競争が1ラウンド増やされ、意図的な作り替えが成された。作り替えを指摘され弁明を求められた本多勝一記者は捏造常習犯本多勝一の決めゼリフ「姜さんがそう言ったのは事実」として責任を回避した。本多勝一の記事は鵜呑み貼り付けというが、そうではなく、聞き書きを装ったすべて捏造記事なのだ。

 「中国の旅」出版の翌年、論争が起った。それは、百人切り競争は、全くのでっち上げだという人がたくさん出てきたからです。そのうちの一人、山本七平は次のように言っている。

1,日本刀で、3人も斬れば、どんな名刀でも刃こぼれし、刀身は折れ曲がり、柄がガタガタになる。
2,鉄兜もろとも唐竹割りなどは、不可能。
3,鉄兜という言葉は軍隊にない。鉄帽という。
4,また、「『貴様』は兵隊用語であり、名誉や威厳にうるさい将校は絶対に使わない 
。『向井少尉、貴公は』と言うはずである。 向井少尉は砲車小隊長であり、野田少尉は部下を持たない大隊副官である。勝手に砲車や大隊長のそばを離れて、敵陣を襲ったり、『飛来する敵弾の中で』新聞記者と話をしていたら、『違命罪』で軍法会議にかけられる」。

 

護国反日目的の異なる三つの「百人斬り」報道

 一は、昭和12年、東京日日新聞(毎日新聞)浅海一男記者の、日本刀一本で立ち向かい、圧倒的な威力の機関銃を撃つ中国斬り倒す英雄日本兵として、戦意高揚記事、「戦闘行為」として書かれた。護国

 

 二は、昭和46年、朝日新聞記者本多勝一の『中国の旅』で書かれた内容だ。この中で書かれている「百人斬り」は日日新聞の記事、中国斬り倒すとは違っていて、百人斬りの相手については中国兵なのか人民なのかは明らかにしていない。「上官命令による殺人ゲーム」であり、「勝った方に賞が与えられる」などと、ネタ元無検証で嘘の上塗している。弱者殺戮ゲームをする極悪日本兵として書かれた。反日。

 

 三は、『中国の旅』の追記『南京への道』『南京大虐殺否定論13の嘘』における百人斬だ。ここでは『捕虜を据えもの斬りする虐殺競争をした』と、残虐な人間に描かれている。捕虜据えもの斬り、百人斬り競争」が主題になっている。捕虜を据えもの斬りするなどとますます嘘の上塗し、残虐な極悪日本兵として書かれているのだ。反日。据え物斬りを、捕虜据えもの斬りと、生きている捕虜を試し切りしたかのように書いている。意図的である。据え物斬り(すえものぎり)=死体(生きている人ではない)の試し切り

 

 『中国の旅』以降、山本七平や鈴木明の『南京大虐殺のまぼろし』などが出て、どうも日日新聞の記事は非現実的なことに気付き、本多勝一は途中から「確かに戦闘行為で百人斬るのは無理だが、あれは捕虜据えもの斬りだったのだ」と内容をすり替え始めたのだ。
 つまり「捕虜据えもの斬り、百人斬り競争」とすり替えた三で本多勝一は語るに落ちたのだ。
 二での「姜さんがそう言ったのは事実」なら嘘がばれても、姜さんが嘘をついたわけだから姜さんのせいにすれば良い、補足などせずそのままで良いではないか。なぜ補足しすり替え始めたか姜さん証言ではなく、本多勝一が捏造した、本多勝一証言だからである
 姜さん証言の嘘が暴露されれば一連の捏造記事は将棋倒しとなる。本多勝一歯止めに動いたのだ。まさに語るに落ちた瞬間である。

 

 戦後国民も、常識で考えれば余りにも荒唐無稽な非現実な内容に気付いたが、戦意高揚のための創作だとは考えなかった。結果、アメリカによる愚民化洗脳や朝日や毎日や本多勝一の反日により、相手は機関銃を撃つ中国から弱者や捕虜へ、日本刀一本で立ち向かった英雄から弱者捕虜いじめの極悪人へと摩り替えた。

 

 本多勝一の捏造本がネタ元となり、当時小学生志々目彰手記、元部下と称する望月五三郎の手記『私の支那事変』でも戦闘中の行為としてはおよそ不可能な行為なので、戦闘終了後の捕虜「処分」時に行われたと、可能なように二人とも摩り替えた。
 戦時下
東京日々新聞(現毎日新聞)浅海一男記者は、戦意高揚のため日本刀一本で、機関銃を撃つ
中国兵を倒す英雄として、書いたのだ。二人とも本多勝一同様、語るに落ちている

 戦時下の戦意高揚報道がネタ元なのを知りながら直接書かず、他国人が語ったかのようによそおい責任逃れし、さらに嘘の上塗りをして冒涜を続ける、嘘の巨魁元朝日新聞記者本多勝一と朝日新聞と柏書房は、ペンの名誉毀損に値する。  

  

 東京地裁は2005年8月23日、「『百人斬り』報道訴訟」で、遺族側が、毎日、朝日両新聞社と本多勝一朝日新聞元編集委員らに謝罪広告の掲載や出版の差し止め、計3600万円の損害賠償を求めたことに対し、「当時の記事内容が一見して、明白に虚偽であるとまでは認められない」として、遺族側の請求を棄却した。

 
毎日新聞の報道姿勢を「百人切り」裁判で証言。毎日新聞社発行の昭和史全記録のなかに「百人切りは事実無根」と記述していることを原告稲田弁護士から指摘され、「それは、毎日新聞社の公式見解ではない」と答弁。さらに「新聞に真実を報道する義務はない」と断言した。 百人斬り裁判から南京へ・稲田 
朋美・文藝春秋 2007-04

 8月24日の人民網日文版は「日本軍遺族の名誉回復請求棄却 殺人競争訴訟
」で掲載。朝日新聞元編集委員本多の、「私のすべての報道は事実に基づいて書かれている。原告側が提訴した意図は、これを突破口として南京大虐殺を全面的に否認し、さらには日本による中国侵略をも否認しようとするものだ」「本判決は日本が中国を侵略した歴史が確固たる事実であることを証明した。日本人はドイツ人のように戦争の罪に真剣に向き合い、歴史を徹底的に反省しなければならない」というコメントを紹介している。

 先に殺さなければ殺されるのが戦争である。彼らは戦士なので敵兵を殺すのは当然である。朝日新聞記者本多勝一は、先に殺さなければ殺される戦時下の戦士の戦いとしてではなく、平時下に無辜の市民を殺す、狂った殺戮者のように針小棒大表現している。相手が無辜の市民か敵の兵士か捕虜かをぼかし、煽っている。撃墜王掃討王も戦場では同じ人殺しだ。表現の仕方で殺戮王になるのだ。この表現では両少尉はまさに殺戮王だ。 

  

 ペンの殺人、ペンの名誉毀損、東京日々新聞(現毎日新聞)と浅海一男鈴木二郎両記者ペンの名誉毀損、売国奴で捏造の巨魁元朝日新聞記者本多勝一と朝日新聞と柏書房。この事件はこの三人の新聞記者と、三報道機関が捏造して仕掛けた、護国の兵へのペンの暴力だ

 

 1937年(昭和12年)の日本軍の南京占領の現地最高責任者は、あの松井石根(いわね)だ。

 向井、野田少尉の遺書。・・・只俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。・・・ 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。・・・

 
人の将(まさに)に死なんとするや、その言や善し。

 嘘でも通用することに胡坐を掻く嘘の巨魁、朝日新聞毎日新聞。追随したペンの殺人三人と、十字架を背負った先人あなたは、どちらを信じますか!


 責任仮想現実(言葉と文字)界と、責任現実界(一般社会なら塀の中)。余りにも対比が際立!

「百人斬り」を道徳で授業する! 「百人斬り」関連資料集 


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

真実史観1大江健三郎亡国の巨魁は集団自決を軍命令と捏造元凶侵略者米国を隠蔽罪の巨塊で有罪


1大江健三郎亡国巨魁は集団自決を軍命令と捏造元凶侵略者米国を隠蔽罪の巨塊で有罪
 ノーベル賞などの肩書きに惑わされて鵜呑みせず、親から授かった頭脳で検証しよう。戦後の識者は皆職責放棄だ、肩書きは売られた勲章だ。文学賞は平和賞と同じ用途で授与、真贋の二賞がある。川端康成真賞受賞とはまったく意味が異なる。川端康成こそ日本を代表する作家だが、大江は日本を代表する作家などではない。大江はノーベル贋賞受賞で、類まれな侮日反日WGIP広告塔が、受賞理由だ。韓国金大中と同類、政治目的利用のための授与。文学が理由ではない。大江の書き物は、とても文学と呼べる代物ではない。やがて歴史が証明する。日本の覚醒を良しとしない妖怪が、世界にはまだいるのだ。妖怪の傀儡として大江に白羽の矢が放たれたに過ぎない。大江は単なる人形で、魂を金で売った売国奴だ。

 
もし日本戦わざれば、有色人、未だに食民治のままと、マハティール首相は1992年喝破した。二年後の1994年真実の伝播を恐れた白人戦勝国は、比類無き犯日の大江に急きょノーベル贋(犯日)賞を与え、犯日を世界で語らせ、煽った。  
 丸暗記記憶機大江は、見事に期待に応え、贋(犯日)賞を掲げ、得意の絶頂で犯日を世界に発信し続けている。まさに、何とかに付ける薬は無い。半面生臭坊主ここに極まれり。


『もし日本なかりせば』暗に大東亜戦争の本質喝破マハティール首相の演説

 原爆碑広島錯誤大江健三郎ノーベル贋賞売国奴の館NHK似非平和団体

 常識も奪ってしまった、戦後の捏造一元史観愚民化教育。侵略者狂惨党大国との反共戦争。侵略者大国アメリカとの護国戦争。護国のため自己を捨て、軍民共生共死一丸と化した先人の戦いを罵倒する、傘差す親殺しの子供と同じ幼稚な自己中心愚民大江健三郎と追随する輩よ、先人は護国のため己を捨て、一丸と化したにすぎない。王、長島、星野ジャパンのように。

先人冒涜の皆さん常識で考えれば分かることなのだ。 
 1945年3月の米軍沖縄侵略により、沖縄の2つの離島で住民400余人が集団自決した。大江健三郎は現地取材もせず、著書『沖縄ノート』(初版は1970年、現在は第51刷)で、守備隊長が出した軍命令によって集団自決が起きたと書き、守備隊長を「屠殺(とさつ)者」「戦争犯罪者」「ペテン」とまで罵倒した。

 座間味島の守備隊長だった梅沢裕元少佐(90歳)と、渡嘉敷島の守備隊長、赤松嘉次元少佐の遺族は、岩波書店が発行した大江の『沖縄ノート』と家永三郎氏の『太平洋戦争』の誤った記述で名誉が傷つけられたとして、平成17年8月、出版停止等請求し提訴した。

 2007年11月9日、大阪地裁で「沖縄集団自決訴訟」(出版停止等請求)の裁判が開廷した。集団自決の原因が守備隊長の命令(軍)なのか、米軍の侵略による激しい攻撃なのかが、争点の裁判で、2年を超える裁判だという。 

  

 産経新聞2006年08月27日、実名、写真入りで照屋さんの証言を報じた。戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった、元琉球政府職員照屋昇雄さん(82)=那覇市が、産経新聞の取材に応じ、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による自決命令ということにし、自分たちで書類を作った。」と告白。

 

 大阪地裁で続いている「集団自決訴訟」について、被告側(岩波書店、大江健三郎)にとって不利なことを言っている元琉球政府職員照屋昇雄さん(82)について、経歴詐称だと主張し、証言も信用できないとする沖縄タイムスの記事。他人の経歴を沖縄タイムスと大江健三郎がグルになって捏造した。沖縄タイムスと大江健三郎の捏造
  

 こんな明々白々な社会の常識が、何で2年を超える裁判となるのか、不思議でしょうがない。戦陣訓や軍命令が有ろうが無かろうが、アメリカが侵略しなければ、自決などない。原因はアメリカの侵略だ。売国奴迎合作家大江健三郎は、真の原因アメリカの侵略を隠蔽し、遺族のためにと十字架を背負った護国の兵士に罪を着せ捏造し、「罪の巨塊」などとあらん限りに罵倒した。訴えられるのは当然だ。 

  

「太平洋戦争」岩波書店・家永三郎著 

 初版本にあった赤松命令説を全面的に削除したと岩波書店が主張。しかし、「太平洋戦争」の第二版は、「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」としており、赤松命令説を全面的に削除したというものではなく、軍(赤松)による自決命令がなかったとしているわけではない。 

  

『沖縄ノート』引用文 岩波書店・大江健三郎著  

 (注・かれ=渡嘉敷島の海上挺身隊隊長、赤松嘉次、当時大尉、25歳。大江は用意周到なつもりでかれと表現しているが隊長は一人。かれ隊長赤松嘉次は、明白だ。大江はやることが幼稚だ) 

  

 ・・・かれは他人に嘘ををついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく」(p.208-9)。 

  

 ・・・慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。・・・かれのテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」・・・(p.210)。

 ・・・「かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、1945年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。…とかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは25年ぶりの屠殺者生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう」・・(p.210-1)。 

  

 ・・・「あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、1945年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの、・・・およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の・・・再現の現場に立ち入っているのである」・・・(p.211-2)。 (注・大江は渡嘉敷島の「土民」屠殺者は、かれと表現している。屠殺の対象になるのは動物、なんと渡嘉敷島の住民は、動物扱いされているのだ)

  

 ・・・おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。・・・(p.213)。大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)のひどさ。   
  

巨塊(きょかい)の意味。大江健三郎の造語。これまで注解はなかったが、2007年11月9日法廷にての大江健三郎の説明は。「その結果生じた多くの人の遺体」、2007年11月20日朝日新聞朝刊での説明は、「巨きい数の死体」。本の出版後30数年もたってからだ、自己中心も甚だしい。造語なので意訳すれば、(きょ)=おおきい、(かい)=かたまり、(大きなかたまり)罪の巨塊罪の(大きなかたまり)とこれまで解してきた。 

  

巨魁(きょかい)の意味。(盗賊などの)首領。かしら。頭領。大親分。 

  

①弁解。大江健三郎の法廷での証言 

・・・被告側代理人(以下、「被」)「『人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいと願う』とあるが、これは渡嘉敷島の守備隊長のことか」 

大江被告「そうです」 

被「この罪というのは何か」 

大江被告「罪というのは、集団自決の、軍の命令によってあの大きい数の死者が出たということです 

被「巨塊とあるが、この巨塊とは何か」 

大江被告「巨塊というのは、大きい塊という文字を書いておりますが、あの、ご存知のように日本の字引には「キョカイ」という音で大きい塊と書いたものはありません。現在もありません。それで私は、この巨塊という言葉を日本で作りたいと思います。それでツミノキョカイと読みますが、私が最初に書きました時には、渡嘉敷島で死体となって霊となった数多くの人たちというふうに書きました。それは死者に対して私は無礼だと思いますので、死者という言葉を使うことをやめました。罪の塊、ということを、罪の結果の塊ということを考えまして、あまりにも大きいその集団自決の死体の塊、死体の集まりの前でそれに関係している人罪に関してどのように感じるだろうかということを推測した、想像したというわけでございます」 

被「『あまりにも巨きい』の意味は」 

大江被告「あまりにも巨きい罪の巨塊に、罪の、ないし、犯罪の結果の死体の巨きい塊、という事が巨塊になりますが、巨塊の巨、を強調するために使われています。・・・ 

・・・被「巨塊とは、守備隊長のことを巨塊と言ったわけじゃないということですか」 

大江被告「はい。あの、そのように誤解していられる、読み間違えていらっしゃる方がおりますが、しかしそうではなくて、『あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう』と言ってるのでありますから、この彼は守備隊長でありますから、守備隊長が守備隊長の前でということになります。それは読み取りが間違いです・・・ 

ニュース   『WiLL』07年1月号 

  

 ・・・罪の巨塊「罪とは『集団自決』を命じた日本軍の命令を指す。『巨塊』とは、その結果生じた多くの人の遺体を別の言葉で表したいと考えて創作した言葉」「私は『罪の巨塊の前で、かれは…』と続けている。『罪の巨塊』というのは人を指した言葉ではない」と説明、「曽野さんには『誤読』があり、それがこの訴訟の根拠にもつながっている」と大江健三郎は弁解している。2007.11.9.『罪の巨塊』=人ではないと法廷にての弁解。大江氏「軍命」主張/「集団自決」訴訟2007.11.10.沖縄タイムス朝刊1・26面 

  

②弁解。・・・私は曽野綾子氏の立論が、テクストの誤読によるものであることを説明しました。「・・・人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう・・・かれとは渡嘉敷島の守備隊長です。罪の巨塊『巨きい数の死体』です。その前に立つかれ罪の巨塊だ、と読み取るのは文法的にムリです」・・・罪の巨塊かれとはならないと、弁解している。大江は被告人である、その被告人だけが新聞という公器で審理事項にかかわる意見を述べている。大江氏による「罪の巨塊」の変な説明 「人間をおとしめることについて」罪の巨塊に込めた思い2007.11.20.朝日新聞朝刊
  

 『巨塊』とは、その結果生じた多くの人の遺体と①で弁解し、11日後②で『巨きい数の死体』その結果生じたを省き弁解している。なぜか「・・・『罪の巨塊』というのは人を指した言葉ではない」と弁解し誤読を捏造するためだ。しかし、弁解①②をそのまま貼り付けると下記になる。語るに落ちているのだ。その結果生じたを省いた捏造文。部分読みでは『巨きい数の死体』かれは文法的にムリだが、全文を読むと省いた文字が浮かび出て、文意は変わらず、と同じ。さらに『罪の巨塊』≠かれ≠人なのに、『罪の巨塊』=かれとする、「曽野さんには『誤読』がある」と弁解しているので、『罪の巨塊』=かれにして「曽野さんの『誤読』」をに再現した。文意は変わらず、と同じ。大江は結果だけを切り取り『巨きい数の死体』かれとし文法的にムリとしたが、切り取った部分を文に当てはめると過程が文意として浮かぶためこうなる。文法的にムリなのは『巨きい数の死体』かれだけを切り取りそれだけを解釈したときだけとなる。つまり大江の主張「『罪の巨塊』≠かれ≠人」は切り取った、部分読みの時だけ成立し、文意としては不成立の、特殊な主張となることが証明された。曽野綾子の誤読ではなく、大江健三郎の捏造誤読という結果がでた。 

  

・・・あまりにも巨きい『集団自決』を命じた日本軍の命令)巨塊その結果生じた多くの人の遺体のまえで、かれ渡嘉敷島の守備隊長はなんとか正気で生き延びたいとねがう。・・・行為で生じた結果(物)=行為を成したかれ(犯人(人間)と解している。 

  

・・・あまりにも巨きい『集団自決』を命じた日本軍の命令)巨塊(巨きい数の死体)のまえで、かれ渡嘉敷島の守備隊長はなんとか正気で生き延びたいとねがう。・・・罪の(物)をかれ(人)と誤読したと捏造するため、その結果生じたを省いたが、全文を読むと省いた文字が浮かび出て、文意は変わらず、と同じ。 

  

・・・あまりにも巨きい『集団自決』を命じた日本軍の命令)巨塊(かれの罪の大きなかたまり)のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。・・・文意は変わらず、と同じ。 

  

 大江健三郎弁解以前の解釈は、罪の巨塊かれの命令で生じた罪の(大きなかたまり)罪の(大きなかたまり)を生じさせたかれ犯人と、なり、罪の巨塊かれ(犯人)=人となる。(物)を=(人間)と解しているのではなく、行為で生じた結果(物)=成した犯人(人間)と解しているのだ。 

  

 大江健三郎弁解以後の解釈でも、罪の巨塊かれの命令で生じた『巨きい数の死体』『巨きい数の死体』を生じさせた犯人、かれと、なり、罪の巨塊=犯人(かれ)=人となる。・・・あまりにも巨きい『集団自決』を命じた日本軍の命令)巨塊その結果生じた多くの人の遺体のまえで、かれ渡嘉敷島の守備隊長はなんとか正気で生き延びたいとねがう。・・・となり、かれの命令が原因で生じた結果(物)前で、犯人(かれ)(人間)はとなり、文法的になんらムリではない。 

  

 大江健三郎は『巨きい数の死体』が生じた原因、かれの命令」で生じたを隠蔽し、『巨きい数の死体』(物)かれ(人間)とはならないと捏造したのだ。『罪の巨塊巨きい数の死体(物)(悪の大親分)(人間)(追随した鵜人の表現。周到な大江は人と婉曲表現)と、曽野綾子が誤読した言っているのは、誤読捏造犯大江健三郎ただ一人。 曽野綾子は「かれ罪の巨魁(悪の親分・悪の首領」と、「巨塊巨きい数の死体)を生じた犯人は(かれ)」とは言っている。がしかし、曽野綾子も誰も「かれ渡嘉敷島の守備隊長罪の巨塊巨きい数の死体」とは言っていない。曽野綾子が「かれ渡嘉敷島の守備隊長罪の巨塊巨きい数の死体」と誤読したと言っているのは、誤読捏造犯大江健三郎と追随した鵜人だけだ。語るに落ちている。『巨きい数の死体』を部分読み(『巨きい数の死体』かれ)ではなくのように全文読みすれば捏造は瞬時に崩壊する、手口は幼稚だ。またかれの命令」で生じたは、「屠殺(とさつ)者」「戦争犯罪者」「ペテン」とまで罵倒しているので、この弁解がなくても誰でも文意より帰結する。 

  

③弁解。「・・・極悪人、などという言葉は使っていない・・・」2007.11.9.法廷にての弁解。【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】両原告は、慶良間列島の守備隊長を、私が「極悪人」としているむねいわれますが、『沖縄ノート』には、極悪人もとよりあくにんとも、一度も書いていません。 2007/11/20朝日新聞文化欄にての弁解。 

  

 『罪の巨塊巨きい数の死体』は、『集団自決』を命じた日本軍の命令渡嘉敷島の守備隊長で生じた多くの人の遺体。文脈では渡嘉敷島の守備隊長の強制で集団自決した「三百二十九の死体」なのである。『罪の巨塊巨きい数の死体犯人渡嘉敷島の守備隊長。他でも守備隊長を「屠殺(とさつ)者」「戦争犯罪者」「ペテン」と極悪人と同義語で大江健三郎は罵倒している。そしてなんと犯人かれは、生きているのだ。『罪の巨魁(悪の親分・悪の首領)といえないか、いえるでしょ。大江健三郎の婉曲表現を取り去ると、罪の巨塊『巨きい数の死体(自決)かれの命令が原因である。しかもかれは、生きている。よってかれ罪の巨魁(悪の親分・極悪人だとなる。

  

 大江健三郎自らが、守備隊長罪の巨魁(悪の親分・悪の首領)と書いているのだ。全文でも部分でも守備隊長罪の巨魁(悪の親分・悪の首領)と読める。大江の捏造誤読説(切り取り部分読み)に追随した鵜人の輩こそ、不通読者だ。語るのは文意だ。 

  

 曽野綾子も大江健三郎が書いたとおりに全文も部分も読んで、守備隊長罪の巨魁(悪の親分・悪の首領)としたに過ぎない。それを大江健三郎が曽野綾子の誤読と捏造したのだ。巨塊(おおきなかたまり)』(大江の造語の意味は巨きい数の死体)巨魁(悪の首領・悪の親分)』(周到な大江と誤読とは何と幼稚な捏造だ。漢字は表意文字なのだ、一見して誰でも判別出来るではないか。こんな子供だましで曽野綾子を貶めようと思ったのか、こんな捏造が通用すると考える大江は、よほどの世間知らずのお坊ちゃまか、大変な自惚れ屋だ。大江が思うほど我々は愚民ではない。 

2につづく⇒

真実史観2大江健三郎罪の巨魁は集団自決を軍命令と捏造元凶侵略者米国を隠蔽罪の巨塊で有罪

2大江健三郎罪の巨魁は集団自決を軍命令と捏造元凶侵略者米国を隠蔽罪の巨塊で有罪

SAPIO』 
 での対談曽野綾子と池田信夫。曽野綾子
の発言。

 「決定的だったのは、大江健三郎氏がこの年刊行された著書『沖縄ノート』で、赤松隊長は「あまりに巨きい罪の巨魁(巨悪の首領)」だと表現なさったんです。私は小さい時、不幸な家庭に育ったものですから、人を憎んだりする気持ちは結構知っていましたが、人を「罪の巨魁巨悪の首領)」と思ったことはない。だから罪の巨魁巨悪の首領)という人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思ったのです」
 
曽野綾子の解釈は、大江健三郎指摘の部分に対しての誤読の解釈ではない、全文の文意よりの解釈であることは誰の目にも明白である。『沖縄ノート』通読すれば、誰でもここ、赤松隊長罪の巨魁巨悪の首領)に帰結する。換言すると誤読罵倒屋は、『沖縄ノート』未読者だ。やはり『沖縄ノート』はちゃんと読みましょう。つまり曽野綾子の解釈は木ではなく森を見ての解釈である。(注・巨魁と判別している) 

  

 大江健三郎は、法廷で、こう説明している。『罪の巨塊』というのは人を指した言葉ではない」「曽野さんには『誤読』があり、それがこの訴訟の根拠にもつながっている」・・・と、根拠も示さず『誤読』罪の巨塊罪の巨魁と独断している。すぐに鵜人罵倒屋どもは付和雷同し「罪の巨塊だが、曽野は、この言葉を罪の巨魁(悪の首領、悪の大親分)と理解しているようだが、とんでもない誤読である。曽野綾子は、巨塊(物)を巨魁(人間)と誤読しているのである。等等」と、嬉々として発言している。 

  

 誰でも文意から巨魁赤松隊長が導かれることが分かれば、勝ち目がないと認識した大江健三郎は、論点を部分解釈に切り替え、部分を誤読したから全体を誤読したかのように摩り替え、曽野綾子誤読と捏造した。大江健三郎の婉曲表現を取り去ると、本音はこうだ。「曽野綾子罪の巨塊罪の巨魁(悪の親分・悪の首領かれ渡嘉敷島の守備隊長と誤読し、『ある神話の背景』を書いた。原告がそれを読み提訴した。つまり曽野綾子には『誤読』があり、それがこの訴訟の根拠にもつながっている。『誤読』が訴訟の根拠だから大江は無罪」。文は全体で解釈すべきで、部分で解釈すべきものではない、これは世の道理だ。この大江健三郎の苦しまぎれの主張は、世の道理に反することは誰の目にも明解である。大江健三郎の解釈は森ではなく木を見ての捏造独断なのは、誰の目にも一目瞭然であろう。 

  

 罪の巨塊(きょかい(大きなかたまり)巨きい数の死体罪の巨魁(きょかい)(悪の首領、悪の大親分)、音が同じなだけで意味が異なることはたとえ造語でも、漢字は表意文字なので一目で分かる、日本人なら誰もこんな誤読はしない。ところが驚くことに、大江健三郎のこんな子供だましの捏造、曽野綾子誤読説を、信じ鵜呑みした自称評論家がいたのだ。・・・その解釈が誤読(「巨塊」を「巨魁」と解釈している?)だらけだ・・・と、嬉々として騒いでいる、非実証の罵倒屋の大学講師だ。こじつけて捏造し誤読するのは、自己中心で外が見えない大江健三郎ただ一人と思っていたが同類がいたのだ。嘆かわしいことだ。曽野綾子が正論で、大江健三郎は後出しじゃんけんの捏造者なのは今や誰の目にも明白だ。 

  

 曽野綾子『ある神話の背景』の引用部分には、下記のような誤記が有るとの指摘有。この指摘を前述の非実証の罵倒屋が針小棒大に取り上げ、「滅茶苦茶な誤字巨塊巨魂と誤記?」罵倒しているブログがある。曽野綾子選集.第2巻読売新聞社が造語なので誤植してしまったのが初めで、以後の2冊は曽野綾子選集から転載したため誤植に気付かなかったのが真相のようだ。初版本、再版本は正しい。間違いは正せばよい。非実証の罵倒屋のように、めくじら立てて騒ぐほどのものではない「愛・蔵太の少し調べて書く日記」←資料提供先

 

①『ある神話の背景』文芸春秋, 1973.・・・罪の巨塊←正しい

②『ある神話の背景』角川書店1977.11.・・・罪の巨塊←正しい

曽野綾子選集.第2巻 読売新聞社, 1984.6.・・・罪の巨魂←間違い

④『ある神話の背景』PHP文庫  1992.6.・・・罪の巨魂←間違い

⑤『ある神話の背景』改題「集団自決の真実」(WAC bunko)2006.・・・罪の巨魂←間違い

 

『ある神話の背景』・「集団自決の真実」から記載部分引用

 ・・・大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次のように書いている。「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他社への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊(大きなかたまり)(巨魂)のまえで・・・(後略)」このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨塊(大きなかたまり)(巨魂)」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかつたからである。第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。・・・(注巨塊(大きなかたまり)巨魂と③以降の誤植はあるが、大江健三郎が指摘する誤読、巨塊(大きなかたまり)巨魁は皆無)。

 

平成12年(2000年)10月の司法制度改革審議会での発言

 地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊(大きなかたまり)だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。

【正論】集団自決と検定作家・曽野綾子それでも「命令」の実証なし 2007.10.23 03:42(大江健三郎自作自演の捏造誤読指摘は2007.11.9.なので、この文は誤読指摘以前の文である)
 ・・・1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為「罪の巨塊(大きなかたまり)と書いていることもますます私の関心を引きつけた。

 

 (注・「罪の巨塊」=人と、曽野が誤読したと大江が主張するが、曽野は赤松元隊長の行為=「罪の巨塊」と書き判別している。)

 

 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊(大きなかたまり)だと思えた人物(「罪の巨塊に相当する行為をする人)には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。たとえは悪いが戦前のサーカスには「さぁ、珍しい人魚だよ。生きている人魚だよ!」という呼び込み屋がいた。半分嘘(うそ)と知りつつも子供は好奇心にかられて見たかったのである。それと同じ気持ちだった。・・・たまたま私を探して来た地元の記者は、「赤松が自決命令を出したという神話は、これで否定されたことになりましたが」と言った。私は「そんなことはないでしょう。今にも新しい資料が出てくるかもしれませんよ。しかし今日まで赤松が自決命令を出したという証拠がなかったということなんです。私たちは現世で、曖昧(あいまい)さに冷静に耐えなきゃならないんです」と答えた。この答えは今も全く変わっていない。・・・

 (注・大江健三郎が指摘する誤読、巨塊巨魁は皆無。無いものを有るとするのは正しく捏造なのだ)。

 

 結論。「罪の巨塊赤松元隊長の行為と書き判別しており、誤読ではない。曽野綾子巨魁赤松隊長は、『沖縄ノート』全文の文意より導き出されたものであり、一部分の巨塊巨魁の誤読ではない。守備隊長を「屠殺(とさつ)者」「戦争犯罪者」「ペテン」と同意語で罵倒しているので、一読すれば誰でもここ、巨魁赤松隊長に帰結する。単語巨塊を、巨魁と誤読したとする曽野綾子誤読説は、被告人大江健三郎の、論点を部分解釈に切り替え己を有利にするための、自作自演の捏造である。この時点で曽野綾子には、名誉毀損で大江健三郎提訴の権利が生じた。[沖縄戦]人が書いてもいないことを書いたと書く(言う)のはカンニンしてください、大江健三郎さん(罪の巨塊)。(その あやこ)。

  

 巨魁の意味、悪の大親分・悪の首領などを用いず、巨魁と言う単語を用いたのは、巨魁巨塊に引っかけた曽野綾子の洒落だ。洒落にも気付かず、ものの見事に大江健三郎は食いついた。さらに鵜人罵倒屋どもが食いついて、誤読、誤読と大合唱だ。余程飢えていたのだろう。 

  

 軍命令説は昭和25年に発行された沖縄戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社、著・太田良博)で最初に記載され、これをネタ素にその後、地元の県史や村史など多くの戦記が記述した。『沖縄県史』、家永三郎『太平洋戦争』、『沖縄戦史』(沖縄タイムス社社長だった上地一史著)等等。大江はこの地元戦記の記述を無検証で鵜呑みし軍命令を取り上げ、用意周到に個人名を伏せながら婉曲表現で『沖縄ノート』を書いた。なぜ婉曲表現か、あえて名前をださなくても、ネタ素に書かれているし、後日裁判沙汰に成らないように配慮したのだ。なんと用意周到なことか。 

  

 作家曽野綾子は『沖縄ノート』刊行3年後の昭和48(1973)年、『或る神話の背景』(集団自決の真実)で、『沖縄ノート』のネタ素のネタ素、『鉄の暴風』を現地取材で検証し捏造をあばき、まさしく集団自決の真実を引き出した。作家が小説ではなく史実と対した時は斯あるべきだ。他は皆、小説と史実を混同している。 

  

【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】  

 『沖縄ノート』刊行後に発行された、ネタ素の『沖縄県史10巻』では、8巻の集団自決の命令について訂正している。家永三郎の『太平洋戦争』でも、赤松命令説を削除している。 

  

【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】
 ・・・被告側代理人「『(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアドルフ・)アイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」
 
大江健三郎「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」
 被告側代理人「
アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」
 
大江健三郎アイヒマンには、ドイツの若者たちの罪障感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った」
 被告側代理人「
アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」
 
大江健三郎「そうではない。アイヒマンは被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた」・・・ 

  

 「ドイツの若者たちの罪障感を引き受けようという思いがあった」と、一元思考家大江は奇想天外な捏造証言をし、褒めたたえた。ユダヤ人虐殺の責任者アイヒマンは復讐をおそれてアルゼンチンに逃亡し捕らえられ、最後に己の美化のため十字架を背負ったように装い、処刑されただけだ。護国の兵守備隊長は逃亡もせず、処刑もされず、遺族のため(公)にと十字架を背負い生きた。しかしながら作家大江健三郎には、『沖縄ノート』51刷にわたり冒涜され続けている。つまり大江健三郎は捏造し冒涜して51刷にもわたり儲け続けているのだ。そして大江は守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐわせようとしている。捏造の巨魁大江はドイツと日本を、ユダヤ人虐殺の責任者アイヒマンと護国の守備隊長を罪の巨魁と見ている、不勉強もはなはだしい、こんな売国奴大江健三郎に、歴史を語る資格などない。

 作家大江健三郎は、嘘、捏造の著書『沖縄ノート』(初版は1970年、現在は第51刷)で、真の原因アメリカの侵略を隠蔽し、戦中軍民一丸となり戦い、戦後遺族のためにと十字架を背負った護国の兵士に罪を着せ捏造し、護国軍日本軍を裁くべきとほざき、日本で生計を成している売国奴だ。物づくり社会ではこんなことは絶対に有り得ない、必滅なのだ。 

  

 むやみに難解にし、鵜呑み知識を見せびらかした子供じみた幼児思想一元思考家大江が、ノーベル賞受賞はなぜなのかと当時、不思議に思った。難解は奥ゆかしいと間違えたのだと思った。間違いはノーベル平和賞だけではなかったのだ、その間違いノーベル賞作家大江健三郎はついに、底の浅い一元思考家の正体を現したようだ。間違いノーベル賞作家大江健三郎が語る歴史は、金正日が指導する農業と同じだ。鵜呑みは非常に危険だ。受賞は当時間違いと思っていたが、大江の正体が顕著になるたびに、覚醒し始めた日本人子孫の防波堤として大江健三郎に、ノーベル賞を放ったような思いが今は募る。なんと大江健三郎の受賞理由は作品ではなく、たぐいまれな侮日、が受賞した理由だったのか。そうであればこれで受賞の疑問が氷解する。 

  

 アメリカが侵略し追い詰めたため、住民が集団自決した。アメリカが侵略しなければ、住民の集団自決など起きなかった。原因はアメリカの侵略で、戦陣訓や軍命令が原因ではないことは明白な事実だ。作家大江健三郎の捏造は正しく罪の巨塊に値する、よって有罪。 

  

 戦陣訓や軍命令で死んだと先人を罵倒する輩がいるが、戦陣訓や軍命令が殺したのではない侵略者アメリカが殺したのだ。味方ではなく、敵が殺したのだ。相手を摩り替えるな。 

  

先人冒涜の皆さん常識で考えれば分かることなのだ。

○日本の主要物資の輸入先(開戦1年前昭和15年<1940>) 「アジア・太平洋戦争」
・鉄類  アメリカ69,9% 中国15,6%(注・米、中、合計で85,5% ③インド7,5% ④その他7,0% 
・石油  
アメリカ76,7% ②オランダ領インドネシア14,5%(注・米蘭合計で91,2%) ③その他8,8%
・機械類 
アメリカ66,2% ドイツ
24,9% ③その他8,9%

 

 主要な輸入国を相手に戦争をするのは自殺と同じだ。

 しかも反共戦争(日中戦争を継続中で、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていた。その状況下で更に英米蘭などの大国を相手に、新たな戦争を始めなければならない動機など、日本には皆無。日本が戦争を仕掛けたのではなく、仕掛けられたのは明白な事実だ。明らかに米英蘭中ソ側に戦争の意図や動機があった。

 

 先人冒涜の皆さん常識で考えれば分かることなのだ。

 ヒトラー、ナチス、ムッソリーニ、フセインと部下とその息子、皆逃亡した。敗戦、逃亡は、古今東西世の習いなのだ。天皇以下日本軍は逃亡せず、敗者の責を果たした。これは、世界史上非常に稀有なことなのだ。類似の歴史未だ発見せず。

④弁解。・・・曽野氏は、「集団自決」が行われた際、赤松嘉次大尉のもとで中隊長だった富野稔少尉が、自衛隊一佐として勤務する土地を訪ね、次の談話をとって、氏の本の核心に据えています。「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちののことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません」

 ――このようにいう者らこそ、人間をおとしめていると信じます。そういって私(
大江健三郎)は証言を終えました。2007.11.20.朝日新聞朝刊。

皆本義博・元陸軍中尉(海上挺進隊第三戦隊)証言

・・・本当にすごいです。弾速が速く、ビッビッビという音と同時にババババーンと来ます。野砲なんかと違って(艦砲射撃は)凄まじいものでした。あと怖いのは火炎放射器です。あれでやられて亡くなった者も大勢います。
 そして27日に渡嘉敷に米軍の第七七師団が上陸してきました。沖縄本島よりも先に。うろちょろうるさい海上特攻の基地を先に潰しておこうと考えたようです」

 

 「もうこのままでは全滅です。私は伍長に俺とお前で二手に分かれて後退する、行けるところまで行けと命令しました。そういう状況の中、328日、村民が315名集団自決したのです。恐らくパニック状態だったのでしょう。大江健三郎あたりが主張する、軍が(自決の)命令を下したというのは全く事実無根で、そもそも戦うことで手一杯、そんな命令など下せる状況にあるのかと」
『特攻 最後の証言』制作委員会/ 出版:アスペクト/ 発行年月:2006.11/P154-P169より

 「フランダースの犬」
英国女性作家ウィーダ1872年刊。画家を志す少年ネロが、放火の濡れ衣を着せられて村を追われ、吹雪の中をさまよった挙句、一度見たかったルーベンスの絵を見る。そして誰も恨むことなく忠犬パトラッシュと共に天に召される。という日本では誰でも知っている悲運の物語だ。ところが欧州では「負け犬の死」としか映らず評価されることは無く、米国の過去5回の映画化も結末をハッピーエンドに書き換えられているという。悲しい結末の原作がなぜ日本でのみ共感を集めたのか、長く謎とされてきた。

 ベルギー人映画監督ディディエ・ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。浮かび上がったのは日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。プロデュサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は「日本人は信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見出す。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。この検証過程を「パトラッシュ」の題名で映画化、27日に大聖堂で上映される。制作のきっかけはアントワープの大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。「フランダースの犬 日本人だけが共感」の見出しで2007年12月25日読売新聞朝刊2面で報じている。

 侵略者狂惨党大国との反共戦争。侵略者大国
アメリカとの護国戦争。護国のため自己を捨て軍民共生共死一丸と化した先人の戦いを罵倒する、傘差す親殺しの子供と同じ幼稚な、自己中心愚民大江健三郎と、追随するノーベル賞
の威を借りたい迎合者には、護国のため己を捨て、一丸と化し、力尽き倒れ殉国した先人のこの心根は、永久に理解不能だろう。「フランダースの犬」さえも永久に理解は不能だろう。

 いずれにしても
大江健三郎は作家としてではなく、ノーベル賞受賞理由「侮日、反日による、戦勝国WGIP作戦への多大な貢献」の愚民売国奴として名を残すのは間違いない。戦勝国のほくそ笑みも知らず、大江健三郎ノーベル賞、文学賞を受賞したと思い込み、嬉々としてWGIP講演活動だ。ノーベル賞を纏ったと思い込んだ裸のWGIP広告塔と迎合者。心ある世界の人には、裸にしか見えない。裸と知らぬのは本人と迎合者のみ。戦勝国も罪なことをするものだ。作品は、とても文学と呼べる代物ではない。

 滅びの美学を昇華したのがノーベル文学賞川端文学だ。世界の誰が見ても正真正銘のノーベル文学賞である。 

先人冒涜の皆さん至急奪われた常識を取り戻し、救国願います。
更に詳しくは下記サイトにて。
真実史観沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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