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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観生きて虜囚の辱を受けず戦陣訓虜囚意味生け捕った敵昭15年大字典講談社


戦陣訓生きて虜囚の辱を受けず虜囚の意味敵を生きながら捕らえ来ること大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典

戦後辞書まで捏造された虜囚仮説から真実へ終戦までの虜囚の真意は


」は、生け捕りにした人、奴隷、敵、野蛮人捕まえるという能動的な意味が強い。<解字>力ずくで捕らえ、じゅずつなぎにしたとりこのこと。

 「」は、とらえて拘束する。枠の中に人を閉じ込めるのように能動的意味が強い。(囚人)。<解字>枠の中に人を閉じ込めること。

 」は、とらえて枠の中へ入れる。能動的意味が強い。<解字>囲んで逃げないようにする。

虜囚の類語(終戦までの意味)。
○「人・徒・獄人(めしうど)」は明らかに罪過を犯し捕まった囚人だ。

○「・俘(ふしゅう)・(とりこ)」は、日本国が捕まえ枠の中に閉じ込めた者「(とらえた人・囚人・めしうど)。日本国が捕まえた者「とりこ(生け捕りにした人・敵)」。終戦までの「虜囚」には、捕虜戦争で敵国に捕まえられた者」のような受動的意味が全く無かった

○ 「捕・俘(ふりょ)」は、戦争で敵に捕まえられた者(捕まった者)」。主語が敵の、受動的意味だ。

 「人・徒・獄人(めしうど)」「・俘(ふしゅう)」のように「囚」を含む文字の本来の意味は、枠の中に人を閉じ込める能動的意味が強いので、日本国が捕らえて閉じ込めた者、自国の兵、敵兵、主語が日本国の能動的意味だけだった。が、下記のように変化した。

 終戦までの「・俘(ふしゅう)」とを含む言葉は、「囚人」の婉曲表現となった

 終戦前の「虜囚」は、皇軍のが罪過を犯し日本国に捕まること、兵の囚人を意味し、皇軍の兵なので婉曲表現で呼称した

 整理しよう。終戦前の「虜囚」の類語の意味は、下記のように使い分けされていた。

○「人・徒・獄人(めしうど)」は罪科を犯し日本国に捕まった囚人

○「・俘(ふしゅう)・(とりこ)」は、日本国が捕まえた者(囚人)の婉曲表現か、皇軍の囚人呼称。または、日本国が捕まえた敵兵

○「捕・俘(ふりょ)」は、戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」。主語が敵国

 大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典には「虜囚」・とりこ(イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民えびす)字源・形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。と記載されている。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。

昭和27(1952)年初版昭和49(1974)年新装発行、三省堂「辞海」。練馬区立図書館蔵書。

「捕虜」の意味 とりこ。俘虜。(受動の意味皆無)

「虜囚」の意味 とらわれ人(虜囚の主語日本。日本にとらわれた人。敵にとらわれた日本兵ではない)。めしうど。とりこ。

 まだこの時代では、日本国に捕まった人(囚人や敵)意味だけである。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の受動記載皆無。

 結果、1/2行つまみ食い解釈でも戦前の解釈は「生きてる時も、皇軍の兵が日本国に捕まって囚人となるような辱めをするな」となる。

 戦後マスコミや鵜人や便乗した反日に、「虜囚の辱」が喧伝されたため、能動的な意味しかなかった虜囚に、全く無かった受動としての意味がだんだんと濃くなり、61年間歪曲喧伝され、捕虜戦争で敵国に捕まえられた者」が入り込んだ。結果「日本が捕まえた者」が「戦争で敵国に捕まえられた者」となり、全く逆の意味となったというのが真相ではないのか。前述の講談社大字典1963年復刻、1993年第一刷、新大字典には「虜囚・とりこ。捕虜。」と、捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」が追加されている。仮説が適中した。言葉は時代に迎合するのだ。

 戦前は、「軍人勅諭」に記載無く、実行不可能な訓(教え)囚には、捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」の意味は、全くなかった。なぜなら、言葉に、はるかに鋭敏な方々が、起案責任者は人格者として誉れ高い今村均が、目を通し、なにも問題にしていない。戦前、「」は、いけどりにした敵、または囚人の婉曲表現、もしくは、囚人となった皇軍のを、意味する言葉だった。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」ではなかった。だから誰も問題にしなかった。と推測しないと、辻褄が合わないのだ。いかに戦時下とはいえ言葉にはるかに鋭敏な方々が、史上類の無い、実行不可能な訓(教え)「捕虜となるよりは自殺せよ」を採択する訳が無い。大義(公)(軍人勅諭)に生きる皇軍の兵に、規範の軍人勅諭に記載の無い捕虜は恥辱なので(私心)死ねと、臣(けらい)東條英機が教える(訓)ことなど、不可。よって虜囚の辱=捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」は捏造となる。

 がしかし、戦後、戦犯として処罰されることを極度に恐れていたマスコミに、「捕虜となるよりは自殺せよ」と、嘘の繰り返し喧伝報道を、反日も便乗して、61年間撒き散らされ、嘘が真実になってしまったのだ。まさに、ナチス・ドイツの宣伝大臣ゲッペルスの有名な言葉「嘘でも充分に繰り返し続ければ、真実になる」なのだ。戦前の虜囚の意味は「とりこ」。戦後の虜囚の意味は「とりこ。捕虜」と、マスコミの捏造により拡大し、変化した。言葉は時代に迎合し嘘が真実になった実例が、まさしくこれなのだ。

 検証の結果、虜囚の主語は正に日本国だ。「虜囚の辱(はずかしめ)」は(軍人が罪禍を犯し、日本国にとらわれ、軍人として恥ずかしい罪過の汚名をうけること。)のように一つの単語として考えるべきだろう。こうすると「第八 名を惜しむ」に、帰結し文意が合う。『戦陣訓』示達の目的 「(盗むな)(殺すな)(犯すな)を徹底させる」にも、「軍人勅諭」にも、合致する。戦時下一部マスコミのつまみ食いはあったが「軍人勅諭』に記載無く、実行不可能な訓(教え)囚=戦争で敵に捕まった捕と、だれも曲解しなかったので、なんら問題とならなかった。

起案責任者人格者として誉れ高い今村均将軍の言葉 

 「戦陣訓」起案責任者・今村均将軍は、戦時下も戦後も、「戦陣訓」の本意に従い、ひと筋に生きた。まさしく名将である。

 戦陣訓の本意。・・・本来は、中国大陸で戦闘をしている将兵に対して「戦闘の興奮」に紛れて強奪、強姦などをしてはならない、そんな事をすれば帝国軍人として「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」と諭したもの。「続今村均回顧録」165ページ芙蓉書房

 戦後、報道されている定説となった「戦陣訓」の内容(捕虜となるよりは自殺せよ)は、「戦陣訓」の本意(真の意味)では無いと発言した。1954年11月 刑期を終え巣鴨拘置所を出所。マスコミにワンカット(つまみ食い)拡大報道され、反日も便乗した似非「戦陣訓」の大激流は、起案担当「責任の人」今村均でも、止めようが無かったのだろう。重要なのは、起案担当者自ら、今、報道されている「戦陣訓」の内容は、本意「ほんい(真の意味)」で無い、「誤解された」と発言していることだ。

 「戦陣訓」起案担当者・今村均陸軍大将(1886~1968・行年82歳)は戦犯の刑期を終え天寿をまっとうしている。
 
ラバウルでは要塞を築き、兵に自給自足制を確立させ終戦まで持ちこたえている。本土からの補給無しであるにも関わらず、無事に10万の兵を玉砕や自殺などさせず、帰国させた名将である(逃亡もせず日本国戦争指導者は粛々と帰国している。
 これは世界史上非常に稀有なことなのだ。先人冒涜者はこの事を熟慮すべきだ)。
 戦犯で戦犯収容所に服役し、出所し、自決などせず天寿をまっとうした。捕虜は恥ずかしいことではなく、虜囚の辱(捕虜となるよりは自殺せよ)では無いということをみずから証明した。
 出所後は元部下の就職の世話をしたり、遺族を手助けしたり、まさしく「戦陣訓」ひと筋の生涯だった、「戦陣訓」最終章に殉じている。

 戦陣訓・『第八  名を惜しむ 

 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱
(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』

○戦陣訓第八の意訳文

『第八  名を惜しむ(名誉の尊重)

 恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 
真実史観意訳

 これがマスコミや反日に61年間歪曲され続けた戦陣訓、今村均将軍の本意、真実の戦陣訓だ。61年後にやっと導き出された。このたった1/2行が、61年間先人を冒涜し続け、子孫の誇りをズタズタにしてきたのだ。鵜呑みし、鸚鵡返しに鵜呑知識を撒き散らし続け、61年を経た。なんと静かな鵜呑みの恐怖だったのか。今ではもう全日本人が洗脳されてしまった。

 検証しない鵜呑みの恐怖は現代にもある。ソニーの電池、三菱の自動車、雪印、外務省などのプール金、・・・等々たくさんある。どこかで誰かが検証し、踏ん張って止めておれば、いずれも事件にならなかったのだ。物事は真実が基準だ。捏造は亡国だ。

他山の石」!丸鵜呑み知識ご披露は「刷り込み」時代留年自白
 欄外下記トラックバック(快挙4と5と季節限定×3)は、反論のつもりなのだが、全文読まず、部分の粗探しで終わっているので、反論にはなっていない。「NHK」の如く資料(虜囚の辱=捕虜となるはづかしめ)を掲げ、「ヒカエオロー」しているのだが、俯瞰資料ではなくNHK同様の、いいとこ盗りつまみ食い資料なので、資料集めは快挙だが、的外れの役立たずである資料貼り付けのみに終始し、己の考え皆無のヒカエオローは、論理思考回路欠損の自白。「鵜呑み(丸暗記)知識は絶対正しい」無検証論者(学歴や権威やNHKや新聞盲信信者やスパイ)だと、皆こうなる。スパイで無いなら、立派な親から授かった頭脳を丸暗記のみに用い、検証に使っていないので、いまだに「刷り込み(刻印づけ)」時代から卒業できず、留年のままなのだ。なんとも「もったいない」、はなしだ!「刷り込み」知識を一旦リセットし、立派な親から授かった己の頭脳で資料を読み、なぜ、どうして、戦陣訓(訓え)を曲解してまで鼓舞したか?」と、思索検証しての、再構築が肝心!

快挙4

 角田房子は無検証フアンタジー作家(1閔妃成敗角田房子NHKTV朝日銭生韓こくスパイの籠絡で土下座志士子孫)なのに、新聞鵜呑みで信じている!日本語を解せ得無いのか、戦陣訓(訓え)とは明白に異なる決戦訓(鼓舞)を、あろうことか混同!悦に入っている!決戦前は、あらゆる言葉(本音ではなく建て前)を用い鼓舞する。決戦前に、捕虜(降伏)奨励の指揮官など、古今東西皆無。試合前に、「負けろ!」と指示する監督などどこにもいない、皆、鼓舞する。決戦前決戦中の鼓舞は、指揮官や監督任務の一つ、それが現実世界での常識!

快挙5

 戦陣訓(訓え)と決戦訓(鼓舞)は異なるのに、混同!アッツは検証済み、1NHKスパイ白状アッツ島玉砕戦陣訓大本営音声摘み食いし合成改…1アッツNHKスパイ手口詳細ラジオ音声改竄玉砕戦陣訓米軍民族浄…参照。「戦陣訓の本意。・・・――・・・」なので、当然本文の(「戦陣訓は、この昂奮の発作に伴って生じやすい不善に対するいましめであります」)の主意。「捕虜になるな(降伏禁止)」ではなく、「不善に対するいましめ」が「戦陣訓の本意」は、明白!2回も読んで解らないのは、表音(丸暗記)回路のみとの自白で、表意(咀嚼)回路の欠落症状!原文は「生きて虜囚カウラ――」参照。

 「訓え」を「虜囚の辱=捕虜となるはづかしめ」と曲解し、日本古来の武士道と結びつけ、「兵士や国民鼓舞」に利用した軍人もおり、学者新聞も追随したことを、資料が物語っている。「戦うも(超大国英米蘭中ソが相手)、戦わざる(降伏)も(凶産ソ中合体での日本侵略)」の、抜き差しならない死活下(曲解までしての、「鼓舞」の理由)なので、曲解を咎める者無きは当然であろう。日本危うし!軍民こぞって、決死の覚悟であったことが窺い知れる。「感謝」以外、先人への言葉は無い!軍民一丸の先人が、命を懸けて築いた平和の下でのうのうと暮らし、背景も調べの浅慮放漫で、死活の戦いのご先祖を、曲解(藁)を束ねて、「降伏禁止の日本軍」と愚弄する輩がいる。子孫にあるまじき愚行、非国民(成り済まし日本人)との自白である!始終が嘘の真実(本音)無き民族には、当然、本音と建て前の区別回路は、皆無!検証(なぜどうして)回路も、当然皆無!「藁(曲解)は、どんなに束ねてもしょせん実のない藁(曲解)」も、当然理解不能なので、生涯、実のない藁(曲解)集め(徒労)に、ゴミ屋敷の主人の如く奔走するのである!読者比較藁(曲解)サンプルはこれで充分。これ以上は千日手(繰り返し)なので、不用ゴミ。以後のTB&コメントは、無条件清掃!ゴミ集めで自宅がゴミ屋敷となり、今度はよそ様の家への撒き散らしを始めたようである。〈桑木崇明 「屍を越えて 戰陣訓の華」 アッツ島の玉砕〉のTBを嫌がっていると、一人合点し、ゴミの撒き散らし(24+10回ものTB)に一生懸命だが、削除理由は、ゴミ(繰り返し)だからである。ただ今正体白状中、7月27日より24+10個のゴミ、清掃済み。罪日白状新記録驀進中トラックバック受信不許可で、やっと退散した。スパイか、自浄(反省)回路欠落(丸暗記回路のみ)者、いずれかである。34個ものゴミ、撒き散らしのしつこさは、「日本人騙り」との、白状である!※tkkhkkdmkまたはTKKは、迷惑常習者一部が全てのように書く誤謬(もしくは詭弁)の例のコメント欄。TKKさん、迷惑トラックバックはおやめ下さい。2010/1/5(火) 午後 10:45 [ 綾波シンジ ])として、すでに名高いようだ

 序列は、分業分担組織の不可欠構成要素で、凶産カルトが叫ぶところの「差別」ではない!嫌なら転職自由なので、転職すればよい。理解不能者は、凶産洗脳カルト用語「下善上悪」の信者(刻印づけのままで大人になれない子供)との、白状である。


辞書が戦後の捏造を完全に暴露、辞書が断定した真実は、当ブログ内下記。

戦陣訓虜囚の辱意味変化辞書記載し証明捕虜解釈を否定捏造実証

主語を無視し、軍に媚びた、鼓舞や迎合目的の解釈。軍人勅諭にも、軍法にも無い「俘虜になるな!」は、兵士鼓舞(叱咤激励の建て前)と認識していたので、皆俘虜(人事を尽くして天命を待つ)となった。
生きて虜囚カウラ戦陣訓に非ずアサヒル朝日捏造記事が悲劇の元凶

 「日本九九年戦争・資源無き島国日本、適者生存戦国時代唯一の術は、先手あるのみ。後手の本土戦は、兵糧攻めで必滅。露西亜、清国(属国朝鮮)南下阻止が第一義、後手は必滅、先手で打って出た。

 結果が台湾朝鮮(自立不能で)統治(極東共栄圏樹立着手)、満州建国尽力(凶産の砦)、日中戦争(中国凶産化での中ソ凶産連合阻止)、南京政府樹立尽力(中国凶産化阻止)で極東共栄圏構築。

 日中(反共)戦争で疲労困憊の日本は、戦国の定法弱肉強食、恰好の餌食となった。米英中蘭(ABCD)が兵糧攻め、ハル・ノートで降伏を迫った。出稼ぎ戦争対、日本は死活戦争。極東から大東亜に共栄圏樹立を拡大し、あらん限りに戦ったが、大東亜同胞の、完全覚醒追随まで戦いきれず、矢尽き刀折れ、敗れた。

 がしかし、戦いざまに共振した同胞が、一気に蜂起、独立。1960年の植民地独立付与宣言(互恵)が根幹となり、自由貿易64年開放経済)、平等65年人種差別撤廃)を成し、凶産は残ったが、戦争目的は完遂した。弱肉強食の世に、戦後67年間のごとき無能無策の後手日本なら、何もかもが消滅していた。それでも戦後消滅しなかったのは、『身体を筆にし、流れる血と汗と涙でえがいた先人の、人類への遺書』以外、あろうか!

 “戦かわざれば”の平和論があるが、防共の砦日本が去るやいなやすぐさま凶産化、朝鮮戦争惹起したもう一方の真の敵、中ソ凶産連合軍隠蔽スパイの、工作論である。ABCDと“戦かわざれば”の降伏は、防共の砦無き丸裸日本で、中ソ凶産の、恰好の餌食となった。この戦いは、目的も無きただの防御戦。多勢に無勢で、瞬時に最後の独立国日本は潰え、日本族の名を残すのみの、まさに、犬死に無駄死にの戦争となっていた。同胞の、支配者からの独立も無い!新秩序など、当然無い!支配者と、被支配者の地球に成っていた!」

 NHKや「言葉と文字界」は、反戦者のみを選り盗りし、反戦非戦はまるで、バラ色の世界のように洗脳するが、弱肉強食の戦国時代戦わずは、強者の餌!先人は「強者の餌」を拒否し、戦ったに過ぎない!

 「清濁併せ呑み、禍福を糾い、決断」が、現実世界。現実世界は、「実技(現実)無き非現実界NHKや言葉と文字界)」のような、好いとこ盗り選択は、完全不可世界

 負けたからと大東亜戦争非難も、愚者の浅慮!大東亜戦争後、弱肉強食から互恵へ、人種差別から平等へ、ブロック貿易から自由貿易へ、明確に世界は変わった。「互恵・人種平等・自由貿易」は、先人の旗印である!


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

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真実史観資源無き小さな島国日本は兵糧攻めされ反共戦争(日中戦争)と解放戦争(大東亜戦争)を斯戦えり


資源無き小さな島国日本は兵糧攻めされ反共戦争(日中戦争)と解放戦争(大東亜戦争)を戦えり

 
胡蝶蘭栽培から学び、原点に回帰し、原点から世相を見た蘭生の私見集。原点を忘れた人々よ、原点に回帰しよう。

 まず回帰し、世界全図で日本を見よう。日本は、10~20倍以上の超大国に囲まれた、資源が無い小さな島国(物づくり国家)なのだ。資源が無いので資源を輸入して加工して輸出、日本の基幹産業は、国内企業ではなく、国際企業なのだ。物づくり以外は選択不可の、小さな島国(物づくり国家)なのだ。

 
資源が無い小さな島国日本は、資源封鎖され兵糧攻めされれば風前の灯なのは、誰の目にも一目瞭然である。

 なんと開国した時代は、弱肉強食(生命体の自己保存の本能の戦いなので、正邪は無い。強いものが勝ち、敗者は従うか、あるいは消滅する)が常識の時代だ。勝つためには資源封鎖など当たり前の時代なのだ。満州や朝鮮半島が敵に占領され、海上封鎖され、兵糧攻めされれば、瞬時に亡国となる弱点克服に、皆苦慮し、封鎖防御のため大陸に進出し、頼ってきた朝鮮を併合し、対清、対露、対中、対ソに備え、弱肉強食の時代(話し合いではなく、武力で物事を解決する時代)と、赤化侵略の時代を乗り切るため、日本丸に乗船し天皇(護国の最高責任者)を中心に護国という「公」のため団結し、一丸(皇民化=護国民化)となった。

 軍人勅諭や戦陣訓をとやかく言う人がいるが、
天皇を日本国に置換して再読すればすぐ分かる。日本国を護るのが天皇の役目なのだ。天皇は権力を振り回す独裁者では無い。日本護国の最高責任者が戦前の天皇なのだ。弱肉強食の時代を乗り切るため、共に戦う護国の最高責任者として天皇を全日本国民が担いだのだ。

 だから、敗戦後日本各地を巡幸の際、敗戦の責任転嫁などせず、温かく迎えている。先人は国家や自然権の存亡の非常時に対処するため、自然権を犠牲にし、一丸となった自由希求魁の志士である。軍人にも責任転嫁などしていない。日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの四千万人もの署名が集まった。

 この経緯を作家の林房雄は「一世紀つづいた一つの長い戦争」と表現した。1861年2月3日~7月25日まで対馬を占領したロシア艦隊。幕末の薩英戦争(1863年英対薩摩)・馬関戦争(1864年英米仏蘭対長州藩)で「一つの長い戦争」が始まり、昭和二十年(1945年)八月十五日にやっと終止符が打たれた。この百年の間、日本は避けることのできない連続する一つの戦争「東亜百年戦争」を強いられた。先人は護国のため天皇の下に団結し一丸となり、護国の衣を纏い、「東亜百年戦争」弱肉強食の時代を「公」に殉じ通過した。

 

 いわば開国以来の日本の歴史は、生命体の自己保存の本能に従った、資源なき日本の、護国のための苦慮史と言える。護国のため、自由希求のため、天皇も国民も皆「公」に殉じた、「公」の時代であると言える。

 台湾朝鮮も搾取ではなく、資金を投入し開発育成統治し、富国強兵に励み、護国に殉じ「公」のため、自然権を守るため自然権を犠牲にし、一丸(皇民化=護国民化)となった。

 (注・詳細は後述するが、戦後「私」が蔓延し、現在も蔓延し続け、諸悪の根源となっている。戦後日本国基幹の物づくり社会だけに「公」は残り日本の礎となり、日本は繁栄し、現在も日本繁栄の根幹となっている。日本亡国の根源は「私利私欲だ」。日本繁栄の根幹は「公」だ。

 

 弱肉強食の時代に対応した護国の戦いを、攻めなければ攻めて来た時代なので、お互いに、とやかく言うことは出来ない。攻めなければ攻められ占領された(日清、日露戦争)時代なのだ。

 敵に先手をうたれ、生命線の満州や朝鮮半島が占領され、海上封鎖され、兵糧攻めされれば、資源が無い日本は必滅。後手にまわれば、日本は必滅しかない。

 小国日本必勝の選択肢は、先手しかなかった。先手(大陸進出)は、
資源が無い小国日本の、弱肉強食の時代への唯一の対応策なのだ。読者の皆さんも護国責任者の立場で考えれば、このことは簡単に分かることなのだ。

 

 ソ連は1922年から1940年のわずか18年間に、合計17ヶ国を侵略し狂惨化していた。当然中国狂惨党毛沢東を支援し、中国を標的にしていた。

 
中国蒋介石、日本近衛文麿米国ルーズベルトにスパイを送り込み戦わせ、漁夫の利を得ようと画策していた。

 反共戦争(日中戦争)はソ連コミンテルン指導の下に
中国狂惨党毛沢東と、中国蒋介石、日本近衛文麿米国ルーズベルトに送り込まれたスパイが仕組んだものだ。

 孫文(日本に亡命した)も汪兆銘(法政大学を卒業)も
蒋介石(陸軍士官学校に留学)も親日であったが、ソ連は日中連合の攻撃を恐れていたので、交戦するように仕組んだ。

 
朝鮮戦争後のマッカーサーの、日本に対する寛容は、汪兆銘、蒋介石近衛文麿、ルーズベルトが、中国
狂惨党とルーズベルトコミンテルンとソ連コミンテルンに操られての戦争であったことに気付いたからだ。

 

 大東亜戦争の真犯人を見つけた共和党議員の多くが「日本への原爆投下は誤りであり、朝鮮戦争でコミュニスト(共産主義者)に対して使用すべきである。さらに中朝軍を撃退して中国本土まで国連軍を進攻させ、中共政権を打倒して国民党政権を復帰させるべきである」との主旨を主張した。共和党をバックにしてマッカーサーも同意見を声明していた、しかし中共との和平を希求するトルーマンは激怒し、解任理由の一つとなった(トルーマンはルーズベルト同様、共産主義に無知だった。日中戦争は日本の侵略戦争ではなく、反共戦争であることを共和党議員は確信したのだ)

 

938/10/ 1938年昭和十三年十月、毛沢東が部下に与えた指令。・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである・・・1969年8月林彪が編集した『毛沢東思想万歳』の533~4頁・日本社会党の理論雑誌『社会主義の理論と実践』1964年9月号

 鄧小平の日本認識証言 鄧小平は昭和五二年(1977)、三橋健次郎元陸将との会談での証言。・・・日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、日本軍の占領地域の後方に拡がり、八年の間に八路軍は120万1936/10、長征で30万人から3万人まで激減していた」に増え、さらに数百萬の民兵を作ることができた。・・・『中国との友好交流二十年の感想』、三岡健次郎、平成七年、中国政経懇談会

 

1937/9/ 国共合作②成立中国国民党中国共産党との協力体制)。つまり中国共産党は、抗日戦争を掲げて愛国者を籠絡し、ひたすら共産党の勢力拡大に勤め、日本軍と蒋介石が交戦するように努力した狂惨主義拡大戦争。一方蒋介石は、狂惨党と宗主国米英の甘言に乗り傀儡となり、孫文から離れ、目的無き交戦に突入した、私利私欲戦争汪兆銘は孫文に帰り、孫文の誤謬を訂正し反共を掲げ、最後に孫文に殉じた反共孫文主義実践戦争。対中国は日本の、護国自衛の反共戦争。対宗主国は、日本の護国自衛大アジア主義に殉じた、植民地解放戦争と、言える。

 

 大東亜戦争や反共戦争主犯は、ルーズベルトコミンテルンとソ連や中国の狂惨党なのだ。日本米国中国孫文汪兆銘は、被害者だ。日本の主要交戦国だった米・英・仏・中らは賠償金請求を放棄している。蒋介石も、500億ドルの賠償金を放棄したうえ、日本の軍属と日本人居住者二百十万人を無事に日本に帰国させた。

 

 弱肉強食が常識の時代の大東亜戦争では、宗主国は、裏で中国蒋介石を支援し、以前より参戦していた。マッカーサーは、聴聞会において、「我々は包囲したのです」と証言した。1940年1月からアメリカの輸出制限が開始され、昭和十六年(1941)8月、「ABCD包囲網」と呼ばれる資源封鎖網によって対日資源封鎖(対日戦必勝パターンで宣戦布告し、降伏せよとせまった)した。物づくりが基幹産業の資源の無い日本は、資源封鎖されれば瞬時に亡国となる。


 
(注・昭和16年12月8日開戦。翌17年春「大東亜決戦の歌」が広く歌われた。
一番 起つや忽ち撃滅の かちどき挙る太平洋 東亜侵略百年の 野望をここに覆えす いま決戦の時きたる 行くやはげしき皇軍の 砲火は叫ぶ大東亜 

四番 いざや果さん十億の アジアを興す大使命 断固膺懲堂々と 正義貫く鉄石心 いま決戦の時きたる)

 

 資源封鎖する宗主国が存在する限り、日本安泰の道など皆無だった。資源封鎖する宗主国を追放し、貿易を自由化し、資源確保することが、護国への、自由希求への、唯一の日本安泰の道であった。

 アジア全土の虐げられた同胞の助力なくして、日本単独での、対米英蘭中戦争は、誰が見ても必滅であり自殺戦争であった。そこで日本は同胞と共に宗主国と戦い、アジア同胞の、独立を支援し、資源を確保する、
資源封鎖する宗主国追放作戦、自由希求の戦い、宗主
国対大東亜共同体戦争を選択した。

 先人の大東亜共栄圏構想は、台湾
(45年間)、朝鮮(30年間)、満州(9年間)の統治や独立支援の実績を見ているので皆信じ、従い応援した。にわか作りの付け焼き刃で無いことを、アジアの同胞は皆知っていた、だから日本敗戦後も素直に志を受け継ぎ、皆立ち上がり独立した。

 護国のための日本軍のすさまじい戦法が、同胞の強い覚醒をうながし、独立に拍車をかけたのだ。アジアの同胞が示した強い独立への意志、
自由希求への強い意志、宗主国は撤退せざるをえなかった。日本軍のすさまじい戦法が起因の、属国を拒否し、自由希求への強い意志は、その後アジア、アフリカに拡散し礎となり、自由の国誕生に更に拍車をかけた。

 

(注・ 東條は処刑される前、刑務所内の、墨でいたるところを消した不自由な新聞を読み、アジアの国々が次々と独立していく様を察することが出来、とても喜んでいたという。それを知っているかつ子は、インド人達が東條の慰霊祭をしてくれたという報告を聞いて、涙を流して喜んだ。四十年もたって東條もやっと報われたと思ったのであろう。東条英機の妻・勝子の生涯・佐藤 早苗著

 

 侵略戦争だったと、のたまう愚者がいる。侵略であれば、米英蘭中プラス全アジア戦争となり、まさしく勝者のすべの無い完全な自殺戦争となる。こんな選択をする愚者は古今東西絶無。宗主国対日本では必滅なので、植民地を解放し、大東亜各国の助力を得て、宗主国対大東亜共同体独立戦争にしたかったのだ。常識で考えれば誰でも理解できることなのだ。

 

 要求するだけのハルノートには、受諾すれば「経済封鎖解除」の条項など皆無。
 
仮に日本台湾朝鮮が、
ハル
ノート(最後通牒11月26日)に屈服、生命線の満州や朝鮮半島から撤退し、戦争を回避したとしても、弱肉強食の時代には、弱者の保障など無きに等しく、その場しのぎにすぎない。列強が、対日資源封鎖解除しなければ、生命線の満州や朝鮮半島を失い弱体化した日本は、瞬時に無条件降伏となり亡国。弱肉強食の時代なので、日本国の消滅、または植民地化は避けられない。列強にアジアが皆植民地にされて、南北アメリカのようになっていただろう。

 
資源封鎖する宗主国が存在する限り、資源無き日本に、安泰の道など皆無なのだ。終戦前後して弱体化した日本へ、ソ連(北方4島占領)や
韓国竹島占領)がすぐ侵略し征服したことを想起せよ。あれが弱肉強食の現実の姿なのだ。

 弱肉強食の時代認識完全欠如の、石原莞爾の一切戦争不可論、つまみ食い論は、日本瞬時亡国の、売国奴論なのだ。
戦わざれば確実に亡国、戦うもまた大東亜各国の助力無しでは、亡国であった。まさに独立国日本の存亡をかけた資源封鎖防御、護国のための、回避絶対不可の自衛戦争なのだ。

 
つまみ食いせず、禍福を併せ呑み、開戦を決定した日米開戦日の深夜、昭和天皇の熱望した和平を実現できなかったことを詫びて、東條英機が号泣したという。東條英機、石原莞爾、比較論がある。責任の無い傍観者石原莞爾は、つまみ食いしていただけにすぎない。戦後の先人冒涜者も同類だ。

 

ダグラス・マッカーサーの聖書に誓った証言アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会において、聖書に誓い、証言。この証言はニューヨーク・タイムズに全文掲載された

 ・・・過去100年においてアメリカが犯した最大の外交的過ちは、シナ大陸において共産主義者の勢力がのさばるに任せてしまったことである。・・・

 

(注・共産主義に対してのルーズベルトの無知を、非難している。日本の対中戦争は侵略戦争ではなく、反共戦争とマッカーサーは認識した

 

 ・・・戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が護国のため(security)だったのです。・・・

 

(注・マッカーサーは、満州や朝鮮半島が資源の無い島国日本の生命線であることを朝鮮戦争(反共戦争)で学習し、聴聞会において、聖書に誓い、証言した。大東亜戦争 開戦の詔勅 終戦の詔勅(玉音放送)現代文訳を、敵将が認めたのだ。敵将自らも、ルーズベルトにだまされていた事を認めたのだ。ソ連コミンテルンが主犯だと認識したのだ。資源確保のための解放戦争が大東亜戦争と認識したのだ。日本撤退後次々と共産化される国をまのあたりにし、日中戦争は侵略戦争ではなく、反共戦争、防共の砦日本と再認識したのだ。二つの至上の戦いを戦った日本を、明確に認識したのだ。読者の皆さんも護国責任者の立場で考えれば、このことも簡単に分かることなのだ。)

 

 ・・・米海軍がフィリピンと沖縄を奪う頃には(1945年6月23日沖縄戦終戦)、海上封鎖も可能となった。そのために、日本陸軍を維持する供給は、次第に届かなくなった。封鎖したとたん、日本の敗北は決定的となった・・・

 

 (注・包囲し封鎖した米国軍人は、日本の敗北は決定的となったので、敗者なぶり殺しの原爆投下に、猛反対した。アメリカの主張「原爆投下で連合軍兵士数十万人と日本人数百万人を救命」「子供への教育はこうなされている」は負い目払拭用の詭弁だ。本土決戦などせずとも、米国は攻めず、封鎖し、兵糧攻めで勝てたのだ。換言すれば沖縄戦以後のアメリカは、日本を封鎖し、昼寝しているだけで勝てたのだ)

 

 大東亜戦争の日本台湾朝鮮の真意はアジアの貿易の自由化なのだ。アジアの貿易の自由化のため、アジアの同胞を宗主国から解放する戦い、自由希求の戦い、それが大東亜戦争なのだ。台湾も朝鮮も日本もアジアの同胞も、まさに自由を求めて一丸となって戦った、それが大東亜戦争の真意であり誇りなのだ。

 アジアの解放を先導した誇りを失った日本への叱咤激励を、戦後続けてくれる
台湾やインドやアジアの方々の禍福史観のこの心根を、理解できる日本人は、もういないのか。歴史に学ばず愚かな人々が安易に繰り返す、愚かな国への愚かな謝罪は、先人や、心ある禍福史観の人や、禍福史観の国への、最大の冒涜なのだ。

 

 日本台湾朝鮮や、アジアの同胞のこの努力のおかげで、アジアの総植民地化を防御し、今の日本、独立したアジア(大東亜共栄圏・貿易の自由化圏)が存在している。アジアやアフリカは南北アメリカのようにはならなかったのだ。

 
無策であれば日本は消滅し、アジアはすべて南北
アメリカのように征服されていた。つまみ食い史観を撒き散らす人々よ、物事にはすべて禍福がある、つまみ食いはできない。時代の通過に、つまみ食い不可。歴史のつまみ食い解釈は不可なのだ。歴史は、禍福史観、物づくり史観での解釈が正道だ。

 

 ソ連もABCDも日本も、WW2までの時代は、侵略か護国かの目的の違いはあるが、弱肉強食の国取り合戦の本能むき出しの時代なので、お互いにとやかく言うべきではない。攻めなければ攻められ、強者は弱者を虐げるのが常識の時代なのだから。

 ただし今後は、捏造の歴史ではなく、実事求是の歴史で語るべきだ。そこから、真の友好が生まれる。捏造国家は皆亡国となる。歴史が証明している。

 

 物づくりはあまたの失敗が無ければ、完成しない。卑近な例で述べると、バンダ温室無し皿栽培方法完成のために、私は15年間買っては枯らす失敗を繰り返し、バンダを枯らし続けた。失敗の無い物づくりなど絶無だ。失敗と完成は、表裏一体、禍福一体なのだ。

 あまたの失敗(敗戦。殉難者)をし、苦労したが、最後に完成(アジアの独立。人種差別の撤廃。貿易の自由化での日本の繁栄し、子孫はあふれるほどの恩恵を今も受け続けている。

 
あまたの失敗(先人の超大国への挑戦)が無ければ今の日本はない、日本と言う呼称すら消えていただろう。

 最後に完成し、先人のあふれるほどの恩恵(貿易の自由化での日本の繁栄)を受け続けていながら、過程における先人の失敗をつまみ食いし、犬死、無駄死に、敗戦必至の無駄な戦争とあらん限りの罵倒をする、NHK(日本国民から料金を徴収し日本の公共放送を放送する局)や子孫と称する輩がいる。失敗(過程)無くしての完成(繁栄)など皆無なのだ。先人に護られた真の子孫や、の日本公共放送ならば、表裏、禍福を見てものを言え。禍福史観でものを言え。それが、護られた子孫としての、先人への最低限の礼節だ。真の子孫ならば、「感謝」以外の言葉は存在しないはずだ。

 物づくりは、資源の無い日本の基幹産業なのだ。日本の基幹を護るため、資源の開放を求めて、自己保存の本能に従った戦いが大東亜戦争であったことを、敵将
マッカーサーも証言し、認めている。

 戦には敗れたが、しかし、日本の壮絶な戦いにアジアは皆覚醒した。覚醒したアジアは皆独立し資源は開放され、日本は物づくりに励み繁栄し、アジアも共に繁栄している。正しくこれが先人の理想郷、自立共存共栄大東亜共栄圏なのだ。

 禍福の木が、共生競争しあい森となる、森を見て語れ、木だけ見て語ることなかれ。つまみ食いせず、禍福史観、物づくり史観で歴史は語れ。


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

真実史観実体は狂惨反日の巣窟の朝日と愚民化された物書き屋


1実体は狂惨反日の巣窟の朝日と愚民化された物書き屋

なぜ凶産党は世界征服をすぐ企むか 

 閉鎖し国民を愚民化することで、狂惨党国家は成り立つ。宗主国(搾取する者)が植民地の国(搾取される者)に用いる政策だ。それを国内で国民に用い愚民化(搾取される者)し、(搾取する者)として君臨するのが狂惨主義者だ。共産にだまされてはいけない、実体は狂惨主義者の独裁国家、私利私欲賄賂国家、人間差別国家なのだ。凶産党国家は国民を愚民化するため、植民地のように進歩せず、他国に遅れることは必然なのだ。結果、狂惨党国家として未来永劫存続する為には、世界をすべて凶産国にすることが条件となる。

凶産党プロパガンダに操縦される日本のマスコミ 

 NHKなどマスコミは真実を報道すると思ってはいけない、マスコミは拝金至上主義だから、売れればいい。マスコミは、気に入らなければすぐ取材規制する中国凶産党、韓国愚民政策党、北朝鮮凶産党には、下手に出て太鼓もちゴマすり発言。自由報道の米国には、悪の米国と高飛車に批判する、拝金至上主義だ。中国を取材したいため、反日の中国に遠慮して親日の台湾報道がない。台湾報道は地方放送局がほとんどだ。

 北京駐在が認められているのは、産経新聞以外の日本のマスコミである。

 「もっとも後年、「産経新聞」を除く日本のマスコミはふたたび北京駐在が認められるようになったが、それは一言でいえば各社が自己規制をして、中国の逆鱗に触れないように努めているからだ。「日中記者交換協定」というものが締結され、中国の意に沿わない報道を行えば、日本の特派員は国外退去処分にされることになっている。これは中国による日本の言論支配以外の何ものでもない。中国の意向に反する報道を許可しないということは、本来なら自由の旗手である日本のマスコミにとって断じて許容できないはずであるが、ところがそれ以来マスコミは民主国家のマスコミとしての責務、使命を放棄し、つねに中国の意向を忖度しながら、報道内容の自己規制を始めたのである」(黄文雄)

 独裁国家中国狂惨党などに弱点を握られ、操り人形と化し、現代の中帰連と化し、反日国に土下座し、民主主義国家に居丈高に物言うのが、日本売国奴マスコミ、NHKや、TBS、TV朝日、朝日、毎日、などの実体なのだ。小泉首相の靖国参拝は産経新聞以外反対報道の洗脳報道にもかかわらず、大多数の国民が支持した。産経新聞以外のマスコミは、もうすでに、中国凶産党の手先のようだ。根は相当に深い。2006.8.16.

 「中国凶産党」にとって都合の悪いことは報道しない、ということは、中国駐在の日本のマスコミは「日本の報道機関」ではなく、中国の「宣伝機関」、「工作機関」、「捏造機関」、であることを意味する。物事の基準は捏造の、手先機関となりさがっている。中国駐在の日本の鵜呑みマスコミは、日本精神のカケラもない、つまり売国奴工作員なのです。中国駐在の日本の鵜呑みマスコミは、母国日本を売る、売国の徒である事に、気付かなければならない。

 心ある日本人は、反日国擁護の売国奴マスコミ報道や、日本を日本人を粗捜しし、先人を無駄死に扱いする増すゴミ三愚人鳥越、田原、筑紫、など、決して信じてはいけないし、捏人(ねつじん)の捏造誇張報道はネチズン革命で厳しく糾弾しなければならない。

 戦争は悲惨だ悲惨だとマスコミは繰り返し、悲惨な戦争を日本は仕掛けて他国を侵略したと、報道するが悲惨で無い戦争は皆無なのだ。互いに悲惨なことをする、それが戦争だ。それよりなぜ悲惨な戦争になったのか検証すべきだ。

 NHKや、TBS、TV朝日、朝日、毎日、田原などのマスコミは中国狂惨党への日本侵略を繰り返すが、侵略しなければ侵略される戦国時代に、侵略が護国の時代に護国せず米英中ソに侵略されればよかったでも言うのか。物事には必然的に禍福がある、禍福をあざなって判断すべきで、戦争被害者意識の強い人の言論だけしか掲載しないし、報道しない、極端な偏向報道を繰り返し先人を冒涜し続けるマスコミは売国行為だ。戦犯は侵略しなければ侵略される時代と、世界征服をたくらむ狂惨党コミンテルンで、決して、日本ではない。悲惨な戦争を日本は仕掛けて他国(日本の10倍以上の大国)を侵略し、日本だけが悲惨なことをし、日本の先人は悪人だ。反日国の反日は正しい式の偏向放送は、即刻中止すべきだ。互いに悲惨な事をするのが戦争で、先人は護国のために、子孫を守るために戦ったのだ。子孫に間違いなく糾弾される売国報道を即刻中止し、なぜ日本がそんな悲惨な戦争をしなければならなかったか、直接の戦闘は皆無に等しい中国凶産党、当時日本統治下の韓国、北朝鮮だけがなぜ反日なのか報道すべきだ。TBS窓際放送局社員の独り言  


 日経社長も訪中し、弱点を握られ中国狂惨党の手先となり、署名も無い単なる走書きメモを、あたかも公文書であるかのように、富田メモと報道し、売国した。弱点を握られ、中国狂惨党の手先となった与野党議員、官僚、中国狂惨党プロパガンダは根が深い。訪中中の救う会も、狂惨党の餌食となり手先となるのか?。2006.8.28.救う会、狂惨党に話し合いキャンセルされる。理由、一部の日本の報道が気に入らないから。2006.8.29.朝日北京 山根 裕作。 このようにしてマスコミや訪中者が、中国狂惨党の手先となる。

朝日(ちょうにち)新聞 

 ・・・現実は戦争遂行のため資源や労働力の一方的な収奪に終始し、「共栄権」の実態はとぼしかった。・・・多くは現地住民が開墾した農地を接収したものだった。2006.7.17.朝刊8から9ページ。朝日(チョイル)は検証もせず、どうしてこんな記事を書くのだ。資源や労働力の一方的な収奪するのが、それが戦争だ。農地を接収する、それが戦争だ。戦争だからあたりまえで、日本軍だけが特別にしているわけではない。どうして一元史観で決め付けるのだ。物事には必ず禍福がある、禍福史観、二元史観で検証すべきだ。朝日(ちょうひ)はいつも日本の福は報道せず、禍を増幅し報道する、朝日(チョイル)には朝日(あさひ)の人間はいないのか・・・。極悪日本を連想させる書き方だ。愚民化洗脳アサヒルのはよせ朝日(ちょうひ)。


 戦後アジアは皆独立し、大東亜共栄圏は建設され「大東亜共同宣言」を実現しているのは、明白な事実ではないか。朝日(ちょうひ)アサヒル新聞は白を黒と言い張り、無理を通し、道理を引っ込めるのか。ソ連・東ドイツ・ルーマニア・アフガニスタン・イラク・捏造思考、捏造国家は崩壊するのが世の習いだ。真実は物事の基準だ。2006.7.17.

実体は狂惨反日の巣窟の朝日と愚民化された物書き屋

 米国の参戦の原因をつくった、大東亜戦争の元凶は、朝日新聞に巣くう世界征服をたくらむ共産主義者と、朝日新聞記者(1926~1938)尾崎秀実(おざきほつみ)だ。朝日はこの事実を隠蔽し、矛先をかわすため、少数意見者の「誰々が話した」報道で、しつこく先人冒涜プロパガンダ(偏向アサアヒル報道)を続けているのだ。朝日、TV朝日は世界征服をたくらむコミンテルンの手先、売国奴朝日新聞記者(1926~1938)尾崎秀実以後朝日に住み着く「赤化東亜共同体」樹立派に侵食され、中国狂惨党の操り人形と化し、田原鳥越報道官を擁し朝日塵民狂和国樹立を目指しているのか。追随するのは筑紫報道官を擁するTBSと毎日かそれともNHKか?

 共産主義者はすぐ仲間を作り組織する。赤化東亜共同体「蒋介石中国と、日本を戦わせ弱体化して共産化し、ひいては全アジアの共産化、野望思想。最終目標全世界共産化の、アジア版」で日本を戦争にひきずりこんだ朝日新聞記者尾崎秀実は氷山の一角で、上記記載の一連の報道を見れば朝日新聞は当時より現在にいたるまで共産主義の温床なのはうかがい知れる。終戦前は日本国のためでなく、スターリンの手先となり「赤化東亜共同体」を樹立するために、軍を賛美し戦争を煽りに煽った。性懲りも無く現在は、中国狂惨党の手先と化し、しつこいほどの先人冒涜プロパガンダを繰り返し報道している。再び「赤化東亜共同体」樹立を目指しているのか。

 1941年10月ゾルゲ事件が発覚。近衛内閣のブレーン朝日新聞記者尾崎秀実(ほつみ)が、ソ連スパイゾルゲへの機密漏洩で共に、スパイとして逮捕。

 

朝日新聞記者尾崎秀実(ほつみ)の経歴と朝日の戦後のプロパガンダ(主義の宣伝と訳されるが、ほとんどが捏造宣伝だ)報道

1901年(明治34年)4月29日岐阜県加茂郡白川村(現・白川町)で生まれる。

幼少の頃は、台湾の台北で育ち、台北第一中学校に進学。

1922年(大正11年)、第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部(現東京大学)に入学。

1925年(大正14年)、東大卒業後、一年間、東大大学院に在籍。そこで、大森義太郎が指導する唯物論研究会に参加し、共産主義の研究に没頭する。

1926年(大正15年)朝日新聞社に入社し、東京朝日新聞に勤務。社内で『レーニン主義の諸問題』をテキストとした研究会を開催。朝日新聞の共産化開始。

1927年(昭和2年)、大阪朝日新聞に転ずる。

1928年(昭和3年)11月、上海支局に転勤し特派記者となり、3年余、上海で過ごす。その期間に中国共産党と交流するようになる。アグネス・スメドレーと出会い、世界征服をたくらむコミンテルンの諜報活動に参加するようになる。リヒャルト・ゾルゲと出会う。「赤化東亜共同体」構想はこのころからか?

1932年(昭和7年)2月、大阪本社に戻り、外報部に勤務。

1934年(昭和9年)10月、東京朝日に転じ、東亜問題調査会に勤務。

1937年(昭和12年)4月から昭和研究会に参加。

1938年(昭和13年)7月、東京朝日を退社。第1次近衞内閣の嘱託となり、1939年(昭和14年)1月の第一次近衛内閣の総辞職まで勤める。同時に、「朝飯会」のメンバーにもなり、これは、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣までに渡る。

 『中央公論』6月号で『長期戦下の諸問題』を発表し、早期講和に反対し長期戦を正当化した。その当時は、『最も進歩的な愛国者』、『支那問題の権威』、『優れた政治評論家』と評されていた。

1939年(昭和14年)6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務していた。以上出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』赤字は加筆

1941年10月ゾルゲ事件が発覚。近衛内閣のブレーン朝日新聞記者尾崎秀実(ほつみ)が、ソ連スパイゾルゲへの機密漏洩で共に、スパイとして逮捕。

1944年ロシア革命記念日にあたる11月7日コミンテルンの手先、朝日新聞記者尾崎秀実、ゾルゲ、死刑。

1945年終戦

1067年コミンテルンの手先尾崎秀実の流れを汲む狂惨分子一派が画策し日本のマスコミでは朝日新聞の特派員だけが、いち早く中国内での取材公認。朝日新聞広岡知男社長文革礼賛記事掲載(4月)。以後朝日内部に巣くった狂惨分子が活動を開始し、捏造に励む。

1970年10月21日朝日新聞広岡知男社長中国政府の意向に沿った記事を書くことを公言。(1971年)朝日新聞南京虐殺キャンペーン展開「中国の旅」(本多勝一)検証なしに中国の言うがままに報道。

1982年教科書検定で政府が「『侵略』を『進出』と書き変えた」と朝日新聞の誤報事件。

1984年昭和59年8月4日付け夕刊(大阪本社版)「南京大虐殺」でっちあげ報道。

1984年昭和59年10月31日付け毒ガス戦でっちあげ報道。

1985年7月朝日新聞 「反靖国」キャンぺ―ン展開。8月14日初の靖国参拝反対声明発表。朝日新聞と人民日報が連携しながら反対運動展開。

1991年吉田清治の捏造証言を利用し朝日新聞「従軍慰安婦」キャンペーン展開。

1996年吉田清治 著書「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」の捏造を認める。

1997年1997年10月17日発行の「週刊朝日」朝日新聞、週刊朝日が報じた究極の残虐東部ニューギニア強姦殺害・人肉食事件捏造報道。
1999年アサヒイブニングニュース平成十一年二月十九日付け「レイプ・オブ・南京」の発売延期の原因を右翼からの脅迫と謀略報道。

2006年8月朝日新聞が接収された毒ガス兵器を、日本軍が遺棄したと捏造。

2006年反日キャンぺ―ン「反靖国」、「歴史と向き合う」反日歪曲偏向記事を扇動報道中。朝日の報道は、少数意見者の「誰々が話した」報道や、日本は再び覇権国家を目指すなどと、あたかも覇権国家であったような表現で、巧妙に森を隠し木を拡大偏向報道する典型的なプロパガンダ(主義の宣伝と訳されるが、ほとんどが捏造宣伝だ)。2につづく⇒

真実史観善悪史観の売国奴日経朝日TV朝日NHK毎日TBS日テレ読売は凶産化

2善悪史観の売国奴日経朝日TV朝日NHK毎日TBS日テレ読売は凶産


 戦前はスターリンの手先と化し、プロパガンダで米国と日本を戦わせ大東亜戦争を引き起こした。性懲りも無く現在は中国狂惨党の手先と化し、プロパガンダで「赤化東亜共同体」樹立を目指しているのか。朝日には護国も愛国も全く無く、戦前も戦後も「赤化東亜共同体」樹立をひたすら目指しているにすぎないようだ。上記記載の朝日の報道姿勢がすべて先人罵倒のプロパガンダである。朝日は大東亜戦争の火付け役の歴史を隠蔽し、再び「赤化東亜共同体」樹立をめざしているようだ。田原報道官を擁し朝日塵民狂話国樹立のために。

 朝日新聞記者(1926~1938)尾崎秀実が1939年昭和14年「中央公論」1月号「東亜共同体の理念とその成立の客観的基礎」で、近衛文麿内閣の「東亜新秩序」声明を、「東亜共同体」は事変解決の方策の不可欠な重点となったと賞賛した。がしかし、朝日新聞記者尾崎秀実の「東亜共同体」とは、蒋介石中国と、日本を戦わせ弱体化して、中国と日本を共産化する、「赤化東亜共同体」のことなのである。

 朝日新聞に巣くう世界征服をたくらむ共産主義者と、朝日新聞記者尾崎秀実が大東亜戦争の起因と成ったことは史実だ。終戦前は日本国のためでなく、狂惨国ソ連スターリンの手先となり、「赤化東亜共同体」を樹立するために軍を賛美し、戦争を煽りに煽った事も史実だ。朝日(ちょうひ)には朝日(あさひ)はいないのか。真実に基づき判断できる者はいないのか。真実は物事の規準だ。

朝日新聞記者(1926~1938)尾崎秀実の後継者はやはりいた「毛沢東の中国」をヨイショし続けた氷山の一角秋岡家栄や横堀克己特派員

 彼が赴任してすぐ起きたのが文化大革命。この日から八年間、走資派と名指された人たちが紅衡兵に糾弾され、殺された。その数「20万人」にのぼった。産経新聞やあの毎日でさえもこの血も凍る恐怖政治を伝え、相次ぎ追放される中で、秋岡は「そんな騒ぎはない」と各紙報道を否定し「北京の空は青かった」と報じた。

 林彪事件もそうである。失脚した彼は家族とソ連に逃げる途中、搭乗機がなぜか墜落して死んでしまう。各紙が林彪の失脚と死を報ずる中、秋岡は八カ月間も「林彪は健在」と嘘記事を書き続けた。

 こんな誤報だらけ記者は他所の社ならクビだが、秋岡は帰国後、社内検閲官として威光を保った。

 朝日新聞杜と北京政府の間に密約があったのだろう。その証拠に退職後の秋岡は中国狂惨党の機関紙「人民日報」の東京支杜長を務める。

 秋岡報道がその後の日本外交を大きく狂わせた。愚かな宮沢喜一や河野洋平はその朝日を読んで中国に土下座するようになった。

 人脈的にも、秋岡家栄記者が後に「人民日報」海外版の日本代理人に就任、後に北京特派員、北京支局長になった横堀克己氏が中国共産党傘下の対日政治宣伝雑誌『人民中国』の編集顧問に就任したりする中国あるいは中国共産党との繋がりを批判する向きもある。

 また、朝日新聞と上記の「人民日報」は提携関係にあり、朝日新聞のWebサイトは人民日報の記事を、特別コーナーにて常時掲載している(2006年2月現在)。新華社の日本支局も朝日新聞東京本社の社屋内にある。朝日はすでに凶産党の巣窟化しているのだ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)http://www1.toptower.ne.jp/~katumata/sub911.htm

 

大西哲光「ノリミツ・オーニシ」と日本名を名乗るニューヨークタイムス東京支局反日特派員

 「愚弄な日本人諸君ボクを止めてみたまえ、ボクは日本を貶めるのが愉快でたまらない、日本の没落を見たくて見たくてたまらない、醜い日本人に歴史の裁きを積年の大怨に、特定アジアによる裁きを。」などと日本をボロクソに言い、韓国のことを異様に持ち上げる記事ばかり書く特派員。ニューヨークタイムス東京支局は下記。http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1262656

 

ニューヨークタイムス東京支局 東京都中央区築地5丁目3-2

朝日新聞社              東京都中央区築地5丁目3-2

 

 ニューヨーク・タイムズがスターリンをヨイショした実績があり、「誤ったソ連報道でルーズベルトはスターリンの正体を見抜けないまま、米国の国策を誤った結果になった」といわれ、狂惨新聞であることは、すでにネット上でも有名だ。この米国版朝日新聞を世界のメディアとは、もはや誰も認めない。現代版「捏造箱」がニューヨーク・タイムズなのだ。「捏造箱」のロパガンダは、もはや通用はしない。

 ニューヨーク・タイムズと朝日新聞が、スターリンの手先となり大東亜戦争を引き起こした、と言っても過言ではない。朝日はこの事実を隠蔽するため、日本国悪、日本人悪が戦争の原因だ報道を、62年間も続けているのだ。

 それにしても日本名を名乗り反日とは、日本人はそんな姑息なことはけしてしないし、そこまで愚かでは無い。人間もここまで愚かになれるのか。語るに落ちるだ。

 捏造宣伝の朝日新聞 いつごろからか、日本の左翼はサンフランシスコ平和条約第11条のthe judgments を「裁判」と誤訳された部分だけ取り上げ騒ぐようになった。そこだけ悪用して、日本はサンフランシスコで「極東国際軍事裁判」を受け入れたのだから、いわゆるA級戦犯が合祀される靖国神社に首相は参拝をすべきでないという意見があると、朝日新聞が主張し捏造宣伝した。 

 第11条はaccepts(承諾する) the judgmentsと、複数になっており「諸々の判決」が正解。裁判では諸々の裁判となり誤訳。なぜなら裁判は対日裁判一つだけである。裁判は(承諾する)ものではなく受けるもので、判決は(承諾する)ものだ。


 朝日新聞はそれを徹底的に利用して日本人を脅迫している。「日本は東京裁判を受諾したのにそれに逆らうつもりか」朝日新聞は、日本の不利になり、コリアやチャイナに有利なことならウソでも書くという方針で世論を誤導しようとしているとしか思えない(渡部昇一・コラム)。

 朝日捏造新聞は、これだけの捏造をたくらむ方々だ、彼らの主張の反対に真実があると考えてよい。彼らが主張し、叫べば叫ぶほどそれは、似非なのだ。検証もせず同調し叫ぶ鵜人、当然彼らも似非なのだ。問うに語らず語るに落ちる。自ら自白している。

 日本の朝日が購読者の先人日本人を、ここまで貶めているとは正直思わなかった、朝日、TV朝日に、もはや日本人はいないようだ。思えば、金を払い冒涜されつづけている朝日購読者が哀れだ。購読者よみじめな冒涜から覚醒しよう。

週刊金曜日

 無知な鵜人の典型的な集まりだ。物づくりなどしたことなく、所詮言葉や文字が軽い、言葉遊び、文字遊びの方々だ。物事には必ず禍福が伴なう。禍福を天秤にかけ判断しなければならぬのに、過を拡大し煽る報道方針は他の鵜人と同じ。責任をとらず、悪いのは全部他人に責任転嫁し、我々は、か弱い市民の味方ですと装うのがこの方々だ。欠点に噛み付くのだけが取り柄で対案無しの、噛み付き亀。社会党凶産党民主党と同じ。

 日本人を辞めて鵜人化した人。石坂啓・ 落合恵子・ 佐高信・椎名誠・筑紫哲也・本多勝一の編集委員。常連執筆陣は永六輔「無名人語録」・矢崎泰久・岩城宏之・中山千夏・松崎菊也・金子勝・辻元清美。

 劇画「美味しんぼ」の作者、雁屋哲が劇画 「日本人と天皇」を「週刊金曜日」に発表し、天皇を批判したが、世間知らずの鵜人は、どうしてこう、非現実な良いとこ取りの金太郎飴ばかりなのだ。天皇を中心にまとまらなければ小国日本は、10倍以上の国に負けていた。鵜呑みせず咀嚼して書け。勉強が足りない。森を見てものを言え。

 週間金曜日投書欄は、屠殺せずに肉を食いたい非現実思想家の、夢物語で一杯だ。屠殺しなければ肉は食えない。それが現実だ。それにしても、生活が保障された2つの職業の方々が圧倒的に多い。非現実思想家が多数を占めて亡国か。

無知の典型永六輔

 「靖国の母っていうのは、息子を戦死させた母親でしょう。その母親たちが戦争反対運動をしたのかと思ったら、してないんですね。息子を殺されて、戦争反対を叫ばない母親たちがいたんですねェ。不気味な言葉ですね、靖国の母って」〔『無名人名語録』永六輔1987〕

  NHKと永六輔の捏造。童謡「七つの子」は朝鮮人強制連行された人たちの思いを歌ったもの。

 永六輔が平成15年2月、NHK教育テレビ「人間講座」「人はなぜ歌うのか」において述べた、野口雨情作詞「七つの子」に関する発言。

「「七つの子」は朝鮮の人々を内地に強制連行して炭坑で働かせたが、炭塵にまみれて真っ黒だったので、カラスと呼ばれていた。この人たちの“早く故郷に帰りたい”という思いを童謡という形にして書いたものだ。この話は雨情の弟子筋から聞いた」と永六輔が発言。

 「七つの子」が大正十年の作であり、一方朝鮮半島から朝鮮人が戦時徴用されたのは大東亜戦争末期(昭和)のことである。「弟子筋の話」というのは、根も葉もない永六輔の捏造である。捏造を承知で垂れ流す日本犯日洗脳協会NHKは、腐ったゴミだ。腐ったゴミは伝染病の巣。至急焼却が必要。

 

これだけの捏造を検証せず放置したマスコミの責任は重い 

 一部のマスコミの皆さんはこれまで、一方的報道で世論を扇動し、先導してきたかもしれないが、これからは通用しない事を認識すべきだ。戦争被害者意識の強い人の言論だけしか掲載しないし、報道しない、極端な偏向報道を繰り返すべきではない。なぜ日本がそんな悲惨な戦争をしなければならなかったか、直接の戦闘は皆無に等しい中国狂惨党(紛争の種まきに励み、戦争になると蒋介石の陰に隠れて勢力を温存し勢力拡大に励んだ)、当時日本統治下の韓国、北朝鮮だけがなぜ反日なのか報道すべきだ。先人冒涜の日本人やマスコミは、日本のマスコミや日本人では無い。捏造報道の皆さんも、あの偉大な先人の子孫なのだから、共産の美名にだまされず、実体の狂惨に気付き原点に回帰し、真実報道に徹すべきだ。先人冒涜の日本人やマスコミは、傘を差し、守っている親を刺し殺す、未熟な子供と同一だ。

・1938年昭和十三年十月、毛沢東が部下に与えた指令。・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである・・・1969年8月林彪が編集した『毛沢東思想万歳』の533~4頁・日本社会党の理論雑誌『社会主義の理論と実践』1964年9月号

 鄧小平の日本認識証言 鄧小平は昭和五二年、三橋健次郎元陸将との会談での証言。・・・日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、日本軍の占領地域の後方に拡がり、八年の間に八路軍は120万「1936/10、長征で30万人から3万人まで激減していた」に増え、さらに数百萬の民兵を作ることができた。・・・『中国との友好交流二十年の感想』、三岡健次郎、平成七年、中国政経懇談会)

 

 反日国、韓国愚民政策党、中国凶産党、北朝鮮凶産党の報道は皆、捏造報道だ。加えて日本の反日偏向報道(捏造歪曲の底には必ず真実がある。真実だから捏造歪曲するのだ)。捏造国家、捏造マスコミは次々と自壊している。真実は物事の基準だ。物事には必ず禍福がある。鵜呑みせず、禍福史観で咀嚼し、真実を見よう。我々はあの偉大な先人の子孫なのだから。2006.10.27.


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真実史観唯物民主党と唯心共和党アメリカ二大政党の対日相違点


唯心共和党と唯物民主党アメリカ二大政党の対日相違点

1828/ 民主党結成。第7台大統領ジャクソン支持派により結党された。民主共和党が前身。南部が地盤。
1854/ 共和党結成。奴隷制反対の地方政党が各州に成立し、これらが統一され、共和党結成。北部、西部が地盤。シンボルマークはゾウ。
1860/ リンカーン(共和党)が第16代大統領に当選。1861/ 南北戦争。奴隷制存続を主張する南部11州合衆国から脱退し、アメリカ南部連合を結成したのが契機となった。
1863/ リンカーン(共和党)奴隷解放宣言。「人民の、人民による、人民のための政治」とリンカーン(共和党)が戦没者墓地奉献式で演説した。
1864/ リンカーン(共和党)大統領再選。
1865/ 
アメリカ南部連合降伏。奴隷制度廃止。リンカーン(共和党)観劇中に南部出身の俳優J.W.ブースにより暗殺される。
1885/ クリーブランド民主党第22代(1885~1889)第24代(1893~1897)大統領。反帝国主義。ハワイ併合反対。
1897/ マッキンリー(共和党)第25代(1997~1901)再選後無政府主義者に暗殺される。
1901/ T(セオドア).ルーズベルト(共和党)第26代(1901~1909)日露戦争の講和を斡旋。1906年ノーベル平和賞受賞。1913/ ウィルソン
民主党第28代(1913~1921)
1919/ ウィルソン(
民主党)1919年ノーベル平和賞受賞人種平等への旗手日本。全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを 見守っている。1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すこ とのないよう、国際連盟創設のための議論が進められていた。 米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。 日本の提案は16カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソン(民主党)の「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。人種差別家ウィルソンがノーベル平和賞を受賞したのだ。大東亜戦争は人種平等を勝ち取る戦いでもあった。

1929/ 大恐慌により、米国経済が機能停止状態になった。

1932/ フーバー第31代(共和党)(1929~1933)大統領。反共主義者である共和党のフーバーはソ連の国家承認を拒み「日本はアジアにおける防共の砦」と常々口にしていた。

1933/ フランクリン・D・ルーズベルト民主党第32代(1933~1945)米国史上初めての4期連続の大統領。T(セオドア).ルーズベルト(共和党)第26代の遠縁。米国経済の危機打開のために、ニューディール政策を実施し、一応の成果をあげたが1937年以後景気後退が始まった。

1933/1 発足問もない民主党のルーズベルト政権は、共和党の反対を押しきってソ連を国家承認した。

1941/12/8 日米開戦。

1943/1 カサブランカ会談でチャーチルトとルーズベルトは、無条件降伏要求の原則を明示した。

 

 ・・・過去の歴史を鑑みるとABCD包囲網・石油禁輸・真珠湾謀略・原爆投下・東京裁判・占領憲法押しつけなど、これらは全て民主党政権下で行われている。一九三二年の大統領選挙で共和党ハーバート・C・フーバー大統領が民主党侯補フランクリン・D・ルーズベルトに破れて以来、一九五三年にアイゼンハワーが共和党大統領に当選するまでの実に二十年間に渡り、民主党が政権を握り続け共和党は野党となっていた。そして開戦を目的と.する日本への圧力も、日米戦争も日本占領政策も、全てこの二十年間の内に行われた。

 

 ・・・ルーズベルト政権で司法長官を務めていたF・マーフィー(後に最高裁判事)は、反米活動調査委員会で「共産主義者がルーズベルトとその夫人を操っていた」と証言しており、対日戦争はソ連のシナリオであったと認める報告書を提出している。

 

1945/4/12 日本に無条件降伏を要求し、日本人種の絶滅を唱えていたルーズベルト、昼食中脳卒中で死去。この天誅がなければ、もっと悲惨な結末となっていた。天に感謝。

 

1945/ トルーマン民主党第32代(1945~1953)大統領。クー・クラックス・クラン(KKK・黒人排斥秘密結社)に加入歴のある副大統領のハリー・S・トルーマンが大統領に昇格。

 

 ・・・ルーズベルトの後継者である民主党のトルーマン大統領が日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた事実はワシントン.ポスト紙にスクープされているが、この決定を最初に下したのもルーズベルトである。小心かつ実務経験に乏しかったトルーマンは、ルーズベルトが決定していた方針に一切手を加えずに単にそのまま実行したのだ。

 

 ・・・こうしてかねてより共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、一九四五年七月に先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の二日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。 

  

 原爆投下についても米国の総意ではなく、賛否両論の二つの考え方がこの両党間で対立していたのだ。つまり、もし当時の大統領がトルーマンではなく共和党の大統領であったなら、おそらく原爆投下もなかったであろうということである。 

  

1945/8/15 終戦。 
 日本の敗戦時に、ソ連はヤルタ協定を口実にして北海道まで占領しようと欲し、トルーマンも一旦はそれを内諾したものの共和党の猛烈な反対を受けて考え直し、渋々ソ連に断ったという記録が残っている。

 

1950/6/25 朝鮮戦争勃発。
 ・・・朝鮮戦争時には共和党議員の多くが「日本への原爆投下は誤りであり、朝鮮戦争でコミュニスト(共産主義者)に対して使用するべきである。さらに中朝軍を撃退して中国本土まで国連軍を進攻させ、中共政権を打倒して国民党政権を復帰させるべきである」との主旨を主張していた。

 

 共和党をバックにしてマッカーサーも同意見を声明しており、これもまた中共との和平を希求するトルーマンを激怒させ、解任理由の一つとなったのである。従ってもし当時アメリカが共和党政権であったならば、今頃は中国共産党政権は存在していないかもしれない。

 

1950/ マッカーシイズム1950~1954頃、米国上院政府機能審査小委員会委員長マッカーシーJ.McCarthyを中心に行われた、一連の共産主義者弾圧。F.ルーズベルト、トルーマンも攻撃の対象にされた。

 

1953/ アイゼンハワー(共和党)第34代(1953~1961)第33代大統領。

 アイゼンハワーは、大統領在任中の一九五五年一月にルーズベルトを強く批判して「私は非常に大きな間違いをしたある大統領の名前を挙げることができる」と述べ、ルーズベルトが対日謀略を重ねて日米開戦を導いたこと、日本へ不必要な原爆投下の決定を行ったこと、ヤルタ協定で東欧をソ連に売りとばしたことなどを挙げて非難している。 

  

 ソ連のスパイであったアルジャー・ヒスが草案を作成したヤルタ協定は「ソ連の主張は日本の降状後、異論なく完全に達成されることで合意した」と定めているが、一九五六年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による日本北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出した。 

  

 ヤルタ協定が共和党政権によって完全に否定され無効とされたことで、ソ連の北方領土占有(ソ連はヤルタ協定を根拠に正当性を主張)は、一切の根拠を失った不法占拠であることが公式に確認されたのである。

 

1963/ ジョンソン民主党(1963~1969)第36代大統領。ベトナム戦争を深刻化させた。

1992/ クリントン民主党(1992~2000)第42代大統領。
 ・・・二十世紀の百年間、日米英三国同盟を夢見たマッキンレーに始まり、日露戦争講和を仲介したセオドア・ルーズベルトを経て、「日本はアジア防共の砦だ」と終生主張していたフーバー、そして「強い日本の復活」を待望する現ブッシュ政権に至るまで、共和党はいつも日本の立場に理解と共感を持って接してきた。 

 

 その一方、ワシントン会議のレールを敷いたウィルソンに始まり、ソ連に操られて日本を追い詰めたルーズベルト、原爆を投下し東京裁判を強行したトルーマン、中共と結び対日経済戦争に狂奔したクリントンに至るまで、民主党は常に日本を敵視し警戒し抑えつけようとしてきた。 

  

 これらの歴史が物語る真実は、この二大政党の対日観や共産主義に対する姿勢が全く正反対であるということなのだ。そして、かつてGHQ内部で熾烈な路線対立を繰り広げたストロングジャパン派(共和党)とウィークジャパン派(民主党)が、今なおアメリカを二分して存在しているという現実を日本人は決して忘れてはならない。 

 

 日米開戦前における日本政府の最大の失敗は、ルーズベルト政権の与党たる民主党だけを相手として共和党との交渉を考えもせず、つまりアメリカという国を一括りに見て「アメリカは二つ存在する」という視点を持たなかったことにある。

日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略 深田匠(著)

 

 情報収集の技術に長けていたら大東亜戦争は避けられたかもしれないが、究極の目的植民地解放が成されたかどうかは疑問である。

 

中国狂惨党華僑華人のロボット売国奴の巣窟民主党
 カリフォルニア州在住の香港出身の中国系米人華人実業家ノーマン・ シー(徐諾曼=音読)は2004年から、民主党の大統領候補だったケリー上院議員に2000ドルを迂回(うかい)献金(名義を借りて献金)したのを手始めに、この3年間で民主党の陣営の各種候補に22万5000ドルを献金した。とくにヒラリー陣営の資金集めでは、100万ドルを集める集金手腕で、同陣営の上位20位に数えられる集金役に躍り出ていた。献金を受けた議員は、このほかヒラリー氏のライバル、オバマ上院議員ら、大統領候補を中心に多数にのぼる。献金の相手は民主党候補ばかりに限られているのが特異な点だ。

 

 シュー氏はニューヨークに本社をもつ「コンポーネント社」の経営者という以外、素性が不明だったが、ロサンゼルス・タイムズ紙の報道で、同氏が15年前、カリフォルニア州で土地を不正取得したとして訴追され、服役3年の判決後に逃走中であることが分かった。ノーマン・シュー氏は9月6日、逃走途中のコロラド州内で連邦捜査局の捜査員に逮捕された。

 

 ヒラリー・クリントン上院議員は2007年9月10日夜、2004年以来、同議員の上院選や大統領選の資金用に集めた献金合計85万ドルという巨額を数日中に計260人ほどの献金者に返還することを発表した。
 
 慰安婦決議の推進役マイク・ホンダ下院議員(
民主党)はシュー被告とその代理人から献金計5000ドル受け取った。シュー氏は6月、ホンダ氏のレセプションで幹事役を務めていた。受け取りの日付はいずれも今年6月25日だった。6月25日というのは、下院外交委員会で慰安婦決議案への投票が実施された日の前日である。シュー被告の献金が、慰安婦決議案の早い時期の共同提案議員たちにも届けられていた事実は、全体の構図をもう少し鮮明にする。シュー資金は下院のトム・アレン、パトリック・ケネディ、デービッド・ローブサック、フランク・パロン民主党各議員に軒並み贈られていたのだ。各議員ともホンダ議員が今年1月末に提出した慰安婦決議案のごく早い時点での共同提案者ばかりなのである。マイク・ホンダ下院議員は9月下旬、シュー被告とその代理人から受け取った献金計5000ドルを放棄することを発表したのだ。放棄した資金は日系米人の高齢者介護施設などに寄付するという。【緯度経度】ホンダ議員への政治献金疑惑 ワシントン・古森義久
 

 マイク・ホンダ民主党下院議員は、慰安婦問題南京事件で日本を一貫して糾弾する在米中国系団体の「世界抗日戦争史実維護連合会」の幹部たちから、過去8年間ここぞという時期に、いつも献金を受けてきた。マイク・ホンダ民主党下院議員は華人に買収された、人形なのだ。

  

 狂惨よりも、ここでは華僑、華人の影が濃い。年月に晒され、WW2の霞が消え、華僑、華人にも真意が見えた結果だ。まず華僑、華人が負い目とする有色人種解放の妨げをした唯一の有色人種、中国人ではないのだということだ。華僑、華人同胞と日本との戦いではなく、日中戦争ではなく、狂惨と戦った反共戦争なのだ。宗主国との戦い解放戦争なので、負い目は無意味なのだ。結果侮日は天に唾するごとく、華僑、華人を貶めるだけなのだ。孫文、汪兆銘が願ったのは、あなた方のような捏造覇道の文化ではなく、仁義道徳を主張する真実に基づいた王道の文化なのだ。

 

 狂惨が仕掛けた共産主義、抗日戦争に幻惑された孫文、汪兆銘の轍を踏むなかれ。日本は東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」となり、アジアを解放(大東亜戦争)し、独立の扉を開いた。日本は孫文、汪兆銘亡き後、大アジア主義を命を賭けて実践し、アジアは皆独立した。しかし、日本の力及ばず、大アジア主義未だ未完成だ。華僑、華人よ、孫文、汪兆銘に回帰せよ。回帰すれば、華僑華人の真の敵、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩に使う犬)」と化した敵が幻出する。願った孫文没後82年、汪兆銘没後63年、中国革命未だならず1913/2/(大正2)宋教仁は孫文と共に国民党を組織し、中国史上初の選挙に臨んだ。チベット、内モンゴル、満州、新疆ウイグル数多の犠牲者がいる。孫文、汪兆銘の真の子孫よ、孫文の本意忘るべからず、遺志を継げ。台湾は遺志を継ぎ、成し遂げたではないか。孫文、汪兆銘の真の子孫よ遺志を継げ。されば成る。

 

 日本にも狂惨の人形は数多だ、要注意。民主党ヒラリークリントン民主党の親中、そして献金スキャンダル、民主党は要注意だ。デマ多発のマスコミ情報ではなく日本独自の情報収集に徹すべきだ。


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真実史観生きて虜囚戦陣訓沖縄軍命自決と捏造は同胞至心の流露遺族救済が本心


戦陣訓もう一つの捏造理由は遺族救済のための善意の捏造だった

 
戦傷病者戦没者遺族等援護法(昭和二十七年法律第百二十七号)及び戦傷病者特別援護法(昭和三十八年法律第百六十八号)成立。沖縄県においては昭和五十六年十月一日以降、沖縄戦当時六歳未満であつた戦傷病者や戦没者の遺族に対しても援護法適用。サイパン、テニアン等の旧南洋群島の場合は六歳以上、比島の場合は十四歳以上が援護法適用の対象となった。軍民一丸の戦闘なので集団自決者の遺族も当然対象者である。にもかかわらず結果生き残った沖縄の遺族は、戦後の米軍捏造に便乗、戦陣訓虜囚の辱=降伏禁止の訓えに従い、軍命令で自決したと証言し、援護法が適用された。

 発端は、軍命令など無いことを知りながら「軍命令ならば、援護法適用可能」と助言した、役人の遺族救済発言だろう。援護法適用で遺族を救い、困難な時代、官も民も承知の上で助け合ったと解すべきだ。がしかし、真実を語れば民間人の「戦後補償」のからくり暴露になるので、これまで告白者が出なかった。米軍侵略のため、軍民協力の防衛戦が原因で、戦傷病者戦没者遺族等となったのは事実なので、間違いなく殉国者や遺族である。沖縄根拠地隊司令官大田実少将も、沖縄県民斯ク戦ヘリと、軍民一丸の戦いを証言し、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲと沖縄県民遺族への配慮を願い打電後、自決している。軍命令とせずとも援護法適用は妥当である。にもかかわらず軍命令としたのは、そのほうが即決できたからだろう。かくして女子供までが虜囚の辱=降伏禁止の訓えに従い、軍命令で自決したという物語が戦後善意で創作された。

 虜囚の辱=降伏禁止=軍命令で自決の捏造解釈は、最初は殉国者の遺族を救うための善意の方便であったが、NHK、朝日、毎日などの侮日メデアや、読売新聞渡辺恒夫、石原都知事、
大江健三郎『沖縄ノート』、三鵜人などの知識鵜呑みの貼り付け師が、検証もせず、職責も果たさず真実をねじ曲げ、嘘を一人歩きさせ、貼り付け、定説にした。そんな嵐の中で、曽野綾子の検証姿勢は凛として高く、際立っている(戦後28年後の昭和四十八年に『ある神話の背景』を出版した。現在改題され「沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!)。物書きが史実を語るとき、かくあるべきだ。戦後62 年皆が真実を語り始めた。護国の兵先人への、これ以上の頌詞はない。先人冒涜の虚実でなく、事実を認識しよう。

 検証しないのが貼り付け師なのだ。自決理由を検証せず、戦陣訓や軍人の命令にすれば簡単なので、戦後の鵜呑み識者や鵜呑みマスコミは、職責も果たさず、62年を経た今も、報道し続けている。

 訓や命令に従わなくとも、罰するものはもういない死語と化した訓や命令で、読者のみなさん、自決しますか。自決は自らの強い意志が無ければけして出来るものではないでしょう。常識があれば分かることだ。

 侵略者
アメリカが追い詰めたから力尽きて自決となったのだ。アメリカが侵略しなければ、追い詰めなければ自決はなかった。自決の原因はアメリカの侵略で、護国の兵ではない。戦陣訓ではない。

 2007年9月29日、沖縄県宜野湾市において、第二次世界大戦中、日本軍が沖縄県の住民に集団自決を強制したとの記述が削除された教科書検定に抗議し、検定意見の撤回を求める県民大会が行われ、沖縄県全三十六市町村の首長や議長が出席したと報じられた。

 先人沖縄県民は軍の愚かな操り人形で、愚かな皇民化ロボットで、日本軍に死ねと命令され死んだのか、それとも沖縄県民斯ク戦ヘリで語られたような沖縄県民だったのか、子孫の沖縄県民が県民投票で決めればよい。そして教科書の記述は、子孫の沖縄県民の解釈として記載し、同時に賛否の比率も載せればよい。


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真実史観沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


1真実史観沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


 20年6月6日、沖縄の海軍陸戦隊司令官大田実少将以下自決を決意し激戦のしじまにふりかえり
、海軍次官宛に打電。電文は沖縄県民がいかに軍に協力して郷土を護らんとしたかをつづり、沖縄県民の献身的な作戦協力について深謝し、多くを戦闘の巻き添えにし、痛ましい犠牲を払わされた沖縄県民を思い、後世にわたり沖縄県民への国の配慮を訴え、上記の文で結んでいる。赤心の真情あふるる無声滂沱の文だ。  真実史観意訳文

 

発 沖縄根拠地隊司令官

 

宛 海軍次官

 

 下記の電文を海軍次官に御通報の方は、願いが叶えられるよう取り計ってほしい。

 

 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力無く32軍司令部又通信の余力無しと認められるので、本職(沖縄根拠地隊司令官)、県知事の依頼を受けてはいないが、現状を看過するに忍びず、県知事に代って緊急御通知申上げる。

 

 沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんどかえりみるいとまがなかった。しかれども、本職(沖縄根拠地隊司令官)の知れる範囲においては、県民は青壮年の全部が防衛召集に参加し全員が防衛にはげんだ。

 

 残されたる老幼婦女子は、頼る者がなくなったため自力で、しかも相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却されたため、わが身一つで、軍の作戦に差支(さしつかえ)なき場所の小防空壕に避難。避難しても尚、小防空壕のため、砲爆撃の攻撃から完全には逃れられない。風雨に曝(さら)されつつ、乏しき生活に甘んじている。

 

 そんな境遇にもかかわらず、若き婦人は率先して軍に身を捧(ささ)げ、看護婦烹炊「ほうすい(煮ることと炊くこと)」婦は元より、砲弾運び、挺身「ていしん(捨て身)」斬込隊すら申出るものもいる。

 

 敵が来れば結局、老人子供は殺され、婦女子は後方に運び去られて毒牙にかけられるのだからと、親子生別れを決心し、軍に娘を守ってもらうため、娘を軍の衛門に捨てる親もいる。

 

 看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵既に出発しているので、身寄り無き重傷者を助けて移動。真面目にして一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 

 更に、軍の作戦の大転換あるや、夜中に遥に遠隔地方の住居地区を指定され、トラックなどの輸送手段皆無の沖縄県民は、うらみ辛みも言わずに、ただ黙々として雨中を徒歩で荷物を運び、移動した。

 

 この沖縄県民の行動は要するに、陸海軍部隊が沖縄に進駐以来終始一貫、勤労奉仕物資節約を強要させられたのに、うらみもせず(一部には悪評なきにしもあらざるも)ただ只管(ひたすらに)日本人としての御奉公の護国を胸に抱き、軍、沖縄県民一丸の護国軍となり、いかに沖縄県民が御奉公にはげんだか、ということである。

 

 これほどまでして護国にはげんだが、遂には大打撃を与えことがなかった。最後の戦いと決断した沖縄県民と軍と沖縄島は、末期の運命を共にし、まさに今、一木一草亡き焦土と化すまで戦わんとす。

 

 糧食六月一杯を支ふるのみなりという。

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ

 

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 

 沖縄県民へのほとばしる深謝の思いである。軍も民も無くまさしく団結した戦いであったことが彷彿する。20年6月13日、大田少将以下幹部は包囲されたため、自決し果てた。

 

人の将(まさに)に死なんとするや、その言や善し。

 

当時の真実(軍、沖縄県民護国一丸)を語る「伊波苗子(元従軍看護婦)」

【伊波苗子】元従軍看護婦の証言・第32軍司令部壕の真実[桜H23/11/28
 

 「日本九九年戦争・資源無き島国日本、適者生存戦国時代唯一の術は、先手あるのみ。後手の本土戦は、兵糧攻めで必滅。露西亜、清国(属国朝鮮)南下阻止が第一義、後手は必滅、先手で打って出た。 

 結果が台湾朝鮮(自立不能で)統治(極東共栄圏樹立着手)、満州建国尽力(凶産の砦)、日中戦争(中国凶産化での中ソ凶産連合阻止)、南京政府樹立尽力(中国凶産化阻止)で極東共栄圏構築。

 日中(反共)戦争で疲労困憊の日本は、戦国の定法弱肉強食、恰好の餌食となった。米英中蘭(ABCD)が兵糧攻め、ハル・ノートで降伏を迫った。出稼ぎ戦争対、日本は死活戦争。極東から大東亜に共栄圏樹立を拡大し、あらん限りに戦ったが、大東亜同胞の、完全覚醒追随まで戦いきれず、矢尽き刀折れ、敗れた。

 がしかし、戦いざまに共振した同胞が、一気に蜂起、独立。1960年の植民地独立付与宣言(互恵)が根幹となり、自由貿易64年開放経済)、平等65年人種差別撤廃を成し、凶産は残ったが、戦争目的は完遂した。弱肉強食の世に、戦後67年間のごとき無能無策の後手日本なら、何もかもが消滅していた。それでも戦後消滅しなかったのは、『身体を筆にし、流れる血と汗と涙でえがいた先人の、人類への遺書』以外、あろうか!

 “戦かわざれば”の平和論があるが、防共の砦日本が去るやいなやすぐさま凶産化、朝鮮戦争惹起したもう一方の真の敵、中ソ凶産連合軍隠蔽スパイの、工作論である。ABCDと“戦かわざれば”の降伏は、防共の砦無き丸裸日本で、中ソ凶産の、恰好の餌食となった。この戦いは、目的も無きただの防御戦。多勢に無勢で、瞬時に最後の独立国日本は潰え、日本族の名を残すのみの、まさに、犬死に無駄死にの戦争となっていた。同胞の、支配者からの独立も無い!新秩序など、当然無い!支配者と、被支配者の地球に成っていた!」

 

「公」に殉じた人と私利私欲の人

「軍命令」と初め救民のため、後に軍隊極悪宣伝用に悪用、捏造された沖縄戦集団自決事件、真相は次の通りである。 

 

 援護法が、軍人や軍属を対象としていたので、その死が軍部とかかわるようにしなければ、集団自決した人々の遺族が補償金を受けることが出来なかったのだ。座間味島の梅澤隊長、村の指導者として自決した宮里助役、戦後補償に情熱を傾けたその実弟の宮村幸延、渡嘉敷島の赤松隊長は、遺族が国の補償金を得るために、十字架を背負い遺族を救った。

 

 戦後補償の申請は、こうして昭和28年にされ、昭和31年3月、集団自決者(乳幼児を含む)全員「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が対象者として認定され、遺族は救われた。「援護金」例外支給は、沖縄のみ。大田実少将末期の打電、「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」に即刻呼応、天道(超法規)で、応えたのである。

 

 集団自決は「軍命令だった」と初めて書いたのは、昭和二十五年に朝日新聞社が出版した『鉄の暴風』だった。同書はその後、沖縄タイムス社発行となった。「梅澤少佐のごときが朝鮮人慰安婦と不明死をとげた(生存しているので現在は削除)」。「集団自決」をした場所も異なる。「地下壕」はなかったのに、「地下壕内」の将校会議と捏造。沖縄在住の知念元副官や比嘉(旧姓安里)喜順元巡査にすら、インタビューした形跡もない、でたらめな記述が満載の本である。

 

 その実情を調べもせず鵜呑みし、鵜人大江健三郎の『沖縄ノート』や、家永三郎の『太平洋戦争』などで拡大したため、集団自決は「軍命令だった」という話が、多くの出版物や教科書で独り歩きし定着してしまった。

 

 集団自決の「軍命令」を発した張本人が、自決もせず生きている不自然さに気付けば、すぐに事の真相が分かるのだ。背負った十字架の重さに気付いた政府も遺族も島民も、皆が暗黙の了解をしていた。戦後の貧しさの中で皆、助け合って生きていた。「朝日新聞」が捏造し騒いでいなければ、ここまで大騒動にならず、傷つく人もいなかったろう。

 

沖縄タイムス(「鉄の暴風」刊の無検証報道

沖縄タイムス1983(昭和58)年6月8日

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に故赤松大尉直筆の手紙を届ける

住民に「(敗戦について)申し訳ない」虐殺については否定?

 【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

 手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日(復帰の2年前)。 

 そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。

 ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。

※この、赤松嘉次大尉心中吐露の手紙、全文掲載はせず、下記のように、検証無き個人の勝手な感想を書いている。全文掲載し、検証後感想掲載が、新聞の本道だろう。これでは単なるゴシップ記事。沖縄の新聞はこの手合いが特に多い!

 仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。

※「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)のみの、一方ソースでは、話にはならない。

 中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

※「米軍による住民虐殺、住民による集団自決」が歴史の事実で、「日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決」は捏造である。新聞や新聞記者は識者ではない。ただの扇動屋詐欺師である!

 この記事は徳嵩力の写真(故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏)とともに、トップ大きく掲載された。

 

集団自決の真相目撃者比嘉(旧姓安里)喜順元巡査が同日送付した抗議の手紙

沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届けるより抜粋転載

 比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

 その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

比嘉(旧姓安里)喜順元巡査の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

 あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。

 私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。

 それであなた様が「12年前より赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。

 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません

 責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません

 「鉄の暴風」が発刊されておるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。

 それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。

 沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません

 私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 

 それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃に沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。

 赤松隊の生存者もおられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みになられたらと思います。

 真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います。

 歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。

 只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。

 徳嵩様の重要な部所にお勤めなられており幸いと思います。

 益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

 

 そして十日後、比嘉喜順は徳嵩 力からの手紙を受け取った。

脈々と先人の一丸が生きてる返信

 直筆の手紙であるという。真摯な返信で共振している。ここには、脈々と先人の一丸が生きている!

続・沖タイの歪曲報道、徳嵩氏の返信より抜粋転載

拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました。比嘉様には昭和二十年にあの激戦の慶良間、渡嘉敷島警察官としてご勤務をされていた由、さぞかし大変なご苦労をされたことと心から感謝申しあげたい気持ちでおります。

 昭和十八年の学徒出陣を体験し、大正十年生まれの私にとりましても、今次大戦は以後の人の人生を一変させる位の大事件でありました。

 沖縄戦が世界の戦史上でも稀に見る住民をまきこんでの大激戦でありましたことが、今なお幾つもの大きな問題となって尾を引いており、沖縄の歴史とともに、私達の胸に大きな痛みを甦らせます。

 御手紙で御提示のありました曽野綾子著「ある神話の背景」を読了し、深く考えさせられました。

 御高説の通り、ものがどの一方からの見方のみでその本質、真相を判断してはならないことがよくわかりました。

 国会においても一貫して沖縄問題を担当し、殊に昭和四十四年に、衆議院職員初の調査団の一員として沖縄を視察いたしましてより、一種の使命観をもって復帰に関する諸々の案件と取り組み、沖縄問題はいささか精通していると内心自負して参りました私にとりまして、如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた次第でありまして、勉強し直し、かつ真実を知る機会を与えて下さった御手紙に対して衷心より感謝いたしたいと思います

 私は、昭和四十四年に沖縄に派遣されて以後、鉄の暴風、秘録沖縄戦記、沖縄ノート、沖縄問題二十二年等々沖縄に関する著書は次々と読んで、沖縄問題の本質と深淵を探り、そこで渡嘉敷の集団自決事件をと赤松大尉の存在を知りました。

 その後、赤松大尉から陣中日記と御手紙を頂いたのは四十五年の秋のことでした。

 戦争中は、その置かれた立場と環境によって軍もまた国民も半ば狂気のような行為、行動のあったことが思い出され、戦争というものが如何に人間を醜くするものか、それ故に平和がいかに尊いかを改めてかみしめている最近であります。

 巷に伝えられている赤松大尉の集団自決事件にいたしましても、私は私なりに当時弱冠二十五歳の赤松大尉が周囲を米軍に包囲され、とことん追い詰められた状況の中にあって自決命令を下したとしても、あり得んであろうというように思っておりましたが、-非常に残酷な話ですがー当時渡嘉敷で軍民のパイプ役として必死の御活躍をされました比嘉様の生きた証言によって真相を教えて頂きましたことは、非常に幸いであり、また救いでもありました。本当にありがとうございます

 実は先月ある席上で沖縄タイムスの某記者と同席いたしました折、たまたま私が赤松大尉の陣中日誌を持っていることに話しが及び、是非見せて頂きたいということでお貸ししましたが、今さら事件を暴きたてるといったような意図はもとよりなく、あのような記事となったことは心外でした。 かつて私は書き物にも、集団自決命令があったようなことを書いたものもありますが、今後は心して機会があるたびに赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真相はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っておりますので、どうぞそのように御高承を願います

 さて国民の1人として沖縄戦全体を考えますとき、大田海軍少将の最後の電報等はありましたが、戦争とは言え沖縄県民に余りにも大きな犠牲を払わせた結果につきまして深く反省し、県民に、遺族の方々に十分の償いと報いと感謝とを捧げなければならないと感じて今日まで過ごしてきました。

 沖縄に関して、私の書いた拙文を同封いたします。 御高覧願えましたら幸いに思います。

 最後に二十七年間に及ぶ異民族の支配下に苦労されました百万県民の御苦労をしのび、沖縄県の皆さんが真に他の府県同様に発展して参りますよう念ずるとともに、御年配の比嘉様がこれからの余生を大事にされまして、沖縄戦の貴重な体験を通じて反戦、平和の尊さを後進の者に御説諭下さいますよう、御健勝を切にお祈りいたします。       敬具

六月十八日           徳嵩 力

比嘉喜順様

 

比嘉旧姓安里喜順元巡査は「軍」と「民」とのパイプ役で生き証人

※曽野綾子の『ある神話の背景』は、昭和48年5月刊行。

当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏の証言「ある神話の背景」より抜粋)

 「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

 「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

 「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

 「ありません」

 「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

 「そうです」

 「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

 「私へ来るんです」

 「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

 「はい、ずっとです」

 「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

 「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

 古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。(P122~123)

比嘉旧姓安里喜順元巡査証言

『潮』(昭和46年11月号)星雅彦(沖縄在住の作家・詩人)

 「そこで安里(比嘉)巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。

 そのとき赤松隊長は次のように言った。

 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。

 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。

 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。 

 そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。

 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。そして村長からも、同様の伝達が出た。 

 それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」

2につづく⇒

真実史観2渡嘉敷島安里巡査赤松隊長玉井村長座間味島梅澤部隊長宮村幸延の英断

2渡嘉敷島安里巡査赤松隊長玉井村長座間味島梅澤部隊長宮村幸延の英断


比嘉
旧姓安里喜順元巡査(2008年94歳で永眠)証言(昭和63年沖縄県警察史)

当時29歳の安里巡査は事件の僅か2ヶ月前に渡嘉敷島に赴任。ところが、着任の一ヶ月足らずで本島への転勤が決まり、戻るはずが「集団自決に」に巻き込まれた。

 ――辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした――

軍隊任務が国と国民の護り。警察任務は住民の安全と秩序の守りである。島民代表は、安里巡査、村長、助役、校長等であった。島民を守るためのパイプ役安里巡査が、赤松隊長の守備軍に、相談しに行ったのが下記。「防衛隊員」とは、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の「県民は青壮年の全部が防衛召集に参加し全員が防衛にはげんだ」方々で、村の助役や島民が兼任。

 

 ――赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。

 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。

 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談

 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。

 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。

 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。部落から避難して行くときは大雨であった。

 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。

 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。部落を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時部落の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。――

「比嘉旧姓安里喜順、伊礼蓉子らの証言」

「沖縄は日本兵に何をされたか」星雅彦の手記(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)

 村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。

※「防衛隊」とは、前述「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の「県民は青壮年の全部が防衛召集に参加し全員が防衛にはげんだ」人たちで、軍人ではない。

 村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。

 その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)

 

渡嘉敷村玉井喜八元村長証言

軍命で集団自決」は、援護法適用目的で、「国と両隊長関係者」が遺族のために背負った十字架

沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪より抜粋

 以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の抜粋。玉井喜八元村長1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長職。2000年8月79歳で没。

 

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

 ――遺族会発足当時は主として戦没者援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。

 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し戦没者全員戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。――

 

※「両隊長と関係者」の、背負った十字架の重さに気付いた政府も遺族も島民も、皆が「阿吽の呼吸」で、暗黙の了解をし、特殊事情として、「乳幼児を含む」戦没者全員に、「援護法」が適用された。大田実少将「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」等を考慮した、善意の了解で、国も、両隊長同様に十字架を背負い、集団自決も軍命と捏造し、援護法を適用したのだ。なんとすばらしい先人の配慮である。尊敬以外の何ものがあろうか!子孫は誇りとすべし。護国に殉じた同胞の、遺族を配慮こそすれ、とがめる者などあろうか。一人もいなかった!戦後の貧しさの中で皆、助け合って生きていたのだ。

 ところがこれにつけ込んだのがマスコミである、「国が認めたということは、集団自決は軍(国)の命令」と、好いとこ盗りつまみ食い捏造、「軍命で集団自決」と大宣伝し大騒ぎした。

 馬鹿マスコミとニセ識者が馬鹿騒ぎしなければ、誰も傷つく者などいなかったのだ!「言葉と文字界」、似非で詐欺師との白状である!

 

 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。

 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。

※実際に空港で、背広のボタンをも引きちぎる抗議をしたのは、僅か十数名の那覇市の市職労の組合員で、渡嘉敷住民は、赤松氏の慰霊祭参加をこのように歓迎していた。

 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。

※慰霊祭当日、前述の証人伊礼蓉子(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれたが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡らず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託した。

 昭和59(原文53は記憶違い)年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長(赤松)夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。――

 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

 

『ある神話の背景』で真実解明に挑んだ曽野綾子

1971年10月から1972年8月まで、11ヶ月にわたって『諸君』に連載された後、1973年(昭和48年5月)に、単行本として文芸春秋社から刊行された。

 ・・・曽野綾子が赤松元大尉に、「自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」と問うと、赤松・元大尉はこう答えた。手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵(注・前述の、部隊に招集された地元民の成年男子)には、これは正規軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います。

 

 ・・・村民達が自決を始めたなかに4人の女性がいた。手榴弾が不発で死ねなかったので(多くの村民は手榴弾の扱い方を知らな かった)、「敵に突っ込もう」と、4人は部隊の本部に行った。 彼女たちは曽野氏にこう語っている。 A 私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。B 本部のとこに、突っ込みに行ったから「何であんた方、 早まったことをしたなあ」 C 「誰が命令したねえ」 D 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」と言った。

 

 ・・・女子青年団長だった古波蔵蓉子さんの証言。 私は7月12日に、赤松さんのところへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことあるんですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒られて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさいと言って戻された。『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』曽野綾子著

 

 仮想現実界の鑑曽野綾子は知識を鵜呑みせず咀嚼し、不自然さにすぐ気付き、探究し、昭和四十八年に『ある神話の背景』を出版し、軍が命令したという「定説」に決定的な疑問を投げかけた。現在改題され「沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!』となっている、WACが出版。九八○円(税込)。

 

 渡嘉敷島村長の玉井喜八村長と照屋さんが、終戦時に海上挺進隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(昭和五十六年死去)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。

 照屋さんと玉井喜八村長は、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。

 

 真実を語れば村民の「戦後補償」のからくり暴露になるので、語らず。昭和五十六年死去した赤松元大尉の心中は、想像に余りある。今では、赤松元大尉の慰霊蔡が、毎年行われているという。産経新聞2006年08月27日、実名、写真入りで照屋さんの証言を報じた。戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった、元琉球政府職員照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による自決命令ということにし、自分たちで書類を作った」と告白。

 

 大阪地裁で続いている「集団自決訴訟」について、被告側(岩波書店、大江健三郎)にとって不利なことを言っている元琉球政府職員照屋昇雄さん(82)について、経歴詐称だと主張し、証言も信用できないとする沖縄タイムスの記事。他人の経歴を沖縄タイムスと大江健三郎がグルになって捏造した。沖縄タイムスと大江健三郎の捏造  

 「座間味島昭和20年3月26日の集団自決は、梅澤部隊長の命令ではなく、当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命として申請したためのものであります」と昭和六十二年三月、宮村幸延氏の証言一札を梅澤元隊長に入れ謝罪。神戸新聞が取材し、62年4月18日付で伝えている。

 

 産経新聞・平成17(2005)年7月24日[日]沖縄座間味島守備隊長梅沢裕・元少佐(88)と遺族、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)。「自決強制」記述誤り、名誉棄損と大江健三郎氏と岩波書店を提訴へ。同様の家永三郎著『太平洋戦争』(岩波書店)や、中 野好夫著『沖縄問題20年』(岩波書店)は、絶版となっている。

 

 「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが(座間味島)『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにしている。これまで真相が次々と究明されている。渡嘉敷島・座間味島の二人の隊長と関係者は救民のため、すべてを背負い戦後生き、生きた。まさしく日本精神だ。言葉遊びの非常識愚民鵜呑み知識の大江、家永や鵜呑み知識を撒き散らす朝日新聞社や三鵜人などには所詮、理解できないだろう。今でも撒き散らしている。製造業で嘘を撒き散らし造れば、雪印・不二家のように、瞬時に存亡の危機にさらされる。嘘を撒き散らし続ける報道業も同様に、制裁を受けるべきだ。母の遺言 宮城 晴美 

 

 下記は、現行の高校生用歴史教科書(東京書籍・日本史B)の記述である。同様の記述は、(日本書籍新社の中学社会)・(実教出版の高校世界史B)・(三省堂の高校日本史A)・(高校日本史B=桐原書店)・(高校日本史B=東京書籍)にもある。いずれも、検定をパスしている。

 「戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり・・・」

 

 教科書から至急削除し、教師は事実を教えよう。 

 

 護国に殉じた同胞の遺族を配慮こそすれ、とがめる者など皆無。戦後、国も元兵士も皆呼応し配慮した。配慮を悪用し、「国が認めたということは集団自決は国(軍)の命令」と捏造、「軍命で集団自決」と大宣伝し大騒ぎした。軍、民が団結し赤心の真情あふるる先人を、戦陣訓を捏造し「極悪加害者軍人」対「か弱い被害者国民」にしたのが、大江や朝日などの米軍負い目払拭用洗脳宣伝迎合者だ。対比がきわだつ。侵略者米国に追い詰められこの悲劇となったのだ、悲劇の起因は侵略者米国、護国の軍人ではない。

 

 沖縄根拠地隊司令官大田実少将も、沖縄県民斯ク戦ヘリと軍民一丸の戦いを証言し、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲと沖縄県民遺族への配慮を願い打電後、自決している。軍命令とせずとも援護法適用は妥当である。にもかかわらず軍命令としたのは、そのほうが即決できたからだろう。かくして女子供までが虜囚の辱=降伏禁止の訓えに従い、軍命令で自決したという物語が戦後善意で創作された。悪意に捏造したのがマスコミである

 

マスコミの捏造が暴かれ現われた真実

慶良間で何が起きたのか③ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔
 2012年4月八重山日報(段落加筆)

―神もおののく集団自殺

 僕は一九八五年、タイムス紙上でアメリカ第10軍のG2情報部のG2サマリーを中心にした「沖縄戦日誌」を連載し、その中でニューヨーク・タイムズの報道する渡嘉敷住民の〝集団自殺〟を発表した。その要旨に次のようなものだった。

 

 神もおののく集団自殺―三月二十九日発。

 昨夜我々第77師団の隊員は、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイルほど離れた山地から恐ろしいうめき声が聞こえてきた。手榴弾が七、八発爆発した。偵察に出ようとすると闇の中から狙い撃ちにされ、仲間の兵士が一人射殺され、一人は傷を負った。我々は朝まで待つことにした。その間、人間とは思えない声と手榴弾の爆発が続いた。

 ようやく朝方になり、小川に近い狭い谷間に入った。

 何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけだった。

 そこには二百人ほどの人がいた。(注:第77師団G2リポートは二百五十人と記録している。)そのうちおよそ百五十人が死亡、死亡者の中に六人の日本兵(※)がいた。死体は三つの小山の上に束になって転がっていた。およそ四十人は手榴弾で死んだと思われる。周囲には不発弾が散乱していた。木の根元には、首を絞められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。母親だと思われる三十五歳ほどの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、前かがみになって死んでいた。自分で自分の首を絞め殺すことは全く信じられない。小さな少年が後頭部をV字型にざっくりと割れたまま歩いていた。

 軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを注射し、痛みを和らげてやった。全部で七十人の生存者がいたが、みんな負傷していた。生き残った人々はアメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると、驚きの目で感謝を示し、何度も頭を下げた。

 「鬼畜米英の手にかかかるよりも自らの死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今、気づいたのだろう。自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。

 数人の生存者が一緒に食事をしているところに生き残りの日本兵(※)が割り込んできた時、彼らは日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵が保護してやった。なんとも哀れだったのは、自分の子供たちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から、泣き崩れた。――

 以上が一九四五年四月二日のニューヨーク・タイムズが報じた渡嘉敷住民の集団自殺の要旨だ。だが、僕はこの記事を公表した時点で気付かなかったが、※印を附した日本兵とは実は防衛隊員であったことを知ったのは一九九五年春と夏に渡嘉敷島に渡って現場調査をした時だった。アメリカ兵には日本兵と防衛隊員の区別がつかなかったのだ。

 その前年の一九九四年、僕は戦後五十周年に沖縄を訪れるアメリカ人遺族関係者を迎えるため「おきなわプラス50市民の会」を組織し、その活動の中でデイブ・ダーベンポートさんから渡嘉敷の「集団自殺」を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を入手した。それは衝撃的なものだった。一九九六年六月、僕はそれを「沖縄戦ショウダウン」と題して琉球新報紙上で発表した。その一部を次に紹介しよう。

 

 ――1945年4月27日夜明け、僕たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で三人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。

 その途中、小川に出くわした。川は干上がり、広さ十メートル、深さ三メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや、住民の中で手榴弾が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて百人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。

 年配の男たちが小っちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にしている大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々、爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるのでこちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。医療班がかけつけ、全力を尽くして生き残った者を手当したが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。――

 この阿波連のウフガー上流の集団自殺については、いかなる沖縄戦の本にもなく、タイムスも新報も全く触れていない。だが、第三戦隊陣中日誌は記す。「三月二十九日―悪夢のごとき様相が白日眼前に晒された。昨夜より自決したる者約二百名(阿波連においても百数十名自決、後判明)」。グレン・シアレスさんの手記を見事に裏付けている。

3につづく⇒

真実史観3沖縄県民斯ク戦ヘリ・祖先神と成りても護らんは唯心同胞への発信

3沖縄県民斯ク戦ヘリ・祖先神と成りても護らんは唯心同胞への発信

2012年4月29日八重山日報 

慶良間で何が起きたのか④ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

現地調査で知った意外な事実

 一九九五年夏、僕は渡嘉敷の金城武徳さんに案内され、島の最北端「北山(ニシヤマ)」に向かった。だが、金城さんは、ここは北山ではなくウァーラヌフールモーで第一玉砕場と呼ばれていると説明した。僕は『鉄の暴風』で植え付けられた自分の思い込みに呆れたが、さらに驚いたことに、金城さんと大城良平さんは「赤松隊長は集団自決を命令していない。それどころか、村の人たちから感謝されている。」と言うのだ。

 そこで『鉄の暴風』で隊長の自決命令を伝えたとされている比嘉(旧姓安里)喜順さんに会って事件を聞くと「私は自決命令を伝えたことはない。赤松さんが自決命令を出したとする。『鉄の暴風』は嘘ばかりです。世間の誤解を解いて下さい。」と言う。

 知念朝睦さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。

 渡嘉敷村史、沖縄県史など様々の証言を徹底的に検証した結果、次のような住民の動きが浮上した。 ―三月二十七日、村の防衛召集兵は前夜から「敵が上陸して危険だから北山に移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。渡嘉敷村落の西側の避難場所北山には古波蔵村長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。(前年の村の人口は一四四七人であることに注意。)

 そこで古波蔵村長、真喜屋前校長、徳平郵便局長ら村の有力者会議が開かれ、「玉砕のほかはない」と皆、賛成し玉砕が決められた。

 一方、赴任したばかりの安里巡査は村民をどのように避難誘導しようかと考え、軍と相談しようと思い、赤松隊長に会いに行った。安里巡査が赤松隊長に会うのはこれが最初だった。赤松隊長は「私達も今から陣地構築を始めるところだから、部隊の邪魔にならない場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言した。安里巡査は古波蔵村長ら村の有力者にそのように報告した。

 ところが防衛隊員の中には既に妻子を殺した者がいて、「このまま敵の手にかかるよりも潔(いさぎよ)く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」言い出して、先に述べたように、村の有力者たちは集まって玉砕を決行しようということになった。

 防衛隊員も住民も既に平常心を失っていた。早まるな、という安里巡査に耳を傾ける者はいなかった。防衛隊員らは「赤松隊長の命令で、村民は全員、陣地裏側の北山に集まれ。そこで玉砕する」とふれ回った。住民は皆、死ぬことに疑問はなかった。

 最北端のウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬのだ。砲弾を雨あられと降らしている恐ろしい鬼畜は今にもここにやってくるのだ。

 夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。村長は北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と演説し、「天皇陛下万歳」と叫んだ。皆もそれに続いて両手を挙げて斉唱した。

 村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。石に叩きつけても爆発しない。見かねた真喜屋校長が「それでは私が模範を見せよう」と手榴弾のピンを抜くと爆発し、その身体が吹き飛んだ。

 狂乱した住民は我も我も手榴弾のピンを抜いた。だが、不発弾が多く、爆発しないのが多い。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と防衛隊員の誰かが言った。村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい。」と先頭に立って、三百メートルほど南に構築中の部隊本部壕に向かった。

 住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。

 その時、アメリカ軍の砲弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。本部陣地では仰天した兵士らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して下さい、と懇願する少女もいる。赤松戦隊長は防衛隊に命じ、事態を収めた。

 住民らはスゴスゴと二手に分かれて退散した。だが、午後八時過ぎ、ウァーラヌフールモー(第一玉砕場)に戻った住民らは「神もおののく集団自殺」を続行し、陣地東の谷間(第二玉砕場)に向かった金城武徳さんらは生き残った。そこでは、〝玉砕〟は終わっていたからだ。

 陣中日誌は記す。「三月二十八日午後八時過ぎから小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。(中略)三月二十九日、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で首を切断したる者、戦いとは言え、言葉に表し尽くしえない情景であった。」

 

 一九九五年取材した元防衛隊員の大城良平さんは語った。「赤松隊長は、村の指導者が住民を殺すので、機関銃を貸してくれ、と頼んできたが断った、と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう」。

 

 同じく比嘉喜順さんは語った。「赤松さんは人間の鑑(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために泥をかぶり、一切、弁明することなく、この世を去ったのです。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい」。

 

 僕はこの時点で「赤松さんは集団自決を命令していない」と確信した。だが、大きな謎が残った。なぜ、渡嘉敷の人たちは公(おおやけ)に『鉄の暴風』を非難し、赤松さんの汚名を雪(すす)ごうとしないのだろうか。その答えは突然やってきた。

 

2012年4月30日八重山日報 

慶良間で何が起きたのか⑤ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

パンドラの箱を開けた宮城晴美さん

 一九九五年六月下旬、沖縄タイムスの文化欄に座間味出身の宮城晴美さんが「母の遺言―切り取られた〝自決命令〟」を発表した。凄まじい衝撃波が走った。座間味村女子青年団長であった晴美さんの母初枝さんは、戦後、『家の光』誌で「住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人、子供は村の忠魂碑前に集合して玉砕すべし、との命令が梅澤裕隊長から出された」と記していたが、その部分は〝嘘〟だった、というのだ。

 「母はどうして座間味の〝集団自決〟が隊長命令だと書かねばならなかったのか」晴美さんは説明している。

 

 ―一九四五年三月二十五日。その夜、初枝さんに「住民は忠魂碑の前に集まれ」と伝令の声が届いた。初枝さんはその伝令を含め、島の有力者四人と共に梅澤隊長に面会した。意味もわからぬまま、四人に従っていったのだ。

 有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「最後の時がきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」というものだった。初枝さんは息も詰まらんばかりのショックを受けていた。隊長に〝玉砕〟の申し入れを断られた五人はそのまま引き返した。初枝さんを除いて四人はその後自決した。

 

 梅澤さんはこの場面について大城将保さんへの手紙(一九八六年三月の沖縄資料編集所紀要)の中で次のように記している。

 「二十五日夜十時頃、戦備に忙殺されていた本部壕へ村の幹部が来訪してきた。助役宮城盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏および女子青年団長宮平(現宮城)初枝さんの五名。その用件は次の通りであった。

 一、いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。

 二、老幼婦女子はかねての決心の通り、軍の足手まといにならぬよう、また食料を残すため自決します。

 三、つきましては一思いに死ねるよう、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。

 私は愕然とした。私は答えた。

 一、決して自決するでない。軍は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食料を運んであるではないか。生き延びて下さい。共にがんばりましょう。

 二、弾薬は渡せない。しかし、彼らは三十分ほども動かず、懇願を続け、私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開されたので、彼らは急いで帰って行った。」

 

 晴美さんのコラムは梅澤さんの手記が正しかったことを裏付けたのだ。戦後、沖縄に援護法が適用されることになったが援護法は本来、軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。そこで村当局は「隊長の命令で自決が行われており、亡くなった人々は戦争協力者として遺族に年金を支払うべきだ」と主張したと初枝さんは晴美さんに残した手記で記していたのだ。

 

 そうか、そうだったのか。僕の目の前で霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。

 厚生省は、一般住民の戦死者でも、戦闘に協力した者には「年金」を支給するという条件を出してきたため、座間味だけではなく、渡嘉敷でも「隊長命令により自決した」ことにせねばならなかったのだ。

 宮城晴美さんは正にパンドラの箱を開けてしまった。「母は関係者が存命しているうちは発表してはならないが、いつか必ず真相を発表してくれ」と晴美さんに遺言していたが、晴美さんは母の遺言に背いて、新聞で発表した。

 『母の遺したもの』という本を出版し、時の人となったが、村の関係者から「余計なことをした」とさんざん叱られる羽目になり、本を書き換えたり、裁判に出ては涙ながらの証言をしたり、パンドラのようにひどい目に遭っているようだ。

 パンドラの箱から飛び出したものが元に戻らないように、彼女が告白した衝撃の真実は変わらない。パンドラの箱からこの世の全ての悪徳が飛び出した。宮城晴美さんは真実の扉を開けた。パンドラの箱には希望が残ったが、晴美さんの箱には知りたくない真実が残った。だが、少なくとも僕の眼の前の霧を払ってくれた。心から感謝している。

 

 二〇〇六年一月、産経新聞は、琉球政府で援護課業務に携わった照屋昇雄さんに取材し、「遺族たちに戦没遺族援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。

 当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言を得た。照屋さんは「嘘をつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と涙ながらに語った。

 ところが、沖縄タイムスは「照屋氏は一九五七年には援護課に勤務していないという証拠がある」と産経新聞の「誤報」を報じたが、後日、照屋さんは大切に保管していた一九五四年の「任命書」を提出し、この問題は結着したが、タイムスがこの失態を報ずることはなかった。タイムスも新報も重要証人の照屋昇雄さんに一切取材していない。

 

 梅澤さんは前記の手記の終りに記している。

 「座間味島の軍命令による集団自決の通説は村当局が厚生省に対する援護申請のため作製した『座間味戦記』および宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島』の手記が諸説の根源となっている」。

 初枝さんが梅澤さんに「本当にごめんなさい」と謝った時、梅澤さんは感涙したとのことだ。

 

2012年5月1日八重山日報 

慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 赤松さんは一九七〇年三月二十六日、渡嘉敷村民に招かれ合同慰霊祭に参加する目的で那覇空港に着いた時、抗議団の怒号の嵐の出迎えを受けた。「何しにノコノコ出てきたんだ。」「人殺しを沖縄に入れるな」「赤松帰れ」のシュプレヒコールが浴びせられた。

 赤松さんは結局、渡嘉敷に上陸することはかなわなかった。沖縄で殺人鬼と面罵され、故郷に戻ると、事件を知った娘から「お父ちゃんはなんで沖縄の人たちを自決に追いやったのか」と責められた。赤松さんは「娘にまで誤解されるのは、何としても辛い」と記している。

 読者は赤松さんの人格について知らないものと思う。赤松さんの「ひととなり」を伝える二通の手紙を僕は一九九五年比嘉(旧姓安里)喜順さんから預かったが、それをここで紹介しよう。

 一九七〇年四月二日付の赤松さんからの比嘉さんへの手紙は次のように綴っている。

 ――今度の渡沖については全く合点が行かず、なんだか一人相撲を取ったようで釈然と致しません。

 ――村の戦史については軍事補償その他の関係からあの通りになったと推察致し、できるだけ触れたくなかったのですが、あの様な結果になり、人々から弁解のようにとられたことと存じます。しかしマスコミも一部不審を抱いているように感じられましたので、いつか正しい歴史と私たちの善意が通じることと信じております。――

 四月十七日付の手紙は次のように伝えている。

 ――安里さんにはあのような俗説の流布されている中、ただ御一人で耐え忍び、ご心中のほどご察し申しあげております。

 ――先日、元琉球新報の記者より手記を書いてくれ、と言われ、聞いたところによりますと、現在マスコミの半分ほどは赤松さんを信じていると申されておりましたが、一度世に出し、これほど流布されてからでは難しいだろうから郷友会などを取材して新たに真実のものを出したらどうかと言っておきました。

 いづれにしても、私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待し、努力しております。一日も早く沖縄の人々にも理解していただき、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように、次の世代の人々が憎しみ合うことなく本土の人々と仲よくやってゆけることを祈ってやみません。

 安里さんも機会をつくって、ぜひ本土に来てください。皆、歓迎してくれると思います。また子供さんの勉学につきましても私たちをご利用下さい。いくらかでも戦時中のご恩返しができれば幸甚です。奥様はご病気のとのことですが、その後いかがですか。すでに沖縄は暑いと思いますので御自愛専一のほどお祈り致します。 敬具 赤松嘉次

 

 これが慶良間の〝集団自殺(集団自決という言葉は伊佐良博記者の創作であると、本人が記している)の真相だ。

 だが、沖縄タイムスの『鉄の暴風』は今も発行され続け、次のように伝えている。

 ――恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査(安里喜順さんのこと)も一緒だったが、彼は「自分は住民の最後を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」と言って遂に自決しなかった。…赤松大尉は「軍として最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は全ての食糧を確保して、持久態勢をととのえ、敵と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。

 ――座間味の戦隊長梅澤少佐は米軍上陸の前日、忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。住民が広場に集まってきたその時、近くに艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長はじめ役場吏員などその家族は各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。…日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた。――

(※百人斬り、毎日新聞記者(浅海一男鈴木二郎)、朝日新聞記者(本多勝一)、大江健三郎沖縄ノート)等は、ペンの殺人者である

 この記述には真実の一カケラもないことは誰の目にも明らかだろう。正に「見てきたような嘘」でしかない。ノーベル賞作家の大江健三郎はこの『鉄の暴風』の記述をそのまま信じ、『沖縄ノート』で旧軍指揮官を糾弾したのだ。

 人は誰であれ、己の目の高さでしか物を見ることができない。だから、信じたいことを信じ、自分に都合のよいことを信じてしまうのだ。だが、慶良間の〝集団自殺〟については赤松嘉次さんと梅澤裕さんが命令したことはないことははっきりしている。

 

人間の尊厳を取り戻す時

 僕は一九九六年六月琉球新報の『沖縄戦ショウダウン』の中で言明したが、もう一度ここで述べよう。

 ―沖縄の新聞、特に沖縄タイムスの責任は限りなく重い。そして一人の人間をスケープゴート(生贄)にして、〝集団自殺〟の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。

 僕は長い間、赤松さんと梅澤さんは〝集団自殺〟を命令したとの先入観を拭い去ることができなかった。真実が明らかになった今、赤松さん、梅澤さん、そしてご家族の皆さん本当にご免なさいと謝罪しよう。そして今、僕は一つ脱皮して一つ大人になることができた。

 

 2011年10月中旬、ぼくは兵庫県を訪れ、赤松嘉次さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。ぼくには神も仏も遠い存在だったが、長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。

 

 だが、大きな問題が残されている。自分の親、子、兄弟を殺して遺族年金を受け取っていることは誰も語りたくないし、語れないものだ

 

 僕は知識人でもなく、文化人でもなく、宗教家でもなく、道徳家でもない。だが、僕は知っている。自分が愛する家族に手をかけた者はいつまでも忘れず、心を痛めているのだ。だが、それを軍隊のせいにしたり、国の教育のせいにしたり、他人のせいにしてはならない。ましてや、無実の軍人のせいにしてはならない。自分のこととしてとらえない限り、心が癒されることはないのだ。そして、赤松さんと梅澤さんとそのご家族にきちんと謝ることだ。誰も彼らを責める者はいない。

 実際、座間味で母親に首を切られたという青年は「母親を恨んでいるか」との質問に、「そんなことはありません。母を心から愛しています」ときっぱり答えた。赤松さんも梅澤さんも心の広い人間だ。きっと許してくれるはずだ。いや、きっと「ありがとう」と言ってくれるだろう。それが人間の尊厳を取り戻すということだ。僕はそう信じている。(おわり)

 

「祖先神と成りても護らん」

 島の生活は、共産の極致「助け合い」である。尼港、済南、通州、サイパン等の「生き地獄」がトラウマとなっており、誇り高き唯心には、捕まっての嬲り殺し、「生き恥晒し」が最大の屈辱であったと推測される。護国軍の足手まといになるのを避けた一島心中ともいえる。金子みすずは子供を残し、八田与一の妻外代樹も8人の子供を残し、広田弘毅の妻静子も、夫の裁判開廷以前に、自裁している。戦前と戦後の死生観の違い、戦時下を考慮して紐解かなければならない。皇国史観善悪史観などは全くのナンセンス。たとえば、「祖先神と成りても護らん」といったような、もっともっと深遠なものである。一家無理心中の、親の子殺しは平和時の現代にもあるが、ましてや死生観が異なる戦時下、平和時の善悪では、とうてい計り知る事など出来得まい。

 先人は無駄死になどではない。最後の最後にたった一国で世界征服立ちはだかり、自立自存護国戦争に挑んだ。同胞完全覚醒まで持ちこたえる事が出来得ず、新秩序の魁は成したが、戦いには敗れた。がしかし、完全覚醒し追随した同胞が、戦争目的を果たした。唯一残ったのが、凶産完全破壊のみである。

 これほどまでして護るのが護国と、人類に知らしめた結果、人類は敵味方皆覚醒し、人類開闢以来の悪弊、弱肉強食を破壊、1960年「植民地独立付与宣言」で、日本の戦争目的、「互恵・平等・自由貿易」を反対者ゼロで成し遂げた。

 現代の平和は、護憲派が掲げる九条などでは決してない。たとえ敗れても、古今東西未曾有のこうした先人の血と汗と涙が、人類同胞唯心の琴線を揺さ振り、成し遂げ得たものなのだ。ただ敗れてのただの白旗降伏なら、人類の完全覚醒追随など、当然なかった。先人の戦い、敗れても、そこには勝者をも共振させる「何か」があった。日本惨敗のインパール作戦もそうである。英国軍マウントバッテン将軍は、「日本は敗れたが、そこには何かが残った」と語った。

 「神もおののく集団自殺」と侮蔑した戦勝国の記事ばかりではなく、共振した下記のような記事も有るのだ。

 「日本の在留邦人の一部には、自らその命を絶つまえに、相当の儀礼をとり行うものがあった。その一例として、三名の日本人の女性が、まるでテルモビレーの決死の陣にのぞんだレオニダス将軍と部下のスパルタ軍勢の流儀に似て、岩頭にゆうゆうと座ってその長い黒髪を落ち着いて櫛けずりつつあった光景には、さすがの海兵たちも、呆然と驚異の目を見張って見守るばかりであった。それから最後にこれらの女性は、それぞれ両手を合わせて祈りながら、しずしずと海の中へ歩いて行き姿を消したのである」。「サイパン日記(5最後の玉砕攻撃7月11日)」ロバートシャーロッド著中野五郎訳世界ノンフィクションVerita24の12筑摩書房。

 1960年「植民地独立付与宣言」を成したのは、このように共振した、唯心の方々なのだ。

 記事や手記には米軍が、救難軍のようにも書かれているが、島民が健康体で寄り添ってただ避難していただけなら、完全な敵とみなされ何をされたか判らない。悲惨さに驚き(無抵抗と確実に判断出来得る状態。「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」の状態だった)救護したが、健康体であったなら、又、別の展開(映像でおなじみのごとく沖縄でも、サイパン同様洞窟への火炎放射で焼き殺した)となっていた。それが戦場である。記事だけで、米軍は救難軍島民無駄死に判断は、平和時の、早とちり思考の典型で、余りにも短絡すぎるのだ。

 このような先人のおかげで平和を与えられた子孫は、「助け合い唯心の民日本人」である。「自分の親、子、兄弟を殺して遺族年金を受け取っていること」など、憐憫の情浮かびこそすれ、とやかく言う非国民など居ない。余人には計り知れぬ体験の遺族には、ただただ、「癒やして欲しい」と願うばかりである。

 他人へ責任転嫁しての非難遺族は、まさしく「親の心子知らず」、先人の思いに反する冒涜である。平和時の常識で考えるから解らないのだ。ワルシャワゲットーもワルシャワも、サイパンも、沖縄も全く同じである。戦時下には戦時下の常識がある。死生観が戦時下では異なる。「集団自決」も、「そこには何かが残った」の、一つである。「国を護る尊さを人類に知らしめた!」。

 「沖縄県民斯ク戦ヘリ」のごとく、強い思いで護国に励んだことは間違いの無い事実である。これを誇りに、他人に責任転嫁することなく、生きて欲しい。生き証人として、護国の神髄(祖先神と成りても護らん)を、人類に知らしめんがために!

※自裁の一因、トラウマ参照⇒軍命は捏造米軍急追で集団自決とらうま尼港済南通州等で潔く自裁が真相 さいぱん陥落後512日戦い降伏命令書で下山した大場隊47人 

4につづく⇒

真実史観4沖縄県民よ凶産スパイ鵜呑みせず立派な親から授かった子孫の頭で考えろ

4沖縄県民よ凶産スパイ鵜呑みせず立派な親から授かった子孫の頭で考えろ


日本軍と沖縄県民の離間を狙った米軍
沖縄侵攻作戦「アイスバーグ作戦」

 これは、1944年10月から情報部内に心理作戦チームを編成し、沖縄戦を有利に進めるための「心理作戦」(プロパガンダ)の検討を開始した。そのアイスバーグ作戦によると、沖縄人と本土の日本人との間にあるヒビを利用すること、つまり、「沖縄人」は日本人ではないと強調することによって、日本軍と沖縄県民との間に楔を打ち込み、その結果、沖縄県民を沖縄に侵攻する米軍の味方にしようとしたのである。米軍は、1945年3月末の上陸と同時に、25種類・800万枚もの宣伝ビラを投下した。それには次のようなことが書かれていた。

 「この戦争は皆さんたちは関係ないではありませんか。皆さんたちは戦いたくない。しかし、思い掛けもない苦労や損害を受けています。(中略)内地人は皆さんたちに余計な苦労をさせます。・・・・・・日本兵が沖縄の人々を殺したり、住家をこわしたりしている事は皆さんたちに明らかででしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯貴方達は、内地人の手先に使われているのです」(4月4日の投下ビラ「沖縄県史」資料編2)こういったビラは、明らかに日本兵(内地人)と沖縄県民の心理的離間を狙ったものである。沖縄県民を被害者、日本軍を加害者に仕立てて、両者が対立するように仕向けたのである。米軍の作戦は沖縄県民のこころをとらえ、現在に至っている。まさに大成功である。

沖縄新聞社の生い立ち

 沖縄は、1972年(昭和47年)5月15日に本土復帰するまでの27年間にわたって統治された。

 1945年7月25日、占領下の沖縄で初めての新聞「ウルマ新報」(現在の琉球新報)が創刊されたが、この新聞は、全て米軍政府の検閲を受け、事実上、米軍の広報宣伝紙であった。

 集団自決が軍の命令であったと記事にした沖縄タイムス創刊号「1948年(昭和23年)7月1日創刊」で社長高嶺朝光の言葉。

「我々は、アメリカの暖かい援助のもとに生活している。この下に津を正しく認識することは取りも直さず、アメリカの軍政に対する誠実なる協力者であり、また、これが沖縄を復興する道である」。このように、軍政府の言うがままになるしか、方法がなかった。

洗脳の成果

 「鉄の暴風」の初版にはあるが、第二版以降は削除されたまえがき。

 「われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を越えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護されあらゆる支援を与えられて、厚生第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」。

 沖縄での「真相はかうだ」という放送で、「鉄の暴風」は毎日のように朗読された。これは、米軍の宣伝図書である事を物語っている。

 

沖縄県議会議長新垣登太氏から、軍政府副司令官ムーレー大佐に出された1946年4月16日付けの感謝状。

 「・・・米軍政府の心暖まる御援助により地元民に衣食住が与えられ、我々は徐々に心の平静さを取り戻しつつあります。我々は米軍政府に対する深い感謝の念に心動かされて居ります。よって我々は、米軍政府に協力し、沖縄の自治再建に身を捧げんとするものであります。・・・全ての沖縄人は深甚な感謝の念を抱いて居ります。これもひとえに、軍政府に負うものであります。・・・元沖縄県会の議員を代表し、ここに深い感謝の意を表すものであります」。(沖縄県史 資料編2 和訳篇)

「白旗の少女」は日本兵の盾と工作員捏造

 「白旗の少女」は、当時6歳の少女が沖縄戦で兄を失い姉二人とはぐれ、さ迷い生き抜いて、知り合ったじいとばあに促され、たった一人で白旗を掲げ投降した実話である。

 米国記録映画「白旗の少女」の後方に兵士が映っている。工作員はこれを、「白旗の少女を盾にして降伏した日本兵」と捏造。捏造はコピペされ拡大、絵本やアニメ等で拡散し大騒ぎ。あまりの捏造に、「別れ道で合流、偶然一緒になり前を歩いただけで、兵隊さんに申し訳ない」と、「白旗の少女」著者比喜富子は、同書で詫びている。少女の心無視、唯心無き唯物、それが工作員である

沖縄戦集団自決は軍命令(戦陣訓)とつまみ食い愚民洗脳された11万6千人(とんでもない捏造。真実は1万8千人だった)の集会

 都内の警備会社が、9月30日付「琉球新報」掲載の航空写真を拡大し、1人ずつ数え上げたもの。その結果、参加者は視認可能部分で1万8179人、建物や木陰に隠れている人数を推定しても1万9000~2万人に過ぎないことが判明した。沖縄県民大会「1万8千人」 沖縄県民大会「1万8千人」 自民歴史教育議連
 

 参加者数をめぐっては日本会議熊本が、同様に琉球新報の写真をもとに1万3037人だったとする調査をまとめている。また、沖縄県警は4万人程度との見解を示しており、主催者発表の11万人という数字が誇大である可能性がさらに高まったといえる。日本会議
 

 航空写真空きスペース有。会場の面積は約2万5000平方メートル。11万6千人÷2万5000㎡=1m×1mに4.64人は座れない。4万人÷2万5000㎡=1m×1mに1.6人はすし詰めだ。2万5000㎡÷1万8千人=1.39㎡。1.18m×1.18mに一人座して1万8千人。2万5000㎡÷1万3千人=1.92㎡。1.38m×1.38mに一人座して1万3千人。幼児や未成年者も混在している。沖縄県民大会の参加者数は二転『4万人』三転したが、視認数、1万3千人~1万8千人を正式参加者数とするのが妥当なようだ。それにしてもとんでもない捏造だ、危うく愚民化洗脳されるところだった。視認確認の皆様ありがとうございました。狂惨=捏造の証拠だ)2007.10.18.

 

報道テロ(少数思想の大多数思想破壊=多数決決定民主主義の破壊)を繰り返すマスコミ

2012/09/09(日)
 「米新型輸送機オスプレイの普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)への配備に反対する県民大会が9日、同市の宜野湾海浜公園で開かれた。主催者発表によると、参加者は10万1千人」。

 朝日のみならず、軒並み同様(主催者発表によると、参加者は10万1千人)報道。宜野湾海浜公園は大目に見ても150m×150m=22500㎡。その内、5分の1が空き(主催者スペース)なので、実質面積18000㎡。1㎡に1人の1万8千人以下(1万人前後)が妥当な人数で、1㎡に4人(50㎝角に1人)でも7.2万人なのに、「10万1千人」など実数の10倍越えで、法外な捏造である。

 沖縄県総人口1,408,000人の内の、実数は、わずか10,000人(0.7%)にすぎない。主催者と報道はグルで、どうしても7%(10万1千人)にしたかったようだ。ちなみにこの1万人は、毎度お馴染みの反対者人数である。

 これは、職責不履行(無検証)御用聞き(責任逃れ)「嘘もたれ流し」マスコミの、多数決決定民主主義破壊の、テロである!

 

 高校日本史の教科書検定問題とは、「戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍に集団自決を強いられた(沖縄県民は日本軍に殺された)」とする現行の記述を、「(侵略者米軍に)追い詰められて、集団自決(侵略者米軍に殺された)をした」に来春(2008年)から書き改めること。

 

 この大会で「集団自決が日本軍の関与なしに起こりえなかったことを伝えるのは我々の債務」とする決議を採択した。売国奴扇動者民主党の菅代表代行は、沖縄県宜野湾市での集会に出席したあと、記者団に対し、政府に検定のやり直しを求め、受け入れられない場合は、参議院での国会決議も視野に対応していくと、見栄を切った。呼応して市民団体による集会が各地で開かれた。2007年9月27日

 

 沖縄県知事挨拶主旨・・・激烈な地上戦の体験は、沖縄県民の心に戦争の恐怖と醜さを焼き付け、最愛の家族や友人を失った悲しみは今日でも癒えていない。沖縄戦の「集団自決」に日本軍が関与したことは、当時の教育を含む時代状況の総合的な背景や、手りゅう弾が配られたとの証言から、覆い隠せ無い・・・

 

 こういう集会に参加するには善意の心と金と暇が無ければ参加不可。参加者を画面で検証すると、年金生活者(大金持ちではないが生活には困らず、なにかしらの善を成そうとしてる人。高級公職者でない、公職者が多い)がほとんどで、そして子供だ。いつもの顔ぶれだ(九条の会会員も同様だ)。売国奴扇動者やNHK、朝日、毎日はこの世間ずれしていない白紙の善男善女を洗脳する。

 戦争は悪、悪をした軍人は皆極悪人、か弱き市民は極悪軍人に自決を強いられ自決した。極悪軍人と、か弱き善良な市民の対立とつまみ食いし洗脳する。そしてか弱き善良な市民の味方が我々(売国奴扇動者やNHK、朝日、毎日)だと結ぶ。世間ずれしていないので、自己検証無しで瞬時に洗脳され、扇動者となる。こうして対侵略者との自衛戦争、対狂惨党との反共戦争は覆い隠されてしまうのだ。

 

 いつの世も一家心中に子供を巻き添えにするのは、親だけ死ぬと残された子供が不憫だと親が一方的に考えるからだ。殺される子供にとっては不可解なことだ。集団自決の被害者と称する人の証言(当時子供)がある。自分を殺そうとした親を全く理解できず、本当は優しい親だが極悪軍の命令により仕方なく親は殺そうとした、そうさせたのは日本軍と証言する。無理からぬことだ。がしかし、その証言は真実ではない。

 

 大田少将「人の将(まさに)に死なんとするや、その言や善し」沖縄県民斯ク戦ヘリより検証しよう。手りゅう弾が配られたとの証言。「県民は青壮年の全部が防衛召集に参加し全員が防衛にはげんだ」青壮年の全部が何がしかの防衛用の武器は持っていた。手りゅう弾が、武器に不慣れな青壮年の市民には、一番手短な武器だったので前述のように配られた。

 

 沖縄県民斯ク戦ヘリには軍も民も無くまさしく団結した戦いであったことが述べられ、軍を代表して沖縄県民に深謝し、日本国の子孫へ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲと託している。沖縄戦死亡者、軍隊9万人、県民12万人。

 

 自らの強い意志が無ければ死ぬことは不可。抗議集会参加者は、日本軍に集団自決を強いられて集団自決したと主張している。よく考えてください、抗議集会参加者は集団自決を強いられればみな自決するのですか。あなたがたは自決命令されれば死ぬと言っているのですよ。あなたがたは自決命令で本当に死ぬんですか。よく考えてみてください。私は命令では死にません。あなたがたも死ねないのなら、先人も同じです、命令では死にません。

 

 ではなぜ死んだか。必死になればなるほど、敗戦による反動は大きく跳ね返える。軍民、いかに人事を尽くして戦ったかの証しだ。終わりは、気力も体力も全て燃やし尽くして灰となった。自殺とは異なる。玉砕は自殺ではない、気力も体力も全て燃やし尽くした証し、それが玉砕だ。それを軍命令の自決とは何たる子孫のネジレだ。沖縄県民斯ク戦ヘリは語った、民は軍のロボットなどではない、軍と同様もしくはそれ以上に国を想い、自らの意志で戦ったと。先人沖縄県民はあなた方子孫が主張する、愚かな操り人形などではない、愚かな皇民化ロボットなどではない、先人冒涜はやめましょう、醜い。再度問う、あなたがたは自決命令で本当に死ねるんですか。私は命令ではけして死にません。

 

 侵略者アメリカが追い詰めたから力尽きて自決となったのだ。アメリカが侵略しなければ、追い詰めなければ自決はなかった。自決の原因はアメリカの侵略で、護国の兵ではない。本末転倒して捏造するな。

 

 11万6千人(真実は1万8千人)の集会先人沖縄県民は軍の愚かな操り人形で、愚かな皇民化ロボットで、日本軍に死ねと命令され死んだことを伝えるのは我々の債務」とする決議を採択(2007年9月27日)したと言う、何と愚かな子孫なのだ。私欲達成のため、先人を冒涜し政争の具にし、白紙の善男善女を捏造洗脳する、この輩ほど醜いものは無い。白紙の善男善女を扇動したこの団体は、全員詐欺師だ。

 

 訓や命令に従わなくとも、罰するものはもういない死語と化した訓や命令で、読者のみなさん、自決しますか。自決は自らの強い意志が無ければけして出来るものではないでしょう。常識があれば分かることだ。

 

 沖縄の善男善女よ、沖縄の先人は子孫のあなた方が主張するような、愚かな皇民化ロボットなどではない。沖縄県民斯ク戦ヘリを再読し覚醒するのだ。先人は侵略者宗主国とアメリカに対し、軍民一丸の護国の戦いを挑み、燃え尽きて果てた。沖縄県民斯ク戦ヘリと、沖縄県民のほとばしる護国への思いを述べ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲと、沖縄県民への子孫の配慮を訴え、結んでいる。「公」に生き「公」に死んだ先人を愚弄する、11万6千人集会(総人口の8.5%。沖縄県人口135万3212人・2003年)(真実は1万8千人なので総人口の1.33%)の沖縄の善男善女よ、あなた方こそ詐欺師に愚民化洗脳された愚民化ロボットなのだ。

 

 アッツ、テニアン、サイパン、沖縄、軍も民も無く、米軍皆殺し作戦に対しまさしく団結した戦いであった。日本国民斯ク戦ヘリ。自裁の真相はこれだ⇒軍命は捏造米軍急追で集団自決とらうま尼港済南通州等で潔く自裁が真相 太平洋の奇跡戦い尽くし降伏命令書下山サイパン大場隊47士堀内と青野
 

 自遊官主党、罠衆党、捨民党、狂惨党、日狂組、NHK、朝日新聞などの売国奴捏造団がやはり捏造した、参加者数。視認確認の結果参加者数1万8千人が正解。それにしても6.4倍(11万6千人集会)とは捏造し過ぎだ。 

 

 ・・・今回の県民大会では県下7割の市町村が実行委員会を立ち上げた。

 

 職員が勤務の傍ら防災無線を使って大会をアピールしたり、自治体のホームページで告知したりするなど、事実上、公的なイベントとなった。加えて、県議会議長が大会の実行委員長を務めるなど議会も大会を全面的にバックアップした。

 

 仲井真知事は当初、自身の大会への出席について「抗議の方法として、県民大会がなじむのかどうか考えさせてほしい」と消極的な立場をとっていたが、姿勢を転換して参加を決意。臨時庁議を開き、職員に参加の呼びかけをするまでになる。県教育長も県立高校の校長へ参加を呼びかけた。

 

 同様の動きが民間にも広がった。県バス協会は会場まで行く運賃を片道無料にすることを決定。地元紙に無料乗車券が掲載された。県高野連は当日の秋季大会の日程を変更し、高校球児の参加にも協力するなど、大会参加は県民の義務ともいえる雰囲気が醸成されていった。

 

 地元メディアの徹底的な「反教科書検定」キャンペーン報道も大きな役割を果たした。市町村議会が検定意見の撤回決議を可決するたびに逐一取り上げ、連日、その数が増えていくことが県民に伝えられた。

 

 県議会でも当初、自民党県議団は消極的だったが、決議文の表現を弱めることを条件に賛同に回り、超党派での大会参加が実現した。反対を続けると「沖縄の痛み」への無関心ととらえられかねず、来年の県議選や近づく衆院選への影響を心配する声が党内から出たことも一因といえそうだ。小渡亨県議(自民)は「(11万人という主催者発表は)非常に問題だ。こういった問題で『これは違うだろう』というと、沖縄では“非県民”になりかねない雰囲気だ。戦前の大政翼賛会と同じだ」と危機感を募らせている。・・・(注・非県民と騒ぐのは狂惨のスパイ地元メディアと詐欺団だ、県民ではない)沖縄教科書抗議集会 参加者は「4万人強(視認の結果更に少なく1万8千人)」 「11万人」独り歩き 産経新聞2007年10月7日19:35

 

 沖縄の反日キーワードは非県民だ。抗議集会参加者は、県民の自発参加ではない。狂惨のスパイや、地元毒パンメディアと詐欺団は、非県民を武器にまず公職者を脅迫した。これを鵜呑みした公職者が、非県民を武器にさらに県民を脅迫した。か弱き善良な県民は脅迫に屈し、非県民呼ばわりを恐れるあまり洗脳され、参加した。これが真相だ。

 

 戦争は悪だが、護国戦争は悪ではない、生命体の自己保存の本能だ。先人の護国戦争を子孫が冒涜することは、けして許されるものではない。なぜなら、護られたのは子孫なのだ。侵略者アメリカを責めず、護国の先人への冒涜、何たるねじれだ。いのちの終わりに、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲと打電されたあの先人の子孫が、先人冒涜に狂奔する姿は、真に哀れで、見るに忍びない。91.5%(真実はなんと98.67%)の真の子孫が居る。愚民と化した子孫の啓蒙を願う。総人口の1.33%の洗脳者にすぎない。99%の3D沖縄県民土台よ、非県民を武器に県民を脅迫する地元マスコミに巣くう狂惨スパイ売国奴反日扇動者毒パン詐欺団1%に負けるな!ワルシャワ世界遺産に学べ。上極悪NHK洗脳捏造子孫ポーランド歴史ワルシャワ不屈復興世界遺産子孫へ毒饅頭・毒パン・毒キムチ・毒餃子!言葉と文字の日本文系仮想界は、私利私欲の坩堝だ!一つまみの私利私欲ので、土台は一億総白痴、亡国である。

 

 この度辞書が暴き、降伏禁止解釈は捏造と断定した。非国民識者の先人粗探の印籠、降伏禁止は、破壊された。天皇の基の軍民団結は、国民の総意であることがここでも証明された。命令や訓で人は自死するほど、愚かではない。常識があればわかること、それを軍命令で自死とは、自死した市民を、皇民化ロボット愚民呼ばわりとは、冒涜もはなはだしい限りだ。

 現在でも監督(指揮官)選手(兵士)コーチ(市民)が団結しなければ勝てない。資源無き小国日本が適者生存のため、命令ではなく、総意で団結したのだ。

 

渡嘉敷島の慰霊碑の碑文を書いたのは大江健三郎ではなく曽野綾子!

 『ある神話の背景』昭和四十八年に出版、しばらくしてから(昭和54年3月)渡嘉敷島から正式に依頼された。曽野綾子は辞退したが、たっての依頼で引き受けた。WILL 2007年1月号 

 碑文の要請が大江健三郎ではなく曽野綾子。渡嘉敷島島民の嘘、偽りのない証言である。

 

 先人沖縄県民は軍の愚かな操り人形で、愚かな皇民化ロボットで、日本軍に戦陣訓に、死ねと命令され死んだのか、それとも沖縄県民斯ク戦ヘリで語られたような護国、適者生存に殉じた沖縄県民だったのか、子孫の沖縄県民が県民投票で決めればよい。そして教科書の記述は、子孫の沖縄県民の解釈として記載し、悲劇の起因は侵略者アメリカで、護国の日本軍ではないことを明記し、同時に賛否の比率も載せればよい。

 

 勝利の望みなきまま日本軍は82日間の死闘を戦い抜き、米国の無条件降伏要求を撤回させた。沖縄戦1945年4月~6月23日。ルーズベルト大統領1945年4月12日昼食中脳卒中で死去。

 

 米軍は先に徒歩半日で一周できるほどの硫黄島を奪うのに2万6千の死傷者を出し、いままた沖縄を占領するのに7万5千人の死傷者を出した。本土決戦を敢行したら100万人規模の死傷者が出るだろうと恐れたから、原爆投下したと米国はのたまうが、此れは詭弁だ。

 

 1951年5月3日マッカーサー証言「・・・米海軍がフィリピンと沖縄を奪う頃には、海上封鎖も可能となった。そのために、日本陸軍を維持する供給は、次第に届かなくなった。封鎖したとたん、日本の敗北は決定的となった」

 

 老若男女無差別殺人ホロコーストの空爆原爆しなくても、資源なき島国日本を、兵糧攻めすれば勝てるとマッカーサー証言し、沖縄を奪い、海上封鎖した時点で日本の敗北は決定したと証言しているのだ。勝敗決定後に本土決戦を敢行する愚者など皆無。後はただ海上封鎖を続ければよいだけだ。

 

 ルーズベルトの死去と、軍民一体の壮絶な戦い沖縄戦が、米政府をしてルーズベルト大統領陰謀隠蔽用無条件降伏要求を緩和させ、日本政府の形態は日本国国民の選択に任されるという条件を引き出させた。日本だけが無条件降伏である。そこに終戦への一筋の道が開けたのでる。

 

 「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」を厳守。孤軍奮闘死守した昭和天皇。1昭和てんのう沖縄苦渋の英断一石(統治委任長期貸与)二鳥(防衛主権確保)


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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