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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観日の丸君が代は命を賭けた先人の護国の想いがこもった日本護国史の象徴 

日の丸君が代は命を賭けた先人の喜びと悲しみの想いが染みた日本護国史の象徴
 街宣右翼のほとんどが、日の丸と街宣車と服装で、極悪日本軍へ誘導洗脳目的の、犯日(罪日)の思想戦で、偽者。

いにしえがにじむ国歌君が代と国旗日の丸
国旗考「日の丸」 
 
日の丸(日章旗)は江戸時代幕府船の標識として使われ、幕末日本船の印となった。明治政府に引き継がれ1878年(明治3年)1月27日、日本の商船は日の丸を国旗として掲げることとした。同年10月3日海軍の国旗が定められた。商船と軍艦の日の丸の寸法が若干異なる。

 文部省は1989年新指導要領(小学校は1992年度、中学校は1993年度から実施)において、国旗(日の丸)の掲揚と国歌(君が代)斉唱を義務化した。国旗・国歌法が成立し、日の丸が国旗とされ、1999年8月13日より施行された。

 
先人が護国の象徴として、国旗、国歌のもとに一丸となり命を賭け傘を差し子孫を守った。国旗、国歌には先人の愛国、護国の想いがこもっている。その国旗、国歌を愛さず、思想の自由とか振り回すものがいるが、法律以前の人間の根源の問題だ。先人は国旗、国歌のもとに集い歌い傘を差し守った。国旗、国歌は、命を賭けた先人の、愛国、護国の想いがこもった、日本護国史の象徴なのだ。傘を差し守られた子孫が日本護国史の象徴をたたえるのは、子孫として当然の礼節だ。

 先人を愛せぬものが、どうして他人を愛せる。まず日本を愛すことだ。自国を愛せぬものがどうして他国を愛せる、愛国、護国は人間の原点なのだ。戦争は醜く、悲惨だ、誰でも避けたい。しかし、護国のために戦うべきときは戦わなければ成らない。護国は、生命体である人間の、原点なのだから。愛国は精神、護国は行動なのだ。

サッカー元日本代表・ラモス瑠偉
『日の丸ー。最高だ。こんなに美しい国旗、他にないよ。
どんなに苦しくても、膝が痛くても、日の丸をつけていると思うと頑張れる。
本当に不思議。これまで何度もそんなことがあったね。
ユニフォームの日の丸。スタンドで揺れる日の丸。日の丸が目にはいると、
こんなところで諦めていいのかって、また闘志が湧いてくるんだ。
日の丸をつけて、君が代を聞く。最高だ。武者震いがするもの。体中にパワーが
みなぎってくる。でも、日本の選手の中にはそうじゃないヤツもいる。
不思議でしょうがないよ。
日の丸をつけるって、国を代表するってことだよ。選ばれた選手にしか与えられ
ないものじゃない。国を代表して戦うって、スゴイことなんだよ。それを忘れて
いるんじゃないかって思う。
ワールドカップを見てみろよ。みんなあんなに必死になって戦うのは、国の代表
だからだろ。国を愛し、家族を愛し、仲間を愛しているからだろ。日本はそこん
とこから外国に負けている。自分のためだって?
そんなの当たり前じゃない。じゃあなぜ、もっと大きいものを背負わないの?
オレ、日の丸背負ってなかったら、あんなに頑張れなかったよ。ドーハの時、
オレは38歳。あのクソ暑い中で、そんなオジサンが全試合、それもほとんど
フル出場。練習だって若いヤツらと同じメニューをこなしてたんだ。自分のため
だけだったら、とっくに辞めてたよ。』

国歌考「君が代」
 この元歌は1100年前(905年?914年?)、醍醐(だいご)天皇の命令で紀貫之(きのつらゆき)らが編集した最古の勅撰和歌集
古今和歌集』の巻七、賀歌(がのうた)のトッブにある「読人(よみびと)しらず」の「わがきみは千代(ちよ)に八千代(やちよ)に細(さざ)れ石(いし)のいはほとなりて苔(こけ)のむすまで」である。

 「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社春の祭礼の歌である。「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、
天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。 九州王朝説 古田武彦

 小学館『日本古典文学全集』(第5卷)によれば、「わが君のお年は干代、八千代にまで続いていただきたい。一握りの小石が少しずつ大きくなり、大きな岩になり、それに苔が生えるまで」と現代語訳されている。その注釈によれば、「君」は
天皇をさすとは限らず、小石が岩となるというのは、「酉陽雑爼」(ゆうようざっそ)という中国の伝奇小説集に水中から拾ってきた石を仏殿に長年置いたら大きな岩になったという伝説にもとづく、と解説がつけられている。

 この歌は江戸時代には、一般的な祝いの席で祝いの歌として庶民の間でも歌われるようになった。例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられた。この時代の薩摩琵琶歌には、現在知られるものと同じ歌詞のものが見られる。よって現在の「君が代」は、明治期に薩摩人がここから採ったものとする説が有力である。教科書に掲載されるのは1881年(明治14)文部省音楽取調掛発行のわが国初の音楽教科書「小學唱歌集初編」(大日本図書株式会社刊)で歌詞は1,2番であった。

1番 君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで 
うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ 

2番 君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで 
かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる 


 君が代
の意味は、こちらさまの(あなたさまの)という意味の場合もあり、「わが君」、あなた、おまえ、君、筑紫の君、先祖、君主、新郎、
天皇、と変化してきている。

 君が代の意味は、語源的には「節(よ)」と同じで限られた時間の流れを意味する。期間、時代、この世、世界など。

 千代に八千代にの意味は、幾千年も。

 細(さざ)れ石(いし)のいわお(巌) 長い年月の雨水で、石灰岩が溶解され、小石と小石の隙間に浸透し、高く突き出て固まった(雨水落下浸透なので円錐状)、大きな岩の塊(自然と年月が創造した天然のコンクリート)。現代ではこの塊をも、「細石」と呼称しているが、「細石」本来の意味は、小石である。
 「細石(細れ石の巌)」は、滋賀・岐阜県境の伊吹山が主産地で、岐阜県の天然記念物に指定され、伊吹山の登山口には、「さざれ石公園」が設けられている。
 小石が長い年月でいわお(巌)となり、さらにその上に、苔の生すまでと、「細れ石の巌」は、非常に長い年月の例えとして用いられている。1100年も前の先人が、「細れ石の巌」は、長い年月の産物であるということを、知っていたのである。

 1977年文部省の
学習指導要領の中で、国歌と既定された。国旗・国歌法が成立し、第2条で国歌は君が代とすると定められ1999年8月13日より施行された。

 曲はイギリスのJ・W・フエントのものもあったが、現行のものは宮内省伶人長の林広守が、雅楽調で1880年(明治13)作曲。明治13年から天皇の治世を祝う国歌と解され歌われてきた。弱肉強食の時代小国日本は、団結し一丸(皇民化)とならなければ勝てなかった。勝つための一丸化のシンボルとして
天皇を意味すると解釈され歌われたのだ。

 日清、日露、第一次大戦、反共(日中)戦争、解放(大東亜)戦争、天皇の下に国民と君が代日の丸が一丸となり、戦い不可避の弱肉強食の時代を通過した。最後には敗れたが目的は遂げ、宗主国を追放し、貿易は自由化され繁栄し平和を得た。『あらゆる災いの後に福が来る』のたとえのように。開国以後99年間(露西亜艦隊の対馬占領1859年~1960年植民地独立附与宣言)もの、戦い不可避の受難の時代、君が代日の丸は、晴れの日も雨の日もいつもそばにいて励まし、戦後に平和をもたらした。君が代日の丸は、かくして歴史となった。まさに護国の象徴といえる。 


 明治、大正、昭和(終戦まで)の天皇は日本国の元首なので、天皇の治世を祝う国歌君が代で解釈は正解だ。しかし戦後
天皇は、日本国および日本国民統治の象徴となったので、君が代の解釈も当然変化する(1000年もの長きにわたり主旨を変えながら伝承された由緒ある歌、それが君が代なのだ)。先人と天皇が一丸となり交戦の果てに、今の此の世(繁栄と平和)が築かれたのだから、君が代の戦後の解釈は「先祖(敵味方お互いの先祖)が築いたこの世(繁栄と平和)」となる。

 君が代は 
千代に八千代に さざれ石の巌となりて 
苔の生すまで=先祖が築いたこのが、一握りの小石が少しずつ大きくなり、大きな岩になり、それに苔が生える干代、八千代まで続くように、と成り。日本と世界の、繁栄と平和を祈願した国歌となる。 

先人の思いこもれり国歌君が代 国旗日の丸
真実史観


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真実史観戦場に架ける橋帰省者や病死を虐待犠牲者17万と捏造軍罵倒売国奴永瀬隆通訳


1戦場に架ける橋帰省者や病死を虐待犠牲者17万と捏造軍罵倒売国奴永瀬隆通訳

他虐偽善者の典型永瀬隆

 泰緬(たいめん)鉄道 タイ西部を走る、ビルマとタイをつなぐ鉄道。太平洋戦争中、旧日本陸軍がビルマにいる友軍への物資補給路として建設した鉄道で、総延長は415キロ。線路区間は東京大垣間に相当。地理的には断崖、大密林が続く難ルート。工期は通常5年はかかるというところ、関係者の必死の努力で1942年7月5日から1943年10月25日までの1年4ヶ月で開通した。がしかし5万人~20万人が死んだ

 この矛盾報道が検証した起因だ。こんなに死ねば遅れるのが当たり前、それが短縮とは?5万人~20万人の犠牲者を出し、工期短縮など現実論の製造業史観では絶無。

鶴田 勝 元陸軍少尉

 木橋架橋。橋は鉄ではなく木でつくられた。「鉄道橋は六百以上架けられました。これらは急ぐので木橋でした。鉄橋を作る時間はありませんでした。戦場に架ける橋は木製でよかったのです。「簡単な構造で手近な材料で、早く修理出来る木橋こそ、戦場に架ける橋に適している」第九鉄道隊資料から体験を語る 鶴田 勝 元陸軍少尉。

 建設に当たったのはタイの鉄道九連隊、ビルマの鉄道五連隊から成り、泰緬鉄道に従事した。鉄道連隊とは戦地における鉄道の建設・修理・運転や敵の鉄道の破壊を任務とするする連隊。最盛期1万5千人からなる鉄道隊が担当した。帝国大学を卒業した土木技師が参加して設計を行い、捕虜は工事の単純労働に従事。捕虜が橋梁を設計することなど不可能。捕虜は大本営直轄の捕虜収容所が管理しており、鉄道隊が労働者として借用した。捕虜の作業は運搬や掘削など簡単な仕事だった。それを全区間同時に着工したので多数の現場があった。

 「捕虜使役の注意」「俘虜の宿営、給養、衛生、日常管理ではすべて捕虜収容所が管理し、鉄道隊は作業においてのみ俘虜を使役できる。俘虜の取り扱いについては、赤十字条約(ジュネーブ条約)によって定められているが、日本はこの条約を批准していない。しかし人道上の立場からこの条約の趣旨は尊重しなければならない」更に、俘虜の就役は大本営命令であること。俘虜将校は原則として就役せしめないこと。俘虜には休日を与え、就役時間を守ること。俘虜には規定により給料が支払われること。俘虜には私的制裁を加えないこと。

 又実務的には、各隊に労務係をおき、労務係は毎朝定刻に収容所に行き、俘虜を受領し、作業終了とともに、定刻には収容所に俘虜を返納すること。人員の掌握は、特に正確を期すること。俘虜とのトラブルは避け、万一トラブルが生じた時は、上官に報告すること。俘虜は、戦力の一部と心得えて温存し、無役な損傷を避けること……等、の諸事項が下達された。

 「建設工法」 打杭は椚橋を使用し、モンキーと称する錘の落下を利用して抗を打つ方式である。油屋隊は石油エンジンを使用して打杭作業をした。私の隊は、俘虜の人力でモンキーを使用することになった。椚橋と云うのは、だるま舟のような大きな舟二隻を横に並べる。但し中央で杭を打てるように、適宜の間隙をとり、機材で画定し、その上に櫓を組んで、杭を打つ装置を取りつけ、舟の上で作業ができるので河中に入る必要はない。

 

 「虚偽の虐待情報」 最近ある図書で、クワイ河水橋架橋では、俘虜は終日水につかって打杭作業をした。と云う記事を見たことがあるが、これは全く嘘で、恐らく著者は椚橋を知らず、勝手な(悪意の)想像で書いたものだろう。泰緬鉄道建設体験記
 

 泰緬鉄道建設に従事した日本軍1万人(最盛期1万5千人)。連合軍捕虜は3万人、5万人、5.5万人、6万1800人、6..8万人、7万3502人。アジア人労務者7万人、10万人、10.5万人、30万人(泰緬鉄道に30万人のロウムシャ。日本軍憲兵隊通訳 永瀬隆さんのお話2005.112.10)。とまちまちである。南方各国労務者は、クワイ川たもとの説明文によると、インド人、ビルマ人、マレーシア人、インドネシア人、中国人、タイ人などである。

 

 この大建設作業の途中で不幸にも例年よりも早い雨季が到来した。そのため山奥の多数の現場が孤立し、食料、医薬品の供給が途絶した。そこを風土病のコレラ、悪性マラリヤが襲い、日本人、欧米人、現地労務者がバタバタ倒れた。カンチャナブリーの2ヶ所の連合軍墓地記載の死亡年月日は、1943年6月から10月の雨季がほとんどだ。工期は1942年7月5日から1943年10月25日までの1年4ヶ月。完成目前に疫病大発生しての不可抗力の病死。これが真相だ。

 

 「食料も医薬品も満足に与えないで鉄道建設に酷使した捕虜は次々に倒れたのである」と沢山の死者が出たので捕虜虐待と宣伝する人がいますが、虐待すれば作業は進まないのでありえない。肉を食べたいという捕虜のために生きた牛を調達して提供したこともあったと言う。ただ日本軍人でさえ食料不足で苦しんでいたので、捕虜も苦しんだことは間違いない。

 泰緬鉄道建設に従事した日本軍死者1千人。連合軍捕虜死者は1万人、1.2万人、遺骨収集され共同墓地に埋葬された連合軍捕虜だけで1万2487人。1万3千人、1万5千人(戦争博物館)、1万6千人、1万672人、2万4490人。現地人労務者死者3万人(戦争博物館)、3万1千人、3万9千328人、10万人(泰緬鉄道に10万人のロウムシャの病死。日本軍憲兵隊通訳 永瀬隆さんのお話2005.12.10)

 

 バターン死の行進と同じなのだ、参加労務者数と者の数がまちまちなのだ。日本軍はインドネシアなどから労務者を募り賃金を払って現場作業に使った。これは捕虜ではないから自由であった。途中で帰った労務者もいた。ドイツ軍やソ連軍のような労働者狩りのようなことはあり得なかった。

 カンチャナブリの郊外には、1977年に設立された戦争博物館は 「JEATH War Museum」と名付けられている。そこには次のような説明文が書かれている。「この建設にあたって連合軍の捕虜、タイ人、マレーシア、ビルマ人などたくさんの労働者が狩り出され酷使されたため栄養失調、伝染病(コレラ、マラリア)等多くの犠牲者をだした。その数は連合軍捕虜15000人、現地労働者30000人にも及んだ」

 日本(JAPAN)、英国(ENGLAND)、米国(AMERICAN)、オーストラリア (AUSTRALIA)、オランダ(HOLLAND)、タイ(THAILAND)のそれぞれの頭文字をとったもので、DEATH(死)という言葉があまりにも残酷な印象を与えるためにおきかえられた言葉だといわれている。

 日本軍死者1割(1千人/1万人)、連合軍捕虜(風土病に対して抵抗力弱い)死者2割弱(1万3千人/7万人)(プロパガンダは15000人)

 現地人労務者は、風土病に対して強い耐性があるので今がある。欧米人や、日本人のように弱くは無い。現地人労務者の病死者は日本人より強いので少ないと考えるのが妥当だ。そして現地人労務者は最盛期10万人(工事開始時が最大人数で、鉄道隊と捕虜で間に合う時点では、給料と食費がかかるので皆帰省させた)で、風土病蔓延期(連合軍墓地記載の死亡年月日は、1943年6月から10月の雨季)は仕上げの微調整段階なので、少なかったはずだ。日本軍死者1千人、捕虜死者1万3千人にもかかわらず工期遅れの記録も無い、工事人員は十分に足りていたと、想像出来る。結果この時期の現地人労務者は皆無

 「現地労働者の犠牲者は30000人にも及んだ」プロパガンダでさえこの人数である。暴動の記録が皆無なので、現地労働者の死者はほとんど無く、役目を終え、風土病蔓延期以前に帰省した。

 結果5年かかる仕事をわずか16ヶ月の短期間で開通した。現地労働者の協力以外工期短縮の術は無い。プロパガンダ5万人~20万人犠牲者では仕事にならない。わずか16ヶ月の短期間での開通は、主力の現地労働者の健康状態を証明している。主力の現地労働者が皆健康だったから、短期間で開通出来たのだ。

 食費のかかる労務者は役目を終えると給料を払いすみやかに皆帰省させた。残った日本鉄道隊1万人と、捕虜7万人だけが風土病蔓延期に遭遇し、鉄道隊1割一千人、捕虜2割弱1万3千人の病死者が出た。労務者は既に帰省し居なかったので病死者無し。これが戦後の労務者の犠牲者数、3万人~10万人の起因となった。つまり帰省したものを犠牲者と数えて捏造で犠牲者数を1/3にしたのだ。

 鉄道隊元大隊長菅野兼一資料にも「死者は日本軍人一千人(1万人の1割)、欧米人一万二千人(7万人の2割弱)、現地人多数となりました。(石田英熊証言1万人。軍事裁判検事でさえ3万3千人)」と、あるのみ。捕虜の死亡率が高い(日本軍1割、捕虜2割弱)のは虐待死ではなく、風土病に対してもっとも耐性が弱かったからだ。不可抗力の死であった。捕虜虐待死論などは論外、捕虜は大本営から鉄道隊が借りた、大事な戦力なのだ。

 泰緬鉄道建設後日本本土に輸送された一部の白人捕虜は途中で輸送船が米国の潜水艦に撃沈され二千名が死亡した。米国は「阿波丸事件」のように国際協定で緑十字の印をつけた船でも撃沈していた。

 クワイ川鉄橋から歩いて10分のところに、戦前日本軍によって建てられた慰霊碑がある。「泰緬旬連接鉄道建設間不幸病ヲ得テ斃レタル南方各国労務者及俘虜ノ為此ノ碑ヲ建テ恭シク其ノ霊ヲ慰ム 昭和19年2月 日本軍鉄道隊」戦前日本軍は現地カンチャナブリとビルマ側のタンビュザヤに日本軍人除き、犠牲者全員の慰霊塔を建立した。日本軍人は靖国神社に祀られた。泰緬鉄道工事で命を落とされたすべての人々を祀る慰霊塔で日本語の他に、英語、マレー語、タルミ語、ベトナム語などが碑文に刻まれている。

 日本人も現地労務者も、犠牲者がでると、念仏を書いた丸木一本だけ立てられた土まんじゅうの墓に埋葬。

 日本軍は木の十字架をたて、捕虜の遺体はそれぞれ一斗缶と共に埋葬し、その中に当時の日本軍の隊長、捕虜係の名前とともに死因等を詳しく書いたメモが添えられた(日本軍は弔った。あろう事か、これが戦犯確定の証拠となった)。連合軍は捕虜の墓を探して遺骨を収集し、タイのカンチャナブリおよびビルマのタンビュザヤに大墓地を作った。メモを基にして、2ヶ所の連合軍墓地に埋葬されているひとつひとつの墓に氏名、所属部隊、死亡年月日、年齢が添えられた。

 連合軍は日本軍の各地の墓地を破壊した。ここが日本人と欧米人の慰霊感覚の違うところだ。ただ日本軍人の霊は靖国神社にお祀りされている。

 戦争が終わると、英軍が鉄道を接収し、建設した日本軍人を戦争犯罪人として逮捕した。泰緬鉄道全体で有罪の宣告を受けた人111人、死刑は32人にのぼった。そして捕虜収容所の関係者が多数虐待され処刑された。鉄道隊の人も処刑された。報復だった。

 ビルマ側は戦後の占領期に英軍が破壊した。ビルマ独立後も再建されていない。タイ側の鉄道は一部(130Km)が観光や生活に利用され、この大プロジェクトの資料館「泰緬鉄道センター」が作られて多くの観光客が訪れている。泰緬鉄道の史実
 

映画「戦場に架ける橋」は仏人ピエール・プールの創作で史実ではない

 泰緬鉄道建設の話はクワイ(クウエイと発音が正しい。クワイという発音は意味が異なる)河マーチの音楽で有名な映画「戦場に架ける橋」でよく知られているが、実際はどうだったのだろうか。
 鉄道隊大隊長元陸軍少佐菅野廉一氏は「映画は仏人ピエール・プールの創作でまったくのフィクションにもかかわらず若い人たちの間で史実と思われていることはまことに残念です」と述べてる。

 なぜ欧米の捕虜がいたのか。欧米のアジアの植民地支配はどんなものだったのか。戦争の経緯が描かれていない。なぜ欧米軍がアジアにいたのか。なぜ日本軍が泰緬鉄道を作ろうとしたのか、時代背景が説明されていない。

 捕虜が橋を設計し、捕虜収容所が橋を建設したのではない。陸軍鉄道隊(一万五千人)が工事の設計、施工を行った。捕虜は大本営直轄の捕虜収容所が提供し単純労働に従事したに過ぎない。

 捕虜収容所の所長の経歴、大佐が若いころロンドンの学校で工芸の勉強をしたという。日本の職業軍人の経歴ではありえない話。所長が宿舎で和服を着用、ありえない。東洋人であることを強調するための創作。

 特殊部隊橋を爆破する。橋は空から見えるので爆撃すればすむ。特攻隊は不要。事実爆撃で破壊された。地上からの破壊工作はなかった。

 コレラが大流行した史実が欠けている。

 戦後連合国は降伏した日本軍人を捕らえると、殴るける、食事を与えないなどの虐待を行い、さらに報復処刑している。連合国も奇麗事ばかりしていたわけではない。互いに悲惨なのが戦争だ。映画「戦場に架ける橋」の虚実  

「僕の知らない戦争があった ―ナガセからの伝言―」 永瀬 隆2004年

酷使された捕虜と「労務者」と捏造する偽善者

 私も通訳でシンガポールの駅で捕虜を送るときに通訳したことがあります。捕虜に食べ物を日本軍以下のものを食べさせた。彼らはパン食でしょ、だから脚気になったり、腹を下したりして非常に体調をくずしていた。そのときに「タイ国の保養地に連れていってやる。志願したい者はおるか」というのですね。そうするとみんな保養地があるんならと、志願したんです。それで連れて行った数が68000人。

 どういう状況で連れていったかというと、私は目撃しているけど、有蓋貨車ね、貨車の屋根があるでしょ。あの中にワラが敷いてあるんです。そこへ1貨車に30人くらい入れる。どのくらいの混み方かといいますと、自分が用便をたしにいって帰ってくると自分の場所がなくなっている、というような状態です。そしてね,有蓋貨車で両側に鉄の扉が開いているでしょ。ところがあれは風が中に入らないんですよ。1週間かかってマレイ半島に送ったわけです。だからフラフラになってしまった。飯もまずい。

(注・皆嘘である。1942年7月5日から1943年10月25日が工事期間。1943年9月『開通1ヶ月前』に配属された人には不可能。着工『1942年7月5日』以前にすでに人員確保完了済み。路線各部分に分散し、同時進行で工事をしている。開通1ヶ月前ともなれば、完成した線路もあったはず、門外漢の労務者は不用なので、食料節約のためにも順次帰省させる段階だ。足りなければ線路を機関車移動し、応援に回ればよいだけだ。捕虜を追加したとの記録も無い。戦後の侮日プロパガンダを、さも臨場したかのように捏造し話しているに過ぎない。悪意を感じる)


 そして見せしめのために、日本軍は歩かせたんです、鉄道がひいてあったのに。タイ人にたいする見せしめもあって、白人は全部歩かせたんです。だから現場に行くまでにたくさん倒れてしまった。
(注・捕虜の労働目的は、泰緬鉄道の早期開通だ。早期開通目的を妨害するようなことをするはずが無い。この人は護国の日本軍を貶めている。己の名誉欲と、物欲を満たすために)

 そしてそれ以上に、この占領地のビルマは地続きですからね、ビルマから18万人、マラヤから8万5千人くらい、シンガポール含めて。そしてこのインドネシアから4万5千人。つまり30万人ぐらいの労務者を連れていったわけです。それに日本軍が1万2千人ですから、全部で約40万人の人間がこの悪疫猖獗の山系にいたわけです。ペストさえもありましたし、米食だから脚気になるんです。それからアメーバー赤痢、マラリア。私も罹ったことがあるんですけど、ひどい病気ですよ。そういう病気によってどんどん倒れていったんです。とくに労務者の人はあまり衛生思想がなかったからバタバタ倒れていった。

(注・開通1ヶ月前に配属された人には不可能。戦後の侮日プロパガンダをさも臨場したかのように捏造し話しているに過ぎない。膨大な人数『労務者30万人で死者15万人』はこの人だけが言っている『他は最高でも労務者10万5千人』。侮日プロパガンダ戦争博物館「JEATH War Museum」でさえ『労務者死者3万人』2001年8月15日のしんぶん赤旗の記事でも「ロームシャ約三十万人のうち、約半数(15万人)が犠牲になった」と、話している)

 30万のうち半数は(15万人)この泰緬鉄道に埋没されています。それはここにも書いてあるんですが、1人のインドネシア人が残ってたので、その人をインドネシアに連れていったときに、そこの村長が、うちの部落からは10人出て行ったが、帰ってきたのは5人だったと言っていた。だいたいそれが平均なんです。ビルマもみなそうです。でもビルマは地続きだから逃げちゃうんですね。仕事は苦しいし、敵の爆撃があったりするから。そこで脱走して逃げて帰ると、あくる日、その家に日本の兵隊と部落長さんが来て、「夕べよく眠ったか、ご苦労さんやった。また行ってくれ」いうて連れて帰るわけです。だから2度目に脱走するときは自分の家に帰れないんです。帰ったらまた行かなきゃならないから。だいたい労務者として連れていかれる人は1家の働き手でしょう。そういうふうにしてビルマの18万人の家族は全部破壊されてしまった。

(注・日本人も現地労務者も、犠牲者がでると、念仏を書いた丸木一本だけ立てられた土まんじゅうの墓に埋葬、日本軍人を除き、犠牲者全員の慰霊塔を建立し前述のように現在も在る。墓が無いので泰緬鉄道に埋没と捏造、なんと卑劣な男だ、子孫ではない)

・・・私がタイのバンコックへ行ったときは1943年でした。・・・

(注・語るに落ちている。青山学院大学英語科に在学中、旧日本陸軍に志願。昭和18(1943)年9月に、タイのカンチャナブリ憲兵分隊に通訳兵として配属された。その時は泰緬鉄道が開通する1ヵ月前。開通1ヶ月前に配属された人には不可能。
 人を集めれば工期が短縮するものではない。開通1ヶ月前であれば開通した所も数多あり微調整の段階なので、鉄道隊の出番だ。門外漢の労務者は不用なので、食料消費削減のためにも、給料を払い順次帰省させるのが常識だ。終戦2年前労務者は工期を短縮し騒動も無く帰省している、給料不払いなど皆無だったのだ。
 日本軍人でさえ食料不足で苦しんでいた。捕虜5万7千人いるので、食費のかかる労務者は役目を終えると皆帰省させた。これが戦後の労務者の犠牲者数、3万人~15万人の起因となった。帰省したものを犠牲者と数えたのだ。
 侮日プロパガンダは想像で労務者の犠牲者数1/1(3万人)にし、永瀬隆は捏造で、労務者の犠牲者数1/2(15万人)にしたのだ。
 現地人労務者は、風土病に対して強い耐性があるので今がある。欧米人や、日本人のように弱くは無い。しかも前述のように風土病蔓延期以前に労務者は役目を終え皆帰省しているので永瀬隆は労務者を見ていない。永瀬隆は、戦後の侮日プロパガンダを、さも臨場したかのように捏造して話しているに過ぎない。膨大な人数はこの人だけが言っているのだ、己の名誉欲と、物欲を満たす手段として)2につづく

真実史観2クワイ河に偽善の虹をかけた男たったひとりの捏造騙り偽りの戦後処理

2クワイ河に偽善の虹をかけた男たったひとりの捏造騙り偽りの戦後処理

護国の兵を貶め悲惨をつまみ食いし正義の使者を気取る偽善者

05年証言集会③日本軍憲兵隊通訳 永瀬隆さんのお話2005.12.10 アジアフォーラム横浜証言集会。(注・泰緬鉄道が開通する1ヵ月前、昭和18年9月に、タイのカンチャナブリ憲兵分隊に通訳兵として配属された。軍歴2年の通訳兵。倉敷市在・英語塾経営88歳2005.12.10)

「日本軍の一員としてお詫び申し上げます申し訳ありませんでした」

 マイクを持ち、自己紹介をされた後、すぐにアフマド(泰緬鉄道建設強制徴用労働被害者と称する人)さんとワン・ママット(ビルマ強制徴用労働被害者の息子と称する人)さんに深々と頭を下げ、謝罪した。たくさんの戦争被害者に会って、謝罪と償いをし、和解の道を模索してきた人は今でもなお、謝り続けている。

 「当時、現場にいたものとして、この方たちがどんな扱いを受けたかを60年たった今でも昨日のように思い出す。泰緬鉄道全般にわたり、あの惨劇の全貌を見ているのは私だけだろう。だから、話さなければならないと思う」と次のように話し始めた。

注・泰緬鉄道が開通する1ヵ月前の配属なので、事実を見たわけではない。捕虜の遺体探し通訳として立ち会ったことを言っているのだ。日本軍の埋葬が良かったため、わずか1ヶ月で220ケ所、1万3千人の遺体を発見した)

泰緬鉄道に30万人のロウムシャ

 インドネシアから4万5千人、マラヤから8万5千人、ビルマから18万人、合計約30万人が、ロウムシャとして、強制徴用された。さらに、鉄道隊として1万2千人、連合軍捕虜6万8千人が、泰緬鉄道建設のために送り込まれた。熱帯の山岳地帯の環境の悪いところでの重労働が悲劇を生まないわけが無い。

注・子孫を守るために、そんな悪環境でも先人は頑張ったのだ、開戦の理由も検証せず先人批判とは。戦争は悪、だから戦争をした日本人先人は悪人、短絡思考だ。合計約30万人がロウムシャとして強制徴用され、10万人が虐待され死んたと、兵役2年の泰緬鉄道が開通する1ヵ月前の配属の永瀬隆この人だけが誇大に話している

土まんじゅうの墓るいるいと

 1945年9月、連合軍命令により、バンコクの日本軍終戦処理司令部から、泰緬鉄道の地理に明るいという理由で白羽の矢が立ち、志望した連合軍捕虜の墓地捜索隊の通訳に駆り出された。鉄道沿線に散らばる東南アジア労務者たちの無数の犠牲者の土まんじゅうを横目に見ながら、文字通りジャングルの土の根を分け、朽ち果てた木の十字架を目印に、捕虜の遺体探しに1ヶ月間没頭した。

注・捕虜の墓は十字架と、区別していたことが判明する。敵国に配慮して埋葬している)

 捕虜の墓地数は220ケ所で、1万3千人の遺体を発見した。これらの遺体は、カンチャナブリーの2ヶ所の連合軍墓地に埋葬されている。

注・短期間の発見は、捕虜の墓は整理されて埋葬されていたことを物語っている

線路の路盤に埋められた遺体

 捕虜の墓地数は220ケ所で、1万3千人の遺体を発見した。これらの遺体は、カンチャナブリーの2ヶ所の連合軍墓地に埋葬されている。

 その周りには労務者たちの丸木一本だけ立てられた土まんじゅうの墓がるいるいとある。そのように葬られたのはまだいいほうで、クワイ河に投げ込まれたり、線路の路盤に土の代わりに埋め込まれた遺体もあった。

 開墾された畑地からは遺骨が現れていると聞いている。

(注・泰緬鉄道が開通する1ヵ月前の配属で、事実を見たわけではなく、戦後のプロパガンダを聞き信じているに過ぎない)

 『1976年、泰緬鉄道関係者の日本側と連合国側の有志がクワイ河で再会した。そのときに、連合国側の記者の一人から、「東南アジア各地から、労務者25万人以上をタイメンに強制連行しており、そのほとんどがまだ故国に帰還していないのではないか」と詰問された。 まったく、寝耳に水のショックであった。労務者たちは、かえるにパスポートをもたず、未だに泰緬鉄道の沿線で、掘っ立て小屋にうずくまっているのをわたしは知っている。私自身、他の泰緬関係者より実状はいちばん良く知っていると自負していただけに、その数はひどく応えた』(クワイ河捕虜収用所 現代教養文庫 社会思想社)より

(注・泰緬鉄道が開通すれば捕虜も労務者も不要なので捕虜はもとの収容所に戻され、労務者解雇が常識。開通1ヵ月前の配属で、終戦まで2年間この人は何を見ていたのか、軍歴を疑いたくなる)

証言者:アフマド・ハムザ73歳(当時10歳)さん(泰緬鉄道建設強制徴用労働被害者と称する人)

 アフマドさんは父親と一緒に働きました。大人は1ヶ月の給料が、2.5から3ドルでしたが、アフマドさんは1ドルでした。

 「父は病気になって亡くなりました。医者にも診てもらえませんでした。宿舎の近くに

埋葬しましたが、今ではどこかわかりません」。

 アフマドさんたちの宿舎は竹で作られ、屋根は草を葺いただけでした。

 「雨が良く降りました。すぐに雨漏りがしました。マラリア・赤痢・栄養失調で何人も亡くなりました。毒虫に刺されて亡くなった人もいます。

証言者:ワン・ママット・ビン・ガー(ビルマ強制徴用労働被害者の息子と称する人)さん 50歳。強制徴用労働者と遺族の会を率いる。

 父親のワン・ガーさんが強制徴用労働者。

 16歳だった父は、日用品を買いに店に行く途中で他の30人の人とともに突然日本軍に捕らえられ、トラックでケランタンに送られました。そして鉄道馬車で移送中多くが飢えと暑さで死んだが、埋葬されることもなく、車両からただ投げ捨てられるだけだったそうです。そして、3年6ヶ月働いたけど、給料をもらったのは最初の2ヶ月だけ。父は今では体も弱り、82歳になります。我々マレー人は泰緬鉄道建設の不払い賃金の支払いを日本政府に求めるための話し合いを始めました。

 ロウムシャはマレーシアやインドネシアから徴用されました。建設現場での死亡は連合軍捕虜1万2千人に対し、ロウムシャは10万人でした。そうした中から、マレー系ロウムシャとその遺族が今、沈黙を破って不払い賃金の支払いを求める動きを見せています。

 マレー系住民は日本軍の占領下での犠牲についてこれまで沈黙してきました。日本軍による分割統治の下、中国系住民との反目もありました。日本には、マレー半島での日本の加害は中国系住民が騒いでいるだけだと難癖をつけてきた一部の声がありましたが、戦後60年目の節目に、マレー系住民が、中国系住民とも情報交換をしつつ、沈黙を破ろうとしています。

(注・なんで戦後60年も経た今語るのだ。作為を感ずるのは私だけではないはずだ)

 両者の会合に参加された高嶋伸欣さんは、長年マレーシアに通ったが、非常に貴重な動きと述べられ、今回の来日実現にご尽力いただき、日本で初めてマレー系マレーシア人の証言者を迎えることが出来ました。

(注・高嶋伸欣が煽り、日当を支払い、招待したようだ)

戦争責任に関心のない日本歴史の真実を語り続ける大切さ琉球大学教授 高嶋伸欣

 アジアの国々では小泉首相や閣僚の靖国参拝は写真入で大きく取り上げられる。

謝罪する一方で靖国を参拝することは誠意が無いと受け取られている。「マレーシアの華人団体は日本の常任国入りに抗議する集会を開いた」と2005年4月25日の東京新聞のみが報じている。アジアの人々に今の日本の戦争責任に対する対応がをおかしいと思っている人たちが日本にもいるということを知ってもらうためにも、今日のこの集会は大切だと思う。

 昨年の23月8日の朝日の社説は「真珠湾攻撃から太平洋戦争は始まった」と書いていた。新聞社の論説委員に「真珠湾攻撃の1時間前にコタバルに日本軍は上陸していた。この戦争は東南アジアや中国を旧帝国主義国と新帝国主義国の覇権争いという戦争の輪郭をはっきりさせないといけないのではないか」と電話した。今年の社説は少し良くなっているのでやはり言い続けることが大切だと思った。言い続けることで歴史の認識を変えていけるのではないか。そのためにも、このアジアフォーラムのような小さな組織が毎年アジアの戦争被害者を招き、証言集会をすることは大切だ。

(注・宗主国に攻められて、自衛のためアジア解放に立ち上がった日本に、戦争責任などあるはずが無い。鵜呑みし嘘を撒き散らす職責も果たさない鵜人だ)

呼びかけ人(注・無検証で鵜呑みし、捏造を撒き散らす、捏造でも成り立つ非製造業者。非現実論の非製造業者仮想現実界「通訳、作家、教授、先生、マスコミ」は職責も果たさず嘘でも成り立つ職業なのだ。私も騙されていた。鵜呑み危険)

石田甚太郎(作家)、笠原十九司(都留文科大学)、信太正道(厭戦庶民の会)

高嶋伸欣(琉球大学教授・高嶋教科書訴訟原告)

高良真木(日中友好神奈川県婦人連絡会)、俵義文(教科書ネット21)

西野瑠美子(ルポライター VAWW-NETジャパン)、林博史(関東学院大学)

前田朗(東京造形大学)川田龍平(松本大学)2005.10.25現在 
12.8を忘れない アジア・フォーラム横浜 第12回証言集会 

『運命の旅路~元通訳兵の戦後~』(岡山放送)◆放送日時2006年8月20日(日)深夜2時55分~3時50分放送第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品

 ・・・岡山県倉敷市に住む永瀬隆さん(88歳)は、今、この泰緬鉄道の世界遺産登録を求める活動を行っている。日本にとってはいわば「負の遺産」といえる鉄道を、なぜ世界遺産登録しようとするのか…。

 大正7年生まれの永瀬さんは、青山学院大学英語科に在学中、旧日本陸軍に志願。昭和18年9月に、タイのカンチャナブリ憲兵分隊に通訳兵として配属された。その時は泰緬鉄道が開通する1ヵ月前。すでに1万人もの捕虜は遺体となって埋葬されていた。戦争と泰緬鉄道の真実を永瀬さんが知ることになるのは終戦直後のあることがきっかけだった。

 防衛庁防衛研究所の資料を見ると、泰緬鉄道建設に従事した連合軍捕虜は6万1800人。そのうち7割が病に倒れ、1万2000人以上が死亡したと言われている。病気で多いのはマラリアと熱帯性の潰瘍。

 ・・・永瀬さんの人生を大きく変えたのは終戦後の運命的な3週間だった。泰緬鉄道沿いに転々と埋められていた連合軍捕虜の遺体発掘調査を連合軍から依頼された永瀬さんは、朝から晩まで作業を続け、連合軍将兵と一緒に、220カ所の埋葬場所を探り当てて遺体を掘り返した。永瀬さんは捕虜の遺体がそれぞれ一斗缶を抱いているのに気付く。その中のメモには当時の日本軍の隊長、捕虜係の名前とともに死因が詳しく書かれていた。それを元に、捕虜に対して残虐行為を行った旧日本軍将兵は戦後の戦犯裁判で次々に裁かれていったのだ。戦争時の捕虜虐待を禁じたジュネーブ国際協定が交わされたのは、太平洋戦争が始まる12年前。しかし、日本政府はこの協定を「準用する」という曖昧な立場をとり、日本兵に協定の存在を教育することもほとんどなかった。

 日本軍に対する失望。何も信じられなくなっていた永瀬さんに、一筋の光が差したのは終戦から1年ほど経った頃だった。永瀬さんに法律論・責任論を超えたひとつの信念が芽生えたのだ。永瀬さんは私財を投げ打ってカンチャナブリに小さなお寺を建立。これまで120回以上タイを訪れ、異国の地に散った捕虜たちの霊を慰めている。永瀬さんの発言や行動に不快感を抱く元日本兵や日本人も少なくないが、ひとりの日本人として亡くなった人たちに謝罪したいと永瀬さんは言う。

 その人生が、まさに泰緬鉄道に導かれてきた旅路であるといえる永瀬さんも今年88歳。泰緬鉄道の世界遺産登録を、歴史を語り継ぐ活動の集大成と位置付けているのである。永瀬さんの姿を通し、戦争の悲惨さだけでなく、歴史を正しく伝える大切さを描いていく。

(注・戦争は悪、だから戦争をした日本の先人は悪人、短絡思考で永瀬 隆が、私利私欲偽善で謝れば謝るほどに先人が、日本が、貶められていることに気付いていない、木だけを見る私利私欲の偽善者だ。先の大戦を検証もせず護国の兵を極悪軍人と決めつけ、不可抗力の疫病死を虐待死であるかの様な報道をする報道者も同罪だ。互いに残酷なのが戦争だ。日本人だけが残酷なのではない)

暮らし・元陸軍憲兵隊通訳・永瀬隆さんの夏
 横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦死者墓地で2006年8月5日の午前営まれた戦没捕虜の追悼礼拝での元陸軍憲兵隊通訳・永瀬隆の挨拶。

 「わたしは終戦直後、泰緬(たいめん)鉄道の沿線の捕虜の墓地の調査隊の通訳をやりまして、3週間、朝から晩まで捕虜のご遺体を拝見しまして、いかに日本人が残酷になれるかということを身を沁みて感じました。そのことを知っているのはこの私ひとりだけです(注・偽善者誇示)

 ・・・「わたしたちは本当になんとも申し訳ないことをいたしましたので(母校の)青山学院の関係者が集まりましてこういうこと(追悼礼拝)を始めましたが、歴史の続く限り、日本国の続く限り、学校の続く限り続けていきたいと思います。みなさまごいっしょにここに眠る1800余りの人のご冥福をずっと祈っていただきますように今後のご協力をお願いいたします」

(注・追悼礼拝は立派なことである。しかしそのために日本人を冒涜し己の名誉欲(私利私欲)を成すとは、語るに落ちている。永瀬隆は、不可抗力の病死を、虐待死と捏造しているのだ。互いに残酷なのが戦争だ。日本人だけが残酷なのではない。永瀬隆は、ここが欠落している。5万人~29万人の犠牲者を出し、工期短縮など現実論の製造業史観では絶無。非現実論の非製造業者「通訳、作家、教授、先生、マスコミ」は職責も果たさず嘘でも成り立つ職業なのだ。私も騙されていた。鵜呑みせず検証しよう)

 開国以来10から20倍以上の超大国と、資源の無い小国日本は対峙し、弱肉強食の時代(話し合いではなく、武力で物事を解決する時代)を軍国の衣をまとい皇民化し一丸となり、不可避の戦いを戦い護国し、国づくりに励み、今の日本がある。禍の無い物づくりなど絶無。護国し国づくりの過程の禍を、己の名誉欲を満たすため、針小棒大に拡大し、あらんかぎりの罵倒をする、子孫と名乗る輩がいる。物事には必ず禍福があるのだ。偽善者の典型、こんな輩は子孫ではない。

 

東京裁判判決から43年後の平成3(1991)年秋NHKスペシャル番組での日本人通訳の証言

 「日本人として同じ日本人である戦犯に、被告を死刑に処するなんていう酷な通訳が出来ますか!判決文の通訳だけは、日系のアメリカ人に代わってくれと言ったんです」

 「デス・バイ・ハンキング」の通訳を断ったという日本人通訳43年後の証言。当時も現代と同様の戦犯バッシングの最中で、なんと、犯日工作員の巣窟NHKでだ。当時の日本人の心根と、気概を語って余りある。元陸軍憲兵隊通訳歴2年・偽善者永瀬隆と、なんと対比が際立つことか。

 

【産経抄】の温まる話

 泰緬鉄道は日本軍が英蘭捕虜を酷使したと戦後プロパガンダされ、「死の鉄道」といわれた。ところが、ビクロムさんの母(当時17歳)は、日本兵が本当はやさしい人々であったと息子に話していた。一念が岩をも通すというのは本当だった。4カ月前の小欄で、戦時中の泰緬鉄道に関係した日本兵を探すタイ人の著名ビジネスマン、ビクロム・クロマディットさん(53)のことだ。そのビクロムさんが、鉄道第9連隊第6中隊で、彼の母親を知る大塚高二さん(91)と対面したのだ。2006年12月7日 【産経抄】

 

カンチャナブリの戦争記念館前にはこう書かれている

Forgive But Not Forget 

以前→日本鉄道隊を許そう でも 忘れない

 以後→宗主国を許そう でも 忘れない

 

防衛庁防衛研究所の資料 『カンチャナブリ戦争博物館』の資料より 「ある戦犯の手記」(樽本重治著 現代資料出版 3200円+税) 鉄道第九連隊資料 泰緬鉄道建設体験記 『運命の旅路~元通訳兵の戦後~』


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

真実史観硫黄島から大統領宛の2通の手紙その一名誉の再会和智恒蔵とジャコビー


硫黄島(いおうじま)から大統領宛の2通の手紙その一

硫黄島戦闘40周年式典名誉の再会 ドナルド・レーガン米大統領宛の手紙

 昭和20(1945)年2月19日、日本本土侵攻をめざして太平洋を北上する米軍は、硫黄島上陸作戦を敢行、本土決戦の第一陣としてこれを迎え撃ったのは、栗林忠道陸軍中将に率いられた約2万1千名の硫黄島守備隊だった。一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けないやうにと米軍の猛爆は地下でかわし、上陸してきた所を叩くという栗林中将の新しい戦術で、結果的には日本軍は36日間持ちこたえ、2万余の大半が戦死したが、7万5千の米軍に対して死傷 者2万6千近い大損害を与えた。米国内では実質的な敗戦ではないか、との批判が出て、太平洋における米海兵隊の最高位の将軍は退陣に追い込まれた。

栗林忠道陸軍中将硫黄島での戦い
 1945年2月19日、日本本土侵攻をめざして太平洋を北上する米軍は、硫黄島上陸作戦を敢行、本土決戦の第一陣としてこれを迎え撃ったのは、栗林忠道陸軍中将に率いられた約2万1千名の硫黄島守備隊だった。一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けないやうにと米軍の猛爆は地下でかわし、上陸してきた所を叩くという栗林中将の新しい戦術で、結果的には日本軍は36日間持ちこたえ、2万余の大半が戦死したが、7万5千の米軍に対して死傷 者2万6千近い大損害を与えた。米国内では実質的な敗戦では ないか、との批判が出て、太平洋における米海兵隊の最高位の将軍は退陣に追い込まれた。

 戦いに勝利したアメリカは、首都ワシントンのアーリントン墓地に「硫黄島メモリアル」(硫黄島摺鉢山に海兵隊員6名が星条旗を押し立てるブロンズ像)を建て、いまなお「比類なき勇気」 (uncommon valor)として称えているほどの戦いだった。祖国防衛のため命を懸けた日本兵士の勇猛果敢な戦い振りに慄然とした米軍は、その後の作戦変更を余儀なくされた。 

 昭和60(1985)年2月19日、将兵やその遺族たち(米側退役軍人・遺族270人、日本側約100人)が、硫黄島で一堂に会する“名誉の再会”が行われた。

 かつて日米が闘った硫黄島戦闘の40周年に日米両国はその地において、元軍人や家族、遺族の参列の下に記念碑の除幕式を開催した。そのモニュメントには片方には英語で「REUNION OF HONOR」、反対の面には日本語で、「名誉の再会」と書いてあり、日英両文で次のように刻まれている。

 硫黄島戦闘四十周年に当たり、曾(か)っての日米軍人は本日茲(ここ)に、平和と友好の裡(うち)に同じ砂浜の上に再開す。我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦ったことを銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之を繰り返すことのないよう祈る次第である。

  1985年(昭和60年)2月19日
        米国海兵隊
        第三,第四,第五師団協会(米国)
        硫黄島協会(日本国) 

 式典では、レーガン大統領からのメッセージはありましたが、日本の中曽根首相からは、なんと、一言のメッセージもなかった。

 この式典に、硫黄島で戦った祖父に連れられて参加した高校1年生(16歳)のマイケル・ジャコビー君は、そこで目撃し体験したことをドナルド・レーガン米大統領(当時)宛の手紙に書きました。

 同時にこの手紙は、1985年に国際ロータリー・クラブが全世界の青少年を対象として行った「平和への手紙コンテスト」にて、4万5千点から最終的に選ばれ、最優秀の国際大賞を受けています。

『 40年前の敵が友情の抱擁 1987(昭和62)年2月9日の朝日新聞
 米国の一人の高校生が、短いエッセーに書いた硫黄島でのわずかな一日の体験が、世界40ヶ国4万5千人の応募者の作品の中から金賞に選ばれ、米国で注目の的になっている。日米関係が経済のきしみから、年ごとに両国民の深刻な関心事となっている折、ともすれば忘れがちな過去の体験、平和のありがたみを想起させる一高校生の新鮮な目を紹介する。

 マイケル・ジャコービー君。18歳。米カリフォルニア州ロサンゼルスから約50キロの公立アーケディア高校の三年生である。日本への関心はほとんどなかった。祖先がノルウェー系のため、北欧に興味を抱いて育った。両親は二歳の時に離婚。近年の米国では珍しいことではない。十歳の時から三年間、新聞配達をやり、その後も小遣いはバイトで稼いでいる。

 エッセーを書くきっかけとなったのは、一昨年二月、太平洋戦争の激戦地硫黄島で行われた、旧日米両軍の生き残り兵や遺族による、合同慰霊祭に参加する祖父から誘われたことだった。

 マイケル君の祖父アール・サラルソン氏(72)は、海兵隊准尉として1945年2月19日、米海兵第5師団の硫黄島上陸作戦に参加。日本軍守備隊と壮絶な攻防戦ののち、九死に一生を得て生還した。耳を裂くような砲撃戦の後遺症で、いまも難聴に悩まされているという。

 祖父に連れられて行った硫黄島での光景は、マイケル君に強烈な印象を与えた。「自分の人生観が変わった」 という。ちょうど国際ロータリー・クラブが「平和の手紙」世界エッセー・コンテストを催していたので、興奮さめやらぬマイケル君は、硫黄島での体験をつづってコンテストに応募。日本の青少年約3千人を含む、世界40ヶ国4万5千人のティーンエージャーによる作品の中から、各国識者からなる審査委員会によって、最優秀エッセーに選ばれ、副賞1万ドルをもらった。(ワシントン=村上吉男特派員)

 エッセーは、米レーガン大統領あての形で書かれている。

ドナルド・レーガン米大統領への手紙

大統領閣下
 私の生涯に深い刻印を残した個人的体験を、大統領にも知っていただきたくペンを取りました。
 私の祖父は、硫黄島の戦の悲惨さと恐怖をよく語り、私も海兵隊員だった祖父の写真を見、書物も読みました。それが1985年2月、にわかに現実のことと化しました。祖父がその戦場に私を連れて行ってくれたのです。

 ・・・・僧侶が焼香を済ませると牧師が説教をし、軍楽隊が両国国歌を吹奏しました。米国側の一将軍が大統領がこの式典のために寄せられたメッセージの代読をしました。

 大統領。私はあの現場で、そのあと何が起こったかをぜひともあなたに見ていただきたかったと思います。両国兵士の未亡人や娘たちは互いに近寄って抱き合い、身につけているスカーフや宝石などに思いのたけを託して交換しはじめました。

 男同士も近づき、最初はやや躊躇いがちに握手していましたが、やがてがっちり抱き合うと泣き出してしまったのです。かっての、この戦場での記念としていた品を「敵」に返している人もいました。

 ふと気がつくと,誰かが私の頭の上に帽子をのせてくれました。かっての、日本軍人です。彼は笑顔を見せながら自己紹介し、彼が被っていたという日本軍の帽子を私にくれるというのです。祖父もそばに来て彼と話しはじめました。大人二人は若い私がこの場に居合わせて、この体験をしっかりと見聞したことを大変喜んでいるようでした。

 ・・・四十年前、二人はお互いに殺し合おうとしていたのです。いま私たちがいるこの場所は、四十年前に爆弾や銃弾、火炎手榴弾が飛び交い死と憎しみに満ちていたはずです。それがいま、わずか四十年でどうしてこれほど変化したのでしょうか。

 祖父と日本兵の様子を見ながら、私は誰も知らない何かを知ることができたような気がしました。どんなに憎み合い相手を殺そうとして戦った敵同士でも友人となり仲間となることができるという事実を、この米国人と日本人の二人によって、全世界の人々に向かって知らせてもらいたいとさえ思いました。二人は手を携え、平和の使節として世界を廻り、その体験を人々に話しかけてもらうことができたらと思いをめぐらした次第です。

 私は祖国を愛しており、祖国を守るために必要があれば戦うつもりでいます。しかし私自身の孫がいつか敵の孫と友情をもって抱き合える日があるのかもしれないと思うと、敵を殺していいものかどうか心乱れるでしょう。

 その日、私は集った人々の顔を覚えようと沢山の写真を撮りました。アメリカの一新聞は、そんな私のことを「日本製のビデオカメラで感動する祖父の姿を撮りまくる一アメリカ少年」という見出しで記事にしました。だがその記者は肝腎な点を見落としています。私が記録したのは、私自身がその場で覚えた感動でした。島で私は最年少でしたから、他の誰よりもこのことを長く記憶に留めることができる。そんな身として、その日の感激を決して忘れまいと決心したのです。

 私は硫黄島で感得したことを、できるだけ多くの人々に伝えるのが私の義務だと思っています。そこで、レーガン大統領、最初にお伝えする人として貴方以上に重要な人は、思いつきません。 

ドナルド・レーガン米大統領への手紙
 完

 このエッセーは米ウォールストリート・ジャーナル紙をはじめ、地元カリフォルニア州の新聞、テレビに取り上げられて大きな反響を呼んだ。レーガン大統領にも送られ、先月、大統領じきじきの手紙が届いた。「君が目撃した涙と抱擁こそ、かつては敵同士だった日米両国民が、いまや確固たる友人、同盟国人であるあかしである」 と述べてあった。

 硫黄島のあと、祖父と京都、広島を訪れた。新幹線の素晴らしさに驚き、日本の都市が混雑しているのにきれいで安心なのに感心した。広島では、戦争の恐ろしさを、残酷さをひしひしと感じたという。

 硫黄島訪問の直後だったせいか、滞日十日間を通じて終始マイケル君の胸を去来したのは、二つの異なった国家、民族、文化があれほどの大衝突をして、わずか40年の間にどうしてこれほどの友情、親近感を持てるようになるのだろうか、という点だった。世界各地には、宗教、民族、あるいは民族分断や歴史的事件から数十年、それ以上の長期にわたって仲直りできない場合が多いというのに……。「将来はぜひ再び日本に行ってみたい」 と目を輝かせる。1987(昭和62)年2月9日の朝日新聞

 ジャコビー少年の手紙に登場する僧侶は、和智恒蔵、海兵50期で海軍硫黄島警備隊司令だった人です。昭和19年10月、和智司令官の中佐から大佐への昇進とともに、突然、内地勤務(横須賀鎮守府付)の人事異動が発令されます。和智大佐にとっては、不本意な内地帰還でした。「ともに戦い、米軍に一矢報いん」あるいは「撃ちてし、やまん」と心に決めていたのでしょう。和智の、「何で俺だけが外されるのか」という無念さは察するにあまりある。

 戦後残務整理を終えて、除隊となり、職業軍人たちはみな帰郷します。しかし、和智は自宅へは戻らず、そのまま京都の天台宗空也堂で得度をして僧侶になり、一方で、硫黄島協会を設立して、硫黄島の将兵の遺骨収集と慰霊に奔走します。ともに死ねなかった男の慟哭は、89歳でこの世を去るときまで消え去ることはなかったことでしょう。

 式典では、レーガン大統領からのメッセージはありましたが、命を懸けて守った日本、日本の中曽根首相からは、なんと、一言のメッセージもなかったのだ。いかなる想いで読経したことか・・・。下種の勘ぐりはよそう。凡人を遥かに超えた高みの人に、戦後の恨み辛みなど、とうに無い。

 少し前、アメリカを旅したときに、太平洋戦争で硫黄島での戦闘に参加したと言うお爺さんに会いました。そのアメリカ人のおじいさんが言った一言を僕は忘れられません。最初、「日本を恨んでいるのだろうな」と思いましたが、おじいさんは僕に「日本兵は勇敢で強かった。今、日本がアメリカの同盟国でとてもうれしい」と言ったのです。
 僕は靖国神社本堂の賽銭箱の前に立ったとき、なぜかあのアメリカ人の老人が言った言葉をまた思い出しました。「日本兵は勇敢で強かった。今、日本が同盟国でとてもうれしい」。そして僕は手を合わせて英霊にこう言いました。「ほんとうにありがとうございました。安らかに眠ってください。日本はこんなに素晴らしい国になったんですよ」と。君のハートに日がまた昇る・荒木鉄士 栗林忠道陸軍中将硫黄島での戦い

 この硫黄島戦闘40周年式典名誉の再会を日米が認識し是々非々をお互いに認識した時、恩讐を超え、真の日米の終戦となる。今年も(2006年3月8日)日米の第2次世界大戦の退役軍人、そしてその家族が第61回硫黄島戦を記念して、「名誉の再会碑」につどった。


戦後68年の今年も恩讐を超えた「名誉の再会」

2013年3月13日米国海兵隊公式サイト

硫黄島の追悼顕彰式で英霊に敬意を払う

 【東京都小笠原村硫黄島】 3月13日、硫黄島戦68周年を追悼する名誉の再会式典への参列のため、当時硫黄島で対戦した日米退役軍人や現役軍人が硫黄島に集結しました。

 式典は過去の激戦や武力衝突を乗り越えて生まれた日米関係の証でもあります。

 ローレンス・スノーデン米海兵隊退役中将は、「ここでの戦闘は68年前に終結し、今、日本は良き友人なので、日本に対する感情は異なります。私たちは忘れることはないかも知れませんが、許すことはできます」と話していました。

 戦後日米同盟は繁栄してきたと硫黄島で戦った元海兵隊軍曹のウイリアム・ショットさんは話し、「かつて戦った場所へ戻ってきて、今、日米は同盟国、パートナーとして和解しています。この式典は素晴らしい経験です」

 68年前に起きた36日間におよぶ激戦ではおよそ3万人の日米兵士が戦死し、海兵隊員にとってここでの戦闘は今日(こんにち)なお重要な意味を持っていると海兵隊総司令官補佐のジョン・パクストン大将は説明し、「硫黄島での戦いは、海兵隊の歴史の中心となっています。海兵隊員にとって、遠い昔に起きたここでの戦闘は、物理的領域を超えて私たちの理念となっています」

 激戦を戦った日本軍と海兵隊員の評判は今日も引き続き受け継がれている。

 スノーデン退役中将は、「当時の若い海兵隊員らが『最も偉大な世代』と呼ばれるのを目の当たりにしてきました。彼らはその称号を勝ち取りました。勝つために彼らは粘り強く戦い、勇気に欠如することなく、決断力があり、必要はことは快く引き受けました」

 今回の追悼顕彰式は退役軍人が硫黄島戦40周年に献呈した岩碑を中心として行われました。

 英文は米軍が上陸した海岸方向を向いて刻まれ、日本文は日本軍が陣営を防衛した山側に刻まれています。

 碑文には、「硫黄島戦闘四十周年に当たり、曾つての日米軍人は本日茲に、平和と友好の裡に同じ砂浜の上に再会す。我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦ったことを銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之を繰り返すことのないよう祈る次第である」と記されている。

資料
『米国大統領への手紙』平川祐弘 著 「平和への手紙・アメリカ高校生の手記」マイケル・ジャコビー著偕成社 1987(昭和62)年2月9日の朝日新聞  「硫黄島いまだ玉砕せず」(上坂冬子, 文春文庫)

つづく硫黄島から大統領宛の手紙ルーズベルトに与うる書市丸利之助その二 

真実史観硫黄島から大統領宛の手紙ルーズベルトに与うる書市丸利之助その二

硫黄島から大統領宛の2通の手紙その二
 海軍少将・ 硫黄島よりルーズベルトへの手紙、。ルーズベルトの狭小な人種差別に対し、市丸少将の世界的視野は21世紀にも通用する。


 日本海軍市丸少将、書を「フランクリン ルーズベ ルト」君に致す。我今我が戦いを終るに当り、一言貴下に 告ぐる所あらんとす。 昭和20年3月26日早朝、硫黄島での陸海軍残存兵力4百は第2飛行場西にテントを張っていたアメリカ軍後方部隊を奇襲し、死傷者132名の損害を与えた。海兵隊が応援に駆けつけ、戦闘が終わると、日本兵の死体196体が残されていた。 その遺体の一つから、冒頭の文で始まる「ルーズベルトニ与ウル書」の英文訳と日本文、両文が発見された。
 従軍記者エメット・クロージャーは、発見の経緯と手紙の本文を4月4日本国に向けて打電し、その内容は米国海軍当局の検閲後、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」以下、各紙に掲載された。その見出しは「死に臨んだ日本の一提督の米国大統領宛の手紙」であった。  
 この手紙は、戦後ベストセラーになったジョン・トーランドの「昇る太陽-日本帝国滅亡史」に全文掲載され、いちやく有名になった。市丸少将とはどのような人物だったのだろうか。 そして死に臨んで市丸少将はルーズベルトに対し何を語ったの か?

「ルーズベルトニ与ウル書」 「A Note to Roosevelt」 補筆真実史観

 日本海軍市丸海軍少将、書を「フランクリン ルーズベルト」君に送る。我今、我が戦ひを終るに当り、一言貴下に告げたい。

 日本が「ペルリー」提督の下田入港を機とし広く世界と国交を結ぶに至りしより約百年、此の間、日本は国歩艱難「こくほかんなん(困難な国の歩み)」を極め自ら欲せざる(望まない)に拘(かか)わらず、日清、日露、第一次欧州大戦、満州事変、支那事変を経て不幸にも貴国と干戈(かんか)を交ふる(戦争)に至れり。之を以て日本を目するに(判断するに)、或は好戦国民を以てし、或は黄禍「こうか(黄色人種が白色人種を凌駕すること。注1)を以て讒誣「さんぶ(事実を歪曲し悪く言いおとしめる)」し、或は以て軍閥の専断「せんだん(独走)」となす。思はざるの(想像すら出来ない)甚「はなはだし(異常)」きものと言はざるべからず(想像すら出来得ない異常なものと言はざるを得ない)。


 貴下は真珠湾の不意打を以て、対日戦争唯一宣伝資料となすと雖(いえど)も、日本をして其の自滅より免(まぬか)るるため、此の挙「きょ(行動)」に出づる外なき窮境「きゅうきょう(苦しい立場)」に迄(まで)追ひ詰めたる諸種「しょしゅ(いろいろ)」の情勢は、貴下の最もよく熟知しある所と思考す。

 畏「かしこ(おそれ多くも)」くも日本天皇は、皇祖「こうそ(天皇の先祖)」皇宗「こうそう(天皇の第二代以後の祖先)」建国の大詔「たいしょう(詔・天皇の言葉)」に明「みん(明白)」なる如く、養正「ようせい(正義の心を養い)」、重暉「ちょうき(正義を重ねて輝かせ)」、積慶「せきけい(慶事を積む)」を三綱(さんこう)とする、八紘一宇(はっこういちう注2)の文字により表現せらるる皇謨「こうぼ(天皇の国家統治の方針)」に基(もとづ)き、地球上のあらゆる人類は其の分「ぶん(力量)」に従ひ、其の郷土に於(おい)て、その生を享有「きょうゆう(生来持っているもの)」せしめ、以て恒久的世界平和の確立を唯一念願とせらるるに外ならず、之、曾(これ、かっ)ては「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」なる明治天皇の御製(日露戦争中御製)は、貴下の叔父「テオドル・ルーズベルト」閣下の感嘆を惹「ひ(人の心をひきつける)」きたる所にして、貴下も亦(また)熟知の事実なるべし。

 我等日本人は各階級あり。各種の職業に従事すと雖(いえど)も、畢竟「ひっきょう(つまるところ)」其の職業を通じ、この皇謨「こうぼ(天皇の国家統治の方針)」、即(すなわ)ち天業「てんぎょう(天から授かった事業)」を翼賛「よくさん(たすけること)」せんとするに外ならず。我等軍人亦(また)、干戈「かんか(武器)」を以て天業「てんぎょう(国の事業)」恢弘「かいこう(押し広める)」を奉承「ほうしょう(命を受け遂行する)」するに外ならず。

 我等今、物量を恃(たの)める貴下空軍の爆撃及艦砲射撃の下、外形的には退嬰「たいえい(後退)」の已(や)むなきに至れるも、精神的には弥(いよいよ)豊富にして、心地益(ますます)明朗を覚え、歓喜を禁ずる能はざるものあり。

 之天業翼賛の信念に燃ゆる日本臣民の共通の心理なるも、貴下及「チャーチル」君等の理解に苦む所ならん。今茲(ここ)に卿等「けいら(卿
は相手を敬う呼称・等は複数・ルーズベルトとチャーチルの二人)」の精神的貧弱を憐み、以下一言以て少く「すこしく(少し)」誨「おし(教え、さとす)」ゆる所あらんとす。

 卿等(けいら)のなす所を以て見れば、白人殊(とく)に「アングロ・サクソン」を以て世界の利益を壟断「ろうだん(独占)」せんとし、有色人種を以て、其の野望の前に奴隷化せんとするに外ならず。之が為、奸策「かんさく(悪巧み)」を以て有色人種を瞞着「まんちゃく(あざむき)」し、所謂(いわゆる)悪意の善政を以て、彼等を衷心「そうしん(心を失う)」無力化せしめんとす。近世に至り、日本が卿等(けいら)の野望に抗「こう(はむかう)」し、有色人種、殊に東洋民族をして、卿等(けいら)の束縛より解放せんと試みるや、卿等(けいら)は毫「ごうも(少しも)」も日本の真意を理解せんと努むることなく、只管(ひたすら)卿等(けいら)の為の有害なる存在となし、曾(かっ)ての友邦「ゆうほう(友好国)」を目「もく(判断)」するに仇敵野蛮人を以てし、公々然として日本人種の絶滅を呼号するに至る。之、豈「あに(どうして)」神意「しんい(神の心)」に叶(かな)ふものならんや。

 大東亜戦争に依(よ)り、所謂(いわゆる)大東亜共栄圏の成るや、所在各民族は我が善政を謳歌「おうか(ほめたたえる)」し、卿等(けいら)が今之(これ)を破壊することなくんば、全世界に亘(わた)る恒久的平和の招来「しようらい(招きよせること)」、決して遠きにあらず。

 卿等(けいら)は既に充分なる繁栄にも満足することなく、数百年来の卿等(けいら)の搾取より免(まぬか)れんとする是等(これら)憐(あわれ)むべき人類の希望の芽を何が故に嫩葉「どんよう(若葉)」に於「おい(の時に)」て摘み取らんとするや。(大東亜戦争は)只東洋の物を東洋に帰すに過ぎざるに非ずや。卿等(けいら)何すれど斯くの如き貪欲にして且つ狭量「きょうりょう(心が狭い小人物)」なる。

 大東亜共栄圏の存在は、毫「ごう(少しも)」も卿等(けいら)の存在を脅威せず、却「かえ(逆に)」って世界平和の一翼として、世界人類の安寧「あんねい(平和)」幸福を保障するものにして、日本天皇の真意全く此の外に出づるなきを理解するの雅量「がりょう(広い度量)」あらんことを希望して止まざるものなり。

 翻(ひるがえ)って欧州の事情を観察するも、又相互無理解に基(もとづ)く人類闘争の如何(いか)に悲惨なるかを痛嘆「つうたん(悲しみ嘆く)」せざるを得ず。今「ヒットラー」総統の行動の是非を云為「うんい(言行をいちいち非難すること)」するを慎「つつし(ひかえる)」むも、彼の第二次欧州大戦開戦の原因が第一次大戦集結に際し、その開戦の責任の一切を敗戦国独逸(ドイツ)に帰し、その正当なる存在を極度に圧迫せんとしたる卿等(けいら)先輩の処置に対する反発に他ならざりしを観過「かんか(見落とす)」せざるを要す(注3)

 卿等(けいら)の善戦により克(よ)く「ヒットラー」総統を仆(たお)すを得るとするも如何(いか)にして「スターリン」を首領とする「ソビエットロシア」と協調せんとするや。凡(およ)そ世界を以(もっ)て強者の独専となさんとせば、永久に闘争を繰り返し遂に世界人類に安寧「あんねい(安泰・平和)」幸福の日なからん。

 卿等(けいら)今、世界制覇の野望一応将(まさに)に成らんとす。卿等(けいら)の得意思ふべし。然れども、君が先輩「ウィルソン」大統領は、其の得意の絶頂に於て失脚せり。願わくば本職「ほんしょく(官職の自称・本官)」言外の意を汲んで其の轍を踏む「てつをふむ(先例を繰り返す)」勿(なか)れ。

市丸海軍少将 海軍少将・市丸利之助

 英文に翻訳したのは、ハワイ生まれの三上弘文兵曹。この「手紙」は、3月17日に海軍将兵への訓辞に際して読まれ、26日村上治重大尉が、日文英文各一通を腹に巻いて出撃した。市丸少将の手紙は、4月4日に米国に打電されていたが、ルーズベルト大統領はそのわずか8日後に死去した。大統領が手紙を読んだかどうかは定かではない。しかし「得意の絶頂に於いて失脚」したウィルソン大統領の「轍を踏むなかれ」との警告が的中したかのようである。

注1
 黄禍論(こうかろん) 黄色人種が白色人種を凌駕するおそれがあるとする主張。アジアに対する欧米諸国の侵略、黄色人種の圧迫を正当化するために用いられた。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が日清戦争、義和団事件などに際して、日本の進出に対する反感からこの言葉を用いた。Yellow Perilという英語となって、日露戦争以後広まり、中国系移民や、日系移民の排斥につながった。

注2
 八紘一宇:(はっこういちう) 大東亜共栄圏建設の理念として用いられた言葉。第2次近衛文麿内閣(昭和15年7月に成立)が決定した基本国策要綱の中の「八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神」に由来。八紘は、八つの方角で全世界の意。宇は家のこと。全世界を一軒の家のように睦まじくすること。

 田中智学(1861~1939)は、日蓮主義の宗教家、国柱会の創設者、戦前の日本国体思想に多大の影響を与えた思想家である。「八紘一宇」という言葉は、彼が日本書紀の「八紘為宇」という語句を使って造語したものである。中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学
http://www.yorozubp.com/0511/051109.htm
 

注3
 「ヒットラー」を善悪(戦勝国捏造宣伝丸暗記)史観は、「極悪」と罵倒しているが、「ヒットラー」は国民の選挙で選ばれた(ドイツ国民の総意)。「なぜ?どうして?」と「真実史観」で検証すると、「ドイツWW1の休戦条件は、『食料の緊急支援』であったが、休戦後、英・仏政権はこれを無視(ドイツ国民を騙した)。結果、80万人もの餓死者(ほとんどが老人女子供)となり、これが、ドイツ国民の『ヒットラー』を産み育てるトラウマとなり、このトラウマが、WW2復讐戦争の、原動力となった。(軍国に非ず護国主義日本駄目押し証拠アメリカはアジアに介入するな!)」に、たどり着く。
 現在は善悪(戦勝国捏造宣伝)史観で封殺されているが、「復讐の連鎖の切断(戦後条約)ではなく、騙した(条約不履行で復讐戦争を煽った)」。これは、当時の常識。市丸利之助はこのことを踏まえて、記している。
 勝者がすべての戦国時代の常識とはいえ、むごい結果である。これが、当時の日本のトラウマ(尼港・済南・通州等)と重なり、「条約不信徹底抗戦」の一つとなったことは、言うまでも無い。加藤陽子やNHK等が、降伏が遅れたから被害が拡大したと難癖扇動だが、降伏の方法が肝心なのだ!

 今でも、「不戦はバラ色」を脳天気でとなえるお馬鹿が後を絶たないが、思索回路欠落病人である。敵は米国のみではない!たとえ前門の虎(ABCD)と不戦でも、後門の狼(ソ中合作)が攻めて来た!朝鮮戦争が歴然たる証拠

 市丸少将はあの時代の軍人であった。あの時代のその人が、世界史的視野(第二次欧州大戦開戦の原因)を有していたことを随所に読み取ることができる。共産党ではなく凶産党と喝破し、戦後の冷戦をも予言している。先人は皆、善悪史観者の言う皇民化ロボットではない。自らの意思で世界を見、自らの意思で護国したのだ。故に文が、明晰で、静かで、透明なのだ。明治以後の小国日本、憂国の思いが、大東亜戦争の目的が凝縮されている。この書は大東亜戦争の真実、受動戦争を、命を懸けて書いた日本軍将兵の総意の叫びだ。この書読破後も尚、玉砕は自殺と叫ぶ子孫がいるだろうか。大東亜戦争紐解く鍵、五種の文の一つだ。

 先人冒涜をつづける人々よ 卿等(けいら)を、犯日半端者の輩(教授新聞出版社NHK等の放送局)や、凶産中国北朝鮮韓国罪日に置き換えて再読してほしい。物事にはすべて禍福がある。禍、判断は半人前史観、つまみ食い史観で、禍福判断は一人前史観、真実史観だ。戦後の日本やアジアの繁栄は、先人と共に戦い覚醒した、アジアの先人のお陰なのだ。歴史には、逃げ場が無く、背水の陣で死に物狂いとなって戦わなければ通過出来ない時代が、必然的に存在する。織田信長の桶狭間がそうだ。日清、日露、大東亜、10~20倍以上の超大国が相手だ、いずれの戦いも、日本においては背水の陣、桶狭間の戦いだったのだ。護国指導者と国民の苦悩が髣髴する。

軍民一丸の思いはみな同じ⇒十二月八日・危急の日に高村光太郎日本蜂起大東亜戦争開戦真実の詩

 
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真実史観「公」の天皇と東條・「私」の近衛


「公」の天皇と東條・「私」の近衛  

近衞文麿  開戦前、3回組閣し、開戦(昭16.12.8)直前までの総理(昭16.10.18)。スターリンの手先、元朝日新聞記者(1926~1938)尾崎秀実(ほつみ)を第一次~第3次まで近衛内閣のブレーンにした。開戦直前の(1941年昭16.10.)、ブレーンの尾崎秀実、ソ連、スターリンのスパイ、ゾルゲへの機密漏洩で、共にスパイとして逮捕処刑(1944.11.7)された。近衞文麿のブレーンが、スターリンのスパイだったのだ。 

 戦後「手記~平和への努力」を発表し、日中戦争の泥沼化と、太平洋戦争の開戦の全責任を軍部に転嫁し、自分は軍の独走を阻止できなかったことが遺憾であると釈明した。(注・軍は反共を認識し、反共戦争をしていたし、戦争不拡大の方針であった。暴走ではない。近衞文麿は反共を認識せず、
スターリンに操られ、日中戦争にした。「大アジア主義に殉じた人々」の年表の項目を参照。年表が明白に語っている) 

 戦後、
近衛文麿の手記が、1945年12月20日から11回朝日新聞に連載された。手記の中で近衛は、戦争回避に天皇はもっと行動すべきだった。と、主張している。 (列強の侵略戦争なので回避不可は明白だった)

 1945年12月6日に、
GHQからの逮捕命令を聞いて、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることを知った。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の1945年12月16日、東京都荻窪の自宅・荻外荘で、青酸カリを飲んで自殺。これは、昭和天皇に戦争責任が及ばないようにとの苦渋の選択による行為だったと言われている。がしかし、軍部の将は天皇である。全責任を軍部に転嫁したのは近衛である。 

 
近衛文麿の女婿で、その秘書官をつとめた細川護貞は、東條の自殺未遂の報を知ると「傷つきたる後の談話といひ、今日に至りたる態度といひ、人間の出来損なひなること明瞭なり。かゝる馬鹿者に指導されたる日本は不幸なり」と翌日の日記に記した。…『細川日記』(9月12日の記述)
『「文明の裁き」をこえて』牛村圭著・中公叢書・2000年発行(前掲書103~104頁) 


 弱肉強食の時代戦わざれば確実に亡国、戦うもまた亡国であった。まさに独立国日本の存亡をかけた資源封鎖防御、護国のための、回避絶対不可の自衛戦争なのだ。全責任を負濁」併せ呑んだ、「公」の天皇と東條。軍隊に「濁」を責任転嫁し、「清」だけを呑んだ、「私」
近衛文麿と女婿で、その秘書官をつとめた細川護貞。対比が際立つ。


 
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真実史観バターン死の行進棄軍マッカーサーと救民本間雅晴と夫人本間富士子


バターン死の行進棄軍マッカーサーと救民本間雅晴と夫人本間富士子

バターン半島死の行進
 
本間雅晴中将率いる日本軍が、南北よりマニラ進撃すると、
アメリカフィリピン軍司令官ダグラス・マッカーサー大将はマニラの非武装都市宣言し、バターン半島とコレヒドール要塞に立て篭った。1月から4月9日まで3ヶ月半、3万人の日本軍がまずバターン半島を包囲し戦った。食料、医薬品等の補給がすでに途絶えており、降伏したときには多くの人が負傷したり、飢えとマラリア、赤痢等の悪病のために、痩せ衰えていた。アメリカフィリピン軍捕虜八万、ほかに避難民が約二万六千人、計十万六千人を速やかに後方へ輸送する必要が生じたのだ。(注・捕虜と避難民の人数は原書房「日本の戦争 図解とデータ」による)

 しかし、コレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く状態で、移動手段は徒歩しかなかった。しかも、まだ戦闘は終わっていない、コレヒドール島にはまだ敵がおり戦闘中なのだ。捕虜のほとんどは栄養失調か、あるいはマラリア、赤痢の病人たちだ。食料や医薬品は前線では限界があり、長びけば共倒れとなる。至急の移送が要求された。留まれば確実に死、移動も死であった。

 確実に死ではなく、徒歩移動を決断した。捕虜は第一線から徒歩で途中汽車に乗り、サンフェルナンド収容所へ送られた。1日10kmから15km。88kmを7日から11日かけて歩いた。日本の兵隊が一人で二百人も三百人もの米兵を護送する。中には一人で五百人も米兵を引率してゆく。圧倒的多数の捕虜に襲われたら一溜まりも無い、日本兵の恐怖も、計り知れないものがあっただろう。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に対し、背嚢を背負い銃をかついで歩いた。病の重い捕虜は、道中で倒れた。マラリア患者が大部分だった。日本兵も倒れた。

 
弱り果て倒れた捕虜の数は、2300人。輸送中の捕虜7000人が死んだ。
フィリピン人約10000人、アメリカ人約1200人が路上で死亡。アメリカ兵1200人、フィリピン兵16000人の死亡。アメリカ兵1500人、フィリピン兵29000人の死亡。バターンの捕虜移動後製作された、米反日プロパガンダポスターの記述、米捕虜5200人フィリピンで日軍による肉体的な苦痛によって殺害、残酷な「死の行進」。死亡者の数が定まらない。避難民や逃亡兵を死亡者として計算したからだろう。避難民約二万六千人は捕虜では無いので、収容所には行かない。プロパガンダでさえ5200人なのだ、2300人が正解ではないか。

 4月12日、コレヒドール島で戦況を見守っていた
マッカーサー司令官は、ルーズベルト大統領の命を受けて妻子と魚雷艇でコレヒドール島を脱出した。ミンダナオ島からは爆撃機でオーストラリアに向かった。ダーウィンに到着後の記者会見で、「I shall return(わたしはまた帰る)」と述べた。

 5月6日コレヒドール島も陥落して、ここに
フィリピン攻略作戦は完了した。
 本間雅晴中将が捕虜虐待戦犯として、銃殺される事になった顛末の真相である。戦時下なので捕虜にせず、包囲したままで、餓死させればよかったのか。他にどんな手段があったというのだ。民間人を巻き込み籠城し、病気にかからせ、瀕死にして、妻子と共に逃亡した
マッカーサー司令官に罪は無いのか。

 「バターン死の行進は 
実に極悪な残虐である」日本人の子孫と称する愚かな輩の、先人を罵倒する意見がある。戦闘中の捕虜移送なのだ、本間雅晴中将はその限られた選択肢の中から最良の選択をし、決断しただけにすぎない。日本軍3万人に対して、コレヒドール島で元気な兵は戦闘中、病人の10万6千人だけが降伏したことが悲劇の原因だ。本間雅晴中将は最善を尽くした。子孫と称する愚かな輩より、敵国米国の弁護人の方が、是々非々で正論だ。

 マニラ軍事裁判の日本の弁護人、
アメリカフランク・リール弁護人は次のように述べている。「祖国を愛するいかなるアメリカ
人も消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさ無しには、この裁判記録を読むことはできない・・・。われわは不正であり、偽善的であり、復讐的であった」

マニラに向かう前の夫人の会見を伝えた新聞記事
 「主人の命乞いに行くのだというような気持ちは、毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、真実の本問を全世界の人々に一人でも多く知っていただきたいのです…裁判の結果などはいまから念頭にありません」

  
「私の責任の重大さは十分認識しています。衆人環視の法廷に立って少しでも気怯れがして言うべきことも言えなかったりしてはなりません。日本の家庭婦人としての面目を少しでも傷つけるようなことがあったら日本の皆様に本当に中し訳ないことだと思います。日本の女として初めて世界の視線に立つだけの覚悟は十分致して参るつもりでおります」(昭和二十一年一月十二日付朝日新聞)

 昭和二十一年(一九四六)二月七日、元
フィリピン派遣軍総司令官・本間雅晴中将を戦犯として裁く、マニラ軍事法廷で、弁護人側証人出廷最終日であった。被告の妻・本間富士子(当時四十二歳)は証言の終わりに、

「私は東京からここへ参りました。私は今も本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。私には娘がひとりおります。いつの日か、娘が私の夫、本間雅晴のような男性とめぐり合い、結婚することを心から願っております。本間雅晴はそのような人でございます」

この言葉が伝えられると、法廷のあちこちからすすり泣きの声があがり、米軍検察官の中にも感動のあまり涙を拭う者がいた。そして本間雅晴自身も、妻の自分に対する絶対的な尊敬と愛の言葉に接し、ハンカチを顔にあて嗚咽した。

 終戦直後のマニラは、日本人とみれば罵声が浴びせられ、石が飛んでくるほど、反日感情が充満していた。しかし、夫人の証言を聞いた
フィリピン人たちまでもが、証言を終えた彼女に争って握手を求めた。翌日のマニラ・タイムスをはじめとする地元紙も、彼女に対する好意に満ちた記事をこぞって掲載した。

 
マッカーサーと面会した後日、富士子夫人はこの日マッカーサーと会ったことについて、「本間家の子孫に、本間雅晴はなぜ戦犯として軍事法廷に立ったかを正確に知らせるため、裁判記録がほしかったのです。あれを読めば雅晴に罪のないことがわかり、子孫は決して肩身の狭い思いなどしないはず、と思いましたので」
(『いっさい夢にござ候』角田房子著 中央公論社)

 本間雅晴中将、山下泰文
大将
、共に処刑された。

甦れ美しい日本・. 塚本三郎「国歌を歌ってお別れを…」


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真実史観基本のルールを知らない専門家と称する常識から遊離した人々


基本のルールを知らない専門家と称する常識から遊離した人々

 原点からの視点で見ると透けて見える、政治とは、人民が天寿を全うするように、決定することである。何何主義と名前を変えて色々あるようであるが、決定に人民が参加出来るか出来ないかの二つしか無い。民主主義は共産主義(農家や漁師や商店や会社等々。)の集合体である。民主主義の根幹は多数決である。決定までは、喧々諤々でも良いが、良かれ悪しかれ多数決で決定すれば、反対した人も決定に従うのが、民主主義の根幹となる、最も基本のルールである。それでも反対であれば離党し反対すればよい。離党もせず、多数決の決定にも従わず、反対を唱え続けるのは駄々っ子で、民主主義の根幹を知らないルール違反で、民主主義が成立しない。

 船にたとえると分かりやすい。多数決で決定した行き先に向かい、反対者も共に漕ぐから、舟は進む。決定に従わず、船を漕がないでまだ反対するのであれば、船は重くなり進まない、下船してもらうしかないのだ。再び、乗船したいのであれば、意見は言うが決定には従い船を漕ぐ事を宣誓しなければ、乗船許可は下りない。これが民主主義の根幹のルールだ。

 マスコミは貫いた平沼議員、と賞賛しているが、民主主義の根幹も知らない他の非民主主義派の反対者や野田議員と同類である。始めに離党ありきで、次に貫くのが筋道だ。現実社会でルール違反の育成をすれば植物は枯れ、動物は死ぬ。方針に従わないものは民では解雇である。民意から離れた国は崩壊する。だから小泉首相は駄々っ子と判断し解雇した。民主主義の根幹となる、最も基本のルールを指摘しない議員、官、識者、評論家、専門家、マスコミ等々、余りにエキスパートであるが故に井の中の蛙となってしまったのか、いったい日本はどうしたのだ。

 強行採決と叫ぶ愚かな野党。採決には正か不正かがあるだけで多数決は強行採決などでは無い。それが多数決のルールなのだ。強行採決と叫び冒涜するな。   

 最近
自民党を解雇された議員の復党問題が、マッチポンプで騒々しい。復党するのであれば、「反対は間違いだったので間違い認め復党します。今後は、民主主義の根幹の多数決のルールに基づき、多数決で決定されればたとえ反対意見であっても、決定事項にしたがいます。決定後も離党もせず反対し、民主主義国家日本で、民主主義の根幹の多数決のルールを冒涜いたしまして、真に申し訳ありませんでした」と、自民党ではなく国民に謝罪すべきだ。

 目には目を歯には歯を。この敵討ちを被害者に成り代わってするのが、裁判だ。検察官、弁護人で討論し、裁判官が判決を下して刑が確定する。被害者、加害者には確かに人権は存在するが同じではない、心神喪失であろうが加害者が原因なのだ、人権優先は被害者だ。心神喪失等の理由で、社会常識無視の加害者優先の判決や弁護が、最近多すぎる。このままでは、釈放後、加害者殺害事件が多発する事は間違いない、司法は至急原点に帰れ。

 究明し事実に基づき妥当な刑にするのが弁護士の根幹ルールだ、白を黒にする捏造がルールでは無い。光母子殺害被告弁護団22人は語るに落ちた。自らを裁判で日本中に得意げに自白した。われわれは捏造弁護士22人であると。社会常識外れに気付かない愚か者集団だ。免許は更新制にすべきだ。弁護士は至急原点に帰れ。

 民主主義の最も基本のルールを指摘しない議員、官、識者、評論家、専門家、マスコミ等々、皆、歯車思考だ。根幹が見えていない似非人間だ。社会常識から遊離した人々よ至急原点に帰れ。真実史観で究明の起因ここにあり。日本よ、日本人よ、原点に回帰し、再構築しよう。


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真実史観特攻隊員と上野歌子先生とフッペルのピアノと鳥栖


1特攻隊員と上野歌子先生とフッペルのピアノと鳥栖

 1930年(昭和5年)鳥栖(とす)町(現在の佐賀県鳥栖市)の婦人会が、「こどもたちにいい音楽を、本物のいい音を聴かせよう」と、寄付金4500円(1億円相当)を集め、ドイツから、最高級のグランドピアノを取り寄せ、鳥栖国民学校(現鳥栖小学校)に寄付した。鳥栖小学校の音楽主任教師の陶山聡先生が選定したピアノは、当時日本に2台しかないドイツ・フッペル社のグランドピアノ、鍵盤は象牙製であった。街じゅうで歓迎した。

 

 1945年5月(終戦8月15日)二人の特攻隊員が10キロを歩き、佐賀県鳥栖国民学校(現鳥栖小学校)を訪れた。応対したのは19歳、音楽教師の上野歌子先生、ドイツの名器・フッペルのピアノ。このピアノの係上野先生は、空襲警報が鳴るたび、深夜でも学校に駆けつけ、近くの川からバケツで水を汲み上げ、貴重なピアノを、これまで火から守ってきた。

 

 自分たちは、上野音楽学校(現・芸術大)ピアノ科出身の学徒出陣兵です。明日、特攻出撃することになりましたが、学校を出て今日まで、演奏会でピアノを弾く機会がありませんでした、今日思いきりピアノを弾いて、明日死にたい、二人だけの演奏会を開きたいのです。
 居合わせた生徒と先生を前にして、初めてで最後の演奏会が開かれた。

 

 二人はベートーベンのピアノソナタ第14番「月光」、「海ゆかば」などを、心ゆくまで弾いた。帰り際二人の少尉は、「この戦争はいつかは終わります。しかし、今自分達が死ななければ、この国を君たちに残すことはできません」といって、子供たちの頭をなで、満足の微笑みをたたえながら去って行った。

 

 子供たちや先生は皆泣き、「海ゆかば」を共に歌い、敬礼して見送った。翌日、二機の戦闘機が小学校の上空を旋回し、翼を振り、沖縄戦へ飛び立った。

 

 俺は生きたい、そう願った兵が死に。死を願った兵はエンジン不調で生き残った。

 

 1989年(平成1年)時は流れた。終戦44年後、フッペルがいつしかほこりにまみれ、体育館の隅の古びたピアノに変り、廃棄処分となるとき、上野先生は、「廃棄されるくらいなら、私の手元に置きたい」と願い出て、ピアノと二人の特攻隊員の思い出を、鳥栖小学校の全校朝会で語った。戦後の洗脳教育極悪日本で、44年間も封印されていた話を、堰を切ったように上野先生は一気に語ったのだ。古びたピアノフッペルが、今わの際に、上野先生をうながしたのだろう。

 

 1990年(平成2年)5月27日深夜、九州朝日放送ラジオスペシャル『ピアノは知っている―あの遠い夏の日―』がオンエアされるや否や、この番組は、各地に大きな反響を巻き起こした。この番組を聴いていた福岡や佐賀のタクシー運転手たちは、涙で前方が霞み、車を止めて、「よかラジオがありよるばい!」と無線で報せあい、じっと聴いていました。おかげでその1時間は、タクシーがなかなかつかまらなかったと言う逸話が残っている。

 

 1990年(平成2年)フッペルのピアノは国民の皆さんの応援で、調律・修理され「平和の願いの証し」として蘇える。

 

 1990年(平成2年)45年後、鳥栖小の体育館で生残りの特攻兵と上野先生との再会。・・・・「私は生き残ってしまいました」・・・・「よう生きとってくださいました」。迎える蘇ったフッペルのピアノ。そして、45年を経てかなでられしベートーベンのピアノソナタ第14番「月光」。♪♪~・・・・・

 

 1992年(平成4年)上野歌子先生、ピアノの思い出講演の旅先、宮崎で逝去。行年66歳。

 

 1993年(平成5年)フッペルのピアノは、知覧(鹿児島県)特攻平和記念会館のロビーに置かれる。

 

 1995年(平成7年)よりフッペルのピアノは鳥栖駅の東、鳥栖スタジアムのすぐ隣にある「サンメッセ」(多目的施設)の一階(ふれあい広場)に、置かれている。

 1995年(平成7年)9月2日「第1回鳥栖こどもピアノコンクール」開催!

 2002年(平成14年)特攻兵逝去。

 

 当時居合わせたこどもたちや先生、歌子先生、二人の特攻兵を偲び、多くの人が訪れて、フッペルのピアノを奏でている。

 魂を込めて奏でれば、いつしか皆が、彷彿としてよみがえるという、ふるきピアノ、フッペル。♪♪~・・・・・

 

 月光を 弾きて往きたる特攻の 思い 語るか 古き ピアノよ (上野歌子 詠)

 


参考資料
「フッペルのピアノ」の歴史 「月光の夏」毛利恒之著・汐文社

 

2映画『月光の夏』はWGIPNHK史観の虚構物語新映像化がベスト

『月光の夏』映画と小説の顛末と真実

DVD検索「月光の夏」を探す(楽天)より転載

映画のあらすじ※受け狙いの脚色

 終戦から45年ほど経過したある日、佐賀県の鳥栖小学校を退任していた吉岡公子先生は、体育館の片隅で埃を被っていた古いグランドピアノが廃棄処分されると聞き、思い出深いピアノを引き取らせて欲しいと頼む。

 終戦間際の昭和20年6月、吉岡先生は当時高価だったピアノの担当をしていたが、最期の名残にピアノを弾かせて欲しいと二人の特攻隊員が訪れ、このピアノを弾いたというのだ。一人は上野の音楽学校のピアノ科専攻で、ベートーベンの「月光」を弾き、もう一人は熊本師範で音楽教師を目指している青年だった。 5km離れた目達原基地から線路を走ってやってきた特攻隊員の最期の演奏を聴いた吉岡先生は、生けてあった花を二人に手向ける。その後、特攻隊員が再び訪れることはなかったが、この話しを聞いた校長先生は全校生徒に講演することを勧める。

 この逸話は瞬く間に広がり、テレビ等でのドキュメンタリー番組として取り上げられるが、放送を見た人々から様々な反響がある。廃棄処分されることとなっていたピアノは修理して保存しようという運動となり、二人の特攻隊員の消息の情報も入り始める。自らも特攻隊員だったという老人結城は、特繰1期の隊員ではないかと推理し、隊員名簿から音楽専攻の出身者を捜したところ、熊本県に生存している風間森介さんではないかと情報提供する。すぐさま九州日報の記者が電話連絡を入れるも、本人は全く覚えていないと答える。このことが記事となり、実は吉岡先生の体験談は嘘ではないかとの憶測すら出始める。

 不信感を抱いた地元ラジオ局の記者石田りえは、ドキュメンタリー作家の三池安文の協力を得て取材を進めるが、風間は堅く口を閉ざしたままだった。三池は吉岡先生を連れて知覧特攻会館を訪れ、そこでピアノを弾いた隊員が海野光彦少尉であることを確認する。また、特攻から引き返してきた隊員が福岡の第6航空群司令部にある「振武寮」に集められていたことを突き止める。大牟田に在住の石倉氏から振武寮について話しを聞き出したところ、外部との接触も一切認められず、臆病者として4,50人が厳しい監視下に置かれていたことが判明する。三池の従兄弟もまた特攻帰りとして不遇の戦後を送っており、三池自身他人事ではなかったのだ。

 ついに風間が口を開く。風間少尉は知覧に転身した後、久本啓之中尉(22)を隊長に、海野少尉(22)、木場周一伍長(17)、新藤武志伍長(18)、中島秋男伍長(17)の6機で特攻に出撃するも、エンジントラブルで単機引き返した。再出撃もなく福岡の司令部に出頭を命じられるが、そこで待っていたのは矢ケ島作戦参謀少佐の痛烈な皮肉と侮辱だった。臆病者として振武寮で精神の涵養を命じられ、外部との接触を一切禁じられた。振武寮には、再起をかけ同様に引き返してきた隊員がおり、中には侮辱した作戦参謀の部屋に特攻をかけようというものまでいたというのだ。

 風間は妻を連れて吉岡先生の待つ小学校へ赴く。風間の妻は海野少尉の妹だった。吉岡先生とピアノに再会した風間は、ベートーベンの月光を弾くのだった。

 

振武寮の真実

 日本ネチズンは大多数が覚醒し、原作「月光の夏」 毛利恒之著・汐文社は、NHK(WGIP)捏造史観に気付いた。

あまりにも事実と異なる脚色に反論した労作HPで、正論である

振武寮の虚構 06.6.8/07.1.17より転載

振武寮の虚構 06.6.8/07.1.17

 先日、特攻を研究テーマとされている日本史専攻の大学院生加藤拓さんから、「振武寮」に関する研究ノートを送っていただきました。

 振武寮は、第6航空軍司令部が不時着生還した特攻隊員を収容するために、接収した女学校内に設置したとされる宿舎です。

 振武寮に関しては公的記録が皆無であるため、数少ない市販出版物に頼るほかありません。加藤さんのノートは、振武寮に触れているいくつかの出版物の記述を、客観的に比較検証したものです。

 私自身は、振武寮については今まで特段の関心はなく、ほとんど知識もありませんでしたが、この機会に手元の資料に改めて目を通し、頭に閃いたことを書き出してみたいと思います(但し、加藤さんのノートの内容に対する論評ではありません)。

1.生還は想定外だったか

 特攻の町・知覧―最前線基地を彩った日本人の生と死では、倉沢元参謀の言から

<当時の六航軍は特攻隊員が目的を果たさずに生きて帰ってくるなどとは考えていなかったため、次々と帰ってくる死んだはずの特攻隊員をいったいどのように処理したらいいのか分からなかったそうである>
と書いていますが、これは違います。

 ぶっつけ本番の特攻であった捷号作戦(比島)とは違い、天号作戦(沖縄)では周到な準備がなされていたと思います。また沖縄までは非常に遠いため、天候に大きく左右されることも必然であり、出撃後の帰還や途中不時着は想定されていました。
 隊員は不時着時用の食糧も携行し、教育の中でも無理をせず帰ってくるように指導されていたはずです。もしそうでなかったのなら、彼らの多くは自爆して帰らなかったに違いありません。

2.滞在期間

 これは核心に迫る極めて重要な点なのですが、振武寮について記述した出版物らは、何故か何故か滞在期間には触れていません。彼らが、あたかも長期に渡る監禁生活を強いられたように思わせたいのでしょうか。

 「振武隊編成表」によると、上記出版物に登場する22振武隊の大貫少尉、39振武隊の牧少尉らが重爆で喜界島から福岡に帰還したのが5月28日で、この直後に彼らは振武寮に入ったと考えられますが、付属文書である「振武隊異動通報第2號」を見ると、6月13付で、大貫少尉ら振武寮に宿泊していた在福岡人員45名(全員が喜界島からの帰還者)が明野教導飛行師団をはじめ、いくつかの戦隊等に転属しております。

 また、65振武隊片山少尉は5月14日に知覧から飛行機受領のため福岡に戻り、当初はしばらく旅館に宿泊していたが、その後振武寮に移ったということです。移ったのが何日のことなのか定かではありませんが、片山少尉は、異動通報第6號によれば、6月1日付で明野教導飛行師団に転属しています。
 更に6月13日~19日に福岡に着いた23名は、同22日~25日に上記同様転属となっています。つまり、帰還隊員たちが振武寮に滞在した期間は、そのほとんどが約1週間~2週間、最短は3日程度でしかないのです。

3.機密保持

 第6航空軍司令部は特攻隊員用の宿舎として、当初は借り上げた旅館を使っていたそうです。このようなことは珍しくはありませんが、帰還隊員の宿泊者が増えてくると町中の旅館では不都合が生じるのは当然です。

 今日ではピンと来ないかもしれませんが、最大の不都合は機密保持であったと思われます。また軍隊としては当然のことですが、旅館では軍紀の維持もままならなかったと考えられます。

 振武寮での滞在中、外出や外部との通信が制限されたことが、後記『特攻日誌』の「監禁」という誇張した表現になっているのですが、隊員たちは帰還したといっても、未だ作戦自体は進行中であり、機密保持が優先されるのは当然であります。もしも帰還隊員全てが家族等と連絡をとれば、そこから作戦の帰趨等の機密が漏れる可能性は十分に考えられます。

 『特攻の町知覧』では、にもかかわらず女学生の慰問が行われたのを「謎」と書いていますが、これはおそらく、隊員たちに息抜きをさせるために司令部が依頼したもので、何も不思議ではありません。

4.志願か命令か

 特攻が志願であったか命令による強制であったのかは、戦後ずっと議論がありますが、これはどちらも正しいと思います。軍という組織の中では、真の意味の任意はあり得ないからです。

 特攻志願書の提出というのは、あくまでも儀礼的形式(命を捨てる覚悟の武人に死を命ずるのは礼に反する→自発的志願を促す)でしかないことは、軍人ならば皆承知していたはずです。人選に際して最も考慮されたのは技倆や経歴であって、「熱望」も「希望せず」も、現実にはほとんど無関係であっただろうと想像します。

 このことが問題になったのは、敗戦の結果、特攻隊員たちが無駄死ではなかったのか?という疑念と非人道的作戦遂行に対する責任問題が生じた故で、大東亜戦時の将兵たちの実感としては、形式的志願でも命令でも結果が変わるわけではなく、おそらくどちらでもよいことではなかったでしょうか。
 選に漏れたことに憤り、戦隊長に直談判した結果、念願叶って特攻隊員となった者もおりますし、特攻隊でないにも拘わらず、進んで体当りを敢行した勇士も存在するのです。

5.参謀の言動

 第6航空軍上層部の言動は、特攻隊員に限らず反感を買っていたようです。244戦隊の小林戦隊長も知覧における5月31日の日誌で菅原司令官らについて

(前略)○○司令官ノ名高何ゾ値ス。零点ナリ。(中略)必成必勝ノ成算果シテ彼等、縄吊リ将校ニアリヤ。不惜身命惜身命ノ大悟、果シテ彼等ニアリヤ。彼等ハ皇国ヲ毒スルモノナリ(後略)>
とまで批判しています。

 彼らは、帰還隊員たちに対しても非情あるいは侮辱的な言動をなしていたと証言されています。しかし出版物に登場する僅かな証言者は、皆将校なのです。帰還者の半数は下士官でしたが、彼らがどう感じていたのかは書かれていません。

 天皇から任命を受けた皇軍将校に類する存在が今日では見あたらないので理解し難いかもしれませんが、そのプライドは今では想像もつかないほどです。
 振武寮では、全員が写経や軍人勅諭を書かされたといわれています。これなども、その目的はともかく、将校のプライドからは受け入れ難いことなのだろうと推察されます。
 つまり、同じ言葉、同じ処遇でも、将校と下士官とでは受け止め方に大差があるはずで、証言者が参謀らの言動から受けた屈辱感が、特攻隊員として普遍のものなのか、あるいは将校という立場故なのか、数少ない証言だけでは明確でありません。

6.私なりの結論

『特攻日誌』のあとがきでは編者が

<彼らは福岡の軍司令部に申告に行き、代機を受領しようとした。菅原軍司令官は、「貴様達は何故死んでこなかったか、卑怯者!」と罵倒し、ご苦労であったとねぎらいの言葉もかけず、福岡女学院の寄宿舎だった振武寮に彼らを収容した。
 生き神さまと崇めた特攻隊員が帰還してはならなかったのである。それが世間に知れることを恐れて、全員を振武寮に監禁し、朝から軍人勅諭と戦陣訓を書かせて、精神改造を迫ったというのだ>

 と記していますが、帰還隊員の存在が「世間に知れることを恐れ」「振武寮に監禁」「精神改造」…何れも首を傾げざるを得ません。

 この記述の中に、「代機を受領」とありますが、既に沖縄作戦は終わりに近付いており、飛行機の準備も隊の再編成も訓練も間に合わず、もし隊員たちが望んだとしても、再出撃は当面あり得ない状況でした。だからこそ6航軍は多くの隊員を転属させ、指揮下から外しているのです(但し、6航軍指揮下のまま知覧等に戻された者もいたが、これはごく一部)。

 彼らが振武寮に滞在したのは前述のように極めて短期間です。また、その間に外出や通信が制限されることも、作戦中の軍隊ですから当然の処置と思われます。隊員たちは帰還したとはいっても、まだ任務を解かれたわけではないのですから、「監禁」「幽閉」などの表現は全く的はずれです。

 振武寮の話は、このあとがきのように、そこでの哀れな特攻隊員たちと「高圧的非情な参謀」との絵に描いたような対比の構図が、「皇軍の非人間性」を誇張し糾弾したい著者たちの思惑に合致した、魅力的なエピソードだったのだと思います。

 操縦は(勿論、軍人としても)経験が全てであり、実戦を経験し死線を越えた帰還隊員たちは、深刻なパイロット不足の中で、邪魔者どころかむしろ戦力として有用な存在でしょう。一日も早く心身を回復させ、彼らを再度空中勤務に復帰させるのが、第6航空軍の本旨であったはずなのです。2につづく

真実史観2映画『月光の夏』はWGIPNHK史観の虚構物語新映像化がベスト

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 前述のように第6航空軍上層部の言動には確かに問題があり、評判が悪かったことは事実と思われますが、このことと振武寮の役割とは別の話です。

 以上から、振武寮は本来、帰還隊員の休養宿泊の場として用意されたもので、ここから各隊員たちは順当にそれぞれの転属先に旅立ち、あるいは原隊に帰って行っただけのことではなかったでしょうか。

 任務を最後まで遂行し得なかったことに対する軍人としての挫折感や忸怩たる思いに加え、生き神様とまで崇められた出撃前とその後の処遇の落差に、隊員たちの心理が順応し得なかったであろうことは想像に難くありませんが、ある映画や出版物が広めた振武寮のストーリーは明らかに針小棒大であり、虚構に近いものだと、私は判断します

追記1 振武寮は兵站宿舎 07.1.17

 売国放送局の昨年の番組では、「振武寮が存在したのは、僅か1ヶ月半…」と言っていたと思います。つまり、20年5月下旬に開設されたのであれば、ちょうどその頃本土に戻ってきた不時着生還者たちを、「世間の目に触れないよう監禁するために設けられたのだ」という主張にとっては都合がよいわけです。

 しかし、第29振武隊山田忠男伍長(4月6日出撃)の回想記によると、飛行機故障のため本隊から落伍して立川へ戻っていた山田伍長が、予備機2機とともに本隊を追及して知覧へ前進の途中、4月3日に福岡の司令部に申告のために立ち寄った際には、その日から5日まで、「福岡県立高等女学校の寄宿舎の仮兵舎」に宿泊したとあります。

 当時、県立福岡高等女学校は第6航空軍司令部として使われており、振武寮があった私立福岡女学院はその傍でしたから、「県立高等女学校の寄宿舎」とは、実は福岡女学院の寄宿舎、つまり振武寮の誤認である可能性が高いと思われます。

 だとすれば、振武寮は4月3日時点には既に存在しており、不時着帰還者収容のために急遽開設されたものではないということです。

 第6航空軍司令部は3月10日付で東京から福岡に移動しましたが、所謂振武寮はそれに伴い、「兵站宿舎」として設置されたものだと考えられます。

 よって、本宿舎の設置は軍としての通常且つ基本的な処置でしかなく、この場所に於ける後の当事者間の葛藤とは、別の問題です。

兵站宿舎=当該基地に勤務する者が居住する兵営ではなく、外来者や一時立ち寄り者のための宿泊施設。

追記2 振武寮は記録から抹殺されたのか? 07.1.17

 『特攻の町知覧』では、振武寮について「日本の軍事記録から完全に抹殺されてしまった」とし、売国放送局の番組も似たようなことを言っていました。

 しかし、抹殺されたのは振武寮の記録ではなくて、敗戦時に現用であった皇軍文書のほぼ全てでしょう。この処分は徹底していて、私物である個人の日誌、写真等までもが焼却されています。

 「振武隊編成表」にしても、当時は複数部が作製されて各部署に配布されていたはずですが、その中で、敗戦時には既に鉾田教飛師に転属していた倉澤氏個人の手元にあった一部だけが、処分から漏れて辛うじて生き残ったのです。

 今日、現存している皇軍文書の多くは、大東亜戦争前半までのものだと思いますが、これらは敗戦時には既に現用ではなかったために、倉庫等に保管されていて敗戦直後の処分から漏れたのだと想像します。

 したがって、振武寮に関しても今日、文書記録は残っていないのがむしろ当然であり、あたかも軍にとって振武寮が隠さねばならないような重要な事項であり、そのために本件記録だけが消されたかのように言うのは、全くの詭弁です

 

月光の夏の真実より転載

■ 補足 07.9.10/11.6.27改訂

 今まで匿名にしてきましたが、本件のピアノを弾いた当人は、特操2期の鍋岡弘昭少尉です。鳥栖国民学校におけるピアノの件は本人も認めていましたが、彼は特攻隊員ではなく、第11錬成飛行隊の所属でもありません。また、音楽学校の出身でもありませんでした。

 彼は、国民学校へ行ったのは自分一人であり、もう一人の存在(作中の海野光彦少尉=音楽学校出との設定)は強く否定していたそうです。

 であるのに、作者がわざわざ架空の人物を登場させたのは、まさか実在の鍋岡少尉を「戦死」させるわけにはいかないので、架空の海野少尉に死んで貰ったということだと思います。

 出撃直前の特攻隊員がピアノを弾き、そして、その隊員が戦死を遂げていなければ感動を呼ばないと考えたのでしょう。これはフィクションそのものです。

 下に引用した、「あえて実在の方から離れて、フィクションの人物を設定した云々」と書かれている意味が、ようやく分かりました。

 因みに、特攻隊員ではないようですが、特操の中にも音楽学校出身者はおりました。「夏の思い出」「雪の降る町を」などで有名な作曲家、中田喜直氏。彼は東京音楽学校卒業後、特操1期生となり、飛行第51戦隊付(下館)であったそうです。

■ 「月光の夏」の真実 06.7.7

1.特操2期生

 もう、ほとんどが鬼籍に入られてしまいましたが、今から十何年か前、目達原の第11錬成飛行隊から調布に配属された特操2期生の方たちとお知り合いになり、お話を伺ったことがあります。
 その中で聞かされた一つが、

「月光の夏という映画、知ってる? あれは嘘なんだよ」という話でした。ちょうどその頃、この映画が公開されて話題になりかけていたのです。

 何でも、モデルとなった特攻隊員が実在であれば同期生の可能性が高いために、特操1期、2期ともに同期会で調査を実施したが、該当者が見つからなかったばかりか、そもそも特攻隊員の中に音楽学校の出身者は存在しないことが判明したということでした。

 この疑念を制作者に申し入れたが、無視され、映画はそのまま公開されてしまったそうで、皆さん不快感を持っておられました。

 私自身は、この当時特段の関心はなかったために聞き流してしまい、映画もその後テレビで見たものの、バカバカしくなって途中で見るのを止め、内容も印象に残っていません。

 しかし、今度振武寮のことを考える機会がありましたので、遅ればせながら原作を読んでみました。

2.実在しない特攻隊

 本書の記述を総合すると、モデルの二人は、目達原の第11錬成飛行隊で3式戦未修教育を受けていた特操2期生だったことになります。

 そして、明野教導飛行師団が編成担任となった特攻隊に配属され、一旦明野本部に移動して「1式戦」を受領、知覧へ向かったとされています。

 その特攻隊は1式戦6機の編成で、隊長は陸士57期、隊員は特操2期2名、少飛15期3名だそうです。一見ありそうな組み合わせですが、実は第6航空軍の既出撃隊の中には見あたりません。

 出撃日も書かれていないのですが、第32軍が首里から後退した頃だそうですから、5月22日以降なのでしょう。つまり、これは244戦隊が連日直掩任務に就いていた、まさにその時期ということです。
 にも拘わらず、直掩隊は飛行機が不足で飛べず、モデルたちの隊は一切の掩護なく6機だけで早朝の知覧を出撃。風間少尉機だけが発動機不調のために諏訪之瀬島付近から知覧に帰還したのです。

 第11錬飛で3式戦を修得していた者が、3式戦ではなく1式戦の特攻隊に任命されることも実におかしく、事実、11錬飛から特攻要員として転出した約70名の中に、1式戦の特攻隊に配属された者はおりません。

 更にいえば、1式戦を使った既出撃特攻隊は大半が12機編成であり、6機編成は2隊のみです。しかもこの2隊は、知覧ではなく万世からの出撃でした。

 以上から、二人が所属したことになっている特攻隊そのものが実在せず、その行動経過も架空であるとの結論に達します。

3.ピアノのエピソードについて

 本件は、特攻隊員とピアノという、たぶん世間一般には意外であった組み合わせにマスコミが美談として喧伝したのでしょうが、皇軍将校には裕福な家庭の出身者が多かったですから、クラシック音楽に親しんでいた者は珍しくありません

 特操2期の一部を教育した熊谷飛行学校児玉教育隊では、隊員はベートーベンなどのレコードを鑑賞し、チェロの演奏会まで開かれたそうです。また、私が承知しているごく狭い範囲だけでも、ピアノを弾くことができた陸軍将校は少なくとも4名おり、そのうち3名は操縦者、またその2名は特攻隊員で、戦没しています。

 ですから、鳥栖国民学校でのピアノのエピソードは、それが誰であったのかは別としてもあり得ることで、おそらく事実なのでしょう
 しかしながら、私自身の経験に照らしても、一度会っただけの氏名も分からない人物を数十年後、しかも短期間に探し出して特定することは、透視能力者でもない限り不可能であろうと判断します。

4.ノンフィクションとは

 著者は、あとがきの中で

「実話をもとに、さまざまな事実をふまえつつ、創作した小説…」と一応断ってはいるのですが、これは巻頭に掲示すべきです。読者には創作部分も事実も見分けがつきませんから、その多くはストーリー自体を「実話」と受け取っているはずです

 私も本書を読む前には、「ノンフィクション」というのはストーリーは事実だが、人物を仮名にしたり、状況設定を少し変えている程度のものかと思っていました。が、本書は全くそうではないことが分かり、驚きました。これでは、ノンフィクションもフィクションも同義のようです

 著者は、当該の二人を特定したが、「あえて実在の方から離れて、フィクションの人物を設定した云々」と書いています。しかし、これに続く人物を架空にした理由は、何度読んでも私には理解できませんでした。 本件は、ピアノを弾いたのが出撃間近の特攻隊員であったと伝えられたからこそ話題になり得たにも拘わらず、前記のように特攻隊に関する記述は嘘ですから、二人が実在の特攻隊員であり、更にその一人が特攻戦死したことを裏付けるものは、本書のどこにも見あたりません。よって、特操2期の方たちがいわれたように、本当は二人を特定できなかったのであろうと判断するのが妥当ではないでしょうか。

 特攻作戦は日本人の琴線を揺さぶる性質の出来事ですから、たとえば「特攻花伝説」とかホタル云々などのように、情緒的、感傷的な伝え方をしてしまいがちです。
 でも、だからこそ、事実を事実として冷徹に検証する姿勢がなければ、後世の日本人に真実を伝えることはできません

 本書を読んでみて、特操2期の方たちの抱いた不快感が、私にも分かるような気がしました。

 

事実と映画化のいきさつを報道する佐賀新聞

佐賀新聞(2006年7月2日)より転載

特攻悲話、次の世代に-市民団体が映画作り支援

※事実

「よう生きとってくださいました」。1989(?1990では)年、生き残った特攻隊員の男性が、よみがえったフッペルのグランドピアノの前で元音楽教師、上野歌子さん(鳥栖市)と45年ぶりに再会した。その感動の場面に齋藤美代子さん(63)は、立ち会った。

 会社を経営する齋藤さんは、テレビ放送された特攻悲話に心打たれた。放送翌日には上野さん宅を訪れ、廃棄処分される予定だったピアノの修復・保存活動を手伝うようになった。「音楽は世界に通じる手段。映画で世界の人に語り継ぎたい」。齋藤さんは、92年に映画「月光の夏」を支援する会を立ち上げ、事務局長として資金集めに奔走した。

※映画ストーリーと制作の様子

  終戦間近、2人の特攻隊員がピアノを思い切り弾きたいと鳥栖小を訪れ、ベートーベンのピアノソナタ「月光」を奏でる。元音楽教師の講演がきっかけとなり、隊員の消息を探していくというストーリー

 小学生や市民ら約850人がエキストラとして出演した。鳥栖小はすでに建て替えられ、ロケ地選びは難航した。戦時中のシーンに合うような木造校舎を探し、解体中だった甘木小(福岡県朝倉市)を選んだ。男子は丸刈り、女子はおかっぱが条件だったが、鳥栖小の児童約50人が参加した。

※国民支援の事実

 撮影は着々と進んでいったが、資金集めが大変だった。制作費2億5,000万円のうち、1億円を支援する会が調達する契約を結んだ。個人は5,000円、企業は5万円。一口募金を募った。「失敗したら、会社をたたまなくてはいけなかった」と振り返る齋藤さん。翌93年に達成した。

 5月、全国のトップを切り、鳥栖市と福岡市で上映を始めた。94年に観客動員100万人、95年には200万人を超えた。映画作りは中央からという常識を破り、市民運動をもとに地方発信の映画作りが成功した瞬間だった。 

 鳥栖市ではこどもピアノコンクール、フッペルの演奏会、独ツァイツ市との市民交流など草の根活動が広がっている。ことし8月にはDVDも発売される。齋藤さんは「映画は見る人に感動だけでなく、使命感も与えたのでは」という。

 映画の公開前、上野さんが66歳で急逝した。生き残った特攻隊員の男性も2002年に亡くなった。元特攻隊員で構成する佐賀、福岡特操会は鹿児島の知覧特攻平和館まで慰霊に出かけているが、毎年参加するメンバーが減っている。

 フッペルのピアノは、鳥栖市のサンメッセ鳥栖に終(つい)のすみかを得た。映画の全編に「月光」に平和の願いを託し、次の世代に伝える人たちがいる。

文 ・藤生 雄一郎

写真・川南  慎司

※映画ストーリー

メモ

 1945年6月に出撃を控えた特攻隊員2人が、今生の別れにピアノを思い切り弾きたいと鳥栖の国民学校(現・鳥栖小)を訪れた。現場にいた音楽教師(故上野歌子さん)が89年に鳥栖小で講演、特攻悲話が注目を浴びる。上野さんやマスコミが隊員の消息を捜して感動の再会を果たす。

 戦時中の鳥栖小のシーンを甘木小で、現代の鳥栖小は田代小でロケ。目達原基地から線路沿いに特攻隊員が走ってくるシーンは、JR久大線で撮影した。

※元NHK契約ライターで報道ドキュメンタリー作家の毛利恒之原作なので、WGIP(NHK)史観の極悪軍隊騙された国民の捏造ストーリーとなった。

『月光の夏』

監督=神山征二郎

制作=仕事

出演=若村麻由美、田中実、永野典勝、渡辺美佐子、仲代達矢

原作=毛利恒之

 

感動話捏造は発覚した時には反動が甚大、真実そのものまでもが否定される

 破格のピアノを選択し小学校に寄贈、戦中、担当の先生は大事にし守った。特攻隊員が訪れ弾いた。担当の先生が廃棄寸前のピアノの思い出を語った。国民の善意でピアノが修復された。生き残った特攻隊員と先生が再会した。風化させずに子孫に遺そうと手弁当で映画化資金を集め、映画が完成し、広められた。当事者は亡くなりピアノだけが残った。ネットでも報じられ拡散した。覚醒した日本ネチズン、映画の内容がNHK(WGIP)史観捏造なのに気付いた。そして、あまりにも脚色された内容に、事実そのものまでもが否定されようとしている。これが真実の顛末である。

みんなの感動はフッペルのピアノが語る真実で、後出しの小説や映画(月光の夏)ではない!

 『月光の夏』は、元NHK契約ライターで報道ドキュメンタリー作家の毛利恒之原作なので、NHK史観(捏造WGIP善悪史観)の、極悪軍対騙された善良国民の捏造ストーリー(振武寮等)となった。

 
あまりにも脚色された内容に、事実そのものまでもが否定されようとしている。いらぬ小細工など不要。「事実」、そのままで充分な逸話である!

 だから『月光の夏』の小説や映画化以前に、皆感動し参画したのだ。

 後出しの小説や映画は、「出涸らしのお茶」以外のなにものでもない!このままでは、良貨(真実)が悪貨(捏造小説)に駆逐される。がしかし、映画化尽力は善意の結晶なので、事実に基づき、新編集が望ましい。叶うなら、新映像がベスト!

対比が余りにも際立つ

 『月光の夏』は実話ではない捏造(薄っぺらな加害者極悪、被害者可哀相史観)低俗話!

 フッペルのピアノが語る真実(ピアノ寄贈、先生、特攻兵、感動し修復保存・映画化に参加した国民とピアノとの命のキラメキ)は、琴線が共振する!

 

乱れ世に 思いかなでし 古きピアノよ (真実史観)


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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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