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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観パラオ玉砕・ペリリュー島サクラと山口永少尉とニミッツ元帥と久松

米国映画「インデペンデンス・デイ」総攻撃の前の大統領の演説

 「さあ、諸君、勝とうが負けようが、ともに叫ぼうではないか。我々は決して粛然と闇に消えたりはしない抵抗もせずに滅びてたまるものか!

C.W.ニミッツ

 神風特攻隊や回転特攻隊の攻撃を受けた太平洋艦隊司令長官。ニミッツ提督は、戦後、横須賀にあった戦艦「三笠」の保存のために私財を献じたことでも知られている。

 

パラオ・ペリリュー島・ペリリュー神社碑文 真実史観(蘭生)訳

この島を訪れるもろもろの国からの旅人たちよ 伝えてくれ

ふるさとに帰ったら 伝えてくれ

この島を護るため戦って 戦って 戦い抜いて果てた日本軍人の その 壮絶な勇気と

祖国を想う その 深き心根を   米国太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ

 

「サクラ・サクラ」

 日本軍は、原住民すべてをパラオ本島に脱出させ(原住民に死者は一人もいない)、後にレイテ、サイパン、硫黄島、沖縄の規範となる洞窟作戦で73日間戦い、米軍に、死傷者合わせて1万人を越える損害(「米軍の歴史における他のどんな上陸作戦にもみられなかった最大の戦闘損害比率、40%)をあたえた。昭和19(1944)年11月24日16時、1万有余名の兵の死をもって謳いあげた世界でもっとも短く簡潔な詩と言われている、ペリリュー島守備隊全員が桜花のごとく散ったことを意味する「サクラ・サクラ」(軍旗・機密書類をすべて焼き払ったことを伝える暗号電文)六文字を打電し、全員戦い抜いて果てた。2006.3.26.
サイパンの戦い米軍皆殺し作戦のサイパンから生き抜いて戦った一兵士日本への伝言真実史観太平洋の奇跡戦い尽くし降伏命令書下山サイパン大場隊47士堀内と青野
硫黄島の戦い硫黄島からルーズベルトへ海軍少将・市丸利之助玉砕直前の手紙名誉の再会硫黄島戦闘40周年レーガン大統領宛米国高校1年生の手紙
沖縄の戦い真実史観沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


ペリリュー島二つの遺聞
 

○玉砕後、ペリリュー島大山の頂上で機関銃を抱えて斃れている、頭を丸刈りし、日本兵の軍服を着装した一人の日本人女性が発見された。女性の名前は遊女名「久松」。コロール島料亭「鶴の家」の遊女だった人だ。一人の日本軍将校と恋仲になったが、ペリリュー島へ出撃と決まった将校は、私財をすべて処分して「久松」を身請けし、帰国するよう説得した。しかし、自分も日本兵として戦う、一緒に連れて行ってほしいと引き下がらず、日本兵として戦った。サイパンの看護婦青野千恵子に、父母妹無しのその後の「人生」が無かったように、「久松」には、愛しているこの一人の将校との「人生」以外の「人生」は、存在しなかったのだ。後に米軍兵士は敬意をこめてパラオのジャンヌダルクと名づけた。

○「聞こえるか、山口永少尉。私は日本から迎えに来た澄川少将だ。日本は戦争に負けたのだ。山口少尉、出てきなさい」澄川道男・元海軍少将はペリリュー島大山で呼びかけた。昭和22年4月22日呼びかけに応じ。山口永少尉以下34名の水戸・高崎連隊はついに投降し、終戦を迎えた。玉砕から2年5ヶ月、終戦から1年8ヶ月後のことであった。玉砕後も洞窟陣地に立てこもり、昼は動かず、夜は米軍の倉庫から食料を調達し、日本軍反攻の機会をうかがいながらゲリラ戦を展開していた。遊就館特別展戦跡パラオ展より2007。3.24.~6.17.

 米軍の義援品(缶詰、衣服、歯磨き、タオル等)を手に、34名は昭和22年5月15日帰還したが、税関で捕まると日本人船員にだまされ、缶詰と衣服は処分してあげるからとだまし取られた。横浜の世話役人には、米軍のMPが来るからと、「これも多い、あれがいけない」と、多いものは全部取り上げられた。結局、税関もMPも来なかった。34人全員が被害にあったのだ。以後の道中も、「俺たちは何のために3年近くもあの洞窟で」と言わせるほど、WGIPに洗脳された祖国日本は冷たかった。「生還」平塚柾緒著より

 

パラオと日本の友好よ永遠なれ」(展転社1997年)

  「日本時代はオール・グッド(皆良い)でした。日本の皆さんは、我々と一緒に汗を流して働き、勤勉の徳を教えてくださいました。サトウキビや米の作り方を教えられ、生産することの喜びを知りました。スペインやドイツの植民地時代と違って、心が通じました。自然に日本人の生活態度を学び、子供たちは親孝行になり、治安が良くて泥棒がいませんでした(同書10ページの和文)」。

パラオ統治。ここは第一次大戦のあと、ドイツ領から日本の委任統治領なった。

パラオ共和国の上院議員だったピータースギヤマ

 「その当時は、タロイモと魚が島民の主食だった。日本が来てからその生活は大きく変わった」と続ける。「日本は米を持ってきた。ナスやキウリなどの野菜に、サトウキビ、パイナップルも持ち込んだ。そして雇用創出もした。マグロ缶詰工場や鰹節工場もつくり、島民に仕事を与えた。インフラも整備し、舗装道路を敷き、電気を供給し、電話も引いた。今、英語で話される日常会話に日本語の『デンワ』が混じるのは、そのころの名残だ。しかし、その統治は30年と続かず、パラオは三度、新しい統治国、米国を迎えた。彼らはまず、すべての工場を破壊し、畑もつぶした。島々を結ぶ橋も壊し、道路の舗装まで剥がしていった。すべての破壊が終わった後、米国は島の人々にアメリカ米を支給し、働かなくてもいいように生活保護費を出した。東西冷戦の中でこの島が東側に盗られた場合を考えれば、数千の島民に、ただ飯を食わせるぐらいは、安いものだという考え方だ。そして、冷戦が終わった今、島民への援助は間もなく打ち切られる。もうこの島を持っている意味は無くなったからだ。カリブ海に浮かぶハイチは、ナチやソ連の進出が懸念されるたびに、米国が占領した。脅威が失せれば捨てられた。それと同じパターンである」 

恩讐の彼方に
2014年09月16日 Yomiuri Shimbun
「悲惨な戦い」…ペリリュー島激戦から70年
 【ペリリュー島(パラオ共和国)=前田啓介】太平洋戦争の激戦地として知られる西太平洋・パラオ共和国のペリリュー島で15日、米軍の上陸開始から70年を記念した式典が開かれた。
 式典には、無条件降伏を知らずに終戦後も戦い続けた旧日本軍34人のうちの1人、土田喜代一(きよかず)さん(94)(福岡県筑後市)の姿も。かつて死闘を繰り広げた元米兵と抱き合った後、「悲惨な戦いだった。二度と戦争を起こしてはいけない」とかみしめるように語った。
 ペリリュー州と米政府の主催による式典には、米軍関係者や島民ら約300人が参加した。米国と日本の国歌が演奏された後、州知事が、土田さんと元米海兵隊のウィリアム・ダーリングさん(89)(カリフォルニア州)の氏名を読み上げると、出席者全員が立ち上がって拍手で迎えた。
 36年ぶり13回目の訪島となる土田さんは、孫娘でドイツ在住の井福理恵さん(31)に付き添われて席を立ち、ダーリングさんも前に。お互い敬礼をした後、抱き合って何度も握手をした。
 ダーリングさんが「かつて戦った者同士だが、戦争が終われば兄弟のようなもの。私にも孫がいる。この島での戦いを語り継いでいこう」と話すと、土田さんは「米軍は、最後まで戦い抜いた私たちに敬意を持って接してくれた。ただ、私のような目に遭う者を二度と出してはいけない」と涙ぐんだ。


安易な
天皇強調は、「天皇は権力者(独裁者)」と、他国(神道日本無知)の、誤解を招く!

 日本は神道が基で、「天皇」は最上位の祭司。日本の代名詞が祭司天皇なのだが、以下の報道二つは「天皇」を強調しすぎで、独裁者ではない「祭司天皇」が、「独裁者(国民は奴隷)」と、誤解される。

 「島民を守った日本兵」とあるように、ペリリュー島死守は、「神道(天災列島日本で育まれた絆で、助け合いが基)日本」死守で、天皇(祭司)のみ、死守ではない!

 「有色人最後の砦として比類無き戦い」と、真実史観の方々は、「日本には大切なものが4つあります。祭司(天皇陛下)と神道(靖国神社)と日本(富士山)と自然(桜の花)」と心得て、かっての日本を追慕するが、摘み盗りして、「天皇は独裁者(国民は奴隷)で、天皇のみ、死守」と、捏造する輩が居ることを、忘れてはならない!

 

2015.1.2 12:00 産経ニュース

時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵

 先の戦争が終結してから今年で70年を迎える。産経新聞では年間を通じ、「戦後70年」を紡いでいく。序開きとして、天皇陛下と日本を考えてみたい。天皇、皇后両陛下は今年、パラオ共和国を慰霊のため訪問される。パラオは昭和20年までの31年間、日本の統治下にあり、ペリリュー島は日米間で壮絶な地上戦が繰り広げられたが、島民が犠牲になった記録はない。両陛下の念願だったとされるパラオご訪問を前に、米軍が「天皇の島」と呼んだ南洋の小島から歩みを始める。(編集委員 宮本雅史)

 平成26年12月初旬、ペリリューは、島を覆うジャングルが強い日差しを受けて緑に輝いていた。島民600人の多くが住む北部のクルールクルベッド集落は、ヤシの木に囲まれた庭の広い民家が立ち並び、カフェからは英語の音楽が流れる。ハイビスカスが咲き、のどかな雰囲気に時間が止まっているような錯覚すら覚える。

 だが、ジャングルを縫うように車を走らせるに従って、そんな印象は一変する。破壊された米軍の水陸両用戦車、日本軍戦車、52型零式艦上戦闘機…。至る所に激戦の爪痕が残る。

 案内をしてくれたウィリー・ウィラードさん(53)によると、日本軍守備部隊は、兵隊1人が入れる蛸壺状から数百人が入れる洞窟まで500個を超える洞窟陣地を構築、大部分は内部で行き来できるようになっていたという。島全体が要塞。島の真の姿に気づくのに時間はかからなかった。

 

米の予想上回る抵抗

 米軍がペリリューに上陸したのは昭和19年9月15日。人員で守備部隊の4倍、小銃は8倍、戦車は10倍という圧倒的な布陣を敷いた米軍は、島の攻略についても、「スリーデイズ、メイビー・ツー(3日、たぶん2日)」と豪語していたという。

 だが、その予想は大きく裏切られる。米軍は第1次上陸作戦で第1海兵連隊の損害が54%に達したため、第1海兵師団が撤収、第7海兵連隊も損害が50%を超えて戦闘不能に陥った。

 「軽機関銃の銃身が熱くてさわれないくらい夢中に撃ちまくった。敵味方入り乱れて、殺したり殺されたりの白兵戦で、地獄絵図そのものだった」

 そう述懐する水戸歩兵第2連隊の元軍曹、永井敬司さん(93)は、数少ない生還者の一人だ。「食糧や弾丸がすぐに底をついた。空からも海からも補給はなく、米軍の食料や戦死した米兵から武器と弾薬を奪った。3日も4日も寝ないで戦った」と語る。

 

最高の戦闘損害比率

 日本軍の執拗(しつよう)な抵抗に、太平洋艦隊司令長官のニミッツ海軍大将は著書『太平洋海戦史』で、「ペリリューの複雑極まる防衛に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を出した」と述べている。

 守備部隊がいかに激しい戦闘を展開したかを物語るが、永井さんは、想像を絶する環境の中で気持ちを支えたのは「第2連隊で教育を受けたという誇りと、日本を守るという意地だった」と胸を張った。

 『昭和天皇発言記録集成』(防衛庁防衛研究所戦史部監修)によると、昭和天皇は『水際ニ叩キツケ得サリシハ遺憾ナリシモ順調ニテ結構テアル。「ペリリュ」モ不相変ラスヨクヤッテヰルネ』(10月23日)『「ペリリュー」補給困難ニナリ軍ハアマリ長ク抵抗ガ…。随分永イ間克ク健闘シ続ケテ呉レタ』(11月15日)-と述べるなど島の戦況を気に掛け、守備部隊の敢闘に11回、御嘉賞(お褒め)の言葉を送っている。

 

誇りをかけた戦い

 平成8年6月17日、靖国神社で開かれたシンポジウム「ペリリュー戦 日米両軍の勇戦を讃える会」に、ペリリュー戦に参戦した元米軍のエド・アンダウッド元大佐とコードリン・ワグナー氏の姿があった。

 『昭和の戦争記念館 第3巻 大東亜戦争の秘話』(展転社刊)によると、アンダウッド氏は「日本軍は負けると判っている戦争を最後まで戦った。この忠誠心は天皇の力と知って、ペリリュー島を“天皇の島”と名付けた」と述べ、ワグナー氏も「日本軍人の忠誠心に最高の敬意を表す」と語っている。

 これら2人の言葉を裏付けるように、米第81歩兵師団長のミュウラー少将は、日本軍の抵抗が終わった昭和19年11月27日、「いまやペリリューは、天皇の島から我々の島に移った」と宣言したという。

 米軍に「天皇の島」と言わしめたペリリューでの戦闘は、日本軍将兵が日本と日本人の誇りをかけた象徴的な戦いでもあった。

 

◇    ◇

パラオ共和国 赤道に近い太平洋上に位置し、大小500以上の島を抱える。総面積は488平方キロ。1920年(大正9年)、第1次世界大戦後に日本の委任統治下に。先の戦争後、米国の統治下に入ったが、94年(平成6年)に共和国として独立。10島に人が住み、人口は約2万920人(外務省ホームページから)。委任統治時代、日本はパラオに南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁を設置。パラオには学校や病院、気象台、郵便局などが建設されたほか道路などインフラも整備された。最盛期の43年(昭和18年)には2万7444人の日本人が住んでいた。

 ぺリリュー島の戦い パラオ群島にある南北約9キロ、東西約3キロ、面積約13平方キロのサンゴ礁の島。先の戦争では、マリアナ・パラオ諸島の戦いの中心地となり、昭和19年9月15日から74日間にわたり、日本軍守備隊と米軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。戦史叢書「中部太平洋陸軍作戦」(防衛庁防衛研修所戦史室著)によると、戦闘は、日本軍9838人に対して米軍は約4万2千人で始まり、日本軍は最終的に1万22人の戦死者と446人の戦傷者を出して玉砕。米軍も1684人の戦死者と7160人の戦傷者を出した。日本軍は34人が生還した。

 

2015.1.3 12:00 産経ニュース

陛下、靖国、富士、桜… 「日本人になりたかった」

〈君が代は 千代に八千代に さざれ石の~…〉

 明快な日本語で「君が代」を歌い上げた94歳になる老女は、続けて「海行かば」を口ずさみ始めた。

 〈海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍~〉

 歌詞の意味は理解しているという。ロース・テロイさん。「テルコ」という日本人名も持ち、「日本人になれるものならなりたかった」と言った。

 「緑の島のお墓」を作詞したアントニア・ウエンティさん(85)は「蛍の光」と「仰げば尊し」を歌って涙を浮かべ、童謡の「浦島太郎」を歌って、「この歌は、『両親がしてはいけないということはやってはいけない。罰が当たるよ』という意味を含んでいる」と言った。

 テロイさんのいとこにイナボ・イナボさん(故人)という男性がいた。元パラオ共和国政府顧問で、生前は、「日本軍と一緒に戦いたかった」と何度も口にしていたという。

 イナボさんは平成7年8月15日、靖国神社での戦没者追悼中央国民集会に参加した際、雑誌のインタビューにこう話している。

 「日本には大切なものが4つあります。天皇陛下と靖国神社と富士山と桜の花です。アメリカ人から『日本は小さな国だけどもルーツ、根っこがあるから強い。それは天皇陛下と富士山と桜だ。それはアメリカにはない』と聞きました

 「日本人の戦いぶりはアジアの人々は皆知っているんですよね。それで日本を尊敬しているわけです。皇室と神社がある限り日本は倒れない。日本人が安心していられるのは、天皇陛下がおられるからですよ。天皇陛下がおられて、靖国神社があるからこそ日本は尊く、外国からも尊敬され、強い国となっています」

 イナボさんの日本への思い、そして歌詞の意味を確かめるように一言一言を丁寧に歌ったテロイさんとウエンティさん。2人の心に去来するものは何か。

 天皇、皇后両陛下のパラオご訪問が検討されていることに話が触れると、「最初、いらっしゃると聞いたときはだれも信じられなかった。まさかという気持ちで驚いた。天皇陛下にお目にかかれることを非常に楽しみにしている」と興奮気味に話した。(編集委員 宮本雅史)

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真実史観『もし日本なかりせば』暗に大東亜戦争の本質喝破マハティール首相の演説

 マレーシアが独立後直面した難題は英国による経済支配だった。彼らは国に帰ったものの、ゴム園や鉱山などの株をもったままだった。そして、遠くロンドンにいて利益を吸い上げていた。
 経済植民地のままの状況下で、マハティールは首相になった。外国企業の国有化宣言をするか、ベトナムのように戦争するか、または黙って英国の経済植民地に甘んじるか、株を買い占めるか、選択肢は四つあった。マハティールは、マレーシア企業株を全部買収することを選択した。国民の血を流さず、恨みも買わず、経済植民地からの脱却を、実に鮮やかに成し遂げたのだ。
 国を取り戻したマハティールは、世界に向けて発言を始める。1992年、香港での演説は、マハティール首相のこのような護国原体験からなる演説である。マハティール首相は護国のために命をかけたがゆえに、日本の先人の真意や、大東亜戦争の本意を、深く理解できたのであろう。

『もし日本なかりせば』(もし日本戦わざれば)暗に大東亜戦争の本意を喝破したマレーシア・マハティール首相の演説1992年10月14日香港で開かれた欧州・ 東アジア経済フォーラムにて )抜粋。出自無記載摘み食いコピペが散在するが、(もし日本戦わざれば)は真実史観の推察で、原文には無い。


 ・・・ 日本は、軍国主義が非生産的であることを理解し、その高い技術とエネルギーを、貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。質を落とすことなくコストを削減することに成功し、かつては贅沢品だったものを誰でも利用できるようにしたのは日本人である。まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を創り出したのだ。

 ・・・日本の存在しない世界を想像してみたらよい。もし日本なかりせば(もし日本戦わざれば)ヨーロッパとアメリカが世界の工業国を支配していただろう。欧米が基準と価格を決め、欧米だけにしか作れない製品を買うために、世界中の国はその価格を押しつけられていただろう。

 ・・・ 貧しい南側諸国から輸出される原材料の価格は、買い手が北側のヨーロッパ諸国しかないので最低水準に固定される。その結果、市場における南側諸国の立場は弱まる。

  ・・・ 南側のいくつかの国の経済開発も、東アジアの強力な工業国家の誕生もありえなかっただろう。多国籍企業が安い労働力を求めて南側の国々に投資したのは、日本と競争せざるをえなかったからにほかならない。日本との競争がなければ、開発途上国への投資はなかった。


 ・・・ また日本と日本のサクセス・ストーリーがなければ、東アジア諸国は模範にすべきものがなかっただろう。ヨーロ ッパが開発・完成させた産業分野では、自分たちは太刀打ちできないと信じ続けていただろう。


 ・・・東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功をとげた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。

 ・・・ もし日本なかりせば(もし日本戦わざれば)世界は全く違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨー ロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けていただろう。(植民地のままか、たとえ独立したとしても、植民地と同様であった。真実史観注)

 演説のさなかに欧米代表が席を蹴立てて出ていったと、朝日新聞の船橋洋一記者の報道があった。真実の発言なので、居たたまれなかったのだろう。

 2年後の1994年真実の伝播を恐れた白人戦勝国は、文学三流犯日一流比類無き犯日の大江に急きょ白羽の矢、ノーベル犯日(有色人差別)賞を与えた。世界に語る文学など元々無い三流大江は、文学は語らず、一流の犯日を世界で語り、おのれのノーベル賞正体、白状してもくろみに応えた。丸暗記記憶機大江は、見事に期待に応え、贋賞(犯日)を掲げ、得意の絶頂で犯日を世界に発信し続けている。まさに、何とかに付ける薬は無い。摘み食いの半端者、つまみ食い似非平和運動家、半面のみの生臭坊主ここに極まれり。大江健三郎史上初のノーベル犯日贋賞錯誤原爆慰霊碑売国NHK似非平和団体

 マハティール首相の本心は「もし日本戦わざれば」なのだ、あまりに刺激的なので「もし日本なかりせば」にしたのだ。列強の服従要求に屈せず、日本が自由希求のため戦い、有色人種独立の扉を開いたことにより、アジアが覚醒し共に戦い独立し、貿易の自由化を勝ち取り、日本へのよどみない原材料供給の結果、日本は繁栄した。日本を見習い東アジア諸国はあえて挑戦し、世界各国も驚くような成功をとげ、今の東アジア(大東亜共栄圏)があると言っているのだ。日本国がたとえ在っても、戦っていなければ、今の東アジアの存在はない。日本国が在り、日本国が戦った結果、今の東アジアが存在していると言っているのだ。親日などではなく、実事求是に基づいての演説なのだが、大東亜戦争のすべての殉難者に対して、これ以上の頌詞は無い。

 大東亜戦争予備知識

 ワットの蒸気機関発明で白色人種(英国)が文明の覇者となり、文明の伝播と覇道を突き進んだ結果、地球上に最後の最後に残った唯一の独立国家が、有色人種日本であった。

 

 白色人種(食民治主義凶産主義)は中国を蚕食し尽くし、最後の有色人種国家日本に迫った。

 

 資源無き小国日本は、共栄圏主義(八紘一宇の大アジア主義)で対処(台湾朝鮮孫文中国満州南洋)したが、孫文死後の蒋介石が1936年の西安事件以後翻意(ソ中凶産党との国共合作)し、日中戦争となり、白色人種(凶産ソ中と食民治主義米英仏蘭)日本潰しの、太平洋(出稼ぎ)戦争へと拡大した。

 

 ハルノートへの屈服は、これまでの共栄圏(台湾朝鮮孫文中国満州南洋)に対する裏切りで、日本民族永遠の恥として子孫に残る。万が一屈服しても、もう一方の敵ソ中凶産餌食は火を見るより明らか。日本敗戦撤退後の朝鮮戦争が、明白な証拠である!

 

 絶体絶命の日本は、これまでの共栄圏(台湾朝鮮満州南洋)に中国汪兆銘南京政府等が加わり、共栄圏を大東亜に拡大し、虐げられた有色人対白人(食民治主義凶産主義)の、大東亜(自衛自存)戦争となった。

 

 日本は敗れたが、これまで虐げられた白人小国や有色人は皆覚醒し独立した。この虐げられし者の独立は、戦勝国白人の、有色対白色への新たな戦争の恐怖となった。

 

 米国内が、有色対白色となっての米国分裂が、特に有色民族数多の米国最大の恐怖。有色対白色米国内対立を強力に畏怖したアメリカを筆頭に戦勝国は、アジアの侵略者日本と真逆に宣伝した。

 がしかし、やがて反省となり、植民地から撤退した。英断である。

 

 覚醒した虐げられし同胞が、共栄圏(自立自存)主義を継承し独立した結果、日本国分断も阻止された。

 白人反省と有色人覚醒の結果が、反対ゼロで可決された1960年の植民地独立付与宣言で、白人反省と有色人覚醒の証しが、1964年の東京オリンピックなのだ。

 東京オリンピックから30年。まさに!戦争は、「歴史の真実を忘れた頃に」やって来る。この歴史の真実をコトゴトク隠蔽し、人類の英知である条約をも破棄し、善悪(捏造宣伝)史観を掲げ、犯日行動で戦争挑発しているのが、凶産支那族や朝鮮族や成済まし日本人黄禍論残滓の白人である!
 50年後の今年も、戦争起因族の犯日行動は盛んで拡大している!

 先人冒涜をつづける人々よ、「もし日本戦わざれば」に置き換えて再読してほしい。物事にはすべて禍福がある。禍、判断は半人前史観、つまみ食い史観で、禍福判断は一人前史観、真実史観だ。戦後の日本やアジアの繁栄は、先人と共に戦い覚醒した、アジアの先人のお陰なのだ。歴史には、逃げ場が無く、背水の陣で死に物狂いとなって戦わなければ通過出来ない時代が、必然的に存在する。織田信長の桶狭間がそうだ。日清、日露、大東亜、10~20倍以上の超大国が相手だ、いずれの戦いも、日本においては背水の陣、桶狭間の戦いだったのだ。護国指導者と国民の苦悩が髣髴する。

 
日本の本質を見据えた「ルック・イースト政策」で、マレーシアを経済発展させたマハティール元首相は、著書『立ち上がれ日本人』で、こうも述べている。

 「はっきり申し上げれば、いまの日本人に欠けているのは自信愛国心です」「日本人は、日本固有の文化にもっと誇りをもつべきです。もし当事者であるあなた方がそう思っていないとしたら、私の口からお伝えしたい。あなた方の文化は、本当に優れているのです。日本の力を忘れていませんか」(マハティール・モハマド著加藤暁子訳新潮社2003)
1972年佐藤栄作首相(終戦時44歳)までがまともな日本で、1972年田中角栄首相(終戦時27歳)~2012年までの40年もの空白の時代には、ノーベル平和賞、連帯議長、ポーランド大統領(90~95)ワレサや、マレーシアマハティール首相(81~03)等々が、復興までの日本精神に感動、来日したが、面影のかけらすらも見られない姿に幻滅、帰国の途についた。しかしながら、ポーランド・トルコ・台湾・インド・タイ・インドネシア・マレーシア・パラオ等々各国は語り継ぎ、上記のような原点回帰へのエールを、日本へと送り続けている。そして、2012年からの安倍晋三首相が、原点回帰に舵を取っている。空白の40年参照天皇靖国不参拝合祀に非ず犯日団英霊愚弄思想戦に慰霊の言葉喪失

 

 弱肉強食が常識の時代に、列強との戦いに日本は敗れたが、覚醒したアジアは皆独立し、貿易は自由化された。アジアの潤沢な原材料供給で、我が国は自由主義国として戦後強大な経済力を持つに至り、アジアも共に繁栄している。アジアやアフリカは南北アメリカのようにはならなかったのだ。この繁栄がアジアの自由主義圏を拡大させ、アジアの凶産化を防いだ。この事実もけして見逃してはならない事なのだ。 

 
歴史は森を見て語れ、木だけ見て語ることなかれ。
 善悪史観は歴史に非ずの捏造宣伝史観!禍福併せ呑む真実史観で歴史を学べ。


 

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真実史観太平洋の奇跡戦い尽くし降伏命令書下山サイパン大場隊47士堀内と青野


「太平洋の奇跡・フォクスと呼ばれた男」2011.2.11(金)封切の原作本

 陥落後512日戦い、降伏命令書で下山したサイパン島の47士 「捕虜の辱」、そんな「私心」でなく、生きて生きて生きて生きて生き抜いて護国「公」(義)のため最後の最後まで戦い帰還した日本兵47士。「捕虜の辱」で自決の記載一切皆無。
 サイパンが落ちれば、米軍爆撃機の行動圏内に日本本土は全部入ってしまう。それはどうしても防がねばならなかった。「我身を以て太平洋の防波堤たらん」と奮闘したが、昭和19年7月7日最期の反撃戦にてむなしく玉砕。 
 しかし、サイパンに於ける戦いはそれで終ったわけではなかった。玉砕後、なお生き残った多数の将兵はタッポーチョ山(標高476m)付近を初め、山地、海岸などのほら穴や岩影に潜入し小集団となって遊撃戦を続行した。民間人を守り最後に皆下山させ、なんと終戦後の昭和20年11月27日まで、護国の戦いを続けたのである。
 アメリカ軍は捕虜をつくりたがらない。もし捕虜にするとしたら、婦女を陵辱し、男を拷問にかけて楽しむためだ。と彼(看護婦青野千恵子の父)は聞かされていた。(P27)一家は洞窟に隠れた、しかし一家は見つかり、父母妹の家族全員を目前で瞬時に殺されてしまった。目の前の家族の仇を討とうと機関銃の引き金を引いたが、撃ちかたが分からず仇を討てなかった看護婦の引きずる思い。復讐の念に燃えながら医療品の袋を背負い、ベルトに長いナイフをさげ、大場部隊と女一人となっても最後まで行動を共にし、助ける、看護婦青野千恵子。蔓草で肩から吊るした九九式軽機関銃を操り、米兵100人殺すまでは自分は死なないと誓い、大場部隊を助ける、はぐれ者一匹狼、元ヤクザ、般若の刺青一等兵堀内今朝松。なぜかこの二人のはかなく凄まじい生きざまは、読後も深く胸を打つ。大場栄は“フォックス”、堀内今朝松は“サイパンタイガー”の異名で呼ばれていた。『タッポーチョ』、この本の早期の復刻を願う。敵味方当事者合作のこの記録には、先に殺さなければ殺される、戦争の真実が存在している。日本人必読の書だ。
 昭和20年12月1日 天羽少将の降伏命令書に従い下山。最後まで戦いを貫いた将兵の数は47名、指揮官は大場栄大尉。その日47名は髯を剃り軍服に着替えて、タッポーチョ山に設けた潜伏拠点の前で慰霊祭を行い、戦友の霊に3度の弔銃を捧げ、へんぽんとひるがえる日の丸を先頭に、銃をかついで歩調を合わせ隊列を組み、軍歌「歩兵の本領」を唱和し、米兵の真つ只中を式場まで整然と行進した。
 米軍は、彼らを勇士として丁重に扱い歓迎会まで催し、米軍の新聞にも大きく報じられた。彼らは祖国日本に忠義を尽し最期まで戦いを貫き、米兵から尊敬までされたのである。米海兵隊の元兵士のドン・ジョーンズ氏が大場部隊47士の姿に感動して、戦後日本を訪れ(昭40)取材して書き残した本が、「Oba, the Last Samurai: Saipan 1944-45 」邦訳『タッポーチョ』ドン・ジョーンズ著中村定訳祥伝社1982(昭57)年出版副題「『敵ながら天晴』大場隊の勇戦512日」だ。何と大場部隊に守られた日本人の執筆者(田中徳祐著「我ら降伏せず」)に先駆けること一年前、敵国の元兵士が、誰よりも先んじて大場隊の勇戦を世に知らしめたのだ。

序文

「本書を、自らの国のために全力を尽くし、報われることのなかった、現代の日本人の父親たちに、祖父たちに、伯父たちに捧げる。」
あとがき
 私は今日の日本で、1945年(昭和20年)以降に生れた人たちの間では、日本にあった戦争についてあまりにも知られていないことが残念で、この本を書きました。
 これを書く前に、・・・調べてみました。・・・多くの人たちの間に、戦争のことを言うのに恥じる感覚があるということでした。そして、その恥の感覚は、事実に基づいたものではなく、知識の欠如に基づいたものでした。
 この人たちは、自分たちの父や祖父や叔父たちが、自分たちの国を守るために戦った精神について、何も知りませんでした。もっと驚いたことは、その人がしたことになんの尊敬の念も払っていないことです。
 私は、このことをとても残念に思います。日本の兵隊は、よく戦ったのです。彼らは、世界の戦士たちの中でも、最も優れた戦士たちでした。彼らは、自分たちの国のために生命を捨てることを恐れませんでした。私は、そのことを、こういう兵士たちと三年戦いましたから、よく知っています。
 しかしこの本は戦争の物語ではありません。日本とアメリカとの双方で、多くの人たちは自分が作ったわけでもない恐ろしい状況に、どのように反応したか、と言うことを書いた物語です。双方の人たちは、それぞれ信じていたことをしたのです。
 ・・・事実(この本に記した真実を日本人が知れば)によって、現在の知識の真空状態は埋められることになるでしょう。また、先述の恥じる感覚は誇りに変わるでしょう。
 ・・・そして、それらのページは、今日の若い日本の人たちにとってだけでなく、その人たちの子供や孫にとっても、誇りの源泉になるでしょう。それが、私がもっとも強く持っている願いです。1982年11月 ドン・ジョーンズ
『タッポーチョ』刊行に寄せて  大場 栄(愛知県蒲郡)

 私の心中には、玉砕で死ぬべきところを生き残ったことについて、果たして正しかっただろうかという思いがつねにあった。

 

注・大場らのサイパンでの信念は,”生き残って最後まで戦う”で、サイパン陥落後も512日間戦い、最後に上官の命令書で投降、帰還した。これを超える兵士がいるだろうか。だから、敵兵にもかかわらずドン・ジョーンズは、この“深い祖国愛に”感動、17年もの歳月をかけ、取材し、本にした。にもかかわらず“果たして正しかっただろうか”と、大場にさえも疑問を抱かせるほど、命を懸けて護った祖国日本の、帰還後の風当たりは、常軌を逸し、冷たいものだった。玉砕で死ぬ”は、戦後のマスコミが、極悪軍とするための強調捏造。死ぬことより戦うことが兵士の本分。監督が選手に負けろといっているようなもの、考えれば解ることだ。

 

 できたものを見せてもらってみると、ところどころ、彼がフィクションの筆を加えているし、起こったことの解釈がわれわれ日本人とは違うところもある。しかし、主なことはほとんど事実に沿っていて、アメリカ側から見たら、こういうことになるだろうと認められた。

 実際のわれわれの洞窟抗戦の生活は、もっと暗く不衛生きわまりなく、陰湿で、こんなに勇ましく米軍を手玉にとったようなことではなかった。しかし、米軍基地からパンを盗んできたことも、大掃討があったときのことも、堀内一等兵の活躍や数々の戦闘も、野営地の中で神がかりになる兵隊が現れたことも、すべて事実である。
 この本がどのように読まれるかについては、私には懸念がある。しかし、この本がかっては敵同士だった私たちの戦後の長い交流を経て、敵の目で書かれたわれわれの戦いの記録であることは間違いない。

 

 訳者のあとがきに、「ジョーンズ氏には・・・フィクショナイズすることを譲らなかったところがある。当時大場さん自身は”玉砕死”のみを考えていたというのに対し、ジョーンズ氏は、それを、”生き残って最後まで戦う”とした点である」と記されている。大場の本音は、”生き残って最後まで戦っての死”で、”玉砕死”は建前。本音が”玉砕死”なら、当の昔に死んで、記録されることなどなかった。1982年出版当時の風潮(極悪軍人とされ、肩身の狭い時代)や、戦友への配慮や、本人の謙遜があっての発言である。帰還者証言は、帰還後の学習がプラスされての証言となるので、検証も無く鵜呑みは間違い。この愚考を多くの作家(半藤・保阪・秦等)が犯している。戦闘中の本音は下記参照。

米軍皆殺し作戦のさいぱんから生き抜いて戦った一兵士日本への伝言

パラオ玉砕・ペリリュー島サクラと山口永少尉とニミッツ元帥と久松

1NHKスパイ白状アッツ島玉砕戦陣訓大本営音声摘み食いし合成改…

 この本は、日米開戦70年の2011年2月に公開される映画「太平洋の奇跡フォックスと呼ばれた男」(平山秀幸監督)の原作である。ドン・ジョーンズの視点は、歴史家ヘレン・ミアーズと同じ真実史観。歴史家の、この、公理公道視点から外れなければ、この映画は日本だけに留まらず、間違いなく世界に飛翔する。「私は貝になりたい」のような善悪史観なら、エセ反戦の駄作で、同じ道を辿る!

 新倉幸雄(87)さん、唯一の存命が確認された。映画化が縁である。遅きに失し一人となったが、子孫覚醒し、感謝の思いを存命中に伝えることが出来得たことは、何物にも代えがたい。・・・合掌。 

 

「烈日サイパン島」

 この本は『タッポーチョ』の4年前に新聞連載された。翌昭和54(1979)年3月15日中日新聞社会部編で出版され、改定新版として平成7年7月9日、再版された。命がけの兵士を、“暴れん坊・高級将校”と表現等々、WGIP被洗脳表現があるが、善悪史観を超えた取材であることは間違いない。必読の取材である。

以下抜粋

―今日ある平和の重み 羽山 昇(元歩兵第百三十五連隊士官候補生)

 私は、この連隊が出陣する直前まで、名古屋の歩兵連隊に士官候補生として勤務していた。身近に接することができた将兵の面影は今でもはっきり覚えている。兵団の日々の記録であるこの陣中日誌を読みながら、あるときは慟哭し、あるときは絶叫したいような気持ちに駆られた。苦難・死闘の末、次々と散り果てていった将兵や、悲運にも戦いの犠牲となった島民の御霊に、ただただ、頭をたれるばかりである。

 絶海の孤島でしかも民間人まで巻き込んで行われた戦争・・・・これは、世界の戦史にもまれに見る悲惨なものであることは間違いない。戦争を経験したもの、戦争を経験しなかったもの、その一人でも多くがこの死闘の記録を読み、今日ある平和の重みをしにじみとかみしめ、味わってほしいと私は思う。

あとがき

 「烈日サイパン島」は、昭和53(1978)年7月7日から半年にわたり、中日新聞と東京新聞に連載された。これは小説ではない。サイパン玉砕から34年たって掘り起こされた事実にもとづいて書かれたものである。取材し執筆したのは、中日新聞本社・社会部の滝恵秀、野崎恵史、小橋博の三君である。昭和54年3月 白井文吾(中日新聞社会部長)

冒頭の写真開設7頁

 (右)玉砕の後の戦場には累々と横たわる日本軍の屍。この玉砕攻撃では武器はほとんどなく、兵は手榴弾のほかには、先を削ってとがらせた木の棒を持って突撃した。米軍はこれを“愚者の棒”と呼んだ。(7月7日)

愚者の棒

 玉砕攻撃を米軍はバンザイ突撃と呼んだ。日本兵のあげる歓声はバンザイを叫んでいるように聞こえ、事実バンザイを唱えながら突撃するものもいたからである。ほとんどの日本兵が手にする武器は、手榴弾のほかは、木の棒の先に銃剣を結びつけた「愚者の棒」(米軍はこう呼んだ)だけである。素手にも等しい状態で、圧倒的戦力を誇る米軍へ突き進んでくるのは、米軍にとっては全く不可解であり、自殺行為と映った。

 しかし、7月7日未明のバンザイ突撃で米軍の受けた被害は決して少なくはなかった。・・・わずか数時間のうちに1500人余の米軍将校が失われたのである。

 米公判戦史によると・・・主力の投入に先立ち、斥候を多数派遣して米軍陣地の間げき、弱点を偵察し、・・・第一・第二大隊になだれを打って殺到した。

 米軍両大隊とも通信網は切断されて孤立し、兵力は四分の一に減少・・・総退却した。・・・米軍砲撃陣地も襲撃し・・・砲手たちがやられ・・・後退した。

 別の日本軍一隊は、105連帯指揮所まで迫り・・・戦闘は7日午後まで続いた。・・・米軍は傷ついた105連隊に変わって106連隊投入・・・午後3時にはついにやんだ。

 米軍の調べによると、4311の日本兵の死体が数えられた。・・・以前の砲撃による戦死者も含まれているので、・・・米軍・・・突撃参加者・・・「千五百人から三千人の間」と、推定・・・。

ある将校の投降

 日本軍の高級将校一人が歩兵第7師団に進んで投降してきたのだ。それまでも日本軍の中から投降するものがあったが、いずれも兵士たちだった。

 その(投降)将校は小柄だがかっぷくがよかった。

 この将校は「負け戦はいやだ。今後は米軍に協力しましょう」と、単独で歩いて投降してきた。質問にはすらすらと答え、日本軍の配備や勢力を、自ら進んで地図の上に書き込んだというのである。

 そればかりではない。米軍が次の上陸地点として最も知りたがっていたグアム、テニアンの守備状態についても

細大漏らさず打ち明けたのだった。その陳述がいずれも正しかったことは、その後の戦闘が証明した。

夫はわが胸に

 「捕虜となった将校は、収容所で終始、吉田の姓を名乗っていた」(注・日本を、同胞を売った売国奴が、本名を名乗るはずなど無い。考えればわかることなのだが、同姓の未亡人が非難された。がしかし、散華から33年後、吉田の名誉は回復された)。

サイパンのトラ

 ひたすら友軍のサイパン奪回を信じてジャングル生活を続けた日本の残存兵の中で、堀内今朝松一等兵に率いられたはだか部隊は特異な存在であった。堀内はアメリカ兵を100人殺す、と豪語、米軍を見ると狂犬のように歯をむき出して向かっていった。とかく米軍との戦闘を避けたがる敗残兵が多いなかで、ホリウチの名は米軍内にも高まり、ホリウチの首に五千ドルの懸賞金が懸かるほどであった。があまりの暴れん坊ぶりに、堀内は日本兵からも恐れられ、煙たがられた、

 堀内は松本50連隊の補充兵として牛山一良大尉に率いられトラック島に渡る途中、サイパンで戦闘に巻き込まれた。生まれつきけんか早い性格と腕の確かさで、敗残生活が始まると、間もなく、仲間のリーダーとなった。

 背中に彫った般若のいれずみにすごみがあった。九九式軽機関銃を胸の前につり、軍刀を差し米軍から奪った二挺の拳銃を左右の腰にぶら下げていた。軍刀はもちろん堀内のものではなく、拾ったか奪ったものである。

 浴衣をはおったり、米軍から奪った迷彩服を着るなど、その風体も異様だった。つねに10人ぐらいを引き連れて歩いた。そのほとんどがはだかだったため、山の日本兵たちは「はだか部隊」とか「応援部隊」「戦闘部隊」といって恐れていた。

 堀内らはだか部隊がやられたのは昭和19年11月15日である。

 米軍キャンプで発行されている新聞、ターゲットニュースは、「サイパンタイガーと呼ばれた堀内一等兵は11月15日死んだ。が、彼のために米軍は40人以上の犠牲者を出した」とかいている

秘密の援助

 山には高級将校として長野県伊那郡出身の軍医少佐(海軍)がいたが、少佐は衰弱しており、実質的には、歩兵18連隊衛生隊長の大場栄大尉が隊長をつとめていた。民間の協力で山に運ばれた物資は、大場の指揮で分配され、山の兵たちを支えた。

軍使

 大場が口を開いた。

 「日本が負けたのは事実である。そうとわかったいまどうすべきか、みんなの意見を聞きたい。思っていることを素直に話してほしい」

 さらに続けていった。「私はここで死ぬのは愚かだと思う。山を下り、日本に帰って国の再建のために働くべきだと思う」

 「バカな、何が降伏だ。日本が負けたのならば、みんなここで集団自決すべきじゃないか」

 大場に反対する激しい意見がいっせいに出た。

 「一年半も山で戦ったんだ。幾多の戦友は日本が勝つと信じて山で死んだ。われわれも山で死ぬべきだ」

 「内地の意気地なしの連中なんか問題にするな。われわれは今から敵の幕舎に火をつけて飛行機に焼き討ちをかけ、本当の日本人を見せようではないか」

 「出征する時は村でバンザイ、バンザイと送られたが、いまさら負けました、敵の捕虜になりましたと帰れるか。日本の敗戦は大和民族の滅亡のときだ。祖国と運命を共にしよう」

 大場にとびかからんばかりの勢いであった。

 中には「オレたちは自分たちで戦ってきた。いまさら大場大尉の指揮に入るのはおかしい」と帰っていこうとするものもいた。

 その夜は、それぞれの思いをぶちまけただけで、何も決まらないまま夜があけた。

 次の夜も、また次の夜もタコ山に集まった兵たちは夜を徹して話し合った。

 山を下りる腹を決めていた大場は怒り狂う兵たちをなだめていった。

 「オレたちは終戦まで戦った。捕虜じゃない。オレたちが捕虜なら日本人はみんな捕虜じゃないか。天皇陛下も捕虜だ」

 主戦派が折れ、山の兵たちが最終的に態度を決めたのは23日夜であった。

四十七士の降伏

 残してゆくことになった白骨にだれもが立ち止まって敬礼するようになった。

 山中の戦死者は、残存兵の行動を米軍にさとられるのを恐れて、放置されたままの姿で白骨化していた。加賀学伍長は白骨のそばに落ちていた手帳を拾って広げてみた。「4日間包囲を受くるも吾びくとせず、中隊の戦友皆戦死し吾一人なり、塩は少しもなし、三島市島田、古沢美恵子殿、貞吉」と書かれていた。

 その日、民間収容所で発行されている新聞「サイパン時報」は号外を発行した。「大場大尉よりカーギス中佐に日本刀の贈呈がおこなわれ、続いて武装解除がおこなわれ・・・・かくて午前8時40分極めて厳粛かつ平静裡に此の意義ある降伏式を終わった」と降伏式の模様を書いた。完

髪櫛けずり自裁の邦人女性と“愚者の棒”と“木の棒”

 「日本人在留邦人の一部には、みずからその生命を絶つまえに、相当の儀礼をとりおこなうものがあった。その一例として、三名の女性が、まるでテルモビレーの決死の陣にのぞんだレオニダス将軍と部下のスパルタ軍勢の流儀に似て、岩頭にゆうゆうと坐ってその長い黒髪を落ちついて櫛けずりつつあった光景には、さすがの海兵たちも呆然と驚異の目を見はって見まもるばかりであった。それから最後に、これらの女性はそれぞれ両手を合わせて祈りながら、しずしずと海のなかへ歩いて行き姿を消したのである」。「サイパン日記7月11日」ロバートシャーロッド著中野五郎訳(注・住民自裁は、米軍急追と、尼港済南通州等のトラウマと、古式祖先神が相俟って起きた)軍命は捏造米軍急迫で集団自決

 戦後65年、未だに“愚者の棒”呼ばわりのエセ子孫と、便乗する、キズナ破壊同胞虐殺ベスト3(凶産中国ソ連癌半島罪日)。似非子孫の「犠牲者」呼ばわりは、救世者への冒涜以外のなにものでもない。

 「竹やりで戦争に勝てる訳がない」と護られた平和の御世の子孫が、したり顔で愚弄した。8月20日のNHK ゲゲゲの女房。しかし、ワルシャワ蜂起、ワルシャワ・ゲットー蜂起、ベトコンは、滅亡の危機に瀕し、侵略者相手に、女子供までもがあらゆる武器を手にし戦った。最後の突撃に矢尽き刀折れた日本軍は、先を尖らせた木の棒を持って突進した。米軍はこれを“愚者の棒”と呼んだ。しかし米兵は、この“木の棒”に感動し“タッポーチョ”として遺し、硫黄島では名誉の再会が催されている。1~2いおうとう蜂起から大統領宛の2通の手紙その一


 日本瀕死に際し、一寸の虫に五分の魂、不条理に窮鼠猫を咬んだ証が、先人の“木の棒”なのだ。

 自己完結の最後の声(私はここまでガンバッタ)、散華の声無き声(4日間包囲を受くるも吾びくとせず、中隊の戦友皆戦死し吾一人なり、塩は少しもなし、三島市島田、古沢美恵子殿、貞吉」)をまず聴くのが、護られた子孫の務め。死しても護国の兵に、犠牲者呼ばわりは冒涜。護られた子孫に、ただあるのは“祈り”。先人愚弄の種集め、悲惨だ話収集に狂奔するNHKは、他虐偽善の亡国奴、エセ子孫の巣!

 征服者(食民治主義や凶産)に世界は、全て征服される寸前であった。木の棒”(憂国の散華、比類なき無垢)が、敵や虐げられし同胞の琴線を揺さぶり、征服者には民族・キズナを知らしめ、民族には、キズナを知らしめた。英仏蘭は賢者に目覚め去り、民族は独立し植民地独立付与宣言を成し、現代世界平和の礎を築いた。民族のこの行動が助力となり、日本分断も阻止され、小笠原や沖縄も平和裏に返還された。先人の“木の棒”無垢の力である。

 身体を筆にし流れる血で書いた世界への“木の棒”が、世界の愛国者の琴線をかき鳴らし、新秩序、現代の平和を築いたのだ。“木の棒”は、“救世の棒”といえる。このことを子孫は決して忘れてはならない。

 

 47士、大場、堀内、青野等が、なぜどうしてあんなにしてまで戦ったかが、映画では薄い、詳細は下記へ。

家族同胞死守を侵略と捏造し日本を洗脳した同胞虐殺ベスト3(凶産中国ソ連癌半島罪日)とスパイ

Ⅰ九九戦争を侵略と捏造日本せんたく最速は元凶税金泥棒東大スパイ打殺

特攻で護国 このままでは三途の川を渡れない

 「日本九九年戦争・資源無き島国日本、適者生存戦国時代唯一の術は、先手あるのみ。後手の本土戦は、兵糧攻めで必滅。露西亜、清国(属国朝鮮)南下阻止が第一義、後手は必滅、先手で打って出た。

 結果が台湾朝鮮(自立不能で)統治(極東共栄圏樹立着手)、満州建国尽力(凶産の砦)、日中戦争(中国凶産化での中ソ凶産連合阻止)、南京政府樹立尽力(中国凶産化阻止)で極東共栄圏構築。

 日中(反共)戦争で疲労困憊の日本は、戦国の定法弱肉強食、恰好の餌食となった。米英中蘭(ABCD)が兵糧攻め、ハル・ノートで降伏を迫った。出稼ぎ戦争対、日本は死活戦争。極東から大東亜に共栄圏樹立を拡大し、あらん限りに戦ったが、大東亜同胞の、完全覚醒追随まで戦いきれず、矢尽き刀折れ、敗れた。

 がしかし、戦いざまに共振した同胞が、一気に蜂起、独立。1960年の植民地独立付与宣言(互恵)が根幹となり、自由貿易64年開放経済)、平等65年人種差別撤廃)を成し、凶産は残ったが、戦争目的は完遂した。弱肉強食の世に、戦後67年間のごとき無能無策の後手日本なら、何もかもが消滅していた。それでも戦後消滅しなかったのは、『身体を筆にし、流れる血と汗と涙でえがいた先人の、人類への遺書』以外、あろうか!

 “戦かわざれば”の平和論があるが、防共の砦日本が去るやいなやすぐさま凶産化、朝鮮戦争惹起したもう一方の真の敵、中ソ凶産連合軍隠蔽スパイの、工作論である。ABCDと“戦かわざれば”の降伏は、防共の砦無き丸裸日本で、中ソ凶産の、恰好の餌食となった。この戦いは、目的も無きただの防御戦。多勢に無勢で、瞬時に最後の独立国日本は潰え、日本族の名を残すのみの、まさに、犬死に無駄死にの戦争となっていた。同胞の、支配者からの独立も無い!新秩序など、当然無い!支配者と、被支配者の地球に成っていた!」

 NHKや「言葉と文字界」は、反戦者のみを選り盗りし、反戦非戦はまるで、バラ色の世界のように洗脳するが、弱肉強食の戦国時代戦わずは、強者の餌!先人は「強者の餌」を拒否し、戦ったに過ぎない!

 「清濁併せ呑み、禍福を糾い、決断」が、現実世界。現実世界は、「実技(現実)無き非現実界NHKや言葉と文字界)」のような、好いとこ盗り選択は、完全不可世界

 負けたからと大東亜戦争非難も、愚者の浅慮!大東亜戦争後、弱肉強食から互恵へ、人種差別から平等へ、ブロック貿易から自由貿易へ、明確に世界は変わった。「互恵・人種平等・自由貿易」は、先人の旗印である!

 

亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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