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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

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真実史観「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」悲劇の家訓誕生東條家の経緯


「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」悲劇の家訓誕生東條家の経緯 

  

 東條家の家訓は、いつ何の話がきっかけで東條英機が家族に話したのだろうか。キーワードはズバリ戦陣訓だ。東條は、米軍抑留以前に家族や近親者に、虜囚の辱の本意(日本国の囚人)は当然話していた。ところが前述のように、戦後の捏造、敵の捕虜になる辱めで自決を図ったと皆に一様に答えているのだ。当然家族は、このキーワードに反応した。撃たれたのでしょと、家族に問われ、東條英機がうなずき「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」と、答えたのだろう。比較的早い時期の話と思われる。こうして悲劇の家訓は誕生した。家族への伝言を依頼した、教誨師(きょうかいし)花山信勝師への前述の話、自殺に用いたという軍用銃も、東條の手元には、在りえないことを家族は皆知っていた。最後に東條は、駄目押しにこれをキーワードにした。 

 逆風の中での身内からの反論は、火に油を注ぐようなものだ。家族も狂言自殺を強行に否定した手前もあり、東條の家訓に従った。そして、悲劇の家訓誕生のこの日より、妻と子供は東條英機の真実を知り、更に団結した。家訓誕生日が、東條英機真実告白の日だ。
 

 下記は家訓誕生後のことだろう。歌には奥深いきずながある。この奥深いきずなは、前述のような過程無くして、けして生まれるものではない。肉親の情に尊敬の情と悔悟の情(狂言自殺を強行に否定)が加わっている。父の悲劇(自殺捏造された無念)を知っている歌だ。 

  

三女幸恵の歌三首昭和23年3月1日 

  

大いなる父をしもたば大いなる喜びありき 又悲しみも 

父のよわひ久しかれとは祈りえぬ悲しき子なり 白富士のみゆ 

父のよわひ祈りえぬ心白富士にむかひて一人 なぐさめしみん 

  

東條英機の返事と返歌 

  

涙で読んだ。 

  

やるせなきくるしき心胸に秘め 富士に言問う娘いとほし 

富士の峰の尊き姿我と見よ 心慰む栞(しおり)とやならむ 


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真実史観東條英機の遺書自殺未遂前日日付発見と共同通信報道遺文が語り暴く自決未遂の真実と米国の陰謀


東條英機の遺書自殺未遂前日日付発見と共同通信報道遺文が語り暴く自決未遂の真実と米国の陰謀

「正論」でアメリカ国立公文書館よりこの遺書の原文コピー取り寄せ、筆跡鑑定していただけませんか。

 ・・・9月10日付けで東條は遺書を書いている。・・・最後に、・・・花押、捺印している。・・・
アメリカ国立公文書館で、この遺書の原文コピーと英語の訳文があることが、共同通信の編集委員によって発見された。原文の所在は、いまだに不明である。升本喜年 「軍人の最期」 光人社 P.32

 

 この原文コピーを、共同通信が配信、1998年11月30日(平成10年)に中国新聞社(広島県)、熊本日日新聞が報道した。両社に問い合わせたところ、中国新聞社より、、「東条元首相の遺書」という特集で98年11月30日に報道したと、即刻回答があり、本日購入した「東条元首相の遺書」コピーが届きました。2007.5.31(この調査は、練馬図書館職員の方にご協力いただきました。ありがとうございました。)(更なる検証筆跡確認のため、この報道原文、原文コピー文、英語の訳文を探しています、ご協力願えれば幸いです)。原文コピーは縦書きカナ混じり文全文五頁、英文翻訳一頁付きで発見された。中国新聞社の記事には4枚の遺書と英文1枚(判読不明)写真掲載されている。(注・この新聞は中国新聞社(広島県)《読者広報センターのご案内》へメール: dokusha@chugoku-np.co.jpで申し込めば送ってくれます。A3コピー260円、送料80円(東京)、郵便振込み手数料100円、計440円。更に詳しくの方は申し込んでください。また、国立国会図書館で、閲覧やコピーもできます。)     

 

 「32口径コルトと25口径の短銃2丁、白布に包まれた(ハラキリ・ナイフ)と最後声明(遺書)を発見押収」1945.9.21.付けCIC秘密文書。「歴史的価値があるので、陸軍省に引き渡したい」1945.11.29.付けGHQ文書。ロバート・ービュートーワシントン大名誉教授は著書「東條英機」でこの遺書の英訳本の内容を紹介、日本語の原文は「行方不明」と指摘していた。1998.11.30.4面中国新聞

 

 昭和二十年九月十日は国や天皇の処遇がまだ未決なのだ。「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ」と、戦後は大義の成就だけに生きている東條英機にとって、裁判の場は、日本の所信表明には最高の舞台であった。裁判忌避は有り得ない。全世界に向かっての所信表明、これ以上の舞台は無いのだ。大義を果たしていない東條には、自殺の用意はあったが、決行は、近々のことではなかった。開戦責任が自決の理由とは、いかにも不自然。大東亜戦争 開戦の詔勅を否定しており、ありえない。偽書だ。

 

 読みと、意味は、加筆。読点は、ない、読みにくいので赤字読点加筆。私見を述べると、この遺書は自殺捏造の台本だ。新聞報道もこれにより捏造されている。なぜ捏造か。報道しなかったからだ。本物であれば自殺直後に躊躇なく報道していたはずだ。米国が隠蔽する理由は皆無。天皇陛下宛の遺書等、不備な偽造が多すぎるし、東條も撃たれたと反論しなかったので、封印された。

 

 常識で考えよう。当時の天皇陛下宛に、軍人東條大将が臣英機として、名字も書かず全文天皇宛の遺書など書けるものなのだろうか、不敬ではないのか。現に、これ以外は皆無だ。天皇宛の遺書で、判読不能個所、句読点、濁点、送り仮名、かっこ等に不備な点が多々有るのはおかしい。臣(しん「けらい」)東條英機がこんな不敬をするはずがない。内容は天皇宛で、天皇宛でない大東亜諸民族宛のは、追記となっている。天皇宛ての遺書の中に併記、追記は、不自然で不敬だ。臣東條英機直筆のまことの遺書であれば、二通の遺書がなければならない。送り仮名等の不備が際だつ、日本人ならけして間違えない単純なミスが多い。後述の記事のミスと酷似するのだ。内容もミスだらけの報道記事の口頭の遺言と呼応している。共通するのは英文を和文に訳す時の単語の選択ミスと、送り仮名のミスだ。末代までの恥辱となるこんな不敬な遺書を、東條が書くはずが無い。

 

 上辱(宸)襟は原文のまま。辱(じょく「恥・屈辱の意味」)辱(はずかしめ)か(宸)(天子に関する事柄につける語)宸襟(しんきん)が正解。上辱、辱宸、辱襟などの単語は無い。宸(天子に関する事柄につける語)天皇宛の遺書にかっこは不自然。遺書も清書せず不敬のまま、臣(しん「けらい」)英機の自殺は無いだろう。不自然だ。

 

 東條英機が自殺を認め無い時の証拠として用いるために、米国が前日日付を記載し、偽造したのだ。新聞報道の台本にもした。駄目を押すために東條英機には、見せたかもしれない。その時そんな不敬は誰もしないと反論され、報道せず封印したのかもしれない。筆跡鑑定が直筆でなければ明白な偽造文書だ。余りにも不備が多い。こんな不敬文は東條英機には書けない。
 東條英機の遺書といわれるコピーと、下記の真筆と比べると、署名と一部の右肩上がりが似ているだけで、異なる。署名だけが似ている事が味噌だ。仮説が的中した、まさしく偽書だ。がしかし筆跡鑑定が真実の扉を開く鍵だ。筆跡鑑定が待たれる。


東條英機が書いたといわれる遺書の筆跡部分は下記。
昭和二十年九月十日 

 内閣総理大臣前官礼遇 

 陸軍
大将従二位勲一等功二級  東条英機 
 
東條英機真筆との比較掲載サイトは下記の「H撃たれ捏造され悲劇となった東条英機とその家族」の項目です。
  

真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争

http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm
 

   

○印は判読不能個所赤字にて補足。 補筆蘭生

   遺書             

              臣(しん「けらい」)東條英機    
 

 一、宏大無辺(広く果てのないこと)なる 

 天恩に対しを賜わり平伏して感謝し奉(たてまつ)り 

 皇室の御安泰と国家の隆昌(りゅうしょう「勢いの盛んなこと」)ならんこと隆昌を謹(つつし)て祈念し奉る

 二、大東亜戦争も遂に今日の如きような不祥(ふしょう「不運」)結果に陥りとなり 

 上(はずかしめ)(宸)襟宸襟(しんきん「天子の心」)を悩し乱し奉り一億忠誠の屍を積み重ね尚ほ戦争の目的を達し得ず光輝ある歴史を汚すに至りたる事眞に恐懼(きょうく「恐れかしこまること」)に堪へる處にして開戦当時の責任者として深く其の責任を痛感する處にして茲(ここ)に自決し其の責を痛感する處(ところ)果たすなり。
 之れ幾多大戦に殉(じゅん)る将士及其の遺族に報ゆる途(みち)なりと信

 三、御殊遇(ごしゅぐう「手厚い待遇」)を蒙(こうむ)り賜わりし身を以て敵国の裁断裁判の辱(はずかし)めを受けるは国威を傷け皇恩に報ゆる所以(ゆえん「理由」)にもあらと信。 

亦帝国国民の精神上心情にも悪影響わざわいを及すものなり。帝国の正しき行為行いは将来の歴史に依り決する実証されるものなりと信ず。勝者の裁判に依り決する実証されるものにあらずと信ず。敵側引渡の要求に対しては他に自ら途(みち)あるべし

 四、大東亜戦争いは破れたりと雖(いえど)も其の意義真義は萬世(ばんせい「長い年月」)に照しあわせると正しきを信するもの正義にして又神州(しんしゅう「日本の美称」)の精気(せいき「精神と気力」)奪ふこと能わ。皇室巌(いわお「高く突き出た大きな岩」)として輝きおわします限り必や民草(たみくさ「人民」)の忠誠の下に萌○ 

 皇国興隆期あらん事を信ず

 五、帝国の前途は今後眞に多難なる○○べし此の一億国民の努力の下眞に名実共に備はれるつた國體護持を確保し以て悠久なる帝国の光栄至らせん向かはれんことを願て止ま
 茲(ここ)に遥かに 

 皇居を拝し天寿の萬歳(ばんざい「いつまでも生きること」)を祈願し奉る處○七生報国(しちしょうほうこく「七たび生まれかわり、国に報いる」)以て国運の隆昌(りゅうしょう「勢いのさかんなこと」)を守奉らんことを期す

昭和二十年九月十日 

(注・昭和二十年九月十日(覚悟の自殺であれば、当日日付昭和二十年九月十一日ではないのか。十一と書けなかったのか?事前通達なく不意に訪問した前日の日付とは、できすぎだ)

 内閣総理大臣前官礼遇「ぜんかんれいぐう(退官後も在官当時の待遇を与えること)」
 陸軍
大将従二位勲一等功二級   東条英機
                
追記

 大東亜諸民族諸君各国諸氏の大東亜解放の為尽されたる協力に対し尽くされた御協力を深く感謝すると共に大東亜戦争も遂に目的を達し得りしこと深謝諸君諸氏の御多幸を祈念して止まず

 

(注・ほとんどが英文和訳調の文章だ、英語の訳文といわれているのが原文で、自決捏造の台本原本ではないのか。英語の訳文原文を検証すれば、さらに真実が判明する)

(注・目下の家族への遺言には確かに花押があるが、遺書に花押、捺印するものだろうか。中国新聞社記事では捺印確認できず。しかもこれは、天皇陛下宛の遺書なのだ)

(注・敵側引渡の要求に対しては他に自ら途(みち)あるべしは意味不明で、この文だけ、浮いており、遺書には不適切。遺書作成時点では、米軍予告無しの東條抑留は知りえないことだ。呼応した後述の遺言でも、なぜか浮いている。英語の訳文原文を検証すれば、真実が判明する)

(注・臣英機と文頭に記載は、へりくだる意味か。文末に内閣総理大臣前官礼遇陸軍大将従二位勲一等功二級東条英機と書くだろうか)

捺印の印鑑の真贋は。真実の扉の鍵は筆跡鑑定だ)


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真実史観東條英機戦後の捏造(生きて虜囚の辱は降伏禁止)を認め己の自殺を否定残した真実の鍵


戦後の捏造(生きて虜囚の辱を降伏禁止と解釈)を認めることで、己の自殺を否定し、真実の扉の鍵を残した東條英機。 

 明治天皇「大元帥(だいげんすい=全軍を統率する総
大将で、旧陸海軍を統帥した天皇の称」が全軍人に下した勅諭、軍人勅諭(降伏禁止の記載など、一切無し。)を無視し、当時の陸軍大臣である臣(家来東条英機が示達した陸軍だけの戦陣訓に降伏禁止)記載ありと捏造を認めたのだ。軍人勅諭「義」(公)の為ではなく、私心(捕虜になるのは辱だから、捕虜になるなら自決せよ)で死ねと、おしえたというのだ。軍人勅諭を無視し、天皇を冒涜するこんな不敬は無い。戦陣訓」起案責任者・今村均将軍も、今報道されている「戦陣訓」の内容は、本意「ほんい(真の意味)」で無い、「誤解された」と発言している。 

 一度は自殺を計つた東條も裁判では健鬪して居る。彼は自殺を計つたのは、自分の大臣時代に出した戰陣訓に俘虜となるよりは自殺せよと書いてあるのを實行したのだと云つて居る。彼こそは已に覺悟して居る人である。元氣で最後の戰を鬪つて居る。立派に死んで行くのが彼に殘された義務である。
 網戸越しに娘達と父らしく親しく談して居る光景は涙なしには見られない。重光葵『巣鴨日記』昭和二十三年三月六日 
土曜日 

教誨師(きょうかいし)花山信勝師の質問に対して次のように答えた。
 ・・・一つお尋ねしておきたいと思いますのは、東條さんが自決されようとされました時のお氣持ちを、一つはつきり伺つておかないと、いろいろ間違つたデマが、そのままになつてしまうということを恐れますので――
 「それは結局のところですな、部下たちに俘慮となるな、そういうような時があれば死を選べと戰陣訓に敎えておいたので、自らそれを實行したまでなのです。他の人々には前の日に通知があつたが、私にはだしぬけに憲兵が來た。そこで、間髮を入れずやつたのです。なお家のものに傳へておいてもらいたいが、秀正(滿喜枝さんの婿)の自殺した軍用銃を使つたのだということを。誰も知つておらぬと思うから。ところが、直ぐ手當をされたのです」
 しかし、あの時死んでおられたら、今のような宗敎の悅びには入られなかつたと思うのですが。
 「そうです、個人からいえば、一つには宗敎に入り得たということ、二つには人生を深く味わつたということ、三つには裁判においてある點を言いえたということ、は感謝しています。なおそれに付加えて、家庭のことについて喜ばしいことは、千萬圓とか、二千萬圓とかを三菱からとつておるといわれたことが、司直によつて徹底的に調べられ、そんなことのないということが當局によつて發表されたことである。私は喜んで死んで行くことができる」花山信勝『平和の発見』(注・この軍用銃にも身内だけが知りえるなんらかのヒントがあるようだ。)


 即ち『自分には不意に日本政府を通さないで直接に憲兵が逮捕に来た。私を俘虜にするつもりだと思った。自分は戦陣訓の中で、生きて虜囚の辱めを受くる勿れと申しておりながらおめおめ逮捕されては相済まぬと思って決行した』と申されました。

 護身用に何時も持っていたのは米國製の小型拳銃であったが、当時は女婿古賀氏が使用した制式(拳銃)大型を用いて自決を決行した為、若干手許が狂った点はあったかも知れない。「秘書官赤松貞雄氏の手記・東京裁判について」

 上記も判別している。 戰陣訓は「虜囚」である。上記重光葵は「虜囚」と書かず「俘虜』と記載、「虜囚」と「俘虜」を明白にを判別している。「虜囚」は明白に判別されており、敵国に捕まった時は「捕虜。俘虜」の表現が常識のようだ。

 米國製の小型拳銃で撃たれた。東條が護身用に何時も持っていたのは(拳銃)大型、の意味か。真相箱は「大將が三十ニ粍拳銃で自決を圖つた」と書いているが、米國が米國製の小型拳銃で東條を撃ったが正解のようだ。

  

 前述のように戰陣訓の第八「名を惜しむ」の文意は、「俘虜となるよりは自殺せよ」ではない。明らかに異なるのだ。布達したのが東條英機本人なのだ。当然真の意味(日本国の囚人)は知っていたろう。なぜ反論しなかったのだ。 

  

 敗戦により白も黒となる時代の激流に抵抗しても、恥の上塗りになるだけで無意味なのを東條は悟っていた。結果として、捏造を認めることで、東條の自殺の矛盾を提示したが、大義の前の東條にとって、この事は、一介の塵に過ぎなかったであろう。「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」所信表明の場を得た東條は、水を得た魚のように没頭し、「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」となった。 

  

 上記重光葵や、花山教誨師との話も、東條は時代の激流に辻褄を合わせて話したに過ぎない。「公」の完遂のために、生き恥を曝し生きている東條に、「私」のための自殺など、ありえないのだ。米国のみならず、愛する家族や近親者までが自殺を捏造した。なんという悲劇だ。・・・ 

  

 アメリカの東條英機自殺捏造。ここに帰結するとは想像だにしなかった。しかし全ての疑問がここに帰結することで今、氷解した。アメリカの負い目がそれほど深かったのだろう。

 大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典には「虜囚」・とりこ(イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民えびす)字源・形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。と記載されている。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。

「戦陣訓」原文

『第八 名を惜しむ 

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚のを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』

○戦陣訓第八の意訳文

『第八  名を惜しむ(名誉の尊重)   

恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳

辞書が戦後の捏造を完全に暴露、辞書が断定した真実は、当ブログ内下記。

生きて虜囚の辱意味戦陣訓真実囚人を敵に捕まると63年間捏造仮想現実界 

生きて虜囚の辱を受けず戦陣訓虜囚意味生け捕った敵昭15年大字典講談社  

生きて虜囚の辱辞書捏造断定戦陣訓真実囚人戦後意味変化敵に捕まる   
生きて虜囚戦陣訓沖縄軍命自決と捏造は同胞至心の流露遺族救済が本心  
戦陣訓で軍対民を捏造子孫死守の日本軍を侮蔑し国民の味方を演じる工作員 


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真実史観東條英機大将自決圖り遺言・語るに落ちる米軍捏造文の嘘を暴き全文掲載


1945〔昭和20〕年9月11日東條大将自決圖る 

 東條大将の遺言を聞き取り朝日に掲載した長谷川記者は、「科学朝日」の記者で、当日、外国新聞社の東條関連の取材に道案内としてたまたま同行、東條宅を訪問しようとしたとき、この事件に出くわし、特ダネ取材することになったと、言っているのだが、合点がいかない点、多々あるのだ。語るに落ちているのだ。(注・事件直後の日本人の証言者はNO1畠山重人秘書、NO2長谷川記者、NO3荏原為明医師だけである。NO1とNO3の立会いは理解できる。生死の境にいる東條大将のあわただしい現場に、無関係なNO2長谷川記者が立会い、重症者にしゃべらせ、聞き書きし報道しているのだ。米軍が立会いを許可したというのか。生死の境にいる現場に、普通は、無関係な長谷川記者は入れるはずなど無いのだ、不自然だ。そして拳銃発射の瞬間を、日本人は、誰も目撃していない 

  

(1)朝日新聞長谷川記者報道全文 

()は判読不能なので、どなたか縮刷版ではなく、原版でご教示下されば幸いです。赤細字筆者訂正」 1945〔昭和20〕年9月12日付縮刷版『朝日新聞』下半期147頁・練馬区図書館蔵書 

  

東條大将自決圖る 

きのふ抑留に先立ち自邸で 

元首相東条英機大将は11日午後4時、東京都世田谷區玉川用賀町の自宅へ同大将連行のため来邸来訪した聯合軍側官憲との應接を待たず同20分ピストルにて自決を圖り重体である 

勝者の裁判忌避 

歴史の批判待つ 

拳銃で重症苦痛を忍びに耐え遺言 

東条大将が自決をはかつたときたまたま(原文は繰返し記号)本社記者は東条邸を訪れたが訪れた以下は同記者の目()記である 

  

東条大将に対してマツクアーサー元帥から捕縛抑留命令が出た十一日の午後二時世田谷區玉川用賀町の東条邸……既に米官憲が到着し窓越しに東条大将を拘引にきた旨述べて告げてゐた、東条大将は笑つて「只今行きますから暫く待つて下さい」と訳を通じて通して挨拶し、窓に錠を下してソファーに腰を下したが、その時、ピストルのが内部えた、米官憲は外から鍵下りたの掛かった扉を叩き破り「窓をこはして入れ」などと怒鳴り威赫的威嚇するように銃を()つつながら室内に入つた、東条大将豫(かね)より覚悟の自決をはかつてゐたのである、椅子にもたれたまま、白の開襟シヤツを着た上から左腹部に拳銃を射ち込み左腹部を拳銃で撃ち、すでに息も絶え絶えであつた、午後四時十五分であつた、二十分程の後してから大将何か言はんとするので記者は大将の傍に寄り「何か言ふことがありますか」と問へば問うと苦し()息の下から次のやうな遺言を洩らした話したのである 

遺言を終つてから米官憲は附近近所の荏原醫院より醫師を呼び手當を施したが、その時の模様様子 では生命はとりとめるやうに見うけられた見えた米官憲は直ちに東条邸の門を閉し閉じて日本の巡査に警戒をせしめたさせた

  

「自決直後苦痛に耐えながら所信を語る東條大将」 の見出しで椅子に座り横向きの東條大将らしき判別不能写真掲載。 

  

(注・この写真の見出しは朝日が書いたのだろう。苦痛を忍びのような変な言い回しではなく、苦痛に耐えとなっている。又、下記の内容は遺言とは呼べないので所信を語るとしている。本音の出た見出しとなっている。良心有る者が検閲に抵抗し、真実の扉の鍵として残したのか) 

  

東條大将の遺言 

一発で死にかつた、時間を要したこと遺憾に思ふが残念だ大東亞戰爭は正しき正しい戰ひであつた、國民と大東亞諸民族には寔(まこと)に氣の毒である十分自重して大局の處置処遇を誤らぬことを希望する望む、責任者の引渡しは全部責任を負ふべきである、…復興することは更に困難である……法廷に立ち戰勝者の前裁判を受けるのは希望する望む所でない、寧(むし)ろ歴史の正當な批判俟(ま)つ――切腹は考へたがもすれば間違ひがある一思ひに死にたかつた、あとから手を盡して生きかへるやうなことをしないでくれ 

  

陛下の御多幸を行く末までおりしてどこいつまでも國家の健全な発達を遂げる事ができれば幸ひである、責任者としてとるべきことは多々あると思ふが勝者の裁判にかゝりを受けたくない、勝者勝手な裁判を受けて國民の處置処遇を誤つたら國辱だ――家のことは廣橋(伯爵)にまかせてある、その通りやればよい、家のことは心配ない 

  

天皇陛下萬歳、たとえ身は死しても護國の鬼となつて最後を遂げたいのが願念念願である…畠山(秘書)水をくれ…腹を切つて死ぬことは知つてゐるが、間違つて生きくない、責任は了した、死体は引渡したら引き渡せばよい、俺の死体はどうなつてもよい、遺族家族には言い渡して言ってある、死体は遺族家族引渡さなくともよい、しかし見せ物ではないとマツクアーサーに言つてくれ―― 

  

軍事的抑留を命令 

マックアーサー司令部発表=聯合国最高司令官は元首相東條英機大将を即時アメリカ軍の軍事的抑留に附するよう命令した 

  

(注・死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬと、大義に殉じ命を投げ出すと公言している東條英機には、裁判は、日本の正義を明確にする、絶好の舞台ではないのか 

(注・英文和訳の文章だ、ぎごちない。赤細字は訂正文字。東條の言葉なら家族が正解。これは遺言ではない弁解書だ。こんな間違いだらけの日本文は無い。これは正しく占領軍作成の記事だ。ここでも朝日だ、朝日は根が深い)


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真実史観八田與一台湾六十万の農民から称えられる日本人

台湾鳥山頭水庫八田與一中島力男豊穣の嘉南平野は同胞団結の証で遺産

You Tube動画
たいわんの教科書にも載っている、八田與一

台湾で愛された日本人、八田 與一

八田與一(はった・よいち)。統治した台湾で、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」として、同胞団結の象徴として、台湾六十万の農民から称えられている日本人。日本と台湾八田與一が成し遂げた未會有の大事業、「鳥山頭水庫(うざんとうダム)」と、巨大水路嘉南大圳。

 着工大正9(1920)年、十年の歳月と日本の予算五千四百万円(五千億円相当。半分は、現地農民が分割払い)で、昭和5(1930)年に完成した。着工初期の大正12(1923)年9月1日の関東大震災、伴う予算削減のための従業員解雇も、「国に帰れば仕事がある」と、転職可能な日本人従業員解雇を最優先。殉工者が出れば、土下座して遺族に謝罪、仕事が過酷なときは、「完成したら、必ず皆の生活を潤すものになる!」と励まし、苦境を打開した。

 殉工者、日本人41名、台湾人92名、わけ隔てなく碑文に記されている。

 ダムは出来たが、十五万町歩のすべての土地に同時に給水することは、一億五千万トンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは物理的に不可能だった。水稲栽培だけだと、1/3の五万町歩の給水しかまかなえなかったのである。ならば、当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通の常識。

 しかし、八田の考えは違っていた。三年輪作給水法の導入である。甘蔗雑穀と三年輪作栽培で、水稲は給水、甘蔗(サトウキビ)は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに順次栽培する方法を取り、なんと十五万町歩全部まかなったのである。まさにコロンブスの卵、ただ者ではない。荒れ地嘉南平野は、八田與一が考案建設したダムと、1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路で、台湾最大の穀倉地に変ぼうし、現代に至っている。

 八田與一は、昭和17(1942)年5月8日、陸軍に新たな開拓で徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。享年56歳。宮沢賢治「雨ニモマケズ」のごとき、生涯であった。

 3年後の昭和20(1945)年8月15日終戦、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。

 終戦の年の昭和20年5月台北から、10年振りの烏山頭に疎開していた妻の外代樹(とよき)は、他の疎開先から戻ってきた子息と会った日の深夜「鳥山頭水庫(うざんとうダム)」の起工記念日9月1日に、黒の喪服に白足袋という出で立ちで、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口に身を投げて後を追った。下流6キロ、喪服の裾を固く縛った姿で発見された。

 外代樹もまた金沢の人だった。16歳で嫁ぎ、享年45歳であった。「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机の上に残されていたという。長女正子次女綾子は嫁ぎ、三女浩子と次男泰雄も手許を離れ、長男晃夫は東京帝大を繰り上げ卒業し、海軍志願で佐世保にいた。16歳で嫁いだ母に近づいた14歳の末子の成子と四女嘉子五女玲子との4人暮らしであった。

 非難もあろうが、夫と8人の子供との夢溢れたきずなの大地、鳥山頭水庫が、外代樹のすべてであったのだ・・・。生と死をわきまえた時代、夫消え、そして夫と子供と妻が、最もきらめいた時代の家族のきずな、烏山頭との別れ・・・・・。覚悟の自死ではあったが、烏山頭に疎開していなければ、身投げは無かった、そう思えてならない・・・・・・。合掌

 そして昭和21(1946)年12月15日、誰から の命令や指示を受けることなく、嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓がその地に建てられた。作業着姿の銅像とともに農民たちの手で守られ、今でも毎年5月8日、八田輿一のために現地の人々によって、ただの一度も欠けることなく、追悼式が行われている。
 

 昭和54年(1979年)八田與一の長男晃夫が両親の墓参り のため訪れた時には、81歳になるという老人が老妻に手を引かれ 杖をついてわざわざ会いに来て、電気技師として烏山頭で仕事 をしました。今でも八田所長の下で仕事をした事を生涯の誇りとし ています。一言、私の気持ちを息子さんにお伝えしたかったと、会いにきている。

 
八田與一ご夫妻のお墓の横に、生前墓が建てられ、現地の人たちに、八田與一と同じように感謝されている方がいる。東京農業大学出身の中島力男である。60万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りの経験はない。中島力男は、農村を巡回して、苗代作り、田植え、消毒から農機具の使い方を指導した。

 忘れてはならないことは、
八田與一にしても、中島力雄にしても、彼らの行った事業は、全て、日本政府の方針のもとに、行ったということである。当時の日本政府の方針、「私」が皆無で、「公」に殉ずる日本精神が、八田與一や中島力雄を生み出したと言ってもけして過言では無いだろう。

 
台湾
では小学生でも知っているはなしを、2006年4月まで私は知らなかった。インターネットで知ると同時に、政府、野党、NHK、マス・メデアの戦前悪、戦後善の隠蔽情報操作に、いきどおりをおぼえた。日本国は戦前戦後すべて善、ただ戦争に負けただけだ。戦争の勝敗で善悪は変わらない。敗戦したからと言って、民族自尊の精神まで失ってはいけない。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。インターネットの真実史観は、あなた方と育んだ日本精神を決して忘れはしない、子々孫々まで語り伝える。今日(5月8日)が命日だ。合掌

 2005年2月12日著名な番組制作者、陳銘城氏は2月6日(台湾時間)、米国ダラスでの講演で、「嘉南大圳の父」と呼ばれる日本人技師、八田与一氏を描く連続テレビドラマを作る意向を表明した。それによれば、ドラマは嘉南大圳や烏山頭ダムを建設する八田氏と外代樹夫人の物語。「日本の植民地統治は経済利益を追求しただけではなく、台湾の近代化を促進した。八田夫妻はその象徴」という。「台湾各地では多くの人々が黙々と台湾のために貢献してきた」と語る陳氏。「このような物語をどんどん紹介し、台湾意識の宣揚に役立てたい」との抱負を述べた。

 題名「水色嘉南」で、2006年5月8日(命日)台湾のテレビ局中華電子公司で20時間ドラマとして放映予定。日本のマスコミも、底の浅い韓流ドラマなどにうつつを抜かさず、「水色嘉南」を放映すべきだ。義を重んじ、まことを持って率先垂範、愛国、護国の無私で一途な精神、日本精神が「嘉南大圳」を完成させたのだから。善悪史観(軍隊が悪史観)は精神を堕落させた、役人をはじめとして、なんと私利私欲人間が多いことか。日本精神とは、至誠無私護国であることだ。税金で生涯保障された議員官僚公職者は、嘉南詣でで、嘉南に学べ。

 食民治主義共産主義侵略に対処のため、官民台湾団結、滅私で富国に励んだ虐げられし同胞団結の証し、それが台湾、豊穣の嘉南平野である。2006.5.8.

戦後犯日教育されても、真実の歴史を見つめる、誇り高き人々。
八田與一(はった・よいち) 親日話台湾 「日本人はとても素敵だった」楊素秋著 「新台湾と日本」 台湾につくした日本人列伝 パラオ共和国の歴史
八田与一」について(台湾小学部副読本より)←台湾の教科書。善悪史観者(戦勝国史観者)は必見

八田與一がアニメに MSN産経ニュース 2009年4月28日
 日本統治下の台湾で東洋一の烏山島ダムをつくり、台湾農業に多大な貢献をした土木技師、八田與一(はった・よいち)(1886~42)が虫プロダクションの手で初のアニメ映画になった。「パッテンライ!」。タイトルは台湾語で八田が来たの意味だ。

 台湾では人々にいまなお敬愛され、ダムの麓には夫妻の墓や與一の座像まである偉人。農業が専門の李登輝元総統だけでなく、馬英九総統が墓前に参拝したことでも話題になった

 ところが日本では故郷、金沢以外はほとんど無名に近い。アニメ化でその志や埋もれた業績などの紹介を通して、八田という骨太の日本人が広く知られ、日台のきずなが深まればと関係者たちは期待している。

 話は台湾人と日本人2人の少年の交流と八田の仕事をからませながら進む。愛らしい友情は時にホロッとさせ、現地の反対、爆発事故など困難に立ち向かう八田の奮闘ぶりは、大人の目にも十分に感動的だ。

 ダムは今日も台南の緑生い茂る山間に満々と水を湛え、台湾有数の米作地帯の源だ。台湾総督府以下当時の日本が総力を挙げての大事業だったことが分かる。映画は地元金沢では上映済み。東京では、長崎県五島列島沖で米国の魚雷攻撃で戦死した八田の命日、5月8日からシネマート新宿で始まり、大阪、名古屋でも順次公開されるという。(千野境子

中朝韓罪日は、有色人の面汚し
 人類の新秩序1960年植民地独立付与宣言不参加国が中国凶産(1971年から国連加盟)北朝鮮韓国(1991年から国連加盟)。この三国は、同胞殺しや隣国侵略征服(チベット・新疆ウィグル・内モンゴル・満州・竹島)に明け暮れ、いまだに戦国時代の野獣のままで、人類の新秩序「互恵」を知らない。そして、この三国と罪日のみが、人類唯一の犯日である!もちろん、台湾は、1971年まで国連加盟なので、植民地独立付与宣言賛成国である。

 凶産中国人や朝鮮人や罪日のような人間が、皆有色人だと白人から白眼視されれば、人類新秩序(人種平等)の立て役者、有色人にとって、これほど迷惑なことはない。人類の新秩序「互恵」も知らない時代逆行無知民族中朝韓罪日は、有色人の面汚しどもといえる。

 戦後台湾に逃亡進駐した蒋介石中国軍は、中国本土と同じように搾取し傍若無人(2.28等での虐殺)に振舞い、治安は中国本土同様になった。台湾は、日本統治下(唯心)とあまりに異なる本土人統治(唯物)に、辛酸を舐めた。2/5【台湾取材レポート】二二八紀念公園でのインタビュー H21/4/22
 唯物中朝韓罪日は唯物(物欲)、唯心台湾との対比があまりにも際立つ。誇り高き台湾3/5【台湾取材レポート】龍山寺前広場でのインタビュー・前半 H21/4/22
 板子一枚下は地獄の民唯心海洋民(沖縄・台湾・日本)は、唯物民(中朝韓罪日)とは価値観が真逆で、水と油。「唯物」中朝韓罪日とは真逆、きらめく台湾の唯心親日国 台湾と日本」
台湾へ行こう!

9月1日命日に妻外代樹銅像八田夫妻の官舎前に設置
2013.9.1 MSN産経ニュース 水利事業の日本人技師を支えた妻を顕彰 台湾に銅像
 【台南=吉村剛史】日本統治時代、台湾南部で世界有数の烏山頭(うさんとう)ダム建設を指揮した土木技師、八田(はった)與一(よいち)氏(1886~1942年)を顕彰する台南市の八田與一記念公園で1日、夫人の外代樹(とよき)さん(1901~45年)の銅像の除幕式が行われた。

 與一氏は第二次大戦中、乗船していた船が米軍の攻撃を受けて他界したが、夫人は台湾にとどまり、終戦直後の45年9月1日、同ダム着工記念日にダム取水口で投身自殺した。

 與一氏の銅像はダムのほとりにあるが、夫妻の愛情の深さも後世に伝えようと日台の有志、団体が夫人の命日に合わせて寄贈した。

 幼い娘を抱きかかえたほぼ等身大で、彫刻家の村井良樹さん(60)が当時の写真から制作。公園内に復元された八田夫妻の官舎前に設置され、この日は日台双方の関係者が多数参列。八田夫妻の長男の夫人で、当時隣家に住んでいた綾子さん(80)は「多くの方から愛されてうれしい」と語っていた。



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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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