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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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埋立地は完全隠蔽のTBSやTV朝日

「お為ごかし」の政党渡り鳥が小池百合子(TVや新聞信者のみが支持)
 「自民党叩きが社是のTBSとTV朝日のみが、小池百合子を繰り返し、頻繁に放送」は、舛添都知事誕生前後と酷似する。都知事選資金調達方法不備で、猪瀬直樹は辞職したが、小池百合子都知事選の資金源は?小池新党都議選60人超擁立の資金源は?
 文春砲も新潮砲も、出番だよ!
真実史観

 「築地」の意味は、埋め立て地。1657年明暦の大火の後に、佃島の住人らが、埋め立てて造成した土地。豊洲は、1923年(大正12年)関東大震災の瓦礫処理で、埋め立てられた土地。どちらも、埋め立て地である。瓦礫埋立地の地下水は、瓦礫成分より滲み出た汚染水なので、そのまま使用不可は、当たり前!
 埋め立て地豊洲の地下水云々を掲げ、鬼の首でも取ったかのように勝誇り、難癖中の小池百合子都知事やTBSやTV朝日だが、埋め立て地豊洲の地下水云々論は、子供でも解る、明明白白なナンセンス論!
 安倍晋三叩きのTBSやTV朝日が、埋立地は完全隠蔽し、東京ガス(ガスは気化し、地下に残留しない)の工場跡地のみを強調しての、頻繁な放送は、明白な洗脳で、万死に値する!スポンサーも同罪!
真実史観



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嘘を子孫に残すな!

現代選挙人の使命!
嘘(凶産や民死ん党や社民党等々の野党)を、子孫に残すな!

真実史観

韓国(大韓民国)は捏造で建国捏造を語る憲法前文!

韓国(大韓民国)は捏造で建国捏造を語る憲法前文

韓国は捏造で建国!

 李朝差別を破壊した日本が去るや否や、恩を仇で返す人面獣心コリアンに回帰!竹島を火事場泥棒等々何もかも出鱈目で建国した李承晩、真逆の捏造史で日本を貶め、暗黒李朝差別に逆戻り!

1948年7月12日大韓民国憲法制定(第9次まで憲法改正)

憲法の前文

 「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は己未三一運動大韓民国を建立し、世界に宣布した偉大な独立精神を継承し、今や民主独立国家再建するに当たり、正義、人道と同胞愛により民族の団結を強固にし、すべての社会的弊習を打破し、民主主義制度を樹立し、政治、経済、社会、文化のすべての領域において各人の機会を均等にして能力を最高度に発揮させて、各人の責任と義務を果たすようにし、内には国民生活の均等な向上を期して、外では恒久的な国際平和の維持に努力して私たちと私たちの子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを決意し、私達の政党、また自由に選挙された代表として構成された国会で檀紀4281712日に憲法を制定する」

檀紀4281712日 大韓民国国会議長 李承晩

 

韓国(大韓民国)は捏造から始まった!憲法前文は、韓国捏造の証拠!

民主独立国家再建」意味は、「民主独立国家」であったが、日本に侵略されて植民地にされた。がしかし、「己未三一運動大韓民国を建立」して、この臨時政府の抗日闘争で「民主独立国家再建」する!

 「民主独立国家再建」は、かっては「民主独立国家」であったかのように国民を錯覚させて、「捏造植民地被害者」を強調するための、洗脳表現!

 日本統治以前は前掲のように暗黒李朝差別なので、明々白々な捏造!

 

「日本に1910年植民地にされたが、1919年の己未三一運動大韓民国を建立(臨時政府し、この臨時政府の独立運動・抗日闘争で、大韓帝国建国」と捏造

 真実は、「朝鮮は侵略戦争統治ではない。日本とタイ(英仏の緩衝国)のみが独立国の戦国時代に、清国に日本が勝利して朝鮮を護り1897年に独立さしてあげたが、独立も維持出来得ず、たった8年で保護国!さらに5年後には完全に経済破綻して日本に泣き付き!1910年に日本が借金を肩代わりして請願統治し、暗黒李朝差別を破壊、数多の改革を成した」

 

 自力独立ではなく、日本が米国に負けたための棚ぼた独立(他力独立)なのだが、請願統治・同胞大虐殺(共食い)を隠蔽し、三一独立運動政権(好いとこ盗り摘み食い針小棒大解釈)が独立を勝ち取ったと、韓国(息吐く如くに嘘を吐き、嘘に罪悪皆無民族)は、歴史を捏造した。

 

己未三一運動(変革期に必ず生じるテロリストに扇動された不満分子のテロ)の詳細

1919年3月1日~5月三・一騒擾(そうじょう)事件(己未三一運動

ホラー小説(独立運動の血史)がソースの三・一騒擾(そうじょう)事件(己未三一運動

 「7500人が死亡し、16000人以上が負傷47000人以上が身柄を拘束された。これは日本が集計した数字だ」は、偽造!朴殷植」の『独立運動の血史』に、「死者7509名、負傷者1万5850名、逮捕者4万6306名」と記載の数字で、「日本が集計した数字」ではない!

 山川出版社の「朝鮮史」(2000年8月)1912年三・一騒擾(そうじょう)事件についての、「山川出版社」の第6章の記述。

 「朴殷植」の『独立運動の血史によれば、朝鮮人の犠牲者は、(1919年)3月から5月までの間に死者7509名、負傷者1万5850名、逮捕者4万6306名という多数にのぼった」「朝鮮史」武田幸男編山川出版社284~5p

 ソース元の著者朴殷植は、「上記の数字は新聞や伝聞のもの」、「調査は一切していない」と言っている。『独立運動の血史Ⅰ』平凡社・東洋文庫183p169p

 ところが「山川出版社」はソース元の検証皆無で、「史実」であるかのごとく記載している。

韓国は「朴殷植の伝聞」を「史実」と記載

 「柳寛順の殉国、華城郡堤岩里住民に対する無差別虐殺など各地で弾圧による死傷者が二万名となり、監獄に入れられただけでも五万名になった」前掲「入門韓国の歴史」333p「死傷者(死者プラス負傷者)が二万名」がさらに335pでは「三万名を超す」と拡大している。

日本側の記録

 宇都宮太郎朝鮮軍司令官が、田中儀一陸軍大臣あてに出した、1919年9月29日付けの報告書によれば、朝鮮人の死者405負傷者903、日本の憲兵死者負傷者33である(「現代史資料26朝鮮2」みすず書房321~7p)。これは軍隊の3月1日から6月Ⅰ日までの3ヶ月間の人的被害全記録である。

 3月1日から4月30日までをまとめた陸軍省「朝鮮騒擾経過概要(1919年9月)」によれば、陸軍死者ゼロ、負傷者4名、憲兵死者6名、負傷者91名警察官死者2名、負傷者61名。「朝鮮近代資料(9) 万歳騒擾事件(1)」近藤釼一編友邦協会29p128p

 陸軍省のはまた、朝鮮人側の死傷者を「約1千5百名に達せり」としている。現地の朝鮮軍の報告「1308名」より約2百名多い。ただ、この陸軍省の調査をした「1千5百名」は、死者と負傷者の内訳をしていない。仮に前者の割合と同じとすれば、「死者5百名、負傷者一千名」となろう。

 「朴殷植」の『独立運動の血史』は、陸軍省調査(死者500名)の15倍の「死者7509名」で、「負傷者1万5850名」もまた、陸軍省調査(負傷者1000名)の15倍である。内部資料は自由に閲覧できたので、15倍で一致は、「朴殷植」が実数を知っていたと推察できる(「血史」は三・一事件翌年の、12月刊)。

 監獄に収監された人数は「5万人」と、実数の6倍にしている。朝鮮全土に当時、刑務所は監獄8、分監12しかなかった。三・一事件で収監されたのは約8千5百名(1919年5月10日現在8437名)で、定員オーバーであった。韓国の教科書は出鱈目な数字を書いている。前掲「朝鮮近代資料(9) 万歳騒擾事件(1)」近藤釼一編友邦協会29p128p

 「朴殷植」の『独立運動の血史』は、ホラー小説の類である。両手両足を切断された人間が即死しないばかりか、手が無いのに自分で衣服を切ることが出来る。足が無いのに自分で歩いて帰宅できる、というのである。また、手足を切られたあと3日間も食事を与えられずとも元気で官憲を罵倒し続けたという。マンガでもここまでの描写は出来ない。つくり話にもほどがある。『血史』の虚偽性は、議論以前である。

 「女子高等普通学校(当時の女史中等学校の名称)の慮水烈は、裸体で十字架の上に仰臥させられた。日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて慮水烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(菰)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。・・・が質問して、「お前はこれでもなお『万歳』を叫ぶつもりか」と言った。彼女はこれに答えて「独立が達成できなければ、たとえ死んでもやめない」と言った。・・・数日間も食事を与えないで、三日目にふたたび拷問を加えた。・・・やむをえず、衣服を抛りかえしてよこし、きびしく警責を加えた後に釈放された。・・・」前掲『独立運動の血史Ⅰ』231~2p212p

 また『血史』は1919年3月の1ヶ月間で収監されたものは「数十万をかぞえ・・・(同書212p)」としているが、実際は1万人に満たない。そればかりか、183pでは「収監人数4万7千名以下」としていた。理由は、「逮捕者4万6948名」と記述のためである。逮捕者(4万6948名)-即時釈放者(かなりの数)=収監者となり、逮捕者以下が収監者数だからである。

 『血史』の数字は思いつくままの捏造数字の証拠である。『血史』の数字や描写を引用したすべての研究所専門書は、歴史歪曲偽造のそれであって、学術的価値は皆無

 都合の悪い真実は徹底隠蔽し、「嘘」を並べ、まくし立てて己を正当化する朝鮮人の本性が、本当に良く解かる本である。「嘘は罪」の、カケラすらもない!

 

三・一事件の裁判ー朝鮮人が感動した公正と刑罰

 三・一事件官公署の被害(4月25日現在)は、総督府調査(496~8P)。面事務所(村役場)の全壊19。内放火によるもの5。窓ガラス破壊、器物・書類の焼却など村役場の一部破壊28。警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遺所・同駐在所については全壊16ヶ所、一部破壊29ヶ所。郵便局の全壊2、一部破壊9。

 日本人の憲兵6名と警察官2名殺害。4月3日の水原郡雨汀面(村)の花樹里警察官駐在所(日本人巡査1、朝鮮人巡査補3が勤務)の川端豊太郎巡査を石と棍棒で殺した上に(創痕51ヶ所)、耳と鼻をそぎおとし陰具を切断し惨殺された。

 この川端豊太郎巡査殺害と放火で起訴された被告52名の予審を担当した京城地方法院(地方裁判所)は半数にもなる25名を証拠不十分で免訴かつ放免を決定し、高等法院(最高裁判所)に送致したのは27名であった(499~504P)。

 日本統治下の司法は、朝鮮人だからといって手抜きの処理も、法を無視した重罰の起訴も、しなかったのである。

 5月20日時点での第一審判決。3年以上の禁固刑(死刑無期15年以上は0で、10~14年以下が6名、7~9年以下が1名、5~6年以下が23名、3~4年以下が50名)となったものは80名で、有罪3967名の2%(174p)。「現代史資料朝鮮2」みすず書房310p496~8P499~504P174p

 日本統治は「天知る、地知る、子知る、我知る(四知)」の天道に基づき公明正大であった。

テロ組織が壊滅平和になった韓半島

 朝鮮人側に500名の死者と、日本側に陸軍・憲兵・警察官の死者合計8名の被害を出した1919年春の「三・一騒擾(そうじょう)事件」がきっかけとなり、少人数とはいえ陸軍憲兵部隊を「警察官の代用」として配置していた制度を廃止したのは、この事件を契機に朝鮮全土から武力騒擾(そうじょう)の可能性が一掃されたからでもあった。現実に、この時以来、「朝鮮の独立運動と自称の活動家」たちは、満州の間島ロシアの沿海州支那の上海の三ヶ所に「国外脱出」した。つまり、「三・一騒擾(そうじょう)事件」は、満州馬賊(満州の間島)露西亜(ロシアの沿海州)支那(支那の上海)のテロリストに扇動された不満分子(変革期に必ず生じる)が、騒いだ結果であったということである。

 捏造民族が「三・一独立運動」と「独立」を冠し偽造しているが、独立維持不可で破綻した最貧国朝鮮が、日本に泣きついての日本統治開始1910年から、わずか9年後の1919年春に「独立」運動?子供でも騙せないだろう!タイと日本のみが独立国の戦国時代に、「三・一独立運動」など「絵に描いた餅」で「喰えない」。「独立運動」ではなく、「(満州馬賊と露西亜と支那が仕掛けた三・一テロ」が正しい。

 テロ組織が壊滅し、朝鮮半島に平和が訪れた。このため、「武断政治」から「文治政治」が可能になり、韓半島一新の、大躍進が始まった。「三・一テロ」は、李朝差別政治と完全に決別した「事件」とも言える。

 

四・一九義挙と五・一六革命が加筆された憲法前文

四・一九義挙

1960年4月19日4.19義挙(サイルグ革命)26日まで続いた大規模なデモで、イ・スンマン大統領は下野(辞任)。

 1948年から1960年までのイ・スンマン政権は国家保安法を施行、野党の進歩党のチョ・ボンアム氏を処刑したり、抜粋改憲四捨五入改憲など、不法な改憲等々て国民が不満をつのらせていた。

 1960315日、大統領選挙で当時の与党だった「自由党」政権が行った不法・不正選挙が導火線で、学生たちが中心勢力の大規模のデモが起こり、この日ソウルだけで約3万人がデモに参加した。

 全国各地のデモによる犠牲者の数は死者183人・負傷者6,259人となった。これに対し李政権は19日午後5時を期してソウル・釜山・大邱・光州の各都市に戒厳令を布告したが、軍は政治的中立を維持、デモ隊鎮圧のための積極的行動は行わなかった。

五・一六革命

1961年5月16日5.16革命(516軍事クーデター)

 後の韓国大統領で当時少将(第2野戦軍副司令官)だった朴正煕(現韓国大統領朴槿恵の父)を最高指揮官とする革命軍は、漢江大橋付近で憲兵隊50余名と銃撃戦を行った以外は大きな抵抗も無く、ソウル市内の主要部分を制圧し、午前5時、中央放送局の放送で、軍事革命が行われたことを全国民に宣布した。

 クーデター直後の516日午前11時、マグルーダー(C.B.Magruder)駐韓米軍司令官はクーデター反対、張勉政権を支持しする声明を、米軍放送を通じて発表し、駐韓米代理大使マーシャル・グリーン(en:Marshall Green)と共に青瓦台を訪問、尹潽善大統領にクーデター軍鎮圧を要請した。しかし、尹大統領は、「国軍同士が衝突すればソウルは火の海となり、そのすきに北が南侵する恐れがある」として、要請を拒絶した。

 一方、アメリカのケネディ政権はクーデターに対し、慎重に静観する態度を取っていたが、クーデターから三日目の519日、軍事政権への支持を発表した。そして、反共体制の強化と腐敗の一掃及び合憲的政府の再樹立を標榜する、軍事政権の革命公約に、大いなる期待を表明した。

 

第5次憲法改正(19621226日)

憲法の前文

「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は三・一運動の崇高な独立精神を継承して四・一九義挙五・一六革命の理念に立脚して、新しい民主共和国を建設するに当り、(以下同文)。永遠に確保することを約束して、1948712日に制定された憲法を今、国民投票によって改正する」

 

第7次憲法改正(19721227日)

憲法の前文

 「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は三・一運動の崇高な独立精神四・一九義挙五・一六革命の理念を継承し、祖国の平和的統一の歴史的使命に立脚して、自由民主的基本秩序をさらに強固なものにする新しい民主共和国を建設するにあたり、政治·経済·社会·文化のすべての領域において各人の機会を均等にして能力を最高度に発揮するようにし、責任と義務を果たすようにして、内には国民生活の均等な向上を期し、外には恒久的な世界平和に貢献することで、私たちと私たちの子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを約束しながら、1948712日に制定され、19621226日に改正された憲法を今国民投票によって改正する」。

 

88ソウルオリンピックの前年「五・一六革命」が消去された

第9次憲法改正(19871029日)

大韓民国憲法

憲法の前文

 悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統及び、不義に抗拒した四・一九民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義、人道及び同胞愛により民族の団結を強固にし、すべての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を基礎として自由民主的基本秩序を一層確固にして、政治、経済、社会及び文化のすべての領域において各人の機会を均等にし、能力を最高度に発揮させ、自由及び権利に伴う責任と義務を完遂させ、内には国民生活の均等なる向上を期し、外には恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することにより、我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを誓いつつ、1948712日に制定され、8次にわたって改正された憲法を、ここに国会の議決を経て、国民投票により改正する。

 
 
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黄河決壊事件は敵を明確化!蒋介石敗北を決定した蛮行!

黄河決壊事件は敵を明確化!蒋介石敗北を決定した蛮行

1938

黄河決壊事件(中国呼称は花園口決堤事件)は、日本反共戦争初期の193869日、日本軍の進撃を止める目的で、支那国民党軍が黄河を爆破氾濫させ、自国民を巻き添えにした、蒋介石自滅作戦。

 193866日、日本軍は河南省の中心地である開封市を占領、鄭州市も攻略できる様相となった。国民党軍の劉峠第一戦区副司令官の、「黄河の堤防を爆破し氾濫させ日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に提示された。日本軍の追撃を断ち日本軍を水攻め、同時に国民をも巻き添えにする愚策、黄河大洪水作戦を、蒋介石は承認した。

 蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。

 67日に中牟付近を爆破したが、この作業は失敗し、場所を花園口に変更。69日午前9時に堤防は爆破され、黄河は決壊した。

 さらに611日夜、支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点でも、黄河の堤防3箇所を破壊した。

 この結果、その後9年間、黄河の流れは南側へ変わり、黄海に注ぐようになった。

 氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及び、水没は11都市と40003省の農地が農作物ごと破壊された。諸説はあるが、被害は、水死者100万人、被害者600万人と言われている。

 612日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。

 923日更に支那軍は、武穴鎮の下流で、揚子江を決壊させた。

626日同盟ニュース

『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』

 「悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている」

 

 この、愚策大洪水は、以後、水没地域に干ばつ、飢餓、伝染病などをもたらした。

 

支那人を救助する日本軍に攻撃した支那軍

 日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。

 日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も、麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が、麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に、激しい射撃を加えたこともあった。

救助資料

1938(昭和13)年623日同盟ニュース

 泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。

1938711日毎日新聞(支那事変画報 第33)

 わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ

國史図書刊行会編『支那事変』

 「写真」濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。中下は洪水によって浸水した農村地帯

自作自演し責任を敵になすり付ける作戦は支那中国の伝統手口

 611日午前、支那国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という情報を発信した。

 最初支那側は、黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を、日本軍が砲撃及び爆撃したとの説明がなされ、後に、日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めで、かつ、後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略で、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に、支那民衆を威嚇する日本軍作戦の一部、とされた。

 さらに報告では、日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は、洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していると、説明された。支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃までをも、日本軍の仕業だと発信し、613日にも、支那全土の各メディアに、「日本軍の暴挙」と喧伝させた。

 蒋介石の副官何応鈞の『八年抗戦之経過(1938年)』では、「日本軍が飛行機で爆撃した」、『中華年鏡(1948年)』にも、「日本軍の砲撃で破壊された」と、真逆に捏造した。

真逆捏造の証拠

 黄河の堤防破壊は自軍前進の妨げとなる。前進を妨害する洪水を引き起こすいわれは無い。堤防の大きさを考慮すれば、爆撃と砲撃のみで堤防を破壊することは不可能と、主張した。

 16日付東京朝日新聞夕刊【上海特電十五日発】上海軍当局談

 「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」

『抗日戦回想録』郭沫若(毛沢東凶産党兵士)自伝

 敵(日本軍)の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの(日本軍の)戦略は611日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。

 あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。

 わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。

 しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産想像もつかぬ犠牲をこうむった。敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。

 私たち(毛沢東凶産党)が活躍すべき機会到来であった。――

 自作自演で事を起こし、宣伝戦で敵になすり付ける手法は、支那人の伝統的手口。現代も同様!

黄河大洪水愚策被害

621(大阪朝日)

 黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、日本軍占領下開封の治安維持会と商務会が発表。罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、被害面積約200平方キロ。

終戦後の194512月に国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」

 1944年末の段階で、洪水による死者32万人、離郷者数約63万人。河南省だけで約32万人とされた死者数は、その後の『中国革命史辞典』では、死者89万人。 

洪水後遺症による被害

『大東亜戦争は、アメリカが悪い』鈴木敏明著碧天舎、2004

 「堤防破壊の後遺症として1942年に河南省で干ばつが起こった際に飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたと伝えられる」

 

「河南省における食糧欠乏と日本の穀物徴発活動」『中国の地域政権と日本の統治』 オドリック・ウー著、吉田豊子訳(慶應義塾大学出版会、2006年) 

 「死者300万人、土地を捨てた者300万人、救援を待つ飢えた人々は1,500万人を数え、河南の西部、南部、東部の順に伝染病の被害があった。

 飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、飢えた人々に食糧を調達していた」

 

『温故一九四二』劉震雲著、劉燕子訳 中国書店、2006

 「1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、及び湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した。

 1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り、軍糧を放出して多くの人々の命を救った。

 河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れないほどだった。

 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は、河南省の主席とともに、農民の生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行し始めた。これは、農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると、兵士の武器を取り上げはじめ、最後には中隊ごと次々と、軍隊の武装を解除させるまでに発展した。

 推定では、河南の戦闘において、数週間の内に約5万人の中国兵士が、自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において、武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。日本軍は3週間以内ですべての目標を占領し、南方への鉄道も、日本軍の手に落ちた。この結果、30万の中国軍は全滅した」

 

『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著

 「一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ

 穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を、飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。

 日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。

 「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである」

 

 上記の事柄は、後の汪兆銘南京政府の地盤となったとみても、間違いは無いだろう。

 支那軍は、自分たちのみが安全に逃げたい一心の我欲、ただそれだけのために、夥しい数の同胞支那人民の生命と財産を犠牲にした!毛沢東も、蒋介石追放後正体を露にし、同胞大虐殺を繰り返したのは、記憶に新しい!

 国難に、士農工商皆、我欲を捨て、一丸となり、大義に殉じ、明治維新を成した日本とは、真逆である!選択肢皆無の宣戦布告ハルノートに、我欲を捨て、一丸となり、護国を全うした日本とは、あまりにも真逆である!

 

同胞大虐殺(黄河大洪水)作戦は蒋介石が先だった!

 以後、人民の信を得た毛沢東凶産は一気に隆盛し、信を失った蒋介石国民党は、瞬時に転落した!同胞大虐殺は、毛沢東も蒋介石も同類なのだが、蒋介石の方が先だったので、一気に人民の信頼を失った。 汪兆銘は、蒋介石の同胞大虐殺(黄河大洪水)作戦に、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」を見た。そして、それを救助する日本軍に、東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」を見た。師孫文とは真逆な、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」と化した蒋介石と袂を分かち、日本と行動を共にしたのは当然であろう。19381220日、汪兆銘夫妻は、陳公博、周仏海ら「汪兆銘」派同志たちと共に、重慶からハノイへ脱出した。


193810月 1938年昭和十三年十月、毛沢東が部下に与えた指令。・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである・・・1969年8月林彪が編集した『毛沢東思想万歳』の533~4頁・日本社会党の理論雑誌『社会主義の理論と実践』1964年9月号

 鄧小平の日本認識証言 鄧小平は昭和五二年、三橋健次郎元陸将との会談での証言。・・・日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、日本軍の占領地域の後方に拡がり、八年の間に八路軍は120万「1936年10月、長征で30万人から2万5千人まで激減していた」に増え、さらに数百萬の民兵を作ることができた。・・・『中国との友好交流二十年の感想』、三岡健次郎、平成七年、中国政経懇談会

1938(昭和13)年「大亜細亜主義」11月号大亜細亜協会評議員高木睦朗中日実業副総裁「孫文と大亜細亜主義」

 「常に日支提携によって亜細亜民族を圧迫の桎梏から救ひ出そうと念じてゐたことである。・・・孫文には寸毫も排日意識はなかった。抗日思想など薬にしたくもなかった。彼の三民主義を今日の如くに曲解したのは蒋介石である。否、蒋介石を取り囲む一団の卑怯者の群れである。孫文には唯、烈々たる愛国思想と、其の思想を育む亜細亜民族的熱血が、脈々として波打つてゐただけである」


孫文の大アジア主義
1924年12月28日 馮玉祥は北京を占領すると、孫文を大総統に迎えた。孫文は上海から北京に向かう途中で、わざわざ日本に立ち寄り頭山と対談し、神戸高等女学校で講演をした。


「大アジア主義」神戸高等女学校において神戸商業会議所外5団体におこなった病死(肝臓癌)3ヶ月前の講演(孫文選集」1966)孫文の大アジア主義

 「本日は皆様よりアジア主義と言うことについて、私に講演しろと言うお話でありました。わがアジアはとりもなおさず最も古い文化の発祥地であります・・・

 ・・・日華両民族は共同戦線を結成してインドの独立を支援すべきである。中国と日本とインドの三国が一体となって起ちあがるならば、西欧の帝国主義など恐れることは何もない。西欧の文化は、鉄砲や大砲で他人を圧迫し、功利強権をはかる覇道の文化である。これに対して東洋の文化は、仁義道徳を主張する王道の文化である。われわれは東洋の王道文化をもって、西欧の覇道文化に対抗しなければならない。すなわち仁義道徳を主張するということは、正義公理によって西欧人を感化することである。・・・

 ・・・我々が大アジア主義を説き、アジア民族の地位を恢復しようとするには、唯だ仁義道徳を基礎として各地の民族を連合すれば、アジア全体の民族が非常な勢力を有する様になることは自明の理であります。

 さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります。

 我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」となるか、或は東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」
1924年 汪兆銘は中国国民党中央委員・宣伝部長に選出。
192524 孫文の病状が絶望的になった時、後継者の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。孫文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言った。そして3月11日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した遺書を、孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇りとした。その遺書は、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、「革命尚未成功 同志仍須努力」(革命未だ成らず、同志なおすべからく努力すべし)という有名な一句を含んでいる。
詳細は⇒
真実史観1頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏大アジア主義に殉じた人々犯日隠蔽の歴史

蒋介石・毛沢東・習近平等は、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」
「革命尚未成功 同志仍須努力」!
中国国民よ!孫文・汪兆銘に帰れ


亡国の起因冤罪史観破壊!子孫へ遺す真実史観蜂起日本適者生存史目次へ

1朝鮮捏造史高麗・元寇・李朝・通信使・対馬・秀吉・徳川・李承晩

1朝鮮捏造高麗・元寇・李朝・通信使・対馬・秀吉・徳川・李承晩

火事場泥棒で竹島を占領し!捏造して宣言(対馬は我が国に朝貢を捧げてきた属地)
作り話を歴史にする韓国初代李承晩(イ・スンマン)大統領

2015年1月7日 ソース:チェジュニュース(韓国語)
 [
今日の歴史]'対馬は私たちの土地'宣言-17日 
 194917、李承晩(イ・スンマン)大統領が内外信記者と持った会見で‘対馬は私たちの土地’と電撃宣言した。第二次大戦敗戦で旧ソ連に北方四島を奪われ意気消沈していた日本人たちには青天の霹靂のようなニュースだった。李大統領は「賠償要求はどの時期までに限定するのか」というある記者の質問に答える際に、このように爆弾宣言をした。
 李大統領は対馬はかなり以前から我が国に朝貢を捧げてきた属地同然だったが、350年前に壬辰倭乱(秀吉文禄の役)を起こした日本が対馬を武力で強制的占領した後、日本領土になり、この時、決死抗戦した義兵らの戦跡碑が随所にある」と背景を説明した。
 10日あまり後、31人の韓国議員が‘対馬返還要求決議案’を国会に提出し日本をより一層圧迫した。対馬要求は日本の独島(ドクト、日本名:竹島)領有権主張に対する正面対抗、長びく韓日会談で有利な交渉立場を得ようとする見えすいた脅し的な性格が強かったが、会見の報に接した日本の吉田総理はびっくり驚天し、マッカーサー司令官に走って行って訴えたという話が伝わっている。

対馬が大韓民国領土と表示された地図
1)朝鮮方域之図-朝鮮前期に製作された韓国全図.
1557
(明宗12)に製作したものと推定。満洲と対馬を韓国領土で表記。国宝第248号。国史編纂委員会所蔵。2)朝鮮八道地図-18世紀末に製作されたと推定される朝鮮地図。ソウル大奎章閣所蔵。
2)朝鮮八道地図-18世紀末に製作されたと推定される朝鮮地図。ソウル大奎章閣所蔵。
3)大東輿地全図-キム・ジョンホの大東輿地図を小縮尺に減らして作った約92万分の1の全図。
4)朝鮮国地理図中、八道総図-対馬を朝鮮領土で表示した1592年、日本の‘朝鮮国地理図’中‘八道総図’。現存する地図は1872年再模写したもの。
ホン・クンジン記者

韓国の歴史捏造教育
朝鮮通信使について
 壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は
経済的に困難に陥った。戦乱後成立した日本の徳川幕府は先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した
1609年光海君2年、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
 また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を倭奴(日本)伝播する役割も果たした。
文禄慶長の役と捕虜について
 倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族がもっていた潜在的力量がすぐれていたためである。つまり、官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退させることができる力になった。(中略)そして東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化財を略奪し、多くの技術者と学者等を拉致していった。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本の文化発展大きな影響を及ぼした。
『世界の教科書シリーズ1 新版韓国の歴史-国定韓国高等学校歴史教科書』明石書店

 対馬は、一度でも朝鮮領であったかどうか、また朝鮮半島には日本に教える文化が存在したかどうか、下記資料を縦糸に、辿って見よう!
「朝鮮幽囚記」オランダ人ヘンドリック・ハメル著 生田滋訳平凡社
 朝鮮半島の存在がはじめてヨーロッパに知られたのは、1542年、ポルトガル人が種子島に漂着し、ポルトガル人日本来航が始った以後の事なので、それまでのヨーロッパ資料は伝聞資料のみであった。 台湾から日本の出島に向かったオランダ船が、暴風雨で難破し済州島に漂着したのは1653年8月16日。生存者36名は李氏朝鮮に抑留され、13年後の1666年8月3日、生存者16名中8名が船を手に入れ朝鮮から脱出。日本の五島列島にたどり着き、脱出は成功、出島のオランダ商館に送り届けられた。1668年8月幕府の尽力で、残留者7名(1名が残留希望)も、同様に送り届けられた。
 ヘンドリック・ハメルは、長崎滞在中に報告書を作成した。 こうして報告書は、ヨーロッパ人が遭難し体験し見聞した、最古の資料、「朝鮮幽囚記」となった。

予備知識
遺跡と資料からの韓半島
遺跡
朝鮮南は日本海洋文化圏の一部米の伝播が解明捏造の古代日本史古代の朝鮮半島南部は日本海洋文化圏で住人は日本人、後に北方民族と混血した現代の韓国人とは異種。三国史記があるが、成立が1145年なので古代は参考程度とし、同時代の史書優先、海洋民・黒曜石・稲・水田・墓制等の実証から考察の結果、下記のごとく、整合した。

 日本最古の黒曜石.3万5千年前頃の武蔵野台台地の旧石器時代遺跡から出土。和田峠、箱根が主体で、神津島産が少量混在している。神津島は下田から南南東60キロにある黒曜石産地の島、現在の水深200mで、当時以来、本土とは繋がってはいない。

 ちなみにヨーロッパでは、南ギリシャ、フランキティ洞窟、1万2千年前頃の中石器の層から発掘された黒曜石が、2千キロ離れたエーゲ海のミロス島産とされ、世界最古の「海上交通」の始まりとされていた。がしかし、それよりもさらに、2万3千年も遡った歴史を刻んでいたのが、日本の「海上交通(日本海洋文化圏)」である!「遥かなる海上の道」2002小田静夫著青春出版

 5千年前頃の縄文中期には、能登半島伊勢湾等2百キロ圏まで、分布を拡大した。北海道白滝産黒曜石は、アムール川下流マラヤガニ遺跡、サハリン州サバトナヤ遺跡、新潟県で出土。佐賀県腰岳産は5千年前頃の水佳里や東三洞貝塚で出土。

 古くから黒曜石日本を中心とした海洋文化圏として中国揚子江、朝鮮半島南(百済、新羅、任那)、耽羅(たんら、済州島)、南西諸島、五島列島、対馬、壱岐、九州(南方文化)、島根(出雲)、隠岐、能登、佐渡、新潟(越)、瀬戸内海が存在し、文化を共有する地中海文明と同様の海洋人がいた。朝鮮半島人は倭寇と呼び、異種扱いは海洋人に非ずの自白で、白村江以後は、中国文化陸伝播のみが証し。日本統治前と後の差(写真や朝鮮紀行)がその証拠で、陸伝播のため最僻地となった朝鮮、統治以前は、日本の奈良時代。海洋人でもない朝鮮半島人が伝播したは、当然捏造。いつの時代も朝鮮人は、海洋人文明の受け入れ人でしかなかった。

 黒曜石の伝播が、海洋文化圏の隆盛を促進し、あま(海)の道が、米の伝播を促進した。古代日本、あま(海)の民は日本海を制し自由に航海、大陸や半島沿岸に黒曜石文明を伝播、居住した。九州の黒曜石が沖縄本島(佐賀県の腰岳産)や、朝鮮半島南部の東三洞貝塚(佐賀県の腰岳産、大分県姫島産)で、隠岐と脇本(秋田県)産の黒曜石が、ロシアの沿海州で、確認されている。神話と神社の大和朝廷文明は、腰岳、姫島、隠岐の黒曜石産地が始まりで、三韓と銅矛圏と銅鐸圏を成した海洋民が、起源。韓半島南から東北までの、タイムラグ無き古墳群の推移が証し。黒曜石研究の動向

あま(海)の民日本海洋民が支配していた海
三国史記巻第二新羅本紀第二
 12(西暦295)年春に、王が臣下に向かって「倭人が、しばしば我が領土を侵して来るので、・・・一時海を渡って行って、その国(倭国)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」
 これに対して、弘権が「我々は海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。――」
 王はこれを聞いて「それもそうだ」といいました。
 韓半島住人は、海洋民を倭寇と呼称し、自らは海洋民でないことを自白している。日本海呼称は、海洋文化圏を築いたあま(海)の民日本の、由緒ある名称である。由緒なき東海や朝鮮海などではない。
 三韓(馬韓弁韓辰韓)も三国(百済伽耶新羅)も、祖先は、海洋民の日本で、当時は日本海洋文化圏の一部であった。北方民族と混血した現代韓国人とは異なるのに、愚考を繰り返す韓国人(
2012/11/24古墳・寺院の随所に韓民族の息吹「日本の中の韓民族史探訪」)。(2012/12/15真逆に捏造する妄想韓国人)。
 古墳・寺院の随所の息吹は日本海洋文化圏日本民族の息吹で、北方民族と混血した現代韓民族の息吹では無い!

 文明は地中海文明や、大航海が示すように、海路がはるかに速い。北方民族が陸路最南端の地に辿り着き、文明を開いたので無いことは、南下途中の継続文明皆無や、同時期発祥の共通文明で証明済み。古代の朝鮮半島南部人は、中国と日本の海洋民族が祖先であることは明白である。
 完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同時に伝播し、後の百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島は火山島なので畑作中心だが、海洋人の寄港地として栄えた)国が生まれた。朝鮮北方には皆無の半島南に限定された日本と同様の文化は、日本と耽羅、百済、新羅、伽耶諸国が同一文化圏を物語り、日本の支配下にあったことを証明している。基礎民族水稲民耽羅人、百済人、新羅人、伽耶諸国人、は、現代の東北人、名古屋人、大阪人のような地域呼称で、朝鮮人ではなく皆日本人。したがって桓武天皇(737~806)の母(母は土師真妹)の父(百済系氏族の和之継)は、百済地方出身の日本人で、北方民族と日本人が混血した、現代の朝鮮人ではない。

資料
B.C.108年
楽浪郡 B.C.108年 中国漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし置いた4郡の一つ。韓半島中部の西で、東はわい貊(はく)、中心は現在の平壌界隈。北部朝鮮楽浪は、中国植民地として長く栄えた。
204年
帯方郡 204年頃遼東の公孫氏が南半に帯方郡新設、東で接する「わい貊(はく)」南の三韓に備えた。今の黄海南道からソウル界隈が南限。313年高句麗「わい貊(はく)」に滅ぼされ、後に百済領。
三世紀
三韓と倭 三世紀中国の文献に書かれた三韓
『三国志魏書』馬韓伝。中国の文献『三国志』魏志の東夷伝韓の条
 「は帯方郡の南に在り、東西は海尽きる南に倭接し、方(南北)は四千里(1里60km×四千里=240km)ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない」。

帯方郡のが韓。韓の東西は海で、韓のが海ではなくの、の地。韓と倭は地続きである。韓半島南部はと、明確に書かれている。

好太王(広開土王)碑文
414年 好太王碑が鴨緑江畔に建てられる。「倭が海を渡って百済と新羅を臣民にした。日本、百済・任那(加羅)・新羅に兵を派遣して臣属させる」
414年以前に、百済と新羅を臣民にした。

倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代
413年
 「」、東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』
438年
 「」、弟立つ。倭王讃没。自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、宋に朝献し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4
月、宋文帝、「珍」を、安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
443年~451年
 「」、宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』夷蛮伝)
 「」、安東将軍はもとのままで、宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国軍事」を加号される。(『宋書』倭国伝)
 451年7月、安東将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
462年
 「」、3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝
477年
 「」、兄「興」没し、立つ。「武」は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)
502年
4
月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王「武」を、征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)
414年以後、百済と新羅を臣民にしたことを、東晋・宋・梁国に報告した。「安東将軍・征東大将軍呼称は、宋・梁国の東を「安・征」する「軍・大将軍」の意で、宋・梁国が、「東は倭国の地」と、認めたということである。

663年 白村江の戦い。
 3月、上毛野稚子ら、2万7千の兵を率いて新羅を討つ。8月、やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結し、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国した。
 これより日本は半島の権利を放棄。以後天道を宗とする者(海洋民)と、そうでない者(半島人)とに分かれた。
 ルーツが同じ海洋民日本と南部朝鮮、隔たりの差は、海洋民から乖離し水稲民のみで属国化した朝鮮と、海洋民水稲民山の民共存継続し、八百万の神を崇め団結天道を死守した日本との差。白村江の戦い以後が、人間日本と、亜人間朝鮮との、乖離の始まり。

665年 8月、耽羅(済州島)の使、来朝する。
666年 1月、高句麗の使、来る。耽羅王子始如ら、来朝する。
667年 7月、耽羅、佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した。
668年 唐と連合して百済・高句麗を滅ぼした新羅が半島の単独政権となったのは668年、大同江以南の地は唐を宗主国とした属国新羅が支配し、唐から儒教仏教律令制などを取り入れ、独自に発展させた。後に唐の勢力は排除
 百済・高句麗の滅亡に伴ない、日本へ大勢の亡命者が押し寄せた。かくして朝鮮だけが海洋文化圏から撤退した。以後、1242年後の日本統治までは、陸路伝播の中国文化だけとなり、李朝時代には、両班思想がはびこり、文化は完全に停滞した。1910年統治直前の写真は、日本の奈良時代に、タイムスリップしたかのようである。
669年 3月、耽羅、王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を授けた。
673年 6月、耽羅、王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した。
676年10月、新羅に使を遣わす。11月、新羅の使、来朝する。
698年 高句麗遺民新羅北に震国建国。後の渤海。727~919年まで日本と通行した。
710年~784年 奈良時代
727年 渤海日本に使節派遣。
728年 日本、渤海使の送使派遣(遣渤海使)。以後計13回の使節のうち10回は送使。日本からの使節派遣途絶えた後も、貿易目的の使節を派遣し続け、毛皮人参蜂蜜等をもたらした、727~919年(契丹に927年滅ぼされた)まで日本と通行。
779年 以後新羅と日本の国交は途絶した。
894年に新羅の賊船大小100隻、約2,500人が対馬佐須浦に襲来したが撃退している。
918年 新羅末期の動乱に挙兵した王建、高麗を建国、開城に都。
935年 新羅56代(356~935)で高麗の王建に滅ぼされた。
936年 高麗の王建後百済を征服。
936年 朝鮮史上はじめての統一独立国家(334年間)高麗が誕生。仏教を保護し、管制を整え、基礎を築いた。朝鮮史上もっとも輝いた国家である。高麗で辞書を引くと高麗を冠した文字が続出する。朝鮮文化が花開いた時代である。英語のKoreaは高麗(コリョ)の転訛による名称である。この時代と次の朝鮮を比較すると、属国化がいかに民度を下げ、文化を破壊するか、一目瞭然だ。朝鮮末期の文化は、高麗、以前の文化のように思える。耽羅、済州と改称。

高麗~李氏朝鮮~オランダ船難破までのあらすじ
元寇~高麗滅亡
1019年刀伊の入寇 正体不明とされた賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365人、拉致された者1289人で、有名な対馬銀鉱も焼損。被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれるようになった。女真族は、このとき対馬の判官代長嶺諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は一度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録がのこっている。
1270年 高麗済州島(耽羅)中国元の属国となった。

蒙古襲来(元寇蒙古・漢兵・高麗
1274年文永の役(文永11年) 、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、105日佐須浦に殺到した。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。
 「十月、金方慶、元の元帥の忽敦(クドゥン)・洪茶丘等と与(とも)に日本を攻める。壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は一萬三千五百餘人」。『高麗史』巻八十七
 『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。
1281年弘安の役(弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。史上例をみない世界史上最大規模の艦隊を、日本へ派遣した。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍であった。
75日元軍諸将撤退の様子
 「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」(「蒙古襲来絵詞」を読む海鳥社、2007145頁)
 弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、
 「其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり」
 と記されており、とくに高麗兵の残虐性を詳細に伝えている。
 元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地1つとなった。これは、ひとつには元寇に対する報復の意味があったといわれている。

1366年高麗王朝が倭寇と海寇の取締を宗氏に要請すると、宗経茂はこれに応え、高麗との通交が始まる。⇒2にづづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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